日本史(主に平安〜鎌倉初期)&源平史跡、伝承地巡りの記録。 あくまでも自分の為の記録で御座います。

やまとに散った乙女の声が。
ひめゆり01


沖縄戦を考える時、本土の殆どの方は“ひめゆり学徒隊”を真っ先に思い描かれているようで御座います。
ひめゆりの塔”として、過去に何作かドキュメント映画の題材として取り上げられ、ミュージカルやTV作品にも度々紹介されて参りました。

今年も“ひめゆり”と題する映画作品が現在上映中で御座います。
沖縄から戻り次第、私も観に行こうと思っておりますが、御関心を御持ちの方は御覧になってみては如何でしょうか。

 東京……5月26日〜7月13日(ポレポレ東中野)
      ?10:40〜 ?13:20〜 ?16:00〜 ?18:35〜
 岩手……7月7日〜7月13日(みやこシネマリーン)
 大阪……7月21日〜8月17日(第七藝術劇場)  
 名古屋…8月11日〜8月24日(シネマスコーレ)
 広島……9月〜       (横川シネマ) 


現在のところの上演情報は以上のようで御座います。
詳しくは、公式サイト様にて御確認下さいませ。

ひめゆり02


↑こちらの小さな石碑が、ひめゆりの塔で御座います。

ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部157名、県立第一女学校65名によって構成された女子学徒隊です。
2校は併設校とされており、校長及び一部教師は兼任で御座いました。
名称にある“ひめゆり”とは、花の姫百合を指すものでは無く、県立第一高等女学校の広報誌“乙”と 沖縄師範学校女子部の広報誌“白百合”足して、姫百合=ひめゆり 学徒隊と呼ばれるようになったもので御座います。
当時は、ひめゆり学徒隊と呼ばれていた訳では無いそうで、戦場では“学生さん”“生徒さん”等と呼ばれていたようで御座います。
この呼称が一般的となるのは、戦後の事で御座います。

南風原陸軍病院にて従事していた学徒達は、南風原陸軍病院撤退の後、戦線の南下に伴って本部、太田、第一、第二、第三の外科壕に配属され、激しくなるばかりの戦場の中で必死な看護活動を続けました。
然し、1945(昭和20)年6月18日、追いつめられた戦況の中、学徒隊への解散命令が出され、生徒達は戦場を彷徨う事となりました。
戦死した123人の生徒の殆どが、この日以降に亡くなっておられます。

ひめゆりの塔にある この壕では、第3外科壕の生徒が米軍の攻撃によって46名死亡、生存者は僅か5名で御座いました。
脱出した生徒や、軍と行動を共にした学徒達に対しても、容赦無く攻撃が行われました。

以下は、傍らに建立された碑文より。

     

ひめゆりの塔の記

 昭和二十年三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。

 戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。

 日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。

 南にくだった後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。

 六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等二十九名、民間人六名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。

戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員十六名、生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。

 乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。



ひめゆり03


こちらには、ひめゆり平和祈念資料館が御座います。
沖縄戦や国の為に命を賭した学徒隊について詳しく知る事が出来、戦争と教育について深く考えさせられます。

第4展示室に足を踏み入れる瞬間は、広島で感じるものとはまた違う衝撃で御座います…初めてここを訪れた時、私は暫く言葉を失う思いで御座いました。
沖縄戦で亡くなった学徒と教師の鎮魂の空間、その壁面には200余名の犠牲者の遺影が敷き詰められるように並べられております。
どの方も、皆生きておられた方々で御座います。
また、生存者の方々の証言に触れる事も出来ます。
実物大に造られた伊原第3外科壕(ひめゆりの塔にある壕)の前に立つと、壕の中から外に向かう様々な思いが飛び交って参ります。

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Comment

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>jo:)uyamagauh様
初めまして。
コメント有難う御座いました。
非公開コメントでメールアドレスを記入していただきましたので、メールにて御返信させていただこうと思ったので御座いますが、アドレスが違っていたようで送信出来ませんでしたので、こちらにて御返事させていただきます。

トップ画像というのは、プロフィール欄に掲載している平安装束を着ている写真の事で御座いましょうか…?
恥ずかしながら、これは私本人で御座います。
お目汚し、御許し下さいませ。
どうゝね ひろこ | URL | 2011/11/07/Mon 18:49[EDIT]
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