
広島の沿岸部では既に桜花は散り、みずみずしい新緑が萌え出でておりますが、つい先日訪れた県北部では未だ開花のときを待っている蕾を沢山目に致しましたので、1つ前の記事に続きまして桜の木に関する話題でも……。
私が“桜”という単語を聞く度、真っ先に脳裏に浮かぶのは、この御歌。
いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふここのえに 匂ひぬるかな
百人一首の内の1首で、伊勢大輔様が奈良から届いた八重桜を受け取る際に詠まれたと伝えられる御歌で御座いますね。
“古の奈良の都にあった八重桜が、今日この平安の都の宮中で美しく咲き薫っております”
この御歌については、桜を詠んだ御歌のひとつとして2008年5月2日の記事に記しましたが、そういえば昨年の春先に訪れた奈良で その“ナラノヤエザクラ”なる桜の木に出逢った事をふと思い出しまして、本日はその奈良の八重桜と、伊勢大輔様についても記してみようかなと思いました。
またしても咲いてないじゃないか…という写真で、大変申し訳御座いません;

□伊勢大輔(いせのたいふ、いせのおおすけ、いせのたゆう)□
生 年:不詳
没 年:不詳(康平3(1060)年以降)
父 :大中臣輔親
母 :不詳
夫 :高階成順
子 :康資王母、筑前乳母、源兼俊母
本 名:不詳
伊勢大輔様は平安時代中期を生きられた女性。
大中臣氏は神祇を司る御家で御座いますが、曾祖父 頼基様の御代より代々歌人として名を馳せられており、伊勢大輔様の御子様方もまた有名な歌人で御座いました。
中古三十六歌仙の御1方で御座いますね。
寛弘4〜5(1007〜1008)年頃、かの有名な藤原道長様の姫君である藤原彰子様の元で宮仕えを開始。
ここで、藤式部(紫式部)様や赤染衛門様と同じ時を過ごされておられます。
ちなみに和泉式部様は伊勢大輔様の後輩に当たります。
上記の御歌を詠まれたのは、伊勢大輔様が未だ新参の頃。
藤式部様より譲られた、奈良から届いた八重桜を受け取るという御役目の際に、藤原道長様の命に従って その場で詠まれ、賞賛された御歌と伝えられております。
高階成順様と御結婚の後は御子様にも恵まれ、更に晩年は白河天皇の傅育を司られたと伝えられております。
宮中での歌合等の出詠記録も幾つか残されておりますが、最後の記録が康保3(1060)年のものとなっており、その後の御消息については伝えられておりません。

こちらのナラノヤエザクラは、東大寺さんから駅方向へ帰る途中に道路脇で見掛けました。
↓通り掛かりに発見致しましたので正確な場所は覚えていなかったので、記憶を頼りにGoogleマップで辿ってみました。そうそう、県庁前で御座いました〜!
Googleマップへ
傍には“八重櫻古蹟”と刻まれた石碑と、その説明が記された碑が御座います。
奈良の八重桜
いにしへの奈良の都の 八重桜
けふ九重ににほひぬるかな
百人一首の中の一首、この歌の「八重桜」は奈良時代聖武天皇の御代に、春日の神体山である御蓋山から平城の宮へ、次いで興福寺の境内であったこの地へ移植された霊木と言われている。
また平安時代、一条天皇の御時にこの八重桜の一枝が献上され、伊勢大輔が詠んだのがこの歌である。
以来、奈良の名所の一つとして世人に親しまれてきたが、その後いつか荒廃してしまっていたのを大正十二年、「八重桜」が天然記念物に指定されたのを機会に、東大寺知足院内の純正種の若木を故地に移植、保護を加えて今日に至ったものである。
ちなみに、八重桜の花の蕾は紅、花は白、散り際は紅で色変りする。
珍しい貴重な名花木で奈良県の県花とされている。
昭和六十年一月 奈良県知事 上田繁潔書
私はてっきり、奈良で咲く八重桜だからこの木にそう名付けたのかな〜等と単純に思っておりましたが、ナラノヤエザクラという品種の桜なのだそうで御座います。失礼を致しました。
4月下旬〜5月上旬にかけて開花する八重桜という事で、きっと今はまだ蕾の準備中なので御座いましょうね〜。
* * *

↑桜な記事を…と思いつつも季節外れな画像ばかり使っておりますので、桜と娘の写真でも。
早いもので、もうすぐ5ヶ月になります。
何だか、どんどんオットコの子のような顔立ちになっているようで、女の子らしい御洋服を着せていても
「あら、男の子ね!」
と良く言われるようになりました……うむ。
不思議なもので、どんなにオットコらしくなろうが不細工な顔をしようが、子供というのは可愛く見えるものなので御座いますね〜。
ようやく首もしっかりと据わりましたので、親馬鹿フィルター全開で写真ばかり撮って暮らしております。
そして、早くも史跡・伝承地巡りに同行しておりますので“旅するアライグマ”なクラッカーさんと共に、“旅する赤ん坊”になりつつあります(笑)
* * * * * * * *
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今月初め、名古屋在住の心友 イカと共に御伊勢詣へ行って参りました〜。
その際、斎宮にも立ち寄り、前回愚かにも休館日に訪れて入る事が出来なかった いつきのみや歴史体験館で、念願の平安体験を堪能する事が出来まして♪
1つ前の記事でも、ここで体験させていただいた平安装束の写真を使用しておりますが…えっと、これは十二単では無く…小袿(こうちぎ)と呼ばれる装束で御座います〜。
その名の通り、丈の短い袿で御座いますね。
高位の貴族女性が上着として着用された高級品で、裳は付けません。
装束体験コーナーに置いてある衣装を羽織っているだけで御座いますので、下には洋服を着ております。
一瞬、着物で来れば良かったかなぁ〜…と思いましたけれど、近世以降の着物と平安装束は別物と言って良い位に違いが御座いますので、洋服で正解だったのかもしれません。
小袿は構造的には割と着物に近いのですけれど…それでも衣紋が抜けていたら、違和感があると思いますし(苦笑)
ちなみに、現在“十二単”と呼ばれているものは、当時“女房装束”と呼ばれていた装束の事で御座います。本当に12着しっかり重ねていた訳では御座いません〜。
歴史番組の再現VTRや時代劇、歴史漫画等を見ていると、えぇッ!?と思わされる事も結構多いのですが、十二単に白足袋を履いて渡殿を早足で歩く御姫様を見た時は、流石にギャグだ!と思ってテレビの前で大笑いをしてしまいました…すみません;
平安時代は長期で御座いましたので、前期、中期、後期、末期では その文化も様々に変化しております。
細かな時代考証になると本当に大変で御座いますし、費用も洒落にならない位に必要になってしまうものだと存じてはおりますが、メディアを通して世間の目に映す以上は、せ…せめて大きな括りでも平安時代の枠から出ない範囲で描いていただけたら…安心なのだけれどなぁ〜等と、図々しく考えてしまう事が時々御座います。。

雑仕女どうゝねは、姫様の御不在を狙って密かに貴族気分を堪能で御座います
(悪)「うわぁ〜ん、ヤバイよヤバイよ!超た〜のしぃ〜っ♪」
ハイテンションと呼べるテンションを通り超えて、異常なレベルでハッスルしまくりな私…。
何だか、もう…戻って来られないのでは無いかと自分でも疑わしくなる位に、深く深〜く酔い痴れておりました///
平日で良かったかも

現代人にしては長髪な方だと思いますけれど、この時代の女性としては かなりの短髪……。
この髪の短さでは、高貴な女性というには無理がありまくりで御座いましょう。
「姫は未だ成長途中、髪も伸ばし始めたばかりなのじゃ」とか、
「私はこれより仏門に入るのです…既に髪も下ろした、止めるでない!」とか、
意味不明かつ無理矢理な自分設定を強引に作って勝手に楽しんでおりましたが、雑仕女如きが このような悪戯をしてバレようものなら…と思うと、微妙に寒気も致します(役者肌?)

↑イカ御前が詠んだように記しておりますのは、新葉和歌集より祥子内親王様の御歌。
斎宮 歴史の道に立ち並ぶ歌碑の1つにも、この御歌が御座いました。
忘れめや 神の斎垣の 榊葉に
木綿かけそへし 雪の曙
“忘れるでしょうか…いいえ、忘れる事等 御座いません。
清らかな斎垣の榊葉の上に、まるで木綿を掛け添えたかのように雪が積もっていた、野宮の あの明け方の事を”
祥子内親王様は、後醍醐天皇の皇女。
和歌の上手であったと伝えられる御方で、斎宮に卜定されたのは元弘3(1333)年の事で御座いました。
…が、この頃の時代背景からも想像がつきますように世は乱れており、延元元(1336)年に野宮を退出。
群行が行われる事も無く、これ以降 斎宮制度も廃絶となってしまいました……。
つまり、祥子内親王様は最後の斎宮という事になりますね。
伊勢まで行く事は叶わなかったものの、そこに馳せられた想いは この御歌のように本当に清らかであったのでは無いかしらと思えてなりません。
詞書は“野宮より退下の後 雪をみて”で御座いました。

シャラランと黄昏ていらっしゃった麗しき公達にも、馴れ馴れしく近付く私…既に、呼称は“殿”になっておりましたが、時折“源氏の君”や“業平様”等と呼んでみたり、突然 敦盛様ーっ!!とガッツいてみたり?(笑)
殿は、
「こ…これ
女君が、そのように はしたなく振舞われるものでは無い
」と仰られて、目線をそらしてばかりで御座いましたが、
「まぁ、そんな他人行儀な…殿と私の間柄では御座いませぬか
」と、ちょっかいばかり出してしまいました。
こんなにも殿方に対して積極的な自分を、私は この時初めて知りました……
(病)
私とクラさんは、決して親子のような関係では無かった筈…なので御座いますけれど;
気が付けば、殿と私と この子が居れば…
という雰囲気に(何故)私の中の母性本能が目覚めた瞬間なので御座いましょうか、心は すっかり常盤御前で御座いました。
あら大変!そうしますと、この殿は源義朝様!!クラさんは牛若様…義経様は幼き頃は洗熊だったという事に〜!??い、いえいえ、もしかすると殿は平清盛様でクラさんは廊御方かもしれないわ!(…重症/本当に、色々と申し訳御座いません;;不治の病で御座います故、そっとしておいていただけますと幸いに御座います)

私達が充分に装束体験を満足し切った頃、麗しい女性2人が平安貴族の正装に変身なさっておられました。
男性役の方も実は綺麗な女性で御座いました〜。まるで宝塚のようで、麗しい事この上御座いませんね!
これは1日2組限定の予約制(先着順)で出来る有料の装束体験で、私達も実は秘かに狙っていたので御座いますが、到着した時点で既に予約は埋まっておりました;;
残念では御座いましたが、そんな…私のような数ならぬ身の者が、裳まで着用出来る等とは到底 夢にも思っておりませんでしたので、そんな憧れの平安カップルを間近で拝見出来ただけでも堪らなく幸せで御座いました〜。
直衣と女房装束の他、童女の装束である細長や汗衫、水干の体験も出来るそうで御座います。
あぁ私、出来る事ならや細長か汗衫、もしくは水干が着てみとう御座います…多分、大人用のものは無いと思いますけれど;

装束体験場の直ぐ傍には、平安の香りを体験出来る素敵コーナーが!!
私もイカも かなりの御香好きで御座いますので、ここでも2人してテンション高く、これ欲しい!あれ欲しい!と夢中になりました。
こちらでは、練香作りを体験出来る日もあるそうで…。
いいなぁ〜…やろうと思えば確か自宅でも調合可能だったと思いますけれど、この建物の中で作れると思うと、わくわく致しますね〜。

ショーケースの中には、雅楽器も展示されておりました。
私も雅楽をやっておりますので、琵琶も篳篥も近くで見せていただく機会が何度か御座いましたが、矢張り人様の大切な楽器を まじまじと観察するのは失礼かと思いますので、構造や細かい部分までは余り良く見た事が御座いませんでした。
それでも時々ちゃっかり写真撮らせていただいたりしておりますが…。
私の楽器は龍笛で御座いますが、実は以前から弦楽器への憧れも強く…雅楽器に限らず、西洋楽器のヴァイオリンやチェロ等にも堪らなく惹かれております(←日本にしか興味が無さそうと思われがちなのですが、実はクラシックも かなり好きです♪小さい頃はピアノを習っておりましたし、声楽でも日本歌曲と一緒にクラシックを歌っております。あ、でも世界史はサッパリ…;)
雅楽の琵琶や箏の音色も大好きで御座います。
雅楽の演奏会へ行く度に、楽琵琶を奏でる手の動きや、繊細で軽やかな箏の響きに痺れてしまっております〜。
1度でいいから、弦楽器に触れてみたい…と思う気持ちは御座いますが、私には花林さんがおりますから。欲張ってはいけませんよね☆
私は いつでも好奇心と探究心で行動してしまいがちで御座いますが、矢張り貫く所は貫いていきたいと思います。頑張らなくては。

館内では、双六や貝覆いで平安時代の遊びを体験する箏も出来ます〜!
とても有名な遊びでは御座いますが、どちらも初体験だった私。
元々 心は平安人で御座いましたが(笑)、更に雅な遊びを知る事が出来て、ちょっとだけ良い身分が与えられたような勘違い気分に浸る事が出来ました。
例えるなら、浦島太郎的な?……夢から醒めた後が恐ろしい事で御座います。
盤双六はサイコロの目の数によって駒を進めて行く遊びで、とても簡単で御座いますが、遊び方にも色々な方法が御座いました。
私達は、とりあえず初心者だし〜…という箏で、いちばん簡単な“つみかえ”という遊び方で楽しみました。
単調なので地味といえば地味ですが、それだけに分かりやすくて、やり始めると結構のめり込んでしまいます。
賭事の対象となって禁止令が出されたというのも、何だか頷ける気が致しました。
双六盤を見て私の中で真っ先に連想させられたのは、木曾義高様の事。
義高様は良く双六で遊ばれていたようで、鎌倉脱走の際にも海野幸氏様を代役に置いて双六を打たせたとか……。
義高様は、どのような御心境で いつも盤に向かわれておられたのだろうかと頭の何処かで思いながらも、この時の私は真剣にイカとの勝負に勝つ事を考えておりました。
例え相手が心友であろうと、勝負はいつも真剣でなくてはならぬもので御座います!(熱血タイプ)
貝覆いは、“貝合わせ”と勘違いされやすいもので御座いますねー。
貝合わせとは、それぞれが一対の美しい貝を持ち寄って、その優劣を競う遊びの事で御座います。
トランプの神経衰弱のように一対の貝を両方探し当てる遊びは、貝合わせでは無くて貝覆いと呼ばれ、時代も もう少し下った頃のものといわれております。
貝覆いの貝といえば、絵柄の鮮やかな豪華なもの〜という印象が御座いますが、こちらで体験出来る貝覆いの貝は、本当に普通の貝殻で御座います。
流石に対となる貝殻同士が分かるように、内側には番号シールが貼られておりましたが、勿論 実際には そのようなものが貼られている事は御座いませんので、これは難易度が高いなぁ…と苦戦しながら遊ばせていただきました。
また機会が御座いましたら、貝合わせと貝覆いについて細かく記したいと思っております。

その他、館内では葱華輦という斎王様が斎宮まで乗られた輿を復元したものがあり、実際に中に乗ってみる事も出来ました。
皇族の御方等、本当に高貴な方々しか乗る事の出来なかった輿に乗る事が出来るだなんて……凄い時代になった者で御座います(笑)
また、斎宮縁の様々な書籍、グッズ等も販売されておりまして、大変 興味深いものも幾つか御座いました。
私が真っ先にくらいついたのは、斎宮歴史博物館さんの特別企画展『ヒーロー伝説 -描き継がれる義経- 』のガイドブックで御座います。
三重近辺に伝わる義経様主従の伝承、伝承地等についても記されており、即決で購入させsていただきました。
もう1冊、気になって買わせていただいたのが、明和町発行の『斎王ロマン 都わすれの詩』という短冊のような縦長サイズの御本。
歴代斎王様の物語が綴られている冊子なので御座いますが、なんと作画されていらっしゃるのは あの里中満智子先生で御座いました!
とても綺麗で御美しいけれど、儚さを帯びた作品に心を奪われます。

館内でたっぷり満足させていただいた後は、屋外の体験コーナーへ行ってみる事に致しました。
体験館の中庭部分では、蹴鞠や毬杖を体験する事が出来ます。
靴箱へ行くと、浅沓を履いてみようという案内が!
実は浅沓は何度か履かせていただいた事が御座いますが、人目を憚らず自由に履いて動き回れる機会というのは滅多に御座いませんので、チャンスとばかりに靴と履き替えて庭へ駆け出しました〜。
浅沓は、平安貴族男性の一般的な履物で御座います。
堅くて痛そうな見た目で御座いますが、内側には絹地の布が張られており、甲の部分にはクッションのようなものが付けられているので、思ったよりは優しい感じで御座いましょうか。
踵を地面に置いてから 爪先を下ろして歩くと、上手に足を運ぶ事が出来ます…が、私には浅沓が大き過ぎ+重過ぎて、何度も引き摺ったり足を上げた時に落としてしまいました;

蹴鞠は、平安貴族に人気だった屋外での遊びで御座いますね〜。
サッカーでいうところのリフティングでパスを回して続けるというルールのようで御座います。
受付で体験用に誂えられたゴム製の鞠を御借りして、早速チャレンジしてみたのですが…自分でもガッカリする程、球技の才が無い私には難し過ぎる遊びで御座いました(苦笑)
鞠を蹴り上げようとして、何度もスカったり、一緒に履物を飛ばしてしまったり;;
歴史上には、時折“蹴鞠狂い”のような扱いで記録されている高貴な方々が存在致しますが……私の場合、先ず思い浮かべてしまうのが源頼家様。
頼家様は平安末期の御生まれでは御座いますが、鎌倉幕府の2代将軍で御座いますので、平安時代というよりも鎌倉時代の御方という感じで御座いますね;
頼家様の蹴鞠への没頭振りは、吾妻鏡を読んでいるだけでも妙にヒヤヒヤさせられるものが御座います…。
百日蹴鞠を行われたり、夢中になり過ぎて政子様に怒られたり;
建仁3年7月(1203年9月)、頼家様は急病で危篤状態にまで陥られておりますが、その つい2日目まで蹴鞠をなさっておられた事も伝えられております。
それだけ純粋に蹴鞠を楽しまれていた…とは、どうしても思えないのですけれど。

蹴鞠の次は毬杖〜!
平安時代の子供達が毬杖で楽しそうに遊んでいる姿は絵巻にも見られますね〜。
きっとゲートボールみたいなもの☆と簡単に考えていた私で御座いましたが、矢張り球技は(以下略)
何度もトライしておりますが、球に杖が当たった回数は ほぼ0回で御座いました…才能無さ過ぎで御座います…凹。
イカは、蹴鞠も毬杖姿も様になっておりました〜…ま、負けました。。
恐ろしく強風の吹く日で御座いましたので、ついつい色々と言い訳も致しましたが、負けは負けで御座いますね。

長々と感想なのだか妄想なのだか分からない記事になってしまいましたが…本当に、夢のような時間を過ごす事が出来て嬉しかったです。
こちらへ来ると自制心が利きませんので、ひとりでは危険だな…という感じで御座いますけれど、斎宮の地に眠る多くの謎や未だ訪れていない史跡等、今後も勉強させていただきたい事柄が沢山御座います。
伊勢には熊野詣のついでに良く立ち寄っておりますし、今後も屡々訪れる事と思いますので、また斎宮にも足を運びたいなぁと思っております。



京都府京都市。
堀川通北大路下ル西――北区紫野西御所田町に、小野篁様と藤式部(紫式部)様の墓所が御座います。
堀川通、北大路との交差点近い車道脇に さり気無く、然し堂々と入口が設けられております。
私は最初をここを通り掛った時、ひと目で気付きましたが、意外と素通りされてしまう方も多いのだとか……。

こちらでも、藤式部様は篁様の御傍に……同じ平安期の御方であっても、生きられた年代は違う御2人。
篁様の御開基と伝わる千本ゑんま堂にも藤式部様の供養塔があり、先日 御像も安置されましたが、矢張り直接的に現世での御2人は無関係で御座いました。
御2人の地獄での繋がりが考えられようになったのは、平安末期に至った頃であるといわれております。
嘘偽りの物語である源氏物語で人々を惑わせた罪の為に地獄に堕とされたと苦しみを訴える藤式部様が夢に現れた…そんな噂が広まり、その源氏物語を愛読していた方々が怖れて供養を試み、地獄の冥官であると言い伝えられる篁様ならば彼女を救済下さる事であろうというという考えから、篁様の隣に藤式部様の供養塔を建立したという説が御座います。
という事は、元々こちらは篁様の墓所として古くから伝えられていた場所だったのかもしれませんね。

墓所に入って手前に御座いますのが、篁様の御墓。
小さな墳の上に五輪塔が建立されており、その前に墓碑が建てられております。

こちらの五輪塔…パッと見た感じは平安期の五輪塔の特徴がうかがえるような感じ…なので御座いますがー…それにしては、随分と状態が良過ぎる…ような?
という疑問を抱いていたのですけれど、傍に建立されていた参議小野公塋域碑の内容から、矢張り これは近年に至って建立、整備された墓所である事が判明致しました。
長い間、野ざらしにされていた墓所は、随分な荒れようだったようで御座いますが、寛政年間(1789〜1801年)に秦氏の御方が“小野相公墳”と刻んだ道標碑を建立し、御参道を整えられたようで。
その後、明治初期に篁様の御子孫という横山政和氏が この場所を突き止められますが、再び荒廃していた この墓所には、野原の中で2つの墳のような丘陵が存在しているような状態だったのだとか…それが2つの塚なのか、本当は1つの塚だったものが削れてしまったのかは定かでは無かったようなのですが、それを見た付近の方々が 1つは篁様、もう1つは藤式部様の御墓であるのだと囁くようになったと記されております。
そこで新たに石の柵を設けて きちんとした御参道を整え、誰にでも分かるように墓地の補修を行われたという事で御座います。
墓所の入口に立てられていた小野相公墳碑は、元は秦氏が墳の近くに建立していた石碑であったようで御座いますが、この時に墓所入口へ移設されたようで御座います。
参議小野公塋域碑
参議小野公塋域碑 越中 金田清風撰文 加賀 市河三紀書并題額
慶応四年夏清風従今執政横山君祗役京師一日君従容語清風曰吾家実出自小野参議
諱篁當 王室中微小野氏不復見于□云後世或為陪臣或為斉民其為陪臣能存于今
者亦無幾幸吾家依托 大藩以至今日豈非餘慶邪顧年代邊遠公葬地不可攷毎以為憾
嚮聞平安西郊有公之墓焉会宗子隆淑奉 藩命入京因嘱以捜索事居無何隆淑馳書曰
信矣得諸紫野東五町請共修之爾時彼此鞅掌未遑也此行辺與隆淑倶平生之願於是乎
遂矣乃授状曰子其為我誌之以伝於無窮清風曰唯唯既而君期満清風亦随帰爾来紛冗
未有所結撰越明年碑石具矣乃始応命謹按状墓旧在原野歴年之久往往為愚岷侵辱無
復碑碣可按古樹三五株外僅餘断封而已寛政中有秦某者知而痛之檀一小石標於東面
缺処鐫曰小野相公墳又従修之隧道於是公之墓始可識云而西北一角亦甚断缺宛如別
起故土人或謂北者公西者紫式部抑公之與式部不止如行路不相識而年代亦遠則何故
付葬万無此理且揆之地形一封耳蓋四面対峙空南一面以屯其中也見在南辺餘地可以
證矣故今合施以石欄南二丈二尺有奇北二丈九尺西四丈一尺有奇東視之而缺其一角
属之隧道以為祭者所由定為参議小野公塋域則庶乎無復侵辱之患矣蓋域中不敢妄紛
更但秦氏所植標移置隧道口取諸易認也而標及隧道一仍旧観亦不没其志云爾夫公之
墓得至此雖固藉公之霊君之勒而秦氏首倡之功蓋居多秦氏者不審何人要之非仁厚君
子焉能如此嗚呼興廃王侯所不能免而况下焉者乎則此挙之永存果可必乎雖然君之子
孫能体君之意又得後之君子秦氏其人遞而修之則公之墓将不朽於万世焉是君之所以
孜孜以誌見属而清風之所以不以不文辞也君名政和為公四十四世孫隆淑官参政亦四
十六世孫云
明治二年歳次己巳春三月 加賀 横山政和建

篁様の御墓に向かって左隣に御座いますのが、藤式部様の御墓と伝えられる塚。
篁様の墳よりも、ちょっと大きいですね。
式部様の御墓が篁様の御墓と隣接している事は、室町時代には知られていたという事で…四辻善成様によって記された源氏物語注釈書 河海抄に、墓所は雲林院白毫院の南、小野篁様墓所の西にあるという事が記されているようで御座います。
それ以後の注釈書や記録にも同様の記述が有る事から、この説が広く知られていたのであろう事がうかがえますが、ハッキリとこの場所が…と判っていた訳では無いのかもしれません。

こちらも五輪塔で御座いますが…これは平成元年5月に、墓所の荒廃に心を痛められた大阪の篤志家の御方が私費で墓碑を建立された際に、京都洛陽ライオンズクラブさんが御参道の整備と共に建立された五輪塔であるという事で…矢張り、新しいものなので御座いますね。
形が類似している事から、もしかすると篁様の五輪塔も この時に整えられたものなのかもしれません。

藤式部様の御墓の目の前には、歯痛留地蔵尊様が御祀りされておりました。
歯痛の苦しみから救って下さる御地蔵様なのかなーと思いつつも、御挨拶をさせていただきました。




どぉーん!
……夜の、千本ゑんま堂――御本堂手前脇の千本ゑんま堂会館 元清閣2階の閻魔様は、迫力満点で御座います

下方からの照明が良い感じに効果を与えて、閻魔様の貫禄を倍増させておりますね!!

私は、夜の千本ゑんま堂が とても好きで御座います。
理由は……日中 見えないものが見えるから、といった感じで御座いましょうか…。
それは何も こちらに限った事では無いのですけれど、賑やかな通りの直ぐ傍にありながら、何の違和感も無く浮遊している存在に懐かしさを覚える事が出来る不思議な空間で御座いますので…何だか、落ち着くなぁと思いまして。
「真夜中に御墓とか御寺とか行ってるみたいだけど、恐く無いの?」
と聞かれる事が御座いますが、聞かれている意味で“恐い”と思った事は数回しか御座いません(←全く無いと言い切れないところに良く突っ込まれますが…あはは/苦笑)
場所にもよりますが、堪らなく惹かれるものは御座います。
「どうゝねさんって、絶対 霊感あるでしょう!」
…これも良く言われますが、あははは…。
何だかんだ、いちばん怖いのは生身の人間で御座いますから…私は何が見えても聞こえても、“行く!”と決めた場所には行きますし、“来るな”と言われても“浮ついた気持ちも悪意も御座いませんので御許し下さい、私は御傍へ行きたいのです!”と強行突破を致します…とんでもない無礼者で御座いますね、私;
強引過ぎて、恐い思いをする事も微妙に無いとは言い切れませんが…そういう場合には、後日 日の高い内に出直すようにしております。
神社では殆ど そういう事は御座いませんが、矢張り御魂の眠る場所では…。
恐いというよりも、私は どちらかといえば綺麗だなぁと感じさせられる事の方が多いので、何か予想外の出来事に遭遇しても、割と都合の良いように解釈してしまいます。
自分でも御気楽かつ図々しい性格だと思うのですけれど;
私はオカルト好きで御座いますので、そういう事を考えるのは基本的に大好きなのですが、参詣中や史跡巡りをしている時には、不謹慎で御座いますので、余り そういった観点から寺社や墓地を捉えないようにはしておりますね。
時折、見えてしまうもの達に悩まされている方に接する機会も御座いますが、そこで こういう御話をしてしまったら、
「とんでもなく肝が太いね…」
と言われてしまいました;
…御尤もで御座います(苦笑)

ゑんま堂 御本堂の扉には閉門後でも参拝が出来るように、御詣窓が設けられております。
日中は宮中へ出仕され、夜になると冥府へ出仕されていたといわれる小野篁様が、この時間には あの世に居られたのかと思うと、閻魔様のいらっしゃる こちらは何処よりも篁様の夜の職場に近い場所のようにも思えます。

ゑんま堂の境内は、御本堂から繋がる奥部分を除いた広範囲が駐車場として使われているようで御座います。
ひとりで境内をウロウロしていると、自動車をとりに来られた方々を吃驚させてしまったりして…大変申し訳無く…なるべく明るい場所から外れないようにと思っているのですが、ついつい この足が勝手に…!(←最低な言い訳…)




□ 小野 篁(おののたかむら) □
生 年:延暦21(802)年
没年月日:仁寿2年12月22日(853年2月3日)
父 :小野岑守
母 :不詳
弟 :千株
子 :俊生、葛絃、忠範、保衡、良真、利任
異 称:野相公、野宰相、野狂
官 位:承和14年正月12日(847年2月1日)…参議
仁寿2(852)年、従三位
小野篁様は、小野岑守様の御長男。
小野家は、敏達天皇の皇子 春日皇子を祖とする御家系といわれています。
尊卑分脈によれば篁様は あの遣隋使 小野妹子様の5代目の御孫様に当たるようで。
また、同じく尊卑分脈によれば、絶世の美女と謳われた あの小野小町様は、篁様の御孫様なのだとか……!
ただ、この辺りは余り信憑性が無いと考えられる事もあり、確かな事は判っておりません。
弘仁6(815)年 14歳の篁様は、陸奥守に任ぜられた御父様と共に奥州へ下られております。
御若い頃は、学問よりも弓馬や狩に夢中になられていたようで御座いますが、嵯峨天皇に“岑守の子でありながら、一介の弓馬の士で終わるのか”という御言葉を受けて以来、勉学に励まれるようになったといわれております。
弘仁13(822)年、省試に合格して文章生となられ、天長10(833)年には東宮学士を務められております。
天長7年4月19日(830年5月14日)、御父様が御逝去。
岑守様は、漢詩に優れた御方として知られた御方で御座いました。
色々と先入観を抱いており真実は分かりませんが、篁様は 御父様の事を尊敬されていらしたのでは無いかなぁ…と私は勝手に思い込んでおります。。
天長10(833)年、淳和天皇の勅により、右大臣 清原夏野様を総裁として10巻30編からなる令の注釈書 令義解が撰集されております。
これに、篁様も撰者として加わられております。
そして承和元(834)年。
小野妹子様より繋がる御家系だからか否かは分かりませんが、篁様も33歳で遣唐副使に任命されております。
同じタイミングで遣唐大使に任ぜられたのは藤原常嗣様。
承和3(836)年、1度目の出帆に出られておりますが、難破。
続いて翌年に渡海を試みられておりますが、またしても失敗し、結局 篁様は唐へ渡られる事は御座いませんでした。
承和5(838)年には3度目の渡唐が行われておりますが、それ以前に篁様は御船の交換を巡って常嗣様と対立され、病と称して勝手に遣唐使船から下りてしまわれたようで御座います;
ちなみに…副使を置いた遣唐使船は、3度目の正直とばかりに無事に唐入りを果たしておられます(苦笑)
この後、篁様は西道謡という遣唐使を風刺する御詩を詠まれ、これが嵯峨天皇の御耳に入って怒りを買い、承和5(838)年 隠岐国へと配流される事となってしまいました。
その道中には、謫行吟という漢詩を作られて人々を感動させたと伝わりますが,西道謡も謫行吟も その本文や詳しい内容については残念ながら現代に伝えられておりません。
そして、承和7(840)年。
配流から2年の後、その文才を惜しまれた篁様は帰京を許され、復位の待遇を受けております。
これは極めて異例の扱い…オカルトマニア的には つい ここで色々と、余計な詮索をしてしまいそうになります…///
その後、承和14(847)年に参議となり、仁寿2(852)年には従三位に昇られておられますが、同年12月22日に御逝去。
享年は51歳と伝えられており、生年は そこから逆算したもので御座います。
また、貞観2年10月22日(860年11月8日)に享年57歳であられたという説もある事が公卿補任に記されております。
その場合、生年は延暦23(804)年という事になりますね。
篁様は歌人としても大変有名な御方。
古今和歌集入選は6首、その他 勅撰集にも幾つかの御歌が選ばれております。
藤原定家様の小倉百人一首にも採られておりますね。
篁様の御歌についても、別の機会に記せたらと思っております。
また、和漢朗詠集、凌雲集、経国集 等に作品をうかがう事も出来ます。
さてさて。
篁様といえば“地獄の冥官”――…として、有名過ぎる程 有名な御方で御座いますね〜!
……これは、今昔物語集、江談抄、宇治拾遺物語 等の説話に伝えられている事で御座いますが、どの御話も実に興味深いもので御座いますので、また機会を見付けて1つ1つ考えていきたいもので御座います。
篁様を描いた御話は、現代でも非常に良い作品が御座いまして…福音館創作童話シリーズから発売されている伊藤 遊さん著作の『鬼の橋』という作品は本当に素晴らしいです。
私は歴史物であろうと、史跡に関係無い作品レビュー等は なるべく書かないようにしたいと思っているのですけれど、この物語…といいますか、伊藤さんの作品は児童書の域を通り越して沢山の方に読んで欲しいなと思えるもので御座います。
『鬼の橋』は、篁様にまつわる古典作品を基に篁様の少年期が描かれております。
後世の創作ともいわれる歌物語の篁物語にもヒントを得ている事がうかがわれ、篁様の亡き異母妹への想いが、この作品における篁様の成長に大きく影響しており、読んでいて胸が熱くなるのを感じました。
自分の所為で妹姫を死なせてしまったと悔やむ篁様は、はじめ 生きる事に後向きで御座いましたが、橋の上で出逢った身分の無い孤児の少女 阿子那、それから 角を1本失った鬼の非天丸との触合いを通して、生きる事の意味を命懸けで知っていきます。
主人公が こんなに無気力で微妙に悪役っぽくて大丈夫なの!?と吃驚な読みはじめで御座いましたのに、物語の展開と共に段々と惹き込まれていくのを感じ…自分の殻に閉じこもっていた篁様が、阿子那や非天丸と接しながら心を開くようになり、真直ぐに前を見詰めて生きるようになっていく様子に、何度も涙が溢れました。
篁様だけで無く、そこに生きる全ての存在に“命”があり“悩み”があり…あぁ、そうやって“生きて”いかなくてはならないのだったな…と、改めて私も考えさせられました。
『鬼の橋』には、死後も都を守るようにと帝に命じられていたが故に、没後も死者の世界に行く事が叶わず、この世とあの世を結ぶ橋の上に永久的に留まらねばならなかった坂上田村麻呂将軍も登場されております。
篁様が地獄の冥官と称されるに至った経緯も、この物語ならではの描かれ方で記されており、大変 読み応えのある1冊だと思いました。
伊藤さんの作品は、他に『えんの松原』という矢張り平安物が御座いますが、こちらも とても素晴らしい作品で御座います。
雀好きですと、尚の事…(笑)
どちらも主人公の成長物語になっておりますので、読み進めている内に、どんどん主人公が可愛く思えて堪らなくなってしまう魅力が御座います。
児童書にしておくには勿体無いのではとも思われますね。
是非、大人の方にも読んでいただきたい作品で御座います。
何者をも畏れない篁様の言動は、端から見れば異端的に映って見えたものであったのかもしれません。
“野狂”と呼ばれ、想像を超える その生き様から、冥府と現世を行き交う人間離れした存在であるという噂が流れ、そんな印象が定着してしまったのかもしれません。
人々は遠巻きに篁様を傍観するような感じがあったのかもしれませんが、何処かで篁様のように己の信念を貫いて生きる事が出来たら…と思っていた方々もいらっしゃったかもしれませんね。
冥官と噂の篁様に生前に媚を売っておけば、死後に万が一 地獄に落ちる事となっても、助けて貰えるかも!という思惑を持たれていたかもしれませんし…実際、そんな御話も残っておりますね(笑)
そんな、摩訶不思議な篁様には興味津々の私で御座います


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何故、ここで突然 小野篁様…?という感じで御座いますが(笑)
えぇと…個人的に 私は篁様にも思い入れが御座いまして……いずれ、とは思っていたのですけれど、何だか洛中の藤式部(紫式部)様 伝承地等について書こうかなと思った時、そういえば藤式部様と篁様には共通の場所が数カ所あるのだったと思い出しまして…。
そ、それだけの事で御座いました;
篁様は平安初期の御方で御座いますので、普段 中期から末期辺りの史料に埋もれている私には、かなり勉強不足な点が多いなぁと反省しております。。
初期と中期以降とでは文化や風習等にも色々と違いが御座いますので、来年からは もう少し幅広く平安期の事を学んでいきたいなと思っております。





