日本史(主に平安〜鎌倉初期)&源平史跡、伝承地巡りの記録。 あくまでも自分の為の記録で御座います。

なき砂に、なみだ飛沫の琴ヶ浜。
琴ヶ浜01

その御姿は見えねども、己が心を琴の音に代えて、今も御浜で鳴くといふ――…。

絵本『琴姫のなみだ』を読んで、私は 琴姫様に御逢いしたいと、ずっと思っておりました。
“琴ヶ浜”って 何処にあるんだろう…ろくに調べる事もせず、ただ何と無しに時を待っていた私は、先月の出雲大社御本殿特別参拝の為に島根へと向かう途中、ふと広げた地図に“琴ヶ浜”という文字を発見致しました。
石見国を北陸地方辺りだろうと適当に思い込んでいた私は(馬鹿なのです…凹)、よもやとは思いましたが、良く良く考えてみれば、長門国 壇ノ浦より海流に乗って流された上、生存されていたのだとすると、北陸よりも 島根の この日本海沿いの方が信憑性が高く、よっぽど可能性も高いのでは…!?と今更な見解に辿り着きまして(苦笑)
広島から出雲を目指していた経路からは少しズレてしまいますが、どうしても気になりましたので、母に
この“琴ヶ浜”という所に、行ってみたいのです…
と相談したところ、
琴ヶ浜?別にえぇけど、もう何回も行っとるよねぇ?
………って、えぇっ;
どうやら私は、小さい頃には 割と ちょくちょく山陰にも遊びに来ていたようで、琴ヶ浜にも何度か足を運んているとの事で御座いました…全く覚えていないなんて、勿体無いー…これだから、子供に旅は贅沢なのですよっ!(←…?)
母曰く、私が中学生の頃にも連れて来たという事なので御座いますが……それも覚えていないとは、我ながら記憶喪失なのでは?と心配になってしまいますね。。
いえ…あの頃の私は、思春期真っ只中で か〜なり荒んでおりましたのでー…覚えていなくて逆に良かったのかもしれません…きっと、自己防衛機能なのですね!人間って、案外 都合良く出来ているもので御座います〜(どういう解釈…)

琴姫様

□ 琴姫(ことひめ)

生 年:不詳
没 年:不詳
 父 :不詳
 母 :不詳
 諱 :不詳


琴姫様は、平家方の御方……分かっているのは、それだけで御座います。
流れ着いた村で“琴姫”と呼ばれるようになりましたが、それ以前に何と呼ばれていたかは分かりませんし、御出自も不明。
史実上に実在された御方であるという証拠も御座いません。
何の根拠も御座いませんが、個人的には平家の姫というよりも、平家に仕えておられた女房の御ひとりだったのでは、というような気が致します。
京から遠く離れた海沿い村人の方々が、貴族並みに祖育てられた姫君と女房の違いを認識されていたとは思えませんし…可能性としてはゼロでは御座いませんよね。

琴と共に流れ着き、琴の音に心を重ねられていたと伝えられている事から単純に想像させられるのは、琴の上手であられた御方が 大切になさっていた琴を抱えて入水されたけれど、琴が浮いてしまって絶命とならず、そのまま潮に流されて この浜に打ち上げられた…という光景。
また、特に 琴に執着があった訳でも無い御方が入水されたものの、苦しくなって水面に漂っていた琴にしがみつかれ、そのまま流されて…というのも、考え得る事かなとは思います。
女性の重々しい装束で海中を漂うのは とんでもない事のように思えますが、もしかすると その分厚い装束の御蔭で海上遭難には付き物といわれる凍死の危険を免れる事が出来たのかもしれません。

琴ヶ浜02

琴ヶ浜があるのは、島根県大田市仁摩町馬路町。
こちらに伝わる琴姫伝説は何故か1通りでは無く、色々なものがあるのだそうで御座いますが…共通して伝えられているのが、壇ノ浦に平家が滅んだ数日の後に平家縁と思われる高貴な女性が、琴と共に浜に流れ着かれたという事。

長い年月を語り継がれる間に、地域内で様々に言い伝え内容が変化していったようで御座いますが、琴姫様が生存して漂着されたという伝説の他に、遺骸となって琴と共に流れ着いたという御話もあるそうで。
また、琴姫様は18歳の美女であったとか、御父様は盲目でありながらも琴の名手で 琴姫様は御父様に秘伝の曲を教え込まれていたとか…。

浜に生きて流れ着かれたとされる御話では、暫くして回復された琴姫様は、毎日 琴を奏でるようになり、村の方々は それを喜んで聞きに行っていたという事で御座いました。
然し、折角生き長らえた琴姫様で御座いますが、その後は余り長く生きられる事無く、儚くなられたという事で御座います。
死因は、風邪や病によるものであるとか、原因不明だとか…。

そして、琴姫様の死を悼み、手厚く葬った村の方々は その後に浜を歩いて驚かれます。
浜一帯に綺麗な白い砂が見られ、上を歩くと まるで琴を奏でたような可愛らしく、何処か悲しくも聞こえる音色がするようになっていたので御座いました。

琴ヶ浜03

馬路町琴ヶ浜の鳴き砂は、日本国内に幾つか存在する鳴砂海岸のひとつ。
約2キロメートルに渡って続く、100メートル幅の真っ白な砂浜の上を走ると、キュッ、キュッ、と音が鳴ります。
“鳴り砂”、“歌い砂等”と呼ばれる事も御座いますが、この付近の方々には“砂外れ”と呼ばれております。

私が訪れた時、琴ヶ浜海岸は海水浴を楽しまれる方々で賑わっておりました。
綺麗な砂を手で掬い、さらさらと風の流れに乗せると、海へ帰って行くかのように波の上へと飛んで行きました。

↓琴ヶ浜の中央には、琴姫様供養為の石碑が建立されておりました。

   琴姫の碑

 寿永四年春 壇ノ浦の合戦に敗れ去った平家一門の姫がこの馬路の浜に漂い着いた
情厚い村人に助けられた姫はよる辺なき身をこの地にとどめ 報恩にと日毎夜毎琴を奏でて漁師たちを慰め励ましまた村人たちも姫を深く敬慕した
 没後心美しい姫を浜一帯が見おろされる小高い丘に手厚く弔い葬った
そして時代をつらぬき琴姫さん琴姫さんと思慕してきたのである

 大正以来山陰線開通をはじめ時の移り変わりを見たので 町民相はかりこの処をえらび 改めて碑を建立することとなった
 鳴る白砂と囲繞する景勝と共に姫はいつまでも人々の心の中に生きるであろう
   昭和四十二年七月 元馬路中学校長 福田吐甫しるす



   琴姫伝説

 むかし、源平の戦いで平家の壇の浦に敗れた春のこと。
ただひとり小舟に身を託して逃げのびた美しい姫が琴を抱いて気を失っていました。
やっと石見の海岸に流れついて、村人たちの手厚い介抱に元気を取りもどした姫は、毎日琴を奏でては,村人たちの心を慰めていました。
 ところがある日突然この世を去ってしまいました。
 敬愛していた姫の死に村人たちは嘆き悲しみ、浜の見える丘に姫をねんごろに葬りました。
 すると次の日からあたかも琴を奏でているような、美しい音色で浜が鳴り始めました。
 これは、きっと姫の魂がこの浜にとどまって村人たちを励ましてくれているのでは‥‥
馬路の人々のやさしさを象徴する言い伝えとなりこの浜を琴ヶ浜と呼ぶようになりました。
   平成16年3月20日 琴ヶ浜観光協会



琴ヶ浜04

平家の女性で琴の上手と伝えられるのは、壇ノ浦まで存命されておられませんが盛子様、清盛様の姫で源義経様の異母妹に当たる廊御方…等。
廊御方は壇ノ浦まで御一門に従われておりますが、源氏軍に捕えられておりますし……琴姫様は矢張り、御名前の伝えられぬ女性の御ひとりであったのかもしれません。

琴ヶ浜05

…それから、これは余り関係が無い事柄では御座いますが、平家物語 高倉天皇の寵愛を受けられた小督様も琴の名手で御座いましたね。
“琴”繋がり…という事で、明日は 小督様について記そうかと思います。

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琴姫様のなみだ 音色は海の色。
琴姫のなみだ

私とクラッカーさんの御気に入りに琴姫のなみだという絵本が御座います。

昔々、石見国の海辺の村に、ひとりの娘と一張の琴が流れ着く――そんな出来事から始まる物語の主人公は、“腰抜けの三郎太”と呼ばれる臆病な漁師の若者。
姫のようじゃ
関わり合いにならねえ方がええ
村人達の声を他所に、姫を連れ帰り、手厚く看護したのは三郎太と その御婆様で御座いました。
次第に体力を回復させる姫で御座いますが、言葉を忘れたように何も喋る事は御座いませんでした。
毎日、悲し気な眼差しで海を見詰めるばかりの姫を見て、三郎太は 海の仲間達が話していたうわさ話を思い出します。
遠くの海で、恐ろしい合戦があっての。
 女、子供までが、次々に海へ飛び込んでしもうたそうな。
 可哀想にのお…


「………源平合戦ー…っ!!!」
絵本を読んでいる最中に、いきなり何叫んでるクラ!
クラさんには怒られてしまいましたが(笑)、私は この台詞を読んだ瞬間、これは間違い無く源平の壇ノ浦合戦後の物語なのだと確信を持ちました…。

琴姫のなみだ

然し、この物語は 更に読み進めていっても、“源平”とか“平家”とか“京”といった単語は一切出て参りません。
姫は殆ど喋りませんし、傷心の姫の心の内を察した村の人々は 姫の過去に干渉する事無く、村での日々を送っておられます。

海で両親を失った三郎太は、これからは自分が姫を護ると決意致します。
三郎太と心を通わせた姫は、声に出せない想いを琴の音に乗せて、毎日 浜で漁師達を励ますようになりました。
姫の奏でる事の調べは大漁を呼ぶと喜ばれ、いつのまにか村の人々から“琴姫様”と親しみを込めて呼ばれるようになりました。

ある嵐の晩、海へ出た三郎太が帰って来ないのを心配した琴姫は、琴を抱いて嵐の海へ向かい、荒れ狂う浜辺にて神仏に三郎太の無事を祈りました。
海上で波に呑まれた三郎太は、琴の弦が切れるような音を聞き、それから 囁くように自分を呼ぶ琴姫の声を聞きました。
三郎太に逢えて、幸せでした。
 私の凍り付いた心を溶かして下さった三郎太と御婆様の傍に居て、いつまでも琴を聞かせましょう。
 琴の音を聞きたくなったら、この浜辺に来て下さい

涙ながらに そう告げた琴姫は、三郎太が浜辺で眼を覚ました時には何処にも居りませんでした。
浜には、弦の切れた琴が一張…。
琴姫を求めて三郎太が浜を駆けると、足元で キュッ、キュッ、と砂が鳴きました。

それ以降、この浜辺には透き通った白い砂が見られるようになったといいます。
村の人々は、この砂を“琴姫のなみだ”といい、浜を“琴ヶ浜”と呼ぶようになり、いつまでも琴姫を偲んだそうで御座います。


この絵本は地域の伝承に基づいた作品。
私は、この絵本に出逢うまで、琴姫様の伝説については存じませんでした。
それどころか…地元 広島から極端に離れた土地でも御座いませんのに、実は石見国が北陸地方だと思い込んでいた愚かさで御座います…あぁぁ何処まで地理に弱いのでしょう私は…御恥ずかしいぃ;;

この“琴ヶ浜”で御座いますが、現在の島根県大田市仁摩町馬路町の海岸で御座います。
鳴き砂で有名な琴ヶ浜。
こちらに伝わる琴姫様は、流れ着いた平家の姫君として、今も土地の方々の間に語り継がれております。
琴ヶ浜について、詳しい事は明日 記したいなと思っております。

琴姫のなみだ


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田辺と出雲のゆかりにて、母となりしは遠いえん。
出雲地方に伝えられる、武蔵坊弁慶様の生誕伝説。
一般的には、紀州田辺に語り継がれる弁慶様出生地伝説の方が有名で通説に近いという印象が御座いますが、この他にも紀州熊野地方周辺には幾つかの出生地説が伝わる土地が御座います。

昨日は、出雲で生まれ育たれた弁慶様が3年間修行をなさり、一ノ谷合戦の前年と壇ノ浦合戦の後にも再び訪れられたといわれる鰐淵寺さんという推古2(592)年御創建の御寺さんについて記しました。
出雲大社の背後から日本海沿いの経路で鰐淵寺さんを訪ね、そこから平田町方面へ抜けて一畑電車北松江線に平行走行しながら川跡駅を目指しました。

弁吉女様墓所01

川跡駅近くにある田圃の畦道に、弁慶様の御母様と伝わる御方の御墓がある…そんなアバウトな情報を元に車を走らせてしまいましたが、何故だか私には絶対に見付けられるという根拠の無い自信が御座いまして。
そろそろ川跡駅が近いかな、という頃に ふと左側の車窓に目をやった瞬間、
あ、あれだ
と、本当に直感で発見してしまいました。
車道からは線路を挟んで少し離れた場所で御座いましたので、ずっと外を見ていた私の母は全く気が付かなかったと言っておりましたが…流石に、自分でも ちょっと凄いかも?等と己惚れてしまいました。
…目敏過ぎ、私(笑)

弁吉女様墓所02

流石に、車道の途中で停車する訳には参りませんので、一先ず 川跡駅まで向かう事に。
駅前に車を停め、母を留守番をさせて、私は ひとりで御墓まで歩いて行く事に致しました。
駅前に観光案内板が御座いましたので、何か載っているかな〜と思いましたが、弁慶様にまつわる伝承や史跡については一切触れられておりませんでした。
という事は、矢張り地元でもマイナーなので御座いましょうか;

弁吉女様墓所03

出雲の弁慶様伝説は出雲市から安来市の辺りまで広く伝承地が点在しており、それらは それぞれが繋がりを持って纏まった形を成している為、田辺のものよりも真実味があるといわれているようで御座いますが…出雲に語られる弁慶様の御母様は田辺の御出身という事で御座いますし、熊野信仰の起源に出雲の地が関わっているとされる考えも御座いますので、個人的には出雲と田辺の伝承には何処か共通したものを感じておりますので、伝説の真偽云々よりも その背景に在る何かの方が気になって仕方が御座いません。

弁吉女様墓所04

□ 弁吉(べんきち)

生 年:不詳
没 年:不詳
 父 :誕象
 母 :不詳
 夫 :男(山伏)?、天狗?、弁斎(熊野大社別当)?
 子 :武蔵坊弁慶
通 称:弁吉女


弁吉女様は、出雲地方の伝説上で 弁慶様の御母様と伝えられる御方で御座います。
御出身は、紀州田辺。
御父様の誕象様が、熊野権現に祈願して授かった娘様であられたという事で御座います……田辺の、“たんぞう”様で御座いますか…。

20歳になっても良縁に恵まれず、嫁き遅れていた事から、御両親に薦められて 良縁祈願の為に出雲国を目指されました。
これは、熊野権現の御神託によるものともいわれておりますが…熊野の神様が、出雲へ行けと……うぅん。。

出雲に入られた弁吉女様は、出雲路幸神社に7日7夜の良縁祈願の末、枕木山の長海村に7年住むべしという御告げを受けられます、
これに従った弁吉女様の前に、ある時 ひとりの男性が姿を現され、出雲神に与えられた御縁により この御方と夫婦になられました。

そして、授かった御子様が 弁慶様。
義経記に語られる弁慶様の御両親とは、矢張り 別人のようで御座いますね…。

義経の御内に聞こえたる一人当千の剛の者有り。
俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。
彼が出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は君達数多持ち給ひたりけれども、親に先立ち、皆失せ給ふ。
年長け、齢傾きて、一人の姫君を設け給ひたり。
天下第一の美人にておはしければ、雲の上人我も我もと望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。
 (義経記による)


義経記では、弁慶様の御父様は熊野別当 弁証様。
弁慶物語では熊野別当 良心様、橋弁慶や田辺の伝承では熊野別当 湛増様という事になっておりますが、出雲の伝説で弁吉女様と結ばれた御方は熊野別当職に就かれている御方では御座いません。
ただ、出雲国 熊野大社の別当 弁斎様とされる説もあるようで……矢張り、出雲と熊野との因縁を感じられる様な気が致します。

仁平元年3月3日(1151年3月22日)、弁吉女様は弁慶様を御出産なさいました。
義経記と共通しているのは、産まれた御子様が異端児であった事。
生まれながらに弁慶様には歯が生え揃っており、髪は長く、左肩に“摩利支天”、右肩に“大天狗”という文字が刻まれておりました。
弁吉女様は妊娠中に鉄を食べておられたといわれ、その為に 産まれた赤子は色黒い鉄色をしていたといわれます。
弁吉女様は弁慶様を“弁太”と名付け、育てられておりました。

…が、弁慶様は相当な悪戯っ子だったようで、村の方々に酷く迷惑を掛けたとして、弁吉女様は 弁慶様を小島に捨ててしまわれました;
その小島で実父様に巡り逢われた弁慶様は、島を脱出。
“鬼若”と改名し、枕木山の華蔵寺、福原の澄水寺、そして出雲の鰐淵寺にて修行を積み、再び弁吉女様の元へと帰られました。
“鬼若”と名乗られた事にも疑問を感じるのですが、それよりも気になるのは、御2人が この再会を どのような心持ちでなさったのかという事。
子が親を求めるのは当然の事で御座いますが、1度捨てた子供との再会…弁吉女様にとっては、どういう意義のものであったので御座いましょう。

名を“弁慶”と改められた後、それから暫くは母と子の生活が続いたようで御座います。
弁吉女様は、その死に際に弁慶様を枕元へ呼び、菩提を弔うのであれば紀州の誕象様を訪ね、武士になる事を望むのであれば田辺に行き、法師になるのならば“武蔵坊”を名乗れと遺言なさったといわれます。
弁慶様が上洛し、遮那王様に巡り逢われるのは、その後の御話――という事で。

弁吉女様墓所05

□ 弁吉女の墓(べんきちめのはか)

所在地:島根県出雲市武志町
御創祀:不詳


弁吉女様の御墓は、個人の方が管理される田畑の中に御座います。
十数年前に、耕地を整理している際に現在地に移されたという事で御座います。
直ぐ傍に立派な墓地が併設されておりますが、そちらは恐らく無関係なのでは無いかと。

建立年代は不詳で、以前は五輪塔であった…という事で御座いますが………、現在の御姿を見る限りでは、何処にも その特徴を伺う事が出来ない為、どうしても五輪塔であったというのは考え辛いかなー;という気が致します。

   弁吉女の墓

 雲陽誌の中に、弁慶の母親の墓と伝えられるとある。
山の向うの鰐淵寺で若い弁慶は修行したと伝えられることと、何か関係がありそうである。
墓の元の位置は、ここの北東約二〇Mのよころで、耕地整理の際ここに移された。
     川跡地区明るい街づくり推進実行委員会



弁吉女様墓所06

長閑な風景…。
もしかすると、この斐伊川の畔は 弁吉女様が、鼻高山の向こうの鰐淵寺で修行する我が子に想いを馳せた場所なのかもしれません。

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入りにし人の あとぞ追ひかけ 鰐淵の、
鰐淵寺さん01

聖の住所はどこどこぞ
箕面よ 勝尾よ 播磨なる書写の山
出雲の鰐淵や 日御崎
南は熊野の那智とかや
 (梁塵秘抄による)


後白河法皇梁塵秘抄に詠われている“出雲の鰐淵”は、現在の島根県平田市別所町の鰐淵寺さん。
平安期以降、比叡山延暦寺との繋がりを深めた鰐淵寺さんは、平安末期には既に有名な霊場、寺院として確立していた事が伺えます。

そんな御寺さんに伝えられているのが、源義経様の忠臣である武蔵坊弁慶様の修行伝説。
これは、出雲地方に伝わる武蔵坊弁慶生誕伝説の1つ――弁慶様は、仁平元年3月3日(1151年3月22日)枕木山 長海村にて御生まれになったといわれております。
御母様の御名前は、弁吉様。
紀州田辺の御出身と伝えられており……田辺に伝わる弁慶様出生地伝承との関わりが気になるところで御座います。
また、出雲へ向かわれ子宝に恵まれたのは熊野権現の御告げともいわれているそうで…熊野信仰の起源には、出雲の地が関係しているという説も御座います。
これについては、出雲国の熊野大社の事と共に近々記したいとは思っておりますが、何かしらの繋がりが蜘蛛の巣のように張り巡らされている感じがして…引っ掛かってしまいますね。

生まれたばかりの弁慶様は、とても赤子とは思えぬ外見…色黒で生まれながらに歯が生え揃い、髪は長髪で、左の肩に“摩利支天”、右肩に“大天狗”という文字を刻んでいたといわれます。
幼い弁慶様は酷い悪戯を繰り返したとして、御母様によって小島へと捨てられてしまいます;
然し、小島での因縁によって実父である山伏と出逢った弁慶様は、島を脱出。
“鬼若”と改名し、枕木山の華蔵寺、福原の澄水寺に立寄った後に、出雲の鰐淵寺にて3年間修行をなされ、御母様の元へと戻られたという事で御座います。。
武蔵坊弁慶と名乗られるようになったのは それ以降で、京へ上って牛若様との運命の出逢いを果たされたのだとか…。

   武蔵坊弁慶修行の地

 仁平元年(一一五一年)現在の松江に生まれた、弁慶は十八歳より三年間鰐淵寺で修行したと伝えられている。
 文治元年(一一八五年)壇ノ浦の合戦の後、伯耆の国大山寺より一夜にして釣鐘を鰐淵寺に持ち帰ったとされる提灯に釣鐘の伝説は有名です。
  平成十年十月吉日 平田商工会議所青年部二十周年事業



鰐淵寺さん02

18歳の頃より3年の間、この鰐淵寺さんにて修行を行われたといわれる弁慶様。
京に上り、義経様の郎党として奥州平泉にて往生なされた……と思いきや、何と こちらの伝承によれば、弁慶様…壇ノ浦合戦の後に再び鰐淵寺さんに身を寄せられていたのだとか。
えぇ!?では、吾妻鏡に記されている文治元(1185)年の義経様主従の都落ちの件は……?
謎や疑問が多い伝承では御座いますが、弁慶様縁のものと伝わる品々は、今も寺内に残されているそうで御座います。

   武蔵坊 弁慶

 仁平元年(1151年)現在の松江市に生まれた弁慶は、18歳にて鰐淵寺に入り、3年間修行した後、比叡山に登り、京都五条大橋で牛若丸と出会う。
 鰐淵寺には弁慶自画像、背負い櫃などが残っており、硯水、袂石、籠堂などの遺跡がある。
 大山寺の銅鐘と一夜にしてすり替えたという「提灯と釣鐘」の伝説で有名な胴鐘は、国の重要文化財である。



鰐淵寺さん03

鰐淵寺さんの第1駐車場から山門までは暫く登坂が続きますが、その途中途中には↑このような説明板が幾つも立てられており、鰐淵寺さん縁の方々について勉強しながら向かう事が出来ました。

   智春上人

 信濃の神僧智春上人は遊化して伯州北の浜まで迎えに来た、智尾、白滝、旅伏の三翁の船に乗り旅伏山に着き、
   「コソノケフ 詠メシ月ハ カハラネド コヨヒタダフス 空ニ充カナ」
と詠し、翌日、現在の蔵王の滝にて釈迦文佛より命を受けて開山した。
時に、推古天皇二年(594)であった。



   慈覚大師 円仁

延暦13年(794年)下野国に生まれ、15歳で比叡山に登り、伝教大師最澄の門下となる。
承和5年(838年)入唐、同14年九州大宰府より山陰を巡化して帰京。
その途中鰐淵寺において、薬師如来と千手観音の2体の像を刻んで本尊とし、法華堂、堂行堂を建立、三台杉は大師のお手植である。
 帰叡後、仁寿4年(854年)天台座主となり、貞観6年(864年)示寂。



   頼源

 元弘二年(一三三三)後醍醐天皇隠岐遷幸の折、長史頼源は隠岐国分寺御所に伺候してご宸筆の願文(重文)を賜った。
その後六波羅西門の戦いに軍功を立て、建武中興後は執達状(重文)を貰った名和長良年等と力を合わせて南朝のために尽くしたが、貞治五年(一三六六)浄達上人への譲文(重文)を最後に歴史の舞台から退いた。



   栄芸

 永禄年間(一五五八〜七〇)に毛利元就が尼子氏を降し滅亡させた際、かねてより元就と親交のあった和田坊栄芸はその攻めに助力を惜しまなかった。
のち天正五年(一五七七)に孫 輝元はこの栄芸の功労を愛で大檀主となって本堂を再建した。



   八百屋 お七

天和2年(1682)江戸本郷の火災の時、お七は若衆小野川吉三郎に出会い、激しい恋情を抱いた。
お七は吉三郎が忘れられず、逢いたい一心で、天和3年放火、火刑となった。
 吉三郎はこれを憐み、出家して、お七の遺骨と供に全国の寺院を行御、鰐淵寺で行き倒れになったと伝えられる。



鰐淵寺さん04

登坂の奥に見えた山門は、とても厳かで立派な造りで御座いました。

鰐淵寺さんへは、出雲大社の背後から山越え経路で向かいました。
御盆の時期は余り訪れる人が居ないのか、散策路でも境内でも、殆ど人と擦違う事は御座いませんでしたが、それが また神聖な雰囲気を醸し出す要素の1つにも感じられました。

鰐淵寺さん05

山門を潜り、小さな橋を渡って川を越え、更に上へと続く石段まで歩きます。
直接日差しの届かない天井には、逆光の紅葉が鮮やかな緑を彩っており、これは秋になると とても豪華な色合いになるのだろうなぁと思わされました。
実際に、毎年 紅葉の季節になると、紅葉狩り目的の観光客で駐車場も境内も一杯になるのだそうで御座います。
この静かな雰囲気からは想像が出来ないなぁと思いつつも、それだけ見事な紅葉の山を、私も拝見してみたいなとは思いました。

鰐淵寺さん06

石段を上り、更に上へと向かいます。

途中、釣鐘を担ぎ、薙刀を持った弁慶様の顔はめパネルを発見致しました!
見ると、どうしても記念撮影がしたくなる、魅惑のパネル…母に、是非とも ここで1枚写真を撮りましょうと強引に誘い、欲求を満たす事が出来ました(笑)

鰐淵寺さん07

□ 鰐淵寺(がくえんじ)

所在地:島根県出雲市別所町
御創建:推古2(594)年
御開山:智春上人
宗 派:天台宗
山 号:浮浪山
正式称:浮浪山一乗院鰐淵寺
通 称:鰐山
御本尊:千手観世音菩薩、薬師如来


鰐淵寺さんの御起源は文献等に明らかとなっている訳では御座いませんが、推古天皇2(594)年に信濃国の智春上人が推古天皇の眼疾平癒を浮浪の滝に祈願し、それが叶った事から、天皇の勅願によって建立された御寺さんであると伝えられております。

伝教大師様こと、最澄様が比叡山に天台宗を開かれると、鰐淵寺さんは日本で最初の延暦寺末寺になりました。
御本尊の千手観世音菩薩薬師如来の御像は、最澄様の御作であると伝わります。
秘仏とされており、33年に1度、開扉法要が営まれるそうで御座います。
観音様と薬師様、そして蔵王信仰も伺える歴史深い御寺さんで御座います。

また、古くから出雲大社との縁を深め、神仏習合時には出雲大社の別当寺としても役割を担っておられたようで御座います。
南北朝時代、戦国時代と勢力を増していかれた鰐淵寺さんでは御座いましたが、出雲大社の御頭神事が衰え始めると、次第と衰退していかれたといわれます。

  天台宗
   浮浪山 一乗院

    鰐淵寺
開山 智春上人推古二年(五九四年)
本尊 千手観世音菩薩 薬師如来


 推古二年(五九四年)智春上人が推古天皇の目疾を流浪滝に祈って平癒されたので、その報賽として建立された勅願寺である。
天竺(印度)雲鷲山の□地が欠けて浪に浮かんで流されて来た土地で流浪山と称す。
上人密法を修し給う折、誤って腕の仏器を滝壷に落とされたとき、鰐魚が鰓にかけ浮かび上がったことにより寺号を生じる。
 伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、慈覚大師の薦めもあり、日本で最初の延暦寺の末寺となる。
又、早くより出雲大社との関係を密にし別当寺ともなった。
 元弘二年(一三三三年)後醍醐天皇が隠岐遷幸の折、長吏頼源が国分寺御所に伺候して、ご宸筆の願文(重要文化財)を賜った。
永禄年間には和多坊栄芸が毛利元就の尼子攻めに助力したため、天正五年孫の輝元はこの栄芸の功労を愛で本堂を再建した。
 又、弁慶は十八歳で当山に入り、三年間修行の後 書写山から比叡山に登ったと伝えられており、その伝記や遺品にも事欠かない。
一方、二三、六三五坪の山内は自然に恵まれ、春は緑の香にむせび、秋は深紅になる「いろは紅葉」が全山を覆う。



   根本堂(天台宗)

本尊 千手観世音菩薩 薬師如来。
推古天皇二年(五九四)信濃国の智春上人、天皇の眼疾を流浪滝に祈って平癒されたのでその報賽として建立された勅願寺。
平安初期伝教大師比叡山に天台宗を開かれるといち早くその法門に帰依して日本で最初に比叡山の末寺となった。
本尊は第三台天台座主慈覚大師の作。
現在の建物は戦国時代広島の毛利元就が尼子氏を攻めた際、栄芸法印を始めとして毛利氏に力を盡した為 孫の輝元が建てたものと伝えられる。



鰐淵寺さん08

根本堂に向かって右奥には、弁慶様が大山寺から ひと晩で運ばれて来られたといわれる釣鐘を見る事が出来ました。
国の重要文化財に指定されている この銅鐘には、寿永2(1188)年の銘が刻まれているという事で御座います。

寿永2(1183)年というと、平家御一門の都落ちや木曾軍の入京、後鳥羽天皇の即位等が行われ、都の中心が大きく揺れ崩れた年。
この頃の義経様主従の動向は正確に伝えられるところでは御座いませんが、11月(1184年正月)には木曾義仲様追討の為、範頼様と共に京に向かわれておりますので、鎌倉に居られたのでは…と考えられる事が多いように思われます。
そんな時分に、何故 弁慶様が出雲国へ……?

“弁慶様”+“釣鐘”といわれると、個人的には園城寺の弁慶鐘のイメージが強いのですが…一般的にも広く知られているのは、こちらなのでは無いでしょうか。
……そういえば、園城寺についても書こう書こうと思いつつ、全く触れてもおりませんでした;
三井寺周辺は、何だか自分とは波長の合わない土地のように思えまして…ちょっと避けておりましたが(でも、割とちょちゅう行っております/苦笑)、近い内に記しておきたいとは思っております。。

   銅鐘(重要文化財)
    総高 - 113.1cm 口径 - 63.2cm

寿永2年(1183)在銘の銅鐘
もと鳥取県倉吉市桜大日寺上蛇の鐘
当山で修行した武蔵坊弁慶が1夜のうちに伯耆大山寺から持ち帰ったとの伝説は名高い。
これにちなんだ「弁慶まつり」は毎年挙行される。



鰐淵寺さん09

画像には御座いませんが(またウッカリやってしまいました;;母が、「亀が踏ん張って燈籠を支えている」と夢中になっておりましたので、つい……)根本堂の左側には、慈覚大師が御手植えになったといわれる三台杉と常行堂、摩蛇羅神社が御座いました。
御祭神 摩蛇羅神は、天台宗の御本尊で阿弥陀経、念仏の守護神とされる摩多羅神なので御座いましょう。
渓嵐拾葉集の“常行堂摩多羅神事”で、慈覚大師が帰国する船の上で摩多羅神の声が聞き感得され、比叡山に常行堂を建立、常行堂へ勧請された故事に倣って御祀りされたものと思われます。
摩多羅神は、平安期から鎌倉期の頃に成立したといわれる玄旨帰命壇の御本尊であったと考えられております。
玄旨帰命壇は時代の経過と共に邪教として扱われるようになり、江戸期には途絶えてしまったといわれます…。
元は出雲大社裏の辺りに御祀りされていたという事で御座いますが、こちらに摩蛇羅神社が現存している経緯は如何なるものなので御座いましょうか。
御創祀年代等も気になってしまいますね。

   摩蛇羅神社

慈覚大師が請来したと伝えられる守護神摩蛇羅神をまつる神社。
江戸時代までは出雲大社の裏にあった北蛇(現在の唐川町後野)にあった。
旅の安全(特に船旅)と風邪の神々として信仰をあつめている。
大祭は正月十一日早朝



鰐淵寺さん10

観光シーズンで無い為か、駐車場下の御土産屋さんも休業中のようで御座いました。
弁慶様のイラストの横に“鰐山名物”と書いてあると…どんな名物が!?とワクワクしてしまいます///

鰐淵寺さんは、本当に静かで素敵な御寺さんで御座いました。
また島根に行く際には、是非立ち寄らせていただきたいなと思います。

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