日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

天寧寺さんに眠る、新選組のツートップ。
天寧寺さん01

福島県会津若松市。
東山温泉の手前、天寧寺さんという御寺さんに、新選組局長 近藤勇さんの御墓があるという事で、どうしても御参りをさせていただきたく思い、行って参りました。

私は上京前に数年間、関西で生活をしていた事があるのですが…初めて広島を出て、見知らぬ土地で独り暮らしを始めた頃は、自分でも信じられない位に寂しい思いを致しました。
最初の1ヶ月は、周りの友人達の宥めの声も届かない程に毎日毎日泣き暮らしたりしておりまして;
幼かった事もありますが、このままでは広島を出た意味が無いと思いつつも中々立ち直る事が出来ず……そんな孤独な日々を救ってくれたのが、日本史と その史跡で御座いました。
元々、歴史マニアな私らしい現実逃避の方法で御座いますが(笑)とにかく、他の事を何も考えられない位に歴史関連の本を読み漁り、時間を見付けては毎日のように京都で史跡を巡っておりました。
源平史跡は勿論なのですが、意外にも私が1番最初に訪れた場所は、壬生――新選組縁の地で御座いました。
その他にも、京都の新選組関連地には殆ど足を運んでおり、精神的に随分救われたと今でも心から感謝致しております。
会津旅行が決まった時、会津藩や白虎隊に関する事を現地で学びたいと思いましたが、同時に新選組縁の地と局長の御墓には どうしても訪れて御挨拶をしたいと予てより願っておりましたので、念願叶っての参拝で御座いました。

天寧寺さん02

天寧寺さんへの参拝は、実は2日掛かりで御座いました;
会津に入って2日目の日に、若松市内をぐるりと1周するような感じで幕末の史跡巡りと観光をさせていただいたので御座いますが、さぁ いよいよ天寧寺さんを!という時になって、地図を見た母が
これって、もしかして結構な山の中なんじゃないん?
 行ったら飯盛山行かれんかもしれんよ

と言い出しまして。
天寧寺さんに行かれないのは困りますが、かといって飯盛山を諦める事も出来ず…。
丁度、天寧寺さん麓の道路沿いにある御蕎麦屋さんで御昼御飯をいただいている時で御座いましたので、御店の方に近藤さんの墓所について御伺いしてみたのです。
そうしましたら、山の中なので行くのは結構大変ですよという事で御座いましたので、
この後にも飯盛山で史料館巡るんなら、あんまり時間も無いし、ここは やっぱりやめといた方がいいんじゃないん?
と言うので……その日は、渋々諦める事に致しました…。

が。
諦めの悪い私は、翌日の朝に東山温泉を散策した後に、
未だ ちょっと時間に余裕もありますし…矢張り、近藤さんの御墓には御参りして行きたいのです
と駅へ向かうバスを降り、再び天寧寺さんを目指す事に致しました。
最終日で重い荷物を所持していた母は、やや困った顔をしておりましたが、
まぁいいや、折角だし。
 行くんなら、早よ行こうや!

とアッサリ気持ちを切り替えて、歩き出してくれました。

天寧寺さん03

如郎ヶ前のバス停、案内板から、天寧寺さんの入口までは、徒歩7分程度だったで御座いましょうか。
思ったよりは全然近いな〜と思いつつ、石段を上って天寧寺さんの境内に入ります。

母は、重いカートを抱えて石段を上り下りするのは無理なので、ここで待っていて貰う事になり、私は ひとりで天寧寺さんと近藤さんの墓所へ向かいました。

天寧寺さん04

□ 天寧寺(てんねいじ)

所在地:福島県会津若松市東山町石山天寧
御創建:文安4(1447)年
御開基:蘆名盛信
御開山:傑堂能勝
山 号:萬松山
宗 派:曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏


天寧寺さんは、文安4(1447)年 蘆名盛信様が大瞞行果禅師 南英謙宗様の為に建立されたという御寺さん。
蘆名氏の菩提寺として栄え、会津曹洞宗の僧録司として、最盛期には33ヶ寺と12の僧堂を数える大寺院で御座いました。

天正14(1586)年 蘆名氏の血統が廃絶すると、佐竹義広様が跡を継がれます。
義広様は はじめ、白河結城氏を継いで“白河義広”“結城義広”と称されておりましたが、天正15(1587)年、蘆名盛隆様の娘と結婚して“蘆名義広”と名乗られるようになります。
然し、2年後の天正17(1589)年、摺上原合戦に敗れた義広様は伊達政宗様に追われ、この時に天寧寺さんも焼失致しました。
現在、御本堂の礎石のみが、当時の面影を偲ばせているそうで御座います。

蘆名氏の後を継ぐ方はいらっしゃなかったようで御座いますが、周囲の方々によって天寧寺さんは維持、存続され、現在に至っているようで御座います。

天寧寺さん05

天寧寺さんの境内には、会津七福神の毘沙門天様や会津二十一地蔵尊の第10番 首無身代り地蔵尊様がいらっしゃいました。
首無身代り地蔵様は、家内安全の御加護の他、病気等の苦難から身代りとなって助けて下さる御地蔵様という事で御座います。

近藤さんの御墓の他、こちらには萱野権兵衛様御夫妻と その御子様の御墓も御座います。
権兵衛様は戊辰戦争の鶴ヶ城開城に際して、藩主 松平容保様と共に降伏文書に署名された御方。
その後、戦争責任追求の会議で首謀者の出頭を命じられた時に自ら名乗り出られ、会津藩における一切の戦争責任を切腹をもって担われたのでございました。
享年は41歳…その権兵衛様も、近藤さんと共に この地に眠られていらっしゃるので御座いますね。

天寧寺さん06

会津若松ライオンズクラブさんが設置なさった道標に従って進んで行きます。
舗装されていない山道に入りますが、これは西軍に見つからないように山中に秘かに御墓を建立した為ともいわれております。
途中、木々の合間から見下ろす若松の町並は壮観で、こういう場所だからこそ、土方さんは 選ばれたのでは無いかなぁと感じました。

こういった道に慣れっこな私は、細かに道標が立てられていた事もあって、想像以上に楽々と墓所に辿り着く事が出来ました。
母は、置いてきて正解だったな…とも思いましたが(苦笑)

天寧寺さん07

こちらが、近藤さんの墓所…並びに、土方さんの慰霊碑で御座います。

向かって左が、土方さん建立の近藤さんの御墓。
慶応4年4月(1868年4月)に悲惨な最期を遂げられた近藤さんの供養を、土方さんが容保様に願出された事により、会津藩の協力を得て墓所造営に至ったようで御座います。
法名は、貫天院殿純忠誠義大居士
墓碑に“近藤勇”と御名を記されなかったのは、西軍に見付からぬようにとの配慮からという事で御座います。
この御墓には、近藤さんの御首を埋められたという説、遺髪を埋められたという説等があるようで御座いますが、どれも確証のある説では無いそうで御座います。
ちなみに…近藤勇の御墓は、こちらの他に4ヶ所伝えられております。
内、3ヶ所は都内で、もう1ヶ所は愛知県岡崎市の法蔵寺さん。
私は都内在住でありながら、未だ その3ヶ所を御参り出来ずにおります…近場程、訪れが遅れると申しますが……いけませんね、そんないい加減な事では;

そして、右側に建立されているのが、土方さんの慰霊碑。
側面には、土方歳三という俗名や戦死地等が記されておりました。
近藤局長の御傍に、土方副長…どちらも、亡くなられた地は会津では御座いません。
が、旧幕府軍として容保様の元で尽くされた時間は、御2方の御生涯にとって掛け替えの無いものであったのでは無いかと……。

天寧寺さん08

御墓の手前には、近藤さんの辞世の句碑が建立されておりました。
これは、近藤さんが板橋で幽閉された時に詠まれたもので御座います。

孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 □陽千古是吾儔 靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩

義を取って生を捨てるは吾が尊ぶ所であるのだから、電光三尺の剣を快く受けようと仰り、ただ将に一死をもって、君恩に報いん……そんな想いで迎えられた御最期。
真直ぐな御方であられたのでは無いかと、勝手ながら胸が熱くなるのを感じました。

   近藤勇藤原昌宜之墓

 天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の郷土宮川久次郎の三男として生る。
幼名を勝太と謂う、自宅に同情を構え十五才にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。
 師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七才の時養嗣子として迎える。
元服して名を勇と改め剣理を究め後試衛館を継ぐ、塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。
その後京に上り新選組の母体となった。
新選組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。
中でも最も著名なものは新選組最盛期の池田屋騒動である、長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新選組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。
 新選組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火気の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成、勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に終結していた。
勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世二誌を遺して斬首の刑に処せられた。
 会津守護職の直属であった新選組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。
       一九七七年十月 会津若松ライオンズクラブ



天寧寺さん09

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あいづみどりの奥座敷、つかれてつかる治癒の御湯。
東山温泉01

福島県会津若松市――東山温泉郷は、会津の奥座敷と呼ばれる自然豊かな温泉地。
…で御座いますが、会津若松市内中心部から然程 距離が離れている訳でも無く、路線バス ハイカラさんに乗車すればアッサリと到着してしまえる素敵な場所で御座いました。

発見は約1300年前、行基様による御開湯という事で御座います。
日本には、全国各地に幾つも行基様発見という伝承の残る温泉が存在しておりますので、こちらも その内の1ヶ所という事になりますね。

東山温泉02

何と無く、川に沿って歩いていると…む!何やら、前方に見える御宿の壁に、土方歳三副長の御顔が!??
土方さんだ、土方さんだー!
と馴れ馴れしく近付いてみると、御宿前に架かる芳袖橋の袂に、土方さん縁の温泉が御座いました。

古くは“猿の湯”と呼ばれた その温泉は、源泉掛け流しで楽しめる硫酸塩泉。
さらさらとした水質で、豊富な湯量が薬湯としても用いられていたので御座いましょう。
戊辰戦争の折、土方さんが宇都宮城の攻防戦で足を負傷し、鶴ヶ城下 七日町の清水屋さんに運び込まれて治療を受けられた事は以前に記しておりますが、どうやら回復に向かわれた土方さんは、東山温泉にも湯治に訪れていらっしゃるようで御座います。
この地には、当時 土方さんが、療養中に岩風呂から川に飛び込まれたという逸話も伝えられているそうで御座います。

東山温泉03

土方さんが傷を癒されたという源泉は、御宿の外側から拝見させていただけるという事で…。
折角で御座いますので、近くまで降りて見せていただきました。

   東山温泉発祥の由来

この源泉は、今から約千三百年前遊行僧 行基上人(奈良時代天平年間・西暦七百二十九年)が 相づち法巡錫の折、川岸に白い湯煙をあげて噴出する霊泉を発見 開湯されたもので、野猿が群れて入浴していたことから「猿湯」と呼ばれておりました。
浴槽は天然の岩の窪み、岩底の割れ目から千年以上もの間絶えることなく温泉が自噴しております。
 当温泉は、天正年間(西暦千五百八十四年)頃は現存する萬松山天寧寺の寺領だったこともあり「天寧寺の湯」とも云われておりました。
「猿湯」は創傷、火傷に浴効あり戊辰戦争(慶應四年西暦千六百六十八年)時は、新選組副長土方歳三が宇都宮城の西軍との攻防戦で受けた右足の銃創をこの「猿湯」で癒したと伝えられております。



東山温泉04

土方さん縁の源泉から川を挟んだ向かい側には、誰でも自由に浸かれる足湯が設けられておりました。

東山温泉へ立ち寄ったのは、旅行の最終日。
会津に入る前、日光で華厳の滝を訪ねて中禅寺温泉へ参りましたが、温泉には入れませんでしたので…せめて、帰る前に足湯にだけでも浸かって行きたいなぁと思いまして、母を誘って東山温泉に向かったので御座いました。

こちらに掲げられた東山温泉足湯の御由来記によりますと、行基様が こちらを訪れられた際、何処からか3本足の不思議な色の羽根を持つ烏さんが現れたそうで御座います。
そして、その烏さんに導かれて湯川沿いを進まれたところ、岩場の間から立ち昇っている湯気を発見なさったという事で……3本足の烏さん…とは、矢張り 八咫烏さんなので御座いましょうか。
古くから傷を癒す当時の御湯であったという この温泉には、烏さんをはじめ、鶴さんや鷺さん等の野鳥も多く飛来し、御湯に足を浸けて怪我を治療したといわれているそうで御座います。

東山温泉05

↑足湯の入口には、このような素敵な“什の掟”…ならぬ、7箇条の訓示が掲示されておりました。
湯っくり、湯ったり、東山流♪
大切に愛し、護られている温泉なのだなぁと感じました。

東山温泉06

足湯に浸かると、丁度 土方さんと御対面出来るような位置なので、ちょっと不思議な雰囲気で御座いましたが、楽しかったです。
目が合ったら照れるなぁ〜とか余計な事を考えていたのですけれど、土方さんは やや斜め下辺りに視線を落としておられたようで…(笑)

足湯内には交流ノートも置いてあり、これまでに来られた色々な方の感想等を拝見する事が出来ました。
素敵なコミュニケーションの場になっているので御座いますね。
足湯は無料で利用出来ますが、直ぐ近くの道路沿いには足湯専用の無料駐車場も完備されており、至れり尽くせりなスポットだなぁと感動致しました。

東山温泉07

私が足湯を楽しんでいる傍らで、何故か突然 飯盛山で御土産に買ったという(いつの間に…)御饅頭を開ける母…。
早よ食べんとねぇ、固ぅなるんよ
……足湯には、浸からないのですか?と問うと、
ストッキング脱ぐんは大変じゃけぇ、ひろちゃんが入っとるの見て楽しむ
だそうで御座います……えぇ;
そ、それで良いのならば…何も申しませんが…。

土方さんが湯治を行われたと伝えられる温泉。
行基様によって発見された歴史ある御湯ならば、もしかして平安の頃にもどなたか御来訪なさっておられるかも〜!と思いまして、ちょっと調べてみたのですけれどー…残念な事に、私のセンサーにヒットするような時代の御方についての伝承等は残っていないようで御座いました(苦笑)
ちなみに、戦国以後の方々で有名な来訪者に豊臣秀吉様や伊達政宗様、加藤嘉明様 等がいらっしゃるようで御座います。
それから、幕末には吉田松陰先生も!
更に下れば、伊藤博文氏や犬養毅氏、横山大観氏、与謝野晶子さん、竹久夢二さん、野口英世さん 等々……著名な方がが多く訪れていらっしゃいますね。

東山温泉08

足湯から上がって、バスの時間までは未だ余裕がありましたので、少し周辺を散策してみようという事になって、川沿いを上流に向かって進んで行きました。

温泉場の町並は、昭和な香り漂うレトロさが魅力的で御座いました。
射的場も御座いました。
旅先の温泉街で時折見掛ける事は御座いますけれど、1度も入った事の無い射的場…良く、映画等で見掛ける場面を想像すると、ちょっと覗いてみたくなってしまいます。

東山温泉09

こちらは、道路脇にいらっしゃいました 夜泣き地蔵様。
子供を連れて御参りをすると夜泣きが止むといわれており、古くから町の人々に親しまれているのだそうで御座います。
何というか、独特な表情をなさっておられるのが印象的で御座いました。

東山温泉10

尼渕と呼ばれる こちらは、葦名家の重臣 大町左京盛胤様の娘 千穂姫様にまつわる伝承の地。

千穂姫様には、領主 葦名直盛様の小姓である簗田衛門様という許嫁がいらっしゃいましたが、美しい姫君であるという評判を聞いた直盛様は千穂姫様に結婚を迫ってこられるようになりました。
その申し入れを拒み続けた千穂姫様で御座いましたが、ある時 御父様の盛胤様が御留守である時に領主直々の召出状が出されてしまい…、受け入れる事の出来ない千穂姫様は途方に暮れた末、自殺を決意なさったので御座いました。
湯川渕にて御身を清め、湯上羽黒山三社権現の奥の院に21日間の祈願をなさり、そして満願の その日、夢枕に立たれた神仏から仏門へ入るようにと告げられますが、簗田衛門様を諦められなかった千穂姫様は、渕へ投身。
姫様を助けられたのは、軍茶利様、妙見様、観音様の御三尊であったといわれ、それを見ていた別当 東光寺行智上人の勧めにより、千穂姫様は仏門に入られました。
そして、名を“智尚尼”と改められたという事で御座います。

千穂姫様が御身を投げられた渕は、以後“尼渕”と呼ばれるようになったそうで、今も こちらには石碑が建立されております。
純愛を貫き通そうとした結果、死ぬ事も許されず、生きていても決して結ばれる事が許されず…千穂姫様の嘆きは、どのような形に変わっていったのだろうかと考えさせられます。

東山温泉11

尼渕の手前には、竹久夢二さんの碑“まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ”が御座いました。
元々は別の場所に建立されていたものであったようで御座います。

東山温泉が大の御気に入りだったという夢二さんは、この地に長く逗留されており、とんぼさんという東山芸妓の絵も描かれているそうで御座います。
その絵は、現在 御宿のロビーに展示されているそうで、宿泊客の方々に公開されているという事で御座います。

東山温泉12

今回は時間の都合で行けませんでしたが、この近くには 旧会津藩の歴代藩主墓地も御座います。
松平容保様の御墓には、いつか御参りさせていただきたいと思っております。

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滝沢口、旧会津藩の御本陣跡にて。
滝沢本陣01

飯盛山を厳島神社側から下っていると、地元で観光案内をなさっておられる方が
この次の路地を右へ曲がって真直ぐ進んだらね、滝沢本陣という所がありますから、どうぞ行ってみて下さい
と教えて下さいました。
私が、カメラを構えて ちょこまかと写真を撮りまくっている様を御覧になって、御声を掛けて下さったそうで御座います(笑)
実は、旧滝沢本陣は行ってみたいと思っていた場所の1つで御座いまして。
飯盛山で何だか胸が一杯になっていた私は、すっかり その事が頭から抜け落ちていたのですけれど、御陰様で無事に行く事が出来ました〜。

滝沢本陣02

旧滝沢本陣横山家住宅は、国の指定重要文化財で、文部省の指定史跡。
飯盛山から程近い滝沢峠の入口に位置する旧会津藩 御本陣跡として、一般に公開されていらっしゃいます。

御本陣と申しましても、パッと見は立派な古民家という印象で御座います。
それもその筈、元々は農民家であったという事で御座いますが、御本陣の指定を受けて住居の東側に御座敷が増築されたという事で、江戸時代 会津藩主の参勤交代や藩祖公を御祀りする猪苗代、土津神社参拝の折等に、身支度を整える休息所として利用されるようになりました。

戊辰戦争の際には、藩主 松平容保様が滞在され、ここから白虎隊の出陣命令を下されたと伝えられております。

滝沢本陣03

拝観受付のある土間や、靴を脱いで入室して直ぐの囲炉裏は、いかにも農村の御宅といった感じで御座いました。
囲炉裏を囲うように置かれた円座に腰をおろして高い天井を見上げたり、年季のこもった深い色合いの柱に触れたり、周囲に当たり前のように息づいている歴史ある小物達を観察したり、目上に見付けた神棚に手を合わせたり…。
ついつい、まったり〜と落ち着いてしまいます。

滝沢本陣04

御本陣内の御座敷から御次之間、御座之間と その畳廊下を隔てる柱や障子の腰板部分には、戊辰戦争時の弾痕が、今も生々しく残されておりました。

白虎隊を出陣させ、容保様は城内へと戻られましたが、滝沢本陣は西軍による攻撃を受けます。
その後、こちらは西軍の屯所として使用される事となりますが、会津藩にとっても重要な御本陣であった場所…多く残る弾痕や刀傷から、どれだけ激しく争ったかを感じ取る事が出来ました。
御本陣跡は、東北地方最古の民家といわれております。
これだけの戦闘の跡が、この貴重な建物に伺えるというのは、もしかすると奇跡的な事だったのかもしれません。

滝沢本陣05

こちらは、歴代藩主の方々が御使用になられたという湯殿と厠。
勿論、現在は使用禁止になっておりますが、当時の風俗的な部分も間近で感じられる事が出来、大変勉強になりました。
平安時代には無い湯殿が、江戸時代には存在しているのですよね〜!(着眼の基準は、いつも平安…/笑)

滝沢本陣06

他にも、内部には400年前の古文書や歴代藩主の愛用品等…様々な陳列物を見る事が出来ました。

縁側に座って御庭を眺めれば、何だか急に広島の実家が懐かしく思い出されたり、振り返って御本陣内の御座敷に目を遣れば、年代物の雛人形と目が合ったり。
ここで、本当に戦闘が行われたのかと疑いたくなってしまう位に、長閑で心安らぐひと時で御座いました。
そんな時間を過ごせる場所だからこそ、消えない傷跡に学ぶ事も大きく感じられるように思います。

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燃え尽きたるは、御城に届かぬ いのちの炎。
飯盛山01

福島県会津若松市、白虎隊自刃の地として知られる――飯盛山
ったような形をしているである事から名付けられたという“飯盛山”の標高は、314メートル。

会津若松駅と飯盛山は一直線上に位置しておりますが、先に鶴ヶ城を見ておきたかった私は、西郷邸跡や御薬園 等を経由して、遠回りに こちらへ参らせていただきました。。

飯盛山02

飯盛山の入口に立った私は、想像以上に観光地観光地した御参道に、正直かなり驚きました。
白虎隊士に肖った御土産物も沢山見掛けましたが、白虎刀なる小木刀の販売POPに“白虎隊、自刃の刀!”と記されているのを見た時は、非常に複雑な心境で御座いました…。
御当人方が御亡くなりになられた御山の麓で、その死に用いられた武器を象って御土産として販売されているというのは如何なものなのかしら…と。
実際、そのような意図で製造、販売されている訳では無いのでしょうけれど、観光地で木刀が売られるようになった起源がこちらというのは有名な御話。

私の母は、会津の その武士道に則った教育指針である什の掟に関する商品に惹かれると申しておりました。
その他にも、白虎隊士に扮したキャラクターもの等、可愛らしい御土産物が沢山御座いました。

長く続く石段の両脇に、平行して立並ぶ御土産屋さん。
石段の傍には、有料では御座いますが、楽に白虎隊士の御墓まで行けるようにエスカレーターが設置されております。
私に言わせれば大した段数では御座いませんでしたので、歩いて上ってもいいかなぁという程度だったのですが、階段を上るのは本当に大変ですというアナウンスに母が不安を感じておりましたので、今回はエスカレーターを利用させていただく事に致しました。
江ノ島ちっくで御座いますね〜。

エスカレーターから のんびりと眺める景色は とても綺麗で、清々しく気持ちがよいもので御座いました。
青々と繁る緑を見上げて、ここは きっと秋になると素晴らしい紅葉が見られるのでしょうね〜と話しました。
飯盛山は本当に素敵な御山で御座いましたので、この辺りまでは私達も矢張り観光気分で楽しませていただきました。

飯盛山03

エスカレーターの終点から更に数段の石段を上り切ると、白虎隊士墓地のある広場へと出られます。
その右手に見える道を、道標に沿って奥へと進み、白虎隊士自刃の地へと向かいます。

飯盛山04

白虎隊士自刃の地への途中、見晴らしの良い場所には、飯沼貞雄さんの墓地が設けられておりました。
飯沼貞雄さんは、飯盛山で自刃された白虎隊士の唯一の生き残りの御方で御座います。

当時の御名は貞吉さん。
貞吉さんは、仲間を裏切って自分だけ死ななかったと、随分御苦しみになられたといわれております。
戦後は、悲しい記憶の根付く会津を離れられております。
現在、白虎隊の事実が世に知られているのは、貞吉さんが当時の事を語られたからこそ…。

   飯沼貞雄翁の墓

白虎隊士自刃者中唯一人の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後逓信省の技師となり、仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし 昭和6年78才で仙台市において没した。
白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。
昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によって、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。



飯盛山05

そして、こちらが白虎隊士自刃の地。
負傷者を連れながらも戸ノ口原から退却した白虎隊の方々は この場所から城下を望み、煙に覆われた鶴ヶ城下を見て落城と判断…20名全員が、その場で自刃なさいました。
それが誤認であったと知る事が出来たのは、一命を取り留められた貞吉さんだけ…。

私と母が こちらを訪れた時、周囲には同じように御家族や御友人同士で来られていらっしゃる方々が居られました。
私が碑前で手を合わせていると、あろう事か 母が
ひろちゃん、こっち向いて
とカメラを向けておりまして……。
はっとした私は、
だ、駄目!!…ここは やめて下さい!
 ここは観光地じゃない、無念の想いで何人もが亡くなられた御墓なんですよ!
 そんなの、原爆ドームの前で楽し気に記念撮影してる人達と一緒です。
 それに、いきなり来て勝手に写真を撮られるのは、誰だって失礼だと思うでしょう。
 先ずは ちゃんと、手を合わせましょうよ

と、思わず母に詰め寄ってしまいました…。
母は大変驚いた様子で御座いましたが、直ぐに碑前に進んで手を合わせておりました。

確かに、私も勉強させていただく為にと、行く先々…いろんな場所で写真を撮らせていただいてはおります。
が、そこに眠られる御霊が存在する以上、先ずは しっかりと御参りをする事が大切だと思いますし、記録以上の記念撮影は厳禁だと私は思っております。
例え、そこに眠る御本人が良しと言われようとも、現には それを見て悲しまれる方は、少なからずいらっしゃる事で御座いましょう。
自分がされて嫌な事を、他所でする程、無礼な事は無いと思うので御座います。

母を諌めた際、声は抑えたつもりで御座いましたが、近くにいらっしゃった数組の方々の御耳には届いてしまったようで…。
矢張り その方々もカメラを構えておられたので御座いますが、
そうね、御参りしないと
と仰られて、手を合わせに行かれました。

飯盛山06

自刃の地から見た、鶴ヶ城方面の景色。
少し遠くに こんもりと茂った森の中にあるであろう鶴ヶ城を眺めながら、ここで絶望し自刃を決意された隊士の方々に想いを馳せました。

飯盛山07

続いて…自刃の地から元来た道を通って、白虎隊士の御墓へ御参り致しました。
御墓は、鶴ヶ城の方向を向いて建てられているそうで御座います。

正面に並ぶ19基は、自刃された白虎隊士19名の御墓。
戦後、明治政府は遺体の埋葬を許さず、暫く放置されていたといいます。
白虎隊士の遺体は、密かに飯盛山麓に御座います妙国寺に埋葬されておりました。
この飯盛山に葬る事が許されたのは、もっと後の事なので御座いました。

飯盛山08

白虎隊士の御墓傍には、その悲しい最期を知った松平容保様が詠まれた弔歌碑が建立されておりました。
“幾人の 涙はいしに そそぐとも その名は世々に 朽ちじとぞ思う”

その他、山中にはイタリアから寄贈された記念柱、歌碑等、数々の石碑が建てられておりました。
自刃の地付近は一般の方々の墓地となっているようで御座いますが、白虎隊の精神に憧れ、近くに眠る事を望まれた方々の御墓もあるという事で御座います。

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なよ竹の、節にかぐやの 身をおもひ。
西郷邸跡01

戊辰戦争…特に、会津戊辰戦争と呼ばれる会津藩と旧幕府勢力が新政府軍との間に繰り広げた一連の戦では、実に数多くの尊い生命が失われる結果となりました。
それは、戦場に出る者だけで無く、武家の者として御屋敷を護る女性や子供にも……。

こちらは、鶴ヶ城大手通の道路脇に御座います、西郷邸跡
会津藩の御家老 西郷頼母近悳様も邸宅跡地で御座います。

西郷頼母様は、松平容保様が京都守護職に就かれる事に強く反対をなさった御方…後世では、時勢を冷静に見抜く事の出来る有能な人物であったと伝えられております。
新政府軍との争いを避ける道を唱えられますが、殆ど耳を傾けられる事無く、戊辰戦争では白河口の総督として出陣なさっておられます。
会津が落城の後は、土方歳三さん等と合流して函館戦争にも参加されました。
戦後は、日光東照宮の宮司となられた容保様の御傍で、禰宜として奉職。
晩年は会津の裏長屋にて余生を送られております。

頼母様の御邸跡に、今このような石碑が建てられ、御花が備えられている理由――それは、会津城下に新政府軍が乱入した慶応4年8月23日(1868年10月8日)に起こった悲劇の1つによるもので御座います。
この日は、白虎隊の悲劇の日としても知られておりますが…戦が生んだ悲しい結末は、それだけでは御座いません。

西郷頼母様の御一族は、御城から発せられた総篭の篭城命令を受けて、女子供が入城すれば篭城戦の足手纏いになるとして、集団自決の道を選びました。
頼母様の御母様、奥方様、妹様方に娘様方、それから御親類の方々…幼い御子様方をも含む総勢21名の方々が、壮絶な最期を遂げられたので御座います。

   西郷邸跡

 会津藩家老 西郷頼母の屋敷跡である。

 戊辰の役は数多くの悲劇を生んだ。
戦役が悪化し西軍が城下に殺到して籠城を知らせる早鐘が鳴ると家老の西郷頼母は急遽城に入った。
 妻 千重子は、夫を送り出した後、家を清め、はやこれまでと 三女 田鶴子(九才) 四女 常磐子(四才) 五女 季子(二才)を刺し、一族二十一人それぞれ辞世の歌を詠み自刃した。

  なよ竹の風にまかする身ながらも
    たまわぬ節はありとこそきけ


なお、一族二十一人の墓は、鶴ヶ城東南、門田町北青木善龍寺にあって毎年五月その霊を弔う「なよ竹祭」がしめやかに行われている。
   昭和五十九年六月  会津若松市 / 会津若松ロータリークラブ



西郷邸跡02

戦後、身近な愛しい御一族の方々を失われた頼母様の御心は、如何なるものであったので御座いましょうか。

会津のこの戦では、西郷様の御一族、白虎隊の他にも、“女白虎隊”と称される娘子軍の事等……会津の方々は、藩士であろうと一般庶民であろうと、会津の為にと精一杯の抵抗をし、その命を投げ出されたので御座いました。
これが、会津藩が それまで築き上げてきた武士道の精神…私は、会津藩の行われた教育や その精神は、大変素晴らしいものであったと思っております。
ただ…護るべきものの為、本当に護るべきが何であったのかという事を………、…今ならば訂正する事が出来るのに…と 思う気持ちも、自分の内には存在致しております。
白虎隊について調べている時、戊辰戦争の教訓が もっと しっかり活かされていれば、第二次世界大戦やヒロシマナガサキの悲劇は避けられたのでは無いか、という御言葉と出会いました。
同感で御座いました。
私に言わせれば、幕末の戦等は つい最近の出来事ばかり…学ぶ事は、本当に多く御座います。
戦争が起こる事で得をする人が居て、戦争に勝つ事で遥かに優位な地位に立つ事の出来る人達が居るという事は、世の常といってしまえば それまでの事で御座いますが、その途で息絶えて行く多数の兵や、巻き添えをくって犠牲となる多数の民衆も、同じ人間。
身分云々の御話では無く、人間対人間という次元から物事を見直す事も大切なのでは…と思えてなりません。

頼母様の邸跡は鶴ヶ城の直ぐ御近くで御座いますが、北青木の善龍寺さんには、その御墓と奈与竹の碑が御座います。
また、頼母様の御邸宅は、会津武家屋敷に復元されており、御人形による自決場面の再現も行われているとの事で御座います。
今回の若松旅行では、残念ながら武家屋敷を訪れる事が出来ませんでしたので、次回は是非とも立ち寄らせていただきたいと思っております。

* * * * * * * *

御薬園01

鶴ヶ城を訪れた後は、花春町に御座います、会津松平氏庭園 御薬園へと向かいました。

単純な脳味噌の持主な私は、“会津松平氏”と書いてあるものを見る度に、
「あいづまつ…平氏!??
と愚かな早とちりを繰り返してしまい…己の学習能力の無さを痛感するばかりで御座いました;
というか、かなり重症な病気なので御座いますねー…あはは。

御薬園02

御薬園は、歴代 会津藩主の別荘として使用されていた庭園で御座いました。
2代目藩主 保科正経様が、こちらで薬草の栽培を始められ、3代目の正容様が朝鮮人参を試植された事から、“御薬園”と呼ばれるようになったそうで御座います。
園内には、現在も400種類もの薬草が植えられているという事で、大変見応えが御座いました。

美しい回遊式の庭園は借景園と呼ばれ、各種薬草を栽培する薬草園が御薬園の由来となっているようで御座います。
昭和11年には与謝野晶子さんも訪れられ、
秋風に 荷葉うらがれ 香を放つ
   おん薬園の 池をめぐれば

と詠まれたという事で御座います。
昭和7年には、国の名勝にも指定されました。

どうでも良い事なので御座いますが、うちの母は 御薬園に到着して、案内板に記されているローマ字を読むまでは、ずっと“みくすりえん”と呼んでおりました;
正しくは“おやくえん”…“えん”しか合っておりませんでしたね、母上…(笑)

御薬園03

御薬園のはじまりは、室町期に葦名盛久様が霊泉の湧く この地に別荘を建てられた事によると伝えられております。
幕末では、鳥羽、伏見の戦いを経て帰国された容保様は、御城に入らずに この地で生活なさっていた事もあるのだとか…。

四季折々の花が咲き誇る この御薬園では、こちらでしか味わえない秘伝の薬草茶をいただく事が出来ます〜。
売店でも試飲させていただく事が出来、私は冷え性に良いという御茶を母に買って貰いました。
超低血圧な私には、これからの時期は毎朝が試練で御座います…(涙)
母に買って貰った この御茶を飲みつつ、頑張って春を待ちたい一心で御座います←気が早過ぎ。

御薬園04

心の字池に浮かぶ亀島には、楽寿亭という建物が御座いました。
こんな素敵な御部屋で御茶会を催してみたいなぁ〜等と思いつつ、説明を読んでおりましたら、どうやら約300年に建てられたという この建物も、戊辰戦争の記憶を持つ証言者のようで御座います。
対岸に御座います、御茶屋御殿は戊辰戦争当時は西軍傷病者の治療所として使用され、戦火を免れたといわれます。
然し、建物の柱や桟等には今も当時の刀痕が残っており、戦の生々しさを感じ取る事が出来ました。

御薬園05

御薬園の中には、朝日神社という小さな祠が御祀りされておりました。
こちらは、鶴ヶ城の前身である東黒川館を築かれた至徳年間(1384〜1386年)に、疫病で苦しむ ある農家の御方を、朝日保方様という白髪の御老人が鶴を見付けた霊泉の泉で介抱し、救って下さった事に感謝して建てられた神社なのだそうで御座います。
御祭神は、朝日保方翁なので御座いましょう。
600年の歳月を経た今も、こうして御薬園を見守っておられるという事に感動で御座います。

御薬園06

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