
寿永二年の秋の頃、鎌倉の兵衛佐頼朝は、八か国の侍たちを、みな鎌倉へ召し上せ、中門に出でさせ給ひて、侍たちに向つて仰せけるは、
「いかに方々、聞き給へ。そもそも、平家、頼朝が威勢に恐れてこそ、都をば落ちて候ふに、木曾の左馬頭義仲、十郎蔵人行家らが、高名顔に、関白にやならん、主上にや参らん、法皇にやならんと、天下をほしいままにふるまふことこそ、奇怪なれ。平家退治のさきに、義仲を退治せん。佐竹の冠者も、そのよしを申し、奥州の秀衡も、九郎冠者義経を上せんと申すなり。この十月の頃なるべし。勢を残さで連れ給へ。支度せよ」
とぞ仰せける。
侍たちは承り、
「かしこまる」
と申して、みな国々へと下られける。
折節、その頃、鎌倉殿に、唐糸の前と申して、御所方の女房あり。
これは、信濃国の木曾殿の侍に、手塚太郎光盛が女なり。
あまりに琵琶の上手なり、琴もすぐれてあればとて、十八の年、鎌倉へ召し上せ、管弦の座敷を預けらるるが、唐糸は、このよしを承り、情なのことどもや、木曾殿の御滅亡は親一門の滅亡なり、いかにもして、このことを木曾殿へ聞かせ奉らんとて、一間所へ忍び入り、文こまごまと書き、下人の男に持たせて、都へとてこそ上せらるる。 (御伽草紙“唐糸草子”による)
これは、室町期の物語集 御伽草紙に収録されている、唐糸草子という短編物語の冒頭部分。
この物語に登場される 唐糸様は手塚光盛様の娘様、そして 万寿様は その唐糸様の娘様…光盛様の御孫様という設定になっております。

□ 唐糸(からいと) □
生 年:永万2(1166)年頃?
没 年:不詳
父 :金刺光盛
母 :不詳
夫 :不詳
子 :万寿
本 名:不詳
唐糸様は、琵琶と琴の名手として知られていたようで御座います。
そもそも、実在されたか否かも定かでは御座いませんが、とりあえず ここでは それは置いておく事と致しまして。
18歳の頃に鎌倉に召し出されたという事で御座いますが…頼朝様が鎌倉に入られたのが治承4(1180)年の事で御座いますので、当然それ以降という事になりますね。
寿永2(1183)年の時点での御年齢は記されておりませんが、逆算致しますと永万2(1166)年から承安3(1173)年の頃に御生まれ…少なくとも、この時に22歳以上であるという事は無いと思います。
鎌倉へ来られた時には既に子持ちの身の上であられたようで御座いますが、もし治承4(1180)年 早々に鎌倉へ入られたと考えたとすると、18歳の時に9歳の御子様がいらっしゃるという計算になりますので…御出産は9〜10歳の頃という事に…;
それを考えると、それ以上御若かったと考えるのは厳しいように感じます。
作中で、娘の万寿様は4つの時に親と離れたと12〜13歳の御歳で仰っておられますが、もしも その時に唐糸様が鎌倉へ召されていたというのであれば、これは…もう、有り得ない御話だなぁという感じになってしまいます;;
この物語は、最初の頼朝様の台詞に伺える義経様の参陣の時期や佐竹隆義様の事等にも、ん…?と思わされますが、この他にも あれ?と思う部分が多く、あくまでも後世の創作なのだろうなぁという印象が強いので、余り深く考えてはいけないのかもしれません(苦笑)
義仲様の御命が狙われている事を知った唐糸様は、都へと密書を送り、頼朝様暗殺の為にと 義仲様より送られた“ちやくい”という脇差を受け取られました。
ちなみに義仲様、この時の御文に
「もしも頼朝の命を奪う事が出来たなら、そなたを私の妻にしてやろう」
等と書かれております……この物語、何故か唐糸様の夫については全く触れられておりません……;
然し、その脇差を梶原景時様に見付かってしまい、唐糸様は逃れようと必死に弁解をなされましたが、今は敵である木曾方武将の娘を傍に仕えさせる訳にもいかぬと、唐糸様は石牢へ閉じ込められてしまいました。

□ 万寿(まんじゅ) □
生 年:承安2(1172)年
没 年:不詳
父 :不詳
母 :唐糸
万寿様は、唐糸様の娘様。
今様が上手な美女であったようで御座います。
風の噂に御母様の事を伝え聞き、乳母 更科様と共に、鎌倉を目指して女性2人の長旅をなさいました。
鎌倉に到着すると、計画通りに御所への奉公を望んで政子様に面会され、とりあえずは侍従局様に御仕えするという事になりました。
その後、無事に母子の再会を果たされた唐糸様と万寿様で御座いましたが、見付かれば殺されると考え、秘かに忍んで通われるという日々を送られました。
ある時、頼朝様の御座敷に6本の松が生え、それが大変吉事であるとされた事から、この松を鎌倉山に移しかえる儀式において12人の美女を集められました。
その中には、平重衡様との関係が伝えられる千手様も選ばれておられます。
最期の1人として選ばれた万寿様は、見事に今様を謡い舞われ、頼朝様に絶賛されました。
頼朝様が褒美を取らすと言われると、万寿様は身分を明かして唐糸様の助命を請われます。
これによって、頼朝様は この親子を許し、国元の信濃へと送り帰されたという事で…唐糸草子は、万寿様の親孝行話として伝えられてきた御話で御座いました。

……画像を無視して、話を進めてしまいました。
実は、この唐糸草子の唐糸様と万寿様の供養塔が、長野県諏訪郡下諏訪町内の鎌倉街道上の何処かに存在するという情報が御座いまして…。
諏訪大社 下社 秋宮の御近くだという事で御座いましたので、行けるものなら是非とも行って御参りさせていただきたいと思いまして、秋宮の社務所にて神職さんに御聞き致しましたところ、資料等も少ないようで、場所も御存じ無い御様子だったのですけれど、なんと御一緒に尋ね歩いて下さいまして…!
観光案内板や歴史民俗資料館へ立ち寄り、付近に御住まいの方々に御尋ねしつつ、20分位歩いた頃、遂に供養塔に辿り着く事が出来ました。
とても御世話になりましたのに、御名前を御伺いするのを忘れてしまったので御座いますが…秋宮の神職さんは、供養塔までの道中、平家物語の木曾義仲様と斎藤実盛様の件や、唐糸草子について御話をして下さいました。
供養塔に到着し、確認されると、私達に ごゆっくりどうぞ、と告げられ、颯爽と下って行かれました。
私に着いて来て下さったドラさんも神職さんで御座いますので、諏訪大社は御忙しいところと思われますのに、大変御親切で驚いたと仰っておられました。
本当に、あの神職さんがいらっしゃらなければ辿り着く事は出来なかったと思います。
私の個人的な用件に貴重な時間を割いて下さって、本当に有難う御座いました。
神社で御質問をさせていただく事は御座いますが、こんなにも丁寧に対応していただいたのは生まれて初めての事で御座います…神社、神職さんによっては、迂闊な質問をして困らせてしまったり、怒られてしまう御方もいらっしゃったりで…私も甘え過ぎている節があるのかもしれません;
極力、事前に調べられる限りの事は調べてから行動したいと思っているのですが、どうしても時々先走って身体が動いてしまうのが、私の欠点で御座いますね…(長所でもあると信じたいのですが/笑)

この2基の五輪塔が、唐糸様と万寿様の供養塔と伝わります。
どちらが、どちらの供養塔かは分かりませんが、創作上の架空の人物と思われる唐糸様と万寿様が、鎌倉から諏訪へ戻った後に霞ヶ城の辺りに住まわれたという伝承が語り継がれているという事で御座います。
これは、その伝承に基づいて建立された五輪塔という事で…確かに、割と近世の頃に造られた塔のようで御座います。
唐糸と万寿姫 五輪供養塔
唐糸は手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手、十八歳の時鎌倉に召し出され、管弦の座敷をあずけられた。
源頼朝が義仲を討とうとしている計画を知り、父光盛に知らせた。
義仲は光盛を通して、頼朝の命をねらえと唐糸に短刀を送ってきた。
唐糸は、頼朝を討つ機会をうかがっていたが、湯屋でこの刀を見つけられ、捕えられ石牢に入れられた。
唐糸の一人娘の万寿姫は十二歳。
風の便りにこれを知り、鎌倉へ出て頼朝の館に仕えた。
鶴岡八幡宮で舞の奉納の機会を得た万寿姫は、目立って立派に踊り、頼朝からほうびをと言われた時、母唐糸の身代わりになりたいと願い出た。
驚いた頼朝も孝行に免じ許し、母子ともに信濃の国へ帰ることができた。
以上は、室町時代のお伽草子に書かれた物語であるが、唐糸と万寿姫は諏訪へ帰ったのち、霞ヶ城の一部に館をつくって暮らしたと伝えられている。
その言い伝えに基づいてここに五輪供養塔を祭った。

向かって左の五輪塔には水輪部分が抜けており、恐らくは天災等で崩れた際に失われてしまったのでは無いかと思われます。
地元の方々は、こちらの事を余り御存知無いようで御座いましたが、傍には案内板も立てられておりましたし、1円玉が沢山地輪部分に載せられておりましたので、鎌倉街道を散策される方々が主に御参りなさっていらっしゃるのかな…という感じで御座いました。

唐糸様、万寿様供養塔の少し手前には、小湯の上地区の山の神社が御祀りされておりました。
小さな御社で御座いましたが、ここから望む景色は 諏訪の何処で見た風景よりも綺麗だなぁと感じました。
そういえば、私は ここで
「わぁ!下諏訪の町並と、海が見える〜」
等と おかしな事を言ってしまったような……;
あれは、海では無く 諏訪湖で御座います…しっかり私!(苦笑)



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