
長野県諏訪郡下諏訪町――。
こちらは、JR下諏訪駅より徒歩5分程の場所に御座います、菅原町会館。
この敷地内に、金刺盛澄様が命の恩人である梶原景時様の御供養の為に建立されたといわれる梶原塚が伝えられております。
源平合戦期、鎌倉と諏訪の関係は非常に複雑なもので御座いました。
吾妻鏡によれば、元々は平家方であったという諏訪下宮の大祝 盛澄様。
然し、盛澄様、弟の手塚太郎光盛様は共に木曾義仲様を幼い頃より匿い、養育され、挙兵の後も付き従っておられます。
義仲様、光盛様亡き後、諏訪に戻られておられた盛澄様は、その後に鎌倉の源頼朝様に召し出されておりますが、遅参した事により処刑される事となり…そこを、頼朝様の側近であり、盛澄様の御身柄を預かられておられた景時様が上手く助命に結び付けられたので御座いました。
鎌倉幕府との関係
前田氏本「神氏系図」には、諏訪神氏すなわち大祝の始祖有員以下に十四代の欠失部分がある。
そしてその部分に、実にリアルな欠失の理由が書き留められている。
十七代大祝為仲は、職位前に源義家について、十二年も奥州の戦場にあって武勲をたてた。
前九年・後三年の両役である。
やがて時いたり、帰京して大祝に職位した。
ところが、後から帰路に立ちよった義家に強く上京をすすめられたのである。
もちろん、そこには論功と栄光が待っていたわけであろう。
しかし為仲には、すでに大祝のタブー、境を越えられないという絶対な枷があった。
が、父為信の諫止もきかず、為仲は敢然、人間の行動に出て義家に従った。
神の呪縛からとかれた人間の旅が続けられた。
そして美濃国莚田庄芝原宿で、為仲の人間の旅は終わった。
その夜、新羅三郎義光の手の者と為仲の従者とが、双六賽のことから大乱闘をはじめ、双方すくなくない死者をだした。
為仲はみずからその責を負って腹を切ってはてた。
「神氏系図」は、この悲劇をきっぱり偏所致神罰也といいきっている。
人間の知性は神の呪性に敗北したのである。
書類、系図、勅裁、相伝の証文のたぐいは、すべて為仲が舅の伊那馬太夫にあずけていったまま、その所在を失ってしまった。
これが欠失の理由であるといっている。
いろいろの論議もあるが、筆者は創作ではできぬ中世(寛治元年一〇八七)らしい現実性を、その説話から感じるのだが。……
それはそれとして、為仲以来諏訪神氏は、はげしく武士化していったようである。
上社の諏訪神氏も下社の金刺氏も、それから分かれた各地の諏訪氏も、強く源氏と結ぶようになった。
そして保元の乱。
さらに治承四年(一一八〇)には、源義仲の木曾挙兵について下社金刺、上社諏訪、千野の一族中の強力者は、あげてこれに馳せ参じた。
おなじ年、これに呼応するかのように頼朝から諏訪上・下社に、平井出、宮処、竜市、岡仁谷など、天竜川の水源の牧場地帯が寄進されている。
もちろん、これは源氏再興の先付手形であったろうが、いずれにしろ鎌倉幕府と諏訪神氏との結びつきは、いよいよ深まったわけである。
しかし、信濃源氏は木曾義仲と運命をともにし、手塚光盛、今井兼平、樋口兼光、千野光弘、ほか藤沢、根津などの勇将を失って一応壊滅することとなった。
一つの諏訪神社の危機であったわけである。
ところが、そのうちの一人、下社大祝金刺盛澄は御射山祭事のために、一人遠征軍の中から越前安保で引きかえしている。
そしてそのまま頼朝の傘下に入り、由来、鎌倉幕府と諏訪大社との、切っても切れない縁が生まれることになった。
文治五年(一一八九)のことである。
諏訪神は蘇生した。
( 「諏訪大社」 藤森栄一 氏 著)

文治三年八月十五日
十五日 癸未
鶴岡放生會也。
二品、御出。
參河守範頼、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等、扈従。
有流鏑馬射手五騎、各先渡馬場、次各射訖。
皆莫不中的。
其後、有珎事。
諏方大夫盛澄者、流鏑馬之藝窮依慣傳秀郷朝臣秘決也。
爰属平家、多年在京、連々交城南寺流鏑馬以下射藝訖。
仍參向關東事、頗延引之間、二品、有御氣色、日來爲囚人也。
而被斷罪者、流鏑馬一流、永可凌廢間、賢慮思食煩、渉旬月之處、今日俄被召出之、被仰可射流鏑馬之由、盛澄、申領状。
召賜御廐第一惡馬。
盛澄、欲令騎之刻、御厩舎人、密々告盛澄云、此御馬、於的前、必馳于右方也<云云>。
則出一的前、寄于右方、盛澄、爲生得達者、押直兮射之。
始終、無相違。
次以小土器、挾于五寸之串、三被立之。
盛澄、亦悉射畢。
次可可射件三箇串之由、重被仰出。
盛澄、承之、既雖思切生涯之運。
心中奉祈念諏方大明神、拜還瑞籬之砌、可仕靈神者。
只今垂擁護給、者然後、鏃於平<仁>捻廻<天>射之、五寸串、皆射切之。
觀者、莫不感二品御氣色、又快然、忽被仰厚免<云云>。
今日流鏑馬。
一番 射手 長江太郎義景、<的立、野三刑部烝、>盛綱、
二番 射手 伊津五郎信光、<的立、河勾七郎>政頼、
三番 射手 下河邊庄司行平、<的立勅使河原三郎>有直、
四番 射手 小山千法師丸、<的立、浅羽小三郎>行光、
五番 射手 三浦平六義村、<的立横地太郎>長重、 (吾妻鏡による)
文治3年8月15日(1187年9月18日)、鶴岡八幡宮にて行われた流鏑馬神事。
景時様の進言により、参加させられる事となった盛澄様には、最も悪い御馬が与えられました。
然し、景時様が手回しなさったのか、密かに馬屋の舎人が御馬の特徴を盛澄様に御教えされていたようで、癖のある御馬を見事に乗りこなした盛澄様は、全ての的、竿や細串までもを射落とされ、頼朝様を感嘆させられたという事で御座います。
諏訪の大祝は、生き神様も同様の意義を持たれる存在…元々 本来は、その神域の境を超える事すら許されなかった筈の御立場であったようで御座います。
そんな特別な神官だからこそ成せる技、これは まさに諏訪大明神の神技であるとして、神を処刑するような事を避け、盛澄様は罪を許され、帰国なさいました。
梶原塚と金刺盛澄
寿永二年(一一八三)の夏 下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と供に木曽義仲を助け平家追討中、下社御射山神事の為帰国した
義仲は平家を追い落し京に入り威権をほしいままにした為 頼朝は兵を派遣し義仲を攻め 義仲、光盛は粟津において討伐された。
義仲に最後まで従った盛澄は頼朝の関東参向の命をためらい その怒りにふれ捕えられ頼朝の重臣 梶原景時に断罪の為預けられていた。
文治三年(一一八七)八月 鶴岡八幡宮放生会の折かねてより盛澄の流鏑馬の妙技を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した
盛澄は癖馬をあてがわれたが景時の秘かなる助言で乗りこなし、すべての的をみごとに射落とし再三に及ぶ難技もみな射切った
これを見た頼朝は
「これぞ神技の故なり」
と感嘆し、金刺盛澄と部下六十余名は許されて帰国する事ができた。
正治二年(一二〇〇)一月梶原景時の死後 盛澄は、その人徳を尊び恩義に報いる為 諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て五、三の桐の太刀を納めた。
この南西百米先にあったが鉄道開通の折移転され以後菅原町により毎年九月に例祭が行われている

外側からは見えない、案内板の影に、梶原塚は御座いました。
何と無く想像していたものとは全く違う石碑に、少し違和感を覚えてしまいましたが…刻まれた文字が鮮明であった事を思うと、近代に改められたものでは無いかなという気も致します。
梶原塚は、景時様亡き後、その御最期を知った盛澄様が下宮上座堂の地に塚を建立されたものであると伝えられます。
そこには、五三の桐の太刀を納めて御祀りされたという事で御座いますが…その太刀について、現存するか否か等、詳しい事は分かりませんでした。
近代に至り、幾度かの移転を経て、現在に至っておられるという事で御座います。
“鎌倉絵巻”
金刺盛澄とその時代の武将
寿永二年(一一八三)の夏下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と共に木曾義仲を助け平家追討の途中、下社御射山神事のため急ぎ帰国して来た。
義仲は平家を追い落し京に入ったが、あまりにも威権をほしいままにしたために頼朝は兵を派遣して義仲を攻め、義仲は粟津で討伐され、手塚太郎光盛も義仲と共に討死にした。
盛澄の娘が義仲の側室であることから最後まで義仲に従った盛澄に対する憎しみが強い頼朝は盛澄に鎌倉への参向を命じたが、流鏑馬などの行事にかこつけて出頭が遅れ、怒った頼朝は彼を捕えて重臣の梶原景時に断罪のために預けた。
文治三年(一一八七)八月十五日鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬にかねてより盛澄の流鏑馬の妙技の死滅を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した。
盛澄は召し出されてその技を命じられ、癖馬をあてがわれたが舎人がひそかにこの馬の悪癖を教え、盛澄心得て見事にのりこなし、すべての的をみごとに射落とした。
更にその竿も、次いで出されたカワラも、更にそれをはさんだ串までも、しかもその串は上五寸ばかり切れて残寸法は皆同じ長さであったと言う。
頼朝もその非凡な妙技に
「人力の及ぶ所ではない。諏訪大明神の神職である盛澄、神の加護であり、神技である。」
と深く感嘆し、金刺盛澄と部下六十余名は許されて帰国する事が出来た
頼朝死亡後、有力御家人間の対立から景時は追放され正治二年(一二〇〇)一月駿河国狐崎の戦で敗死した。
これを知って盛澄は彼の人徳を尊び、その恩義に報いるために諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て、五三の桐の太刀を納めて祭ったと言う。
この祭は長らくすたれていたが明治十八年頃復活され、二十一、二年頃に「上座堂梶原塚」の碑を建てたが明治三十八年中央線開通にあたり駅構内から中学校下の旧公会所(現武川氏宅)に移り、更に昭和十六年公会所移転にともない現在位置に移った。
毎年九月に菅原町では盛大に例祭が行って来ている。
文責 菅原町町史編纂委員長 丸田 浩



