
□ 袈裟(けさ) □
生年:不明
没年:不明
夫 :渡辺渡(?)
袈裟御前について、実はその存在の殆どが謎に包まれたままで御座います。
一般的には、渡辺渡の妻として語られる事が多いように思われますが、史料によっては鳥羽刑部左衛門の女房であったり、鳥羽秋山刑部左衛門修乗の妻であったり……。
袈裟御前は、享年16歳であったと伝えるところも御座います。
遠藤盛遠が愛していた女性を殺害してしまったという出家意図を踏まえた上で、文覚上人のドラマチックな人生の一節として後付で創作されたものでは無いかと仰る方も居るようで御座いますね。
遠藤盛遠(文覚上人)と袈裟御前の御話も、諸本によって内容も色々では御座いますが、大まかな筋として以下のような内容が有名であろうと思います。
遠藤盛遠が、恋をした相手は同僚の武士である渡辺渡の妻、袈裟御前で御座いました。
どうしようも無いと知りつつも、諦めの付かなかった盛遠は、袈裟に恋心を打ち明けます。
袈裟は、
「私は夫のある身。どうしてもと仰るのであれば、夫を殺して下さい。
今夜、夫には髪を洗わせ、部屋には小さな灯りを点したままで寝かせますから、濡れた髪を目印に討ち取って下さい」
と申します。
その夜、盛遠は袈裟の言葉通りに邸に忍び込み、濡れ髪を確かめると、一気に首を切り落としました。
然し、切り落とした顔を見ると、それは袈裟の御首で御座いました。
渡を殺したつもりが、愛しの袈裟の命を事もあろうか自らの手で奪ってしまったので御座います。
袈裟は、自分の命と引換えに操を護ったので御座いました。
渡を殺害してまで手に入れようとした愛しい人――その人は、渡の為…そして盛遠の為にこの世を去りました。
彼女の死を嘆いた盛遠は刀を捨て、髪を下ろして名を文覚と改めます。
この場面は新平家物語での描写が非常に強く生々しくて……;
新平家では、遠藤盛遠を取り巻く環境に清盛様もいらっしゃるものですから、より一層 深みが増した構成に感じられます。
出家前、盛遠は血で染まった袈裟の首を池で洗い、塚を立てて弔ったと言われます。
その後、屋敷跡に恋塚寺という御寺を建て、袈裟を弔ったそうで…。
恋塚寺という名称の御寺は、京都市内に何故か2ヶ所御座います。
どちらにも同じ伝承が残り、恋塚と石碑が御座います。
両寺につきましては、またいずれ記してみたいと思っております。
ちなみに…文覚上人と袈裟御前の史跡関連で一風変わった場所が御座いまして、岐阜県加子母村の大杉地蔵尊では、袈裟の命日と伝わる旧暦7月9日の夜に“なめくじ祭り”なる奇祭が催されるとの事で御座います…な、なめくじ。。
こちらにも、文覚上人の御墓と伝わる塔が御座いまして、毎年旧暦7月9日の夜に袈裟御前の御霊がなめくじとなって墓石を這いまわるとの言い伝えに因んだ御祭なのだそうで御座います。
※タイトルは、古今和歌集より小野篁朝臣の哀悼歌。
恋仲であった異母妹を亡くした際に詠んだ歌で御座います。
私の涙が雨になって降ってくれたら…そうして、三途の河の水量が増したなら、渡れずに今一度 現世に、私の元に帰って来れるのに…
悲しい気持ちが溢れる御歌…切なくなりますね。
遠藤盛遠は勿論ですが、渡辺渡とて嘆きが深かったのでは無いのでしょうか。
余り語られない部分では御座いますが、
「袈裟は何故、私に何も相談しなかったのか。事前に知ってさえいれば私とて…!」
と思う気持ちが少なからずあったのでは無いかと思われます。
袈裟は、万が一の夫の危険や、その後の夫の立場を踏まえた上で、命を捨てる覚悟を決めたのやもしれませんよね……。
逝った者と遺された者――…例え夫婦であろうと、そうなってしまっては二度と言葉を交わす事が出来ないのです。
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