日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

あき色に、染まる うつゝの秋桜。
一つだけちょうだい

これが、ゆみ子のはっきり覚えた最初の言葉でした。
まだ戦争がはげしかったころのことです。


秋桜01

秋桜…現代では、最も身近な秋の御花のように感じられます。
赤、白、桃、黄色と色とりどりの御花を咲かせ、早いものは夏前から見る事が出来ますね。

なんてかわいそうな子でしょうね。
 一つだけちょうだいと言えば、なんでももらえると思ってるのね


一つの花』という作品が、小学生の頃 国語の教科書に載っておりました。
原爆投下翌日の広島に救援隊として入られたという今西祐行氏による、戦時下を生きる幼い少女と その両親を通して、命や平和を問い掛ける短い作品。

戦争が激しかった頃、食べるものが無く、
もっと、もっと、
とせがむ ゆみ子に、
一つだけ――
そう言って、食べるものを与えてきた御母さんの口癖を、そのまま覚えてしまった、幼い ゆみ子。
そんな娘の将来を心配する、体の丈夫で無い御父さんが戦争へ行く日…。
出兵する御父さんに ゆみ子の泣き顔を見せたくなかった御母さんは、作っておいた おにぎりを全部ゆみ子に食べさせてしまいますが、いざ出発という時になって、ゆみ子の“一つだけ”が始まってしまったので御座いました。

お父さんは、プラットホームのはしっぽの、ごみすて場のような所に、わすれられたようにさいていたコスモスの花を見つけたのです。
あわてて帰ってきたお父さんの手には、一輪のコスモスの花がありました。


ゆみ。
 さあ、一つだけあげよう。
 一つだけのお花、大事にするんだよう……


ゆみ子は、お父さんに花をもらうと、キャッキャッと足をばたつかせて喜びました。
お父さんは、それを見てにっこり笑うと、何も言わずに、汽車に乗って行ってしまいました。
ゆみ子のにぎっている、一つの花を見つめながら……。

それから、十年の年月がすぎました。
ゆみ子は、お父さんの顔を覚えていません。
自分にお父さんがあったことも、あるいは知らないのかもしれません。
でも、今、ゆみ子のとんとんぶきの小さな家は、コスモスの花でいっぱいに包まれています。

       ( 『一つの花』今西祐行氏 作による)


初めて この御話を読んだ時、ゆみ子ちゃんは悪い子だと思いました。
ひとつだけ、ひとつだけ、と自分の欲望ばかりを前面に押し出して、甘えてばかりで周りの見えない悪い子だと……今にして思えば、物語の真意を読み取れなかった私も随分と幼い子供であったのだと反省させられる部分でもあるのですが、でも…子供なのですから、分からないのが当たり前なので御座いますね。
分からないからこそ、知りたいと思う事が出来、学ぶ事に意義を見出す事が出来るので御座います。

この物語に含まれている背景や心、願い……。
当時の私は、それを知りたくて町中を秋桜を求めて走り回りました。
けれど、それを授業で学んでいた頃は、秋桜が咲くには時期外れの季節。
どうしても手に入らなかった本物の秋桜の代わりに、福祉センターで御手伝いをして いただいた造花の秋桜を持って、教室へと向かいました。
意気揚々と担任の先生に見せに行くと、
凄いねぇ、良かったね。
 その秋桜を貰った時、ひろこちゃんはどう思った?

と聞かれました。
素直な子で無かった私は、作中で出兵する御父さんに一輪の秋桜を渡された ゆみ子ちゃんの気持ちを問われているのだと思い、
もうこれだけしか無いけぇ、大事にしようと思った
と答えました。
何処までも浅はかな自分は、矢張り子供なのだと痛感した瞬間でも御座いました。

私にとって、秋桜は そんな記憶を彷彿させられる御花。
何だか、取留めの無い過去話で御座いますが……。
満開の秋桜と対面した私は、小さい頃に感じた印象深い物語というのは、いつまで経っても心の内に残っているものなのだと思いました。
そして、改めて その作品を考えた時、かつての自分が辿り着いた結論とは全く違った答えに行き着く自分に気付き、あぁ…あの時の私が知りたかったのは、これだったのかと今更にして感じさせられる事が実に多く御座います。

秋桜02

埼玉県日高市大字高麗本郷の巾着田では曼珠沙華群生地の他、秋桜畑も丁度見頃を迎えておりました。
私は日が暮れても暫く曼珠沙華に夢中で御座いましたので、帰り際に案内板を発見するまでは秋桜畑に気が付きもせず…。
日は暮れておりましたが、折角の機会で御座いますので見させていただこう〜と思いまして、近くまで行ってみる事に致しました。

秋桜03

一般的には“コスモス”と呼ばれる、秋桜。
日本への渡来したのは つい最近の出来事で、明治20年頃だといわれております。
時々、
平安時代の日本には無かった御花だから、そんなに興味無いんでしょう?
と言われる事も御座いますが、そ、そんな事は御座いませんよ…(苦笑)

秋に咲き、花弁の形が桜に似ている事が語源になっているという秋桜で御座いますが…何と無く、花占いの御花という印象が御座います。
良く漫画やドラマ等で見掛ける、
好き、嫌い、好き、嫌い…
と、1枚1枚花弁を千切りながら、最後の1枚で結果を占うというアレで御座いますが……個人的に、この占いは とても好きでは無くて;
時々 河原等で遊んでいると、冗談半分で始める女の子が居たり致しますが、頑張って咲いた御花に何しよるんじゃぃやぁー!?と、思わず横っ面を引っ叩いてしまいそうになります(極端…)
本気で悩んだ末に、御花の命を代償にしてまで占いたいと言うのであれば止めは致しませんが、そういう場合は殆ど無いような……どちらかといえば、悶々とした気持ちの発散であったり、手持無沙汰解消の為の仕草だったりするように思えてなりません。。

秋桜の花言葉は、乙女の純真、真心、調和…等。
薄く色見を帯びた花弁の重なりが、少女の淡い恋心と重なって感じられるようで御座います。
だからこそ、この御花で恋路を占いたくもなるので御座いましょうね。

秋桜04

秋桜の合間には、赤蕎麦の御花も満開に花開いておりました。
暗がりの中では御座いましたが、蕎麦の御花を見たのは初めてで御座いました。
畑中に小さなピンク色の小花が沢山生っているのが、とても可愛らしかったです。

秋桜05

   あしひきの 山辺に居りて 秋風の
     日にけに吹けば 妹をしぞ思ふ


万葉集巻第8より大伴家持様が、久邇の都から 奈良の家に残っている坂上大娘様に送られた御歌。
原文“足日木乃 山邊尓居而 秋風之 日異吹者 妹乎之曽念

“山辺に居て、毎日吹く秋風が強まる度に、私は貴女の事を想います”

静かな秋風を片頬に感じながら思い出すのは、いつかの私。
咲き誇る秋桜の中を歩きながら、今も ゆみこちゃんの握り締めた一輪の色を想います。

秋桜06

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華に喩へるなら、
曼珠沙華

私の好きな御花は、椿薔薇
――なりたいのは、曼珠沙華

曼珠沙華は、一般的には“彼岸花”と呼ばれる事の多い御花。
別名の多い御花で、凡そ400もの御名を持つそうで御座いますが…私の知り得る限りでは、“死に花”や“毒花”“地獄花”“家焼き花”等、非常に不吉な意味合いを持たせた通称ばかり。
全国各地で方言として数多くの別名があるという事で御座いますが、矢張り どの地方でも共通して、不吉であったり意味不明な呼名のようで。
また、彼岸花を持ち帰ると家が火事になるという言伝えや、彼岸花が咲くと死人が出る等といった迷信も、幼い頃より屡々耳に致しました。
こんなにも忌み嫌われる御花が、他に御座いましょうか…。

毎年、秋の御彼岸の頃に開花するから、彼岸花。
曼珠沙華と呼ばれるのは、仏教梵語の“マンジュサカ”から、天上に咲く御花の御名に由来するというもの。
法華経が説かれる時に現れるという6つの瑞相 法華六瑞の1つとして降臨する天界の四華の御名を曼荼羅華、摩訶曼荼羅華、曼珠沙華、摩訶曼珠沙華…と呼び、それぞれを白、青、紅、黄の色によって呼び分けているという事で御座います。
この説によると、曼珠沙華というのは赤い御花のみを指す呼名であったという事になりますね。

『ピーの想い出と、曼珠沙華の畑への憧れ。』

もう、お彼岸も終わってしまいますね。

先々週に千葉で赤い曼珠沙華(ヒガンバナの事よ)を見て、
先週は鎌倉の極楽寺で白い曼珠沙華を見ましたが、
もっと…こう、めちゃくちゃ生えまくっている曼珠沙華畑へ行きたいのです。

個人的に、曼珠沙華には特別な思い入れというか…ちょっと、不思議な経験がありまして。
あれって、球根で育つ植物らしいので、植えない限りは自生しないものらしいですね。
種で生えたりはしないんだそうで。
小さい頃、可愛がっていた小鳥が、私の所為で死んでしまって…。
父(←当時は居た)や母に、死体は山に埋めに行けと言われたけれど…私は、どうしても自分のすぐ傍に置いておきたくて、庭の木の根元に埋めたのです。
怒られたけど、私が頑固として鳥の御墓を泣きながら護ったよ。
その年のお彼岸の頃、何故か そこに赤い曼珠沙華の花が咲きました。
それまで、その場所は 大木1本の為に誂えられた石垣に囲われていたので、他の草花等は植えてもおらず…家族全員が、
「なんで、彼岸花が…?」
と驚きました。
よく、ヒガンバナを持って帰ると家が火事になるって言うでしょう?
毒があって“死に花”とも呼ばれているから、みんな気味悪がって、抜いてしまえだの棄ててしまえだの、酷い事を言ったのだけど、私はピー(死んだ鳥の名前)が私に もう成仏したから泣くなと教える為に曼珠沙華になって生えてきてくれたんだと信じたんだよ。
それから、曼珠沙華は とても素敵なお花に思えて大好きなのです。

       (以下略 / 2008年9月26日 私の日記より)


以上は、気紛れに付けている私のオンライン日記より抜粋したもので御座います。
友人限定で公開しておりますので、かなり適当に書いておりますが…まぁ、それは良しとして;
こういう不思議な経験をしている事も、大きな理由のひとつになっているのですけれど、私にとって曼珠沙華は、本当に特別な御花。
もしも、私に曼珠沙華の別名を考える事が許されるのであれば、私は きっと導き花…“導華”と名付ける事で御座いましょう。

私は良く、椿のように生きたいと語っておりますが、もしも自分が御花になれるのであれば、紅い曼珠沙華になりたいと強く思っております。
毒があるから触るな、不吉だから近付くな、と教えられて育ちながらも尚、この御花に惹かれる この想いとは一体何なので御座いましょうか。
正直、少し怖いと思う気持ちは御座います。
でも、それと同時に近寄りたい、触れたいと願う気持ちも昂って…。
禁じられるものに対して生じる興味とは また別の感覚で、自分でも不思議で仕方が無いのですけれど、もしかすると 私は潜在意識下において、この凛とした絶対的な御姿に憧れを抱いているのかもしれません。

曼珠沙華

古典文学に伺える、この御花の初登場は万葉集…かもしれません。。
断定が出来ないのは、現在使われている呼び名で呼ばれていない為、果たして それが本当に曼珠沙華を指している言葉なのか否か、確かでは無いからで御座います。

万葉集に見られる、曼珠沙華らしき御花の呼称は“壱師”と書いて“いちし”と読みます。
壱師が何を指す単語なのか伝えられていない為、はっきりとした事は何も分かっておりませんが、現時点での最も有力な説として挙げられているのが、曼珠沙華という事で御座います。
その他にも、羊蹄、虎杖、斉墩果、苺 等の候補が考えられているようで御座います。

壱師を詠んだ御歌は、万葉集には巻第11に1首のみ収録されております。
作者は、柿本人麻呂様。
原文は“路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀”ですが、<或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者>とあり、ある本の御歌では“いちしろく 人知りにけり 継ぎてし 思へば”となっているようで御座います。

   道の辺の いちしの花の いちしろく
     人皆知りぬ 我が恋妻は


“鮮やかな壱師の御花道辺に咲くように、私の恋しい妻の事を人が皆 知ってしまいました”

“いちし”と“いちしろく”が掛詞になっておりますね。
言葉の響きから、何と無く白い御花を想像したい気も致しますが…この点も、未だ深い謎に包まれているところで御座います。

曼珠沙華

曼珠沙華が広まった由来にも、様々な説が御座います。
通説になっているのは、稲作に伴って伝播した史前帰化植物であるとされる説。
その他、仏教伝来時に大陸から伝わったという渡来説等もあるようで御座いますが、どれにせよ、人の手によって植えられ繁殖されてきた植物であるだけに、元々日本に自生していたとは考えられていないようで御座いますね。
現在は田畑の畦や、川辺、墓地等に良く見掛ける事が出来ますが、これは曼珠沙華の毒性を利用して農作等に害を為す動物の侵入を防いだり、その根が地の補強や土止めになるという事による光景のようで御座います。

毒草としての印象が強い曼珠沙華で御座いますが、古くから薬草としても用いられておりました。
薬となるのは、鱗茎部分。
勿論、全体的に毒素を持つ曼珠沙華で御座いますので、鱗茎にも有毒な成分が含まれているのですが、解毒剤、催吐剤として服用したり、また薬腫れ物や疥癬等の塗布薬として使用されたりもしていたそうで御座います。

曼珠沙華中毒になると、吐気や嘔吐、下痢、頻脈、中枢神経麻痺等の症状を引き起こし、場合によっては死に至る可能性もあるそうで御座います。
先週、代々木公園を歩いていた時に、3人の子供達が何処からか摘み取った曼珠沙華を片手に駆け回っておりましたので、思わず呼び止めて
この御花は奇麗だけど毒があるから、この後で何か食べる前には、ちゃんと手を洗ってね
と言うと、
え…、毒!??
と、酷く驚いた様子で御座いました。
私も私で、この子達は そうと知っていて摘んで来たのでは無いのだという事に気付き、都会の子供達は彼岸花を知らないのだろうか…と内心とても驚いてしまったのですけれど(苦笑)
気をつけます、有難う御座います
と礼儀正しく立ち去って行った子供達で御座いましたが、私から離れて10秒後位には草叢に手折った御花を捨てておりました……;
まぁ…迷信とはいえ、火事を呼ぶという謂れを持つ御花でも御座いますので、持って帰ったら御母さんに怒られるかもしれないですよね…(私の実家ならば確実に、山へ捨てて来いと怒られる事で御座いましょう…)

毒、毒と連呼しておりますけれど、曼珠沙華は上手に利用すれば食用にする事も可能で御座います。
実際に戦時中等、食糧難に陥った時分には、屡々食べられていたようで御座います。
そのまま食べると確実に中毒を招きますが、澱粉を多く含んだ球根は、潰して何度も水に晒し、毒素を取り除けば、人体に悪影響は無いのだとか。
ただし、毒素が完全に抜け切っていないものを食用して死亡する方も多かったようで御座いますので、現代を生きる方々は間違っても試みないでいただきたいところで御座います。
命懸けで曼珠沙華を食べる必要の無くなった、今の日本に生きていられる事の有難さを痛感させられますね。

曼珠沙華

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ほしあひの 晩にをつるは 催涙雨。
七夕に紫陽花in那智山01


本日は、七夕で御座いますね。
良く利用する駅の改札前に設けられた竹に、子供達が御願い事を書いた短冊を沢山吊るしているのを拝見し、あぁ何だか久しいなー…と寂しく感じております。
東京に出た最初の年は とにかく追われる日々にイッパイイッパイで…思い出そうにも、さっぱり記憶が御座いませんので、恐らくは七夕がいつであったのかすら当時は考えられなかったのでは無いかなぁと思われます;
その翌年…一昨年は神田明神の七夕神事に参加致しましたが、昨年は また何も出来ず、そして今年も、また。。
地元では ちょっと近くの山へ近寄れば竹藪等幾らでも御座いましたし、関西在住時はちょっちゅう京都を歩き回っておりましたので、まさか短冊を吊るす為の竹が こんなにも都会では手に入り難いものだという事を知っておらず……御洒落な御花屋さんの店頭に列ぶ笹竹を見た時は、かなり衝撃で御座いました…凹。
ですので、なるべく年中行事を取り入れた生活を心掛けている割に、私のうちでは もう何年も7月7日の七夕行事を行っておりません;
これは自分への言い訳なので御座いますが…七夕の日に 祈願事を短冊に託して笹に吊るす習慣は割と最近のもので、江戸時代に庶民の間で始められたといわれております。
平安や鎌倉の頃には無かった風習ですし、そもそもは旧暦7月7日の行事で御座いますので 新暦であるグレゴリオ暦の7月7日とは違う日で御座いますしー…心が常に800年前の私に、笹や短冊等は不要だわ!と強引に開き直っていたり致します(笑)

七夕に紫陽花in那智山02


七夕がどうのこうのと言っておきながらも、何故か紫陽花の写真を載せる私…;
えっと…えっと、昨日 今年観た鎌倉長谷寺さんの紫陽花を載せましたが、実は鎌倉の他に 熊野でも紫陽花を楽しませていただいておりまして!
ここ数ヶ月、私は毎月 熊野を詣でさせていただいております。
未だ未だ後白河院の参詣回数には及びませんが(笑)、これまでよりも短い周期で熊野を見る事が出来る分、季節毎の小さな変化を以前よりも もっと感じられるようになりました。
晴女な私は 旅先で雨に遇う事が少ないのですが、梅雨の時期ならば!!と意気込んで訪れた雨雲漂う那智山の深霧掛かった景色が 余りにも荘厳な趣で御座いましたので、心から感動致しました。

画像は、先月の最終週の那智山――熊野那智大社 紫陽花園で撮影したもので御座います。
去年の七夕の日万葉集に詠まれる七夕の御歌を幾つか記しましたので、本日は大好きな那智山を思い出しながら、建礼門院右京大夫集に収められた右京様が詠まれた七夕の御歌について記してみようかなぁと思います。
元々、七夕は梅雨の頃では無くて秋頃に行われていたもので御座いますので“紫陽花と七夕”というのは何とも不思議な取り合わせで御座いますね…うぅん、強引だなぁ私(苦笑)

建礼門院右京大夫集に詠まれる七夕の御歌は、51首。
後半部分に纏めて収録されており、件の詞書に“年々、七夕に歌をよみてまゐらせしを、思ひ出づるばかり、せうせうこれもかきつく。”とあり、実際は もっと沢山詠まれた題材であったのであろう事が伺えます。
1年に1度の逢瀬を許される星合の日、右京様という織女が想われる牽牛は既に在らず…。
七夕の御歌に垣間見る、右京様の御心の行方に気持ちが惹かれてなりません。


   七夕の けふやうれしさ つゝむらむ
     あすの袖こそ かねてしらるれ


こちらは、七夕歌の冒頭に収められる御歌で御座います。

“七夕の今日、織姫と彦星は 年に1度の逢瀬を嬉しく思って幸せに包まれるのでしょうね。
 明日の袖が濡れてしまう事が以前から分かっているだけに、気が引けてしまいます”


七夕に紫陽花in那智山03


   きかばやな ふたつの星の 物がたり
     たらひの水に うつらましかば


“盥の水に2つの星が映るのなら…聞きたいものです、年に1度の織姫と彦星の語らいを”

“盥の水”は七夕の晩に行われていた、盥の水に夜空を映して2つの星を見るという風習。
盥に汲んだ水に2星を映す事で、縁結の願掛けを行われたりする事もあったようで御座います。

***

   あはれとや 思ひもすると 七夕に
     身のなげきをも うれへつるかな


“七夕に、私自身の悲しみを嘆き訴えてみたいものです。
 …可哀想だと、思ってくれるかもしれない”


何というか…飾り立てられた御歌では無く、率直な御心情をそのまま御歌に乗せられているという感じに、胸を打たれます。

七夕に紫陽花in那智山04


   あはれとや 七夕つめも 思ふらむ
     あふせもまたぬ 身の契りをば


“可哀想だと、織姫様も思って下さる事でしょう。
 逢瀬を待つ事すら無い、この私の宿縁を…”


きっと右京様は、幾度も巡り訪れる織姫と彦星の逢瀬の晩を、羨む気持ちで迎えられたので御座いましょう…。
平家御一門都落ちの後、右京様が 恋人であった平資盛様と逢瀬を重ねる事は、2度と叶わぬ事となりました。

***

   七夕の 契りなげきし 身のはては
     あふせをよそに きゝわたりつゝ


“七夕の宿命を悲しんでいた私ですけれど、その身の果ては逢瀬とは無縁の立場となり、こうして聞き流しております…”

右京様にとって、七夕は2つの星の宿命に情をかける日であった事で御座いましょう。
恋した御方と出逢い、逢瀬を重ね、愛し合う最中での別れと その結末…哀れだと感じていた星の逢瀬を目の当たりに、どれだけ心を掻き乱された事で御座いましょうか。

七夕に紫陽花in那智山05


   秋ごとに わかれしころと 思ひいづる
     心のうちを 星はみるらん


“秋が来る度に、都を落ちる資盛様と別れた頃を思い出します…。
 そんな私の心の内を、星は知っているので御座いましょう”



***

   えぞしらぬ しのぶゆへなき 彦星の
     まれに契りて なげくこゝろを


“分かりません…秘密にしなければいけない訳でも無いのに年に1度きりの御約束をして、それ故に悲しみに暮れる御心が 私には”

年に1度きりの逢瀬とて、逢えるんだから良いじゃない…そんな御内心が聞こえてくるようにも思えます。
八つ当たりでは御座いませんが、それにも似た どうしようも無い もどかしさを、何とも率直に表現されていらっしゃるようで御座います。
この次に記される御歌にも、同様に 1度の逢瀬を羨む切なさを詠われております。

   なげきても あふせをたのむ 天の河
     このわたりこそ かなしかりけれ


“どんなに悲しまれても、織姫様は天の川を逢瀬の頼みにする事が出来るでは御座いませんか。
 私は どんなに望んでも もう2度と逢瀬を叶える事が出来ない…それが、悲しいのです”


***

右京様は、織姫と彦星を羨む御気持ちと我が身を嘆く御気持ちで詠まれた御歌を 時折振り返っては、そんな御自身を客観視したりもなさっておられたので御座いましょう。

   かたばかり かきてたむくる うたかたを
     ふたつの星の いかゞみるらむ


“このような御歌ばかり書いて手向ける私の事を、2つの星は どのように見ていらっしゃるので御座いましょうか”

省みたところで、抱えられる苦しみを どのように肯定すれば良いのかなんて、誰にも分からぬ事で御座います。
自虐的な御気持ちに苛まれる事もあった事で御座いましょうし、何もかもが どうでも良くなる事もあったかもしれません…。
それだけ、人が人を想う気持ちというものは、尊いものなのだと感じさせられます。

   たぐひなき なげきにしづむ 人ぞとて
     このことの葉を 星やいとはん


“類の無い悲しみに沈む私の言葉等…星も厭わしく思われる事でしょうね”

七夕に紫陽花in那智山06


時間と共に薄れていく感情…それでも尚、繋ぎ止めたい想いと誓いが、右京様の歌集には強く表れているように思います。

   世の中は 見しにもあらず なりぬるに
     おもがはりせぬ 星合の空


“移り変わる世の中ですのに、星合の空は変わらないのですね…”

頃は、源平争乱の激動の時代。
平家全盛期の様々な御様子が描かれる前半とは一変して、後半では資盛様との別れ…そして、その後の辛く苦しい日々に詠まれた御歌が沢山収録されております。
都にて貴族に劣らぬ勢いで繁栄を極めた平家御一門が滅亡し、次に訪れたのは武士の世。
どんなに時代や世間が移り変わっても、天上では年に1度の変わらぬ逢瀬が繰り返されて。
そんな星合を見上げて捧げられる御歌には、羨望と無常とが織り交ぜられているようで御座います。

***

七夕の御歌は、50首並べられた次の御歌で締め括られております。
詞書は“このたびばかりやとのみと思ひても、又数つもれば、
これが最後と思っても、気付けば また七夕の御歌がたまっていく…平家御一門が都を落ちられたのも7月の事で御座いますので、時期が近い分、無意識に この日を感じさせられて御歌を詠まれる事もあったので御座いましょう。

   いつまでか 七のうたを かきつけん
     しらばやつげよ 天の彦星


“私は 一体いつまで7つの御歌を書き付けていくのでしょうか、
 御存知でしたら教えて下さいませ、天の彦星様…”


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あちさゐの はなのよひらに めくるつゆ。
長谷寺さんの紫陽花


神奈川県鎌倉市長谷は、観光地としても人気のスポット。
何故だかハワイアンな御店が多く立ち並んでいる事が不思議でならないのですが…きっと、海が近いから伝説のビックウェ〜ブを狙う湘南サーファーさん方 御用達の御洒落ストリ〜トなのだわ!と勝手な解釈をしながら いつも歩いております(笑)

そんな長谷の名所といえば、矢張り 高徳院の長谷大仏様…そして、毎年梅雨前後の頃には“紫陽花寺”として賑わう長谷寺さんで御座いますね!
今年も、長谷寺さんは見事な紫陽花で大勢の方々を楽しませて下さいました。

長谷寺 紫陽花01


長谷寺さんの紫陽花散策路には、色々な種類の紫陽花が所狭しとばかりに咲き並んでおり、私の前後を歩かれていた方々も、
うわ、凄いっ!
凄〜い、綺麗〜!
と、立ち止まって大絶賛をされておられました。
何処を歩いていても、聞こえる声には必ずといってしまえる程、“凄い”と“綺麗”という言葉が盛り込まれており、感じ方は様々であっても 先ずは皆さん同じ感動を得られていらっしゃるのだなぁ…と思いました。
御花は勿論で御座いますが、私にとっては そんな路行く方々の笑顔や真剣にカメラを向ける仕草もまた 堪らなく魅力的な光景で御座います。
こんな素敵な場所に、またしても ひとりで来ちゃって…私って本当に淋しい人だなぁ〜としみじみ感じながらも、充分に満喫させていただいて参りました。
……本当は、着物で行きたかったのですけれど(苦笑)

長谷寺 紫陽花02


えぇと。
去年6月の初め頃には万葉集収録の紫陽花を詠んだ御歌について記しましたので、本日は 万葉集以降…平安末期に詠まれたとされる紫陽花の和歌について記してみようかなと思います〜。

万葉集に詠まれた紫陽花の御歌は、僅か2首で御座いました。
鎌倉期以降は、突然 流行りだしたかのように詠まれるようになりますが、平安の頃にも余り多く詠まれる御花では無かったようで御座います。
未だ珍しい御花であったのかなとも思いますが、珍しく美しい御花となれば、貴族の方々等は こぞって詠まれたのでは無いかなぁとも思われますし……当時の紫陽花は、“額紫陽花”を指していたと考えられておりますが、当時の美的感覚で額紫陽花は美しいとは感じられなかった…のかしら;という印象を抱いてしまいますね。。
というよりも、仏教が広く普及し浸透していく文化の中では、もしかすると紫陽花は縁起の悪い御花であるとして扱われていた可能性もあるように思います。

   あかねさす ひるはこちたし あちさゐの
     はなのよひらに あひみてしかな


こちらは、平安後期成立の類題和歌集 古今和歌六帖に収録されている紫陽花の御歌。
作者は不詳。

“御昼の間は明るくて人目が気になってしまいます…。
 紫陽花の4枚の花弁が それぞれの場所にて合わさるように、私達も人目を気にせぬ宵の頃に逢い契りたいものですね”


長谷寺 紫陽花03


同じく平安末期の和歌集 散木奇歌集にも、紫陽花を詠んだ御歌が2首収められております。
これは源俊頼様の自選集で御座いますので、2首共に作者は俊頼様。
俊頼様は、白川に源頼政様、二条院讃岐様 親子や平経正様も集われた歌壇 歌林苑の主宰者 俊恵法師の御父様で御座います。

   あちさゐの はなのよひらに もるつきを
     かけもさなから をるみともかな


これは、関白 藤原忠通様の御邸にて詠まれた夏夜月の御歌。
主役は月で、紫陽花は演出として用いられた感じで御座いましょうか。

“紫陽花の4枚の花弁が見張る あの月から漏れる光が、紫陽花を思わせる風情で池の水面に映っております。
 その影を、手折ってしまう事が出来たら良いのに……”


そして、もう1首がこちら。

   あちさゐの はなのよひらは おとつれて
     なそいなのめの なさけはかりそ


“紫陽花が4枚の花弁に 他の花弁を交えないように、私が夜中にあなたのもとを御訪ねしても固く扉は閉ざされたまま…それなのに何故、明け方になると情けをかけられるので御座いましょうか”

長谷寺 紫陽花04


続いては、夫木和歌抄より崇徳院御製の御歌。

   あちさゐの よひらのやへに みえつるは
     はこしのつきの かけにそありける


“紫陽花の4枚の花弁が八重に咲き重なる様子は、葉越しに見る月影のようですね”

こちらの御歌なのですが、久安六年御百首によりますと↓こちらのように伝えられております。

   あちさゐの よひらのやまに みえつるは
     はこしのつきの かけにやあるらむ


“紫陽花の4枚の花弁が連なる山のように見えるのは、きっと葉越しに見る月の影が映るからなのでしょう”

久安百首は、久安6(1150)年 崇徳院の命によって編まれた百首歌で御座います。
御題が下された康治年間(1142年〜1144年)、この頃は丁度 崇徳天皇から異母弟 近衛天皇に皇位が譲られた直後。
御父様である鳥羽院からは“叔父子”と疎まれ、譲位の後は政からも遠ざけられて…この御歌を詠まれた頃の崇徳院は、どのような御心を御持ちであられたのだろうかと色々考えてしまいます。

長谷寺 紫陽花05


平安期でも余り詠み知られてはいない紫陽花の御花で御座いますが、鎌倉期に至ると 次第に その数が増えていくようで御座います。
紫陽花が詠まれるようになってきた平安末期から鎌倉初期にかけて、その火付けにもなられたのでは?とも思われる藤原俊成様、定家様は、親子揃って何首もの紫陽花の御歌を詠まれております。
来年は その辺りについて記そうかなー…なんて、ちょっと気が早いですね(笑)

長谷寺 紫陽花06


長谷寺さんの紫陽花散策路の入口付近には、入場制限と待ち時間表示の為の案内が用意されておりました。
私は いつも混雑時を避けておりますので列んで入山したり番号札をいただいた事は無いのですが、80分以上も待たなくてはならない時もあるのですね〜…わー。。

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紫陽花パン


折角、鎌倉の紫陽花を楽しみましたので、何か紫陽花的なもの(?)を御土産に持って帰りたいな〜と駅のホームをキョロキョロしておりましたら、江ノ電の珈琲屋さんのポスターが目に留まりまして!
そういえば、電車の中に この季節限定の“紫陽花パン”を発売されているという御知らせの掲示も御座いました!!
…という訳で、江ノ電鎌倉駅ホームの 江ノ電の珈琲屋さん で“紫陽花蒸しパン”と“玄米カレーチーズパン”を購入致しました♪
実は、前々から気になっていた御店なので、勇気を出せて良かったです。
あ、ちなみに…紫陽花パンの具は、紫陽花では御座いませんでした(笑)

こちらのパンは、加熱する事で美味しくいただけるパンなのだそうで御座います。
御店の方が説明書を付けて下さいまして、早速 帰宅後にレンジでチンして食べてみました。
素朴な風味で、とっても美味しかったです〜。

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こうやにかほる春の花。
花は桜01


一昨日まで2日間、関西に行って参りまして…2日目は元ルームメイト ゆりちゃんと京都を堪能して参りましたが、その前日は高野山へ行って参りました。
先日の羽黒山もそうで御座いましたが、古来より霊場として栄えてこられた高野山も また女人禁制の御山…。
心が常に800年前な私には きっと一生行けない場所なのだわ…!!と長い間、極力近寄らぬよう心掛けて参りましたが(苦笑)、それでも気になって仕方が無かったのは事実。
然し、つい1ヶ月前 誘惑に負けて羽黒山を参詣させていただいて来たばかりで御座いますし……ここはひとつ、現代人として生まれてしまった幸運に感謝をしつつ、勇気を出して1度だけでも参詣させていただいては如何だろうかと都合良く解釈する事に致しまして、思い切って向かわせていただきました。

思い切って詣でた高野山は、とてもとても…とても!素晴らしい聖地で御座いました。
流石は、熊野と共に“紀伊山地の霊場と参詣道”として世界遺産に登録されている場所で御座います。
熊野の霊場と似ている部分も確かに感じられるのですが、絶対的に違う部分も強く感じられました。
率直に抱いた感想と致しまして“私は、ここが好き!大好き!!”とか“実際に辿り着いて尚、この場所に堪らなく憧れる”等と…兎に角 始終興奮しっ放しで御座いましたので、この感動をどうすれば上手く表現する事が出来るかしら…という感じでは御座いますが、高野山の寺社、史跡等については、また落ち着いた頃に改めて記す事と致しまして…。

本日は、今まさに真盛りで御座いました高野山の桜に因んで、桜の和歌を幾つか記しておきたいと思います〜。

花は桜02


桜の御花は、全体に実るように撓わに咲き誇る美しさが絶賛される 春の代名詞で御座います。
散り逝く姿までもが優雅で華やかで…その姿を観る者は、儚さや切なささえ抱かされるもので御座います。
風に乗ってひらりと舞う1枚は、まるで蒲公英の綿毛のように何処までも心を運んで行くようにも思われて。
散り落ちた先では、重なり合うように同じ枝木で生まれた花弁同士が再び地面に大きな花を咲かせ、最期まで私達を魅了し続けてくれますね。
そして、花が去れば瑞々しい新緑が芽吹き、より一層鮮やかな春の息吹と命の輝きを感じさせられるので御座います。

平安期に入る頃までは、花といえば“梅”で御座いました。
以前、池上梅園の梅花と共に梅を詠まれた御歌について幾つか記しましたが、中世以降――現代に至っても、花といえば“桜”というのが すっかり常識になりましたね。

平安期以前は梅のように春の花として愛でる習慣が無かったと思われがちな桜花でも御座いますが、古事記日本書紀に登場される木花之開耶姫は開花した桜のように美しい姫という意味であると説かれております。
古代から日本では桜が見られておりましたが その殆どは山桜で御座いましたので、渡来種である雅な梅花と比べれば、当時の高貴な方々にしてみれば余り魅力的では無かったのかもしれません;

万葉集においても、春の御歌として詠まれているのはダントツで梅の御花が最多で御座いますが、桜を詠まれた御歌というのも実は多く収録されております。
人の手によって植えられたものとは違い、自然の野山で見事に咲き誇る桜の姿に心奪われる御方は、古代にもいらっしゃったので御座います。
貴族の御邸等に梅と共に桜が植えられるようになったのも、この頃の事からでは無いかと思われますが、万葉集は様々な身分の御方が作られた御歌が採られておりますので、もしかすると本当はもっと それ以前の時代から、桜が美しい御花である事を日本人は知っていたのでは無いかな〜と、色々な事を想像してみたり致しております。
そんな事を考えながらも、矢張り桜を迎える季節というのは とても新鮮なもの。
日本人の心を掴んで離さない桜の木には、古来より様々な言い伝え等も伝えられていたりして……考えれば考える程に、身近な筈の桜が不思議な木に思えてしまいますね。


前置が長くなってしまいましたが、先ずは 万葉集 巻第10“春の雑歌”より桜を詠まれている御歌を。
作者、作歌年代等は 共に不明。
原文は“櫻花 時者雖不過 見人之 戀盛常 今之将落”で御座います。

   桜花 時は過ぎねど 見る人の
     恋の盛りと 今し散るらむ


“桜の花は 咲いて未だ間も無いというのに、見る御方が恋しがっている盛りである内に…と、もう今にも散ってしまうのでしょうね”

はじめて聞いた時は、何だか切ない御歌だと思いましたが、何度も繰り返している内に、何と潔い御歌であろうかと感じるようになりました。
散り際でさえも美しい桜で御座いますので、花の命を早めてまで その変化を見せ付ける事が出来る…最期の時まで人を惹き付ける事を忘れない…見事とも思える力強さ感じます。

花は桜03


万葉集巻第8巻“春の雑歌”より若宮年魚麿様の詠まれた長歌と、その反歌。
詞書は“桜の花の歌一首と短歌

長歌の原文は“□嬬等之 頭挿乃多米尓 遊士之 蘰之多米等 敷座流 國乃波多弖尓 開尓鶏類 櫻花能 丹穂日波母安奈尓

   をとめ等の かざしのために みやびをが かづらのためと しきませる
     国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに


“乙女達の髪飾の為に、雅男の挿頭の為に、天皇の治め給う この国の遠い彼方に咲いている桜の花の美しさは、あぁ…何と美しい事でありましょう!”

そして、それに対する反歌の原文が“去年之春 相有之君尓 戀尓手師 櫻花者 迎来良之母

   こぞの春 会へりし君に 恋ひにてし
     桜の花は 迎へ来らしも


“去年の春に御逢いした桜の君を恋しがっておりましたのに、その桜が また今年になって、私を迎えているように見えます”

花は桜04


続いては、建礼門院右京大夫集より、小侍従様と右京大夫様の御歌の遣り取り。
小侍従様は、石清水八幡別当の大僧都 光清様の娘で、藤原伊実様の妻。
女性同士で交わされる御歌も素敵で御座いますよね。

風といとふ花”と題されており、詞書に“内の御方の女坊、宮の御方の女坊、車あまたにて、近習の上達部、殿上人具して、花見あはれしに、なやむことありてまじらざりしを、花の枝に、紅の薄様にかきて、小侍従とぞ。”と御座いますので、先ずは小侍従様より届けられた御歌。

   さそはれぬ 心の程は つらけれど
     ひとり見るべき 花の色かは


“誘いを受けなかった貴女の心の程が憎いのだけれども、この花の美しさは ひとりで観るべきでは無いと思うのよね”

帝に仕える女房と中宮様御付の女房とが、側近の上達部や殿上人を御連れになって、沢山の牛車で御花見に行かれた際、右京大夫様は風邪気味であった為に参加されなかったようで御座います。
小侍従様は右京大夫様を心配なさるのと同時に、一緒に桜を観られなかった事を とても残念に思って、せめて…と思って桜の花の枝に御歌を付けて届けて下さったようで御座います。

それに右京大夫様が返された御歌が、こちら。
詞書“風の気ありしによりてなれば、かへしに、かくきこえし。

   風をいとふ 花のあたりは いかゞとて
     よそながらこそ 思ひやりつれ


“風を厭う花の辺りに、風邪気味の私が寄るのは如何かしらと思って、遠くからだけれども その花を想っていたのよ”

もしも、この御2人が現代の御知り合い同士であったとしたら、風邪気味で会社の御花見に出られなかった右京様に、小侍従様が桜の御花を写メって送信されている感じかしら…と妙な想像をしてしまいました…す、すみません、資盛様(笑)

***

もう1首。
詞花和歌集より、私が1番好きな桜の御歌。
作者は、伊勢大輔様。
詞書“一条院御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍りけるを、その折御前に侍りければ、その花をたまひて、歌よめとおほせられければ、よめる

   いにしへの 奈良の都の 八重桜
     けふここのえに 匂ひぬるかな


これは百人一首にも入選しておりますし、その他の歌集にも収録されておりますので、とにかく有名で御座いますね〜!
上東門院彰子様が一条天皇の中宮であられた時分に、未だ新参であった伊勢様は奈良から届いた八重桜を受け取る御役目を紫式部様より譲られ、藤原道長様の命によって その場で詠まれたと伝えられます。

“古の奈良の都にあった八重桜が、今日この平安の都の宮中で美しく咲き薫っております”

この御歌を題材とされた佐久間智代先生のデビュー作品『都桜』も大好きで御座います〜♪

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昨日、今日は、ちょっと春を満喫した気分で更新させていただきました。
春の内に春らしい記事も…と思いまして(笑)
明日以降は、再び山形の関連記事に戻ります。

※という訳で…明日は 酒田市飛島の平家伝承について。

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