
こちらは、山形県酒田市飛島の勝浦地区に御座います 円福院さん。
港沿いの道より1つ山側の 民家が並ぶ通路沿いに建立される御寺さんで御座います。
源氏盛、平家盛へ向かう途中、テキ穴には全く気が付かなかった私で御座いますが、こちらには ちゃんと気が付いておりました(笑)
円福院さんは、飛島に伝わる平家伝承にも登場されている寺院で御座いますね。

□ 円福院(えんぷくいん) □
所在地:酒田市飛島字勝浦
御創建:天文12(1543)年?or 寛永3(1626)年?
御開基:亮珍法印
御本尊:延命地蔵菩薩
山 号:龍宝山
宗 派:真言宗智山派
寺伝によれば、円福院さんの御創建は天文12(1543)年、亮珍法印による御開基であるという事で御座いますが、同じく真言宗智山派寺院である酒田の龍厳寺さんの記録によると、寛永3(1626)年の御開基であると伝えられているそうで御座います。
何だか、どちらにせよ平安末期〜鎌倉初期には存在していなかった…というような感じで御座いますね;
…あれ?文治の終わり頃、平家の落武者の方々が漂着されたといわれる院の島を拝領されていたのが円福院さん、という事で御座いましたが…。。
ただ、円福院さんには寺歴として確かな記録が伝えられていない為、はっきりとした事は不明で御座います。
享和3(1803)年に火災に遭われ、文政3年4月に再建されたという事で御座いますので、その際に記録等を焼失されてしまったのかもしれません。
もしかすると、平安期には既に存在していたものを、中興再建されたのが天文の頃であったのかもしれませんよね!
…と、何事も前向きに考えたいもので御座います(笑)

手前に並ぶ、5基の石碑や石塔。
年代的には どれも然程古いものでは無いようで御座いました(※あくまでも私の感覚で御座います)
私が通り掛かった時、御堂の中からは何やら沢山の方々の御声が聞こえておりました。
何か法要が営まれているのかしら…とも思いましたが、割と賑やかな感じでしたので、地区の方々にとっての集会所のような場所にもなっているのかもしれませんね。

円福院さん前の路地を抜けて再び海沿いの道へ戻りますと、港には沢山の鳥さんで賑わっておりました。
飛島は日本有数の野鳥の飛来地としても知られており、全国各地よりバードウィッチングに来られる方が多いと聞きます。
渡り鳥の中継地である飛島に、迷い込んでしまう珍しい鳥さんもいらっしゃるのだとか…。
野鳥好きにも、堪らなく魅力的な御島で御座いますね!

鶴岡市内の自動車学校を卒業した翌日、私は酒田市で朝を迎えました。
一緒に卒業した妹を先に東京へ帰して ひとり酒田までやって来たのは、泉流寺さんを参詣したかったから…という理由も御座いましたが、その翌日に酒田市の離島 飛島へ向かう為でも御座いました。
飛島行の定期船が酒田港を出向するのは、午前9時半。
それを逃すと もう次は無いので、朝の弱い私は酒田駅前のホテルに宿泊する事に致しました。
朝、チェックアウトの際に ホテルの方が酒田港行のバス時刻表を調べて下さったので御座いますが、残念ながら都合の良い時間にはバスが運行しておらず;
駅前から酒田港までは少々距離が御座いましたので、行きは兎に角確実に…と思いまして、タクシーで向かう事となりました。
飛島への渡島には、乗船手続が必要で御座います。
乗船時間は約1時間半。
ウトウトと眠りこけている内に、気付けば飛島に到着しておりました///

飛島は、酒田港より約39キロメートルの海上に浮かぶ 周囲約12キロメートル、面積約2.7平方キロメートルの小さな島。
鳥海山大噴火の際に島が誕生したといわれる説や、女鹿山から続いていた羽県という半島が 嘉承3(850)年の大地震によって陥没して出来た島であるという説等があり、出現からして謎に包まれている不思議な御島でも御座います。
有史以前は無人島であったと考えられておりますが、紀元前には既に人が住んでいたともいわれております。
島内から縄文土器が発掘されている事から、約6千年前には確実に人類が居住されていたようで御座います。
平安期には、陸奥国の安倍氏、出羽国の清原氏の元にありましたが、その後は秋田の仁賀保氏、武藤氏、最上氏、酒田氏の勢力下に置かれたという事で御座います。
“飛島”という名称に定められたのは、江戸初期の事。
それ以前は、“都島”“渡島”“分之島”“鶴路島”“潮島”“豊島”“とど島”…等、時代と共に様々な名称で呼ばれていたようで御座います。
御恥ずかしい話ですが、最初に“飛島”という地名を本で見た時、迷わず“あすかじま”と読んでしまったのは私だけ…では無いですよね!?と信じてみたかったりして…も…申し訳御座いません;;
正しくは、読んで字の如く“とびしま”で御座います(笑)
飛島は、昭和25年4月に酒田市と合併。
昭和38年7月には国定公園に指定され、釣りやハイキングを楽しむ方々で賑わう楽しい御島となっております〜。

↑今回、私が目指しましたのは こちら。
“法木”集落近くの山中、ハイキングコース沿いに御座います“源氏盛、平家盛”で御座います。
源平両氏の姓が名付けられておりますが、ぶっちゃけ源氏とは無関係で御座います(笑)
源氏盛と平家盛、そして法木地区は、山形県内に伝わる平家伝承地の1つで御座います。
“源氏盛”といわれるのは、恐らくは近世に至って 2つある平家縁の塚から源平合戦を連想されるようになった事によって自然とそう呼ばれるようになったので御座いましょう。
山形の他の場所では悉く冬季故の恐怖や不便さを味わっておりました;
離島である飛島への渡島も、矢張りこの時期は中々に不利な条件が伴っておりまして…先ず、難関に感じられたのは1日に1往復しか船の便が無く、更に欠航も多いという現実で御座いました。
無事上陸出来たとしても、島内の様子や交通の便について色々と不安や疑問が御座いましたので、事前に酒田市の窓口に問合せをさせていただいたので御座いますが、飛島に関する詳細は酒田市
では殆ど分からないのだそうで…そ、そんなー(涙)
恐らく雪は解けていると思いますが、詳しい事は実際に行ってみて下さいという事で御座いましたので、これは もう直接行ってみる以外に無いなぁと思いまして、強引に日帰り渡島をして参りました。
ちなみに…時間の都合で私は日帰りで御座いましたが、外部から観光にいらっしゃる方は1泊されるのが普通だそうで御座います。
また、島内では無料のレンタサイクルも実施されているという事で御座いましたが、こちらも冬季の貸出は行われていらっしゃらないのだそうで…。

島内にはハイキングコースが整備されている事もあって、其処彼処で案内地図を発見する事が出来ますので、基本的に迷う心配は御座いませんでした。
ただ、日帰りの為、私が島内に滞在出来る時間は僅か2時間半…!
復路の定期船に遅れないように確実に戻って来なくてはならない事が、今回最大の課題で御座いました;
距離的にはどの程度のものかな…という不安も御座いましたので、極力早歩きや小走りでちょこまかと移動致しました。
定期船停泊の勝浦港から海沿いの道を只管進み、中村地区の小中学校脇から山道に入って少し登った場所に、源氏盛、平家盛への道標を発見致しました。
下船からこの場所到着まで、所要時間は40〜50分程度。
とりあえず、ほっとひと息吐きたくなる瞬間で御座いました(笑)

道標に従って細道に入ると、直ぐに案内板が目に入りました。
奥には囲いが少し見えておりますが、手前と置くに並んで築かれた囲いの中に、どちらがどうという事も無く“源氏盛、平家盛”と呼ばれている塚が御座います。
源氏盛・平家盛
屋島、壇の浦の戦いに敗れた平家の武者たちは、海上に活路を求め、軍船で伯耆を船出しました。
北へ北へと押し流され、さらにいくどかの強風にもあって破船し、この飛島に漂着しました。
陸に上がった武者たちは、追手から逃れるため、弓矢、具足を捨てて土着し、漁の道に入りました。
この饅頭塚のひとつは、落ちのびる船中で最期をとげた武者たちを葬り、いまひとるてゃ、漁具に持ち替えた刀剣、甲冑を埋めたものと伝えられています。
酒田市

小山のような塚を想像していたので御座いますが、そんなに大きく盛り上がっているという事も無く、少し こんもりと盛り上がっている小さな丘が2つ綺麗に並んでいるといった感じで御座いました。
とびしま総合センター様にていただいた資料によりますと、この2つの饅頭塚は、それぞれ直径約4メートル、高さは1.5メートル程度であるという事で御座います。
2つの塚の内、1つには 落ち延びる途中の船内にて亡くなられた平家武者の方々が葬られていると言い伝えられており、もう1つには この島に土着する事を決意された元平家武者の方々が甲冑、刀剣等、武士である証を封印なさったといわれております。
こちらが史跡として扱われていないのは、物的証拠が発掘されていない為……と申しますか…言い伝えによれば、この場所は平家武者の御墓でもある訳で御座いますので“掘り返すと祟りがある”と古くより戒められており、それによって今も尚 発掘調査等は行われていないのだそうで御座います。
何十年か前に、意欲有る この島の若者達が真実を突き止めようと発掘を試みたのだそうで御座いますが、祟りを恐れた大人達の抑制によって、結局 計画は阻止されてしまったのだそうで。
また、“この塚の下には御宝が埋蔵されている”という伝説も語られているようで、かつて塚を掘り起こそうとする人も居たそうで御座いますが、完全に掘り返す前に見付かって元に戻されたという事で御座います。
そこまでして、頑なに護られてきた2つの塚。
それが今も続く、飛島の住民の方々と平家武者の方々との絆の証であるのか否かは定かでは御座いませんが、墓所を暴いてまで真実を知ろうとは思わない…その御気持ちは、とても大切なものだと私は思います。
もしも土地の方々が反対を唱える中、発掘が実施されて 本当に平家縁と思われる白骨や骸が発見されたとしても……それを知って手放しに喜ばれる御方は、一体何処の何方なので御座いましょう。
歴史的証拠を確証付けられる場所だけが“史跡”だとは、私は思いません。
長い年月を、只管に隠して護り通して来られたという事も、また1つの歴史であり大切な文化で御座います。
それを中断して白黒ハッキリさせずとも良い場所、そんな場所がある事も素敵だと思いませんか。
源氏盛・平家盛
文治もすえのむかし、この島の東海岸院の島(いまの寺島)も漂着した一艘の軍船があった。
院の島は、当時円福院が拝領していたため、名主は住職とつれだってでかけたが、船はながいあいだ、波風とのはげしいたたかいを物語るかのように、帆柱は折れ、舵もちぎれ、舷もまた無残にやぶれて、見るかげもないありさまであった。
船内には具足をまとった武者どもが、息もたえだえにつかれはてて、寄りそい、あるいは折りかさなって、すでにこときれた者も多く、目をおおうばかりの惨状であった。
この者たちは、屋島、壇ノ浦の戦いにやぶれた平家の武者たちで、きびしい源氏の探索をのがれて、海上に活路をもとめ伯耆の国をあとに船出したが、岸にももどれず沖へ沖へとおし出され、黒潮の流れと、南の風にのっていつとはなしに、北へと流されてしまったのであった。
途中いくたびか強風にあい、巨浪にほんろうされながら、能登の岬をかすめ、佐渡が島をそれ、栗生島もはずれて、この島にたどりついたものであった。
名主は、代官所からの触れで、すでに落武者であることをさっしたが、あまりにも無残なこのありさまに呆然とし、せめて生存した者の救い出しを決意して、ひそかな扱いを島びとに達した。
島びとの手厚い看護のかいあって、この者たちは一命をとりとめることができたが、天下のお尋ね者とはいえ、肉親もおよばぬ思いで助けた人たち、恩愛の情が自然にわいて、ひそかに島に土着させることを名主に願いでた。
「仏法ゆかりの院の島に漂着したのも、なにかの因縁……」
と、名主も島の北側の崖かげの地へひそかに住まわせることを心に決め、万一探索の手がのびても、いっさい口をふうずることを命じた。
それからのち、この者たちは武者姿をかなぐり捨て、弓矢を魯櫂に、刀を漁具にもちかえて漁の道にはいった。
法木の部落は、落武者の住みついたところといわれているが、船出した伯耆にちなんでつけた部落名ともいわれている。
また高森山麓の二つの饅頭塚は、源氏盛、平家盛といわれ、1つは落ちのびる船中で無念の最期をとげた武者たちを葬ったものといわれ、いま1つは武士を廃業したこの者たちが、甲冑、刀剣を埋めた鎮魂の塚と伝えられている。
さらにこの部落に古くから伝わる、被ったフロシキの上を手拭いでハチマキに結び、顎にたれた端を頭の上にゆわいつけるかぶり方は、武者なごりの「兜被り」とよばれている。 (飛島 伝承ばなしによる)
元平家武者の方々が、現在の法木地区へ住まわれるようになったのは、少し後の事とともいわれております。
逃れて来られた当初は、追手が来る事を想定してか山中で生活されており、次第に漁をするのには海辺に近い方が便利である事から平地に集落を作られたのでは無いかと考えられているようで御座います。
飛島の先住民族説
飛島の昔の生活は、どのように進んできたか。
源氏と平家が戦って、源氏から戦いに負け、東北地方に、落ちのびる時舟にのってきたが、波が高く、強いあらしのために、ちんぼつした。
その時、平家の人々は、島をみつけ、およぎついた。
その場所が、今の法木部落である。
離れ島のため、大陸に帰れず飛島に住むようになったのだと言われています。
のみ水もきれいにすんでいるし、家の建物、道路の広さ、寺院の歴史、姓名を見ても法木部落は、他の部落とことなっている。
尚、法木部落にある「多宝寺」の過去帳を見ると、約六百年前の歴史があるとされ、勝浦部落にある「円福院」は、それより後に建っていることが分かる。
又、説によれば、武家政治のため、各地で戦いがおこった。
そのために負けた方の大将は打ち首か切腹し、その家族などは島流しにされたもので、東日本では一番つみの重い人々は、この島に流されたといわれています。 (石巻・酒田沿線 道にまつわる「ふるさとの伝承」 酒田市 ふるさとの民話 による)
法木地区の方々の苗字についてで御座いますが、“齋藤”さん、“進藤”さん、と仰る御宅が多いようで御座います。
“藤”が付くから藤原氏の子孫の平家…?ともいわれてもいるようで御座いますが、うぅん…む、難しい問題で御座いますね〜(苦笑)
齋藤姓、進藤姓は、共に藤原利仁様の御子孫であるといわれる事が多いようですが、利仁様は平安期の伝説的武人で御座いますので、その御子孫を名乗られた人物で平家に縁がある方が居られても、おかしな話では無いのかもしれませ…ん…が。
利仁様の後裔を名乗られた源平合戦の頃の御方で、平家方として戦われた武将といえば、斎藤実盛様で御座いますね。
実盛様は篠原合戦の際に木曾軍によって討取られておられますが、実盛様の御子息である五様、六様 兄弟は、平家方として最後まで御仕えされておられます。
然し、同年の平家御一門都落ちに、御兄弟は維盛様の御嫡男 六代御前の御傍に残られておりますので、西国落ちには同行されておらず…壇ノ浦に敗れて舟で敗走という事には繋がらないように思います。
ただし、五様、六様に他の御兄弟が居た可能性は十分にあるかと思いますし、その御兄弟が御一門に従って都落ちされていたという事も考えられる事では無いかなとも思います。
…等と、色々な想像を巡らせている私で御座いますが…考え過ぎで御座いましょうか(苦笑)
平家落武者の話はこんな形でも残っている。
法木集落の男だけは「兜被り」という、フロシキの被り方をしたという。
被ったフロシキの上を手ぬぐいで鉢巻きに結び、あごに垂れた端を鉢巻きに結び付けた。
平家落武者の名残と伝えられるが、今では、そうした光景も見なくなった。 (「飛島ゆらゆら一人旅」による)

源氏盛、平家盛を訪れた後、未だ少し時間に余裕があると思いましたので、直ぐ麓の小中学校脇に御座いました とびしま総合センターを訪ねて参りました。
総合センターは、飛島の役場や公民館、福祉会館的な要素を統括した総合施設のような感じで御座いました。
突然の訪問で色々と御迷惑を御掛けしてしまいましたのに、とても御親切に対応して下さいまして…本当に嬉しかったです。
所有されている資料等を調べてコピーをして下さったり、酒田で資料を所蔵している場所を教えていただきまして、図々しくも立ち寄らせて貰って良かったなぁと心から思いました。

↑飛島に関する様々な御話は、とびしま総合センターにて御紹介いただいた 齋藤正一先生に教えていただきました。
丁度この日の便で酒田へ行かれる用事があったとの事で、総合センターより電話で直前アポをとらせていただいた後、復路の船内で御一緒して御話を聞かせていただきました。
齋藤先生は平家武者伝承の伝わる法木地区の御方で、飛島に御祀りされている八幡神社、小物忌神社の宮司さんでも御座います。
法木地区の中には更に“亻法(※にんべんに法と書くようです)木”という地域があるそうで、そちらが特に平家に縁ある方々の集落であると伺いました。
齋藤先生には、その他 飛島に関する様々な伝説や経験談等を御話いただきました。
とびしま総合センターの職員さん、齋藤正一先生、この度は大変御世話になりました。
御忙しい中、快く応じて下さいました事、本当に嬉しく思っております。有難う御座いました。
* * * * * * * *
823年前の昨日は、寿永4年3月24日(1185年4月25日 ※ユリウス暦です/グレゴリオ暦では1185年5月2日で御座います)…長門国 壇ノ浦にて平家御一門が滅亡の時を迎えられた日で御座いました。
本当は昨年のように、今年も赤間神宮にて行われる先帝祭に参加したかったので御座いますが……どうしても抜けられない仕事の為、残念ながら今年は東京に居残って自宅の神棚より遠い長門国を遥拝、御一門の冥福を御祈りさせていただきました。
何処に居たって、私が平家の方々を想う気持ちは変わりません…けれど、矢張り少しでも御傍近くへ参りたかったというのも本音で御座います。
夏の帰省の際、下関にも足を運んで 改めて御一門の御霊に御挨拶させていただきたいと思っております。
義経様主従の足跡が色濃く伝えられる地で御座いますので、源氏縁の場所から更新して参りました。
今回、私が訪れる事が出来なかった場所も未だ未だ沢山御座いますので、折を見てまた山形を訪れたいと思っております。
えっと…山形でまわった場所が幾つか残っておりますので、山形の記事は5月初旬まで続く予定で御座います〜。
記憶が鮮明なうちに!と思いつつも、もう山形から帰って来て1ヶ月以上が過ぎているので御座いますねー。
月日が経つのは早いもので御座います。
さて…本日と明日は、山形の平家に縁あるといわれる場所について記してみたいと思います。
先ずは、義経様主従の伝承も色濃く残る山形県最上郡最上町の平家伝承地について。

最上町東法田のいちばん奥にある“窓塞”という小さな集落には、平家に縁のある方々の落人伝承が伝えられております。
“窓塞”という名の通り、古くから窓を塞いで家に籠っているといわれる地域でもあるという事で…。
私が事前に知っていたのは、その程度の情報で御座いました。
それだけではいまいち何をどう探ったら良いか分かりませんし、第一 東法田の窓塞地区というのがどの辺りを指すのか、私の持っていた地図では見当もつかない状態で御座いましたので、実際に訪れる数日前に最上町役場に連絡をさせていただき、当日 御話を伺わせていただきました。
役場にていただいた資料によれば、窓塞村の起源は矢張り平家の滅亡に関係があると記されておりました。
窓塞村のおこり
小又山・大鏑山の南麓に「窓塞(まとさたぎ)」という集落がある。
小国川の支流白川の最上流の、戸数わずか数戸の村である。
「窓塞。」他所では余り聞かない地名である。
土地の人々は、この村は平家の落人が開いた村だという。
平安時代の昔、平家一門は源氏の軍勢と瀬戸内海壇ノ浦に戦って惨敗した。
幼帝安徳天皇を始め、名門平家一族の多くが春の冷たい海に沈んだ。
わずかに生き残った人々は、厳しい源氏の探索の目を逃れて、必死に東に、西に逃げのびた。
彼らの生きる道は厳しかった。
源氏の捜査網は全国津々浦々に張りめぐらされていた。
落人たちは、人目につかぬよう、昼は人里離れた山中に隠れ、夜中暗がりの中に歩を進めたという。
それでもなお、源氏の兵につかまり、命を落とす者も少なくなかった。
窓塞の地に逃げ伸びた落人たちは、まことに幸運な人々であった。
白川の上流部、窓塞の地は、神室山・軍沢岳・大鏑山・小鏑山(禿山)・小又山などから流れ出る東ノ又沢・大又沢・西ノ又沢の三沢が合わさる所である。
まさに、最上盆地の平坦部の行き止まりの地点である。
白川流域の村々も、平安の昔は、現在よりもずっとずっと人家が少なかったに違いない。
落人の目には、この地こそわれらが安住の地と映ったに違いない。
しかし、彼らはなおも敵の目を恐れなければならなかった。
ちょっとでも油断すれば、いつ敵の手にかからないとも限らない。
それで、彼らは折角建てた家の窓を全部塞いで、内部が見えないようにしたという。
これが村の名前「窓塞」になったというのである。
窓塞には美人が多いという。
平家の落人の子孫だからというのであるが、果たして真実はどうであろうか。
(「神室連峰 - 山の信仰と伝承」による)
↑窓塞を“まとさたぎ”と読まれておりますが、地元の方は“まどふたぎ”と呼ばれているそうで御座います。
どちらの読み方が正式なのかは不明という事で御座いました。
この他、何か平家にまつわる伝承や風習等御座いましたら…と御聞き致しましたら、
「平家に関係あるかどうかは分からないんですが、窓塞の風習っていったら藁人形を軒先に吊るす事かな…」
と仰っておられました。
何はともあれ、折角 最上まで来たのだから窓塞へ行きたいのですが…と相談したところ、バスは1日に1便あるかないかという程度で その他に交通機関は通っておらず、車でも結構距離があるのに徒歩というのは ちょっと無理なのでは…という事で御座いまして;
次回訪れる際にレンタカーで…という考えも浮かびましたが、平家関連の間近にあって行けないだなんて、そんな据膳を食わぬような真似は私には出来ない……という結論になり、気が付いたら最上駅近くのタクシー会社さんの扉をノックしておりました(笑)

運転手さん「東法田の窓塞…行きたいの?どうしても?」
私 「はい、どうしても…」
運転手さん「どうしても……?何も無いよ?」
私 「はい、ただ行ってみたいだけなのですが…」
運転手さん「…窓塞に?あそこって何かあるの?知り合いが居るとか?」
私 「いえ…実は、平家の末裔の方の集落だと伺って……」
運転手さん「平家?う〜ん…窓塞はねぇ〜…何ていうか、ちょっと恐いんだよね(苦笑)」
私 「恐い?」
運転手さん「いやぁ…何ていうの、良くわかんないんだけど藁人形みたいなのがさ…」
…そういえば!窓塞には藁人形を玄関先に飾る風習があるようだと役場の方も仰っておられました。
藁で作った人形の形代を軒先に吊るす…という感じで仰っておられたので、私は てるてる坊主的な可愛らしい姿を想像していたので御座いますが、それを御話すると
「いやいや、そんな可愛いもんじゃないよ〜」
と言われましたので、どれ位なのですかと御伺いしましたら、
「どれ位って…デカいよね、人間位はあるかなぁー」
……え…実物大!?

↑それで私が更に想像したのが、こんな感じの…(この下手な図ではより謎な気も致しますが;)
「あ、あった。これこれ、こんな感じ」
と言って運転手さんが停まって下さった時、窓越しに見た実際の藁人形さんがこちら↓

「ぅわ…っ!!え、これ…こ、殺さ…!??死んで…???あ、いや…え、えぇえ!??」
…吃驚した勢いで、思わず奇妙な反応をしてしまいました…本当に申し訳御座いません;;
だって、リアルに人間サイズで…おまけに教育上よろしくない漫画や映画等で見るような状態で心臓を一貫きにされていらっしゃったもので御座いますので…素で驚いてしまいました。

運転手さんが車から降りて見てもいいよと言って下さいましたので、恐る恐る色んな角度から観察させていただきました。
正直、例え この地が平家伝承とは無関係だったとしても 呪詛的な香り漂うこの場面だけで充分、私は興味を惹かれてしまいます///
この藁人形さんは“形代”――神社の大祓神事の際に紙で出来た人形の形代を用いますが、恐らくは それとほぼ同義の感覚で執り行われている民間の風習なのでは無いでしょうか。
等と考えつつ、他の御宅もちらちらと拝見させていただいておりましたが、冬期であった為か、私が訪れた時には窓塞でも こちらの他の御家庭には見られませんでした。
役場の方も運転手さんも、季節等によって飾る時期が決まっているのかもしれないけれど、詳しい事は分からないそうで…ただ、この集落内なれば どの御宅でも行われている謎の風習であるとは言われておりました。
私がチョロチョロと集落内を走り回るので、運転手さんもタクシーから降りて 私と一緒に近くを歩いて下さいました。
誰かこの地に御住まいの方に接触出来れば、何か御話が聞けるかも…と思ったのですが、なかなか誰も出歩かれてはおらず;
“窓塞”だから源氏の追手を恐れて外へ出て来られないのでは無く、この寒い中 特に理由も無く外には出ないだろう…という感じで御座いますよね。
そうしましたら、私の様子から察して下さった運転手さんが、近くで作業をされていた地元の方に話し掛けて下さいまして!
少しですが、御話をさせていただく事が出来ました。
おまけに、上手く方言を聞き取れない私の為に通訳までしていただいてしまいまして…本当に有難う御座います…っ(感涙)
その方の御話によれば、窓塞で行われている藁人形の風習ですが、元々は東法田の他の集落でも行われていたのだそうで御座います。
元々は、何処かに参詣(?)された人が持ち帰って始められた行事(??)で、それを馬鹿にした方が亡くなってしまった事から、それ以降 魔除けとして飾るようになったという事で御座います。
“身体の悪い所を実物大に作った身代わりの藁人形に移し、そこを突き刺す”のだそうで御座います。
イメージとしては 大きな針治療を形代が担って下さるので、それによって病が治る…という感じで御座いましょうか。

御話させていただいたのは窓塞で生まれ育って70年の御方で御座いましたが、平家の落人伝承について御伺いしましたところ、“そんな話は聞いた事が無い”という御答えをいただきました。
あ…あれ……この集落に伝わって来た伝承じゃ…無かっ…た…っけ?と思わずキョトンとしてしまいましたが、資料にあった記述を思うと 近世に至るまでに人口も増えておられる事で御座いましょうし、その間に語られなくなったと考える事も出来るかなぁ…と;
実際に訪れて噂の出所の謎がより深まった場所は、こちらが初めてで御座いました(笑)

もしも近くに神社とか墓地があれば、平家伝承に関する事が何か分かるかも…と思って辺りを見回してみましたが、それらしきものは見当たらず…。
運転手さんが言うには、窓塞地区には神社は存在していないという事で御座いました。
もしくは この地域に多い苗字が分かれば、何かヒントになるかも?とも思いまして、運転手さんに聞きましたら“管(かん)”さん、“高橋(たかはし)”さん と仰る御宅が多いと教えて下さいました。
……が、すみません;何も判りませんでした;|||
集落の入口付近には、大きな2基の庚申塔が立てられておりました。
これは、庚申待の信仰によるもので御座いますね。

窓塞からの帰り道、
「雪があるから近くまでは行けないけど、折角 東法田まで来たんだから」
と運転手さんが見せて下さったのが、“東法田の大アカマツ”と呼ばれる山形県指定の天然記念物。
日暮れ前の曇空の下で御座いましたが、1本だけ際立って聳える大きな赤松さんは、遠目にもぼんやりと確認する事が出来ました。
この赤松さんは、樹齢500〜600年だそうで御座います。
「遠くから この赤松を見に来る人はたまに居るけどね〜、窓塞を見たいって言う人は御客さんが初めてだよ」
と笑いながら仰った運転手さん。
実は、最上町役場でも 似たような事を言われました(笑)

帰りは、最上駅より最寄でタクシー代や電車代も少し浮くから…と運転手さんが気を遣って下さいまして、大堀駅前で降ろして下さいました。
ちなみに、タクシー代は結構素敵な金額になってしまい、完全なる予算オーバーで御座いましたが(苦笑)、良いのです…。
厳しいけど何とかなる程度の痛手よりも“行きたかったけど行かなかった”という選択肢を選ぶ方が、確実に後悔が残りますもの。
大堀の駅舎はログハウス風の可愛らしい建物で、待合室と図書室が一体となっている様子で御座いました…が、図書室と表示はされているものの、本は1冊も置いてありませんでした〜;
最上町役場さん、タクシーの運転手さんには 義経様主従の伝承地の件でも大変御世話になりました。有難う御座います。
最上町内で関わって下さった全ての方に、心より感謝の気持ちを抱いております。
先日、最上町友好会員の会員証が届きました♪
最上には、未だ未だ私の知らない事、知りたい事が沢山隠れております。
今後も機会を作って、是非 何度も足を運べたらと思っております。

山形県鶴岡市羽黒町。
鶴岡市から羽黒山へと続くバス通り上にある一の鳥居を潜って更に少し進んだ場所に、こちら…正善院さんは御座います。
源頼朝様による御創建と伝わる正善院さん所有の黄金堂をひと目拝見させていただきたく、出羽三山神社参詣前に立寄らせていただきました。
□ 正善院(しょうぜんいん) □
所在地:山形県鶴岡市羽黒町手向字手向
御創建:推古元(593)年
御開山:蜂子皇子(能除太子)
御開基:慈覚大師円仁
御本尊:不動明王(荒沢寺)、聖観音(黄金堂)
宗 派:羽黒山修験本宗
山 号:羽黒山
旧 称:手向山中禅寺正善院→羽黒山長寿寺正善院
正善院さんは、羽黒山荒沢寺の本坊で御座います。
元は黄金堂別当として手向山中禅寺正善院と称されておりましたが、時代の流れと共に宗派やその名称も変化してこられ、明治期に羽黒山荒澤寺正善院となり、現在に至っております。
道路を挟んだ向かい側にある黄金堂を所有、管理されていらっしゃいます。

朱の山門には、沢山の大きな草鞋が奉納されておりました。
何だか弁慶様にピッタリなサイズだったりして〜(笑)等と思いながら、近寄ってみると…あれ!?
山門の内側に“辨慶”という文字が………!!

草履の影から山門(外から見て右側)の中を覗いてみますと、何やら大きな御鍋が!
これは“弁慶の粕鍋”と呼ばれる代物で、弁慶様が粕汁を煮られた御鍋だと伝えられているそうで御座います。
辨慶の粕鍋
武蔵坊辨慶この鍋にて粕汁を煮て一飲みせしと云う
蒙古襲来のとき敵国幸福を祈り羽黒山上にて大梵鐘を祷るこの時使用せる鍋なりと云ふ三個の内一個は鶴岡市鳥居町の河原に賽銭受として埋め一個は釜清水に埋むと云う
石田茂作博士曰
この種の鍋箱根権現厳島神社にもあり共に修験の篭りしところゆへ 恐らくは「探湯」「湯立」に用いしものならん
この鍋特に大きく姿も美はしく重要文化財の価値ありと云う
昔し釜堂に祀られ「釜の神」又は「釜堂大明神」として崇められた

山門を潜ると、手前にお竹大日如来堂、そして正面奥に黄金堂が御座います。
雪の山で半分位見えておりませんが、ちゃんと歩いて黄金堂へ行ける分の通路は除雪されておりました。
黄金堂は“こがねどう”と読みます。
建久4(1193)年 奥州征伐成功の御礼として、頼朝様が土肥実平様を建築奉行に任命して建立させられました。
御本尊である三十三観音が金色に輝くという謂れであった事により黄金堂と名付けられ、山号を金堂山と改め、御本尊として観音像三十三体を安置されました。
応化堂とも呼ばれましたが、羽黒山頂の大金堂(※現在の出羽三山神社の三神合祭殿の事)に対して、小金堂、光堂 等とも呼ばれていたようで御座います。
神仏分離前までは、正善院さんとの間の道に鳥居があり、境内には大日堂の他に、弥勒堂や観音堂等、諸堂を有する寺院であったといわれます。
文政5(1822)年の大火災や明治期の廃仏毀釈騒動での被害を免れて現存する黄金堂は、国の重要文化財にも指定されております。
黄金堂
この『黄金堂』は、健久4年(西暦1193)源 頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、戦勝祈願のため寄進したと言われている。
その当時は、『長寿寺金堂』(小金堂)と言われていた。
また、羽黒山頂にある三神合祭殿の前身『寂光寺金堂』(大金堂)と共に、大小2つの『金堂』と言われていた。
現在の堂は、文徳5年(西暦1596)に甘粕備後守が大修理したもので、正面5間(9M)、奥行3間(7.2M)の『方形造り』である。
境内には、黄金埋蔵の伝説が残っており、国の重要文化財にも指定されている。

一昨日、将門公建立といわれる羽黒山五重塔について記しましたが、神仏分離前に五重塔に安置されていた御本尊 観音菩薩像、軍茶利明王像、妙見菩薩像 等の御仏像様は、現在 こちらの黄金堂の中に安置されているという事で御座います。
妙見菩薩様、拝見してみたかったなー…とは思いましたが、黄金堂も矢張り冬の間は扉を固く閉ざされるのだそうで(苦笑)
拝観可能時期は4月〜10月という事で御座いましたので、きっと今頃は公開されている事と思われます〜。
国指定重要文化財
羽黒山正善院黄金堂
一、指定年月日 明治四一年四月二三日(昭和二五年八月二九日)
一、告示番号 内務省告示 第四三号
一、指定理由 文化財保護法第二七条の規定による。
一、沿革
黄金堂は同境内(現在は道路によって分断)の正善院の所有である。
正善院は黄金堂の別当職で往古「手向山」中禅寺正善院と称し、のち、羽黒山長寿寺正善院と称してきたが、維新後、羽黒山荒澤寺正善院として現在に至っている。
もと羽黒山には羽黒山寂光寺・添川山賀我寺・広澤山荒澤寺・堂塔山瀧水寺・南流山禅定寺・金色山福王寺・手向山中禅寺・来迎山千勝寺・医王山機乗寺・不動山嘉祥寺の十大寺により構成されていたが、次第に羽黒山に統合し段盛を極めたが、明治の神仏分離後は荒澤寺・正善院・金剛樹院の三ヶ寺が現存するにすぎない。
黄金堂は、山上の大金堂(今の三神合祭殿)に対して、小金堂と言います。
金堂とは本堂のことで、三十三体のご本尊が金色に映えしより、黄金堂と書き、コガネドウと訓む。
一、神亀五年(一七二八) 聖武天皇勅願建立との伝承あるも詳ならず。
一、建久四年(一一九三) 源頼朝建立とも伝う。
建築奉行土肥次郎実平。
一、元応ニ年(一三二〇) 出羽国判官代栄家修復。
一、文禄三年(一五九四) 酒田城主粕備後守景継公大修復。
一、後世しばしば修理模様替あり、昭和三十九年解体修理工期満二ヶ年、同四十一年解体修理完了、同六十一年防災設備完備。
お堂の中には貴重な文化財が多くお祀られております。
一、私達国民の宝・文化財を大切に愛護しましょう。
平成四年三月 山形県教育委員会 / 羽黒町教育委員会 / 羽黒山荒澤寺正善院

こちらは、お竹大日如来堂。
“お竹さん”は、江戸時代 庄内地方出身で、江戸へ出て大伝馬町邸宅の女中さんとして働かれた心の清らかな女性。
予てより生仏様として人々より篤い信頼を受けていたといわれますが、その没後、“お竹大日如来様”として崇められるようになったそうで御座います。
東京にも幾つか史跡が伝えられておりますね。
こちらの手前には、不動明王像や その他数基の石塔が並んでいる…という事なのですが、雪に埋もれてしまっているのかもしれませんね;
もしかしたら、冬の間は避難なさっているのかもしれません。
お竹大日御縁起
優しい心を持って情け深くかげ日向なくまじめで勤勉で腹もたてず 人の悪口を言わない
そんな心を持ち続けていたいと思いながら 私達はこの反対を行っていませんか
お竹さんとは これを実践し 生き佛と崇められ逝くなられてから佛様の化身だったとして祀つられた方です
お竹さんは 寛永十五年三月二十一日 享年五十八歳浄土宗善徳寺に葬られ 性岸妙智信女がその戒名です
お竹さんは 江戸日本橋大傳馬町佐久間勘解由家に長く女中として住込み 晩年は家事一切をまかされていましたから佐久間家では大層なげき悲しみお竹さまの木像を彫刻し佐久間家の護り本尊としてお祀りしました
寛文六年黄金堂境内にお竹大日堂を建立しお竹さま縁故の地においてお祀りすると共に お竹さんを廣く知らせんとしたのである
後 五代将軍生母 圭昌院さま お竹さん 女中姿の木像を芝 増上寺山内 心光院に祀り 江戸にてお竹さまの精神宣揚をはかると共に奥女中にも信仰せしめたからこの頃がお竹信仰が江戸で最も盛んでした
圭昌院さま餠詠
有り難や光と共に行末は 光の台にお竹大日
お竹さま御詠
手と足はいそがしけれど南無阿弥陀 口と心の暇に任せて
俳人一茶
雀子や お竹如来の流し元
守るかよ お竹如来のかんこ鳥
雪の日や お竹如来の縄だすき
その他多くの歌や川柳にも詠まれています
平成十三年三月吉日 天羽 詮明 書 / 大久保 朝雄 作

こちらの境内には、古くから 黄金の埋蔵伝説が囁かれているそうで御座います。
伝説によれば 黄金堂は当初、平泉 中尊寺の金色堂を模して金箔を貼られる予定であったのだとか…。
建立に際して、羽黒山の御本堂に合わせて素木造とされる事となり、未使用となった黄金を縁の下に埋めて奉納されたという事で御座います。
額にして、千両もの金が埋められている…という伝説のようで御座いますが、千両という数字は一体何処から…というか“両”は江戸時代の通貨単位では…;
それに御奉納として埋められた金なのであれば、掘り返してどうのこうの…等と考える事自体、いけない事で御座いますよね(笑)
他力本願な一攫千金に愚かな夢を抱くよりも、私は自分の生活に必要な額だけを地道にコツコツと稼げる事こそが、何よりも有難い御宝であり幸せであると思っております。
一生、リッチな暮らし等とは無縁なタイプで御座いますね(苦笑)……うーん、玉の輿には憧れるんだけどなぁ←矛盾。

↑こちらは、三山の中で最も標高が低く、冬期でも参詣が可能とされる羽黒山の頂上付近。
本日は、昨日の記事に引き続きまして、羽黒山頂の出羽三山神社について。
古来より修験道を中心とする山岳信仰の霊場として栄えてきた出羽三山とは、月山、羽黒山、湯殿山の総称。
月山、湯殿山の頂上にも、それぞれ神社が御祀りされておりますが、羽黒山山頂には 出羽三山の神様を合祀された神社 出羽三山神社が御座います。
女人禁制の御山へは行けまい行くまい…と思いつつも、ついにここまで来てしまった私(苦笑)
登るにしても、本来ならば御参道を地道に進んで行くべきで御座いますが、積雪と参詣時間の関係で、車で移動する事となりました。
車だと本当にアッサリと到着してしまいますね。
修験道の地でこれは何だか情け無いかも…;という気分に陥りながらも、呑気に流れる景色を楽しみながら、頂上へと向かわせていただきました。
この辺り…山頂へ続く有料道路付近には、この先が女人禁制の聖域であるという表示碑が建立されているそうで。
あぁぁ……ついに、越えてはならぬ一線を、私は いとも簡単に越えてしまうのね…と恐々な心境で御座いました。

駐車場に車を停車し、神社へと向かう途中に出羽三山歴史博物館が御座いました!
わぁ〜芭蕉さんの天宥追悼句が拝める!?とテンション高く近付いてみましたが……あれ…入口っぽい場所が御座いません…博物館の前にはドドンと雪の山が聳えており、人が乗り越えた形跡は微かにあるようで無いようで…。
えっと…後で御聞き致しましたところ、冬期は基本的に閉館期間なのだそうで御座います。
そうですよね…あはは…ですよねー…(乾笑)
きっと、もう2度とこちらを訪れる事は御座いませんので残念では御座いましたが、古来より伝わる数々の神仏集合時代の貴重な遺産が眠る宝物殿だからこそ、私は観られなくて正解だったのかもしれません。

更に進んで朱鳥居が見えると、その先に大きな御社殿が建てられているのが見えて参りました。
ここには元々、江戸講中の寄進による青銅鳥居が建立されていたようで御座いますが、青銅製であった為に戦争に出される事となりました。
後に庄内の子供達が寄付を集めて建立されたのが、現在のこの鳥居なのだそうで御座います。
鳥居を潜ると、正中よりも向こう側は完全に雪の世界で御座いました。
冬期でも訪れる参詣者の為に切り開かれてた通路から見て、積雪部分との境界である雪の壁は私の身長よりもずっと高くて…流石に、頑張っても向こうに何があるのかは判らないなぁ…という感じで御座いました;
雪の合間には梵鐘が見えました。
これは、鎌倉期に北条時宗様によって奉納されたもので、“建治元年乙亥八月二十七日”の銘が入っているそうで御座います。
蒙古軍退散は羽黒の霊威であると称えられての寄進で御座いました。
国の重要文化財にしていされている この鐘楼は、東大寺、金剛峰寺に次ぐ 日本で3番目に大きな梵鐘なのだそうで御座います。
奥床しい趣のある鐘楼堂は、切妻造の萱葺。
羽黒山では五重塔の次に古い建造物といわれております。
ここで打たれた除夜の鐘は麓の町まで響くそうで御座いますが、神社である現在も除夜の鐘をつかれているのでしょうか。

うーん…全然ちゃんと写っておりませんが(私は駄目カメラマン…)、これは えっと…蜂子皇子を導いたとされる三本足の御烏様で御座いますね。
八乙女浦より上陸された皇子の元に現れた、神様の御使いといわれる導きの烏さん…八咫烏さんと良く似た伝説で御座います。

□ 出羽神社(いではじんじゃ) □
所在地:鶴岡市羽黒町手向(羽黒山頂)
御創祀:不詳
御祭神:伊氏波神(出羽神社)、月読神(月山神社)、大山祗神、大己貴神、少彦名神(湯殿山神社)
通 称:出羽三山神社
出羽神社は出羽信仰の修験者達の手によって、各地に御祀りされた全国約200社の羽黒神社の総本社で御座います。
御創祀に関して正確な年代等は伝わっておりませんが、推古元(593)年に崇峻天皇の第1皇子である蜂子皇子によって開山された霊場であると言い伝えられております。
平安期以降、出羽神=観音様、月山神=阿弥陀様、湯殿山神=大日権現様と神仏集合の信仰が確立し、三山の神仏を一体の三所大権現として崇敬されるようになっていったようで御座います。
義経様の代参者として弁慶様が参詣されたといわれるのも、時代的にはこの頃の事で御座いますね。
当時、羽黒山は かなりの力を持たれていたと思われますので、危険を冒してまで義経様が誰よりも信頼を置かれていたと考えられる大切な従者を派遣された事には、何かしらの意味が込められていた…と考える方が、自然な気も致します。
弁慶様の参詣は、あくまでも伝説として語り継がれる出来事であって史実とは言い切れませんが、そう考える事で見えてくる景色というものもあるように思います。
その後も修験者を中心に深く篤く崇められ、勢力を増していかれましたが、江戸期に至ると寺院統制の影響によって、段々と衰えるようになっていったと伝わります。
明治期の神仏分離によって、神社として存続される事となります。
元々 出羽神社の御本殿には出羽神社の御祭神のみが御祀りされておりましたが、冬期に参詣の難しい月山神社と湯殿山神社の御祭神を合祀して、現在は三山の御祭神を御祀りする三神合祭殿となっております。
三神合祭殿は独特の建築形式で建立された大規模な萱葺き朱塗の御社殿で御座います。
平成12年には国の重要文化財に指定されており、きっと正面から拝めば圧巻なのだろうなぁと思うのですが、見えませんでした…(苦笑)
出羽三山の境内地には数々の御末社、摂社が多く御祀りされております。
全てを数えると、108社になるのだそうで…出羽の三所大権現様の元には八百万の神々が集い祀られていらっしゃるので御座いますね。

三神合祭殿の向かって右側には、授与所や休憩場所等のある参集殿が御座いました。
冬期は、そちらの中から三神合祭殿の内部へと入って昇殿参拝させていただく事が可能で御座います。
内部まで朱の色に包まれ、何処か異国情緒にも似たようなものを感じながら拝礼をさせていただきました。
御深秘殿と称される内部は、古来より17年周期で式年造営が斎行されているそうで御座います。
三山神社でいただいた御朱印は、見開き2ページに渡る大きなもので御座いました。
見開きでいただく御朱印は初めてで御座いましたので、感動も一入で御座います。

御本殿からして雪で正面から参拝出来ない状況で御座いますので、境内社の数々には近付く事すら出来る筈が無く…;
有名な鏡池や、宮内庁管理という蜂子皇子の御墓も、恐らくは雪の下で春を待たれていたので御座いましょうね〜。

「境内案内図によれば、この辺りに芭蕉さんが居る筈なんだけどなぁ…」
「居ないねぇ…雪に埋もれちゃってるのかな;」
と、自動車学校仲間と芭蕉さんを探しておりましたら、意外にも雪の上にて発見する事が出来ました…!(笑)
遠目に、藁の中に誰か居る!?という感じにしか見えておりませんでしたが、ちょっと可愛いかも…等と思ってしまうのは私だけで御座いましょうか。




