判官は磯禅師といふ白拍子のむすめ、しづかといふ女を最愛せられけり。
しづかもかたはらを立さる事なし。 (平家物語 高野本による)

□ 静(しずか) □
生年:不詳
没年:不詳
職業:白拍子
母 :磯禅師
静様は源義経様最愛といわれた愛妾であり、都一の舞手といわれる程の白拍子。
源平合戦期に生きたとされる女性人物の中で、特に有名な御方の御1人で御座いますね。
静様について…当時の身分無き女性で御座います故、矢張り 史実として残されている確かな記録というのは余り多く無く、その出自や終焉に関しては 各地に多くの伝承を残すばかりで御座います。
元暦2(1185)年、平家追討後の帰京に際して義経様の妾われたといわれておりますが、
義経記によれば、神泉苑にて行われた雨乞いの儀で、100人僧の読経、99人の選りすぐりの白拍子に祈祷舞をさせましたが効果が無く、最後100人目に静様が舞われると、たちまちに雨雲が現れ、その後3日間に渡って雨が降り続けたといいます。
静様は、後白河法皇より“日本一の白拍子”と称され、その際に 義経様は静様を御見初めになられたと…。
実際、義経様との出逢いの時期等は不詳なので御座いますけれど、それ故に 様々な創作が世に溢れておりますね〜。
運命の出逢い的な物語作品が多くて、ウキドキしてしまいます(笑)
文治元年十一月六日
六日 乙酉
行家、義經、於大物濱乗舩之刻、疾風俄起、而逆浪覆舩之間。
慮外、止渡海之儀、伴類分散、相從豫州之輩、纔四人。
所謂伊豆右衛門尉、堀彌大郎、武藏房辨慶、并妾女<字静、>一人也。
今夜一宿于天王寺邊、自此所逐電<云云>。
今日可尋進件兩人之旨、被下 院宣於諸國<云云>。 (吾妻鏡による)
平家滅亡の後、兄 頼朝様と対立する事となった義経様に付き従って、静様も共に都落ちなされたといわれます。
当初は九州へと向かおうと舟を出されますが、運に見放されてしまったかのような嵐に遭い、遭難。
西へと落ちる事の叶わなかった義経様御一行は、奥州平泉を目指し 北行される事となります。
厳しい旅路に女人禁制の整地越え、そして御懐妊されていたと思われる静様は、吉野にて泣く泣く義経様を別れられました。
供したる者共、判官の賜びたる財宝を取りて、掻き消す様にぞ失せにける。
静は日の暮るるに随ひて、今や今やと待ちけれども、帰りて事問ふ人もなし。
せめて思ひの余りに、泣く泣く古木の下を立ち出でて、足に任せてぞ迷ひける。
耳に聞こゆるものとては、杉の枯葉を渡る風、眼に遮るものとては、梢まばらに照す月、そぞろに物悲しくて、足をはかりに行く程に、高き峰に上りて、声を立てて喚きければ、谷の底に木魂の響きければ、我を言問ふ人のあるかとて、泣く泣く谷に下りて見れば、雪深き道なれば、跡踏みつくる人もなし。
又谷にて悲しむ声の、峰の嵐にたぐへて聞こえけるに、耳を欹てて聞きければ、幽に聞こゆるものとては、雪の下行く細谷河の水の音、聞くに辛さぞ勝りける。
泣く泣く嶺に帰り、上がりて見ければ、我が歩みたる後より外に雪踏み分くる人もなし。
かくて谷へ下り、峰へ上りせし程に、履きたる靴も雪に取られ、著たる笠も風に取らる。足は皆踏み損じ、流るる血は紅をそそくが如し。
吉野の山の白雪も、染めぬ所ぞ無かりける。
袖は涙に萎れて、袂に垂氷ぞ流れける。
裾は氷桂に閉ぢられて、鏡を見るが如くなり。
然れば身もたゆくして働かされず。
其の夜は夜もすがら山路に迷ひ明かしけり。
十六日の昼程に判官には離れ奉りぬ。
今日十七日の暮まで独り山路に迷ひける、心の中こそ悲しけれ。雪踏み分けたる道を見て、判官の近所にや御座すらん。
又我を棄てし者共の、此の辺にやあるらんと思ひつつ、足を計りに行く程に、やうやう大道にぞ出でにけり。 (義経記による)
義経様が付けて下さった従者の裏切りに遭い、雪山を彷徨われる事となり……義経記は辛い苦しい悲しい切ない…の連続で御座いますね;;
文治元年十一月十七日
十七日 丙申
豫州、籠大和國吉野山之由、風聞之間、執行相催惡僧等、日來雖索山林、無其實之處、今夜亥剋、豫州妾、靜、自當山藤尾坂降、到于藏王堂。
其體、尤奇恠。
衆徒等、見咎之、相具向執行坊。
具問子細、靜云、吾是九郎大夫判官<今伊豫守>妾也。
自大物濱、豫州來此山、五箇日逗留之處、衆徒蜂起之由、依風聞、伊豫守者、假山臥之姿、逐電訖。于時、與數多金銀類於我、付雜色男等、欲送京。而彼男共取財寳、棄置于深峯雪中之間、如此迷來<云云>。
文治二年三月一日
(以上略)
今日豫州妾靜依召自京都參著于鎌倉。
北條殿所被送也。
母礒禪師伴之。則爲主計允沙汰、就安達新三郎宅招入之<云云>。
蔵王堂にて捕らえられた後、北条時政様経由で 母 磯禅師様と共に鎌倉へ送られました。
そして、有名な鶴岡八幡宮での舞で御座います。
文治二年四月八日
八日 乙卯
二品、并御臺所、御參鶴岡宮、以次被召出靜女於廻廊。
是依可令施舞曲也。
此事去比、被仰處、申病痾由、不參。
於身不屑者、雖不能左右、爲豫州妾、忽出掲焉砌之条、頗耻辱之由、日來内々、雖澁申之。
彼既天下名仁也。
適參向歸洛在近、不見其藝者、無念由、御臺所、頻以令勸申給之間、被召之。
偏可備 大菩薩冥感之旨、被仰<云云>。
近日只有別緒之愁、更無舞曲之業由、臨座猶固辭。
然而貴命、及再三之間、憖廻白雪之袖、發黄竹之歌。
左衛門尉祐經鼓。
是生數代勇士之家、雖継楯戟之基、歴一臈上月之職、自携歌吹曲之故、候此役歟。
畠山二郎重忠、爲銅拍子。
靜、先吟出歌云、吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ
次歌別物曲之後、又吟和歌云、
シヅヤシヅ++ノヲダマキクリカヘシ、昔ヲ今ニナスヨシモガナ
誠是社壇之壯觀、梁塵殆可動。
上下皆催興感。
二品仰云、於八幡宮寳前、施藝之時、尤可祝關東萬歳之處、不憚所聞食慕反逆義經、歌別曲、奇恠<云云>。
御臺所、被報申云、君爲流人、坐豆州給之比、於吾雖有芳契。
北條殿、怖時宜、潜被引籠之。而猶和順君、迷暗夜、凌深雨、到君之所、亦出石橋戰場給之時、獨殘留伊豆山、不知君存亡、日夜消魂。論其愁者、如今靜之心。
忘豫州多年之好、不戀慕者非貞女之姿。
寄形外之風情、謝動中之露膽。
尤可謂幽玄。抂可賞翫給<云云>。
于時休御憤<云云>。
小時、押出於御衣<夘華重>於簾中。
被纒頭之<云云>
鶴岡八幡宮舞殿にて、頼朝様、政子様の御前にて静様が詠われたのが、有名過ぎる程に有名な この御歌。
“よしのやま みねのしらゆき ふみわけて
いりにしひとの あとそこひしき”
“しつやしつ しつのをたまき くりかえし
むかしをいまに なすよしもかな”
義経様を恋い慕う気持ちを率直に詠われた事で、頼朝様の御怒りを買いましたが、政子様の同情を得、また大姫様よりも厚く援助を受けたといわれます。
大姫様と致しましては、同じ源氏の血縁でありながら 非情な父 頼朝様によって愛しい者と引き離された女性の悲しみの深さを誰よりも理解されていたのでは無いでしょうか。
文治二年閏七月二十九日
廿九日 庚戌
靜産生男子、是豫州息男也。
依被待期、于今所被抑留歸洛也。
而其父奉背關東企謀逆逐電。
其子、若爲女子者、早可給母、於爲男子。
今雖在襁褓内、爭不怖畏將來哉。
未熟時、斷命條、可宜之由、治定。
仍今日仰安達新三郎、令棄由比浦。
先之新三郎御使、欲請取彼赤子。
靜敢不出之、纒衣抱臥、叫喚及數尅之間、安達、頻譴責礒禪師。殊恐申、押取赤子與御使。
此事御臺所御愁歎、雖被宥申之、不叶<云々>。
身籠っていたおられた静様は、鎌倉にて男児を出産。
産まれた赤子が女子であれば助命、男子であれば殺すとの命により、産まれたばかりの赤ん坊は 由比ヶ浜にて殺められたといいます。
文治二年九月十六日
十六日 己未
静母子給暇、歸路。
御臺所、并姫君、依憐愍御、多賜重寳。
是爲被尋問豫州在所、被召下畢。
而別離以後事者、不知之由申之。
則雖可被返遣産生之程、所逗留也。
愛する御方と離れ離れとなり、身重の身体で舞を強要され、そして 恐らくは唯一の縁であったであろう義経様との御子様を奪い殺されーー。
鎌倉より京へと帰される際、政子様、大姫様 母子は静様に多くの品を与えておられます。
…静様にとって、鎌倉はどのような土地であったので御座いましょう。
静様について判っている公式な記録は、ここまでの事。
その後の消息については、各地の伝承に語られる諸逸話に頼るばかりで御座います。
翌年3月には、平泉にて隠住されておられる義経様の事が鎌倉に伝わっております。
そして、義経様が平泉高館にて自刃されたのが、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)の事。
その頃、静様は 何処でどんな日々を送られていたので御座いましょうか。
* * * * * * * *
どうでも良い事といえば どうでも良い事なのですが、「ドラえもん」のしずかちゃんの本名が“みなもと しずか”であると知った当初は、何気に感動で御座いましたっけ〜(笑)

しづかもかたはらを立さる事なし。 (平家物語 高野本による)

□ 静(しずか) □
生年:不詳
没年:不詳
職業:白拍子
母 :磯禅師
静様は源義経様最愛といわれた愛妾であり、都一の舞手といわれる程の白拍子。
源平合戦期に生きたとされる女性人物の中で、特に有名な御方の御1人で御座いますね。
静様について…当時の身分無き女性で御座います故、矢張り 史実として残されている確かな記録というのは余り多く無く、その出自や終焉に関しては 各地に多くの伝承を残すばかりで御座います。
元暦2(1185)年、平家追討後の帰京に際して義経様の妾われたといわれておりますが、
義経記によれば、神泉苑にて行われた雨乞いの儀で、100人僧の読経、99人の選りすぐりの白拍子に祈祷舞をさせましたが効果が無く、最後100人目に静様が舞われると、たちまちに雨雲が現れ、その後3日間に渡って雨が降り続けたといいます。
静様は、後白河法皇より“日本一の白拍子”と称され、その際に 義経様は静様を御見初めになられたと…。
実際、義経様との出逢いの時期等は不詳なので御座いますけれど、それ故に 様々な創作が世に溢れておりますね〜。
運命の出逢い的な物語作品が多くて、ウキドキしてしまいます(笑)
文治元年十一月六日
六日 乙酉
行家、義經、於大物濱乗舩之刻、疾風俄起、而逆浪覆舩之間。
慮外、止渡海之儀、伴類分散、相從豫州之輩、纔四人。
所謂伊豆右衛門尉、堀彌大郎、武藏房辨慶、并妾女<字静、>一人也。
今夜一宿于天王寺邊、自此所逐電<云云>。
今日可尋進件兩人之旨、被下 院宣於諸國<云云>。 (吾妻鏡による)
平家滅亡の後、兄 頼朝様と対立する事となった義経様に付き従って、静様も共に都落ちなされたといわれます。
当初は九州へと向かおうと舟を出されますが、運に見放されてしまったかのような嵐に遭い、遭難。
西へと落ちる事の叶わなかった義経様御一行は、奥州平泉を目指し 北行される事となります。
厳しい旅路に女人禁制の整地越え、そして御懐妊されていたと思われる静様は、吉野にて泣く泣く義経様を別れられました。
供したる者共、判官の賜びたる財宝を取りて、掻き消す様にぞ失せにける。
静は日の暮るるに随ひて、今や今やと待ちけれども、帰りて事問ふ人もなし。
せめて思ひの余りに、泣く泣く古木の下を立ち出でて、足に任せてぞ迷ひける。
耳に聞こゆるものとては、杉の枯葉を渡る風、眼に遮るものとては、梢まばらに照す月、そぞろに物悲しくて、足をはかりに行く程に、高き峰に上りて、声を立てて喚きければ、谷の底に木魂の響きければ、我を言問ふ人のあるかとて、泣く泣く谷に下りて見れば、雪深き道なれば、跡踏みつくる人もなし。
又谷にて悲しむ声の、峰の嵐にたぐへて聞こえけるに、耳を欹てて聞きければ、幽に聞こゆるものとては、雪の下行く細谷河の水の音、聞くに辛さぞ勝りける。
泣く泣く嶺に帰り、上がりて見ければ、我が歩みたる後より外に雪踏み分くる人もなし。
かくて谷へ下り、峰へ上りせし程に、履きたる靴も雪に取られ、著たる笠も風に取らる。足は皆踏み損じ、流るる血は紅をそそくが如し。
吉野の山の白雪も、染めぬ所ぞ無かりける。
袖は涙に萎れて、袂に垂氷ぞ流れける。
裾は氷桂に閉ぢられて、鏡を見るが如くなり。
然れば身もたゆくして働かされず。
其の夜は夜もすがら山路に迷ひ明かしけり。
十六日の昼程に判官には離れ奉りぬ。
今日十七日の暮まで独り山路に迷ひける、心の中こそ悲しけれ。雪踏み分けたる道を見て、判官の近所にや御座すらん。
又我を棄てし者共の、此の辺にやあるらんと思ひつつ、足を計りに行く程に、やうやう大道にぞ出でにけり。 (義経記による)
義経様が付けて下さった従者の裏切りに遭い、雪山を彷徨われる事となり……義経記は辛い苦しい悲しい切ない…の連続で御座いますね;;
文治元年十一月十七日
十七日 丙申
豫州、籠大和國吉野山之由、風聞之間、執行相催惡僧等、日來雖索山林、無其實之處、今夜亥剋、豫州妾、靜、自當山藤尾坂降、到于藏王堂。
其體、尤奇恠。
衆徒等、見咎之、相具向執行坊。
具問子細、靜云、吾是九郎大夫判官<今伊豫守>妾也。
自大物濱、豫州來此山、五箇日逗留之處、衆徒蜂起之由、依風聞、伊豫守者、假山臥之姿、逐電訖。于時、與數多金銀類於我、付雜色男等、欲送京。而彼男共取財寳、棄置于深峯雪中之間、如此迷來<云云>。
文治二年三月一日
(以上略)
今日豫州妾靜依召自京都參著于鎌倉。
北條殿所被送也。
母礒禪師伴之。則爲主計允沙汰、就安達新三郎宅招入之<云云>。
蔵王堂にて捕らえられた後、北条時政様経由で 母 磯禅師様と共に鎌倉へ送られました。
そして、有名な鶴岡八幡宮での舞で御座います。
文治二年四月八日
八日 乙卯
二品、并御臺所、御參鶴岡宮、以次被召出靜女於廻廊。
是依可令施舞曲也。
此事去比、被仰處、申病痾由、不參。
於身不屑者、雖不能左右、爲豫州妾、忽出掲焉砌之条、頗耻辱之由、日來内々、雖澁申之。
彼既天下名仁也。
適參向歸洛在近、不見其藝者、無念由、御臺所、頻以令勸申給之間、被召之。
偏可備 大菩薩冥感之旨、被仰<云云>。
近日只有別緒之愁、更無舞曲之業由、臨座猶固辭。
然而貴命、及再三之間、憖廻白雪之袖、發黄竹之歌。
左衛門尉祐經鼓。
是生數代勇士之家、雖継楯戟之基、歴一臈上月之職、自携歌吹曲之故、候此役歟。
畠山二郎重忠、爲銅拍子。
靜、先吟出歌云、吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ
次歌別物曲之後、又吟和歌云、
シヅヤシヅ++ノヲダマキクリカヘシ、昔ヲ今ニナスヨシモガナ
誠是社壇之壯觀、梁塵殆可動。
上下皆催興感。
二品仰云、於八幡宮寳前、施藝之時、尤可祝關東萬歳之處、不憚所聞食慕反逆義經、歌別曲、奇恠<云云>。
御臺所、被報申云、君爲流人、坐豆州給之比、於吾雖有芳契。
北條殿、怖時宜、潜被引籠之。而猶和順君、迷暗夜、凌深雨、到君之所、亦出石橋戰場給之時、獨殘留伊豆山、不知君存亡、日夜消魂。論其愁者、如今靜之心。
忘豫州多年之好、不戀慕者非貞女之姿。
寄形外之風情、謝動中之露膽。
尤可謂幽玄。抂可賞翫給<云云>。
于時休御憤<云云>。
小時、押出於御衣<夘華重>於簾中。
被纒頭之<云云>
鶴岡八幡宮舞殿にて、頼朝様、政子様の御前にて静様が詠われたのが、有名過ぎる程に有名な この御歌。
“よしのやま みねのしらゆき ふみわけて
いりにしひとの あとそこひしき”
“しつやしつ しつのをたまき くりかえし
むかしをいまに なすよしもかな”
義経様を恋い慕う気持ちを率直に詠われた事で、頼朝様の御怒りを買いましたが、政子様の同情を得、また大姫様よりも厚く援助を受けたといわれます。
大姫様と致しましては、同じ源氏の血縁でありながら 非情な父 頼朝様によって愛しい者と引き離された女性の悲しみの深さを誰よりも理解されていたのでは無いでしょうか。
文治二年閏七月二十九日
廿九日 庚戌
靜産生男子、是豫州息男也。
依被待期、于今所被抑留歸洛也。
而其父奉背關東企謀逆逐電。
其子、若爲女子者、早可給母、於爲男子。
今雖在襁褓内、爭不怖畏將來哉。
未熟時、斷命條、可宜之由、治定。
仍今日仰安達新三郎、令棄由比浦。
先之新三郎御使、欲請取彼赤子。
靜敢不出之、纒衣抱臥、叫喚及數尅之間、安達、頻譴責礒禪師。殊恐申、押取赤子與御使。
此事御臺所御愁歎、雖被宥申之、不叶<云々>。
身籠っていたおられた静様は、鎌倉にて男児を出産。
産まれた赤子が女子であれば助命、男子であれば殺すとの命により、産まれたばかりの赤ん坊は 由比ヶ浜にて殺められたといいます。
文治二年九月十六日
十六日 己未
静母子給暇、歸路。
御臺所、并姫君、依憐愍御、多賜重寳。
是爲被尋問豫州在所、被召下畢。
而別離以後事者、不知之由申之。
則雖可被返遣産生之程、所逗留也。
愛する御方と離れ離れとなり、身重の身体で舞を強要され、そして 恐らくは唯一の縁であったであろう義経様との御子様を奪い殺されーー。
鎌倉より京へと帰される際、政子様、大姫様 母子は静様に多くの品を与えておられます。
…静様にとって、鎌倉はどのような土地であったので御座いましょう。
静様について判っている公式な記録は、ここまでの事。
その後の消息については、各地の伝承に語られる諸逸話に頼るばかりで御座います。
翌年3月には、平泉にて隠住されておられる義経様の事が鎌倉に伝わっております。
そして、義経様が平泉高館にて自刃されたのが、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)の事。
その頃、静様は 何処でどんな日々を送られていたので御座いましょうか。
* * * * * * * *
どうでも良い事といえば どうでも良い事なのですが、「ドラえもん」のしずかちゃんの本名が“みなもと しずか”であると知った当初は、何気に感動で御座いましたっけ〜(笑)
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