
少し前まで、JRの駅等に貼られていた このポスター。
ひと目見た時から、
「うわぁ…私、ここに行きたい!」
と思っておりました。
ポスターに夢中になるが余り、電車に乗り遅れた事も御座います(それはどうだろう…)
然し、それ程 夢中になっていたに関わらず、私は これが何処の何という場所なのか調べもしておりませんでした;
今にして思えば、私は こちらの場所に惹かれていたのでは無く、この写真自体に強く興味を抱いていたのだなぁとも思います。
が…!まさか、ここが飯盛山の山中だったなんて………という素敵な遭遇を、させていただいてしまったりなんかして?(笑)

……飯盛山、白虎隊士の御墓と戸ノ口堰洞穴や厳島神社の丁度中間辺りに位置しているのが、こちら――“栄螺堂”こと、円通三匝堂で御座います。
栄螺堂は、かつて飯盛山に存在した正宗寺という御寺さんの御仏堂であったもの。
寛政8(1796)年、正宗寺住職 郁堂様によって立案、建立されたものと伝えられます。
御本尊は阿弥陀如来、斜路には三十三観音像が安置されていたといわれますが、明治期の廃仏毀釈に際して正宗寺は廃寺となり、堂内の御本尊をはじめとする御仏像等は撤去されてしまわれたそうで御座います。
栄螺堂は その呼び名の通り、栄螺のような不思議な構造から成る御仏像。
高さ16.5メートル、平面六角三層の御堂で、堂内には階段等が無く全て回廊となっており、同じ道を2度通る事無く巡礼が出来、出入口も別々の場所に設けられております。
とても珍しい例である事から、国の重要文化財の指定を受けておられます。

拝観受付を済ませ、御堂内へと立ち入らせていただきます。
世界にも例を見ない珍しい構造という事で、まるで迷路にでも入るようなワクワク感を抱きながらの拝観で御座いました。

平面六角の御堂内部は、只管 一方通行の坂道。
中央の柱を中心に厨子が並べられており、その中には会津藩の道徳教科書として使用された松平容敬様編纂の皇朝二十四孝の絵額が掲げられておりました。
元々、この中には三十三観音像が安置されてありました。
廃仏毀釈にて取り外された後、明治23年には白虎隊十九士の御霊像が安置されていたという事で御座います。
↓皇朝二十四孝の絵額には、私の興味をひく内容のものが幾つか御座いました。
特に、白拍子の絵にはがっつくように食らい付いてしまいましたね…。
微妙
微妙はもと根さし賤しからぬひとの子也、
落ぶれて鎌倉に沈めりし比、源頼家朝臣比企能員が家に行て盃酌せられけるに、酣なるころ、微妙をめしいでゝ、うたひまはしめられけるに、いみじう舞たりければ、みるひと感嘆せざるはなし、
時に能員頼家朝臣に申けるは此舞女はもと京師のひとなりしが君に見え奉り請申さむ事の侍るを、いかで聞かせ給へといひけるを、さらは其よし承らむとありけるに、微妙せきあへず落る涙をおしのさひ申けるは、今は昔建久年中父右兵衛尉為成人の讒言によりて蝦夷に流され侍り其時妾はとし僅に七歳なりしを、ほどなく母も、はかなくなりしかは親戚のよるへさへなかりき、齢やうやう人となるまゝにみだりに恋慕へとも父のおとづれ聞へきよすがたになかりし故にせんかたなく、かゝる賤しきわざをなしつゝ君に見え奉りぬ、
いかでおのが志を憐み父に逢しめ給へといへば頼家朝臣いと哀とおぼしありと、あるひと涙にむせびけり、
さて頼家朝臣の母なる政子情あるひとにて其孝心を感し陸奥に使を遣してたづね求めしめらるゝに使帰りて既にはかなくなりしといへば微妙此よしを聞て泣悲む事かぎりなく、やがて、かざりおろしてあまとなり名をば持蓮とぞいひける、
政子いとほしがりて家などあたへて、さまざまに憐みめぐまれけり
鎌倉孝子
北條時頼朝臣の臣、何がし老たる母を持たりけるが其母わが子の我をうちとして、おほやけに訴へ出しかは其子をめして問はるゝに、實にしかなん侍るとぞいひける、
かくて其子を罪せらるべきに及びて、母また訴えけるは我もと、はかなき事をとがめて、わが子をうたむとせしを、つまづきて倒れしかは腹たゞしきあま訴へ出しにて實は我子の、うちしにさむらはずとなん、いひける是によりて再び子をめして尋ねらるゝに母のいひしに露違はさりければ時頼朝臣母をうつの罪は軽からず汝いかでか打しとは、いふぞと問はれけるに其子□へけるは、われもし有のまゝに答へなば母は官司をあざむくの罪思かるべし、
されば我身罪□□へらんとて、□□□□侍らめといへば時頼朝臣其答を聞て感歎斜ならず其孝心を称して禄など、ましたまはりけり
これまた鎌倉期の例が挙げられているというだけの理由で、この記事も福島の源平史跡に強引に分類で御座います……源頼家様も北条時頼様のも源平合戦期よりは後の時代の御方で御座いますが…余り深く追及しないでやって下さいませ(苦笑)
その他、仁明天皇、兄媛、藤原吉野郷、役小角様の事 等々…私も、会津藩にて学んでみたかったなぁと思わされます。
栄螺堂の最上部分には、突然 小さな太鼓橋が架けられておりました。
螺旋状に上って来た坂道が、上り坂から下り坂へと下る場所で御座いますね。
太鼓橋を上って下りると、そのまま下りの参拝路に繋がっていて…面白いなと感じました。

御堂内には、至る所に年季の入った千社札が。
どうやって、あんな高い所に貼付けたのかしら?と思わされるような場所にも、沢山貼られておりました。
こちらが、真の御仏堂として使用されていた頃に貼られた千社札は別と致しまして……、気になるのは、落書きの酷さ。
出口の扉にも、落書きは絶対にやめて下さいとの注意書きが貼られておりましたが、その周辺の落書きは本当に酷いもので……どうして、このような事が出来るのだろうかと悲しく思えてなりません。
最近、歴史的遺産や景勝地等への落書きが問題視されるようになっておりますが、そのような事をマスコミが取り上げるようになったという時点で、マナーの悪さと申しましょうか…マナー以前の問題で御座いますよね…心底、ガッカリで御座います。
先日も、和歌山県白浜町の千畳敷の落書き問題と その対策について取り上げられている番組を拝見致しましたが、実際に私も千畳敷で落書きをしている方を何人か目撃した事が御座います。
さも当然かのようにガリガリやっておられたので、注意しようと思って近寄ると、逃げるように立ち去って行ってしまいましたが……いい歳をした大人が、恥ずかしい事で御座いますね。

こちらは栄螺堂の直ぐ近くに御座います、宇賀神堂。
寛文年間(1661〜1677年)に、厳島神社の傍社として建立されたそうで御座います。
宇賀神は弁天様と習合しており、五穀豊穣の神様として信仰されておりました。
御堂の中には、明治23年に作られたという仏蘭西流の洋服姿の白虎隊十九士の御霊像が安置されています。
恐らく、以前 栄螺堂内に安置されていたという白虎隊十九士の御霊像が、こちらなので御座いましょう。

そして、こちらにも白虎隊士の自刃の絵が掲げられておりました。
既に息絶えた方もいらっしゃれば、今まさに自刃なさろうとされている御方、仲間と同時に刺し違えて果てようとされる御方、御城を見詰められる御方……。
自刃なさった白虎隊士の方々から学ぶ事は、本当に多く御座います。
これを、単に歴史の1頁と解釈するか否かは人それぞれで御座いましょうが、尊ぶべき事だけでは無い哀しい過去の事実を、人の命というものを、もっと重く考えていきたいと私は考えております。
会津白虎隊精神の基礎「忠孝両全」碑
会津藩祖保科正之公は徳川三代将軍家光公の弟にて格別の信頼を受け、信州高遠より山形を経て寛永二十年(一六四三)奥羽の要として会津二十三万石に封ぜられたが、生涯を幕政の内奥に参画し、四代家綱将軍の後見人となり徳川三百年の太平確立に尽瘁した。
依て徳川宗家に対する「絶対忠節」と、学問を重んじ武道を尚ぶ「文武両道」と、自ら吉田流神道奥義を極めての「尊皇愛国」を藩の伝統精神とした。
第三代正容公より松平姓となり地積を上げたが、下って文化五年(一八〇八)露国の南侵に対し宗谷、利尻、樺太に二年間千六百名を、続いて欧米諸国の江戸侵航に対し文化七年より黒船来航を含み安政六年(一八五九)までの間、三浦半島警備十年及び江戸湾警備十二年夫々約千四百名を派兵して海防に当り、軍紀厳正、士気旺盛、各駐留地にて会津様と尊敬され、功績抜群であった。
時に国内情勢不穏となり幕閣より都の警護と治安維持に全権を有する京都守護職の内示を受けたが、
「公武の政争に巻込まれて傷付く以外に効無し」
と説得強要せられるに至った。
○松平容保公(当時二〇才)その苦哀を実父に述べたる問答歌
行くは憂し行かぬもつらし如何にせむ 君と親とを思うこころは
○実父美濃高須藩主松平義建公の返歌
親の名はよし立たずとも君のため いさお現はせ九重のうち
ここに容保公意を決し、文久二年(一八六二)精鋭千余名を率いて遥々京に上り六年間任務を遂行したが、時の孝明天皇の御親任最も厚く、賜りたる御親書は小竹筒に収め終生肌身より話さず御信頼に応えた。
然るに、天皇の御急逝に続き明治天皇(御年一六才)を擁して王政復古の挙あり、大政奉還した第十五代慶喜将軍と新政府との意見相違して慶応四年(一八六八)一月三日鳥羽伏見の戦いとなり、敗れて会津に帰還した。
この間恭順謝罪文を幾度奉呈するも新政府首脳は仇敵会津を圧殺せずは維新の達成不可能と握り潰し、薩長土肥始め二四個藩の大軍を差向け、終には籠城戦となったが、藩公の下老幼男女一致団結、九月二十二日降伏開城に至るまでその節を貫き徹した。
さらに戦後諸藩に拘禁の後、明治三年(一八七〇)寒冷不毛の地下北斗南藩(三万石実質七千石)に転封され家族とも一万四千名が移住したが、同六年解散まで貧窮飢餓掘立小屋の流民生活を耐え忍んだ。
○孝明天皇より御親書とともに賜りたる御製
武士とこころあはしていわほをも つらぬきてまし世々のおもひで
○会津武士の亀鑑野矢常方老(六七才郭門を守り入城の勧めを断って突進戦死)の詠歌
君のため敗れと教えて己れ先づ 嵐に向かう桜井の里
○娘子軍の名を上げた中野竹子女(二二才同輩と入城前混戦に壮烈な戦死妹優子介錯)辞世
武夫の猛きこころにくらぶれば 数には入らぬわが身ながらも
○津川喜代美少年(一六才自刃)門出に当たり父母に捧げし歌
かねてより親の教えのときは来て 今日の門出ぞわれはうれしき
○飯沼貞吉少年(一六才自刃唯一の蘇生者後貞雄と改名)出陣に際し母文子の餞けの歌
梓弓向う矢先はげしくとも 引きな返しぞもののふの道
白虎隊二番士中隊(日新館生徒一六・七才三七名)のうち、八月二十三日夜明戸ノ口原の血戦に隊長副隊長と分離した二〇名は、敵の囲みを破り教導篠田儀三郎指揮の下にかねて熟知の飯盛山に辿りついた所、城は火煙に包まれ落城の様相を呈した。
一同は伝統の話合を開き、斬込みか、立籠りか、自決か、を討議した結果、隊長代理決をとり、全員城を枕に討死の武士道に殉じ、
「人生古ヨリ誰カ死無ラン丹心ヲ留取シテ肝青ニ照サン」
の名詩を合吟し、純忠至誠を捨て義を取り、自刃したのである。
○容保公白虎隊士の自刃を聴いての弔歌
千代までと育てし親のこころさえ おしはかられて涙こぼるる
○宮中御歌と頃長高崎正風男の弔歌
大君のみたてと後になりぬべき あたらわかまつ雪の下折れ
○皇太子同妃両殿下(昭和天皇同皇后)大正十三年の御親拝に生存者飯沼貞雄感激の歌
日の御子の御影仰ぎて若桜 散りてののちも春を知るらん
平成十二年(二〇〇〇)一月 山主 飯盛本家




飯盛山――白虎隊士の御墓下の売店横には、白虎隊士自刃の絵や当時の史料、遺品等が安置されている場所が御座いました。
白虎隊士や娘子軍の方々を象った可愛らしい御人形も沢山いらっしゃり、様々な想いを感じさせていただく事が出来たように思います。

白虎隊の“白虎”とは、古くより四方の守護と信じられている四神の白虎の意。
四神に肖った隊は、当然 白虎隊以外にも玄武隊、青龍隊、朱雀隊が存在致しました。
玄武隊には50歳以上の年長者が、青龍隊には36歳から49歳の大人が、戦力的に主力といわれた朱雀隊は18歳から35歳までの青年方が集められ…そして、その予備隊として結成されていたのが、15歳から16、17歳までの少年からなる白虎隊で御座いました。
その他にも、更に若年者による年少隊も組まれていたようで御座います。
大政奉還の後、会津藩は新政府軍との戦に向けて改革的な戦法を編み出す為、年齢別の戦闘部隊を組織。
朱雀隊を主力に配置し、白虎隊や幼少隊は、あくまでも予備軍で実戦に出される予定は御座いませんでした。
新政府軍率いる軍勢と比べると、2万兵に満たぬ会津藩には勝算は無かったともいわれておりますが、そんな状況下でも白虎隊の方々は戦場へ出て共に会津を護りたいと嘆願書を提出し、時を待たれたようで御座います。
戦が激しさを増すにつれ状況は次第に変化していき…、ついに白虎隊は後備部隊から戦闘部隊となりました。

会津の国境から二本松城を攻め落とした新政府軍は更に母成峠を敗り、会津へと迫っておりました。
残存する少ない兵力の中、白虎隊2番中隊は、藩主 松平容保様に従って出陣。
滝沢本陣から戸ノ口に向かい、援軍の要請を受けた時、本陣には白虎隊の少年達しか残ってはいなかったといいます。
滝沢峠を登り戸ノ口原の陣に入った少年達は、苗代街道で新政府軍に射撃を開始。
激しい銃撃戦となったようで御座いますが、新政府軍と白虎隊とでは、数に圧倒的な差が御座います。
次第に負傷者が出始め、撤退を余儀無くされました。
傷付いた仲間達を励まし支えながら退却する中、はぐれていく面々…それでも、20名程で固まって移動をしていた隊士達は、必死に敵の目を逃れて飯盛山へと入り、悲しい結末を迎えます。
それは、最期まで会津武士である事を望んだが故の、決断で御座いました。

こちらは白虎隊士墓所の御参道脇に御座います、白虎隊記念館さん。
白虎隊は勿論、旧会津藩や新選組、戊辰戦争に関する沢山の情報、史料、遺品等を間近で拝観し、学ぶ事が出来る施設で御座います。
テレビ番組や出版物の資料提供で良く館名を拝見しており、いつか自分でも来てみたいなぁとずっと思っておりましたので、ようやっと訪れる事が出来て嬉しかったです。

白虎隊記念館さんの前には、生存白虎隊士である酒井峰治さんと愛犬クマさんの御像が建立されておりました。
戸ノ口原の生存白虎隊士二十二人の一人酒井峰冶が、鶴ヶ城に入城するため一人山間を退却中愛犬クマが飯盛山の裏手に出迎えた時の銅像です。
“余の傍らを過ぐるあり。
よく顧みれば、愛犬クマなり。
すなわち声をあげてその名を呼べば、とどまりて余の面を仰ぎみるや、疾駆して来たりて飛びつき、歓喜に堪えざるの状あり。
余もまた帳然として涙なきにあたわず”
これは、峰治さんが書き残されたという手記 戊辰戦争実歴談によるもの。
豪雨と疲労の中、敗走する白虎隊の仲間達から逸れた峰治さんは、自刃を覚悟された時、愛犬クマに出逢ったといいます。
この奇跡には…絆の深さを感じさせられるばかりで御座いますね。
館内に展示品は、本当にどれも大変貴重なものばかり…。
特に印象的だったのが、白虎隊自刃者 津川喜代美さんの手紙と、酒井峰治さんの手記で御座いました。

白虎隊記念館さんは、芸能人や著名人の方々の来訪が多い事でも知られておりますね。
昨年の1月に放送されたドラマスペシャル「白虎隊」でも、山下智久君と田中聖君が来館される場面が御座いましたが、その時の雑誌記事等も展示されておりました。
それから、“しょこたん”こと中川翔子さんが来館なさった際の御写真やサイン色紙等も御座いました。
中川さんの亡き御父様は、かつて沖田総司役を演じられた事のある役者さんだったそうで、その当時の御写真が こちらに展示されているという事が、中川さん来館のキッカケであったという事で御座います。
記念館の2階には、展示の他にアニメビデオの上映も行われておりまして、年齢を問わず 様々な方が御覧になっておりました。
いろんな意味で新鮮な作品で御座いましたが、親しみの持てる分かりやすい作品で良かったと思います。
えぇと、何故 この記事が福島の源平史跡に分類されているかと申しますと…、実は こちらの2階展示部分に、源義経様の恋人と伝わる 皆鶴姫様の絵画と、“恵日寺の如蔵尼”と題された平将門公の娘様と伝わる女性を描いた絵画が展示されておりましてー…そ、それだけの事なので御座いますが…紛らわしくて申し訳御座いません;;
皆鶴姫様と その御子様に関する伝承や縁の地については、また次回 会津を訪れた後に詳しく記したいと思っております。

そして、こちらが飯盛山の麓に御座います、白虎隊伝承史学館さん。
明治維新の犠牲者となった会津藩、白虎隊、婦女子をはじめ、援軍として会津入りした新選組、奥羽越同名軍、旧幕府軍、それから会津来攻の西軍に関する遺品や御写真等が、館内に所狭しと展示されております。

館内に入って直ぐの場所には、とても御可愛らしい白虎隊士さんの御人形がいらっしゃいました。
等身大…よりは、少し小さいのかな?という感じなのですが、とにかく可愛くて可愛くて好みで…///(ん?)
いけませんね、ついつい邪な感情が沸いてしまいます;
こちらには約5000点の史料が展示陳列されておりますが、中でも日新館や その生徒さん方に関する史料や再現像が、大変興味深かったです。
当時の着物や袴も近くで見られて良かったと思います。
それから…新選組局長 近藤勇さんの家定紋 丸に三ツ引紋付鉢金も展示されておりましたが、その前に行かせていただいた白虎隊記念館さんにも近藤さんのものと伝わる鉢金があったなぁ〜と少し不思議に思ったりも致しました。

会津では、いろんな場所で白虎隊士像や松平容保様像を見掛ける事が出来ました。
特に容保様は、御面が割れていらっしゃるだけに あちらこちらで御顔を拝見致しましたが…どの容保様も、本当〜に そっくりだったのが印象的過ぎて…(笑)
愛を感じますね。



白虎隊士の方々の御霊が眠る飯盛山は、またの名を“弁天山”とも呼ばれます。
墓所まで続く石段沿いに立並ぶ御土産屋さんの間を脇に抜けると、有名な重要文化財のさざえ堂や宇賀神堂があり、更に下へと下って行きますと、朱い鳥居の立つ厳島神社へと行く事が出来ます。
弁天様を異名を持つ飯盛山の、元々の御顔は こちらだったのでは無いでしょうか。

厳島神社らしい、堂々とした両部鳥居が大変立派で御座いました。
猪苗代湖より続く清らかな水際に御社が建てられ、弁天様が信仰されてこられたという事に、不思議な程 安堵感を覚えます。
広島人にとって、矢張り“厳島神社”は特別な存在。
母は、
「えー、厳島神社だってー!?」
と、何やら驚きの混じった声を上げておりました。
「宮島から勧請されたんかもしれんねぇ〜」
と返してみたのですが、母には余り意味が通じていなかったようで御座います…(苦笑)

□ 厳島神社(いつくしまじんじゃ) □
所在地:福島県会津若松市一箕町八幡字辨天下
御創建:栄徳年間(1381〜1383年)
主祭神:市杵島姫命
旧 称:宗像神社
厳島神社は、永徳の頃(1381〜1383年)に、石塚、石部、堂家の御三家によって建てられたという宗像神社に起源する御社。
御祭神 市杵島姫命は弁天様と習合されておりましたので、弁天様としても信仰されていたので御座いましょう。
元禄13(1700)年、会津藩主 松平正容様によって所領や鳥居、仁王門が寄進されました。
また、この頃に青銅製の大仏様も建立されているようで御座います。
…この大佛様は、明治期の神仏分離に際して七日町の阿弥陀寺さんへと移されておりますが…第2次世界大戦の際に金属供出で持っていかれてしまい、残念ながら現存されておりません。
嚴島神社
當社は宗像三女神の一にして古くから人々の信仰が厚かった、市杵島姫命である。
会津の領主芦名直盛公の時代、石塚、石部、堂家の三家によって社殿が建てられたるものとして時は栄徳年間のことである。
別當は正宗寺である、降って元禄十三年には会津藩主松平正容公は御神像及び土地を寄進され、明治の初期に嚴島神社と改めたこの山を飯森山と呼ぶ、別名の辨天山は、この神社にあやかるものである。

厳島神社の傍には、とても奇麗な御水が流れております。
パッと見た時は御神池のように見えておりましたが、良く見ると こちらは水路になっているようで…水の流れに逆らうように視線を遣れば、直ぐ向かいの岩には人工的に掘られたと思われる洞穴があり、御水は そこから流れ出て来ておりました。
この洞穴は、戸ノ口堰洞穴と呼ばれるもの。
今から350年程前に、猪苗代湖より会津地方に御水を引く為に起工されたものだそうで御座います。
飯盛山にて哀しい御最期を遂げられた白虎隊士の方々は、この洞穴を通って飯盛山に辿り着いたと伝えられております。
水量は想像以上に多くて…遠目からでも、洞穴の中は とても真っ暗で御座いました。
透明な御水に深みを拝みつつ、どんな想いで ここへ抜けられた事だろうかと思いました。
150メートル続くという暗闇を水勢に負けぬようにと懸命に進み、ようやく見つけた光の先に待ち構えていたのは、弁天様だけでは無かったので御座いますね…。

戸ノ口堰洞穴に近い陸上には、戸ノ口堰水神社が御座いました。
厳島神社に比べると、ひっそりと…ただ静かに佇むように建てられている小さな御社で、余り詳しい事も分からなかったので御座いますが、恐らくは洞穴が完成した少し後に御祀りされた神社なのでは無いかなと思われます。
戸ノ口堰洞穴
今から約400年前元和年間猪苗代湖の水を会津地方に引くため郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられ後天保3年会津藩士佐藤豊助が藩命により飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけ、水田2500ヘクタールの灌□に供し使役人夫5万5千人と3ヶ年の歳月を費して遂に完成した。
白虎隊士二番隊は戸の口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが戦に利あらず、お城の安否を確かめようと□城の途中隊士20名が通過した洞穴である。

弁天様の近くには、子育地蔵様の御堂が…もう少し下ったところには、飯盛山霊牛神堂が御祀りされておりました。
霊牛神堂前には、“飯盛山霊牛神堂由来”と記された石碑が建立されており、そこから飯盛山という名称となった御由来を読み取る事が出来ました。
飯盛山霊牛神堂由来
当山厳島神社御祭神は会津平を守護し給う弁財天におわします
風土記にいう
「永徳年間この社造作の始め 童女赤飯を牛に駄して来り役夫に振舞い食えども盡きず のち南へ行くこと数十歩にして見えず その地を牛ヶ墓といい、山を飯盛山とよぶ」
と さる昭和四十八年癸丑元旦先代山全正成神霊夢枕に現れ
「此の神を□い清めて弁天社の案内神を祀らん」
と書く
謹みて按ずるに霊牛神に他ならず
よって願いを立て御神体を奉して御神徳を仰ぐものなり
昭和五十六年十月



福島県会津若松市、白虎隊自刃の地として知られる――飯盛山。
御飯を盛ったような形をしている山である事から名付けられたという“飯盛山”の標高は、314メートル。
会津若松駅と飯盛山は一直線上に位置しておりますが、先に鶴ヶ城を見ておきたかった私は、西郷邸跡や御薬園 等を経由して、遠回りに こちらへ参らせていただきました。。

飯盛山の入口に立った私は、想像以上に観光地観光地した御参道に、正直かなり驚きました。
白虎隊士に肖った御土産物も沢山見掛けましたが、白虎刀なる小木刀の販売POPに“白虎隊、自刃の刀!”と記されているのを見た時は、非常に複雑な心境で御座いました…。
御当人方が御亡くなりになられた御山の麓で、その死に用いられた武器を象って御土産として販売されているというのは如何なものなのかしら…と。
実際、そのような意図で製造、販売されている訳では無いのでしょうけれど、観光地で木刀が売られるようになった起源がこちらというのは有名な御話。
私の母は、会津の その武士道に則った教育指針である什の掟に関する商品に惹かれると申しておりました。
その他にも、白虎隊士に扮したキャラクターもの等、可愛らしい御土産物が沢山御座いました。
長く続く石段の両脇に、平行して立並ぶ御土産屋さん。
石段の傍には、有料では御座いますが、楽に白虎隊士の御墓まで行けるようにエスカレーターが設置されております。
私に言わせれば大した段数では御座いませんでしたので、歩いて上ってもいいかなぁという程度だったのですが、階段を上るのは本当に大変ですというアナウンスに母が不安を感じておりましたので、今回はエスカレーターを利用させていただく事に致しました。
江ノ島ちっくで御座いますね〜。
エスカレーターから のんびりと眺める景色は とても綺麗で、清々しく気持ちがよいもので御座いました。
青々と繁る緑を見上げて、ここは きっと秋になると素晴らしい紅葉が見られるのでしょうね〜と話しました。
飯盛山は本当に素敵な御山で御座いましたので、この辺りまでは私達も矢張り観光気分で楽しませていただきました。

エスカレーターの終点から更に数段の石段を上り切ると、白虎隊士墓地のある広場へと出られます。
その右手に見える道を、道標に沿って奥へと進み、白虎隊士自刃の地へと向かいます。

白虎隊士自刃の地への途中、見晴らしの良い場所には、飯沼貞雄さんの墓地が設けられておりました。
飯沼貞雄さんは、飯盛山で自刃された白虎隊士の唯一の生き残りの御方で御座います。
当時の御名は貞吉さん。
貞吉さんは、仲間を裏切って自分だけ死ななかったと、随分御苦しみになられたといわれております。
戦後は、悲しい記憶の根付く会津を離れられております。
現在、白虎隊の事実が世に知られているのは、貞吉さんが当時の事を語られたからこそ…。
飯沼貞雄翁の墓
白虎隊士自刃者中唯一人の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後逓信省の技師となり、仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし 昭和6年78才で仙台市において没した。
白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。
昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によって、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。

そして、こちらが白虎隊士自刃の地。
負傷者を連れながらも戸ノ口原から退却した白虎隊の方々は この場所から城下を望み、煙に覆われた鶴ヶ城下を見て落城と判断…20名全員が、その場で自刃なさいました。
それが誤認であったと知る事が出来たのは、一命を取り留められた貞吉さんだけ…。
私と母が こちらを訪れた時、周囲には同じように御家族や御友人同士で来られていらっしゃる方々が居られました。
私が碑前で手を合わせていると、あろう事か 母が
「ひろちゃん、こっち向いて」
とカメラを向けておりまして……。
はっとした私は、
「だ、駄目!!…ここは やめて下さい!
ここは観光地じゃない、無念の想いで何人もが亡くなられた御墓なんですよ!
そんなの、原爆ドームの前で楽し気に記念撮影してる人達と一緒です。
それに、いきなり来て勝手に写真を撮られるのは、誰だって失礼だと思うでしょう。
先ずは ちゃんと、手を合わせましょうよ」
と、思わず母に詰め寄ってしまいました…。
母は大変驚いた様子で御座いましたが、直ぐに碑前に進んで手を合わせておりました。
確かに、私も勉強させていただく為にと、行く先々…いろんな場所で写真を撮らせていただいてはおります。
が、そこに眠られる御霊が存在する以上、先ずは しっかりと御参りをする事が大切だと思いますし、記録以上の記念撮影は厳禁だと私は思っております。
例え、そこに眠る御本人が良しと言われようとも、現には それを見て悲しまれる方は、少なからずいらっしゃる事で御座いましょう。
自分がされて嫌な事を、他所でする程、無礼な事は無いと思うので御座います。
母を諌めた際、声は抑えたつもりで御座いましたが、近くにいらっしゃった数組の方々の御耳には届いてしまったようで…。
矢張り その方々もカメラを構えておられたので御座いますが、
「そうね、御参りしないと」
と仰られて、手を合わせに行かれました。

自刃の地から見た、鶴ヶ城方面の景色。
少し遠くに こんもりと茂った森の中にあるであろう鶴ヶ城を眺めながら、ここで絶望し自刃を決意された隊士の方々に想いを馳せました。

続いて…自刃の地から元来た道を通って、白虎隊士の御墓へ御参り致しました。
御墓は、鶴ヶ城の方向を向いて建てられているそうで御座います。
正面に並ぶ19基は、自刃された白虎隊士19名の御墓。
戦後、明治政府は遺体の埋葬を許さず、暫く放置されていたといいます。
白虎隊士の遺体は、密かに飯盛山麓に御座います妙国寺に埋葬されておりました。
この飯盛山に葬る事が許されたのは、もっと後の事なので御座いました。

白虎隊士の御墓傍には、その悲しい最期を知った松平容保様が詠まれた弔歌碑が建立されておりました。
“幾人の 涙はいしに そそぐとも その名は世々に 朽ちじとぞ思う”
その他、山中にはイタリアから寄贈された記念柱、歌碑等、数々の石碑が建てられておりました。
自刃の地付近は一般の方々の墓地となっているようで御座いますが、白虎隊の精神に憧れ、近くに眠る事を望まれた方々の御墓もあるという事で御座います。



戊辰戦争…特に、会津戊辰戦争と呼ばれる会津藩と旧幕府勢力が新政府軍との間に繰り広げた一連の戦では、実に数多くの尊い生命が失われる結果となりました。
それは、戦場に出る者だけで無く、武家の者として御屋敷を護る女性や子供にも……。
こちらは、鶴ヶ城大手通の道路脇に御座います、西郷邸跡。
会津藩の御家老 西郷頼母近悳様も邸宅跡地で御座います。
西郷頼母様は、松平容保様が京都守護職に就かれる事に強く反対をなさった御方…後世では、時勢を冷静に見抜く事の出来る有能な人物であったと伝えられております。
新政府軍との争いを避ける道を唱えられますが、殆ど耳を傾けられる事無く、戊辰戦争では白河口の総督として出陣なさっておられます。
会津が落城の後は、土方歳三さん等と合流して函館戦争にも参加されました。
戦後は、日光東照宮の宮司となられた容保様の御傍で、禰宜として奉職。
晩年は会津の裏長屋にて余生を送られております。
頼母様の御邸跡に、今このような石碑が建てられ、御花が備えられている理由――それは、会津城下に新政府軍が乱入した慶応4年8月23日(1868年10月8日)に起こった悲劇の1つによるもので御座います。
この日は、白虎隊の悲劇の日としても知られておりますが…戦が生んだ悲しい結末は、それだけでは御座いません。
西郷頼母様の御一族は、御城から発せられた総篭の篭城命令を受けて、女子供が入城すれば篭城戦の足手纏いになるとして、集団自決の道を選びました。
頼母様の御母様、奥方様、妹様方に娘様方、それから御親類の方々…幼い御子様方をも含む総勢21名の方々が、壮絶な最期を遂げられたので御座います。
西郷邸跡
会津藩家老 西郷頼母の屋敷跡である。
戊辰の役は数多くの悲劇を生んだ。
戦役が悪化し西軍が城下に殺到して籠城を知らせる早鐘が鳴ると家老の西郷頼母は急遽城に入った。
妻 千重子は、夫を送り出した後、家を清め、はやこれまでと 三女 田鶴子(九才) 四女 常磐子(四才) 五女 季子(二才)を刺し、一族二十一人それぞれ辞世の歌を詠み自刃した。
なよ竹の風にまかする身ながらも
たまわぬ節はありとこそきけ
なお、一族二十一人の墓は、鶴ヶ城東南、門田町北青木善龍寺にあって毎年五月その霊を弔う「なよ竹祭」がしめやかに行われている。
昭和五十九年六月 会津若松市 / 会津若松ロータリークラブ

戦後、身近な愛しい御一族の方々を失われた頼母様の御心は、如何なるものであったので御座いましょうか。
会津のこの戦では、西郷様の御一族、白虎隊の他にも、“女白虎隊”と称される娘子軍の事等……会津の方々は、藩士であろうと一般庶民であろうと、会津の為にと精一杯の抵抗をし、その命を投げ出されたので御座いました。
これが、会津藩が それまで築き上げてきた武士道の精神…私は、会津藩の行われた教育や その精神は、大変素晴らしいものであったと思っております。
ただ…護るべきものの為、本当に護るべきが何であったのかという事を………、…今ならば訂正する事が出来るのに…と 思う気持ちも、自分の内には存在致しております。
白虎隊について調べている時、戊辰戦争の教訓が もっと しっかり活かされていれば、第二次世界大戦やヒロシマナガサキの悲劇は避けられたのでは無いか、という御言葉と出会いました。
同感で御座いました。
私に言わせれば、幕末の戦等は つい最近の出来事ばかり…学ぶ事は、本当に多く御座います。
戦争が起こる事で得をする人が居て、戦争に勝つ事で遥かに優位な地位に立つ事の出来る人達が居るという事は、世の常といってしまえば それまでの事で御座いますが、その途で息絶えて行く多数の兵や、巻き添えをくって犠牲となる多数の民衆も、同じ人間。
身分云々の御話では無く、人間対人間という次元から物事を見直す事も大切なのでは…と思えてなりません。
頼母様の邸跡は鶴ヶ城の直ぐ御近くで御座いますが、北青木の善龍寺さんには、その御墓と奈与竹の碑が御座います。
また、頼母様の御邸宅は、会津武家屋敷に復元されており、御人形による自決場面の再現も行われているとの事で御座います。
今回の若松旅行では、残念ながら武家屋敷を訪れる事が出来ませんでしたので、次回は是非とも立ち寄らせていただきたいと思っております。
* * * * * * * *

鶴ヶ城を訪れた後は、花春町に御座います、会津松平氏庭園 御薬園へと向かいました。
単純な脳味噌の持主な私は、“会津松平氏”と書いてあるものを見る度に、
「あいづまつ…平氏!??」
と愚かな早とちりを繰り返してしまい…己の学習能力の無さを痛感するばかりで御座いました;
というか、かなり重症な病気なので御座いますねー…あはは。

御薬園は、歴代 会津藩主の別荘として使用されていた庭園で御座いました。
2代目藩主 保科正経様が、こちらで薬草の栽培を始められ、3代目の正容様が朝鮮人参を試植された事から、“御薬園”と呼ばれるようになったそうで御座います。
園内には、現在も400種類もの薬草が植えられているという事で、大変見応えが御座いました。
美しい回遊式の庭園は借景園と呼ばれ、各種薬草を栽培する薬草園が御薬園の由来となっているようで御座います。
昭和11年には与謝野晶子さんも訪れられ、
“秋風に 荷葉うらがれ 香を放つ
おん薬園の 池をめぐれば”
と詠まれたという事で御座います。
昭和7年には、国の名勝にも指定されました。
どうでも良い事なので御座いますが、うちの母は 御薬園に到着して、案内板に記されているローマ字を読むまでは、ずっと“みくすりえん”と呼んでおりました;
正しくは“おやくえん”…“えん”しか合っておりませんでしたね、母上…(笑)

御薬園のはじまりは、室町期に葦名盛久様が霊泉の湧く この地に別荘を建てられた事によると伝えられております。
幕末では、鳥羽、伏見の戦いを経て帰国された容保様は、御城に入らずに この地で生活なさっていた事もあるのだとか…。
四季折々の花が咲き誇る この御薬園では、こちらでしか味わえない秘伝の薬草茶をいただく事が出来ます〜。
売店でも試飲させていただく事が出来、私は冷え性に良いという御茶を母に買って貰いました。
超低血圧な私には、これからの時期は毎朝が試練で御座います…(涙)
母に買って貰った この御茶を飲みつつ、頑張って春を待ちたい一心で御座います←気が早過ぎ。

心の字池に浮かぶ亀島には、楽寿亭という建物が御座いました。
こんな素敵な御部屋で御茶会を催してみたいなぁ〜等と思いつつ、説明を読んでおりましたら、どうやら約300年に建てられたという この建物も、戊辰戦争の記憶を持つ証言者のようで御座います。
対岸に御座います、御茶屋御殿は戊辰戦争当時は西軍傷病者の治療所として使用され、戦火を免れたといわれます。
然し、建物の柱や桟等には今も当時の刀痕が残っており、戦の生々しさを感じ取る事が出来ました。

御薬園の中には、朝日神社という小さな祠が御祀りされておりました。
こちらは、鶴ヶ城の前身である東黒川館を築かれた至徳年間(1384〜1386年)に、疫病で苦しむ ある農家の御方を、朝日保方様という白髪の御老人が鶴を見付けた霊泉の泉で介抱し、救って下さった事に感謝して建てられた神社なのだそうで御座います。
御祭神は、朝日保方翁なので御座いましょう。
600年の歳月を経た今も、こうして御薬園を見守っておられるという事に感動で御座います。




今回の会津若松旅行で源平史跡巡りを断念した私は、それならば予てより ずっと訪れてみたかった会津藩主 松平容保様、白虎隊、娘子軍、新選組の旧跡を巡って、勉強させていただこう!と思いました。
幸い、会津若松の観光は主に旧会津藩縁の地を中心に、赴きある城下町を巡れるようになっておりますので、乗合バス ハイカラさんに乗って、苦労無くまわる事が出来ました。
若松は、城下町。
飯盛山へ向かう前に、矢張り御城を訪れておかなくては…と思い、先ずは若松城を目指しました。
創作和菓子の御店 会津葵本店さんの傍に武士道の碑を見付け、その傍を通って大手門から若松城跡に入城致しました。

若松城は、一般的に他県民からは会津若松城と呼ばれておりますが、地元では今も鶴ヶ城と呼ばれております。
国指定の史跡としては、若松城跡という名称で登録されているようで御座いますね。
至徳元(1384)年、葦名直盛様が築かれた東黒川館…これが、若松城のはじまりといわれております。
はっきりとした事は分かりませんが、黒川城として整備が行われ、代々葦名氏の居城として存続していたようで御座います。
天正17(1589)年、伊達政宗様が葦名氏を滅ぼした事で黒川城は落城。
黒川城は政宗様のものとなりましたが、後に豊臣秀吉様に召し上げられております。
天正18(1590)年、秀吉様配下にあった蒲生氏郷様が黒川城に入城。
黒川を若松と改称し、城郭を改造、城下町を整備されました。
完成した御城は、鶴ヶ城と命名されております。
蒲生氏の後は、上杉景勝様が入城されますが、関ヶ原合戦にて徳川家康様に敵対した事から、再び蒲生氏の御城に戻りました。
が、その御嫡男は嗣子がいらっしゃらないまま没されてしまった為、蒲生秀行様の次男 忠知様が後嗣となり、伊予国松山に移封されました。
代わって、伊予の松山城より加藤嘉明様が入封されます。
その御子様の明成様は西出丸や北出丸を造築し、慶長16(1611)年の会津地震により倒壊した天守閣を層塔型に再建なさいました。
寛永20(1643)年、徳川家光様の弟 保科正之様が入城。
以後は、会津松平氏の居城として明治まで存続される事となります。
幕末の激動では、幕府方の中心的藩として奮戦をなさり、戊辰戦争では新政府軍と激しく戦われました。
1ヶ月にわたる籠城戦の後に降伏、御城は破損したままの状態で暫く放置されていたといわれます。
そして明治7年、新政府によって城郭建造物が取壊される事となりました。
若松城(鶴ヶ城)跡
南北朝の頃、葦名氏によって築かれた黒川城は、文禄元年(一五九二年)蒲生氏郷によって七層の天守閣を築き、城郭は甲州流の縄張りを用いて整備し黒川の名を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名した。
寛永十六年(一六三九年)加藤明成は七層の天守を五層とし、北馬出、西馬出を北出丸、西出丸に改築し現在の形態となった。
昭和九年(一九三四年)十二月若松城跡として文部省の史跡指定を受けた。

鶴ヶ城の敷地内には、鶴ヶ城稲荷神社という御稲荷様が御祀りされております。
鶴ヶ城が黒川城と呼ばれていた時分より、この地の守護神様として信仰される神社だそうで御座います。
御参道の石段両脇にいらっしゃる、数組の御狐様の親子に被せられた笠や赤い布が、とても可愛らしいな〜と微笑ましく思いながら、御挨拶をさせていただきました。
鶴ヶ城稲荷神社
この稲荷神社は約六百年前にお城ができた頃から守護神として祀られていました。
当時はこれより東手の三ノ丸にあったものを現在の地に移されたといわれています。
伝説によれば、築城の縄張りに苦心した葦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈ったところ、霊夢があり目覚めてみると降り積もった雪に狐の足跡があり、それをしるべとして築城の縄張りを決め、名城を築くことができたと伝えられています。
現在は養蚕国神社(会津若松市養蚕町)の管理で、元旦詣りや学業成就、商売繁盛、家内安全や交通安全祈願など広く人々の信仰を集めています。

現在の天守閣は、写真に残る かつての鶴ヶ城を元に、昭和40年に復元、建築されたもの。
とても綺麗な外観で御座いますので、母が
「えー、何じゃぁ〜…新しいんかぁ……」
と残念そうな声を上げておりましたが、うぅん…それを言うなら、広島城だって……。
近代に至って歴史的遺産が失われてしまうのは、本当に残念な事で御座いますね。
失われたものが全く同じ姿で戻る事は御座いませんが、それでも再建に至った事実や その背景に地域の方々の心を感じる事が出来るというのも、素晴らしい事だと思います。
鶴ヶ城の天守閣は、蒲生氏の時代に構築されたという野面積の石垣の上に建てられた、五重五階の天守閣。
平成16年4月には再建から38年ぶりに内部のリニューアルが行われ、現在は御城ミュージアムとして公開されております。

鶴ヶ城内部には、石垣から入城出来ます。
再現された塩蔵を経て1層へと上りますと、会津藩や鶴ヶ城の歴史に関する実物の資料を見て学ぶ事が出来ます。
2層に上がりますと、何と撮影可能なフロアとの事!
会津の年中行事や、江戸時代の会津の人々の暮らしについて、展示された民芸品や日新館シアター等で楽しく見聞する事が出来ました〜。

3層では、会津戊辰戦争の絵巻を見ながら、容保様や会津藩について考えます。
それから、白虎隊十九士の面影を 証言等に基づいて描かれたという肖像で見る事が出来るようになっておりました。
4層は、会津城下の四季と賑わいの体感ゾーン。
季節毎の城下の様子を、格子窓から見下ろす城下の町並と交互に楽しむ事が出来ます。
そして、最上階の5層は展望フロア。
城下に広がる会津の町を360度一望する事が出来ます。
容保様も、この景色を御覧になられておられたのかしら…等と思いつつ、飯盛山や天寧寺さんのある方へと想いを馳せて参りました。

天守閣から売店を通過して、更に奥へと進みますと、繋がった先にある南走長屋と干飯櫓に行く事が出来ます。
いただいたパンフレットによりますと、復元された南走長屋では定期的に白虎隊をイメージした舞踊が演じられるそうで御座います。

↑拝観出口の直ぐ手前にいらっしゃった、新選組な方々……何故 御写真が残っているにも関わらず、斉藤さんだけが美麗なイラストなのだろうかと大変疑問に思いました(笑)

本丸の東南隅には、滝廉太郎氏の作曲で有名な歌曲「荒城の月」の詩碑が建立されております。
荒城の月は音楽の教科書にも載っておりましたし、声楽でも歌っておりましたので、今でも良く御風呂場で歌っておりますし(笑)…私にとっては、とても馴染みの深い曲で御座います。
鶴ヶ城が、この御歌のモデルとなっている事は存じておりましたが、詩碑が存在する事は実際に訪れるまで知りませんでした。
荒城の月の作詞は、土井晩翠氏。
明治31年、晩翠氏28歳の頃に鶴ヶ城跡を訪れて詩材とし、仙台の青葉城でも稿を練られたのだという事で御座います。
ですので、鶴ヶ城以外にも青葉城と、それから滝廉太郎氏の故郷である大分県竹田城址にも、荒城の月碑は建立されていると伺っております。
荒城の月碑
名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは土井晩翠氏を招いた、音楽祭であきらかとなった。
時は昭和21年のことである。
翌年、有志により詩碑建設会が設立され、同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。
この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月1番〜4番までの歌詞が記されている。

こちらは 本丸内に再移築復元された、麟閣という御茶室。
千利休様の御子様 少庵様を匿った蒲生氏郷様の為に、少庵様が建てられたものと伝えられます。
御城取壊の際、城下の方が譲り受けて保存されてこられましたが、平成2年の市制90周年を記念して、この場所に再移築されたそうで御座います。
氏郷様が少庵様を御助けになられなかったら、現在の茶道は確立していなかったかもしれません。
こちらは、千家再興の地として知られており、普通では見られない表千家、裏千家、武者小路…各御家元の扁額が掲げられている大変貴重な御茶室となっております。
私も、裏千家茶道の心得を持つ者として、この場所を訪れる事が出来た事を嬉しく思いました。
茶室 麟閣[福島県指定重要文化財]
天承十九年 茶道の祖・千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ、死を命じられました。
その時の会津領主・蒲生氏郷が、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子 小庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に願い出ました。
その結果、小庵は京都に帰って千家を再興し、宗左、宗室、集守の三人の孫によって、表、裏、武者小路の三千家が興され、今日の茶道の基礎が築かれました。
この小庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷の為に造ったと伝えられています。
江戸時代の初期から中期にかけて現在の様式に改められたと考えられる茶室です。
戊辰戦争の後、城下へ移築されていましたが、平成二年に建造当初の地に移築・復元されました。

明治期に阿弥陀寺に移築され、現在は七日町通りの阿弥陀寺さんに現存する御三階は、元々こちらにあったもので御座いました。
台座部分だけが遺構として残されており、鶴ヶ城へ来る前に訪ねた阿弥陀寺さんで拝見した御三階の姿を思い浮かべ、頭の中で元あった御姿を想像してみました。
気が付けば、周辺には様々な建物の礎石等の遺構が あちらこちらに見受けられ、今は広々とした公園にしか見えない城跡も、矢張り かつては立派な御城であったのだと…何処か寂しくも感じられました。

本丸から朱塗の廊下橋を渡ると、二ノ丸の跡地。
二ノ丸跡は、現在テニスコートとなっており、更に進んで三ノ丸跡には三の丸駐車場が整備されておりました。
三の丸駐車場の向かい側には、福島県立の博物館が御座います。
その直ぐ傍に御座いますのが、こちらの万葉歌碑。
会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば
偲びにせもと 紐結ばさね
この御歌は、万葉集 巻第14の相聞歌。
他2首と並んで、陸奥国の御歌として収録されております。
作者は、不明。
“会津の山の部落は遠い…、貴女とも もう逢えなくなってしまうのですね。
ならば、せめて思い出に偲ぶ事が出来るように、下紐を固く結んで下さい…”
遠く離れても、愛の絆は解けぬようにと…切ない願いと想いの込められた御歌で御座います。
この歌碑は、秩父宮勢津子妃の御筆で記されたものだそう、昭和51年にで建立されております。
近くには、容保様や その他 歴代藩主の方々が御手植えなさったという木を幾つか伺う事が出来ました。
会津嶺の國をさ遠み
逢はなはば偲びにせもと
紐むすばさね
萬葉集は日本の美と人の心の美しさを現わす代表的なものです。
この歌は作者不明で萬葉集巻十四の三四二六の東歌の一首で書は会津出身の秩父宮雍仁親王妃勢津子殿下の揮毫です。
萬葉集にみちのくの歌は少なく約七ヵ所十首で宮城県の一ヵ所二首をのぞけば他は福井県にあって貴重なものです。
石は赤城山産の小松石で棹石は高さ三メートル横一・五メートルです。
東北大学名誉教授扇畑忠雄氏はこの歌について次のように述べています。
この歌の意味は会津嶺のある国が遠くなるので逢わなくなったならばあなたを思い出すよすがにと思いますので私の下紐を結んで下さいというので磐梯山のそびえる会津地方から遠く旅立つ男がその出発に際して親しい女の人におくった民謡であろう。




会津若松市で、最も赴きある通り――七日町通り。
道幅は余り広く御座いませんが交通量は多く、また 情緒ある この通り上には様々な見所や資料館等が点在しておりますので、若松の観光名所のひとつとしても大変人気の場所で御座います。
私と母が宿泊したホテルは、この通りの直ぐ近くで御座いましたので、有名な七日町通りを散策してみよう〜という事になり、七日町通りを端から端…白木屋さんの手前から七日町駅まで歩いてみる事に致しました。
↑画像左側素敵な建物は、白木屋資料館。
白木屋さんは、300年前に創業した会津漆器の老舗で御座います。
大正2年に建築された現在の建物2階部分を会津塗資料館して公開されているそうで御座います。
そして、右側が七日町駅。
地名は“なのかまち”なのに、通りの名称や駅名は“なぬかまち”なので御座いますねー。
無人駅のようですが中には御洒落なカフェがあったり…と、こちらも人気スポットの1つのようで御座います。
レトロかつハイカラな駅舎前に停まっているのは、ハイカラさんという路線バス。
私と母は、このハイカラさんに乗って会津市内を観光させていただきました〜。
白木屋さんから七日町駅までの間には、他にも古代人の神秘を追及した心眼美望館さんや、末廣酒造嘉永蔵に世界各国の名機、珍品カメラを集結展示されている末廣クラシックカメラ博物館さん、大人から子供まで懐かしく新しく楽しめるという昭和なつかし館さん、それから若松の基礎を築かれた蒲生氏郷様の資料館 レオ氏郷南蛮館さん等が立並んでおります。

七日町通りに繰り出した私が、最初に目を留めて立ち止まったのが、こちらの盛篭屋さん…?
看板に“高級果実盛篭”と記されているのを見て、ついつい“実盛篭!?”と読んでしまった私は矢張り重症な源平マニアなのだと自覚を致しました(笑)
こちらのショーウィンドウの中には、何処かの墓地の御写真が額に入れて飾られており…。
何だろう?と思って覗いてみましたら、
“新選組 近藤 勇 局長と当家物江家は、お隣同士です
エッ?天寧寺のお墓が……ほらネッ!”
と手書で記されたものが御傍に置かれておりました〜。
成程!素敵な御縁で御座いますね。
天寧寺さんの近藤勇さんの御墓には、この翌日に御参りさせていただきましたので、また改めて記させていただきたいと思います。

盛篭屋さんから少し歩いて、白木屋さんの斜め向かい辺りに御座いますのが、清水屋旅館跡の石碑。
現在は銀行になっておりますが、かつては高級旅館だったようで御座います。
こちらには、新選組副長 土方歳三さんが御滞在なさったとの事で…!
宇都宮城の攻防戦で足を負傷された土方さんは、こちらに宿泊されて治療に励まれたのだそうで御座います。
土方さんの他、こちらには吉田松陰先生も御宿泊された事があるそうで、図々しくも とても親近感を覚えてしまいました。
私は普段、歴史上の方々を様付けで呼ぶ事が殆どで御座いますが(そうでない御方もいらっしゃいますけれど…)、幕末の方々に対しては何故か さん付けが多いよねと指摘される事が御座います;
これは、えーっと…アレで御座いますね…あの有名な作家さんの、あの有名な作品等の影響が強かったのでは無いかなぁと…(苦笑)
まちに歴史あり
〜歴史の舞台・清水屋旅館跡〜
この場所には吉田松陰、土方歳三など多くの歴史的人物が訪れた「清水屋」という旅館がありました。
幕末の志士たちに大きな影響を与えた吉田松陰は嘉永5年(一八五二)22歳の時に東北各地を歴訪する大旅行をしています。
中でも会津藩には特に強い関心を示し、二度にわたって訪れ、多くの人々と会い見聞を広めています。
松陰の旅の記録「東北遊日記」に記された七日町の宿がここ「清水屋」でした。
松陰が会津を去ってから16年後に戊辰戦争がおこります。
会津と運命を共にした新撰組副長・土方歳三は宇都宮城の攻防で足を負傷し、会津田島を経て「清水屋」に運び込まれ治療を受けています。
土方はその後、函館五稜郭まで転戦し西軍と徹底的に戦い続けたのです。
明治15年には「清水屋事件」が起こります。
喜多方出身の自由民権運動家・宇田成一らが帝政党員に襲われ重症を負います。
宇田成一はこの後、国事犯として捕らえられますが、明治25年には復権し県会議員に当選、最後まで自由党を守り通しました。
木造三階建ての純日本旅館清水屋は、幕末から明治・大正にわたって会津の歴史を見つめ続け、昭和初年に惜しまれながら取り壊されました。
会津若松観光協会

こちらは、常光寺さん という御寺さん。
□ 常光寺(じょうこうじ) □
所在地:福島県会津若松市七日町
御創建:慶雲3(706)年
御開基:不詳
山 号:妙音山?
宗 派:律宗→天台宗
御本尊:阿弥陀如来
常光寺さんは、平安期以前の建立と伝わる古刹。
御開基について詳しい事は分かっておりませんが、元々は律宗寺院であったのを元和9(1623)年に天台宗に改められたようで御座います。
幾度の火災による焼失、再建を繰り返されておりますが、古くから人々に親しまれる御寺さんであったようで御座います。
御本尊は、阿弥陀如来。
本堂に御祀りされる御本尊の右脇には、福満虚空蔵尊が安置されております。
この虚空蔵尊は、会津藩初代藩主 加藤嘉明様の守本尊であったもの。
延壽寺という御寺の護摩堂に御本尊として安置された後、松平氏の時代には城内に安置されて歴代藩主によって信仰されていたそうで御座いますが、松平容保様が京都守護職であられた御時、病床の夢枕に虚空蔵菩薩が現れて、七日町の常光寺に遷座せよとの御告げを受けられたといわれており、それに従ったところ、容保様の病気が治ったと伝えられております。
境内には古峯神社が御祀りされておりました。
古峯神社は、農業、火防の神様として信仰されており、以前は真船酒店さんと横山自転車店さんの間に御鎮座なさっておられたようで御座いますが、真船酒店さんの改築に伴い、現在地に遷されたのだそうで御座います。
そして、常光寺さんで有名なのが、めぐり会い観音堂。
御縁起によりますと、家出した子供を捜して若松を尋ねられた宇治の茶造商人の方が、こちらへ立ち寄った際に出された御茶の味が、御自身の御茶と同じ味であられた事から、親子の再会を果たされたという伝説があるそうで、その運命的な巡り合わせが観音様の御利益であるとして建立されたのが、めぐり会い観音様の御堂という事で御座います。
「めぐり会い観音のある古刹 常光寺」
常光寺は慶雲3年(七〇六)律宗の寺として建立された大変古いお寺です。
江戸時代初期に会津高田に生まれた名僧、徳川幕府の「黒衣の宰相」と言われた天海から、免許状が与えられ、天台宗に改宗しました。
常光寺の境内は古くから城下の人々に開放されていました。
寛政3年(一七九一)には境内に城下初の劇場人形座が建設され、藩校日新館の生徒も見物を許されました。
その後も見世物小屋や相撲、サーカスなどが開かれ、夏には盆踊りも行われて大勢の人でにぎわいました。
境内には町回り三十三観音の32番札所「めぐりあい観音」のお堂があります。
「参るより 常の光をたのむかな
二世をかけて 祈る身なれば」

そして、七日町駅の斜め向かいに御座いますのが、阿弥陀寺さん。
□ 阿弥陀寺(あみだじ) □
所在地:福島県会津若松市七日町
御創建:慶長8(1603)年
御開基:良然
山 号:正覚山
宗 派:浄土宗知恩院派
御本尊:阿弥陀如来
阿弥陀寺さんは下野国真壁郡大沢円通寺の末寺として、慶長8(1603)年 安積郡郡山の善導寺住職であった良然上人によって開山された御寺さん。
良然上人は、若松の東山温泉で湯治をなさっていたようで御座いますが、この時に蒲生秀行様の家臣 倉垣修理様が開山を依頼されたのだそうで御座います。
以後、浄土門研修道場として栄え、城下でも有数の大寺院に発展されましたが、正保2(1645)年の大火災で堂宇の全てを焼失。
更に、それに追撃ちをかけるような火災に遭い、幕末の頃には復興も困難な状態であったようで御座います。
戊辰戦争後の明治3年、鶴ヶ城御三階が移設され、これを仮本堂として使用されたといいます。
その後、浄土宗開宗800年記念の際に改築、堂宇が建立され、現在に至っております。
現在も、御本殿の脇に存在する御三階。
外観は3階建の建物に見えますが、内部は4層になっているそうで、ここで密会等が行われた事もあるといわれております。
「戊辰戦争の悲しみを残す 阿弥陀寺」
阿弥陀寺は慶長8年(一六〇三)蒲生秀行の時代、下野国に生まれた良然が開山しました。
明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。
幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には千三百柱にものぼる遺骸が埋葬されました。
春・秋の彼岸には手厚い供養会が行われています。
境内南にある「御三階」は元は鶴ヶ城本丸内にあったもので、明治3年に移築され本堂として使用されました。
内部は4層で、秘密の会議が行われたと言われます。
阿弥陀寺の入口に写真のように大仏様がありましたが、太平洋戦争で供出され、今では台座が残るだけです。

阿弥陀寺さんには、戊辰戦争で亡くなられた会津藩士戦死者の内、1281名の御遺体が埋葬されております。
戊辰戦争の後、長い間 放置されたままであったという、会津藩戦死者の方々の亡骸。
それを埋葬する事が許されたのは、こちらと長命寺に限っての事であったと伝えられております。
はじめ、“殉難之霊”と記された墓標が立てられておりましたが、これを新政府側に咎められて撤去、“戦士墓”として暫くの間、弔われていたようで御座います。
現在の墓標、明治6年に建立されたもので、“明治戊辰戦役殉難者墓”と刻まれております。

それから…阿弥陀寺さんには、新選組 三番隊隊長である斉藤一さんの御墓も御座います。
これは、その生涯の半生を会津と共に歩んだ御本人の御希望によるものであると伝えられております。
新選組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓
斉藤一は、1844年(弘文元年)御家人の父、山口祐助・母マスとの間に生まれた。
初名を山口一、のち斉藤一に改めた。
1863年(文久三年)壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。
池田屋事件にも参戦。
その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新選組に復帰し山口二郎と改名。
鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。
しかし西軍が城下に迫った時、
「会津候(松平容保)あっての新選組、会津を見捨てることは出来ない」
と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れた。
会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。
明治三年斗南へ移る際藤田五郎と改名、その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚。
警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍。
その後東京教育博物館等へ奉職し、1945年(大正四年)七二歳で逝去。
後半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に眠っている。



会津若松で宿泊したホテルの近くに、熊野神社が御祀りされてありました。
民家や商店の並びに静かに佇まれる、とても小さな神社では御座いましたが、何と無く 雰囲気が好きだなぁと思いつつ、御挨拶をさせていただきました。

□ 熊野神社(くまのじんじゃ) □
所在地:福島県会津若松市大町
御創祀:不詳
御祭神:伊奘冉尊、伊奘冉尊
会津の伝統的文化の1つに、“お日市”と呼ばれる祭礼が御座います。
お日市とは、古いものは約400年の歴史があるという、各町内で行われてきた産土神、神社、仏閣の夏の御祭の事。
祭礼日に“その日限りの市”を開いた事から、祭礼、縁日の事を お日市と呼ぶようになったそうで御座います。
昭和30年代頃までは盛大に執り行われていたという お日市で御座いますが、時代と経済の発展と共に荒廃気味になっていったといいます。
然し、会津の大切な文化遺産である お日市を各町内で復活させようという動きが近年になって盛んになって来られたのだとか…!
地域の方々によって受け継がれた お日市は全部で45、現在 毎年7月1日から9月8日にかけて各地で開かれるそうで御座います。
会津若松市役所さん発行の、若松市内のお日市の場所と日程を纏めた“会津若松 お日市まっぷ”を駅の観光案内所でいただいていたのですが、その中には この熊野神社の お日市の事も記されておりました。
熊野神社の お日市は、7月24日。
以前は7月18日に行われていたようで御座いますが、現在は延命地蔵尊と合わせて執り行われるようになって、その俗称を“大町夏祭り”と呼ばれているそうで御座います。
御社前の通りが歩行者天国となり、露店が出店される中、子供神輿や子供祭囃子で賑わうようで御座います。
御利益は町内安全、家内安全、身体堅固との事で…大町の、産土神様なので御座いましょう。
時間の都合により、殆ど何も調べられなかったのが心残りで御座います…;
今回利用させていただいたホテルが とても快適で御座いましたので、次に若松を訪れる際にも是非利用させていただきたいなと思っており…その折には、また こちらにも御参りしたいと思っております。
その時には御祭神や御由緒等、もう少し詳しく調べて参りたいとも思います。

町中の通りに面した場所に御祀りされていらっしゃる神社で御座いましたが、境内には吃驚する程 大きな蜘蛛の巣が掛かっていたり、御参道脇は少々荒れた草叢になっていたり…という感じで御座いました。
最近は神社の存続も大変な問題と耳に致しますし、土地故の事情も御有りでしょうから、私のような余所者が口を挟むべき事では無いのですけれど、余所者からしれみれば こんなに良い場所であるからこそ、少し勿体無いかなぁー…という気持ちも否めませんでした;




今月はじめ、母と旅して参りました 会津若松。
あ…会津は今日から、会津まつりが行われているので御座いますね〜。。
↑若松市内で度々見掛けました、この元気なポーズは何かの象徴?なので御座いましょうか。
この御人形さんの前を何往復もし、会津まつりのポスターも あちらこちらで拝見しておりましたので、私の中では すっかり会津=逞しいという印象が根付いてしまいました(笑)

会津といえば、赤べこさん!
“赤べこ”は、会津地方に伝わる伝統的な張子人形。
赤い体は魔避けになるといわれており、“べこ”とは方言で御馬さんの意なのだそうで御座います。
会津のマスコット“あかべぇ”は、JRのポスターや冊子等にも良く登場しておりますね♪
そして、会津といえば、“ならぬことは、ならぬものです”
教育に力を注いだ会津藩の事は以前から大変興味深く思っており、会津を訪れる際には会津藩の旧跡や日新館等へも足を運べたら良いなぁと予てより思っておりました。
私も、一時は幕末に心を移した身(※浮気です;)……松平容保様、新選組、白虎隊…と、会津には私の浮気心を揺さぶる史跡、史料館等が沢山沢山御座います///
時間や移動手段の制約から、それら全てを今回巡って来られたという訳では御座いませんが、折角なので今週は 大まかにはなりますが、若松で訪れた幕末史跡についても記しておこうかなと思っております。
その前に……本日は、更に近代の――野口英世氏の旧跡を母と幾つかまわって参りましたので、そちらについて…。

実は、宿泊したホテルは七日町通りに程近い、野口英世通り沿いに御座いました。
私は小さい頃から本が好きな子供で御座いましたので、母は色々と 為になるような本を選んで私に与えてくれておりまして…伝記『野口英世』も、その内の1冊で御座いました。
母は本が嫌いで無いと言いつつも、中々1冊の本を読み終える事が出来ない人で御座いまして(苦笑)…野口英世氏に関する事は、大分前に放送された映画や再現ドラマ等で学んだようで御座います。
当初は、野口氏関連地を巡る予定は無かったので御座いますが、ホテルに向かう途中に 自分達が今歩いている通りの名が野口氏に肖ったものである事に気付いた母が、急に 行ってみたいと申しましたので、何処かへ行くよりも前にホテル近辺を散策し、野口英世青春館を訪ねてみようという事になりました。

野口英世青春館は、かつて野口氏が左手の手術を受けた会陽医院跡の2階に御座います。
1階は、とても素敵な喫茶店になっており、喫茶店の方に入場料を御支払いして2階に上がらせていただきました。
野口氏は青春時代を、会陽医院で書生として過ごされ、勉学に励まれたという事で…こちらには、野口氏に関する様々な資料が展示されておりました。
とても落ち着いた造りに和洋折衷の雰囲気が漂う御部屋の中、置かれた文机や椅子等からは、今でも野口氏の温もりが残されているようにも思えます。

館内には、沢山の書籍や写真等、野口氏の記憶が今も留まっていそうな資料が多く展示されておりました。
現在の千円札の“顔”となっている、あの御写真も御座いましたよ〜!
宇治の平等院 鳳凰堂で十円玉を取り出すのと同じような感覚で、千円札を出してみようとしてみましたが、その時の私の財布の中には千円札は入っておりませんでした…何を浮かれているので御座いましょうか(呆…)

青春館を出て、更に少し歩きますと、野口英世通りの終点辺りに野口英世青春広場という公園が御座いました。
こちらには、野口氏の銅像が建立されております。
この像は以前、市内中央公民館前にあったそうで御座いますが、広場の建設に際して移築されたのだそうで御座います。
野口博士より父と呼んでいた恩師
小林 栄氏宛の手紙より
生物には死生の境なく人生には幸不幸の別れ目もなく富めるものは必ずしも幸ならず病めるものも人知らざる楽境に入るを得べく色々と世の中を見渡せば無境無我に入り申候
人生の目的も何れにあるやと時々疑わせ申候
四千年前に古人が賞せし名月は今日此頃客地より故山を忍ばする同一のお月様にて時の限りなき長きが如くにして短く短きが如くにして長きを感ぜしめ候
昭和二年五月十二日 深更 英世
故城なる 父上様膝下
碑文について(英文訳文)
博士野口英世-ロックフェラー医学研究所員
1876年(明治9年)11月9日 日本猪苗代に生る
1928年(昭和3年)5月21日アフリカ黄金海岸に死す。
科学と人生への献身の故に彼の生涯は喜んで黄熱病の征服の斗いの為に捧げられた。
この銅像は彼の親愛なる市民によって彼の偉大なる業績を記念し、かつ将来の若き世代の人々に彼の志範と激励とを要請すべく建立されたものである。
1957年

そして、こちらが嵐の大野君イチオシの(笑)、野口英世初恋の地で御座います〜。
えっと…今は何も無い空地にような状態なので御座いますけれど、こちらには かつて教会があり、野口氏は その教会で洗礼を受けておられます。
野口英世 洗礼(初恋)の地
明治44年に葵高校(旧会女)の前に移転するまでこの地(旧北小路35番地)に若松栄町教会があり、野口英世は洗礼を受けました。
当時 教会では外国人宣教師が英仏語を教えており、英世も熱心な塾生の一人で、初恋の人山内ヨネ子と出会ったのもこの教会でした。
初恋は実ることはなかったものの、出会いはその後も続くことになります。
英世の山内ヨネ子への初恋に想いをはせ、初恋の花言葉をもつライラックを植樹し、記念庭園とします。
平成16年夏 会津ふれあい通り大和町桂林寺町商店街
こんな事を申しては元も子も無いかなとは思うのですけれど、どんな偉人でも 実らなかった恋の事を こんなにも堂々と掲げられるのは、たとえ自分の死後であろうとも嬉しい事では無いのでは…;と私には思えてしまうのですけれど…わ、私だけで御座いましょうか;;

野口氏の生まれ故郷である福島県の猪苗代町には、野口英世記念館が御座います。
母は、そちらにも行ってみたいと申しておりましたが、若松からは距離が御座いましたので、今回は叶わず…。
また一緒に東北を旅する機会が出来たら、その時に立ち寄ってみたいなぁと思います。
その前に、東京の野口英世記念会館や横浜の野口英世資料館にも足を運んでおきたいところで御座いますね。



やって参りました、会津若松!
以前、若松旅行の手筈を整えていたにも関わらず、当日になって行けなくなってしまって以来…こうして改めて若松の地を初訪する この日を、どれだけ待ちわびた事で御座いましょう。
駅舎を出て最初に出逢った白虎隊士像を見て、あぁ…ついに、私は若松へ来たのだと心から感激を致しました。

白虎隊士像の斜め後ろには、会津若松の駅長さんになれる記念撮影用パネルが…!!
これは早速、トライするべきで御座いましょう〜と、母に立ってもらいました。
クラ駅長さんは御手が見えておりますが、それ以前に……何だかアレですね…まるで ハロ長官のような………;

さて…。
会津若松に到着した私が 先ず向かったのは、会津若松駅から5分程歩いた道路沿いに御座います、五郎兵衛飴総本舗という飴屋さん。
近くの電柱にも広告が載っておりましたが、五郎兵衛飴さんは なんと“創業800年”の飴屋さんなので御座います…!
800年前といえば平安末期――源平合戦期の頃の飴屋さんが若松に現存!?という事だけでも衝撃で御座いますが…更に驚く事に、なんとなんと五郎兵衛飴さんの宗祖は前九年の役際に源頼義様、義家様に随行されて下向して この地に土着された御方という事で…。
そして 平安末期、頼朝様に追われて落ちられる義経様主従御一行は、平泉へと向かわれる その途次に、こちらに飴を求めて立ち寄られたという伝承が、弁慶様直筆の証文と共に伝えられているのだそうで御座います。
ちなみに…源平争乱の頃、この会津地方を治められていたのは、奥州藤原氏であったと考えられております。
藤原秀衡様が陸奥守に就任された事により、会津地方は その支配下に組み込まれたものと思われます。
奥州藤原氏滅亡後の鎌倉時代には、葦名氏の祖である佐原義連様が頼朝様より会津の地を賜っており、そこに会津支配が始まったと伝えられております。
えぇと…若松に降り立った足で直行させていただいた五郎兵衛飴さんで御座いますが……、残念ながら御店は閉まっておりまして。
若松には2泊の予定で御座いましたので、滞在中には何としても!!と意気込んで、その日は そのまま宿泊先のホテルへと向かいました。
私にとって都合が良かったのは、五郎兵衛飴さんが若松駅とホテルの間に位置していた事で御座いました〜♪

そして、翌日。
今日こそは!と思って行ってみましたら、御店の前に にゃんこさんが〜


「にゃんさーん

」と馴れ馴れしく近付いて行きましたら、可愛らしく
「にゃぁ〜ん」
私に御声を掛けて下さいました

御店の中から繋がれた紐が、にゃんさんの首元に結わえられていたのですが、それが 更に可愛らしさを引き立てているようで、ついつい夢中になってしまいました(猫さんの繋ぎ飼いに安堵感を覚える謎な私…何処までも、心は現代人と掛け離れております;平安時代、猫は室内で繋いで飼う愛玩動物で御座いましたし…江戸時代に徳川15代将軍 綱吉様が生類憐れみの令で猫の繋ぎ飼いを禁止されるまで、猫は繋がれて飼われる事も多かったようで御座います)
動物が余り好きでない母は、私が にゃんさんと戯れようとするのを見て、
「御店、開いとるけど どうするん?」
と言うので、そうだ、先に御店で飴を買わせていただこうと思い、御店の中に入りました。
私がショーウィンドウに並ぶ飴の種類を選んでいると、ふと足に生暖かい感触が…。
「にゃぁー?」
見下ろすと、先程の にゃんさんが私の足元に すり寄って来てくれておりました///
本当に、可愛らしい看板猫さんで御座いますね


↑こちらが、私の購入させていただいた18個入りの五郎兵衛飴。
包装紙や箱に描かれた弁慶様に心が躍ります。
赤い包み紙を開くとオブラードに包まれた半固形の平たい飴が入っているのですが、そのまま食べる事が出来るので手が汚れる事も無く、固過ぎず柔らか過ぎずの感触が癖になりそうで御座いました。
御味も、素朴で本当に美味しいです。
御土産に持って行った職場でも大変好評で、また若松を訪れる際には必ず買わせていただきたいなぁと思っております。
母は、広島で留守番をしている祖父と祖母に、最中の五郎兵衛飴を買っておりました。
その他、水飴も御座いました。
ちなみに…最中や水飴は御座いませんが、こちらの五郎兵衛飴は若松駅の売店でも販売されておりました。
でも、御店の落ち着いた雰囲気や、種類や個数の幅が広いという面では、矢張り本舗さんで購入したいところで御座います。
“飴”というと、現在の感覚では御菓子として扱われている感じで御座いますが、元々は甘味料や薬として用いられるもので御座いました。
飴の歴史を遡ると、日本書紀に神武天皇が大和高尾で水無飴を作られた事が伺えますが……平安期になると、都では既に飴が売られていたという記録も御座います。
砂糖の無かった昔の日本で、飴は とても貴重な甘味で御座いました。

五郎兵衛飴の箱の中には、商品と一緒に3つ折の御由来記が入っておりました。
その表紙に描かれるのは葵の御紋、それから400年前に蒲生氏郷公より授与されたという飴屋組頭印板の図。
↑それから、弁慶様の証文の写しが印刷されておりました。
以下は、内面に記されていた文章を引用させていただいたもので御座います。
五郎兵衛飴のあらまし
昭和二十八年頃、当時“新平家物語”を執筆中の吉川英治先生より我家に伝わる武蔵坊弁慶自筆の賞状について問合せを受けてその問にお答した事があります。
この弁慶の賞状というのは源義経公が兄頼朝に京都を追われた“後の平泉落ち”の途次我が家に立寄り飴を所望された際、その代金の借証文として残したものと伝えられ、文治四年午四月二日と記録されています。
我が家の宗祖(系図書に依れば)前九年の役に「源頼義」八幡太郎義家に随い下向し土着したものとされ、飴錬を業としたのは治承年間と伝えられるが、これは別説もあり詳かではないが、弁慶の賞状を受けてからも凡そ八百年に及ぶもので、一寸、他に類を見ぬ伝統を有すものとして誇り得る事実でもあります。
その間、国主蒲生氏郷氏公より御用商として御判板と称する焼印の判板十二枚を賜り、続いて代々の国守諸公を経て会津藩主松平公の御用達を受けたまわり戊辰の際まで続いたもので、蒲生公、松平公共に我家の飴を携帯食糧の一部に供されたものと思われ、有名な白虎隊もこれを携行して戦いに臨んだことは史実に明らかで又殿中徒然のままに食されたと思われる殿中飴と称するものも現存して居ります。
明治以後は博覧会、共進会にも毎回表彰を受け、各宮家や著名人各位の御愛顧を賜って居り、正月、縁日、お日市等には欠さず店を張り商いを致して居りましたので広く庶民に親しまれ愛されている次第です。
五郎兵衛飴の原料は、会津産優良白糯米を麦芽糖化に依って製造するもので、現在、大半を占める澱粉飴と異り、滋養に富み、また品質良好で舌ざわりの良い事は医学的にも、また好食家各位にもすでに認められているものであります。
よろしく御試用の上尚御高評賜らん事御願い申上げます。
会津うまいもの会員 三十八代目 五郎兵衛
文治四年午四月二日々附源判官義経公兄頼朝ニ逐ハレ我奥州ニ下向ノ際郎党十数名ト共ニ長谷川家ニ立寄ラレ飴ヲ食シ其ノ味ヲ賞味セラレ郎党ト共ニ代価壱貫文ノ食費借用セラレ臣武蔵坊弁慶及臣亀井六郎ニ命ジ直筆ノ証文あり。
文治4年4月(1188年5月)といえば、義経様追討の宣旨が発せられた頃の事。
吾妻鏡によりますと、義経様主従は文治3年2月10日(1187年3月21日)には妻子を伴って平泉に身を寄せられたという事で御座いますが、その頃の義経様や弁慶様の確かな御動向の記録等は御座いませんので…。
この辺り、次回の会津旅行に向けて もう少し追及して調べてみたいと思います。

会津若松周辺には、こちらの他にも源頼義様や義家様、義経様 縁の伝承地が幾つか点在しております。
今回、そちらも巡りたいなと思ってはいたのですけれど、1ヶ所1ヶ所が とても離れている上に、想像以上に交通の便が無かった事と、母は普通に若松観光を望んでおりましたので、私は関東在住なのだから また機会を作って改めて来たら良いかと思い直す事に致しました。
次回は是非ともレンタカーを借りて、ひとりで黙々と史跡巡りに行きたいなと思っておりますが、気分的に若松は自転車で走りまわりたいなぁという感じで御座います。
その方が よっぽどエコで清々しそうなのですけれど、時間や距離の制限等を思うと難しいかもしれないかなとも思います(涙)



栃木県日光市――JR日光駅。
東京から日光へは東武線の方が早くて便利なのですけれど、母がJRで行きたいと申しましたので、宇都宮経由で のんびりとJR線で行く事に致しました。
実は前回の初日光もJRで参りましたので、私は東武線を利用した事が未だ1度も御座いません;
次回、訪れる機会があれば、その時は自宅から1度の乗換で行けますので東武線にも乗ってみたいと思っております〜。
日光でも、矢張り都内からの来訪者が良く利用する東武日光駅の方が主流になっているようで…バスのターミナルも、JR日光駅から徒歩3分程離れた東武日光駅前に御座います。
ただ、駅舎はJRの方が浪漫を感じられて好きで御座いますね〜。
JR日光駅は、明治23年開業の木造建築。
宇都宮産の大谷石という石を使って建てられているそうで御座います。
夜には綺麗にライトアップされていて、レトロかつハイカラな香りが漂う雰囲気が何とも素敵で御座います♪

日光に到着した時、駅のホームから駅長室が見えたのですが、その御隣に設けられていた貴賓室が特別公開中という事で…!
貴賓室は、大正天皇が日光を訪れられた時に休憩室として利用なさった、広さ約40平方メートル程のシャンデリアや大理石の暖炉、大正天皇が座った椅子等が今も置かれる御部屋なのだそうで御座います。
普段は一般公開されていないという事で、母と これは是非 拝見したいねと話していたので御座いますが、記念入場券を発行されていると記されておりましたので、では日光を発つ際に立ち寄らせていただこうという話になりまして……なのに、あろう事か 日光を発つ際に時間ギリギリに駅に到着してしまった為、結局 観る事が出来ませんでした…残念で御座います;;
後で知ったのですが、どうやらJR利用者は そのままで拝観出来たようで…もっと、良く確認しておけば良かったなぁと思います;
貴賓室には入れませんでしたが、日光に着いた時に改札外の2階に御座います、ホワイトルームに上らせていただきました。
ホワイトルームは、元々は1等客待合室として使用されていた御部屋なのだそうで、とても豪華な感じで御座いました。
丁度、日光の四季フォトコンテストの受賞作品を展示していらっしゃいました。

日光の春夏秋冬を、様々な角度から捉えられた素晴らしい作品から感じる事が出来て、何だか得をした気分で御座いました〜。
前回が冬で、今回が晩夏で御座いましたので、今度は春先か紅葉の頃に季節を感じに来たいなぁと思います。

ホワイトルームは、現在 アトリエやダンスホール、会議室等としても利用されているそうで御座います。
異国情緒溢れる窓際に立つと、何やら儚気な気分に浸りたくなってしまいます…(笑)

明日は、会津若松での事を記したいと思います〜。







