日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

いただきに響くは源氏の鬨の声
安徳帝と三種の神器を奉り一ノ谷を放棄し落ちてきた平家軍と、追撃の源氏軍が激戦を繰広げた地――四国は香川県の屋島

現在は陸続きになっている屋島ですが、源平合戦当時は紛れも無い島でありその入り江は湾曲していたといいます。
屋島ドライブウェイを車で登っていく合間から、古合戦場の景色を見下ろす事が出来ます。

屋島1

↑↓継ぎ接ぎ画像……↓は くっ付いてもおりませんね(苦笑)
屋島2


山上まで登る方法ですが、屋島ドライブウェイの他に、シャトルバスが運行されているようで御座います…もしくは登山道をガッツで登るとか。
うちの母が、
「昔訪れた時には、ケーブルカーに乗りましたよ」
と言っておりましたが、どうやら屋島ケーブルさんは平成17年夏の終わりをもって廃止されてしまわれたようで……残念な事で御座いますね;;

山頂には、屋島神社屋島寺、源平史跡等の他に水族館もあるそうで御座います。
ぶっちゃけ魚を見ても食欲をそそられるばかりで御座いますので(←わぁ最低…)、リニューアルオープン当初にも関わらず、私は見向きもせずに史跡にまっしぐらだったのですけれど……そういえば、御家族連れが多いなぁとは思いました;
どの御家族も正月早々、史跡巡りに励まれているようで素晴らしい事だわ〜と勝手に思い込んでおりましたが、そうですよね……水族館だったのですよね。。

登山口を奥へ進みますと、有名な四国村が御座いますね〜。
行った事があるような無いような…あやふやな記憶がもどかしい限りです;
今度、屋島へ参る際には四国村にも立ち寄りたいと思います。

屋島3


……こちらは、血の池こと、瑠璃宝の池で御座います。
“血の池”というのは、源平合戦時に由来する通称で御座いますが、何て生々しい;;

   

瑠璃宝の池(地の池)

 屋島寺伽羅草創のおり弘法大師が「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。
ところが竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。
 また、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり地の池とも呼ばれるようになりました。



屋島4


血の池の中島には、小さな祠が御座います。
私は以前、この祠は源平両軍の兵を弔って創られたものだと何かで読んだ記憶があったのですが、聞いた御話では宝珠を納めた祠だとか、由緒不明の祠だとか……あれれ;

屋島5


□ 屋島の合戦 □

1183(寿永2)年7月
都を落ちた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて九州大宰府まで下ったものの、現地の武士に追われて漂流。
暫くの後、阿波国田口成良によって讃岐国屋島に迎えられ、安徳天皇社を建てて、この地を本拠地と致しました。

1184(寿永3)年1月20日
源氏同士――源頼朝様と源義仲様の間で抗争(=宇治川の戦い)が起こっている間に、平氏は軍勢を立て直し、摂津国福原まで進軍致します。

1184(寿永3)年2月7日
源義経様の奇襲攻撃により、一ノ谷の合戦にて平氏軍は惨敗。
平氏軍は、海上より再び屋島に逃れ、源氏軍の追討に備え、屋島のに築いた内裏を本拠として陣営を立て直します。
その際、軍船を庵治の湾内(船隠し)に隠し、海からの来襲に備えを固めました。
また、平知盛様率いる軍勢を長門国彦島に置き、瀬戸内の水軍を擁し拠点と致しました。

1184(寿永3)年7月
安徳帝と三種の神器を奉って動く平氏軍は最期まで官軍を称しておりましたが、京では後白河法皇が安徳天皇を廃して、弟の尊成親王=後鳥羽天皇を即位させました。

1184(寿永3)年8月7日
鎌倉では、源範頼様に平氏討伐の命が下され、1000騎を率いて鎌倉を発たれました。

1184(寿永3)年8月27日
範頼軍は京にて追討使の任を受け、3万余騎を率いて、平家の背後を狙う為に9月1日に京から九州を目指します。

1184(寿永3)年12月
備中国藤戸の合戦にて範頼軍は、平行盛様率いる平氏軍に勝利。
然し、長門国まで進出はしたものの、平氏軍の配置やら兵糧問題、船不足等により、周防国へ後退致しました。

1185(寿永4)年2月1日
ようやっと九州入りを果たした範頼軍は、、豊後国芦屋浦にて原田種直の軍勢を破ります。
そのまま一気に、彦島の要塞を叩こうと企策致しますが、準備が整わなかった為に叶わず仕舞で御座いました。

この頃、鎌倉では頼朝様の許可無く官位を授かった義経様に対する疑惑が募っておりましたが、聞こえてくる戦況が芳しくない事を受けて、止むを得ず、暫く平家追討から外されていた義経に様に屋島への攻撃命令が出された訳で御座います。

さて、ここからが源平屋島合戦の序で御座います。

1185(寿永4)年2月
熊野水軍、摂津国水軍渡辺党、伊予水軍を味方につけた義経様は、摂津国渡邊津より出航されました。

その際のエピソードとして有名なのが、平家物語の逆櫓論争で御座いますね。
これについては、大阪での史跡と合わせていずれ記そうと思います。

1185(寿永4)年2月18日
午前2時:その日は酷い暴風雨だったといいますが、出航見合わせを提言する梶原景時様を余所に、義経様は僅か5艘(50騎とも150騎ともいわれております)の軍勢を率いて出航されました。
午前6時:海上戦を予想していた平氏軍の裏をかいて、義経軍は阿波国勝浦に到着。
近藤親家を味方に引き入れ、平氏方の豪族であった桜庭良遠を奇襲致しました。

1185(寿永4)年2月19日
午前8時:瀬戸内沿の陸路を進軍した義経軍は、屋島にて平氏軍を背後から奇襲致しました。
平氏軍は内裏を捨て、海上へと避難致します。

1185(寿永4)年2月20日
源氏の軍勢が少数であると悟った平氏軍による反撃が開始され、総門周辺での、激しい攻防戦が繰広げられました。
屋島の合戦において、1番の英雄?といいますか有名人は恐らく扇の的を打ち当てた那須与一様では無いかと思うのですが、正直私は余り好きなエピソードとは言えなかったり致します……的を射た瞬間までは、とっても素敵だと思うのですけれど、これを褒め称えて踊った平氏の武者も射殺してしまったというのは……余りに非情で御座います(涙)
これを挙げると、水夫、梶取を射殺して優位な戦況を作ったという事についても触れたくなってしまいますが…。

美尾屋十郎悪七兵衛景清の錣引や、義経様の弓流しの件も、この日の出来事とされておりますね。

1185(寿永4)年2月21日
志度浦に陣営を布き上陸を試みた平氏軍でしたが、80騎の義経軍によって撃退され、平氏軍は海上を西へと落ちていきました。

代表的な戦死者は、源氏方では佐藤継信、平氏方は菊王丸……詳細は史跡と共に改めて。

そして迎えた2ヶ月後の1185(寿永4)年3月24日――。
長門国壇ノ浦の合戦にて、平家一門は最期の時を迎えるので御座います。


屋島6


屋島名物かわらけ投げ
展望台では、沢山の方々が大いにハッスルされていらっしゃいました〜。

かわらけ投げの御由来と致しまして、源平合戦に勝利した源氏兵が陣笠を山上から投げて勝鬨を上げた故事が御座います。
厄除けの意を込めて楽しまれている場合が多いですが、源氏の勝利に肖って、受験合格祈願等でかわらけ投げをされる受験生さんもいらっしゃるようで御座います。

屋島7


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………や、やってしまいました;;
昨日の記事の上に、間違えて今日の記事を上書してしまいまして(涙…)
えぇと…確か昨日は、湯島天神の御祭に行ってどうのこうのと…書いていたような…?

わーん…さり気無く修正して近日中に何食わぬ顔で再公開致します…。
バックアップをちゃんと取っていないから、こういう間抜けな事をしてしまうので御座いますね……凹。

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