
□ 小式部内侍(こしきぶのないし) □
生年:997(長徳2)年〜1000(長保元)年 頃?
没年:1025年11〜12月(万寿2年11月)
父 :橘道貞
母 :和泉式部
諱 :不明
和泉式部と橘道貞様の間に生まれた娘で御座いますが、小式部が生まれた後に両親が離縁となった為、祖父母の元で育てられたといわれます。
寛弘末年(1008年〜1011年頃)、和泉式部は一条天皇中宮である上東門院彰子(藤原彰子)の女房として出仕。
小式部も12歳の頃には母に引き取られ、母娘共に中宮に仕えました。
母の式部と呼び分ける為、“小式部”という女房名が付けられたようで御座います。
母譲りの美貌と歌才に恵まれた小式部には、宮廷の公達の人気が集まり、和泉式部同様に幾つもの恋に花咲く女流歌人として成長していきました。
最初の恋人として知られているのが、右大臣 藤原頼宗様…藤原道長様の御子息で御座いますね。中宮 彰子様の異母弟でもあります。
その後、頼宗様の弟 藤原教通様と恋仲となり、男子を産んでおります。
後の静円様で御座います。
更に、藤原範永様との間にも女子を産んでおります。
その娘は、後に堀河右大臣家の女房となり、後拾遺集には“範永女”として御歌を載せられております。
それから、小式部と藤原定頼様とが恋仲であった頃の逸話…恐らく、これが1番有名な御話では無いかと思われます。
美貌と歌才を兼ね備えた彼女を妬んでの事と思われますが、“小式部の御歌は、実力派歌人であり母である 和泉式部が代作している”という噂が宮中で囁かれておりました。
小式部15歳の頃、参加の決まっていた歌会の数日前の夜、定頼様が小式部の局を訪れ、
「御歌はいかがですか?丹後へは使いを出されたのでしょう?御返事は未だですか?御母上がいらっしゃらないと、さぞ心もとない事でしょう」
と言いました。
恋人であると同時に、定頼様も歌人で御座いましたので、冗談半分で軽くからかったものと思われます…が……いくら気心知れた恋人であろうと、こういうネタで絡まれて面白い人は居りませんよね;
小式部は、その場で和歌を作って詠んだといわれております。
その御歌が 昨日の記事に記しました、百人一首60番の御歌“おほえ山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立”で御座います。
金葉集巻第九の詞書に“和泉式部、保昌に具して丹後国に侍りける頃、都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、定頼卿、局のかたに詣で来て、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん」など、たはぶれて立ちけるを、引き留めてよめる”とあります。
その頃、和泉式部は再婚した夫 藤原保昌様と共に、任地国である丹後に住んでいたといいます。
天橋立を訪れた事も無ければ、母からの便りもありません=母に代作など頼んではおりません、という身の潔白をさらりと実力で示した瞬間で御座いますね。
これには、定頼様も返す御歌も無かったのでは無いでしょうか。
1025年11〜12月(万寿2年11月)、小式部は 藤原公成様の子を出産。
後の頼忍阿闍梨で御座います。
然し、産後の肥立ちが悪く 20代の若さでこの世を去られる事となりました。
和泉式部の嘆きの深さは、娘の死を悼んで詠まれた御歌の数々や誓願寺での出家説に伺えます。
※タイトルは、詞花和歌集巻第九“雜(上)”より 小式部内侍の和歌。
詞書は“二條関白、白川へ花みになむといはせて侍ければよめる”
教通様からの白川への花見の誘いに対する返歌で御座いますね。
“春の来ない所は無いのに、白川の辺りだけに花が咲くのでしょうか…”
高貴な公達との交際が多かったとされる小式部内侍。
最初の恋人 頼宗様は、小式部からすれば少し年上の男性であったようですが、その後の恋人方は割と彼女と年の近い男性が多かったようで御座います。
“浮かれ女の娘も、また浮かれ女”だといわれる方もいらっしゃいますけれど、小式部にとって その恋達こそが青春そのものであったのでは無いかしらと私は思います。
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