日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

してんのうじ1/2。
四天王寺02


三重県津市の古刹――四天王寺は、聖徳太子創建と伝わる御寺さんで御座います。

こちらの境内に 藤原景清(平景清/伊藤景清)様縁の史跡があるという事で、先月 御伊勢参りの前に立ち寄らせていただいて参りました。

四天王寺03


山門手前の正面入口に向かって右には、境内側に少し窪んだスペースが御座いまして、そちらに“平景清鎧掛松”と刻まれた石碑と大きく聳える松の木が御座いました。
景清様は伊勢国辺りの御出身であったと考えられておりますので、何かの折に立ち寄られて こちらの松に鎧を掛け、平安期に最も繁栄されていたという この四天王寺へ参拝なさったのかもしれません。

石碑の傍に立つ大きな松さんが、その松さんなのか否かは確証的では御座いませんが、大木といえども流石に樹齢800年以上では無いと思われますので、3世とか4世なのかなぁ…と勝手に想像を致しておりました。

四天王寺04


景清様の鎧掛松の他にも、こちらには数々の史跡、文化財が御座います。
個人的には、重要文化財の薬師如来像に納入されていたという品々と 鐘楼門の中に潜まれている市指定文化財の梵鐘に興味津々で御座いました。

薬師如来像および体内納入品(重要文化財) 平安時代後期 像高65cm
檜の一木造りで、承保4年(1077)に仏師定朝により造られたもの。
また、像胎内には、当時の寺領を記した文書や、像を造る費用の寄進者名を書いた紙片や扇、櫛、玉、麻の緒など25点が納められています。



山門(市の有形文化財)
江戸時代 幅3.8メートル、奥行3.1メートル
山門全体に、使われている木が太く、高さもあり均整のとれた美しい姿を残しています。
現在の形に再建されたのは、寛永18年(1646)二代目藩主高次の時代。
寺内では往時を偲ぶ数少ない建物となっています。



織田信長様の生母 花屋寿栄禅尼の墓所である事でも有名で御座います。

花屋寿栄禅尼 織田信長生母の墓
津に織田信長の母親、花屋寿栄禅尼の墓があるのは不思議に思えますが、最初に津城を築いたのは、信長の弟、信包(のぶかね)で、天正8年(1580)にはほぼ城は完成しました。
本能寺の変のあと、彼女は信包をたよって津に移り、この地で亡くなりここに葬られました。



山門を潜り、境内の奥へと進んで参りますと、外から見た感じよりも ずっと広い御寺さんで御座いました。
緒由緒書に載っている かつての境内図を見る限り、全盛期の頃は かなりの広域であったように思われます。
現在は御見受けする事が出来ませんでしたが、その図には天神様や弁天様、八王子等も御祀りされていたようで御座います。
神仏分離に際して無くされてしまったのか…もしくは第2次世界大戦中の空襲によって焼失されてしまったのでは無いかとも考えられます。

四天王寺05


□ 四天王寺(してんのうじ)

所在地:三重県津市栄町
御創建:不詳
御開山:聖徳太子
宗 派:曹洞宗(中本山)
山 号:塔世山
御本尊:釈迦牟尼仏


“四天王寺”といわれて先ず頭に浮かぶのは、矢張り大阪の古刹 四天王寺さんで御座いますが、こちらも同時代に推古天皇の勅願によって、聖徳太子こと厩戸皇子が建立された寺院であると伝えられております。
大阪の四天王寺の他に現存する四天王寺は こちらのみとなっております。

推古天皇元年
是歳。
始造四天王寺於難波荒陵。
是年也、太歳癸丑。 (日本書紀による)


用明天皇崩御の後、皇位を巡って起こった争いで 太子は蘇我氏と共に討伐軍に加わりますが物部氏の兵力に難航し3度も撃退されてしまった為、白膠で四天王像を彫り戦勝祈願をなさったといいます。
勝利の暁には、仏塔を建て仏法の為に尽くす事を仏前に誓われたところ、守屋軍を敗る事に成功なさいました。
そして 推古天皇即位後、その誓願を護って4つの四天王寺を建立。
そのうちの1つが、こちらの四天王寺であったと伝わります。

平安時代には最も繁栄されたという事で御座いますが、数々の戦乱によって荒廃と再興を繰り返されておられるようで御座います。
繁栄された寺院であれば尚の事……伊勢国は伊勢平氏縁の土地で御座いますので、平氏同士の争乱や源平合戦の頃にも、何かしらの混乱が起こっていたのかもしれませんね。

元和5(1619)年、津城に入られた藤堂高虎様によって改築が行われ、寛永14(1637)年には2代藩主の寺領寄進によって勢力を盛り返されたようで御座います。

太平洋戦争では御本堂が焼失。
現在の御本堂は、その後の再建だそうで御座います。

本寺は塔世山四天王寺と称し、曹洞宗の中本山。
推古天皇の勅願、聖徳太子の建立と伝えられています。
用命天皇の時、聖徳太子は守屋大連の軍に三たびも敗れました。
そこで太子は四天王像を刻み、「もし我れが勝利をえれば寺塔を建立するから勝利を与えてほしい」との誓願をたてました。
その結果、守屋の軍を敗ることができたため太子は誓願どおり四天王寺を四つ建立。
その一つがこの四天王寺で、他の一つが大阪の四天王寺であるとされています。
近年、境内から奈良時代の古瓦が出土され、建立されたのは7世紀ごろという説もありますが、いずれにせよ1000年以上の歴史があることは明らかです。
平安時代はこの地方で最も繁栄した寺院でしたが、たびたびの兵乱や戦火で焼失と再興を繰り返し、元和5年(1619)に津城に入国した藤堂高虎が改築。
さらに2代藩主高次が寛永14年(1637)に寺領を寄進し、寺勢をとりもどしました。
現在の本堂は、太平洋戦争にて焼失後、五十二世定行代に托鉢行によって再建されたものであり、市内有数の大きな寺院の一つとなっております。
また境内には、信長生母、藤堂高虎夫人をはじめとした武将や学者、文人たちの墓や芭蕉文塚ほかの文学碑など貴重な文化財が多く残されており、多くの人々から厚い信仰を受けております。



四天王寺06


御本堂の近くには、眼洗い地蔵様がいらっしゃいました。
古くから、この境内の井戸で眼を洗うと眼病が治るといわれていたのだそうで…。
心を込めて手を合わせ、御地蔵様に3回水をあげ、再び手を合わせて御願いをするのだそうで御座います。
私も、近視、乱視が酷くなる一方で日常生活にもかなり支障が出始めておりましたので(パソコンの前以外では眼鏡等使用しませんし;)誓願すべきかしらと少し悩んだのですが、持って生まれた視力の悪さも また自分らしさかなと思いまして、御挨拶のみの御参拝とさせていただきました…基本的に神仏には御祈願をしない主義で参拝させていただいておりますので(苦笑)

四天王寺07


境内入口近くには、四天王寺稲荷様が御祀りされておりました。
こちらは順徳天皇の第三皇子 寒厳義伊禅師が文永4(1267)年に感得された「稲穂を荷い白狐跨り給う端麗なお姿のダキニシンテンと申す福徳語法の善神」という事で、室町時代には沢山の信者によって繁栄されたようで御座います。
太平洋戦争後の混乱によって、長年 民衆から遠ざかっておられたようですが、とても綺麗な御神殿で御座いましたので、恐らくは最近 御建立されたものであろうと思われます。

四天王寺08


景清様鎧掛松の向かいには、松尾芭蕉様の文塚も御座いました。
元文2(1737)年に、この地の俳人 菊池二日坊が芭蕉さんを偲んで建立されたのだそうで御座います。
裏面には芭蕉さんの略歴等が刻まれておりました。
塚という形態のものでは三重県最古といわれているのだそうで御座います。


津駅から徒歩10分とかからない辺りで御座いましょうか…。
周辺の車道や駅付近の賑わいがもっと遠い世界のものであるように、切り離された別世界のような厳粛かつ優しい空間で御座いました。

境内からはみ出すように表からも様々な史跡、庚申塔等を拝見する事が出来、その由緒の深さをさり気無く物語っているようにも感じました。

四天王寺01


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忠盛様の御出身地。
忠盛塚01


平維衡様に始まるといわれる“伊勢平氏”――後に、京にて栄華を極められた清盛様以下、平家御一門へと繋がる御家系で御座います。
伊勢平氏の本拠地は、呼称される通り 伊勢国。

三重県津市の長谷山麓には“伊勢平氏発祥伝承地”として整備された公園が御座います。
“忠盛塚”もしくは“胞衣塚”とも呼ばれておりますが、こちらは 清盛様の御父様 忠盛様が御誕生なさった地として語り継がれる史跡。

…あくまでも、伝承地で御座いますので、史実として文献等に確かな記録が残っているという訳では無いのですけれど、前々からずっと行きたいと望んでいた史跡であった上、地理的に少し行き辛い場所に在った所為か、到着した瞬間の感動は一入で御座いました。
周辺に誰も居ないのを良い事に、「わぁい!」と両手を挙げてハッスルしておりました…(恥)
今、思い返すと大変痛い行動で御座います///

忠盛塚02


↑解りやすくしたかったのですが、見事に解り難い事になってしまっておりますね…申し訳御座いません;

中央の石碑が建てられている部分が、少し盛り上がって丘のようになっておりますが、これが 忠盛塚(胞衣塚)で御座います。
忠盛様が御誕生になられた時、胞衣納に選ばれた場所のようで御座いますね。
胞衣とは、胎児を包んでいた膜や胎盤の事で、古来、生後5日目…もしくは7日目の吉日に 胞衣を壺等に納めて恵方に埋める“胞衣納儀”という信仰が御座いました。
当時は、成長途中に御亡くなりになられてしまう御子様が多い時代で御座いますので、御子が無事に健やかに育ちますように…との願いを込めて行われていたので御座いましょう。

   三重県指定史跡      所有者 津市
     平氏発祥伝承地
       平安時代 昭和14年3月25日指定

 「忠盛塚」ともいわれているが、正式には「平氏発祥伝承地」という。
この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、忠盛が産湯を使ったといわれる産湯池も残っている。
 桓武天皇の曾孫高望王を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていた。
しかし、平将門の乱、平忠常の乱以後、東国は源氏の地盤となり、貞盛の子維衡の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになり、寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられている。
 「平家物語」に、眇な田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子は素瓶なり」とはやし、あざけったとある。
維衡の曾孫正盛は白河法王の寵を得て中央政界に進出し、その子忠盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の昇殿を許され、平氏繁栄の基礎をつくったのである。
 ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、「尊卑分脈」には維衡の孫貞衡とその子貞清は安濃津三郎、貞清の子清綱は桑名冨津二郎と傍注され、北勢から中勢にかけての勢力伸長をうかがわせる。
貞衡の弟正衡の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたる。
しかし、忠盛の昇殿、清盛の活躍などのため、伊勢平氏=忠盛と理解されるようになっていったと考えられる。
そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の老従となり、歴史の表舞台から姿を消してしまったのだろう。
     津市教育委員会



   平氏発祥伝承地

 伊勢の国は、武家の棟梁、平氏の根拠地であった。
平氏にも数流あるが最も頭角をあらわしたのは、桓武天皇より出る“伊勢平氏”で平維衡が伊勢守として在任して以来、正度、正衡、正盛、忠盛と相ついで伊勢国や伊賀国に勢力を張った。
中央に進出した正盛、忠盛は海賊追捕などで武功を重ねて熊野や瀬戸内海の強大な水軍を支配し、院政政権の側近として活躍した。
安濃津は、白子や桑名とともに平氏一門の基地の港として重きをなしたが、忠盛の子の清盛も熊野参けいに安濃津から船出している。
 この産品附近には忠盛誕生のときの胞衣塚、産湯池や邸宅跡など数多い伝承に包まれた平氏ゆかりの地である。
     三重県教育委員会 津市教育委員会



忠盛塚03


忠盛塚の奥は、広場のようになっておりました。
暖かい季節ならば、寝転がって まったりと時間を過ごしたくなってしまいそうな穏やかさが素敵で御座いました。
私が訪れた時は、人っ子一人見当たらない…という感じだったのですけれど、もしかすると 御近所の子供達の遊び場にもなっているのかもしれないですね〜。
空が広いので、凧揚げとか出来たら楽しいだろうなぁと思います。
トイレ完備の公園なので、御家族でピクニックも楽しめそうで御座います(笑)

忠盛塚04


こちらには、なんと梛さんもいらっしゃるので御座います…!
熊野縁の地や神社境内等では良く御見掛け致しますが、公園で遭遇するのは初めてで御座いましたので、驚いてしまいました。
案内板によりますと、平家と熊野の縁、そして 御嫡流 重盛様の故事を辿って こちらに寄進された梛さんのようで御座います。
神社等ですと、余り御神木にベタベタと触ってしまっては失礼かな;と思ってしまうのですが、これだけ近い距離で触れられるというのは嬉しいですね。
未だ御若い梛さんなので、将来が楽しみで御座います♪←800年後位?(私、その頃まで生きてはおれませんが…/笑)

   梛と伊勢平氏

 かって、熊野三山造営奉行であった平重盛が、平治元年(一一五九)に速玉大社社殿落成の記念に、ナギを霊力のある木として植えている。
重盛は忠盛の孫にあたる。
その後、このナギは大木に育ち御神木となった。
ふるくから、この御神木は熊野詣の人々の目をひきつけ、これにあやかろうと、各地に植えられた。
特に「権現さん」と「平氏」ゆかりの地には、よく植栽されている。
 ナギは風や海の「凪(なぎ)」に通じると、航海の安全を願って植えられたり、葉の脈が縦に多くあって、葉の両端を引っ張っても、簡単にはちぎれないので男女の縁が切れないようにと願って、この葉をお守りにも用いられた。
一方、個人庭園でも「モクセイ、モッコク、ナギ、ナンテンに松竹梅」と語呂合わせにいわれるようによく植えられてきた。
   平成十年五月二十一日



忠盛塚05


この小池は、忠盛様が産湯に使われたという伝承があるようで。
何だか想像以上に水量が無かったのですが、これは時期や天候に左右されるもの…と思われます。

産湯池も忠盛塚等と共に、明治大正期に整備されたようで御座いまして、中央に建てられている石碑は 大正6年に設置されたものだそうで御座います。

忠盛塚06


   忠盛塚

 忠盛塚について、江戸時代初期に書かれた『勢陽雑記』には、「此所に、まりが塚とて少しき丸山の岡あり。平氏忠盛の誕生所といひ伝ふ。」とある。
 忠盛塚と産湯池の整備は、明治二十七年に始まり、明治三十三年には、整備の完成を記念して忠盛塚の上に石碑を建て、塚の脇にも標柱が設けられた。
また、忠盛塚には山桜が植えられ、現在見ることができる姿となった。
 さらに、大正六年には産湯池の中央に石碑が設置されている。
この石碑に使われた石は、置染神社付近の古墳から出土したものといわれている。
     産品史蹟保存会 津歴史街道推進事業実行委員会



こちらには、大きな案内地図板が立てられていたのですが、近くに寄って良〜く見ますと、思わず食い付いてしまうような文字があちらこちらに見受けられまして……。

忠盛塚07


何だか平家の方々の御名前が!?と思って見ておりましたら、御出身といわれる忠盛様の御墓の場所が示してあり…それから、平家御嫡流 維盛様、六代御前の御墓もあるようで御座います。
一瞬、落人伝説かとも思いましたが、御嫡流の方々で御座いますし…恐らく、御墓というよりは供養塔なのだと思うのですけれど…。

気になって仕方が御座いませんでしたので、タクシーをつかまえて回ってしまおうかとも思ったのですが、流石に情報不足が否めませんでしたので、出直す事に致しました;
この中でも、幾つか調べのついた伝承地が御座いますので、免許を取ったら足を運んでみようと思っております…(苦笑)

忠盛塚08


伊勢平氏発祥伝承地までは、“忠盛塚”停留所から徒歩2〜3分程で御座いました。
バス停を降りたら直ぐ判ると思っていたのですが、意外と悩みました…;
何となくこちらかな…と思って歩いておりましたら、辿り着けてしまったのですが。

路線バスの走る車道を斜めに入った道の脇なのですが、塚自体 それ程高く目立つものでは御座いませんし、付近も田畑が多く 特に高い建物が無い状態で御座いましたので、逆に判り辛かったようにも思います。
余り史跡巡りに来られる方がいらっしゃらないのか、特に道標のような物は御座いませんでしたが、そんな地域に溶け込んだ史跡というのも素敵だなぁと感じております。

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