日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

振りかへるは、いつかの己と。
滝口入道

□ 斉藤 時頼(さいとうときより)

生 年:不詳
没 年:不詳
 父 :斉藤茂頼
 母 :不詳
通 称:滝口入道、高野聖


滝口入道様は、平家物語平維盛様が屋島を逃れた後に、高野山にて御出家なさる場面に登場される御方。
斉藤茂頼様の御子息で、御出家前は、京にて維盛様の御父様 重盛様に仕える武士で御座いました。
“滝口”というのは、内裏警護を担う滝口の武士であられた事による通称で御座います。

高野に年ごろしり給へる聖あり。
三条の斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼といひし者也。
もとは小松殿の侍也。
十三の年本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふ女あり、滝口是を最愛す。


滝口入道様といえば、横笛様との悲恋が伝えられており、この事がキッカケとなって仏門に入られておられます。

横笛様は、建礼門院様の雑仕女。
身分を越えて恋に落ちた御2人で御座いましたが、身分違いの恋が周囲に許される事は無く…。
茂頼様は、出世の見えぬ女に心を奪われおって!!と我が子を叱咤なさいますが、
夢幻のような人の一生の中、僅かな間であろうとも醜い女を傍に置く事が何になるというのだ。
 とはいえ、愛しい女を妻とすれば、父の命に背く事になってしまう…

と思い悩まれた滝口様は、出家し、現世との決別を御覚悟なさいました。

父是をつたへ聞ひて、
「世にあらんもののむこに成して、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめ
て」
と、あながちにいさめければ、滝口申けるは、
「西王母と聞えし人、昔はあて今はなし。東方朔といし者も、名をのみききて目にはみず。老少不定の世の中は、石火の光にことならず。たとひ人長命といへども、七十八十をば
過ず。そのうちに身のさかむなる事はわづかに廿余年也。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をかた時もみて何かせん。思はしき者をみむとすれば、父の命をそむくに似たり。是善知識也。しかじ、うき世をいとひ、誠の道に入なん」
とて、十九の年もとどりきて、嵯峨の往生院におこなひすましてぞゐたりける。


この事を伝え聞いた横笛様は、
私を捨てられるだけで無く、御姿まで変えられてしまわれた事を恨めしく思います。
 たとえ世の中の道理に背く事となろうと、何故私に御報せ下さらなかったのか…

と、滝口様を捜し出す事を心に決め、嵯峨野の辺りを当ても無く尋ね歩かれました。
滝口様が入られたのは往生院である事を人伝に聞いてはおりましたが、どの僧坊にいらっしゃるのかを定める情報は何も無く、あちらこちらを尋ねて回られるので御座いました。
そんな ある時、住み荒れた様子の僧坊から、念仏を読経する声が聞こえます。
それは、愛しい御人の聞きなれた筈の声――滝口様のもので御座いました。

滝口入道が声と聞なして、
「わらはこそ是までたづね参りたれ。さまのかはりておはすらんをも、今一度見奉らばや」
と、具したりける女をもていはせければ、滝口入道胸うちさはぎ、障子のひまより覗ひて見れば、まことに尋かねたるけしきいたはしうおぼえて、いかなる道心者も心よはくなりぬべし。
やがて人を出して、
「またく是にさる人なし。門違へでぞあるらむ」
とて、ついにあはでぞかへしける。
横笛なさけなう恨めしけれども、力なう涙をおさへて帰りけり。


横笛様が逢いたいと申し出られた事で、滝口様は愛した女性が自分を尋ねて心を乱す様子を知ります。
滝口様にとって、横笛様は既に割り切った筈の過去の女性…とはいえ、そう簡単に割り切れる想いであれば、御出家等なさる訳が御座いません。
本当は、他の何をも捨ててでも、手を取り合って駆落ちをするとか……なさりたかったのでは無いでしょうか。
それが出来なかったのは、偏に滝口様の真面目さと誠実さ故なのでは無いかと思います。
ただ、女性の意見と致しましては、本当に自分勝手な男であるという印象を拭う事は出来無いかもしれませんね;
幾ら女の方が身分が低いからといえど、想い合っていた筈の人が突然に姿を消し、人の噂で「出家したらしいよ?」等と知らされるだなんて…余りにも、強引だなと。
本当に相手の事を想っているのであれば、せめて 相手を諦めさせるだけの小芝居でも演じてみては如何かと思えてしまうので御座います。
この時、滝口様は きっと御苦しかったので御座いましょう。
横笛様の御心が見えぬ程に辛かったからこそ、仏門への道を急いで…御自分では、全てに整理をつけたおつもりだったので御座いましょうけれど。

滝口様は、直ぐそこに来ている横笛様に さぞや御逢いしたかった事と思われます。
然し、出家を選んだ身でありながら、そのように揺れる御自身の事が許せなかったのかもしれません。
それが横笛様を更に苦しめる事を知りつつも、逢いたいと願う御気持ちを隠し抑えて
この寺に、そのような者は居りません。
 門違えでありましょう

と伝えさせ、横笛様を追い返してしまいました。
両想いであろうとも、現世では結ばれる事が許されない。
仏門に入ったが後は、女人との交わりが許されない。
どれだけ御互いが求め合っていようとも、決して叶わぬ運命なのだ…と、滝口様は諦める事に必死だったのかもしれません。

私は、滝口様と横笛様の結末について…確かに世知辛く、哀しいものであったとは思いますが、さして珍しい事でも、涙が出るほどの悲恋だとも思ってはおりません。
日本版ロミオとジュリエットだと仰られる方もいらっしゃいますが、それは“身分違いの、叶わなかった恋物語である”という点だけの事なのでは無いかと思うので御座います。
冷たい言い方をするようで御座いますが、悩んだ挙句に横笛様も、俗世も共に捨てる事を選ばれたのであれば、滝口様が 横笛様を追い返した事は正しい選択であったのでは無いかと…。
そこから生じた切なさも後悔は、そういう道を選ばれた滝口様が生涯背負っていくべき影であり、今後を生き抜く糧としていく他は御座いませんよね。
横笛様にとっては、とにかく不本意で納得のいかぬ別れ方であった事で御座いましょう。
けれど、御出家なさった御方の後を追って、場所も特定出来ぬのに訪ね歩かれる その根性は、素晴らしいものであると思います。
滝口様は、そんな横笛様を強い女性だと感じられたかもしれませんが、それが滝口様を想うが余りの行動である事と何処まで御理解なさっておられたのかなと感じます。
…何だか、滝口様を非難しているような書き方をしておりますが…それは私が滝口様であったならば 、否定しつつも きっと同じ選択をしていたのであろうなと痛感すればこそ。
というか、非常にデジャヴるものも御座いまして……思い出すのも微妙だなぁー、と思わず遠い目をしたくなってしまいますねー。。

滝口入道、同宿の僧に逢うて申けるは、
「是もよにしづかにて、念仏の障碍は候はねども、あかで別し女に此住ひを見えて候へば、たとひ一度は心づよく共、又もしたふ事あらば、心も働き候ぬべし。いとま申て」
とて、嵯峨をば出て、高野へのぼり、清浄心院にぞ居たりける。
横笛もさまをかへたるよし聞えしかば、滝口入道一首の歌を送りけり。
   そるまでは 恨みしかども あづさ弓
       まことの道に いるぞうれしき
横笛が返ことには、
   そるとても なにか恨みむ あづさ弓
       ひきとどむべき こころならねば
横笛はその思ひのつもりにや、奈良の法花寺にありけるが、いく程もなくて、遂にはかなく成にけり。
滝口入道、かやうの事を伝へきき、弥ふかくおこなひすましてゐたりければ、父も不孝をゆるしけり。
したしき者共も、みなもちひて、高野の聖とぞ申ける。


滝口様は、もしも また再び横笛様がこちらを訪ねてやって来たら、自分は心を乱してしまう…と、修行に専念する為に高野山へと登られる事となりました。
潔い御決断のようで、ひとりの女性と御自身の心から逃げているようで御座いますが、滝口様には もうそれしか無かったので御座いましょう。

そして…どれだけの後の事かは存知ませんが、滝口様は横笛様が尼となられた事を耳になさいます。
愛しかった横笛様は最早 俗世の方では無くなったという事から、こんな御歌を送られております。

   そるまでは 恨みしかども あづさ弓
       まことの道に いるぞうれしき


“出家するまでは恨みも致しましたが、引いてしまった弓が元には戻らぬように私は仏門に入りました。
 今は貴女も また仏門に入られたと聞き、嬉しく思っております


それに対して、横笛様が返された御歌が、

   そるとても なにか恨みむ あづさ弓
       ひきとどむべき こころならねば


“御出家なさったからと、何を恨む事が御座いましょう。
 梓弓のように、貴方様の御心を引き留められる訳では無いのですから…”


個人的には、この御歌の遣り取りは無いまま終えて欲しかったところでは御座いますが(←鬼…)、諸本によって色々な説が御座いますが、この少し後に横笛様は儚く世を去られてしまわれたという事で…。
御2人にとって、この物語が“哀しい別れ”の記憶では無く、“想い合った日々の想い出”として心に残っていれば良いなと心から思います。

横笛様亡き後、更に専心修行に励まれた滝口様は、御父様にも親不孝の事を許され、身近な人々からは“高野聖”と称されるようになっていかれました。


そんな滝口様の過去を振り返った後…。
滝口様は かつての主の御嫡男である維盛様との対面を高野山にて果たされます。

三位中将是に尋あひて見給へば、都に候し時は、布衣に立烏帽子、衣文をつくろひ、鬢をなで、花やかなりし男也。
出家の後はけふはじめて見給ふに、未卅にもならぬが、老僧姿に痩せ衰へ、こき墨染におなじ袈裟、思ひいれたる道心者、うらやましくや思はれけむ。
晋の七賢、漢の四皓がすみけむ商山、竹林のありさまも、是にはすぎじとぞ見えし。


かれを尋ねて三位中将おはしたりければ、聖、見参したりけり。
幼少より小松殿に候けるが、十三の年より本所にしこうして、大内の出仕の時は、絵かき花結びたる狩衣に立ゑぼし、私のありきには、直垂に折ゑぼし、鬢をなで衣紋をかきしきそくをや、
出家の後はけふ初めて是を見給ふ、
いまだ三十にだにも成らざるに、殊の外にやせおとろへて、いつしか老僧姿になりたり。
こき墨ぞめの衣に同じ色の袈裟を打かけて、香の煙りにしみかへり、かしこげに思ひたる心中うらやましくぞ思はれける。
庵室を見給へば、槇の板戸につた茂り、晋の七賢がこもりたりけん竹林寺、漢の四皓が住し商山も、斯やありけんと思ひ合せられて哀也。
 (長門本による)


維盛様は、京に居られた頃に見た滝口様とは変わり果てた御姿を見られますが、その様子を羨ましく感じられております。
そして、滝口様に屋島の陣営を離れられた経緯を語られ、出家して死のうと思われている事、その前に熊野を参詣したいと願っている事を伝えられました。
こうして、維盛様は滝口様に案内され、高野山 奥の院へと向かわれたので御座います。

奥の院へ参詣された維盛様は、その翌日に御出家。
そして、滝口様と共に熊野を詣でられ、那智沖にて入水なさいました。
滝口様にとって、平家嫡流の御嫡男の入水を手助けする事は、どのように感じられる事だったので御座いましょうか。

しばしは舟を押しまはして、浮もやあがり給ふと見けれ共、三人ともに深くしづんで見え給はず。
いつしか経よみ念仏して、
「過去聖霊一仏浄土へ」
と廻向しけるこそ哀なれ。
さる程に、夕陽西に傾き、海上もくらく成ければ、名残は尽きせず思へ共、むなしき舟を漕かへる。
とわたる舟のかいのしづく、聖が袖よりつたふ涙、分ていづれも見えざりけり。
聖は高野へかへりのぼる。
 (高野本による)


維盛様の入水に立ち合われ、御最後を見届けたと語られる滝口様。
その後の御消息、没年等については諸説あるようで御座いますが、確かな事は何も伝えられておりません。

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いけどのゝ みすにふかまる 涙とて。
池大納言様。


□ 平 頼盛(たいらのよりもり)

生  年:長承2(1133)年
没年月日:文治2年6月2日(1186年6月20日)
  父  :平忠盛
  母  :藤原宗子(藤原宗兼女/池禅尼)
兄  弟:兄…清盛(異母)、家盛、経盛(異母)、教盛(異母)
     弟…忠度(異母)
  妻  :八条院女房(法印寛雅女)、大納言局(俊寛姉妹)
  子  :保盛、為盛、仲盛、知重、保業、光盛、静遍、女(藤原基家室)、女(平清宗室)
通  称:池殿、池大納言、平大納言入道
法  名:重蓮
官  歴:久安2年4月11日(1146年5月23日)、皇后宮権少進
     久安3年8月23日(1147年9月19日)、蔵人
     久安3年10月14日(1147年11月8日)、従五位下
     久安5年6月4日(1149年7月10日)、常陸介
     久安5年6月12日(1149年7月18日)、従五位上
     仁平正月5日(1151年2月14日)、正五位下
     保元元(1156)年、昇殿許可
     保元元年閏9月22日(1156年11月6日)、安芸守
     保元2年正月24日(1157年3月6日)、右兵衛佐
     保元2年10月22日(1157年11月25日)、従四位下
     保元2年10月27日(1157年11月30日)、中務権大輔
     保元3年8月10日(1158年9月4日)、常陸介
     保元3年10月3日(1158年10月26日)、三河守
     保元3年11月26日(1158年12月18日)、従四位上
     平治元年12月27日(1160年2月6日)、尾張守
     応保元年2月28日(1161年3月26日)、正四位下
     応保元年4月7日(1161年5月3日)、太皇太后宮亮
     応保元年10月29日(1161年11月18日)、右馬頭
     応保2年4月7日(1162年5月22日)、内蔵頭
     応保2年7月17日(1162年8月29日)、修理大夫
     仁安元年7月15日(1166年8月12日)、大宰大弐
     仁安元年8月27日(1166年9月23日)、従三位
     仁安元年10月21日(1166年11月15日)、皇太后宮権大夫
     仁安2年正月28日(1167年2月19日)、正三位
     仁安3年7月3日(1168年8月7日)、右兵衛督
     仁安3年10月18日(1168年11月19日)、参議
     嘉応元年12月30日(1170年1月18日)、参議(還任)
     嘉応2年正月18日(1170年2月5日)、尾張権守
     嘉応2年7月26日(1170年9月8日)、右兵衛督
     承安5年正月22日(1175年2月14日)、遠江権守
     安元2年12月5日(1177年1月6日)、権中納言
     治承3年正月19日(1179年2月27日)、左兵衛督
     治承3年10月19日(1179年11月19日)、右衛門督
     治承4年4月21日(1180年5月17日)、従二位
     治承4年6月4日(1180年6月28日)、正二位
     養和2年3月8日(1182年4月12日)、陸奥出羽按察使
     寿永元年10月3日(1182年10月31日)、中納言
     寿永2年4月5日(1183年4月28日)、権大納言
     元暦元年6月5日(1184年7月14日)、権大納言(還任)


平頼盛様は平忠盛様の五男、平清盛様の異母弟様で御座います。
平家御一門の御ひとりでありながら院近臣であり、また鎌倉方ともいわれる御方。
源平合戦の最中、乱れ荒れる時世の波に戸惑われ、何処か 居場所を求めて彷徨われた感があるようにも思われて……どのカテゴリに分類すべきかと少々悩みましたが、生まれた その時より源氏方として御育ちになられた訳では御座いませんので、ここでは あくまでも“平氏”の御1方として記しておきたいと思います。


頼盛様は忠盛様御正室の第2子として、長承2(1133)年に御誕生になりました。
御母様 宗子様は、鳥羽法皇第一の寵臣といわれていた御従兄弟の藤原家成様を通して、美福門院様とも繋がりを持たれており、忠盛様の妻の中でも特に有力な人脈を持つ御方として夫を支えられておられたといわれます。
そんな後楯を持つが故に、頼盛様の同母兄である家盛様が 御長子である清盛様を差し置いて御嫡男となられた事も考えられますが、久安5(1149)年 家盛様は御若くして病死。
清盛様と ひと回り以上の年齢差がある頼盛様が御嫡子となる事はありませんでしたが、当時の御一門の中では かなり優遇された地位であられたと考えられ、順調に昇進を続けていかれます。

保元元(1156)年、鳥羽院崩御の後に勃発した保元の乱に際して、宗子様は頼盛様に、しっかりと御兄様である清盛様に付き従う事を命じられた事が愚管抄に記されております。
ここで平氏が内部分裂をしなかった事は、その後の平家を盛り立てていく事にも繋がります。
保元の乱の後、頼盛様は昇殿を許される御身となりました。

そして 平治元(1159)年の平治の乱
この時、頼盛様は27歳。
5つ下の甥 重盛様と共に出陣、奮戦されております。

されば又此者、三河守のきこゆる早走の名馬に、両鐙をあはせて懸られけるに、すこしもおとらず追付て、冑の手返に熊手をうちかけんと、つゞひてはしりければ、頼盛も甲を打かたぶけ、あひしらはれければ、五六度はかけはづしけるが、つゐに手返にうちかけて、ゑいやとひけば、三河守既にひきおとされぬべう見えられけるが、帯たる太刀を引ぬいてしとゝきる。
熊手の柄を手本二尺計をきて、つんど切ておとされければ、八町次郎のけにたふれてころびけり。
京わらんべ是をみて、
「あぱれ太刀や。あ、きれたり。三河殿もよきりたり。八町次郎もよ懸たり。」
とぞ感じける。
頼盛は冑に熊手を切かけながら、とりもすてず、見もかへらず、三条を東へ、高倉を下りに、五条を東へ、六はらまで、からめかして落られけるは、中に、ゆうにぞみえたりける。
名誉の抜丸なれば、よくきれけるはことはり也。
此太刀を抜丸といふゆへは、故刑部卿忠盛、池殿にひるねしておはしけるに、池より大蛇あがりて、忠盛をのまんとす。
此太刀まくらのうへに立たりけるが、みづからするりとぬけて、蛇にかゝりければ、蛇おそれて池にしづむ。
太刀もさやにかへりしかば、蛇又出てのまんとす。
太刀又ぬけて大蛇を追て、他の汀に立てげり。
忠盛是をみ給てこそ、抜丸とはつけられけれ。
当腹の愛子によて、頼盛是を相伝し給ふ故に、清盛と不快なりけるとぞきこえし。
伯耆国大原の眞守が作と云々。
 (平治物語による)


この乱によって源氏は滅び、ここから平家御一門は頂点を目指して突き進まれていく事となります。
その翌年である永暦元(1160)年、頼盛様の郎等 宗清様が逃亡中の頼朝様を捕え、六波羅へと送られました。
この時、頼盛様の母 宗子様が頼朝様の助命を清盛様に訴えられたのは有名な御話で御座いますね。
頼朝様の御姿が、亡き家盛様に そっくりであったという理由が語られておりますが、その実は 人脈の広い宗子様に 頼朝様の御母様縁といわれる熱田神宮の宮司家による要請があっての事だったのでは無いかとも考えられております。

仁安元(1166)年、大宰大弐に任じられると、頼盛様は何故か太宰府へ赴任。
当時の慣例では、大宰府長官は京に留まっているのが普通の事で御座いましたので、何か目的があっての事と考えられます。
恐らくは、清盛様が平治の乱前に本格化された入宋貿易の現状を把握する為であったのでは無いかと思われますが、もしかすると もっと単純な理由からだったのかもしれませんね。
九州までの旅路は命懸けのものであったで御座いましょうに、それでも出向く為の理由が、頼盛様には御ありだったので御座いましょう。

後白河院の信任が厚かったといわれる頼盛様で御座いますが、同時代の公家 平信範様の日記である兵範記によりますと、頼盛様は 滋子様の入内に際して御奉仕をされなかった事と、無断で厳島神社参詣を行われた事、それから九州を知行国としておられたのに大嘗会の課役を勤められなかった事等の理由から院の怒りを買い、仁安3(1168)年に解官させられ、更に6名の家人も後に解官させられる事となってしまったようで、再出仕が許されたのは それから1年の後の事で御座いました。

安元2(1176)年、平家と院との関係を繋いでおられた建春門院様が御亡くなりになられた事で、政局は一変。
院と平家との対立が あからさまとなる中で、院近臣であった頼盛様は権中納言に昇進されました。
その背景には、院の思惑があった事と思われますが、御一門の中で どんどん頼盛様は浮き立った存在となっていくようで…時代の波に さらわれそうな御立場を想像すると、その御内心が如何なものであったのかと思われてなりません。。

治承3(1179)年、重盛様…そして盛子様が御亡くなりになりました。
御嫡子を失われた清盛様は、院が御2人の所有していた領地や荘園等を没収した事等を火種に政変を起こされます。
世にいう、平清盛のクーデターの事で御座いますが、この時 頼盛様も右衛門督の職を解かれてしまっておられます。
玉葉によれば、清盛様が頼盛様を討とうとされているとか、頼盛様の所領を清盛様が没収された等という噂が広まり、騒然としていた事が伝えられます。
然し、あくまでも噂は噂で…清盛様は、完全に頼盛様を排除されるおつもりは無かったようで、解官は右衛門督のみで御座いましたし、翌年正月には出仕が許される事となっております。

治承4(1181)年、以仁王が挙兵すると、頼盛様は王の捜索を命じられ、身柄確保の後に御出家へと導かれております。

寿永2(1183)年 権大納言に任じられると、六波羅にあった亡き御母様の邸宅 池殿にちなんで、“池大納言”と呼ばれるようになります。

そして、同年の平家都落ち。
京を落ちられる御一門に、頼盛様は同行される事無く京に留まられておられます。
その理由は、愚管抄によれば宗盛様が頼盛様に対し、都落ちの事を連絡していなかった為という事になっており…他にも諸説御座いますが、果たして その真相がどのようなものであったのかは知る由も御座いません。
平家御一門の御方でありながらも京に留まられた頼盛様。
頼盛様は院を頼られ八条院に御身を隠されましたが、京には既に木曾義仲様率いる木曾軍が入っておりました。
平家御一門の方々は解官に処され、そこに頼盛様の御名前も挙げられる事となっております。

その年の11月(1183年12月)に、頼盛様が鎌倉に到着された事が玉葉に記されております。
頼盛様は唐綾直垂に立烏帽子の御姿で、息子達と2名の郎等を従えて武器を持たない格好であったという事で御座います。
それに対して、頼朝様も手厚く歓迎をされております。
御2人の間には、亡き宗子様が頼朝様の助命を乞うた時よりの深い縁があったので御座いましょう。
また、鎌倉の頼朝様と致しましては、朝廷と鎌倉とを繋ぐ要として 頼盛様に期待を掛けられたのかもしれません。

寿永三年四月六日
六日 甲成
池前大納言、並室家之領等者。
載平氏没官領注文、自公家被下<云云>。
而爲酬故池禪尼恩徳。
申宥彼亞相勅勘給之上、以件家領三十四箇所、如元可爲彼家管領之旨、昨日有其沙汰、令辞之給。
此内、於信濃國諏方社者、被相慱伊賀國六箇山<云云>。
池大納言沙汰、
 走井庄<河内> 長田庄<伊賀>  野俣道庄<伊勢>
 木造庄<同>  石田庄<播磨> 建田庄<同>
 由良庄<淡路> 弓削庄<美作> 佐伯庄<備前>
 山口庄<但馬> 矢野領<伊豫> 小嶋庄<阿波>
 大岡庄<駿河> 香椎社<筑前> 安冨領<同>
 三原庄<筑後> 球■臼間野庄<肥後>
右庄園、拾七箇所、載没官注文、自於院所給預也。
然而如元、爲彼家沙汰、爲有知行、勤状如件
  壽永三年四月五日
池大納言家沙汰。
 布施庄<播磨>  石作庄<同>  六人部庄<丹波>
 兵庫三箇庄<攝津> 熊坂庄<加賀> 真清田庄<尾張>
 服織庄<駿河>  宗像社<筑前> 三箇庄<同>
 國冨庄<日向>
已上八條院御領、麻生大和田領<河内>  諏訪社<信濃、被相慱伊賀六箇山了>
已上女房御領、右庄園拾陸箇所注文如此、任本所之沙汰、彼家如元爲有知行、勤状如件
  壽永三年四月六日


寿永3年4月(1184年5月)、頼朝様によって頼盛様に荘園が返還されております。
また、頼朝様は高階泰経様に、頼盛様親子の本官還任を願い出ておられます。

元暦元年五月二十一日
廿一日 戊申
武衛、被遣御書於泰經朝臣。
是池前大納言、同息男、可被還任本官事、並御一族、源氏之中、範頼、廣綱、義信等、可被聽一州國司事、内々可被計奏聞之趣也。
大夫属入道、書此御書、付雜色鶴太郎<云云>。


更に6月1日(1184年7月10日)、頼朝様は頼盛様を招かれて送別の宴を開かれておられます。

元暦元年六月一日
六月小一日 戊午
武衛、招請池前亞相給。
是近日可有歸洛之間、爲餞別也。
右典厩、並前少將時家等、在御前。
先三献、其後數巡。
又相互被談世上雜事等。
小山小四郎朝政、三浦介義澄、結城七郎朝光、下河邊庄司行平、畠山次郎重忠、橘右馬允公長、足立右馬允遠元、八田四郎知家、後藤新兵衛尉基清等。
應召候御前簀子。
是皆馴京都之輩也。
次有御引出物。
先金作劔一腰、時家朝臣傳之。
次砂金一裹、安藝介役之。
次被引鞍馬十疋。
其後召客之扈從者、又賜引出物。
武衛、先召彌平左衛門尉宗清。<左衛門尉季宗男。>平家一族也。
是亞相下著最初、被尋申之處、依病遅留之由、被答申之間、定今者、令下向歟之由、令思案給之故歟。
而未參著之旨、亞相被申之。太違亭主御本意<云云>。
此宗清者、池禪尼侍也。平治有事之刻、奉懸志於武衛。
仍爲報謝其事、相具可下向給之由、被仰送之間、亞相城外之日、示此趣於宗清處、宗清云、令向戦場給者、進可候先陣。
而倩案關東之招引、爲被酬當初奉公歟。
平家零落之今、參向之條、尤稱恥存之由、直參屋嶋前内府<云云>。


何杯も御酒が注がれ、京を知る御家人衆が控える傍で世間話を交わされたそうで御座います。
続いて御土産の引出物披露が始まり、金で仕上げた太刀やら砂金やら馬やらを披露された後、頼盛様の従者の方々にも同様に御土産を差し上げようという事になり、先ず宗清様が呼ばれました。
頼朝様は宗清様に御恩返しがしたいと考えておられましたので御会いしたいと望まれておりました。
最初に鎌倉へ来られた時、頼盛様が 宗清様は病気の為に到着が遅れると仰っておられた為、もう来ているのであろうと思われたそうで御座いますが、実は 病気で…というのは嘘で、京を発つ時に宗清様に頼朝様の事を御伝えしましたら、
「頼盛様が戰塲に向かうというのであれば、私は自ら進んで先陣へ向かいますが…鎌倉に招かれるのは、昔の恩返しという事で御座いますか?平家一門が落目である このような時に、源氏の大将と向かい合う等、恥ずかしい事とは思われませんか!」
と、頼盛様の下を去って屋島の宗盛様のところへと行ってしまいまったという事で御座いました。

帰京の後、頼盛様は権大納言に還任され、再び朝廷に出仕される事となります。

元暦2年3月(1185年4月)、長門 壇ノ浦合戦において平家一門は滅亡の時を迎えます。
頼盛様は京にて この報せを耳にされた事と思われますが…どのような御心持ちで受け止められた事実だったので御座いましょうか…。

その後、頼盛様は頼朝様の許しを得、東大寺にて御出家。
重蓮様と号される事となりました。

元暦二年六月十八日
十八日 己巳
池亞相<頼盛>使者到著。
去月廿九日、於東大寺邊、任素懷、遂出家<法名重蓮>之由、被申之。
兼日所被申合二品也。


御身内の方々が討死、入水にて果てられた事を知り、頼盛様は さぞや御悲しみになられたのでは無いでしょうか。
政治的な面では上手く付き合えない部分も多々あったかもしれません…けれど、それでも御一門は大切な家族。
楽しい思い出等も、当然 御有りだった事で御座いましょう。
都落ちに同行しなかった時点で、もしかすると1度は割り切った想いもあったのかもしれませんが、誠の心から滲み出る想いであるならば、忘れようとしたところで また新たに沸き出るばかりの事。

心身共に、既に限界に近付いておられたのかもしれません。
頼盛様の御出家は病気によるものだともいわれており、それから僅か1年足らずの文治2年6月18日(1186年7月6日)、頼盛様は54歳で その生涯の幕を閉じられました。

文治二年六月十八日
十八日 甲子
水尾谷藤七、爲使節上洛。
是去二日、入道前池大納言、<頼盛、>薨卒之間、爲令訪彼舊跡也<云々>。
 (吾妻鏡による)



院に近く、鎌倉とも繋がりを持たれた 平家の御方。
諸本によりますが平家物語等では…何と無く、平家を見限った裏切者のような印象が見受けられるようにも感じます;
けれど、時代の流れに惑いながらも、頼盛様には 平家という枠の中で確かな居場所を確立されようとなさっていたのでは無いかと思われるような出来事が、幾つも考えられます。
宗盛様の御子 清宗様に娘を嫁がせたり、安徳天皇行幸に際して御邸を提供した功により御長男 保盛様に昇進の恩賞があった時、通盛様や経正様より官位が上になるのを遠慮して光盛様に譲らせたり……。
頼盛様の遺された欠片をひとつひとつ拾い集めていくのは、とても大変な事で御座いますけれど、その欠片毎に 当時の頼盛様の想いや悩み、希望等が込められているのかもしれないなと思うと、もっと追及してみたくなります。

頼盛様は、他の御一門の方々とは違った結末を辿られた御方で御座いますけれど、本当は 誰よりも“平家”の武士として生きられたかったのでは無いかな、と…私には思えてならないので御座います。

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その微笑みは、百の媚ある絶世美女のものにて。
祗園女御様


□ 祗園女御(ぎおんのにょうご)

生 年:不詳
没 年:不詳
 父 :不詳
 母 :不詳
 妹 :女(白河院愛妾)?
 夫 :源仲宗?、源惟清?、白河院(※愛妾として)→平忠盛
 子 :平清盛(実子 or 猶子?)、藤原璋子(養女)、仁和寺塔頭威徳寺僧(養子)?
 諱 :不詳
通 称:祇園女御、白河殿、東御方


祇園女御様の存在は平家物語の他、吾妻鏡中右記今鏡 等に伺う事が出来、歴史上に実在された人物に相違御座いませんが、実名、御出自、御生涯…その殆どが、詳しくは伝えられておりません。
“祇園女御”と通称されるのは、白河院の御寵愛を受けられていた頃、祇園の地に住まわれておられた事によるもので御座います。
女御として正式に宣旨を下された訳では御座いませんので、正しくは女御様では無いのですが、周囲の方々には そのように呼ばれていたようで御座います。
その他にも、“白河殿”“東御方”等と呼ばれていらっしゃいました。
堀河天皇の中宮 篤子内親王付きの侍女、宮中出仕の女房、藤原顕季様の御身内、源仲宗様の妻、源惟清様の妻、祇園社に近い邸の水汲み女……と、身分からして様々な説が語られているものの、素性について確かな事は一切判らず、多くの謎に包まれる御方で御座います。

正治元年八月十九日
十九日 己卯晴
 (中略)
 鳥羽院御寵、祇薗女御者、源仲宗妻也
而召仙洞之後、被配流仲宗於隱岐國<云云> (吾妻鏡による)


吾妻鏡によれば、祇園女御様は源仲宗様の妻であるという事になっており、白河院は仲宗様の妻を奪って妾にしたともいわれております。
仲宗様は、寛治8(1094)年に御子様 惟清様が白河院を呪詛した罪により、讃岐へと流罪に処されておりますが、それ以前に仲宗様と祇園女御様とは離縁されていた…という感じになるので御座いましょうか。

古人の申けるは、清盛は忠盛が子には非、白河院の御子也。
其故は、彼帝感神院を信じ御座て、常に御幸ぞ有ける。
或時祇園の西大門の大路に、小家の女の怪が、水汲桶を戴て、麻の狭衣のつまを挙つゝ、幹に桶を居置て御幸を奉拝。
帝御目に懸る御事有ければ、還御の後、彼女を宮中に被召て、常に玉体に近づき進せけり。
祇園社の巽に当て、御所を造て被居たり。
公卿殿上人、重き人に奉思て、祇園女御とぞ申ける。
 (源平盛衰記による)


源平盛衰記によりますと、祇園女御様と白河院の出逢いは、ちょっぴり少女漫画ちっくな(!?)演出で描かれております。
感神院を信仰する院は、ある時 祇園社西楼門の大路へ 水を汲む為に桶を頭に乗せてやってきた付近に住む女性を見てひと目惚れをなさいます。
その際、彼女は水を汲むのに邪魔にならないようにと麻の狭衣の裾を捲り上げていたようで御座いますが、桶を置いた後も そのままの御姿で御幸を奉拝されたようで御座います。
宮中の女性には見られない その仕草に、院はドキッとされたのかもしれませんね〜(笑)
正式に妻として迎え入れられる事は出来なかったようですが、祇園社の近くに御所を建てて、そこに祇園女御様を住まわせ御通いになられるようになったという事で御座います。

祇園女御様は、平清盛様の御母様とされる女性で御座いますが…周知の通り、清盛様には白河院御落胤説があり、その上 祇園女御様も清盛様の実母では無いという説が現在では最も有力と考えられているようで御座います。
平家物語巻第6“祇園女御”の件には、清盛様の誠の御父様は白河院である事が断言されておりますね。

又ある人の申けるは、清盛は忠盛が子にはあらず、まことには白河院の皇子也。
その故は、去る永久の比ほひ、祇園女御と聞えしさいはひ人おはしける。
件の女房のすまひ所は、東山の麓、祇園のほとりにてぞありける。
白河院つねは御幸なりけり。

 (中略)
その勧賞にさしも御最愛ときこえし祇園女御を、忠盛にこそたうだりけれ。


五月雨の降る暗がりを、祇園女御様のもとへ向かわれた院は、御堂近くにて怪し気な光る物体を発見され、鬼では無いかと思って、同行されていた北面武士である 平忠盛様に退治を命じられます。
冷静な判断で対処して誤解を解き、院に殺生の罪を犯させずに解決した忠盛様は、その恩賞に なんと祇園女御様を下されております…。
現代人の感覚でいえば、院は間違い無く“女の敵”で御座いますが(苦笑)、当時の感覚では特に珍しい事でも無く…悪いどころか、むしろ大変な名誉に御座いました。
それでも、矢張り きっと女性の立場からしてみれば、当時も今とさして変わらぬ想いが抱かれていたのでは無いかと思うのですけれど……。

さてかの女房、院の御子をはらみ奉りしかば、
「うめらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛が子にして弓矢とる身にしたてよ」
と仰けるに、すなはち男をうめり。

此事奏聞せんとうかがひけれども、然るべき便宜もなかりけるに、ある時白河院、熊野へ御幸なりけるが、紀伊国いとが坂と−いふ所に御輿かきすへさせ、しばらく御休息有けり。
やぶにぬか子のいくらもありけるを、忠盛袖にもり入れて、御前へ参り、
「“いもが子は はう程にこそ なりにけれ”」
と申たりければ、院やがて御心得あて、
「“ただもりとりて やしなひにせよ”」
とぞ付けさせましましける。
それよりしてこそ我子とはもてなしけれ。
此若君あまりに夜なきをし給ひければ、院きこしめされて、一首の御詠をあそばしてくだされけり。
“夜なきすと ただもりたてよ 末の代に 清く盛ふる こともこそあれ”
さてこそ、清盛とは名乗られけれ。
十二の歳兵衛佐になる。
十八の歳四品して四位の兵衛佐と申しを、子細存知せぬ人は、
「花族の人こそかふは」
と申せば、鳥羽院しろしめされて、
「清盛が花族は、人におとらじな」
とぞ仰ける。
昔も天智天皇はらみ給へる女御を大織冠にたまふとて、
「此女御のうめらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」
と仰けるに、すなはち男をうみ給へり。 (平家物語 高野本による)


祇園女御様が忠盛様のものとなった時、既に女御様は懐妊中の御身で御座いました。
父親は当然、白河院…という事になりますね。
そして、それは院も概に知っておられた事実のようで。
生まれてくる子が、女子であれば我が子にしよう、男子であれば忠盛の子として立派な武士に育てよ
という事で御座いました。
もしも、祇園女御様が気の強い現代女性であったならば、
訴えて、勝つわよ!!
等という展開に発展しそうなもので御座いますが(苦笑)、そうはいかないのが当時の常識。
間も無くして御生まれになった御子様の性別は、男子で御座いました。
清盛様の御生年は、元永元(1118)年の事と伝わります。

この事を院へ御伝えしようと思われておりましたが、中々 良い機会に恵まれず。
ついに院と言葉を交える事が叶ったのは、熊野御幸 道中での事で御座いました。
紀伊国の糸鹿坂で休息をとられたタイミングで、忠盛様は大量の山芋の子がなるのを見付け、それを袖に入れて院の御前参上し、

   いもが子は はふほどにこそ なりにけれ

“山芋の子が、這うようになっておりますね……。
 妻(祇園女御)の生んだ子が、這う程に成長致しました”


と詠み掛けられます。
それを受け、院は直ちに

        ただもり取りて やしなひにせよ

“そのまま盛り採り、栄養とするが良かろう。
 …忠盛、そのまま引き取って養育せよ”


と下の句を詠み上げられました。
この事から、清盛様は正式に忠盛様の御子様として育てられる事となったという事で御座います。

私の妹がこれを聞いたら、
子供はモノじゃないんよ!?
と怒るような気がするのですが(…)、祇園女御様に対する院の御内心が どのようなものであったにしろ、矢張り血の繋がった御子様に対する御心は捨て切れぬものであったのかもしれません。
未だ赤ん坊の清盛様は夜泣きが酷かったようで、それを聞いた院は1首の御歌を忠盛様に託されております。

   夜なきすと ただもりたてよ 末の代に
     清く盛ふる こともこそあれ


“夜泣きをしようとも大切に育てよ、忠盛。
 後々に、その子が一家を清く盛り立てていく事もあるかもしれないであろう”


“清盛”という御名は、この御歌から付けられたという事で…つまり、遠回しでは御座いますが、実父も元服の際の名付け親も、白河院であったというので御座いますね。
祇園女御様は、どのような御気持ちで その様子を受け入れられたので御座いましょう。

大治4(1129)年、12歳になった清盛様は従五位下左兵衛佐に叙任。
これは、武士の任官にしては極めて異例な例で御座いました。
中右記の作者 藤原宗忠様は、“人耳目を驚かすか、言ふに足らず”と、大変驚かれた事が伺えます。
この背景には、祇園女御様の御力があったといわれ、清盛様は その幼少期を祇園女御様のもとで過ごされたのであろうと考えられます。
清盛様の御生母についてで御座いますが、滋賀県の胡宮神社に伝えられる仏舎利相承系図に、祇園女御様の妹に当たる女房が白河院との間に御子をもうけられ、妹御が早世されてしまった為、幼い清盛様を祇園女御様が猶子として引き取られたという記述が広く知られており、女御様の年齢等考慮した上で信憑性が高いとして有力視されております。

長治2(1105)年、祇園社南東に御堂を建立。
祇園女御様は そこに丈六阿弥陀仏を安置され、金銀珠玉で飾り立てて世の人々を驚かせておられます。
元は身分の無い下働きの女性だった…という出自説からは、考えられない転身っぷりで御座いますね;

祇園女御様は、幼くして御父様を亡くされた藤原璋子様を養女に迎えられておられます。
璋子様は、後の待賢門院様…鳥羽天皇の中宮となられた御方で、崇徳天皇後白河天皇の御生母でも御座います。
崇徳院といえば、白河院と璋子様の間に生まれた皇子であるとして、鳥羽天皇からも実子として扱われず“叔父子”と呼び疎まれていた悲劇の皇子…清盛様御出自の謎にも通じるものを感じますが、育った環境によるものが大きかったのでは無いでしょうか…行末は悲しい結末、終わらぬ苦しみへと繋がる運命を辿られる事となります。

天永4年10月1日(1113年11月11日)、祇園女御様は平正盛様建立の六波羅蜜堂にて一切経供養を行われました。
六波羅蜜堂は、六波羅蜜寺の事では無く、珍皇寺領の一角に正盛様が建立された御堂の事を指しているものと思われます。

永久5(1117)年の暮れに、白河院の姫として璋子様が鳥羽天皇に入内、女御宣旨を賜りました。
この時、忠盛様は璋子様の政所別当に任ぜられております。

大治4年7月7日(1129年7月24日)、白河院崩御。
崩御に際して素服を賜った祇園女御様は、この後 御出家なさったと伝えられております。

そして、仁平3年正月15日(1153年2月10日)、忠盛様が御逝去。
源仲宗様の妻であった説から考えると、祇園女御様は忠盛様よりも ずっと年上であられた事と思われますので、恐らく女御様は 忠盛様よりも先に御亡くなりになられたのでは無いかな…と思うのですけれど、没年、享年等も伝えられてはおりません。


判らない事が多い祇園女御様では御座いますが、白河院と平家との結び付きを考える上では欠かせない女性で御座います。
大切なのは、清盛様と血縁関係であるか、無いかという事よりも、もっと別な観点で……私は、そう感じております。

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平家の不滅は我等の誓。
史料が少ない為、余り具体的な事は分かっておりませんが、湯来の源平合戦伝承では上総五郎様こと藤原忠光様の御子孫であるという市川周防兄弟平家城を居城とされていたと伝えられるようで御座います。

忠光様は滅亡の時まで平家御一門に従われ、壇ノ浦にて戦場から逃れられた御方。
その後の消息、行方については諸説あり、詳しい事は謎だらけで…おまけに同名の武将が同時代に存在しておりますので、正直 私の頭はチンプンカンプンなので御座いますが(涙)今後も他伝承地等を訪れる機会もあるかと存じますので、えっと…分かる範囲で記しておきたいかな…と思います(弱気)

* * * * * * * *

ただみつさま


□ 藤原忠光(ふじわらのただみつ)

生 年:不詳
没 年:建久3年2月24日(1192年4月8日)?
 父 :藤原忠清
 母 :不詳
兄 弟:忠綱、男、男、男、忠経、景清、光景
 妻 :不詳
 子 :盛高(若菜五郎)
本 名:藤原忠光、伊藤忠光
俗 称:平忠光
通 称:上総五郎兵衛尉
官 歴:治承4年5月30日(1180年6月24日)、左兵衛尉


上総五郎様は、藤原忠清様の御子様。
後世、源平物を取り上げる芸能作品において屡々英雄として描かれるようになった藤原景清(平景清)様の御兄様で御座います。
元々は平氏では無く、藤原の御出自。
藤原秀郷様の御子孫と伝わり、伊勢を本拠地に伊藤姓を号されていたようで御座います。
…“平忠光”様という御名前の御方は、歴史上に他にも何名か存在されておられまして……平良文様の御三男 村岡小五郎様とか、塩田赤木氏の祖といわれる赤木左衛門尉様とか…うぅん…非常に紛らわしいところで御座います;;
平家方の武将であった事から景清様が平姓で呼ばれるようになりましたので、御兄様である上総五郎様も平の御方として扱われるようになったのかもしれませんが、当時は平忠光”とは名乗られていなかったものと思われます。

御父様の忠清様、御兄弟方と御一緒に以仁王の挙兵鎮圧に尽くされました。
忠清様が弟 飛騨守景家様と共に立てられた宇治川合戦での軍功によって、治承4(1180)年に左兵衛尉に任命されたといわれます。

その後、御兄様の上総太郎忠綱様、それから景清様と共に、侍大将として平維盛様を総大将とする木曾義仲様追討軍に参戦されておりますが、倶利伽羅峠にて平家軍は大敗。
この戦いで、忠綱様は討死なさいました。
大勝した義仲様軍は京への進撃を開始、平家は安徳天皇と三種の神器を奉り、西国へと落ちられる事となりました。
忠清様は都に留まられましたが、上総五郎様、景清様は御一門に伴って共に都落ちをなさっておられます。

以後、滅亡を迎えるその時まで、上総五郎様と景清様は平家方の武将として奮闘を続けられていきます。

さる程に、木曾、東山、北陸両道をしたがへて、五万余騎の勢にて、既に京へせめのぼるよし聞えしかば、平家はこぞよりして、
「明年は馬の草がひについて、軍あるべし」
と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵共、雲霞のごとくに馳まいる。
東山道は近江、美濃、飛弾の兵共はまいりたれ共、東海道は遠江より東はまいらず、西は皆まいりたり。
北陸道は若狭より北の兵共一人もまいらず。
まづ木曾冠者義仲を追討して、其後兵衛佐を討んとて、北陸道へ討手をつかはす。
大将軍には小松三位中将維盛、越前三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、三河守知度、淡路守清房、侍大将には越中前司盛俊、上総大夫判官忠綱、飛弾大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、以上大将軍六人、然るべき侍三百四十余人、都合其勢十万余騎、寿永二年四月十七日辰一点に都を立て、北国へこそおもむきけれ。


一ノ谷合戦では、熊谷直実様、直家様親子の先陣に際して登場されておりますね。

さる程に、しののめやうやうあけゆけば、熊谷は先に名乗たれども、平山がきくに名乗らんとやおもひけん、又かいだてのきはに歩ませより、大音声をあげて、
「以前に名乗つる武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、一の谷の先陣ぞや、われと思はん平家の侍共は直実に落ちあへや、落ちあへ」
とぞののしたる。
是をきいて、
「いざや、夜もすがら名乗る熊谷親子ひさげてこん」
とて、すすむ平家の侍たれたれぞ、越中二郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、後藤内定経、これをはじめてむねとのつはもの廿余騎、木戸をひらいてかけ出でたり。


我と思う平家の武将共は、この直実と勝負せよ、勝負せよ!
直実様の名乗り挙げに、
どれ、夜通しに名乗る あの熊谷の親子を引っ提げて来ようか
とばかりに、越中二郎兵衛盛嗣様、五藤内定経様と並んで、20騎余の兵と共に、上総五郎様と景清様も出陣なさいました。

熊谷は鎧にたたる矢どもかなぐりすてて、城の内をにらまへ、大音声をあげて、
「こぞの冬の比鎌倉を出しより、命をば兵衛佐殿に奉り、かばねをば一谷でさらさんとおもひきたる直実ぞや。室山、水島二ケ度の合戦に高名したりと名乗る越中次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、能登殿はましまさぬか。高名も敵によてこそすれ。人ごとにあふてはえせまじものを。直実に落ちあへや落ちあへ」
とののしたる。


直実様は馬を射られて下馬、直家様も矢傷を負われますが、その矢を抜き払った直実様は尚も大声で、
今年の冬の頃に鎌倉を出てから、命を兵衛佐殿に奉り、屍を一ノ谷で晒そうと思う直実である!室山、水島と2度の合戦で高名を挙げられたという越中二郎兵衛殿はおられぬか、上総五郎兵衛殿は、悪七兵衛殿はおられぬか、能登殿はおられぬか!?高名は敵によってこそ上がるというもの、誰でも相手にしていては上がるものも上がらなくなってしまう。さぁ、直実と勝負せよ、勝負せよ!!
と、上総五郎様にも戦相手を望まれております。

屋島合戦では、急襲をかけて来られた源義経様の軍勢に立ち向かわれました。

元暦二年二月十九日
十九日 癸酉
 (中略)
此間左藤三郎兵衛尉繼信、同四郎兵衛尉忠信、後藤兵衛尉實基、同養子新兵衛尉基清等、焼失内裏并内府休幕以下舎屋。
黒煙聳天、白日蔽光。
于時越中二郎兵衛尉盛繼、上総五郎兵衛尉忠光、<平氏家人>等、下自舩、而陣宮門前、合戰之間、廷尉家人繼信、被射取畢。
 (以下略)


吾妻鏡によりますと、佐藤継信様、忠信様、後藤実基様、後藤基清様等が内裏や宗盛様の陣営に火をかけられた事で、平家方の御船から降りられた上総五郎様が盛継様等と宮門前に陣営を構えられた事が記録されております。
ここで始まった合戦にて、源氏方では継信様が御曹司を庇って討死なさっておられます。

屋島の後は、壇ノ浦。
ここまで兄弟力を合わせて平家に従軍されて来られましたが、敗戦を悟り 平知盛様や他武将方が次々と入水されていく中、密かに壇ノ浦を脱し、落ち延びられたと平家物語に語られます。

新中納言
「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」
とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、
「いかに、約束は違ふまじきか」との給へば、
「子細にや及候」
と、中納言に鎧二領きせ奉り、我身も鎧二領きて、手をとりくで海へぞ入にける。
是を見て侍共廿余人遅れ奉らじと、手に手をとりくんで、一所にしづみけり。
其中に、越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛・飛騨四郎兵衛はなにとしてかのがれたりけん、そこをも又落にけり。


壇ノ浦より逃れられた後は紀伊国に潜伏、平家方の残党と反撃の時を待たれたといわれます。
ここから先の上総五郎様については、平家物語と吾妻鏡とでは全く違う結末が伝えられております。

先ずは吾妻鏡より。
鎌倉にて建久3年1月21日(1192年3月6日)、源頼朝様が永福寺造営の視察を行われた際に、左目を魚鱗で覆って片目の盲目を装い、懐中に刀を忍ばせて人足に加わって頼朝様暗殺を企てたとして捕まった御方が上総五郎忠光様であったという事で御座います。

建久三年正月二十一日
廿一日 甲午
渡御于新造御堂地、犯土之間、運土石、疋夫等之中、有左眼盲之男。
幕下覽恠之、彼者自何國、誰人進哉之由、被尋仰。仍景時、雖相尋之、不分明。
被召寄御前。
佐貫四郎大夫、伺御旨面縛之處、懐中帶一尺餘打刀。
殆如寒氷。
又覽其盲、魚鱗覆眼上。
弥知食有害心者之間、被推問之。名謁申言、上総五郎兵衛尉也。
爲奉度幕下、數日經廻鎌倉中<云云>。
即下賜于義盛、可召尋同意輩之旨、被仰含之<云云>


身柄を和田義盛様に預けられられ、約1ヶ月の間、屈辱の日々を送り、自ら飲み水を断たれたといわれます。

建久三年二月二十四日
廿四日 丁卯
於武藏國、六連海邊、囚人上総五郎兵衛尉忠光梟首。
義盛奉之。
日來斷漿水<云云>。
推問之間、申云。
更無同類、但越中次郎兵衛尉盛繼、去年之比、隠居丹波國、彼同存會稽之志歟。
於當時者。
難知在所、曽不定一所<云云>
 (吾妻鏡による)


そして 建久3年2月24日(1192年4月8日)、武蔵国六連海辺にて斬首。
以上が、吾妻鏡による上総五郎様の御最期…生年不詳につき、享年も不明で御座います。

平家物語では、同7年7月(1196年8月)に知盛様の遺児 知忠様を大将として、源氏方に反乱を起こされた事が記されております。

小松殿の御子丹後侍従忠房は、八島の軍より落てゆくゑもしらずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗重を頼んで、湯浅の城にぞこもられける。
是をきいて平家に心ざし思ひける越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共、つき奉るよし聞えしかば、伊賀伊勢両国の住人等、われもわれもと馳集る。 (平家物語 高野本による)


平家物語では、壇ノ浦落ちメンバーは そのまま行動を共になさっていたような感じが致しますね。
知忠様は、頼朝様の妹婿である一条能保様の暗殺を企てられたと語られますが、この頃の吾妻鏡の記事は欠落しておりまして…詳細は定かでは御座いません。
上総五郎様は この時に討死なさったともいわれますが、諸本によって その辺りも様々なようで…確かな晩年の御様子や、その没年については謎に包まれた御方として伝えられております。


何処までも平家に付き従い、壇ノ浦敗戦の後にも尚、平家の武士として生きられたといわれる上総五郎様。
平家物語に残されるもの、吾妻鏡に伝えられるもの、各地の伝承として語り継がれるもの…真相は定かで無くとも、それらの行動に結び付く上総五郎様の御内心は、誰よりも御一門の滅亡を拒み、否定され続ける御生涯であったかのように…思えてしまいます。

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英雄の影に潜むは虚構か真実か。
影清さま


□ 藤原 景清(ふじわらのかげきよ)

生 年:不詳
没 年:不詳(建久6年3月15日/1195年4月26日説あり)
 父 :藤原忠清
 母 :不詳
兄 弟:忠綱、男、男、男、忠光、忠経、光景
 妻 :不詳
 子 :不詳
本 名:藤原景清、伊藤景清
俗 称:平景清
通 称:上総七郎、悪七兵衛
官 歴:滝口、兵衛尉


近世芸能においての大人気が故か、平家落人伝説とは別格とされる“景清伝説”が各地に伝えられる英雄――平景清様。

景清様といえば、歌舞伎、浄瑠璃等の古典芸能作品では超有名人な御方で御座いますね。
江戸時代に生きていたら、眼帯して歩いていても
「あ!あれは誠の景清様!!」
「ま、孫が…ふぁんなんじゃ、さ、さいんをくれぃ〜」
と一気に取り囲まれてしまいそうで御座います(笑/※有り得ません)
景清様は、平家物語においては特に主要人物という事も無い御方で御座いますが、源平合戦では平家方として武勇を轟かせておられたといわれておりますね。

一般的に“平景清”と呼ばれておりますが、景清様は平氏の御出自では無く…。
恐らくは、平家方の武将であった事から芸能作品において平姓を使われた事に由来しているので御座いましょう。
正式には 藤原姓、もしくは 伊藤姓の御家系…平貞盛様と共に平将門公を討伐された藤原秀郷様の御子孫で、伊勢を本拠地と定めて伊藤を号されたと伝えられております。
よって、景清様は伊勢、志摩地域の御出身の在地武士であったと考えられます。

上洛された時期は不詳で御座いますが、治承4年2月(1180年3月)に安徳天皇の蔵人所の滝口に任じられ、後に兵衛尉を務められておられます。

同年10月(1180年11月)の富士川の合戦には 父 忠清様が出陣されておりますが、そこで忠清様は源頼朝様の強勢を理由に、御子息 景清様を信濃守に任じて追討使とするよう、宗盛様へ申し入れられておりますが、これは結局、実現する事が無かったようで御座います。

寿永2年4月(1183年4月)、侍大将として 忠清様、兄 忠光様と共に 木曽義仲様追討軍に参加、出陣されておりますが、大敗。

そして、同年7月25日(1183年8月14日) 景清様も平家御一門の都落ちに伴って西へと下っていかれました。
この時、父 忠清様は京へ残られたようで御座いますが、景清様は忠光様と共に御一門に従われております。

寿永3年2月(1184年3月)、一ノ谷合戦にて奮闘。

翌 寿永4年2月(1184年4月)の屋島合戦では、那須与一様による扇の的当て後の錣引の件が 平家物語巻第11に伺えます。

平家これをほいなしとやおもひけん、楯ついて一人、弓もて一人、長刀もて一人、武者三人なぎさにあがり、楯をついて「敵よせよ」とぞまねひたる。
判官「あれ、馬づよならん若党ども、馳せよせてけちらせ」との給へば、武蔵国の住人、みをの屋の四郎、同藤七、同十郎、上野国の住人丹生の四郎、信乃国の住人木曾の中次、五騎つれておめいてかく。
楯の陰よりぬりのにくろぼろはいだる大の矢をもて、まさきにすすんだるみをの屋の十郎が馬の左のむながひづくしを、ひやうづばとゐて、筈のかくるる程ぞゐこうだる。
屏風をかへす様に馬はどうどたふるれば、主は馬手の足をこえて弓手の方へおりたて、やがて太刀をぞぬいたりける。
たてのかげより大長刀うちふてかかりければ、みをの屋の十郎、小太刀大長刀に叶はじとや思けむ、かいふいてにげければ、やがてつづいておかけたり。
長刀でながんずるかとみる処に、さはなくして、長刀をば左の脇にかいはさみ、右の手をさしのべて、みをの屋の十郎が甲のしころを掴まんとす。
掴まれじとはしる。
三度つかみはづいて、四度のたびむずとつかむ。
しばしぞたまて見えし、鉢つけのいたよりふつと引つ切つてぞにげたりける。
のこり四騎は、馬ををしうでかけず、見物してこそゐたりけれ。
みをの屋の十郎は、御方の馬のかげににげ入て、いきづきゐたり。
敵はおうても来で、長刀杖につき、甲のしころを差しあげ、大音声をあげて、「日ごろは音にもききつらん、いまは目にも見給へ。これこそ京わらんべのよぶなる上総の悪七兵衛景清よ」となのりすててぞかへりける。

平家これに心地なをして、「悪七兵衛討たすな。つづけや物共」とて、又二百余人なぎさにあがり、楯をめん鳥羽につきならべて、「敵よせよ」とぞ招いたる。
判官これをみ見て、「やすからぬ事なり」とて、後藤兵衛父子、金子兄弟をさきにたて、奥州の佐藤四郎兵衛、伊勢三郎を弓手馬手にたて、田代の冠者をうしろにたてて、八十余騎おめいてかけ給へば、平家の兵物ども馬にはのらず、大略かち武者にてありければ、馬にあてられじと引きしりぞひて、みな舟へぞのりにける。 (平家物語 高野本による)


義経様の命で駆け出した武蔵国の美尾屋十郎様の馬を射、馬を降りて太刀を抜いた十朗様に長刀で向かった景清様に、十朗様は逃げ腰に…それを逃すまいと、景清様は左脇に長刀を挟み、右手を伸ばして十朗様の錣を掴もうとされます。
が、十朗様も必死で御座いますので、掴まれてなるものかと逃げます…が、景清様も逃がすものかと必死で御座います。
3度掴み損ねた錣を、4度目で掴み、引き千切ってしまわれたといいます。
十朗様は逃げ帰っていかれますが、景清様はその錣を長刀に刺し掲げ、堂々と名乗りを上げられました。
ちなみに、この名乗りで初めて この一連の平氏方武士が景清様だと判るのですが、美味しい演出だと思います…(笑)

この景清様の活躍によって勢いを盛り返した平氏軍に、源氏軍も義経様が出陣しての応戦を繰り広げます。
ただ、この後に義経様の弓流の件が御座いますので……ちょっと決まらない源氏方の場面で御座いますね。

そして、寿永4年3月24日(1185年4月25日) 壇之浦合戦にて平家は事実上 滅亡の時を迎えられました。
これ以降、景清様についての消息は確かな事は何ひとつ伝えられておりません。
生年、正確な没年も不詳の為、享年も不詳。


後世、歌舞伎等の芸能作品で主役として数多く描かれている景清様には、多くの伝説が各地に伝えられる事となっております。

水練に長けておられたといわれる景清様は、次々と入水されていく平家の方々の中で落ち延び、伊賀に趣いて 知盛様の御子 知忠様を擁し、建久7年7月(1196年8月)に挙兵されますが敗北、そのまま逃走された…という説。
壇ノ浦にて源氏方の捕虜となり、和田義盛様、八田知家様の元に身柄を預けられ、後に出家…常陸国にて7日間断食をされ、東大寺供養の建久6年3月15日(1195年4月26日)に没されたとも伝えられます…が、他にも色々と諸説諸伝存在するようで…未だ把握し切れておりません;

また、文治5(1189)年もしくは建久5(1194)年に 匿ってもらっていたという叔父 大日房能忍様を疑心暗記になって殺害なさったといわれておりますが、能忍様は病死であったのではとも考えられており、この真偽についても不詳で御座います。
この伯父殺害によって“七兵衛”と呼ばれるようになったという説も御座いますが、平家物語中でも既にそう呼ばれておられますので、その可能性は低いのでは無いかなとも思われます。
この呼称の“悪”とは、勇敢さを讃えられて用いられる字でも御座いますので……で無ければ、何も御味方である平家方が景清様を悪人呼ばわりしている事になってしまいますよね(苦笑)

景清様は実在された御方で御座いますが、何処までが史実で 何処までがファンタジィ!?と疑ってしまうような伝説的存在過ぎて、なかなか奥の深い人物のように感じてしまいます。

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