
□ 平知盛(たいらのとももり) □
生 年:1152(仁平2)年
没年月日:1185年4月25日(文治元年3月24日)
父 :平清盛
母 :平時子
兄弟姉妹:兄…重盛、基盛、宗盛(同腹)
弟…重衡(同腹)、知度、清房、清貞、清邦
姉妹…女(藤原兼雅室)、徳子(同腹)、女(藤原隆房室)、
盛子、完子、女(藤原信隆室)、御子姫君、廊御方
妻 :治部卿局
息 子:知章、知忠、知宗
娘 :中納言局(藤原範茂室)
通 称:新中納言、権中納言
官 歴:1159(保元元)年1月7日、蔵人
1159(保元元)年1月21日、従五位下
1160(永暦元)年2月28日、武蔵守
1162(応保2年9月28日、左兵衛権佐
1164(長寛2)年1月5日、従五位上
1166(仁安元)年8月27日、正五位下
1166(仁安元)年10月10日、春宮大進
1166(仁安元)年10月21日、中務権大輔
1166(仁安元)年、右近衛権少将
1167(仁安2)年2月11日、武蔵守
1168(仁安3)年1月6日、従四位上
1168(仁安3)年2月19日、昇殿
1168(仁安3)年3月23日、左近衛権中将
1168(仁安3)年8月4日、正四位下
1175(安元3)年1月24日、従三位
1178(治承2)年1月28日、丹波権守
1179(治承3)年1月19日、春宮権大夫、右兵衛督
1179(治承3)年9月5日、正三位、春宮権大夫(復任)、丹波権守
1179(治承3)年10月9日、左兵衛督
1180(治承4)年2月25日、新院別当、御厩別当
1181(治承5)年3月26日、参議
1182(養和2)年10月3日、権中納言
1182(養和2)年11月23日、従二位
8歳にして従五位下となられた知盛様は、平家の公達として出世街道まっしぐらに栄進されていきました。
1179(治承3)年には、守貞親王の乳母夫となり、教育に当たられました。
武将としての実力も兼ね備えておられたと言われ、文武両道に長けた御仁だったようで御座います。
1180(治承4)年の以仁王の乱では、総大将として平家軍を指揮。
美濃、近江で起こった源氏の叛乱の際にも総大将として出陣、その後、東国追討にも赴かれますが、病にかかられた為に帰京なさいます。
知盛様は都落ちの折に、大番役の為に在京していた畠山庄司重能等坂東武者が斬られそうになっていたのを知り、
「故郷の妻子が嘆き悲しんでいる事で御座いましょう、もしも平家が再び盛り返し都に帰る事となれば、御情にもなる」と宗盛様に説得し、助命されたと伝えられます。
一ノ谷の戦いでは、大手の大将軍として、生田口の陣営にて東より攻め入る武蔵、相模の軍勢と対峙致しました。
源範頼が仕掛けた大手軍への総攻撃に、知盛様率いる平家軍は必死に防戦致しますが、全軍総崩れの状況で取るものも取りあえず、遂に沖に浮かぶ船を目指して敗走を始められます。
ここでの犠牲は知盛様にとって、何よりも辛いものでは無かったのでしょうか……。
気が付けば、周囲は 嫡男である知章様と郎党の監物太郎頼方のみとなっており、主従3騎で汀へと馬を走らせますが、海岸に出た辺りで源氏方の児玉党に追い付かれ、交戦となります。
児玉党の大将が知盛様に組付いてきた瞬間、父を逃がす為に知章様が割って入り、その大将を討ち取り奮戦致しましたが、直後 頼方と共に敵の武士に討ち取られ、命を落とされます…。
知盛様は、その間に駒を泳がせ逃げ延びる事が出来たと――…。
息子を身代りにしてまで逃げ遂せた己を恥じた、そんな風に語られる知盛様で御座いますが、その御心中には平家の行末を案じる気持ちも大きかった事で御座いましょう……然し、父親として、僅か16歳の長男を失った悲しみも果てしないものであったと思われます。
まして、自分の為に短い生涯を散らしたとあれば……悲しい、どころでは無いでしょう…。
一ノ谷でのエピソードとして、もう1つ有名なのが(下手をすると、知章様には触れずに、こちらばかり目立つ書籍も御座います;)馬を逃がした事で御座いますね。
船まで辿り着いたものの、馬を乗せるだけの余裕は無かった為に仕方無く陸の方へと馬を追い返したところ、田口重能(阿波民部)が敵方に奪われるよりはと射殺そうとするので制止したといわれます。
我が命を救ってくれた馬を殺してくれるな、と……そして、自分が助かる為に息子さえ見殺しにしてしまった己の生欲を思って、涙されたのだそうで御座います。
平家物語において、最期まで格好良く全てを網羅した平家方の人物のように描かれておりながら、堪らなく人間らしさを感じさせられる御方でも御座います。
1185(寿永4)年、壇ノ浦の合戦では軍事面での総大将として平氏軍を指揮されました。
そして、平家の滅亡していく様を見届けられた知盛様は、海へと身を投じられました。
その際、碇を担いだとか鎧を2枚着たとか言われております。
タイトルの台詞は、有名な最期の御言葉…“見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん”で御座いますね。
やるべき事、やれる事は全て終え、その末に迎えた終焉は見事に潔いものであったと……。
* * * * * * * *
個人的に、知章様の最期には非常に胸を打たれるものが御座います…。
知盛様を考える時、どうしても知章様を中心に思いを馳せてしまう為、私の中で知盛様は“知章様の御父様”として位置付けされているように思います;
大河「義経」で安陪寛さんが演じられた知盛様は、私がそれまで抱いていたイメージとは少し印象が違っていたのですが、成程 そういう知盛様という偶像も想像出来るなぁと感銘を受けました。
私ももっと広い視野で物事を捉え、全てを見渡す度胸を身に付けたいもので御座います。
Comment
どうゝね様、こんにちは。
私も、「見るべき程の事は見つ」が 源平の戦いの時代で最も好きな言葉かもしれません。
自分は、今後 その言葉が発せられるだけ、ある事に集中できたり それまでの人生を充実させることができるだろうか。死ぬときでなくても いや生きているうちに その言葉を発することができたら すばらしいと思います。(でも 言葉は発しても死にたくない・・・笑)
重盛様(私ではない)の「忠ならんと欲すれば・・・」も 小学校のころは感動しましたが、今はあまり忠ならんと欲しないので・・・。
私も、「見るべき程の事は見つ」が 源平の戦いの時代で最も好きな言葉かもしれません。
自分は、今後 その言葉が発せられるだけ、ある事に集中できたり それまでの人生を充実させることができるだろうか。死ぬときでなくても いや生きているうちに その言葉を発することができたら すばらしいと思います。(でも 言葉は発しても死にたくない・・・笑)
重盛様(私ではない)の「忠ならんと欲すれば・・・」も 小学校のころは感動しましたが、今はあまり忠ならんと欲しないので・・・。
重盛 | URL | 2008/01/14/Mon 15:48[EDIT]
こんにちは〜。
“見るべき程の事は見つ”……何だか 究極の最期の台詞、という印象ですよね。
私も、生きているうちに そう言い切れるまでの事を為せたなら…!と思っております。
良く「志半ばで…」とか「目的は達せ無いと意味が無い」とかいいますが、私は それよりも、それまでに自分がどのように生きたかという事が一番大切なのでは無いかなぁと思います。
勿論、成し遂げられる事が最高の目標であり、それが幸せに繋がる事と思うのですが…。
これが最期、と自分で理解して死に臨めるというのは、ある意味で幸せな事のようにも思えますね。
重盛様の御言葉、私も凄く感動致しております。
平家物語には、本当に素晴らしい場面が多くありますよね。
“見るべき程の事は見つ”……何だか 究極の最期の台詞、という印象ですよね。
私も、生きているうちに そう言い切れるまでの事を為せたなら…!と思っております。
良く「志半ばで…」とか「目的は達せ無いと意味が無い」とかいいますが、私は それよりも、それまでに自分がどのように生きたかという事が一番大切なのでは無いかなぁと思います。
勿論、成し遂げられる事が最高の目標であり、それが幸せに繋がる事と思うのですが…。
これが最期、と自分で理解して死に臨めるというのは、ある意味で幸せな事のようにも思えますね。
重盛様の御言葉、私も凄く感動致しております。
平家物語には、本当に素晴らしい場面が多くありますよね。
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