日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

栄螺の御堂。
さざえ堂01

少し前まで、JRの駅等に貼られていた このポスター。
ひと目見た時から、
うわぁ…私、ここに行きたい!
と思っておりました。
ポスターに夢中になるが余り、電車に乗り遅れた事も御座います(それはどうだろう…)
然し、それ程 夢中になっていたに関わらず、私は これが何処の何という場所なのか調べもしておりませんでした;
今にして思えば、私は こちらの場所に惹かれていたのでは無く、この写真自体に強く興味を抱いていたのだなぁとも思います。
が…!まさか、ここが飯盛山の山中だったなんて………という素敵な遭遇を、させていただいてしまったりなんかして?(笑)

さざえ堂02

……飯盛山、白虎隊士の御墓戸ノ口堰洞穴や厳島神社の丁度中間辺りに位置しているのが、こちら――“栄螺堂”こと、円通三匝堂で御座います。

栄螺堂は、かつて飯盛山に存在した正宗寺という御寺さんの御仏堂であったもの。
寛政8(1796)年、正宗寺住職 郁堂様によって立案、建立されたものと伝えられます。
御本尊は阿弥陀如来、斜路には三十三観音像が安置されていたといわれますが、明治期の廃仏毀釈に際して正宗寺は廃寺となり、堂内の御本尊をはじめとする御仏像等は撤去されてしまわれたそうで御座います。

栄螺堂は その呼び名の通り、栄螺のような不思議な構造から成る御仏像。
高さ16.5メートル、平面六角三層の御堂で、堂内には階段等が無く全て回廊となっており、同じ道を2度通る事無く巡礼が出来、出入口も別々の場所に設けられております。
とても珍しい例である事から、国の重要文化財の指定を受けておられます。

さざえ堂03

拝観受付を済ませ、御堂内へと立ち入らせていただきます。
世界にも例を見ない珍しい構造という事で、まるで迷路にでも入るようなワクワク感を抱きながらの拝観で御座いました。

さざえ堂04

平面六角の御堂内部は、只管 一方通行の坂道。
中央の柱を中心に厨子が並べられており、その中には会津藩の道徳教科書として使用された松平容敬様編纂の皇朝二十四孝の絵額が掲げられておりました。
元々、この中には三十三観音像が安置されてありました。
廃仏毀釈にて取り外された後、明治23年には白虎隊十九士の御霊像が安置されていたという事で御座います。

↓皇朝二十四孝の絵額には、私の興味をひく内容のものが幾つか御座いました。
特に、白拍子の絵にはがっつくように食らい付いてしまいましたね…。

   微妙

微妙はもと根さし賤しからぬひとの子也、
落ぶれて鎌倉に沈めりし比、源頼家朝臣比企能員が家に行て盃酌せられけるに、酣なるころ、微妙をめしいでゝ、うたひまはしめられけるに、いみじう舞たりければ、みるひと感嘆せざるはなし、
時に能員頼家朝臣に申けるは此舞女はもと京師のひとなりしが君に見え奉り請申さむ事の侍るを、いかで聞かせ給へといひけるを、さらは其よし承らむとありけるに、微妙せきあへず落る涙をおしのさひ申けるは、今は昔建久年中父右兵衛尉為成人の讒言によりて蝦夷に流され侍り其時妾はとし僅に七歳なりしを、ほどなく母も、はかなくなりしかは親戚のよるへさへなかりき、齢やうやう人となるまゝにみだりに恋慕へとも父のおとづれ聞へきよすがたになかりし故にせんかたなく、かゝる賤しきわざをなしつゝ君に見え奉りぬ、
いかでおのが志を憐み父に逢しめ給へといへば頼家朝臣いと哀とおぼしありと、あるひと涙にむせびけり、
さて頼家朝臣の母なる政子情あるひとにて其孝心を感し陸奥に使を遣してたづね求めしめらるゝに使帰りて既にはかなくなりしといへば微妙此よしを聞て泣悲む事かぎりなく、やがて、かざりおろしてあまとなり名をば持蓮とぞいひける、
政子いとほしがりて家などあたへて、さまざまに憐みめぐまれけり



   鎌倉孝子

北條時頼朝臣の臣、何がし老たる母を持たりけるが其母わが子の我をうちとして、おほやけに訴へ出しかは其子をめして問はるゝに、實にしかなん侍るとぞいひける、
かくて其子を罪せらるべきに及びて、母また訴えけるは我もと、はかなき事をとがめて、わが子をうたむとせしを、つまづきて倒れしかは腹たゞしきあま訴へ出しにて實は我子の、うちしにさむらはずとなん、いひける是によりて再び子をめして尋ねらるゝに母のいひしに露違はさりければ時頼朝臣母をうつの罪は軽からず汝いかでか打しとは、いふぞと問はれけるに其子□へけるは、われもし有のまゝに答へなば母は官司をあざむくの罪思かるべし、
されば我身罪□□へらんとて、□□□□侍らめといへば時頼朝臣其答を聞て感歎斜ならず其孝心を称して禄など、ましたまはりけり



これまた鎌倉期の例が挙げられているというだけの理由で、この記事も福島の源平史跡に強引に分類で御座います……源頼家様も北条時頼様のも源平合戦期よりは後の時代の御方で御座いますが…余り深く追及しないでやって下さいませ(苦笑)

その他、仁明天皇、兄媛、藤原吉野郷、役小角様の事 等々…私も、会津藩にて学んでみたかったなぁと思わされます。

栄螺堂の最上部分には、突然 小さな太鼓橋が架けられておりました。
螺旋状に上って来た坂道が、上り坂から下り坂へと下る場所で御座いますね。
太鼓橋を上って下りると、そのまま下りの参拝路に繋がっていて…面白いなと感じました。

さざえ堂05

御堂内には、至る所に年季の入った千社札が。
どうやって、あんな高い所に貼付けたのかしら?と思わされるような場所にも、沢山貼られておりました。
こちらが、真の御仏堂として使用されていた頃に貼られた千社札は別と致しまして……、気になるのは、落書きの酷さ。
出口の扉にも、落書きは絶対にやめて下さいとの注意書きが貼られておりましたが、その周辺の落書きは本当に酷いもので……どうして、このような事が出来るのだろうかと悲しく思えてなりません。
最近、歴史的遺産や景勝地等への落書きが問題視されるようになっておりますが、そのような事をマスコミが取り上げるようになったという時点で、マナーの悪さと申しましょうか…マナー以前の問題で御座いますよね…心底、ガッカリで御座います。
先日も、和歌山県白浜町の千畳敷の落書き問題と その対策について取り上げられている番組を拝見致しましたが、実際に私も千畳敷で落書きをしている方を何人か目撃した事が御座います。
さも当然かのようにガリガリやっておられたので、注意しようと思って近寄ると、逃げるように立ち去って行ってしまいましたが……いい歳をした大人が、恥ずかしい事で御座いますね。

さざえ堂06

こちらは栄螺堂の直ぐ近くに御座います、宇賀神堂
寛文年間(1661〜1677年)に、厳島神社の傍社として建立されたそうで御座います。
宇賀神は弁天様と習合しており、五穀豊穣の神様として信仰されておりました。

御堂の中には、明治23年に作られたという仏蘭西流の洋服姿の白虎隊十九士の御霊像が安置されています。
恐らく、以前 栄螺堂内に安置されていたという白虎隊十九士の御霊像が、こちらなので御座いましょう。

さざえ堂07

そして、こちらにも白虎隊士の自刃の絵が掲げられておりました。
既に息絶えた方もいらっしゃれば、今まさに自刃なさろうとされている御方、仲間と同時に刺し違えて果てようとされる御方、御城を見詰められる御方……。

自刃なさった白虎隊士の方々から学ぶ事は、本当に多く御座います。
これを、単に歴史の1頁と解釈するか否かは人それぞれで御座いましょうが、尊ぶべき事だけでは無い哀しい過去の事実を、人の命というものを、もっと重く考えていきたいと私は考えております。

   会津白虎隊精神の基礎「忠孝両全」碑

 会津藩祖保科正之公は徳川三代将軍家光公の弟にて格別の信頼を受け、信州高遠より山形を経て寛永二十年(一六四三)奥羽の要として会津二十三万石に封ぜられたが、生涯を幕政の内奥に参画し、四代家綱将軍の後見人となり徳川三百年の太平確立に尽瘁した。
依て徳川宗家に対する「絶対忠節」と、学問を重んじ武道を尚ぶ「文武両道」と、自ら吉田流神道奥義を極めての「尊皇愛国」を藩の伝統精神とした。
第三代正容公より松平姓となり地積を上げたが、下って文化五年(一八〇八)露国の南侵に対し宗谷、利尻、樺太に二年間千六百名を、続いて欧米諸国の江戸侵航に対し文化七年より黒船来航を含み安政六年(一八五九)までの間、三浦半島警備十年及び江戸湾警備十二年夫々約千四百名を派兵して海防に当り、軍紀厳正、士気旺盛、各駐留地にて会津様と尊敬され、功績抜群であった。
時に国内情勢不穏となり幕閣より都の警護と治安維持に全権を有する京都守護職の内示を受けたが、
「公武の政争に巻込まれて傷付く以外に効無し」
と説得強要せられるに至った。
   ○松平容保公(当時二〇才)その苦哀を実父に述べたる問答歌
  行くは憂し行かぬもつらし如何にせむ 君と親とを思うこころは
   ○実父美濃高須藩主松平義建公の返歌
  親の名はよし立たずとも君のため いさお現はせ九重のうち
 ここに容保公意を決し、文久二年(一八六二)精鋭千余名を率いて遥々京に上り六年間任務を遂行したが、時の孝明天皇の御親任最も厚く、賜りたる御親書は小竹筒に収め終生肌身より話さず御信頼に応えた。
然るに、天皇の御急逝に続き明治天皇(御年一六才)を擁して王政復古の挙あり、大政奉還した第十五代慶喜将軍と新政府との意見相違して慶応四年(一八六八)一月三日鳥羽伏見の戦いとなり、敗れて会津に帰還した。
この間恭順謝罪文を幾度奉呈するも新政府首脳は仇敵会津を圧殺せずは維新の達成不可能と握り潰し、薩長土肥始め二四個藩の大軍を差向け、終には籠城戦となったが、藩公の下老幼男女一致団結、九月二十二日降伏開城に至るまでその節を貫き徹した。
さらに戦後諸藩に拘禁の後、明治三年(一八七〇)寒冷不毛の地下北斗南藩(三万石実質七千石)に転封され家族とも一万四千名が移住したが、同六年解散まで貧窮飢餓掘立小屋の流民生活を耐え忍んだ。
   ○孝明天皇より御親書とともに賜りたる御製
  武士とこころあはしていわほをも つらぬきてまし世々のおもひで
   ○会津武士の亀鑑野矢常方老(六七才郭門を守り入城の勧めを断って突進戦死)の詠歌
  君のため敗れと教えて己れ先づ 嵐に向かう桜井の里
   ○娘子軍の名を上げた中野竹子女(二二才同輩と入城前混戦に壮烈な戦死妹優子介錯)辞世
  武夫の猛きこころにくらぶれば 数には入らぬわが身ながらも
   ○津川喜代美少年(一六才自刃)門出に当たり父母に捧げし歌
  かねてより親の教えのときは来て 今日の門出ぞわれはうれしき
   ○飯沼貞吉少年(一六才自刃唯一の蘇生者後貞雄と改名)出陣に際し母文子の餞けの歌
  梓弓向う矢先はげしくとも 引きな返しぞもののふの道
 白虎隊二番士中隊(日新館生徒一六・七才三七名)のうち、八月二十三日夜明戸ノ口原の血戦に隊長副隊長と分離した二〇名は、敵の囲みを破り教導篠田儀三郎指揮の下にかねて熟知の飯盛山に辿りついた所、城は火煙に包まれ落城の様相を呈した。
一同は伝統の話合を開き、斬込みか、立籠りか、自決か、を討議した結果、隊長代理決をとり、全員城を枕に討死の武士道に殉じ、
「人生古ヨリ誰カ死無ラン丹心ヲ留取シテ肝青ニ照サン」
の名詩を合吟し、純忠至誠を捨て義を取り、自刃したのである。
   ○容保公白虎隊士の自刃を聴いての弔歌
  千代までと育てし親のこころさえ おしはかられて涙こぼるる
   ○宮中御歌と頃長高崎正風男の弔歌
  大君のみたてと後になりぬべき あたらわかまつ雪の下折れ
   ○皇太子同妃両殿下(昭和天皇同皇后)大正十三年の御親拝に生存者飯沼貞雄感激の歌
  日の御子の御影仰ぎて若桜 散りてののちも春を知るらん
       平成十二年(二〇〇〇)一月 山主 飯盛本家



さざえ堂08

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飯盛山で旧会津藩を知る…合間に、義経様伝承を垣間見てみたり。
飯盛山の史料館01

飯盛山――白虎隊士の御墓下の売店横には、白虎隊士自刃の絵や当時の史料、遺品等が安置されている場所が御座いました。
白虎隊士や娘子軍の方々を象った可愛らしい御人形も沢山いらっしゃり、様々な想いを感じさせていただく事が出来たように思います。

飯盛山の史料館02

白虎隊の“白虎”とは、古くより四方の守護と信じられている四神の白虎の意。
四神に肖った隊は、当然 白虎隊以外にも玄武隊青龍隊朱雀隊が存在致しました。
玄武隊には50歳以上の年長者が、青龍隊には36歳から49歳の大人が、戦力的に主力といわれた朱雀隊は18歳から35歳までの青年方が集められ…そして、その予備隊として結成されていたのが、15歳から16、17歳までの少年からなる白虎隊で御座いました。
その他にも、更に若年者による年少隊も組まれていたようで御座います。

大政奉還の後、会津藩は新政府軍との戦に向けて改革的な戦法を編み出す為、年齢別の戦闘部隊を組織。
朱雀隊を主力に配置し、白虎隊や幼少隊は、あくまでも予備軍で実戦に出される予定は御座いませんでした。
新政府軍率いる軍勢と比べると、2万兵に満たぬ会津藩には勝算は無かったともいわれておりますが、そんな状況下でも白虎隊の方々は戦場へ出て共に会津を護りたいと嘆願書を提出し、時を待たれたようで御座います。
戦が激しさを増すにつれ状況は次第に変化していき…、ついに白虎隊は後備部隊から戦闘部隊となりました。

飯盛山の史料館03

会津の国境から二本松城を攻め落とした新政府軍は更に母成峠を敗り、会津へと迫っておりました。
残存する少ない兵力の中、白虎隊2番中隊は、藩主 松平容保様に従って出陣。
滝沢本陣から戸ノ口に向かい、援軍の要請を受けた時、本陣には白虎隊の少年達しか残ってはいなかったといいます。
滝沢峠を登り戸ノ口原の陣に入った少年達は、苗代街道で新政府軍に射撃を開始。
激しい銃撃戦となったようで御座いますが、新政府軍と白虎隊とでは、数に圧倒的な差が御座います。
次第に負傷者が出始め、撤退を余儀無くされました。
傷付いた仲間達を励まし支えながら退却する中、はぐれていく面々…それでも、20名程で固まって移動をしていた隊士達は、必死に敵の目を逃れて飯盛山へと入り、悲しい結末を迎えます。
それは、最期まで会津武士である事を望んだが故の、決断で御座いました。

飯盛山の史料館04

こちらは白虎隊士墓所の御参道脇に御座います、白虎隊記念館さん。
白虎隊は勿論、旧会津藩や新選組、戊辰戦争に関する沢山の情報、史料、遺品等を間近で拝観し、学ぶ事が出来る施設で御座います。
テレビ番組や出版物の資料提供で良く館名を拝見しており、いつか自分でも来てみたいなぁとずっと思っておりましたので、ようやっと訪れる事が出来て嬉しかったです。

飯盛山の史料館05

白虎隊記念館さんの前には、生存白虎隊士である酒井峰治さんと愛犬クマさんの御像が建立されておりました。

戸ノ口原の生存白虎隊士二十二人の一人酒井峰冶が、鶴ヶ城に入城するため一人山間を退却中愛犬クマが飯盛山の裏手に出迎えた時の銅像です。



余の傍らを過ぐるあり。
 よく顧みれば、愛犬クマなり。
 すなわち声をあげてその名を呼べば、とどまりて余の面を仰ぎみるや、疾駆して来たりて飛びつき、歓喜に堪えざるの状あり。
 余もまた帳然として涙なきにあたわず


これは、峰治さんが書き残されたという手記 戊辰戦争実歴談によるもの。
豪雨と疲労の中、敗走する白虎隊の仲間達から逸れた峰治さんは、自刃を覚悟された時、愛犬クマに出逢ったといいます。
この奇跡には…絆の深さを感じさせられるばかりで御座いますね。

館内に展示品は、本当にどれも大変貴重なものばかり…。
特に印象的だったのが、白虎隊自刃者 津川喜代美さんの手紙と、酒井峰治さんの手記で御座いました。

飯盛山の史料館06

白虎隊記念館さんは、芸能人や著名人の方々の来訪が多い事でも知られておりますね。
昨年の1月に放送されたドラマスペシャル「白虎隊」でも、山下智久君と田中聖君が来館される場面が御座いましたが、その時の雑誌記事等も展示されておりました。
それから、“しょこたん”こと中川翔子さんが来館なさった際の御写真やサイン色紙等も御座いました。
中川さんの亡き御父様は、かつて沖田総司役を演じられた事のある役者さんだったそうで、その当時の御写真が こちらに展示されているという事が、中川さん来館のキッカケであったという事で御座います。

記念館の2階には、展示の他にアニメビデオの上映も行われておりまして、年齢を問わず 様々な方が御覧になっておりました。
いろんな意味で新鮮な作品で御座いましたが、親しみの持てる分かりやすい作品で良かったと思います。

えぇと、何故 この記事が福島の源平史跡に分類されているかと申しますと…、実は こちらの2階展示部分に、源義経様の恋人と伝わる 皆鶴姫様の絵画と、“恵日寺の如蔵尼”と題された平将門公の娘様と伝わる女性を描いた絵画が展示されておりましてー…そ、それだけの事なので御座いますが…紛らわしくて申し訳御座いません;;
皆鶴姫様と その御子様に関する伝承や縁の地については、また次回 会津を訪れた後に詳しく記したいと思っております。

飯盛山の史料館07

そして、こちらが飯盛山の麓に御座います、白虎隊伝承史学館さん。
明治維新の犠牲者となった会津藩、白虎隊、婦女子をはじめ、援軍として会津入りした新選組、奥羽越同名軍、旧幕府軍、それから会津来攻の西軍に関する遺品や御写真等が、館内に所狭しと展示されております。

飯盛山の史料館08

館内に入って直ぐの場所には、とても御可愛らしい白虎隊士さんの御人形がいらっしゃいました。
等身大…よりは、少し小さいのかな?という感じなのですが、とにかく可愛くて可愛くて好みで…///(ん?)
いけませんね、ついつい邪な感情が沸いてしまいます;

こちらには約5000点の史料が展示陳列されておりますが、中でも日新館や その生徒さん方に関する史料や再現像が、大変興味深かったです。
当時の着物や袴も近くで見られて良かったと思います。

それから…新選組局長 近藤勇さんの家定紋 丸に三ツ引紋付鉢金も展示されておりましたが、その前に行かせていただいた白虎隊記念館さんにも近藤さんのものと伝わる鉢金があったなぁ〜と少し不思議に思ったりも致しました。

飯盛山の史料館09

会津では、いろんな場所で白虎隊士像や松平容保様像を見掛ける事が出来ました。
特に容保様は、御面が割れていらっしゃるだけに あちらこちらで御顔を拝見致しましたが…どの容保様も、本当〜に そっくりだったのが印象的過ぎて…(笑)
愛を感じますね。

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創業800年の老舗に、義経様主従の足跡を訪ねて。
会津若松駅01

やって参りました、会津若松!
以前、若松旅行の手筈を整えていたにも関わらず、当日になって行けなくなってしまって以来…こうして改めて若松の地を初訪する この日を、どれだけ待ちわびた事で御座いましょう。
駅舎を出て最初に出逢った白虎隊士像を見て、あぁ…ついに、私は若松へ来たのだと心から感激を致しました。

会津若松駅02

白虎隊士像の斜め後ろには、会津若松の駅長さんになれる記念撮影用パネルが…!!
これは早速、トライするべきで御座いましょう〜と、母に立ってもらいました。
クラ駅長さんは御手が見えておりますが、それ以前に……何だかアレですね…まるで ハロ長官のような………;

五郎兵衛飴01

さて…。
会津若松に到着した私が 先ず向かったのは、会津若松駅から5分程歩いた道路沿いに御座います、五郎兵衛飴総本舗という飴屋さん。

近くの電柱にも広告が載っておりましたが、五郎兵衛飴さんは なんと“創業800年”の飴屋さんなので御座います…!
800年前といえば平安末期――源平合戦期の頃の飴屋さんが若松に現存!?という事だけでも衝撃で御座いますが…更に驚く事に、なんとなんと五郎兵衛飴さんの宗祖は前九年の役際に源頼義様、義家様に随行されて下向して この地に土着された御方という事で…。
そして 平安末期、頼朝様に追われて落ちられる義経様主従御一行は、平泉へと向かわれる その途次に、こちらに飴を求めて立ち寄られたという伝承が、弁慶様直筆の証文と共に伝えられているのだそうで御座います。

ちなみに…源平争乱の頃、この会津地方を治められていたのは、奥州藤原氏であったと考えられております。
藤原秀衡様が陸奥守に就任された事により、会津地方は その支配下に組み込まれたものと思われます。
奥州藤原氏滅亡後の鎌倉時代には、葦名氏の祖である佐原義連様が頼朝様より会津の地を賜っており、そこに会津支配が始まったと伝えられております。

えぇと…若松に降り立った足で直行させていただいた五郎兵衛飴さんで御座いますが……、残念ながら御店は閉まっておりまして。
若松には2泊の予定で御座いましたので、滞在中には何としても!!と意気込んで、その日は そのまま宿泊先のホテルへと向かいました。

私にとって都合が良かったのは、五郎兵衛飴さんが若松駅とホテルの間に位置していた事で御座いました〜♪

五郎兵衛飴02

そして、翌日。
今日こそは!と思って行ってみましたら、御店の前に にゃんこさんが〜
にゃんさーん
と馴れ馴れしく近付いて行きましたら、可愛らしく
にゃぁ〜ん
私に御声を掛けて下さいました
御店の中から繋がれた紐が、にゃんさんの首元に結わえられていたのですが、それが 更に可愛らしさを引き立てているようで、ついつい夢中になってしまいました(猫さんの繋ぎ飼いに安堵感を覚える謎な私…何処までも、心は現代人と掛け離れております;平安時代、猫は室内で繋いで飼う愛玩動物で御座いましたし…江戸時代に徳川15代将軍 綱吉様が生類憐れみの令で猫の繋ぎ飼いを禁止されるまで、猫は繋がれて飼われる事も多かったようで御座います)

動物が余り好きでない母は、私が にゃんさんと戯れようとするのを見て、
御店、開いとるけど どうするん?
と言うので、そうだ、先に御店で飴を買わせていただこうと思い、御店の中に入りました。
私がショーウィンドウに並ぶ飴の種類を選んでいると、ふと足に生暖かい感触が…。
にゃぁー?
見下ろすと、先程の にゃんさんが私の足元に すり寄って来てくれておりました///
本当に、可愛らしい看板猫さんで御座いますね

五郎兵衛飴03

↑こちらが、私の購入させていただいた18個入りの五郎兵衛飴。
包装紙や箱に描かれた弁慶様に心が躍ります。
赤い包み紙を開くとオブラードに包まれた半固形の平たい飴が入っているのですが、そのまま食べる事が出来るので手が汚れる事も無く、固過ぎず柔らか過ぎずの感触が癖になりそうで御座いました。
御味も、素朴で本当に美味しいです。
御土産に持って行った職場でも大変好評で、また若松を訪れる際には必ず買わせていただきたいなぁと思っております。

母は、広島で留守番をしている祖父と祖母に、最中の五郎兵衛飴を買っておりました。
その他、水飴も御座いました。
ちなみに…最中や水飴は御座いませんが、こちらの五郎兵衛飴は若松駅の売店でも販売されておりました。
でも、御店の落ち着いた雰囲気や、種類や個数の幅が広いという面では、矢張り本舗さんで購入したいところで御座います。

“飴”というと、現在の感覚では御菓子として扱われている感じで御座いますが、元々は甘味料や薬として用いられるもので御座いました。
飴の歴史を遡ると、日本書紀神武天皇が大和高尾で水無飴を作られた事が伺えますが……平安期になると、都では既に飴が売られていたという記録も御座います。
砂糖の無かった昔の日本で、飴は とても貴重な甘味で御座いました。

五郎兵衛飴04

五郎兵衛飴の箱の中には、商品と一緒に3つ折の御由来記が入っておりました。
その表紙に描かれるのは葵の御紋、それから400年前に蒲生氏郷公より授与されたという飴屋組頭印板の図。
↑それから、弁慶様の証文の写しが印刷されておりました。

以下は、内面に記されていた文章を引用させていただいたもので御座います。

   五郎兵衛飴のあらまし

 昭和二十八年頃、当時“新平家物語”を執筆中の吉川英治先生より我家に伝わる武蔵坊弁慶自筆の賞状について問合せを受けてその問にお答した事があります。
この弁慶の賞状というのは源義経公が兄頼朝に京都を追われた“後の平泉落ち”の途次我が家に立寄り飴を所望された際、その代金の借証文として残したものと伝えられ、文治四年午四月二日と記録されています。
 我が家の宗祖(系図書に依れば)前九年の役に「源頼義」八幡太郎義家に随い下向し土着したものとされ、飴錬を業としたのは治承年間と伝えられるが、これは別説もあり詳かではないが、弁慶の賞状を受けてからも凡そ八百年に及ぶもので、一寸、他に類を見ぬ伝統を有すものとして誇り得る事実でもあります。
 その間、国主蒲生氏郷氏公より御用商として御判板と称する焼印の判板十二枚を賜り、続いて代々の国守諸公を経て会津藩主松平公の御用達を受けたまわり戊辰の際まで続いたもので、蒲生公、松平公共に我家の飴を携帯食糧の一部に供されたものと思われ、有名な白虎隊もこれを携行して戦いに臨んだことは史実に明らかで又殿中徒然のままに食されたと思われる殿中飴と称するものも現存して居ります。
 明治以後は博覧会、共進会にも毎回表彰を受け、各宮家や著名人各位の御愛顧を賜って居り、正月、縁日、お日市等には欠さず店を張り商いを致して居りましたので広く庶民に親しまれ愛されている次第です。
 五郎兵衛飴の原料は、会津産優良白糯米を麦芽糖化に依って製造するもので、現在、大半を占める澱粉飴と異り、滋養に富み、また品質良好で舌ざわりの良い事は医学的にも、また好食家各位にもすでに認められているものであります。
 よろしく御試用の上尚御高評賜らん事御願い申上げます。
   会津うまいもの会員 三十八代目 五郎兵衛



文治四年午四月二日々附源判官義経公兄頼朝ニ逐ハレ我奥州ニ下向ノ際郎党十数名ト共ニ長谷川家ニ立寄ラレ飴ヲ食シ其ノ味ヲ賞味セラレ郎党ト共ニ代価壱貫文ノ食費借用セラレ臣武蔵坊弁慶及臣亀井六郎ニ命ジ直筆ノ証文あり。



文治4年4月(1188年5月)といえば、義経様追討の宣旨が発せられた頃の事。
吾妻鏡によりますと、義経様主従は文治3年2月10日(1187年3月21日)には妻子を伴って平泉に身を寄せられたという事で御座いますが、その頃の義経様や弁慶様の確かな御動向の記録等は御座いませんので…。
この辺り、次回の会津旅行に向けて もう少し追及して調べてみたいと思います。

五郎兵衛飴05

会津若松周辺には、こちらの他にも源頼義様や義家様、義経様 縁の伝承地が幾つか点在しております。
今回、そちらも巡りたいなと思ってはいたのですけれど、1ヶ所1ヶ所が とても離れている上に、想像以上に交通の便が無かった事と、母は普通に若松観光を望んでおりましたので、私は関東在住なのだから また機会を作って改めて来たら良いかと思い直す事に致しました。
次回は是非ともレンタカーを借りて、ひとりで黙々と史跡巡りに行きたいなと思っておりますが、気分的に若松は自転車で走りまわりたいなぁという感じで御座います。
その方が よっぽどエコで清々しそうなのですけれど、時間や距離の制限等を思うと難しいかもしれないかなとも思います(涙)

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八幡宮に祀られた吉次様。
八幡宮01


こちらは、福島県白河市に伝わる源義家様御縁の御社…そして、金売吉次様、源義経様の伝承が残る八幡神社でも御座います。
吉次様御兄弟墓所の手前、国道294号線に面した場所に御鎮座されております。
向かって左側の細い路を奥へ進むと、吉次様御兄弟の墓所へと辿り着く事が出来ます。

□ 八幡宮(はちまんぐう)

所在地:福島県白河市白坂皮籠
御創建:天喜年間(1053〜1057年)
御祭神:八幡神(応神天皇)、金売吉次
通 称:吉次宮


八幡宮の御創始年代は天喜の頃(1053〜1057年頃)。
八幡太郎 源義家様が奥州へ下向される際に こちらで八幡大神の大幡を立てて人馬に小休止を与えていたところ、1組の白鳥が旗上を舞ったので、これは任国に入る吉端という事で奉祭をされ、建立に至ったと伝えられているようで御座います。

そして、平安末期。
昨日の記事とも被りますが、土地の伝承によれば、交易の為に御兄弟と共に京から奥州へと向かわれていた吉次様がこの地で盗賊に襲われて御亡くなりになられ、その亡骸は里の方々の手によって手厚く葬られた…という事で御座います。
吉次様御兄弟の御墓は、源平合戦物の流行り始めた室町期前後の作と推測されている事から、信憑性については やや疑問も生じますが、それはさておき…。
治承4(1180)年、この地を訪れられたという義経様は、吉次様が御亡くなりになられた事を哀れんでその御霊を こちらの御社に合祀されたと伝えられております。

義経様が初めて奥州平泉へと入られたのは、承安4(1174)年の事といわれております。
そして、異母兄 源頼朝様が伊豆にて挙兵されるのをきっかけに、平泉を発たれたと考えられるのが 治承4(1180)年の事。
つまり、義経様が御若い時期を平泉で過ごされていた6年間の間に、吉次様は御兄弟と共に京と奥州を行き交う最中、賊によって殺められてしまったという事になってしまいますね……何というか…妙な生々しさを感じさせられてしまいます;
義経様は、藤原秀衡様より与えられた部下、そして約80騎の兵と こちらへ立ち寄られたので御座いましょうか。

   八幡宮由緒

皮籠村旧名葭野宿ト云ウ
八幡神ヲ祭ルハ、天喜年中(一〇五三〜五七)陸奥守源義家朝臣下向ノ時 八幡大神大幡此処ニ建テ人馬ノ労ヲ少時休ムルニ白鳩一双来リテ旗上ニ舞ケレバ任国ニ入ルノ吉瑞ナリト木切草ヲ結テ神祭セシ給ウヨリ土人国司ノ仁恵ヲ仰ギ社殿ヲ建テ永ニ鎮護ヲ祈ル
年経テ治承年間(一一七七〜八〇)強賊藤沢太郎入金賣吉次兄弟ヲ害シ分散セリ
其ノ包メル皮葛籠ヲ捨テ置ケルニ依リ皮籠村ト云
今猶小金橋 小金田 金文田ノ字名ハ金銀配分セル処ナリト云、吉次ノ霊魂土人ノ祟ムルコト在ケルニヨリ八幡祠ヘ合祭シ相殿トス
吉次ノ墓ハ社ヲ過ル西三十二石碑アリ
馬士墓トテ十三墳トニムアル
古碑ノ子石等ニ寄ル口碑ニ録ス
     明治五年社列村社
     棟札ノ由緒ヲ写ス



福島


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♪砂金、砂金、砂金、砂金、金売3兄弟。
吉次さま墓所01


福島県白河市――新白河駅寄りの国道294号線沿いの車道脇の路地奥には、金売吉次様の墓所と伝えられる場所が現存致します。

こちらは、白河市の重要文化財にも指定されており、土地の方々からも篤く信仰され 大切に護られている事が良く伺える墓所で御座いました。
かつては、今よりももっと茂った林間で在ったのかもしれませんが、現在は直ぐ目の前まで車で行く事が出来るようになっております。
平地に建てられている事も、付近の方々にとってはより身近に感じられる一因となっているので御座いましょう。

驚いたのは、この向かい側には、なんと吉次様御墓 専用駐車場があった事で御座います…!
寺院内に在ったり隣接していたりする訳でも無いのに、専用駐車場を持たれる御墓というのは 結構珍しいのでは無いかと(全く見ないという事も御座いませんが)……す、凄いですね…流石は金商人!!(?)

吉次さま墓所02


驚くべきは、専用駐車場だけに非ず…(笑)
近くへ行って初めて知ったので御座いますが、私の目に入った石塔は3基で御座いました。
こちらは、吉次様だけの墓所なのでは無く、その御兄弟様であられるという 吉内様と吉六様の供養塔も建立されておられるようで御座います。
吉次様御1人でも既に存在自体が謎といわれておりますのに、この墓所では御兄弟方が御登場になられて、正直ちょっと慌ててしまいました///

鞍馬寺を抜け出した源義経様を奥州平泉へと導かれた吉次様が、何故この地で没されたのか…。
伝承によれば、承安4(1174)年 吉次様は 御兄弟と共に京から奥州へと向かう途路、この地で盗賊に襲われて殺されてしまわれたといわれております。
それを憐れんだ里の方々の手によって、葬られたのが この墓地なのだそうで御座います。

吉次さま墓所03


3基に御供えされてた綺麗な御花が、どれだけ 吉次様御兄弟が土地の方に愛されておられるかという事を物語っておりました。

3基の石塔の中央が吉次様。
左側が吉内様で、右側が吉六様の御墓だそうで御座います。

愛故に幾度も修繕が行われてきたので御座いましょうか、こちらは建立当時の宝篋印塔のままでは無いようで御座いまして、その為 判然とした建立年代は特定し難いといわれております。

   市指定重要文化財(史跡)
     (伝)金売吉次兄弟の墓


       指 定 年 月 日 平成八年三月二十九日
       所  在  地 白河市白坂字皮篭二七・二八-四
       所有者・管理者 白河市・財務省
       指 定 面 積 一、一六四㎡

 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられています。
 石塔は、白河石(安山岩質凝灰岩)で作られた宝篋印塔ですが、後世に積み替えられたため、別種の石造塔の一部が混じっています。
 紀年銘などがみられず、明確な製作年代は特定できませんが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されます。
 承安四年(一一七四)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。
また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。
 石塔の石囲いは、元治元年(一八六四)七月の建立です。
この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。
   平成十六年四月 白河市教育委員会



吉次さま墓所04


↑石塔の側面や背後はどうなっているのかしら?とグルグルまわってみても、なかなかに厳重な警護で御座いまして……流石は謎商人の吉次様!手強い御墓で御座いました(苦笑)

後から作られた事が判っている この石囲いですが……何だか周囲のスペースには余裕がある筈なのに、ちょっと窮屈過ぎませんか?と問いたくなってしまいますね;
これでは、右回りに三度廻るのは不可能で御座いますー。
囲いの周りを廻りなされ、という事なので御座いましょうか…。

三基の石塔も、何やらピッタリと寄り添うように綺麗に並んでおりますが、四方正面の宝篋印塔で御座いますので、普通は人1人通れる位に空間が空けられている場合が多いのですけれどー……。
もしかしたら、移り変わる時代の途中で 近くに建立されていた塔が移動されて纏められてしまったのかもしれませんよね…と勝手な推測をしてしまったり。。

宝篋印塔の特徴でもある四方梵字も確認は出来なかったのですが、恐らく 建立当時には刻まれていたのでは無いかなぁと思います。

吉次さま墓所05


今でもこの辺りには“小金橋”、“金分田”、“小金田”という字名が残っているそうで御座います。
この墓所のある場所も“皮籠”という地名で御座いまして、盗賊が吉次様から奪った砂金の入ったの皮籠に由来する名称であるといわれております。
吉次様の故事とその伝承が この土地に深く根付いている事が感じられますね。

また、後に義経様もこの地に立ち寄られ、吉次様御兄弟を弔って、近くに御座います 八幡宮に合祀なさったと伝えられております。
明日は 吉次様墓所の手前に御座います、その義経様縁といわれる八幡宮について記したいと思います。

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