
外宮に引き続き、本日は内宮。
私は年に1〜2回程 御伊勢参りをしておりますが、良く聞かれるのが
「御伊勢さんって、内宮と外宮どっちから御参りすればいいの?」
という御質問で御座います。
この疑問には、天照大御神が御答えを告げられておられるようで御座いまして。
『我が祭りに仕え奉る時は、先ず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕べし』
…という事で、この御神託に従って神宮では、古くから重儀である三節祭においては先ず外宮で御祀りした後に内宮で御祀りする外宮先祭によって祭祀が行われ、現在に至っておられます。
一般参拝も これに基づいて、外宮→内宮の順番に御参りするのが ならわしであると、神道いろはに記されております。
あ、それから…外宮と内宮の読みについても良く聞かれますね。
“外宮”は“げくう”、内宮は“ないくう”と読みます。
私は東京から伊勢までは結構近いな〜という感覚を持っておりますが、意外と東京で出逢う方々は、神社好きでも伊勢には未だ行った事が無いと仰る方が多く…。
確かに、最終目的地が伊勢だとすると、遠く感じられるものなのかもしれませんね。
私は御伊勢様を詣でた後は、必ず そのまま熊野を詣でますので、むしろ伊勢〜熊野間の移動の不便さに時間を取られるてしまい、実際の距離以上に遠く感じてしまいまっております;

この橋の前に立つと思い出すのが、外郎売…放送業界や演劇関係に御詳しい方は御存知かと思います。
本来は歌舞伎十八番の1つで御座いますが、滑舌練習等に利用されるのが定番化してしまってからは、長台詞の部分を“外郎売”と呼ばれる事の方が多くなったようで御座いますね。
かくいう私も、その部分しか諳んじておりません…(笑)
拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。
元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。
帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用ゆる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。
依ってその名を帝より透頂香と賜る。
即ち文字には頂き、透く、香と書いて透頂香と申す。
只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って“ういろう”と記せしは親方圓斎ばかり。
もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。
御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、系図正しき薬で御座る。 (以下略/『外郎売』)
外宮の御参道は左側通行で御座いますが、内宮の御参道は右側通行になっております。
御上りなれば右の方、御下りなれば左側…という事で、初めて訪れた時には おぉ〜!!これの事なのかしら!?と感動したもので御座いますが、聞くところによれば以前までは左側通行だったのを、手水場である五十鈴川が右側にある為、混雑を防ぐ目的で右側通行になったのだとか;
これは、もしかすると後の解釈かもしれませんが、神様が御祀りされている御正宮に遠回りをしながら近付く為に、外宮では左側を、内宮では右側を通るのだという御話も聞いた事が御座います。

俗界と聖地との境界である五十鈴川、そこに架かる宇治橋を渡り、御参道を進みます。
この写真は、今年の明け後に撮ったもので御座いますが、5日を過ぎた平日でも沢山の方々が詣でに来られていらっしゃいましたね。
↑御参道脇に設けられた手水舎で心身を清める事が出来ますが、内宮に来たら矢張り五十鈴川で禊を行いたいところで御座いますね〜。

流石に、一般参拝者はザバザバと五十鈴川で全身を清める事は出来ませんが(苦笑)、神職さんや修業中の神道科の学生さん方は、こちらで潔斎を行われる事があるのだそうで御座います。
古来より、五十鈴川の清流で禊を済ませてから御正宮参拝を臨む事が、神宮の しきたりであるといわれております。
五十鈴川の川上には、総面積 約5500ヘクタールの神路山と島路山の連なりで御座います。
この内、奥の2500ヘクタールには将来の式年遷宮御用材造成と水源確保の為の桧造林が進められているそうで御座います。
それ以外の自然林は、千古の趣を讃えているという事で…西行法師が詠まれた御歌が千載集に収録されております。
詞書“高野山の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山ともうす。大日如来の御垂迹と思ひてよみ侍りける”
深く入りて 神路の奥を たづぬれば
またうへもなき 峰の松風
“神路の山を奥深く入り訪ねてみると、また この上も無い峰の松風を感じられる事です”
西行様は、源平の戦乱を避けて伊勢 二見浦の山寺に庵を結ばれております。
これは、神宮に御祀りされる天照大御神が大日如来の御垂迹という事を思って詠まれた御歌で御座いますね。

二の鳥居を潜り、御厩を過ぎると授与所と神楽殿が御座います。
御朱印もこちらでいきただきます。
内宮の境内社については、近々また改めて…という事で、本日は このまま内宮の御正宮へ向かいます。

□ 皇大神宮(こうたいじんぐう) □
所在地:三重県伊勢市宇治館町
御創建:垂仁天皇26年(紀元前4〜5年)
主祭神:天照大御神
旧 称:磯宮
通 称:内宮
御祭神 天照大御神は、元々は宮中で天皇の御傍近くに御祀りされていたと伝えられております。
崇神天皇6年(紀元前92年)に倭笠縫邑に移され、次いで倭姫命が御杖代となって各地を巡られる事となりました。
垂仁天皇26年(紀元前4〜5年)、大御神の御心にかなった大宮処として御鎮座。
大御神は、“この神風の伊勢の国は常世之浪の重浪よする国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむとおもう。”と御神託を授けられ、それに従って倭姫命が五十鈴川の傍に祠を建立、磯宮と呼ばれたと伝えられます。
これが皇大神宮の御創建になります。
古代の頃は、皇室の氏神であるが故に私幣は禁じられており、天皇の許し無くば例え皇族の御方であろうと幣帛を奉る事が出来なかったといいます。
中世に至る事になると次第に武家の信仰を受けるようになり、養和2(1182)年には平家打倒の願文と共に源頼朝様が御神宝を御寄進をなさっておられますね。
広く庶民層にも信仰されるようになったのは、江戸時代に入ってからの事…納得といえば納得ですが、割と最近の事なので御座いますね。
相殿神には天手力男神、万幡豊秋津姫命が御祀りされておられます。
御参道を奥まで進んだ左側に御正宮が御座いますが、その手前には 今度の式年遷宮の新御敷地を見る事が出来ます。

神宮内宮の御神体といえば…三種の神器の1つ、八咫鏡で御座いますね。
では然し、壇ノ浦合戦にて平家、安徳帝と共に海に沈んだ事になっている筈ですが……これ如何に?という疑問が沸いて参りますが、これについては…ハッキリ言ってしまいますと、今となっては その真相を知る者等は何処にも存在致しておりません。
という感じで…つまりは、謎なので御座いますね〜。
この謎については実に様々な説が唱えられておりますので、中々これという有力説も挙げ辛いのですけれど、平家は都落ちの際に宮中に在った三種の神器を持ち出されたと考えられております。
二位尼様が草薙剣を帯びて、八尺勾玉を脇に抱え、主上を抱かれて入水。
八咫鏡と共に入水されたのは大納言典侍様であったと語られておりますが…時忠様が所持されておられたともいわれます。
草薙剣以外は回収されたようで御座いますが、その八咫鏡が現在の伊勢神宮の御神体であるか否かは また別の問題で…。
伊勢神宮には、神器が出入りした等という記録は当然残っておられぬようで御座います。
神器と申されましても、実のところは誰も本物を見た事が無いのですから、ありえない事ですが もしも内宮御正宮の御神体が公開される事となったとしても、謎が解明するという事は無いので御座いますね。
船越さんのパクリでは御座いませんが(笑)、歴史はミステリィ…日本は、古来より“見えないもの”に神秘を抱き、崇め奉ってきた国で御座います。
それは素晴らしい信仰と文化――解らないからこそ、尊いので御座いましょう。

内宮の門前町は“おはらい町”と呼ばれております。
ちなみに、その中の 赤福本店さん辺りは“おかげ横丁”と呼ばれているようで御座います。
とても素敵な御土産物屋さん、御食事処が建ち並び、ここを歩いているだけでも とても楽しいです♪
私は ひとりで参拝する事が多いので、伊勢うどんが気になるなぁ…と思いつつ、いつも素通りしてしまいます(苦笑)
伊勢うどんって、何故か聞く人によって随分と評価に差があるのですが……うぅ…き、気になります;;
来年の年明けこそは、せめて御持ち帰りの伊勢うどんを入手して、実家に帰って食べてみようかなぁ。
現地で食べられた方が良いのですが、宿泊をしていても 旅先では ひとりで食事が出来ない私……グルメレポーターにだけは、一生なれない自信が御座います(笑)


年内に書き残した記事は山程御座いますが、その中で、ど〜うしても年内に書いておかなくては私の気が済まないような気がする!!と思っておりますのが、御伊勢様の事と源氏物語関連な事々…。
源氏物語千年紀は、今年が過ぎれば“千年紀”じゃ無くなってしまいますもの……何か、それらしい関連記事等書けたら良いなぁと思いつつも、殆ど更新せぬままに師走を迎えてしまうとは!
せ、せめて石山寺だけでも年内に書いておきたいかな、とは思っております…が、石山寺は源平史跡に分類すると思います;
御伊勢様は…その、今年の2月当たりに御友達のモチヅキさんよりリクエストをいただいておりまして……あー…書こう書こうと思いつつ、10ヶ月以上も放置をしておりました…。
御免なさい、モチヅキさん…本当に申し訳御座いませんでした(土下座)
で、もう今更かなぁと怯える心を抑えつつも、このまま新年に持ち越してしまうのも恐ろしいので、本日より暫くは御伊勢様と その周辺の神社や史跡等について記していきたいと思います。

――という訳で、御伊勢参りの順番に従って外宮から。
えぇと…御伊勢様は一般的に“伊勢神宮”と呼ばれておりますが、正式名称は“神宮”で御座います。
神社本庁の本宗で御座いますね。
“神宮”というのは、内宮と呼ばれる“皇大神宮”、外宮と呼ばれる“豊受大神宮”、それから別宮や摂末社、所管社 等を合わせた全ての御宮の総称で御座います。
私は未だ全ての御宮を回れ切れておりませんので、余り詳しい位置関係までは把握出来ていないのですけれど、かなり広域のようで…伊勢市外にまで及んでいると聞いております。

伊勢の神宮といえば、古くから尊ばれている皇族縁の神聖なる御宮様。
当然の如く、源平両氏とも何らかの接点を持たれていたようで御座います。
↑実は外宮の表参道入口の手水舎向かいには、平清盛様の伝説が伝わる楠さんが立っているので御座いますが……何度も御参りしているにも関わらず、あろう事か写真が見付かりませんでした;
楠さんの樹齢は約800年、程良く素敵な御年齢で御座います(笑)
直径は約3メートル、樹高は10メートル。
この楠さんは、通称を“清盛楠”と呼ばれております。
清盛様が勅使として神宮に参向された折、この楠さんの枝が 清盛様の冠に触れた事から、枝を伐らせた……と伝えられているようで御座いますが…あー…何だか、印象が良い方の伝承では無い御話のようで御座います…ね…。
…年明けには、また初詣に行きますので、その後に さり気なく写真を追加させていただこうと思います(苦笑)
あ…ちなみに平家といえば、忠盛様以下の平家御一門は、伊勢に土着された維衡様にはじまる伊勢平氏の御家系で御座いますね。
津市の伊勢平氏発祥伝承地については以前に記しておりますが、この他にも周辺には平家縁の伝承地が数多く存在しております。
この春までは運転免許を持っておりませんでしたので、中々訪れる手段も見当たらなかったのですけれど、今の私ならば…!と水面下で意気込み始めているところで御座います(笑)
えぇと…源氏側では、源頼朝様が養和2(1182)年に平家打倒の願文を伊勢神宮に奉じられている事が、吾妻鏡に伺えますね。
養和二年二月八日
八日 己酉
被奉御願書於伊勢太神宮、大夫屬入道善信。
献草案、是爲四海泰平萬民豐樂也<云云>。
生倫、著衣冠、参營中賜之。
則進發。
中四郎維重、被相副之。
長江太郎義景爲神寳奉行、同首途、義景先祖、權五郎景政、抽擲重信心。
去永久五年十月廿三日、以私領相摸國大庭御厨、永奉寄神宮之間、彼三代孫、尤可相叶神慮歟之由、被經御沙汰、應其撰<云云>
御願書云、
維當歳次治承六年<壬寅>二月八日配吉日良辰<遠、>撰定<天、>前右兵衛佐從五位下、源朝臣頼朝、禮代御幣砂金神馬等、令捧齊持<天>。天照百皇太神廟前<仁>、恐<天毛>申<天>申<久>。頼朝訪遠祖<波>。神武天皇初<天>。日本國豊葦原水穗<尓、>令濫觴<天>。五十六代<仁>。相當<礼留>。清和天皇<乃>第三<乃>孫<與利>。携武藝<天>。護國家<利>。
居衛宮<天>。耀朝威<須>自爾以來、插野心凶徒征罰<須留>。依勲功<天>。惠澤身<仁>餘<利>。武勇世<仁>聞<倍>。和國無爲<仁志>。有截克調<天>。星霜三百餘歳<仁>覃<布>處、保元年中<與利>。洛陽<仁>兵乱起<留>。時人不訪湯王<乃>化、不存鎮護<乃>誓<須>。犯否<於>押混<天>。賞罰<於>申行<布>間、平治年中<仁>。頼朝無咎過<天>。覃罪科<布>。含愁憤<天>。送春秋<留>處<仁>。前平大相國驍勇<乃>令從黨<天>。去々年<乃>秋、頼朝<於>擬誅<志>日、依有天運<天>。黥布<加>鏑<遠>令遁<留>本自<利>不誤<加>故<仁>。神<乃>冥助<奈利>。而彼平大相國、還<天>頼朝<加>謀叛<乃>由、叡聞<於>驚<須>。即奏事不實<奈利>。披陳<仁>無便<志天>。只仰蒼天<久>間<多仁>。華夷不靜<須>。逆濫重疊<勢利>。厥中<仁>。聖武天皇草創鎮地<乃>後、歴四百餘歳<多留>。蓮宮<遠>令焚燒條、蒼生誰不悲歎哉。凡朝務<遠>押行<比>。郡郷滅亡<須留>。是豈<仁>。非謀叛乎。爰平大相國、俄早世<勢留>。神慮不快<乃>由、露顯<奈利>但頼朝、殊所恐<波>。如風聞<波>。熊野<乃>衆徒號<志天>。姦濫<遠>巧<牟>類等、去年正月<仁>。皇太神宮<仁>。濫入<志天>。御殿<於>破損<志>。神寳<遠>犯用<須>。因茲、御體<遠>。皇太神<乃>御殿<乃>砌<利>。五十鈴<乃>河上<乃>畔<仁>。假奉遷<云云>。亦同月<仁>。彼凶賊等。二所太神宮<乃>御殿、近邊<乃>人宅<仁>亂入<志>、資財<遠>捜取<利>。舎宅<遠>焼失<横留>刻、祠官等、成恐怖<天>。參宮中<天>。令騒動<牟>。此兩條、全頼朝不謬。神明<乃>仰照鑒<久>。方今無事<仁>。遂參洛<天>。防朝敵<天>。世務<遠>如元、一院<仁>奉任<天>。禹王<乃>慈愍<遠>。令訪。神事<遠>如在<仁>奉崇<天>。正法<乃>遺風<遠>令繼<牟>。縱雖平家<毛>。雖源氏<毛>。不義<遠波>罰<志>。忠臣<遠波>賞<志>。賜<倍>。兼又、古今<乃>例<遠>訪<天>。二宮<仁>。新加<乃>御領<於>申立<天>。伊雑宮<遠>造替<志>。神寳<遠>調進<勢牟土>。所祈請<奈利>。抑東州御領、如元<久>。不可有相違<留>由、任二宮注文、染丹筆<天>、奉免畢。此凡不訛謬<須>。百王太神、此状<遠>令照納<天>。上<美>始自政王<免>。下迄于百司民庶<天>。安隠泰平<仁>。令施惠護<天>。頼朝<加>伴類<仁>臻<萬天>。夜<乃>守<利>。日<乃>守<利仁>。護幸<部>。給<倍止>。恐<天>恐<天毛>。申<天>申<久>
治承六年二月八日 前右兵衛佐從五位下、源朝臣頼朝
大雑把にいえば、内容は 世の中の安泰と万民の豊穰を願うというもの。
“清和天皇より続く清和源氏の武士が武名を轟かせていた事で、世の中には安泰が続いておりましたのに、保元の頃から京では戦乱が起こり、正義の区別も無い賞罰を申し行い、平治の乱に際して頼朝は無実の罪を負わされました。苦しみ悲しみに耐えつつも歳月が過ぎていた一昨年の秋の頃、清盛は この頼朝を殺そうと刺客を仕向けて来ましたが、その時 天から運を授かり、矢を逃れる事が出来ました。神は私の正しい行いを認めておられるというのに、清盛は頼朝は謀反人であると朝廷を驚かせました。そして戦乱は広がっていく中で、聖武天皇が草創された国家鎮護の御寺が燃やされ、大くの民が悲しみました。更には、朝廷を我がものとし、全ての国や民を駄目にしてしまう…これこそが、謀叛ではありませんか。神様の不興の証として?盛は死にましたが、それでも未だ悪い事を考える連中がおります。去年の正月には、伊勢神宮の御末社である伊雜宮の御殿が壊され、神宝が盗まれました。この為に、御神体は五十鈴川河畔へと仮遷宮されたというでは御座いませんか。また、同じく その月には、内宮外宮の付近に住まう民の家へ強盗に入り、住居に火を付けて神主達は怯えさせました。これらの事件に、頼朝様は無関係である事を、神の御意思に尋ねます。折しも、上洛が決まり、世の中を元通り法皇様に委ねる事となりました。正しい習慣と伝統を取り戻す為に、平家であろうと源氏であろうと正しくないものを罰し、忠義なものには褒美を御与え下さい。また、古今の例に倣って、内宮外宮の両宮に領地を寄付し、伊雑宮の再建を行い、御神宝を寄進させていただく事を誓います。東国領地につきましては、以前の通り、内宮外宮の申請に従って私が命令書を記し、年貢を免除致します。必ずや、間違い無く行いましょう。皇太神宮様、この書状を どうか良く御読み納められ、上は帝から下は百姓庶民に至るまで平和を御守りいただきますように、頼朝と その家来達までも、どうか御守りいただきますように、畏まって御願いを申し上げます”
……という感じでしょうか。
同年12月(1182年12月)には、二宮の神職の方々が鎌倉の為に御祈祷をされた事が、平家から朝廷に提議されております。
寿永元年十二月一日
十二月大一日 丁酉
生倫神主、注進申云、二宮禰宜等、奉同意關東之由、有平家之讒奏、去月之比、公家及御沙汰。
遂爲祠官惱亂歟<云云>
この前の月に、この事が朝廷で議論されたようで御座いますね。
結果は、神職方がおかしいのでは?という感じで終わっているようで御座いますが…;
この事から、情報を平家に流された人物が居たか、神宮内部に平家に精通する部分があったという事が考えられるようにも思えます。
寿永元(1182)年は平家の全盛期を過ぎているといえば過ぎておりますが、それでも未だ平家は中央で政権を握っておられましたので、世の中全体が揺らいでいた時期でもあったようで御座いましょう。
↓翌日の手紙の内容にも、平家に情報が洩れ訴えられた事に驚かれている様子が伺えますね。
寿永元年十二月二日
二日 戊戌
就生倫申状、被遣御書於太神宮禰宜達。
同心頼朝之由、平家訴申事、驚思給者也。
但神者納受道理。
君<毛>遂然御歟。
各不危。
始終祈念給者、東國御領等。
不可有相違之趣、可被觸申二宮也。
謹言
十二月二日 二郎大夫 (吾妻鏡による)
そしてそして…。
義経様側で御伊勢様に縁する御方といえば、伊勢三郎様で御座いますね〜!
此のものを見るに二心なんどはよも有らじ、知らせばやと思召し、
「是は奥州の方へ下る者なり。平治の乱に亡びし下野の左馬頭が末の子牛若とて、鞍馬に学問して候ひしが、今男になりて、左馬九郎義経と申す也。奥州へ秀衡を頼みて下り候ふ。今自然として知る人になり奉らめ」
と仰せけるを、聞きも敢へず、つと御前に参りて、御袂に取り付き、はらはらと泣き、
「あら無慙や、問ひ奉らずは、争でか知り奉るべきぞ。我々が為には重代の君にて渡らせ給ひけるものをや。かく申せば、如何なる者ぞと思すらん。親にて候ひし者は、伊勢の国二見の者にて候ふ。伊勢のかんらひ義連と申して、大神宮の神主にて候ひけるが、清水へ詣で下向しける、九条の上人と申すに乗合して、是を罪科にて上野国なりしまと申す所に流され参らせて、年月を送り候ひけるに、故郷忘れんが為に、妻子を儲けて候ひけるが、懐妊して七月になり候ふに、かんらひ遂に御赦免も無くて、此の所にて失ひ候ひぬ。其の後産して候ふを、母にて候ふ者、胎内に宿りながら、父に別れて果報つたなきものなりとて捨て置き候ふを、母方の伯父不便に思ひ、取り上げて育て成人して、十三と候ふに元服せよと申し候ひしに、『我が父と言ふ者如何なる人にて有りけるぞや』と申して候へば、母涙に咽び、とかくの返事も申さず。『汝が父は伊勢国二見の浦の者とかや。遠国の人にて有りしが、伊勢のかんらひ義連と言ひしなり。左馬頭殿の御不便にせられ参らせたりけるが、思ひの外の事有りて、此の国に有りし時、汝を妊して、七月と言ひしに、遂に空しく成りしなり』と申ししかば、父は伊勢のかんらひと言ひければ、我をば伊勢の三郎と申す。父が義連と名告れば、我は義盛と名告り候ふ。此の年頃平家の世になり、源氏は皆亡び果てて、偶々残り止り給ひしも押し篭められ、散り散りに渡らせ給ふと、承りし程に、便りも知らず、まして尋ねて参る事もなし。心に物を思ひて候ひつるに、今君を見参らせ、御目にかかり申す事三世の契と存じながら、八幡大菩薩の御引合とこそ存じ候へ」
とて、来し方行末の物語互に申し開き、只仮初の様に有りしかども、其の時御目にかかり始めて、又心無くして、奥州に御供して、治承四年源平の乱出で来しかば、御身に添ふ影の如くにて、鎌倉殿御仲不快にならせ給ひし時までも、奥州に御供して、名を後の世に上げたりし、伊勢の三郎義盛とは、其の時の宿の主なり。 (義経記による)
御出自について、史実の上で確かな事は分かっておりませんが、伊勢神宮の神主の御子様であったと伝えられております。
その時に御父様が義経様の御父様である義朝様と繋がりがあった事から、後の御子様同士の主従関係が生まれたと義経記には記されておりますね。

□ 豊受大神宮(とようけたいじんぐう) □
所在地:三重県伊勢市豊川町
御創建:雄略天皇22年7月7日(478年8月20日)
主祭神:豊受大御神
通 称:外宮
外宮は、神宮の正宮の1つ。
延暦23(804)年編纂の御社伝によりますと、雄略天皇22(478)年 内宮の御祭神である天照大神が天皇の夢の中に出現され、
『吾れ一所のみ坐せばいと苦し。しかのみならず大御饌も安く聞こしめさず坐すが故に、丹波国比治の真名井に坐す我が御饌都神等由気大神を我許に欲と誨へさと』
と仰られ、これに従って丹波国より等由気大神を御迎えになったと伝えられております。
儀式帳にも“等由気大神”とありますが、古事記には“登由宇気神”と表記されております。
神宮では“豊受大御神”と称されているようで御座いますね。
延喜太神宮式には、“度会宮四座、豊受大神一座、相殿神三座”と記されており、主祭神である豊受大神の他、3柱の神様が御祀りされていた事が伺えますが、その3柱の神様については詳しい事は伝えられていないようで御座います。
現在、神宮では御伴神として、正殿の左右に配祀されておられるそうで御座います。
代々、度会氏が外宮の神職として奉職されてこられました。
鎌倉期に唱えられた伊勢神道では、外宮の御祭神 豊受大神は別名を“御饌都神”といい、“みけつ”の“み”=水=五行でいう水徳であり、水は万物の根源である事から豊受大神は根源神で、天之御中主神、国常立尊と同一の神様であると説かれております。
内宮の天照大神は地神の祖、外宮の天之御中主神が天神の祖であるという考えから、実は内宮よりも外宮の方が立場は上であるという事のようで御座いますね。
豊受大神宮(外宮)
豊受大神宮には豊受大御神をおまつり申し上げます。
第二十一代雄略天皇の二十二年(西暦五世紀)に天照大御神のご神慮によって丹波の国(今の京都府北部)から、この度会の山田原におむかえしたと言い伝えられています。
豊受大御神は天照大御神のおめしあがりになる大御饌(食物)の守護神であり私たちの生活をささえる一切の産業をおまもりくださる神様です。
神宮は毎日数々の御祭が行われている事で有名で御座いますが、特に有名なのが日別朝夕大御饌祭では無いでしょうか。
日別朝夕大御饌祭は“ひごとあさゆうおおみけさい”と読みます。
午前8時から午前9時にかけて行われる朝大御饌と、午後3時から午後4時にかけての夕大御饌。
忌火屋殿で忌火と呼ばれる聖火によって調理された神様の御食事を、天照皇大神と豊受大御神をはじめとする神々に奉られていらっしゃいます。
これは毎日、朝と夕に2回、365日欠かす事無く行われている神事で御座います。
日別朝夕大御饌祭
外宮の御垣内にある御饌殿において、毎日朝夕の二度、天照大御神をはじめ豊受大御神、両宮の相殿神(同殿にます神)十四所の別宮の神々にお食事をたてまつるお祭が行われます。
これを日別朝夕大御饌祭といい、外宮ご鎮座以来千五百年間毎日続けられているお祭です。

豊受大御神を御祀りする御社殿の奥には、次回の式年遷宮の御敷地を見る事が出来ます。
式年遷宮については、また近々別の記事に改めて記させていただきます。

こちらは、外宮正宮の南に位置する檜尾山の多賀宮と、遷宮予定地。
外宮の4別宮の中でも、最古の御宮といわれております。
元々は、丘上に鎮座される事から“高宮”と称されていたようでございますが明治期に廃され、縁起の良い字を当てられて現在の表記になったのであろうと考えられております。
御祭神は、豊受大御神荒魂。
外宮と同時の御創祀と伝えられ、主祭神の荒魂を御祀りされている事から、4別宮の中では最も位が高い御宮とされております。
明治期に廃されておりますが、それ以前までは多賀宮専用の忌火屋殿も在ったのだそうで御座います。
多賀宮に参拝するには、土宮と風宮の間の石段を登って行かなくてはならない為、下に遥拝所が設けてあります。
また、多賀宮への御参道には亀石が御座いますが、これは高倉山の天岩戸の入口の岩を運んだものと伝えられているのだそうで御座います。

こちらは、土宮と遷宮予定地。
土宮も外宮の別宮の1つ、多賀宮へ続く石段の麓に御座います。
御祭神は、外宮の地主神様である大土乃御祖神。
神宮の境内別宮は基本的に南面に御祀りされておりますが、土宮は東面なのだそうで御座います。

檜尾山の麓で、御参道を挟んで土宮の反対側に御祀りされているのが、同じく別宮の風宮で御座います。
遷宮予定地も直ぐ傍に御座います。
御祭神は、内宮 別宮の風日祈宮と同じく級長津彦命、級長戸辺命。
古くは風社と呼ばれる御末社で御座いましたが、弘安4(1281)年の元寇に際して神風を起こし、日本を守った神様であるとして別宮に昇格されたのだそうで御座います。
確かな御創祀年代は不詳で御座いますが、長徳3(997)年の記録に御社名があったという記述が最古のものという事で御座います。




三重県津市の古刹――四天王寺は、聖徳太子創建と伝わる御寺さんで御座います。
こちらの境内に 藤原景清(平景清/伊藤景清)様縁の史跡があるという事で、先月 御伊勢参りの前に立ち寄らせていただいて参りました。

山門手前の正面入口に向かって右には、境内側に少し窪んだスペースが御座いまして、そちらに“平景清鎧掛松”と刻まれた石碑と大きく聳える松の木が御座いました。
景清様は伊勢国辺りの御出身であったと考えられておりますので、何かの折に立ち寄られて こちらの松に鎧を掛け、平安期に最も繁栄されていたという この四天王寺へ参拝なさったのかもしれません。
石碑の傍に立つ大きな松さんが、その松さんなのか否かは確証的では御座いませんが、大木といえども流石に樹齢800年以上では無いと思われますので、3世とか4世なのかなぁ…と勝手に想像を致しておりました。

景清様の鎧掛松の他にも、こちらには数々の史跡、文化財が御座います。
個人的には、重要文化財の薬師如来像に納入されていたという品々と 鐘楼門の中に潜まれている市指定文化財の梵鐘に興味津々で御座いました。
薬師如来像および体内納入品(重要文化財) 平安時代後期 像高65cm
檜の一木造りで、承保4年(1077)に仏師定朝により造られたもの。
また、像胎内には、当時の寺領を記した文書や、像を造る費用の寄進者名を書いた紙片や扇、櫛、玉、麻の緒など25点が納められています。
山門(市の有形文化財)
江戸時代 幅3.8メートル、奥行3.1メートル
山門全体に、使われている木が太く、高さもあり均整のとれた美しい姿を残しています。
現在の形に再建されたのは、寛永18年(1646)二代目藩主高次の時代。
寺内では往時を偲ぶ数少ない建物となっています。
織田信長様の生母 花屋寿栄禅尼の墓所である事でも有名で御座います。
花屋寿栄禅尼 織田信長生母の墓
津に織田信長の母親、花屋寿栄禅尼の墓があるのは不思議に思えますが、最初に津城を築いたのは、信長の弟、信包(のぶかね)で、天正8年(1580)にはほぼ城は完成しました。
本能寺の変のあと、彼女は信包をたよって津に移り、この地で亡くなりここに葬られました。
山門を潜り、境内の奥へと進んで参りますと、外から見た感じよりも ずっと広い御寺さんで御座いました。
緒由緒書に載っている かつての境内図を見る限り、全盛期の頃は かなりの広域であったように思われます。
現在は御見受けする事が出来ませんでしたが、その図には天神様や弁天様、八王子等も御祀りされていたようで御座います。
神仏分離に際して無くされてしまったのか…もしくは第2次世界大戦中の空襲によって焼失されてしまったのでは無いかとも考えられます。

□ 四天王寺(してんのうじ) □
所在地:三重県津市栄町
御創建:不詳
御開山:聖徳太子
宗 派:曹洞宗(中本山)
山 号:塔世山
御本尊:釈迦牟尼仏
“四天王寺”といわれて先ず頭に浮かぶのは、矢張り大阪の古刹 四天王寺さんで御座いますが、こちらも同時代に推古天皇の勅願によって、聖徳太子こと厩戸皇子が建立された寺院であると伝えられております。
大阪の四天王寺の他に現存する四天王寺は こちらのみとなっております。
推古天皇元年
是歳。
始造四天王寺於難波荒陵。
是年也、太歳癸丑。 (日本書紀による)
父 用明天皇崩御の後、皇位を巡って起こった争いで 太子は蘇我氏と共に討伐軍に加わりますが物部氏の兵力に難航し3度も撃退されてしまった為、白膠で四天王像を彫り戦勝祈願をなさったといいます。
勝利の暁には、仏塔を建て仏法の為に尽くす事を仏前に誓われたところ、守屋軍を敗る事に成功なさいました。
そして 推古天皇即位後、その誓願を護って4つの四天王寺を建立。
そのうちの1つが、こちらの四天王寺であったと伝わります。
平安時代には最も繁栄されたという事で御座いますが、数々の戦乱によって荒廃と再興を繰り返されておられるようで御座います。
繁栄された寺院であれば尚の事……伊勢国は伊勢平氏縁の土地で御座いますので、平氏同士の争乱や源平合戦の頃にも、何かしらの混乱が起こっていたのかもしれませんね。
元和5(1619)年、津城に入られた藤堂高虎様によって改築が行われ、寛永14(1637)年には2代藩主の寺領寄進によって勢力を盛り返されたようで御座います。
太平洋戦争では御本堂が焼失。
現在の御本堂は、その後の再建だそうで御座います。
本寺は塔世山四天王寺と称し、曹洞宗の中本山。
推古天皇の勅願、聖徳太子の建立と伝えられています。
用命天皇の時、聖徳太子は守屋大連の軍に三たびも敗れました。
そこで太子は四天王像を刻み、「もし我れが勝利をえれば寺塔を建立するから勝利を与えてほしい」との誓願をたてました。
その結果、守屋の軍を敗ることができたため太子は誓願どおり四天王寺を四つ建立。
その一つがこの四天王寺で、他の一つが大阪の四天王寺であるとされています。
近年、境内から奈良時代の古瓦が出土され、建立されたのは7世紀ごろという説もありますが、いずれにせよ1000年以上の歴史があることは明らかです。
平安時代はこの地方で最も繁栄した寺院でしたが、たびたびの兵乱や戦火で焼失と再興を繰り返し、元和5年(1619)に津城に入国した藤堂高虎が改築。
さらに2代藩主高次が寛永14年(1637)に寺領を寄進し、寺勢をとりもどしました。
現在の本堂は、太平洋戦争にて焼失後、五十二世定行代に托鉢行によって再建されたものであり、市内有数の大きな寺院の一つとなっております。
また境内には、信長生母、藤堂高虎夫人をはじめとした武将や学者、文人たちの墓や芭蕉文塚ほかの文学碑など貴重な文化財が多く残されており、多くの人々から厚い信仰を受けております。

御本堂の近くには、眼洗い地蔵様がいらっしゃいました。
古くから、この境内の井戸で眼を洗うと眼病が治るといわれていたのだそうで…。
心を込めて手を合わせ、御地蔵様に3回水をあげ、再び手を合わせて御願いをするのだそうで御座います。
私も、近視、乱視が酷くなる一方で日常生活にもかなり支障が出始めておりましたので(パソコンの前以外では眼鏡等使用しませんし;)誓願すべきかしらと少し悩んだのですが、持って生まれた視力の悪さも また自分らしさかなと思いまして、御挨拶のみの御参拝とさせていただきました…基本的に神仏には御祈願をしない主義で参拝させていただいておりますので(苦笑)

境内入口近くには、四天王寺稲荷様が御祀りされておりました。
こちらは順徳天皇の第三皇子 寒厳義伊禅師が文永4(1267)年に感得された「稲穂を荷い白狐跨り給う端麗なお姿のダキニシンテンと申す福徳語法の善神」という事で、室町時代には沢山の信者によって繁栄されたようで御座います。
太平洋戦争後の混乱によって、長年 民衆から遠ざかっておられたようですが、とても綺麗な御神殿で御座いましたので、恐らくは最近 御建立されたものであろうと思われます。

景清様鎧掛松の向かいには、松尾芭蕉様の文塚も御座いました。
元文2(1737)年に、この地の俳人 菊池二日坊が芭蕉さんを偲んで建立されたのだそうで御座います。
裏面には芭蕉さんの略歴等が刻まれておりました。
塚という形態のものでは三重県最古といわれているのだそうで御座います。
津駅から徒歩10分とかからない辺りで御座いましょうか…。
周辺の車道や駅付近の賑わいがもっと遠い世界のものであるように、切り離された別世界のような厳粛かつ優しい空間で御座いました。
境内からはみ出すように表からも様々な史跡、庚申塔等を拝見する事が出来、その由緒の深さをさり気無く物語っているようにも感じました。


平維衡様に始まるといわれる“伊勢平氏”――後に、京にて栄華を極められた清盛様以下、平家御一門へと繋がる御家系で御座います。
伊勢平氏の本拠地は、呼称される通り 伊勢国。
三重県津市の長谷山麓には“伊勢平氏発祥伝承地”として整備された公園が御座います。
“忠盛塚”もしくは“胞衣塚”とも呼ばれておりますが、こちらは 清盛様の御父様 忠盛様が御誕生なさった地として語り継がれる史跡。
…あくまでも、伝承地で御座いますので、史実として文献等に確かな記録が残っているという訳では無いのですけれど、前々からずっと行きたいと望んでいた史跡であった上、地理的に少し行き辛い場所に在った所為か、到着した瞬間の感動は一入で御座いました。
周辺に誰も居ないのを良い事に、「わぁい!」と両手を挙げてハッスルしておりました…(恥)
今、思い返すと大変痛い行動で御座います///

↑解りやすくしたかったのですが、見事に解り難い事になってしまっておりますね…申し訳御座いません;
中央の石碑が建てられている部分が、少し盛り上がって丘のようになっておりますが、これが 忠盛塚(胞衣塚)で御座います。
忠盛様が御誕生になられた時、胞衣納に選ばれた場所のようで御座いますね。
胞衣とは、胎児を包んでいた膜や胎盤の事で、古来、生後5日目…もしくは7日目の吉日に 胞衣を壺等に納めて恵方に埋める“胞衣納儀”という信仰が御座いました。
当時は、成長途中に御亡くなりになられてしまう御子様が多い時代で御座いますので、御子が無事に健やかに育ちますように…との願いを込めて行われていたので御座いましょう。
三重県指定史跡 所有者 津市
平氏発祥伝承地
平安時代 昭和14年3月25日指定
「忠盛塚」ともいわれているが、正式には「平氏発祥伝承地」という。
この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、忠盛が産湯を使ったといわれる産湯池も残っている。
桓武天皇の曾孫高望王を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていた。
しかし、平将門の乱、平忠常の乱以後、東国は源氏の地盤となり、貞盛の子維衡の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになり、寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられている。
「平家物語」に、眇な田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子は素瓶なり」とはやし、あざけったとある。
維衡の曾孫正盛は白河法王の寵を得て中央政界に進出し、その子忠盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の昇殿を許され、平氏繁栄の基礎をつくったのである。
ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、「尊卑分脈」には維衡の孫貞衡とその子貞清は安濃津三郎、貞清の子清綱は桑名冨津二郎と傍注され、北勢から中勢にかけての勢力伸長をうかがわせる。
貞衡の弟正衡の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたる。
しかし、忠盛の昇殿、清盛の活躍などのため、伊勢平氏=忠盛と理解されるようになっていったと考えられる。
そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の老従となり、歴史の表舞台から姿を消してしまったのだろう。
津市教育委員会
平氏発祥伝承地
伊勢の国は、武家の棟梁、平氏の根拠地であった。
平氏にも数流あるが最も頭角をあらわしたのは、桓武天皇より出る“伊勢平氏”で平維衡が伊勢守として在任して以来、正度、正衡、正盛、忠盛と相ついで伊勢国や伊賀国に勢力を張った。
中央に進出した正盛、忠盛は海賊追捕などで武功を重ねて熊野や瀬戸内海の強大な水軍を支配し、院政政権の側近として活躍した。
安濃津は、白子や桑名とともに平氏一門の基地の港として重きをなしたが、忠盛の子の清盛も熊野参けいに安濃津から船出している。
この産品附近には忠盛誕生のときの胞衣塚、産湯池や邸宅跡など数多い伝承に包まれた平氏ゆかりの地である。
三重県教育委員会 津市教育委員会

忠盛塚の奥は、広場のようになっておりました。
暖かい季節ならば、寝転がって まったりと時間を過ごしたくなってしまいそうな穏やかさが素敵で御座いました。
私が訪れた時は、人っ子一人見当たらない…という感じだったのですけれど、もしかすると 御近所の子供達の遊び場にもなっているのかもしれないですね〜。
空が広いので、凧揚げとか出来たら楽しいだろうなぁと思います。
トイレ完備の公園なので、御家族でピクニックも楽しめそうで御座います(笑)

こちらには、なんと梛さんもいらっしゃるので御座います…!
熊野縁の地や神社境内等では良く御見掛け致しますが、公園で遭遇するのは初めてで御座いましたので、驚いてしまいました。
案内板によりますと、平家と熊野の縁、そして 御嫡流 重盛様の故事を辿って こちらに寄進された梛さんのようで御座います。
神社等ですと、余り御神木にベタベタと触ってしまっては失礼かな;と思ってしまうのですが、これだけ近い距離で触れられるというのは嬉しいですね。
未だ御若い梛さんなので、将来が楽しみで御座います♪←800年後位?(私、その頃まで生きてはおれませんが…/笑)
梛と伊勢平氏
かって、熊野三山造営奉行であった平重盛が、平治元年(一一五九)に速玉大社社殿落成の記念に、ナギを霊力のある木として植えている。
重盛は忠盛の孫にあたる。
その後、このナギは大木に育ち御神木となった。
ふるくから、この御神木は熊野詣の人々の目をひきつけ、これにあやかろうと、各地に植えられた。
特に「権現さん」と「平氏」ゆかりの地には、よく植栽されている。
ナギは風や海の「凪(なぎ)」に通じると、航海の安全を願って植えられたり、葉の脈が縦に多くあって、葉の両端を引っ張っても、簡単にはちぎれないので男女の縁が切れないようにと願って、この葉をお守りにも用いられた。
一方、個人庭園でも「モクセイ、モッコク、ナギ、ナンテンに松竹梅」と語呂合わせにいわれるようによく植えられてきた。
平成十年五月二十一日

この小池は、忠盛様が産湯に使われたという伝承があるようで。
何だか想像以上に水量が無かったのですが、これは時期や天候に左右されるもの…と思われます。
産湯池も忠盛塚等と共に、明治大正期に整備されたようで御座いまして、中央に建てられている石碑は 大正6年に設置されたものだそうで御座います。

忠盛塚
忠盛塚について、江戸時代初期に書かれた『勢陽雑記』には、「此所に、まりが塚とて少しき丸山の岡あり。平氏忠盛の誕生所といひ伝ふ。」とある。
忠盛塚と産湯池の整備は、明治二十七年に始まり、明治三十三年には、整備の完成を記念して忠盛塚の上に石碑を建て、塚の脇にも標柱が設けられた。
また、忠盛塚には山桜が植えられ、現在見ることができる姿となった。
さらに、大正六年には産湯池の中央に石碑が設置されている。
この石碑に使われた石は、置染神社付近の古墳から出土したものといわれている。
産品史蹟保存会 津歴史街道推進事業実行委員会
こちらには、大きな案内地図板が立てられていたのですが、近くに寄って良〜く見ますと、思わず食い付いてしまうような文字があちらこちらに見受けられまして……。

何だか平家の方々の御名前が!?と思って見ておりましたら、御出身といわれる忠盛様の御墓の場所が示してあり…それから、平家御嫡流 維盛様、六代御前の御墓もあるようで御座います。
一瞬、落人伝説かとも思いましたが、御嫡流の方々で御座いますし…恐らく、御墓というよりは供養塔なのだと思うのですけれど…。
気になって仕方が御座いませんでしたので、タクシーをつかまえて回ってしまおうかとも思ったのですが、流石に情報不足が否めませんでしたので、出直す事に致しました;
この中でも、幾つか調べのついた伝承地が御座いますので、免許を取ったら足を運んでみようと思っております…(苦笑)

伊勢平氏発祥伝承地までは、“忠盛塚”停留所から徒歩2〜3分程で御座いました。
バス停を降りたら直ぐ判ると思っていたのですが、意外と悩みました…;
何となくこちらかな…と思って歩いておりましたら、辿り着けてしまったのですが。
路線バスの走る車道を斜めに入った道の脇なのですが、塚自体 それ程高く目立つものでは御座いませんし、付近も田畑が多く 特に高い建物が無い状態で御座いましたので、逆に判り辛かったようにも思います。
余り史跡巡りに来られる方がいらっしゃらないのか、特に道標のような物は御座いませんでしたが、そんな地域に溶け込んだ史跡というのも素敵だなぁと感じております。



