日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

黄金の都を落ちて開いた酒田の芽。
泉流寺01


山形県酒田市――泉流寺さん。
こちらには、酒田発祥の伝説として語られる奥州藤原家の女性 徳尼公に縁する御寺さんで御座います。

□ 徳(とく)

生年:長承元(1132)年?
没年:建保5(1217)年?


徳尼公について詳しい事は殆ど分かっておりませんが、藤原秀衡様の妹姫 徳の前、もしくは秀衡様の後室 泉の方であるといわれております。

文治5(1189)年、源頼朝様率いる鎌倉軍によって藤原氏が滅亡へと追いやられた時、この女性は秀衡様の遺された36人の家臣と共に立谷沢へ落ち延びられ、旅の途中で髪をおろし出家。
鎌倉幕府が羽黒山の堂社修造に動き出した事によって、更に逃避と続け、袖野浦の飯盛山まで落ち延びて来られました。
“徳尼公”と呼ばれた その御方は、飯森山の麓に“泉流庵”を結ばれたという事で御座います。

徳尼公の没後、付き従って来られた遺臣の方々は この地に住み着き、地侍となって湊を開かれたと伝えられております。

泉流寺02


□ 泉流寺(せんりゅうじ)

所在地:山形県酒田市中央西町
御開山:文亀年間(1501〜1504年)
御開祖:鳳室正全大和尚
御本尊:釈迦無尼仏
宗 派:曹洞宗
山 号:東永山


泉流寺さんは、徳尼公が奥州藤原一門の菩提を弔う為に建てた庵“泉流庵”に起源する御寺さんと伝えられます。

建保5(1217)年、徳尼公が御逝去。
享年85歳での往生で御座いました。
徳尼公亡き後、その御霊もこちらに御祀りされる事となりました。
廟所は、境内入口の場所に御座います。

現在の御本堂は天保年間(1830〜1843年)の建立だそうで御座います。
観光寺院とは違い、とても静かな御寺さんで御座いました。

泉流寺03


山門を潜って直ぐ左手に、徳尼公の廟所は御座いました。
廟には、明和元(1764)年に本間光丘公が寄進されたという徳尼公の木像が納められております。
この木像は、それ以前にあった木像が1度焼失してしまっている為、2代目の御仏像という事になります。

徳尼公が結ばれたという“泉流庵”とは、平かられて来た尼の、という意味が込められているという事で御座います。

  酒田市指定有形民俗文化財
   徳尼公廟

 文治五年(一一八九) 平泉滅亡の時 藤原家の遺臣三十六騎が 秀衡の妹(あるいは秀衡の後室・泉の方)と称する女性のお供をして平泉を逃れ やがてこの地に落ちのび 泉流庵を結び徳尼公となり 藤原一門の菩提と弔いながら静かに余生を送り 建保五年(一二一七) 四月十五日八十七歳で没した
 泉流庵とは平泉から流れてきたことを表し 後に泉流寺と改称された
 尼公没後 遺臣三十六人は地侍となり 廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築き 後三十六人衆と称された
 開祖徳尼公の木像は 宝暦元年(一七五一)に焼失した後 明和元年(一七六四) 本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせた
尼公像をまつる廟も 寛政二年(一七九〇) 本間光丘の寄進によって建立された
 境内には三十六人衆記念碑があり 毎年四月十五日には徳尼公の法要が行われる
 酒田発祥と繁栄の伝承を伝える遺産として 貴重なものである
     平成十六年三月十二日 指定 酒田市教育委員会



泉流寺04


廟所には、近年に建立されたと思われる五輪塔が御座いました。
徳尼公の供養塔で御座いましょうか。
また 廟所には、三十六人衆の碑も御座いました。

山門を潜った右手には、沢山の御地蔵菩薩が並ばれていらっしゃいました。
その傍には小さな御堂や庚申塔が建っておりました。

泉流寺05


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迷った時は、先ず 足元を見定めよ。
岩手県奥州市の“えさし藤原の郷”には、奥州藤原氏の祖である藤原経清様の御館が御座いました。
経清様は、奥州藤原氏の誕生には必要不可欠であった御方。
そして、それを見届ける事が出来なかったからこその、奥州藤原氏で御座います。

平成5年放送のNHK大河ドラマ「炎立つ」では、経清様役を渡辺謙さんが演じられておられましたね。
放送当時は私も子供で御座いましたので、ただ何となく観ておりましたが、今 改めて ちゃんと観直したいなぁと思っております。
DVD-BOXが発売されていると知って、今とても揺らいでいるところで御座いますが、去年、大河「新・平家物語」総集編上下巻と 大河「義経」のDVD-BOXを やっと入手したばかりで御座いますので…BOXとなると高額商品で御座いますので、矢張り勇気が必要で御座いますね;;
が、頑張らなくちゃ。。

経清さま


□ 藤原経清(ふじわらのつねきよ)

生   年:不詳
没 年 月 日:康平5年9月17日(1062年10月22日)
  父  :藤原頼遠
  母  :平国妙姉妹
  妻  :有加一乃末陪(安部頼良女)
  子  :藤原清衡
別   称:亘理経清
通   称:亘理権大夫、亘権守
官   位:陸奥権守(?)、亘権守(?)


藤原経清様は、初代奥州藤原氏 藤原清衡様の実の御父上様。

頼遠様は下総国出身であるといわれ、その出自は、平将門公を討った藤原北家の藤原秀郷様の子孫といわれておりますが、史実上 奥州藤原氏と京の藤原氏との関係は明らかとなっておりません。
ただ、藤原氏の氏寺である南都 興福寺の造興福寺記には、経清様が京の藤原御一門の方々と共に費用を負担された旨が記録されており、何かの形で京との繋がりのあったのでは無いかと思われます。
尊卑分脈によりますと、亘権守、亘理権大夫という事になっているようで御座いますが、イマイチ意味不明で御座いまして……その半生は深い謎に包まれております。

永承6(1051)年、勢力の拡大を目論む安倍氏を討伐すべく、陸奥守 藤原登任様が兵を挙げました(鬼切部の合戦)が、結果は安部氏の勝利となりました。
これは私闘として扱われる場合が多いですが、前九年の役の先駆けとなった合戦でも御座いました。

朝廷は、永承6(1051)年 源頼義様を陸奥守に任命し、陸奥国府へと向かわせましたが、翌 永承7(1052)年、京にて上東門院 藤原彰子様の病気平癒を祈願して大赦令が発せられた為、合戦には至らず、これをきっかけに安部氏は官軍と和睦を図られる事となったようで御座います。
御名の音が同じであった事に遠慮した安倍頼良様は自らの御名を“頼時”様と改められ、頼義様に対して服従の意を表されております。
経清様ははじめ頼義様の元に従っていたようで御座いますので、安部氏からの誠意の証の意味も含まれての事で御座いましょうか、この時に 頼時様の娘で安倍貞任様の妹姫 有加一乃末陪様を妻に迎えられております。

これによって、暫くは平穏な日々が保たれていた事と察せられます。
天喜4(1056)年、清衡様が御誕生。

然し、清衡様御誕生と同じ年、頼義様が任期終了に際して帰京する途路、阿久利川畔で貞任様に襲われたとして、安部氏に貞任様の身柄引渡を要求。
これは、安部氏に対する挑発であったという見方も御座います。
貞任様の身柄引渡しを受理しなかった安部氏に対して、頼義様は朝廷に安倍氏追討の宣旨を申請…。
そして、この阿久利川事件を機に、再び合戦が始まる事となりました。
事実上の、前九年の役勃発となるので御座います。
その際、頼義様の手によって、阿部氏と婚姻関係を結んでいた平永衡様が疑いをかけられ殺されております。
経清様は、永衡様とは同じ 阿部氏の女婿という立場で御座いましたので、瞬時に御自身の身を案じられ、頼義様の軍に偽りの情報を流し、軍勢が多賀城へ向かっている間に安倍軍に帰依される事を選ばれました。
命懸けの選択であった事とは思いますが、どちらにせよ殺される運命にあるのであれば、例え官軍に背く事になろうとも 愛しい妻子を傍で護り続けるべき…と御考えになられたのかもしれません。
少なくとも、安部氏側に帰依すれば騙されて殺害される事も無かったと考えられますので、人として 自然の選択であったようにも思えます。

その後、任期が終了された頼義様が陸奥守に再任。
安倍富忠様を味方に付けた官軍との合戦で、頼時様は流れ矢に倒れ、御亡くなりになられました。
頼時様は大将軍で御座いましたが、その大将軍亡き後も安部氏は揺らぐ事無く、貞任様を中心に結束を固められたようで御座います。

厳しい北の寒さの中で繰り広げられた黄海の合戦では、大勢の官軍死者が出、頼義様の軍は大敗。
その官軍に追打をかけたのが、経清様の発した白符。
住民は官軍の赤符よりも経清様の白符に従い、官軍はなす術も無かったといいます。

頼義様は清原氏を味方に付け、前九年の役は最終決戦 厨川合戦を迎える事となります。
清原氏の参戦によって頼義様軍側の兵力が増加した為、安倍軍は各柵に兵力を分散させる事となり、そこを正面から攻撃されて敗走せざるをえなくなってしまいました。

厨川の柵を落とした官軍は、経清様、貞任様を生け捕りの後、斬首に処されております。
経清様は、頼義様の目前にて“白符を使われるか”と尋ねますが、経清様は沈黙を通し、苦戦を強いられた原因は経清様にあり憎き相手として楽には死なせる事を許さず、錆刀で鋸引きにして苦しめながら斬首されたと伝えられます……。
生年不詳につき、享年不詳。

貞任様、経清様の御首が京に届けられたのは、康平6年2月(1063年3月)の事で御座いました。


経清様亡き後、経清様の妻 有加一乃末陪様は、幼い清衡様を連れて夫の仇である清原武貞様の元へ嫁ぎました。
恐らく、それは望んだ末の再婚では無かった事と思われますが、敗戦した立場の、それも女性に“否”と拒む手段は、その命を絶つ以外には存在しなかった事で御座いましょう。
他の安部氏の女性は、仇の手に落ちるよりは…と、自ら断命なさった御方もいらっしゃったようで御座います。
然し、可愛い清衡様を残して逝く事も、連れ立って逝く事も、彼女には出来なかったので御座いましょう…。

当時7歳であった清衡様は、武貞様の養子として迎えられ 以後、“清原清衡”と名乗られております。
本来、敵将の子…それも嫡子である男子は処刑されるのが運命で御座いましたので、ここで処刑されておらず、更に 養子として扱われるというのは例外な事のように思います。
実際、貞任様の御子であった若武者 千代様は、大変な美男子で 合戦においても臆す事無く戦われておられたとして、頼義様に情けをかけられ助命されそうになりましたが、これを阻止し斬刑に処したのは、皮肉にも武則様であったようで…。
清衡様は生かして、千代様は生かさぬというのは何故――…と思わずにはおれません。
有加一乃末陪様が必死の助命懇願をなさった故かもしれませんし、もしかすると何か思惑があっての事であったのかもしれません…もしくは、武則様の個人的な感情面からの結果であるか…。

どちらにせよ、清原氏の御子として御育ちになられる清衡様で御座いますが、先妻の御子 真衡様とは異父母兄弟に、そして後には異父弟 家衡様が生まれ、複雑な家族構成となられていくので御座います……ややこしいのです;

後に 後三年の役を経て、姓を実父 経清様の“藤原”姓に戻し、再び“藤原清衡”として、奥州藤原氏の文化を築かれていかれるので御座います。

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御館の末の御子息方。
高衡さま


□ 藤原高衡(ふじわらのたかひら)

生  年:不詳
没年月日:建仁元年2月29日(1201年4月4日)
  父  :藤原秀衡
  母  :不詳
兄  弟:国衡、泰衡、忠衡、通衡、頼衡
通  称:本吉冠者、新田冠者


藤原高衡様は、奥州藤原氏3代目御館 秀衡様の第四子で、国衡様、泰衡様、忠衡様の弟様で御座います。
京の藤原氏の荘園である陸奥国桃生郡本吉荘の荘司を務めていた事から、“本吉冠者”と称されておられたようで御座います。


□ 藤原通衡(ふじわらのみちひら)

生年:不詳
没年:不詳
父 :藤原秀衡
母 :不詳
兄弟:国衡、泰衡、忠衡、高衡、頼衡
通称:出羽冠者


藤原通衡様は、秀衡様の第五子。
平通盛様の御子様と同名で御座いますね(笑)

平泉実記によれば、出羽押領使であったそうで御座います。


□ 藤原頼衡(ふじわらのよりひら)

生  年:不詳
没年月日:文治5年2月15日(1189年3月3日)?
  父  :藤原秀衡
  母  :不詳
兄  弟:国衡、泰衡、忠衡、高衡、通衡


藤原頼衡様は、秀衡様の第六子で御座います。
系図に伝えられる限りでは、秀衡様の末の男御子様のようで御座いますが、もしかしたら秀衡様とは御兄弟の関係であられたのかな…ともゴニョゴニョ。。

***

高衡様、通衡様、頼衡様は、奥州藤原氏最後の代である泰衡様の下の御兄弟方で御座います。
御3方共に生年は不詳。
忠衡様よりも年下であられた方々で御座いますから、承安4(1174)年に義経様が初めて平泉に入られた際には未だ物心付かぬ頃であられたかもしれませんね。

文治3年10月29日(1187年11月30日)、父 秀衡様が御逝去。
その跡を継いで4代目となられた兄の泰衡様は、暫く亡き父の遺命を固く守られておられましたが、義経様追討の宣旨が下された事もあって、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)に義経様邸を襲撃し、義経様を自害に追い詰められました。
その義経様の御首を鎌倉へ届けられた御方が、高衡様であったようで御座います。
御館の弟様であられる御方を直接使わす事で、鎌倉殿(頼朝様)への誠意を表そうとなされたのかもしれません。

文治五年六月十三日
十三日 辛丑
 泰衡使者、新田冠者高平、持參豫州首於腰越浦、言上事由。
仍爲加實檢、遣和田太郎義盛、梶原平三景時等於彼所。
各著甲直垂、相具甲冑郎從二十騎、件首納黒漆櫃、浸美酒、高平僕從二人、荷擔之昔蘓公者、自擔其■、今高平者、令人荷彼首。
觀者皆拭雙涙、濕兩衫<云云>。


高衡様が持参した義経様の御首は、義経様最期の時から43日の日数が過ぎた日…文治5年6月13日(1189年7月27日)に鎌倉の腰越浦に到着。
美酒を浸された御首は、黒櫃に納められておりました。
首実検を行われたのは、和田義盛様、梶原景時等。
御2方はそれぞれ甲直垂を着けて20騎の郎従を連れておられ、その首実検に立ち会い観た者は皆 涙に袖を濡らされたという事で御座います。

義経様の御首が鎌倉に届けられたのと同じ頃……6月26日(1189年8月9日)、泰衡様によって忠衡様が殺害されます。
高衡様と同じく義経様派であった頼衡様はその後…もしくは、もっと以前の文治5年2月15日(1189年3月3日)に泰衡様によって討ち取られているといわれております……。
生年不詳の為、頼衡様の享年は不詳で御座いますが、頼衡様には落人伝承も御座います。

泰衡様は、義経様の御首を差し出した事で奥州の安泰を計られたようで御座いますが、その思惑は外れてしまい……奥州合戦にて泰衡様は討たれ、事実上 奥州藤原氏は滅びる事となりました。

文治五年十二月六日
六日 辛卯
依泰衡征伐事、猶可被行勧賞之趣、爲中納言經房奉。
院宣到來之間、重令辭申給。
但奥州羽州地下管領間事、明春可有御沙汰之由、被申之。
又降人等事、可被下配流官府之趣、載一紙、同言上。
依此事、今日被立飛脚也。
 相摸國 高衡<可預之由、先日申上候訖。>師衡 經衡 隆實<相待御定、召置候>
 伊豆國 景衡
 駿河國 兼衡
 下野國 季衡<當時預置人許候、不可依在所與>
 件輩不可依當時在所候歟。
只被定下其國者隨
 御定、可配遣候也
 (吾妻鏡による)


その合戦の際、高衡様は鎌倉軍に降伏し、捕虜となられているようで御座います。
義経様の御首を鎌倉へ届けられた事から鎌倉の方々には面識があったので御座いましょう…というか、顔を知られているだけに落ち延びる事が難しかったのかもしれません;
鎌倉へと護送された後は相模国に配流されますが、後に赦免を受けておられます。

建仁元(1201)年、越後の豪族城氏の反乱である建仁の乱にて謀叛の一味に加担し京へと潜入致しますが、状況が悪化した事から藤原範季様の元へ隠れますが連れ戻される事となり、最終的に幕府追手に討ち取られて御亡くなりになられたと伝えられます。享年不詳。


また、6番目の御兄弟といわれる頼衡様については、その存在以外の殆どの事が伝えられておりません。
尊卑分脈によれば、忠衡様、通衡様と同じくして泰衡様に討たれたと伝えられておりますが、室町期の記述で御座いますし 詳細は不詳で御座います。

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狼と王子と熊野権現、そして北の王者の御子として。
忠衡さま


□ 藤原忠衡(ふじわらのただひら)

生  年:仁安2(1167)年
没年月日:文治5年6月26日(1189年8月9日)
  父  :藤原秀衡
 母  :不詳
  妻  :佐藤基信女(妙幸比丘尼)
通  称:和泉三郎、泉三郎


藤原忠衡様は、奥州藤原氏3代目御館 藤原秀衡様の御三男で御座います。
生母は不詳で御座いまして、兄 泰衡様とは同母である説と異母である説が混在しているようで御座います…勿論、どっちかになりますよね(苦笑)
泰衡様と同母の場合は、御母様は藤原基成女という事になります。
また、国衡様とは異母兄弟のようで御座います。

忠衡様も、国衡様同様に史料にて その存在を確かめる事は出来るものの、その御生涯における殆どの情報は残されておりません。
生年は、没年からの逆算によるもので御座います。

そんな忠衡様御出生の折の不思議な伝承が、紀伊熊野古道 中辺路上に伝えられております。
40歳を過ぎても子供に恵まれなかった秀衡様は熊野権現に17日の参籠祈願をなさり、御神徳あって奥方様は無事に御懐妊なさいました。
7ヶ月の月日が過ぎた頃、秀衡様は御礼参りの為、身重の妻を連れて平泉から長い旅路を経て熊野参詣へと向かわれました。
ようやく滝尻の王子社まで辿り着いたところで、臨月にも至っていない奥方様が産気付かれてしまったそうで御座います。
これには、流石の秀衡様も慌てられた事で御座いましょう…。
然し、その時 五大王子が御姿を現され、“山上にある大きな岩屋へ急ぎ、そこで出産をなし、生まれた子はその場に預けて熊野大権現へ参詣せよ”という御告げがあったといいます。
それを受けて秀衡様は、岩屋へ奥方様を御連れになり、御出産を迎えれました。
そして、その御子様をその場に置いて本宮へと急がれたという事で御座います。
されど、幾ら五大王子の御加護があるとはいえ、矢張り やっと生まれたばかりの我が子を置いて行くのは不安であった事で御座いましょう。
秀衡様は、進む道の途中で手折った桜の杖を地面に挿し、参詣の帰りにこの杖に花が咲いていたら きっと御子は無事である…!と自らに言い聞かせるような立願をかけて本宮へと急がれたといいます。
本宮参詣の後、急いで桜の杖のところまで戻ると、見事に花が咲き誇っていたそうで御座います。
これで、きっと我が子も無事である筈だと岩屋まで急ぎましたら、なんと御子様の傍は1匹の狼が守護に付いておられ、御子様は岩より滴る白乳を飲んで元気に成長しておられたという事で御座います。
この御子様こそが、後の忠衡様という事だそうで……。
史実的に考えますと、あれ?と思われる部分も御座いますが、熊野に伝わる この伝承によりますと、忠衡様の御生誕地は熊野という事になりますね〜。
これに関連する史跡等については、実際に訪れてから記したいと思っております。

承安4(1174)年、京の鞍馬寺を抜け出された源義経様が平泉へと辿り着かれます。
他の御兄弟方と比べましても、忠衡様は御若い頃より義経様とは仲がよろしかったといわれております。
恐らく、忠衡様は義経様よりずっと年下であった事と思われますので、源氏の遺児という肩書よりも、義経様に対しては純粋に1人の人として接しておられたのでは無いかと考えられます。

頼朝様挙兵の事を聞き、馳せ参じる為に平泉を発たれた義経様は、やがて鎌倉と敵対される事となり…そして、再び平泉の地をへと辿り着かれる事となられました。
それを大きな懐へと迎え入れられた秀衡様と同じく、忠衡様も義経様を手厚く守護されておられます。
その頃には、忠衡様も物事の分別が付く御年齢になられておられますが、再び相見える事となった義経様は、幼い頃の御記憶を裏切らない御方であったので御座いましょう。
以降、忠衡様は最期の時まで 義経様を護られようとなさっておられます。

文治3年10月29日(1187年11月30日)、偉大な父 秀衡様が御逝去。
秀衡様は、自らの死後は義経様を主君として奥州を守り抜く事を遺言として残されておられます。
その遺志を貫かれたのが、忠衡様で御座いました。
秀衡様の跡を継がれた4代目泰衡様も鎌倉からの義経様引渡要求を頑として拒否されておられましたが、宣旨が出された事によって事態は一変…。

文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 、泰衡様は衣川高館の義経様邸を襲撃し、義経様とその部下、妻子までもを自害に追い詰められました。
その10日前、文治5年閏4月20日(1189年6月5日)には、忠衡様は胆沢へ狩に出掛けられておられるという記録が残されており…御兄弟の中でも、とりわけ義経様派であった忠衡様には内密に 義経様追討計画は進められていたのかもしれません…。
亡き父の遺命を忠実に守っておられた忠衡様にとって、義経様の御最期は奥州の平和が途絶えた絶望的な瞬間であったのでは無いでしょうか。
私が忠衡様であったならば、守護する事を誓った御方を護り切れなかった自身を何よりも責めるように思います……。

義経様を立て、鎌倉の軍勢に対抗すべきであると主張していた忠衡様は、泰衡様とは対立する存在となってしまわれたので御座いましょう。

文治5年6月26日(1189年8月9日)、忠衡様は泰衡様によって殺害されてしまわれたので御座いました…。
吾妻鏡には、享年23歳であられたと伝わります。

文治五年六月二十六日
廿六日 甲寅
 奥州、有兵革、泰衡誅弟泉三郎忠衡、<年廿三。>是同意豫州之間、依有 宣下旨也<云云>。
 (吾妻鏡による)


忠衡様も、泰衡様も、きっと奥州の平和維持の為にどうするが最も良い方法であるか、悩みに悩み抜いた末の御結論であった事と思います。
同じものを求めているが故に、それを為す為の手段に 泰衡様は妥協が出来なかったのかもしれません。
鎌倉軍がいつ攻め入って来るか判らない状況で、朝廷までも敵にまわしては、奥州に未来は無い……身内でありながら意見の合わない者が居る事に苛立ち焦っておられたとも思われますし、義経様の死から数ヶ月が経過した後の事件で御座いますので、その間に兄弟間で諍い等が起こっていたのやもしれません…。


忠衡様の妻である佐藤基治女は、後に忠衡様の菩提を弔う為に御出家、妙幸比丘尼と称されるようになったといいます。


ちなみに、中尊寺金色堂内の秀衡様の棺内から発見された御首は、長らく忠衡様のものであると説かれておりましたが、昭和25年の調査の際に晒首痕跡が確認された事から、現在は泰衡様の御首であるといわれております。


熊野権現の御霊験によって御生まれになられた御命が、血縁関係である御兄様によって奪われてしまう世というのは、本当に哀しい事で御座います。
誰だって、祝福されて この世に生まれて来るので御座いますもの……誰かにその死を望まれたり、命を狙われたりする為に、親は神頼みまでして誕生を願い喜んだのでは無い筈で御座います。
同じものを護る為、同じ未来を願うのであれば、もっと別の…他の選択肢があっても良かったのに……と浅はかでは御座いますが思わずにはいられない現代人のこの感覚は、矢張り甘いので御座いましょうか…。

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嫡男にはなれずとも。
国衡さま


□ 藤原国衡(ふじわらのくにひら)

生  年:不詳
没年月日:文治5年8月10日(1189年9月21日)
  父  :藤原秀衡
  母  :女(蝦夷出身/側室)
兄  弟:泰衡、忠衡、高衡、通衡、頼衡
  妻  :藤原基成女(秀衡後妻/泰衡母)
通  称:西木戸殿、西木戸太郎


藤原国衡様は、奥州藤原氏3代目 秀衡様の御長男で、4代目 泰衡様の異母兄様で御座います。

御館の御長男として御生まれになられてはおりますが、国衡様の御母様が蝦夷の御出身であられた側室であった事から、傍流の御子として御育ちになられました。

承安4(1174)年、鞍馬寺を抜け出された源義経様が奥州平泉の地へ辿り着かれました。
平家が栄華を誇る時分には災いの種である義経様を、父 秀衡様は暖かく迎え入れられます。
生年が不詳の為、この頃の国衡様が御幾つであられたのかは判りませんが、異母弟 泰衡様が20歳で御座いましたので、それよりは上の御年齢であった事と思われます。
国衡様がこの時にどのような御生活を送られており、未だ御若い義経様に対して どのような御見解を持たれていたかは伝わるところでは御座いませんが、御長男でありながら嫡子にもなれない御自身とは またかけ離れた存在である源氏の遺児を養育される御父様を器の大きな人物だと感じられていたか否かは想像の及ばない領域で御座います。

そして幾年かの月日を経て、義経様は鎌倉と敵対し、再び平泉の地を頼って来られる事となり、その際にも秀衡様は義経様を受け入れられておられます。
かつて築いた絆故の御決断であられたと存じますが、秀衡様は鎌倉の頼朝様勢力から奥州を護る為に、源平合戦において華々しい功績をあげられた義経様を1つの大きな“力”として迎え入れられたのかもしれません。
秀衡様以下の奥州藤原氏は、鎌倉からの義経様引渡の要求を頑として拒まれておられます。

然し、文治3年10月29日(1187年11月30日)――北の王者 秀衡様も御病気には敵わず、御隠れになられてしまわれたので御座います。

文治四年正月九日
乙巳、(中略)或人云、去年九十月之比、義顕在奥州、秀衡隠而置之、即十月廿九日秀衡死去之刻、為兄弟和融(兄他腹之嫡男也、弟当腹太郎云々)、以他腹嫡男令娶当時之妻云々、各不可有異心之由、令書祭文了、又義顕同令書祭文、以義顕為主君、両人可給仕之由有遺言、仍三人一味、廻可襲頼朝之籌策云々 (以下略/玉葉による)


玉葉によれば、秀衡様は死去直前の折に その御子息様方は異母兄弟間の融和を図って、秀衡様が先妻に産ませた御長男…つまりは国衡様に、その時 妻にしていた女性を娶らせたという事で御座います。
これによって、国衡様と4代目になられた泰衡様との御関係は 異母兄弟から義父子となった訳で御座いますね……現代的に考えると、微妙に複雑な関係で御座います(苦笑)
そして、各々方に遺言に異論を唱えない事を誓った起請文を書かせ、また 義経様にも同様に起請文を書かせたといいます。
以後は義経様を主君として、両人はこれに付き従うべし…という遺言を残して秀衡様が身罷られた後は 御三方が力を合わせ、志をひとつに頼朝様の計略に対策を練ったそうで御座います。
秀衡様にとっては どの御子様も、そして義経様も、大切な御子様であったので御座いましょう。
御亡くなりになられる間際に行われたこの取交しは、奥州の平和の為、御家の安定の為だけでは無いように思います。
戦わずに解決する道がある限り、身内同士の争いは避ける事…生まれ育った奥州の地と民、そして初代より受け継がれた地位を慎ましく守り継いでいく事……、御父様の願いは そういったものでは無かったのでは無いでしょうか。

御父様の遺命に従って、国衡様は忠衡様と共に義経様を保護されておられます。
然し状況は思わしく無い方向へ向かうばかりで…鎌倉に要請を受けた朝廷は、義経様追討の院宣を下される事となります。
そして、ついに1189年6月15日(文治5年閏4月30日) 泰衡様が衣川の義経様邸を襲撃……妻子と共に義経様は自刃なさる結果となられました。
亡き御父様の遺命に背いた事で、鎌倉に対する奥州の守りは大きく欠けてしまったと考えても過言では無いように思います。
続いて泰衡様は、義経様寄りな意見を持っておられた忠衡様を殺害…兄弟間での争いも、先代の御館は望まぬ現実であった事で御座いましょう。

そして始まったのが、約1千の兵を引き連れ奥州討伐へと向かわれた頼朝様率いる鎌倉軍との奥州合戦で御座います。
文治5年8月7日(1189年9月18日)、陸奥国伊達郡国見へ至った鎌倉軍が、この戦で真っ先に対峙なさった御相手が大将軍 国衡様の軍勢なので御座いました。
国衡様の軍勢は約2万。
阿津賀志山に城壁を築いて阿武隈川の水を使った堀を設けておられました。
夜になって鎌倉軍からの攻撃を受け、鋤鍬で掘を埋められてしまいます。
そして翌日、畠山重忠様、小山朝光様、加藤景廉様、工藤行光様等によって攻め入れられ、城は破られてしまいます。

そして10日(1189年9月21日)、阿津賀志山を越えて来た鎌倉軍の本軍が国衡様の護る大木戸を攻め、更に搦手軍による奇襲を受けて敗北…国衡様は逃走なさっておられます。

文治五年八月十日
十日 丁酉
 卯尅、二品已越阿津賀志山給。
大軍攻近于木戸口、建戈傳箭。
然而國衡輙難敗傾、重忠朝政朝光義盛行平成廣義澄義連景廉清近等、振武威、弃身命、其闘戰之聲、響山谷、動郷村。
爰去夜小山七郎朝光、並宇都宮左衛門尉朝經郎從、紀權守、波賀次郎、大友已下七人、以安藤次、爲山案内者、面々負甲疋馬、密々出御舘、自伊達郡藤田宿、向會津之方、越于土湯之嵩鳥取越等、攀登于大木戸上國衡後陣之山、發時聲飛箭。
此間城中大騷動、稱搦手襲來由。
國平已下邊將、無益于搆塞、失力于廻謀。
忽以逃亡。
于時雖天曙、被霧隔、秋山影暗、朝路跡滑、不分兩方之間、國衡郎從等、漏網之魚類多之其中金剛別當子息、下須房太郎秀方、<年十三>殘留防戰。
駕黒駮馬額白髦、陣其氣色、掲焉也。
工藤小次郎行光、欲馳並之尅、行光郎從藤五男、相隔而取合于秀方。
此見顔色幼稚也。
雖問姓名、敢不發詞、然而一人留之條、稱有子細誅之畢。
強力之甚不似若少、相爭之處、對揚良久<云云>。
又小山七郎朝光討金剛別當。
其後退散歩兵等、馳向于泰衡陣、阿津賀志志山陣、大敗之由告之。
泰衡周章失度逃亡、赴奥方。
國衡亦逐電。
二品令追其後給。
扈從軍士之中、和田小太郎義盛、馳抜于先陣、及昏黒到于芝田郡大高宮邊。
西木戸太郎國衡者、經出羽道、欲越大關山。
而今馳過彼宮前路右手田畔、義盛追懸之、稱可返合之由。
國衡令名謁廻駕之間、互相逢于弓手。
國衡挾十四束箭。
義盛飛十三束箭。
其矢國衡未引弓前、射融國衡之甲射向袖中膊之間、國衡者痛疵、開退。
義盛者又依射殊大將軍、廻思慮、搆二箭、相開。
于時重忠率大軍、門客大串次郎、相逢國衡。
々々所駕之馬者、奥州第一駿馬<九寸>號高楯黒也。
大肥滿國衡駕之、毎日必三箇度、雖馳登平泉高山、不降汗之馬也。
而國衡怖義盛之二箭、驚重忠之大軍、閣道路、打入深田之間、雖加數度鞭、馬敢不能上陸。
大串等於得理、梟首。
大遮也。
亦泰衡郎從等、以金十郎、勾當八、赤田次郎、爲大將軍、根無無藤邊、搆城郭之間、三澤安藤四郎、飯冨源内已下猶追奔攻戰。
凶徒更無雌伏之氣。
彌結鳥合之群、於根無藤與四方坂之中間、兩方進退七箇度。
然金十郎討亡之後、皆敗績。
勾當八、赤田次郎已下、生虜卅人也。
此所合戰、無爲者、偏三澤安藤四郎兵略者也
 今日於鎌倉御臺所、以御所中女房數輩。
有鶴岳百度詣。
是奥州追罰御祈精也。
 (吾妻鏡による)


阿津賀志山の合戦と呼ばれるこの戦いで、国衡様は戦死なさいました。
和田義盛様の矢に射られて深田に倒れたところを、畠山重忠様の家臣 大串次郎様に討ち取られておられます。
生年が伝わらない為、享年も不詳。


国衡様は、どのような国で、どのように生きられる御自身の姿を理想として抱かれておられたので御座いましょうか…。
兄として、また義父として、泰衡様の事をどのように見られておられたので御座いましょう。
史料に殆ど残されていない真実に、非常に興味をそそられます。

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