
「これからは、APSゆうて新型フィルムの時代ですけぇのぅ〜!」
……当時は、そんな風に言われてましたっけー(苦笑)
今では、カメラ本体は製造中止、フィルムも店頭から続々と姿を消しているAPS=アオバンスフォトシステムさん。
私も、発売した頃にコンパクトカメラを購入し、一眼レフ(35mm)購入後も随分長い事愛用しておりました。
ちょっと寂しいけれど、コスト的にも収納面でも、ぶっちゃけ不便ですよねー…;
デジカメの普及に反比例するかのように、消え行く元・新型システム…。
フィルム自体は35mmより小さい為、今でもLF(インスタントカメラ)では未だ使われていたりも致しますが、フィルム単体としては需要が殆ど無いようですね。
盛者必衰どころか、そんなに栄えた様子も無く消えてゆくのね……そんな儚い存在には、ちょっと惹かれるかも。
……なんて思いながら、これまでの現像済APSをデジタルデータ化している私です(酷!?)
コンパクトカメラだったので、主に友人達との記念撮影等に使用していたのですが、稀に史跡巡りにも持参していたらしく、ちょこちょこと そんな写真も発掘されております。
今回は、割と最近(2年位前かな…)の鎌倉での写真の中から、源頼朝様の御墓へ行ったものを取り上げてみようかなと思います。
画像がやたらと縦長・横長なのはHV撮影の為です。
あ。ちなみに、何だか用無しで手放したような書き方をしておりますが、APSのコンパクトカメラさんは健在です(笑)

□ 源 頼朝 □
生年月日:久安3年4月8日(1147年5月9日)
没年月日:正治元年1月13日(1199年2月9日)
父 :源義朝
母 :熱田神宮大宮司藤原季範女(三女)由良御前
幼 名:鬼武者
兄 弟:兄…源義平(悪源太)
源朝長
源義門
弟…源希義(同母弟)
源範頼
阿野全成(常盤御前の子)
義円(常盤御前の子)
源義(常盤御前の子)
妹…坊門姫(同母妹・一条能保室)
妻 :八重姫(伊東祐親三女・千鶴丸母)
北条政子(正室/北条時政娘・頼家、実朝、大姫、乙姫母)
亀前(良橋太郎入道娘)
大進局(伊達時長娘・貞暁母)
子 供:千鶴丸
大姫(源義高許嫁)
源頼家
貞暁
三幡(乙姫)
源実朝
※清和源氏で、河内源氏(源頼信を祖とする)の7代目に当たります。
これは私の個人的な見方ですけれど、とても人間味溢れる方だったように思います。
でも、矢張り冷酷な印象は、確かにありますね……相当に。
私は、大姫様と義高様が大好きな、義経様の追っ掛けをしている、平家マニアなので、どういう視点から見ても、頼朝様を怖いと感じてしまいます。

とても質素な石層塔……本当に、これが鎌倉幕府を開いた源頼朝様の御墓なの?と、正直思わずにはいられない程に、ひっそりと大倉山中腹に佇んでおりました。
鶴岡八幡宮から15〜20分程度歩いた場所に御座います。
頼朝様の死後、亡骸は持仏堂に葬られました。
正治2(1200)年、持仏堂は「法華堂」と呼ばれるようになり、法要が営まれます。
安永8(1779年)2月に、薩摩藩藩主島津重豪が現在の石塔(高さ186cm・五層塔)を建立します。
明治時代、廃仏毀釈によって法華堂は撤去され、
明治5(1872)年、その場所に「白旗神社」が建てられました。
御祭神は「白旗大明神」頼朝様の事です。
白旗というのは、源氏の旗色を指しております。
平家は(紅)赤ですものね。官軍を指します。
運動会や年末NHKでの“紅白○○合戦”というのは、元々は源平合戦に肖って始められたものです。
どうでもいいのですが、どうやら平家軍の赤旗はフンドシを使っていたりしていたようです…某展で実物を拝ませていただきました(笑)
鶴岡八幡宮境内、源氏池に浮かぶ島内にも「白旗神社」が御座います。
社伝によれば、こちらは北条政子様が朝廷より白旗大明神の神号を賜り、正治2(1200)年に創建したとされております。
又、源頼家様の創建とも伝わっているようです……うーん、頼家様か…。
現在の場所には、明治21(1888)年に遷座されたようです。

頼朝様の死因について。
あちこちで論議されておりますが、確かな記録が残されていない為、現在も不明のままです。
定説としましては、
●建久9年の暮れ、御家人である稲毛重成が亡き妻(政子の妹)の供養の為に掛けた相模川の橋供養のために出掛け、その帰路、稲村ガ崎付近で落馬。
その傷が元となり、早々に亡くなった……と言われております。
その他の説としまして、
●糖尿病説……元久3(1206)年、関白藤原家実の日記「猪隈関白記」(1197-1235)に、頼朝の死因について「飲水の重病によって、去る1月11日に出家し、13日に亡くなった」という記述があります。
飲水の病とは、水を欲しがる病の事で、糖尿病であろうとされております。
●怨霊説………「保暦間記」「北條九代記」の文書によれば、橋供養の帰り道、八的原(やまとはら)で馬が俄かに興奮し始め、ただならぬ気配が生じて、頼朝の頭上に義経主従と伯父源行家の亡霊が現れ、頼朝を見据えていたという事です。
その場は何とか持ちこたえ、先を急ぐと今度は稲村ヶ崎の辺りで、波間に十歳位の童が現れて頼朝を見ていたそうで、それは安徳天皇の亡霊だったのだとか。頼朝は、ついに気を失い、馬から落ちて倒れてしまったそうです。
その後の様々な加持祈祷も甲斐無く、これまでだと悟った周囲の者が、年明け正治元(1199)年正月11日に頼朝を出家させ、13日に亡くなったそうです。
●夜這説………頼朝が館の侍女の部屋に忍び込もうとしたのを、警護の武士に誤って切りつけられ、その負傷が原因で死亡したというもの。流石に外聞を憚って、死因を急病とした…と、水戸光圀(←水戸の御老公様…)の「真俗雑談」に記されております。
●脳溢血説……頼朝は戦上手でも乗馬の上手でも無かったようですが、それでも武士の棟梁たる者が、簡単に落馬等するであろうかと単純に考えた上での見解のようです。
鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」では、建久6(1196)年〜正治元(1199)年までの3年間に関する記事がゴッソリと抜けております。
当然、この間に亡くなられた頼朝様死亡に関する記録も残っていない訳です。
吾妻鏡は、北条氏等の幕府有力者が鎌倉末期に編纂したものであろうと考えられておりますので、都合の悪い部分は省いたという可能性が無いとは言えないのです。
また、後世の武将等にも随分と愛読されたようで、徳川家に献上された写本(北条本)の欠落部分を、徳川家康が他大名家から集めて、慶長10(1605)年に木活字で刊行したものが、伏見版(51巻)と言われております。
武士が築いた最初の幕府の記録ですもの、良い参考になったのでしょうねー。

政子様との墓所の差について。
これも、良く論議されておりますね。
私も実際、政子様の御墓参りの際に考えました(政子様墓所の写真もいつか載せます)
政子様の墓は、実朝様(3代将軍様です〜)と同じ、寿福寺の裏山やぐら(鎌倉特有?の泥岩を掘抜いた横穴式の洞窟)に御座います。
同じ鎌倉ですが、頼朝様の御墓とは反対側の場所です。
行かれた方は解ると思いますが、寿福寺は観光目当ての人間が気軽に入れるような感覚の御寺では無く、とても格調の高い御寺様で御座います。
静かな佇まいで重厚な空気が漂っております。
頼朝様の、あっけないと思われてしまう墓所と比べ、政子様の墓所は大切に護られている感じが致します。
共に眠るのが、頼朝様では無く、実朝様という所も少し疑問に思う所です。
政子様は、尼将軍と言われる程の御方ですが、それだけに色々な想いを抱えていらっしゃった事でしょう……。
娘達を亡くし、夫に先立たれ、息子は次々と殺されて…。
頼家様暗殺の背景には北条家が絡んでいるとの見解も強いですが、それに政子様が加担されていたか否かは、また別の問題かもしれません。
その辺りも、もっとじっくりと考えていきたいと思います。
* * * * *
全然関係無い事ですが、今日って2月14日なのですねー。
平将門様の命日だわ……!
ばれんたいん、って何ですか?(←………)
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