日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

麗しの御曹司。
弁慶様も。


以前、大河ドラマ放映中の頃、京阪の駅に美少年な義経様の御人形さんがいらした…と書いた事が御座いましたが、やっとネガを発掘致しました!
五条駅だったかなぁとか適当な事を申しておりましたが、三条駅のようで御座います…すみません(苦笑)
大河終了後は居なくなってしまわれたと思うのですが、駅構内に、牛若様と弁慶様の御人形さんがいらっしゃったので御座います〜。
五条大橋のデスティニィ場面で御座います。
牛若様……なんと麗しい御姿なので御座いましょう

そういえば、以前 「源氏も好きな癖に、いつも平家平家言っている意味が解らない」という御意見をいただいた事が御座います。
不埒な浮気者で申し訳御座いません;;純粋に、平家御一門には心の底から憧れております。
ですが、“源氏だから”とか“平家だから”という区分分けだけで、私は人の好き嫌いを考える事は出来ません。
史実、伝承の織り交ざった様々な情報の中で、“源氏”である事、“平家”である事は確かに大切な点では御座いますが、彼等の人となりや生涯について思う時 それは然程重要では無いようにも思います。
そのような環境の中で、その方がどのように生きてこられたか……既に亡くなられて久しい方々ですので、どう悩んでも私の勝手な憶測に過ぎないものでは御座いますが、自分に都合の良い解釈が出来るというのも、歴史という過去が持つ魅力の1つであると思うのです。
私は夢見がちですし、浅はかな考えも沢山抱いておりますので、不愉快に思われる方もいらっしゃって当然だと思います。
これは私個人の意見に過ぎませんので、納得していただきたいとは申しませんが、ある程度の御理解をいただいた上で御付き合いいただけましたらば幸いで御座います。

遮那王様〜!


□ 源 義経(みなもとのよしつね)

生  年:1159(平治元)年
没年月日:1189年6月15日(文治5年閏4月30日)
  父  :源義朝
  母  :常盤御前
兄  弟:異母……義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、一条能保妻
      同母……全成、義円、廊御方(父は平清盛)、能成(父は一条長成)
  妻  :郷御前(河越太郎重頼女)、静御前
  子  :女(母は郷御前)、源有綱妻、男子(母は静御前)
改  名:牛若(幼名)→遮那王(稚児名)→義経(諱)
別  称:九郎、判官、左衛門少将、廷尉、義行、義顕
官  歴:1184(元暦元)年2月……左衛門少将、検非違使尉、伊予守、従五位下


義経様は、清和源氏の流れを汲んだ河内源氏、源義朝の九男(八男説あり)として御誕生されました。
言うまでも無く、幼名は牛若丸様。
同父母の兄として、今若(阿野全成)様と乙若(義円)様がいらっしゃいました。
生年は、没年時の年齢から逆算されたもので御座います。

1159(平治元)年、義朝様が平治の乱にて平清盛様に敗れた為、母 常盤様は3人の子を連れて都を落ちますが、実母が捕らわれた事により、自ら清盛様の元へ出頭致しました。
子供達の助命を懇願し、清盛様の妾となられたといわれております。
その頃の牛若様は、まだ赤ん坊で御座いました。
常盤様は、清盛様との間に一子を儲けた後に院近臣の公家である一条長成に嫁ぎます。

7歳の頃(11歳とも)、牛若様は鞍馬寺へと送られます。
その際の稚児名が、遮那王様。
こちらも有名で御座いますね〜。
10〜15歳の頃に己が身の上を知ったといわれ、鞍馬天狗に剣術を授かったとか鬼一法眼に兵法を授かったとか…数々の伝説が御座います。
大河ドラマで神木くん→滝沢くんが演じられた遮那王様の成長期は、大変可愛らしゅう御座いました…ヤバかったです///(←危険…)

16歳の頃、商人 金売吉次の手引きで牛若様は奥州藤原氏宗主である鎮守府将軍藤原秀衡様を頼り、平泉へと東下りされたと伝えられますが、史実として吉次の存在は微妙な問題となっているようで御座います。
その途中、義朝様終焉の地である尾張国、熱田神宮にて元服。
名を、義経様と改められたといわれております。
ちなみに、義経記によれば尾張で御座いますが、平治物語では滋賀県竜王町で元服された事となっており、判然とした証拠が残る訳でも御座いません。
義経様の元服については、かなり色々な説が御座いまして、烏帽子親無しで自ら元服し義経と名乗った説もあれば、平泉の地にて秀衡様によって元服させられたという説もあったりで……謎の部分が多いからこそ、脚色も多彩になっているように思われます。
そういう可能性のひとつひとつを拾って想像していける楽しみも、歴史ファンには堪らなく素敵なポイントで御座います♪

義経様が秀衡様を頼った経緯として、秀衡様の舅である藤原基成が一条長成の従兄弟子である事が関係しているのではないかとも考えられております。

1180(治承4)年8月17日。
異母兄である源頼朝様が伊豆にて挙兵。
義経様は、秀衡様より使わされた佐藤継信佐藤忠信兄弟を筆頭に約80騎を率いて、頼朝様の下に馳せ参じました。
頼朝様とは黄瀬川の陣にて対面され、涙を流して再会を喜ばれたと伝えられます。

1182(寿永元)年、対 木曾義仲戦では義経様は範頼様と共に大軍を率いて近江国へ向かわれ、翌正月、宇治川の戦いで義仲様を破られました……。
大河「義経」では源氏内のこの争いを背景に、木曾義高様と大姫様の悲しい事実も義経様に絡ませて描いておられましたね…。
大河でのこの御2人は、私の思い描いていた義高様と大姫様像にとても近かった為、余計に切なくて仕方がありませんでした…。

義経様と範頼様は、頼朝様の代官として京へ上洛。
平家一門は、義仲様が入京される以前に都落ちを済ませており、源氏同士で争っている間に西国にて再び勢力を盛り返しておりました。
その為、義経様と範頼様には平家追討の命が下されます。
1184(治承8)年2月4日、搦手軍率いる義経様は、播磨国を迂回して三草山の戦いに臨み、平資盛様率いる平家軍を破り、
そして2月7日……一ノ谷の戦いにて大勝利致しました。
ここで有名なのが、義経様の奇襲戦法 鵯越の逆落としで御座いますね。
“源義経”の名が世に知れ渡ったのも、これがキッカケであるといわれております。
それ以前は、別の義経様=近江源氏の山本義経が有名で御座いましたので…(笑)

改元されて元暦元年となった(※平家方は寿永を継続使用)8月6日、後白河法皇により、左衛門少尉、検非違使少尉=判官に任官され、従五位下に叙せられ院への昇殿が許可された義経様で御座いますが、頼朝様に許可無く任官を受けた為に怒りを買ってしまい、平家追討の任を解かれてしまわれました。
然し、範頼様率いる遠征軍が停滞してしまった為、再び義経様に平家追討の命が下されます。
1185(元暦2)年2月、義経様は屋島の戦いにて平家軍を破り、続いて3月24日 壇ノ浦の戦いにて平家を掃討致しました。
この時、頼朝様が最も重要視されていたとする三種の神器の返還を義経様は遂げられておらず、それも後々の運命に大きく関わったと考えられております。

1185(元暦2)年4月15日 頼朝様は、許可無く朝廷より任官を受けた関東武士等に対し、東国への帰還を禁じる令を出されました。
義経様は、捕虜である平宗盛様、清宗様を鎌倉へと護送致しますが、義経様主従の鎌倉入りは許可されず、郊外の山内荘腰越 満福寺に留められました。
腰越といえば、腰越状……5月24日、頼朝様に対し、切実なる胸の内を書状に認められました。
義経展にて、その書状を目にする事が出来ましたが、本当に……痛切なるものが御座いました。

6月9日、ついに義経様は頼朝様に許される事無く、宗盛様、清宗様、そして一ノ谷にて捕虜となっていた重衡様を伴っての帰洛を命じられます。
ここで、義経様は
「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と表明。
然し、義経様に付き従う者は居なかったようで御座います。

義経様は近江国にて宗盛様、清宗様を斬首。
重衡様は、東大寺へと送られました。

義経様の討伐を決めた頼朝様は、10月17日京の堀河に構えていた義経様の邸宅を襲わせました。
義経様は京にて、叔父の源行家様と共に打倒頼朝の兵を挙げ、御白河法皇より院宣を受けられますが、頼朝様に再び討伐軍を向けられ、都を落ちる事となります。
九州を頼って落ちたものの、途中 摂津国大物浦より出した船が暴風雨の為に進まず、九州方面へ進む事を断念。
鎌倉の義経様追捕令は全国に流され、諸国に守護と地頭が設置される事となりました。

吉野に身を隠した義経様で御座いましたが、その先は女人禁制の地であり、また身重の女性を連れての逃亡には限界があると感じられ、それまでずっと共に落ち延びてきた様と決別される事を決意致します。
この逃亡ルートやら、その途中に経由したと伝わる地での伝承等、様々な説や伝説が飛び交っております。
また、この最中を題材に取り上げた物語も多くあり、特に安宅関等が有名で御座いますね。
その後、北へ北へと落ち延びられた主従は、ついに奥州平泉の秀衡様の元に辿り着きます。

平泉では、再び 奥州を頼られた義経様を暖かく迎え入れ、鎌倉への対抗勢力として義経様を将軍に祭上げようとしたといわれております。
然し、1187(文治3)年10月29日 秀衡様はこの世を去られてしまいます。
鎌倉から圧力を受けた泰衡様は、父の遺言を破り、1189(文治5)年閏4月30日、500騎の兵を率いて義経様を攻撃されました。
弁慶様の立往生で知られる最期で御座いますね。
持仏堂に篭った義経様は、妻と幼い娘を殺害し、そして自刃なさったと伝えられております。享年31歳。


その後、義経様の首は鎌倉に送られ、腰越浦にて首実検が行われました。
その際に頼朝様は直接の御確認をされておらず、異母兄弟とはいえ、身内同士の争いの決着は、内心どのようなものであったのかしら……と考えをめぐらせてしまいます。

また、義経様は奥州にて没されておらず、更に北へと落ち延びられたという北行伝説も、伝承の残る土地土地を中心に根強く支持されております…。
北海道やらモンゴルやら……何処までも、壮大な御方で御座いますね(笑)
この辺りも、随分と色々な説が混在しておりますし、史跡と伝わる場所もわんさか御座います;
義経様の足跡を追っ掛けている私では御座いますが、北行伝説ルートにつきましては、今のところ全くの未干渉で御座います。
決して北行伝説を否定している訳では無いのですが、私の中で英雄と謳われる源義経様という人物は衣川にて終焉を迎えている、という線引きをしておきたいからで御座いまして……。

後世の人々に愛され、英雄と評される義経様で御座います。
“判官贔屓”という言葉が生まれる程に、世の中を変えた御方では御座いましたが、実はその人生の殆どは謎に包まれたままなので御座います。
それ故に、創作意欲も刺激させられるのやもしれませんね。
沢山の物語が編まれております。


吾妻鏡に義経様の別称として、“義行”→“義顕”という呼称が御座いますが、
これは、都の公家に“義経”様が別にいらっしゃった事から、同名を指す事を避ける為に鎌倉側で勝手に改名して追捕の手配に使用していたもののようで御座います。
はじめは“義行”と名付けておりましたが、義経様が捕まえられないのは“経は、逃げてく”という意味が含まれているからだと考えられ、“経はれる”との意図を込めて“義顕”と改めたようで御座います;
義経様と致しましては、気が付いたら別称で追われている事になりますので、いい迷惑だと思われたりしていたのかもしれないですよね…(苦笑)

快速☆義経様


↑こちらは、奥州の鉄道と共に駆ける義経様…(笑)
義経号でしたっけ…乗った事は御座いませんが、そんなラッピング列車も運行されておりましたよね〜。

美少年〜美青年として描かれる事の多い義経様像で御座いますが、実際の外見については確かな史料は残されておりません。
大河でも麗しいキャスティングで御座いましたし、義経様が美しくない作品を探せ!と言われる方が難しい問題で御座います…(笑)
義経様奉納と伝わる大山祇神社の甲冑から推測される身長は、小柄の150cm前後だと言われております。
平家物語には、色白で反っ歯、小男だと記されておりますね;;むぅ…。

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