
□ 藤原定家(ふじわらのさだいえ) □
生 年:応保2(1162)年
没年月日:仁治2年8月20日(1241年9月26日)
父 :藤原俊成
母 :美福門院加賀(藤原親忠女)
兄弟姉妹:兄…成家
姉…八条院三条、高松院新大納言(祗王御前)、八条院按察(朱雀尼上)、八条院中納言(建御前)、前斎院大納言(竜寿御前)
子 :因子(民部卿典侍)、為家
通 称:京極中納言
法 名:明静
官 歴:仁安元年12月30日(1167年1月29日)、従五位下
仁安2年12月30日(1168年2月17日)、紀伊守
安元元年12月8日(1176年1月28日)、侍従
治承4年1月5日(1180年2月9日)、従五位上
寿永2年12月19日(1184年2月9日)、正五位下
文治5年11月13日(1189年12月29日)、左近衛少将
文治6年1月5日(1190年2月18日)、従四位下
建久2年2月10日(1191年3月14日)、因幡権介
建久6年1月5日(1195年2月23日)、従四位上
建久10年1月30日(1199年3月5日)、安芸権介
正治2年10月26日(1200年12月11日)、正四位下
建仁2年閏10月24日(1202年12月17日)、左近衛中将
建仁3年1月13日(1203年3月5日)、美濃介
承元4年1月14日(1210年2月16日)、淡路権介
承元4年12月17日(1211年2月10日)、内蔵頭
建暦2年9月8日(1212年10月11日)、従三位、侍従
建保2年2月11日(1214年3月30日)、参議
建保3年1月13日(1215年2月20日)、伊予権守
建保4年1月13日(1216年2月9日)、治部卿
建保4年12月14日(1217年1月29日)、正三位
建保6年7月9日(1218年8月8日)、民部卿
承久2年1月22日(1220年3月5日)、播磨権守
嘉禄3年10月21日(1227年12月8日)、正二位
寛喜4年1月30日(1232年2月29日)、権中納言
御存知、小倉百人一首選者といわれる藤原定家様。
定家様は“さだいえ”様と御読み致しますが、一般的には“ふじわらのていか”様と有職読みで呼ばれておりますね。
定家様は、栄華を極めた藤原道長様の御子孫で 御子左家の御方。
平資盛様の恋人右京様とは近い御関係で御座いまして…直接の血縁は御座いませんが、右京様は出仕の際に定家様の御父上 俊成様の養女となって建礼門院徳子様に出仕されております。
義理の兄妹のような御関係で御座いますね。
御2人とも 現代にまで名を残す和歌の名人で御座いますので、何とも輝かしい御関係のように映ってしまいます。
それから…以前、源頼政様の和歌について記した際、歌林苑メンバーに右京様の元恋人であり似絵の大家でもある 藤原隆信様もいらしたと記しましたが、隆信様は 定家様の異父同母兄に当たる御方でも御座います。
本当に素晴らしくも少々ややこしい(笑)御家系、御身内揃いで御座います。
定家様は、平治の乱より3年程後の生まれで御座います。
かつては平安時代最高峰ともいえる藤原氏の頂点、道長様を御先祖に御持ちでありながらも、時代は平家の世へと変わって参ります。
そして、源平合戦、鎌倉幕府成立……と 定家様は、この時代の人物にしては とても長生きをされておりますので、この激動の時代を背景に生きてこられたという事になりますね。
歌人として、公に知られるようになったのは20歳を過ぎた頃のようで御座います。
養和元(1181)年に初学百首を、その翌年 堀河題百首を詠んだ事で歌才を認められ、御両親を感動させたといわれております。
定家様が才能を開花させていく背景では、清盛様の逝去、そして平家一門の衰退、都落ち、滅亡…という状況があり、雅な歌人も多かった平家の公達と入れ替わるようにして光り輝いていかれたようにも思えますね。
文治元(1185)年11月 定家様24歳の時、宮廷内で源雅行様を脂燭で打ち乱暴を働いたとして、殿上人として除籍されてしまっております。
何だか、愛しの藤原実方様を彷彿させるような事件で御座いますけれどー…(苦笑)←実方様については、いずれ濃厚〜に記そうとは思っているのですけれど…余りにも思い入れが有り過ぎて、中々 書き出す勇気を振り絞れずにおります;;カテゴリーに早々と御名前を入れておきながら、未だに記事数が零…初恋の御方だけに、悩ましい事で御座います///
話が逸れてしまいましたが、俊成様の赦免願等によって 翌年には除籍は解除されております。
この事件の他、歌に対する評価において等でも 納得のいかない事には怒りを露にされる事もあったようで、定家様の性格は 艶やかな和歌の反面、強情であったとか 乱暴であったといわれているようで御座います;
そう考えますと、潔い筆跡にはちょっと納得で御座いますけれど(笑)、私は…定家様の和歌に対する姿勢から出る、歌人としてのプライドなのではないかと思います…。
勿論、暴力は良くないですし、まして御法度と解している筈の禁中にて それを行ってしまうだなんて……それは、よっぽどの事情がおありだったのでは無いかと…勝手に察してしまうのですけれど。。
誰にでも、何にも譲れない事というのはあると思いますが、定家様の場合 それが 御両親からも認められ期待を背負っていた和歌だったのでは無いでしょうか…。
復帰後、定家様は九条家に仕えます。
その後も、定家様は創作に励まれ、文治4(1188)年 千載集に8首入集。
歌合や百首出詠等を通して、九条良経様や慈円様 等、九条家の歌人との交流を深められ、政治面でも順調に出世していかれました。
建久4(1193)年、母上様を亡くされ、翌年には 藤原季能女と離婚、大納言西園寺実宗女と再婚されました。
然し、建久7年11月(1196年11月)に起こった源通親様の政変によって 定家様を取り囲む環境は一変。
九条兼実様が失脚され、九条家の歌壇も華やいだものでは無くなりました。
正治2(1200)年以降、後鳥羽院の御気に入りとなり、建仁元(1201)年、院の熊野御幸に供奉。
この時の記録が、熊野御幸記で御座いますね。
旅の過酷さをひしひしと感じながらも、感動する所では感動され、体調不良で大変な思いをされつつも頑張られております!(笑)
熊野より帰京した11月(1201年12月)、定家様は あの!“新古今和歌集”撰者に任命されます〜。
その後も数々の歌合等で活躍され、建仁2年閏10月24日(1202年12月17日)には左近衛中将の官職を得ます。
元久2(1205)年、新古今集は仮完成となりますが、その後継続して従事されました。
定家様は、その前年に御父様を亡くされており、御両親を失くされた事となります。
承元3(1209)年に、鎌倉3代目将軍 源実朝様の和歌を添削され、詠歌口伝を贈られた事は有名で御座いますね!
順徳天皇の内裏歌壇でも大いに活躍され、建保3(1215)年には、古今集〜新古今集の八代集より秀歌を選出して八代抄(二四代集)を編まれております。
順調かと思われる定家様で御座いましたが、承久2年2月(1220年3月) 内裏歌会詠出の和歌が後鳥羽院の怒りを買い、公式な場への出場を禁じられてしまいます。
ですが、翌年の承久の乱の後に、後鳥羽院が隠岐へと流された事によって、定家様は再び歌壇へと復帰、西園寺家、九条家の後ろ盾を得て安定した立場を手に入れられました。
寛喜4年1月30日(1232年2月29日)、権中納言に就任。
この時、定家様は71歳――この時代では、かなりの御高齢で御座います。
同年、後堀河天皇に歌集撰進の命じられ、選歌に集中すべく職を辞して励まれました。
天福元年10月(1233年11月)、出家。
その翌年に未定稿の新勅撰集を仮奏覧致しましたが、後堀河院が崩御。
定家様は、御手持ちであった草稿を焼却してしまわれたといいます。
また、道助法親王の命で八代集秀逸を撰進。
嘉禎元年5月(1235年5〜6月)、宇都宮頼綱様の為に嵯峨中院山荘の障子色紙形=小倉色紙を書かれます。
これが、現在 私達が“小倉百人一首”と呼び親しんでいるかるたの元になったのであろうと考えられております。
ちなみに、百人一首を かるたとして遊ぶようになったのは、もっと時代が下った戦国末期辺りからの風習のようで御座います。
元々は、色紙等に記して鑑賞する事を目的としていたようで御座います。
かるたは、異国から入ってきたトランプに影響されたようで御座いますね。
仁治2年8月20日(1241年10月3日)、死去。
享年80歳という御長寿で御座いました。
家集に拾遺愚草、日記に明月記を遺されており、数々の和歌集に関わっておられる偉人で御座います。
源氏物語、土佐日記等、古典文学の書写や注釈もなさっており、ここで定家仮名遣が生み出されております。
Comment
Track Back
| TB*URL |
| ホーム |
