
□ 曾我祐成(そがすけなり) □
生 年:承安2(1172)年
没年月日:建久4年5月28日(1193年6月28日)
実 父:河津祐泰
養 父:曽我祐信
母 :満江(土肥実平女)
兄弟姉妹:兄…時宗
姉…二宮朝忠室
弟…時致
通 称:曾我十郎
□ 曾我時致(そがときむね) □
生 年:承安4(1174)年
没年月日: 建久4年5月29日(1193年6月29日)
実 父:河津祐泰
養 父:曽我祐信
母 :満江(土肥実平女)
兄弟姉妹:兄…時宗、祐成
姉…二宮朝忠室
通 称:曽我五郎
“曽我兄弟”といえば、仇討の代名詞ともいえる有名な御兄弟で御座いますね。
曽我物語をはじめ、古典芸能作品等でも人気の題材として描かれてこられましたので、歴史好きで無くとも詳しい方は多いようで御座います。
ちなみに、曾我十郎祐成様が御兄様、五郎時致様が弟様で御座います。
“五郎”様よりも“十郎”様の方が御兄様なのは、ちょっと紛らわしい気も致しますが…でも、御兄弟だとセットで覚えやすいので良いですね(笑)
曽我物語で十郎様の幼名は“一万”様、五郎様は“箱王”様となっております。
御兄弟の御父様は、河津祐通様。
伊豆地方では長い間工藤祐経様と伊東祐親様の領地争いが続いていたようで御座いますが、祐親様側であられた祐通様は祐経様方によって殺されてしまい、御母様である満江御前は伊東祐親様の甥である曽我祐信様と再婚される事となったようで御座います。
その後、曽我氏の御子として養育された御2人で御座いますが、幼い頃より父の敵討ちを心に決めておられたといわれております。
さても、彼の河津の三郎祐重に、男子二人有り。
兄は、一万とて、五つなり、弟は、箱王とて、三つにぞなりにける。
母、思ひの余りに、二人の子供を左右の膝にすゑ置きて、髪かきなで、泣く泣く申しけるは、
「胎の内の子だにも、母の言ふ事をば聞き知る者を、まして汝等、五つや三つに成るぞかし。十五、十三にならば、親の敵を打ち、童に見せよ」
と泣きければ、弟は、聞き知らず、手ずさみして、遊び居たるばかりなり。
兄は、死したる父が顔をつくづくと守りて、わつと泣きしが、涙を抑へて、
「いつかおとなしく成りて、父の敵の首切りて、人々に見せ参らせん」
と、泣きしかば、知るも知らぬも押しなべて、袖を絞らぬ人は無し。
曽我物語では、夫を失われた怒りと悲しみ任せに 御母様が御2人に大きくなったら仇を討てと申されておりますね…。
抑、伊豆の国赤沢山の麓にて、工藤左衛門の尉祐経に打たれし、河津の三郎が子二人有り。
兄をば、一万と言ひて、五つに成り、弟は、箱王と言ひて、三つにぞ成りにける。
父におくれて後、いづれも母に付き、継父曾我の太郎がもとに育ちける。
やうやう成人する程に、父が事を忘れずして、歎きけるこそ、無慙なれ。
人の語れば、兄も知り、弟も知り、恋しさのみに明け暮れて、積もるは涙ばかりなり。
心のつくに従ひて、いよいよ忘るる暇も無し。
「我等二十に成り、父を打ちけん左衛門の尉とやらんを打ち取りて、母の御心をも慰め、父の孝養にも報ぜん」
と、忙はしきは月日なり。
数ならぬ身にも、日数の積もれば、はや憂き事共にながらへて、九つ、七つにぞなりにける。
実の御父様亡き後は義父様の元で御育ちになられた御2人で御座いましたが、その胸の中には常に幼き日に聞かされた母の言葉が根付いてしまっていたようで御座います。
同じ時代を生きられた法然様も幼い頃に御父様を殺害されてしまわれておりますが、亡き御父様の御遺言に従った法然様は敵を討つ人生を歩まれませんでした。
法然様のように早々に仇討が生み出す悲しい連鎖を教えられていれば、悔しさ憎さを乗り越える事も出来たかもしれませんし、それによって御2人の御生涯の結末はまた違った形で結ばれていた事で御座いましょうに…。
…歴史にifは有り得ませんが(そもそも、この逸話が史実か否かも不詳で御座いますが)、幼い内に受ける教育というものが どれだけ当人の人生を左右させるかという事や、親の責任の重み等という事は、いつの世も変わらぬ現実だと感じさせられます。
光陰惜しむべし、時人を待たざる理、隙行く駒、つながぬ月日重なりて、一万は十三歳になりにける。
身の不祥なるに、又、公方を憚る事なれば、秘かに元服して、継父の名を取り、曾我の十郎祐成と名乗りける。
十郎様が元服を迎えられたのは、13歳の時。
公に元服する事が出来なかった為、加冠は内密なものであったようで御座います。
義父 祐信様より1字をいただいて“祐成”様を名乗られるようになりました。
元服は果たせたものの、幕府の御家人にはなれなかったといわれますが、執権 北条時政様の庇護下にあられたと伝えられております。
この理由は定かとなっておりませんが、時政様の先妻が伊東祐親様の娘であった縁といわれております。
母、弟の箱王を呼び寄せて宣ひけるは、
「わ殿は、箱根の別当のもとへ行き、法師に成り、学問して、親の後世弔へ。努々、男羨ましく思ふべからず。世を逃るる身なれば、綾羅錦繍の袖も、衣に同じ。十善帝王も、身を捨て、人に対するに、所無し。憂きもつらきも、世の中は、夢ぞと思ひ定むべし。伝へ聞く大目連せしは、母の教へ給ひし御言葉を、耳の底に保ち給ひてこそ、五百大阿羅漢には越え給ひし。構へて法師と成りて、父の跡をも、童が後生をも助け給へ」
と申されければ、箱王、身に思ふ事有ると思ひけれども、
「承り候ふ」
とぞ言ひける。
母喜びて、生年十一歳より、箱根に上せ、年月を送りける程に、箱王、十三にぞ成りにける。
(中略)
然れば、箱王は、あらたま年の祝言をも忘れ、あたらしき春の朝拝をも、物ならず思ひ焦がれて、昼夜は、権現に参り、
「南無帰命頂礼、願はくは、父の敵を打たしめ給へ」
と、歩みを運びけるぞ、無慙なる。
十郎様元服の後、御母様は五郎様の元服は避けようと考えられ、法師にする為に箱根へと五郎様を預けられました。
かつて感情に任せて“父の敵を討て”と言われた事を、この頃には撤回されていたようで御座いますね。
然し、五郎様の心には仇討の野望が根付いたままで御座いました。
十郎様は、御母様に黙って弟の元服を時政様に頼まれます。
さきざきもつねに越えて、遊ぶ所なりければ、時政見参して、
「如何に、珍しや」
と、色代しければ、十郎、笏取り直し、申しけるは、
「弟にて候ふ童を、母が箱根へ上せて、法師になさんと仕り候へば、世に不用にて、学問の名字をも聞かず、剰へ、鹿、鳥くはで適はじと申し候ふ間、堅固の徒ら者、教へに従はざらん弟子をば、早く父母に返すべきと言ふ言葉に付き、里へ追ひ下さるる折をえて、男にならんと仕り候ふを、母にて候ふ者、曾我の太郎など、しきりに制し候ふ間、親しき三浦の人々、伊東の方様にてと存じ、相具して参りて候ふ。仮令道の辺にて、頭を切りて候ふとも、御前にてと申し候はば、其の身の勘当は候ふまじ」
と申しければ、
「誠に、面々の御事、見はなし申すべきにあらず。然れば、余所にても、さあらば、無念なるべし。もつ共本望也。時政が子と申さん」
とて、髪を切り、烏帽子をきせて、曾我の五郎時致と名乗らせける。
鹿毛なる馬の、五臓太くたくましきに、白覆輪の鞍置かせ、黒糸の腹巻一領添へて、引かれけり。
「つねに越えて、遊び給へ。定めて、母の心には違ひ給ふべし」
と、色代して、帰りけり。
北条時政様を烏帽子親に、五郎様は元服。
名を“時致”様と改められました。
以後、御2人は時政様の庇護を受け、時期を待たれておられたようで御座います。
源平合戦の終結の後、鎌倉幕府が成立。
その翌年、頼朝様は富士の裾野にて巻狩を行われました。
御兄弟にとっては、それこそが巡り巡ってやって来た好機…ついに、その時が訪れたので御座います。
巻狩の御一行に潜り込んだ御2人は、敵 祐経様の宿所を突き止められます。
近付きやすい夜を待って、祐経様を襲撃。
仇討を果たされたので御座います…。
建久四年五月二十八日
廿八日 癸巳小雨降、日中以後霄。
子尅、故伊東、次郎祐親法師孫子、曾我十郎祐成、同五郎時宗、致推參于冨士野神野御旅舘、殺戮工藤左衛門尉祐經。
又有備前國住人、吉備津宮王藤内者、依與于平氏家人、瀬尾太郎兼保、爲囚人被召置之處屬祐經、訴申無誤之由之間、去廿日返給本領、歸國。
而猶爲報祐經志、自途中更還來、勸盃酒於祐經。
合宿談話之處、同被誅也。
爰祐經王藤内等、所令交會之遊女、手越少將、黄瀬河之龜鶴等。
則喚此由。
祐成兄弟、討父敵之由、發高聲。
依之諸人騒動、雖不知子細、宿侍之輩、皆悉走出、雷雨撃鼓、暗夜失燈、殆迷東西之間、爲祐成等。
多以被疵。
所謂平子野平右馬允、愛甲三郎、吉香小次郎、加藤太、海野小太郎、岡邊彌三郎、原三郎、堀藤太、臼杵八郎、被殺戮、宇田五郎已下也。
十郎祐成者。
合新田四郎忠常、被討畢。
五郎者、差御前奔參。
將軍取御劔欲令向之給。
而左近將監能直。
奉抑留之。
此間、小舎人童五郎丸、搦得曽我五郎、仍被召預大見小平次。
其後靜謐。
義盛、景時、奉仰、見知祐經死骸<云云>。
左衛門尉藤原朝臣祐經、<工藤瀧口祐継男>
この時 祐経様の宿所におられた方々、遊女等の騒ぎで駆け付けられた方々によって、兄 十郎祐成様は討たれました。享年22歳。
祐成が最後の言葉ぞ、哀れなる。
「五郎は、何処に有るぞや。祐成、既に新田が手にかかり、空しく成るぞ。時致は、未だ手負ひたる共聞こえず、如何にもして、君の御前に参り、幼少よりの事共、一々に申し開きて死に候へ。死出の山にて待ち申すべきぞ。追ひ付き給へ。南無阿弥陀仏」
と言ひもはてず、生年二十二歳にして、建久四年五月二十八日の夜半計に、駿河の国富士の裾野の露と消えにけり。 (曽我物語による)
十郎様討死の後、五郎様は捕えられ、翌日 頼朝様の御前にて尋問される事となりました。
建久四年五月二十九日
廿九日 甲午
辰尅被召出曽我五郎於御前庭上、將軍家。
揚御幕二箇間、可然人々十餘輩候其砌。
所謂一方、 北條殿、伊豆守。
上総介、江間殿豊後前司、里見冠者、三浦介、畠山二郎、佐原十郎左衛門尉、伊澤五郎、小笠原二郎、 一方、小山左衛門尉、下河邊庄司、稲毛三郎、長沼五郎、榛谷四郎、千葉太郎、宇都宮彌三郎等也。
結城七郎、大友左近將監、在御前左右。
和田左衛門尉、梶原平三、狩野介、新開荒次郎等、候于兩座中央。
此外、御家人等群參、不可勝計。
爰以狩野、新開等、被召尋夜討宿意。
五郎忿怒云、祖父祐親法師、被誅之後、子孫沈淪之間、雖不被聽眤近。
申最後所存之條、必以汝等不可傳者。
尤直欲言上、早可退<云云>。
將軍家、依有所思食、條々直聞食之。
五郎申云、討祐經事。
爲雪父尸骸之耻、遂露欝憤之志畢、自祐成九歳、時宗七歳之年以降、頻插會稽之存念、片時無忘、而遂果之、次參御前之條者、又祐經匪爲御寵物、祖父入道、蒙御氣色畢。云彼云此、非無其恨之間、遂拜謁、爲自殺也。
者聞者莫不鳴舌。
次新田四郎、持參祐成頭、被見弟之處、敢無疑給之由申之。
五郎爲殊勇士之間、可被宥歟之旨、内々雖有御猶豫、祐經息童、<字、犬房丸、>依泣愁申、被亘五郎。<年廿、>
以號鎮西中太云男、則令梟首<云云>。
此兄弟者、河津三郎祐泰、<祐親法師嫡子、>男也。
祐泰、去安元二年十月之比、於伊豆奥狩場、不圖中矢墜命。
是祐經所爲也。
于時祐成五歳、時宗三歳也。
成人之後、祐經所爲之由聞之、遂宿意。
凡此間、毎狩倉、相交于御供之輩。
伺祐經之隙、如影之隨形<云云>。
又被召出手越少將等、被尋問其夜子細、祐成兄弟所爲也。
見聞悉申之<云云> (吾妻鏡による)
頼朝様の御傍には、北条時政様の御姿も。
多くの御家人達が見守る中、五郎様によって この度の経緯が語られました。
拝謁を遂げた後は、面前にて自害するおつもりであった事に周囲は驚かれ、それを受けた頼朝様は五郎様に同情して助命を考えられました。
頼朝様も長い流人生活の末に平家を滅亡へ追いやられた御方で御座いますので、その命に代えても親の敵を討ちたいと望む子の気持ちを、誰よりも理解されておられたのかもしれません。
が、祐経様の御子様 犬房丸様の嘆かれるのを見て、五郎様を死罪に処される事を定められました。
建久4年5月29日(1193年6月29日)、兄に1日遅れて 弟 五郎時致様は斬首。
享年20歳の事で御座いました。
曽我物語は、鎌倉期に編まれたとされる軍記物語。
そこに語られる全てが史実という訳では御座いませんが、吾妻鏡に伺える曽我の御兄弟による仇討事件を考えるには必須の物語であり、その成立には、十郎様の恋人として作中に登場される実在の女性 虎御前にも深い関わりがあったと考えられております。
※明日は、高野山に伝わる曽我兄弟墓所について。

□ 親鸞(しんらん) □
生年月日:承安3年4月1日(1173年5月14日)
没年月日:弘長2年11月28日(1263年1月9日)
父 :日野有範
母 :吉光、貴光?(皇太后宮大進/源義家孫娘?)
兄 弟:兼有、尋有、行兼
妻 :玉日(九条兼実女)?、三善為教女(恵信尼)?
子 :信蓮、益方、印信、小黒女房、善鸞、明信(信蓮房)、道性(有房)、高野禅尼、覚信尼、
師 :法然
弟 子:善鸞、如信、河和田唯円、性信、真仏、順信、乗然、信楽、成然、西念、證性、善性、是真、
無為信、善念、信願、定信、入西(道円)、穴沢入信、念信、八田入信、明法(弁円)、慈善、唯仏、戸森唯信、畠谷唯信、鳥喰唯円、等
宗 派:浄土真宗(宗祖)
幼 名:松若、十八公麿?、鶴満丸?、忠安?
改 称:範宴、綽空、愚禿釋親鸞
俗 名:藤井善信
諡 号:見真大師(けんしんだいし)
尊 称:親鸞聖人
親鸞様は、承安3年4月1日(1173年5月14日) 京の貴族 日野有範様の御長男として御生まれになりました。
幼名には諸説御座いますが、大抵の資料には“松若丸”様と記されておられるように思います。
藤原北家の御公家様といわれておりますが御家の身分は低かったようで、更に 時代は後白河上皇の院政下で平家御一門が全盛の頃…この時点で、既に松若丸様の将来に出世の道は望めなかったと考えられます。
松若丸様は4歳で御父様を、8歳の時に御母様を亡くされ御年9歳にて御出家、治承5(1181)年 比叡山延暦寺に登って天台宗の僧となられ“範宴”様と名乗られました。
この年は高倉上皇、平清盛様が御亡くなりになられて時代の波が大きく揺れ動いた時でもあり、 また自身や疫病、飢饉等といった天災が多発した頃でも御座います。
まさに末法の世の到来とばかりに慌ただしく世知辛い背景の中、20年に渡って修行に専念されましたが、今日語られるのは それが苦難の日々であったという事…。
仏門に入っても矢張り そこが人の世である事は変わらず、どんなに修行に励み努力を重ねたとて、後から入ってきた身分の高い貴族の子弟に易々と追い越され、いつまでも低い地位に留められる御身に もどかしさを感じられておられたのかもしれません。
29歳に至るまで、叡山にて只管に学問、修行に明け暮れる毎日を送られましたが、その中では己の抱く煩悩を掻き消す事が出来ず、救いの道を見出す事が出来なかったといわれます。
悩み抜かれた末の建仁元(1201)年 叡山を下山され、京 烏丸の六角堂に籠り、百日間の祈りを捧げられました。
参籠に入って95日目の明け方、夢の中に観音様の化身といわれる聖徳太子が現れ、教えを諭されたと伝えられます。
この御告げに従って、東山吉水にいらっしゃった法然様の草庵を訪ねられました。
ここでの説法に感動された親鸞様は、法然様に弟子入りをなさいます。
“綽空”という御名を与えられた親鸞様は、以後 毎日 法然様の元へと通われ、専修念仏の教えを御聞きになられたといいます。
この時、法然様は69歳…親鸞様との年の差は40で御座いました。
専修念仏とは、只管 心を込めて念仏だけを唱えさえすれば、他の修行をせずとも誰でも極楽へ行けるという教えで御座いました。
修行を積まれた親鸞様は次第に高い評価を得、法然様の優れた弟子の御1人として認められるようになります。
然し、専修念仏の教えは、天台宗等の古い仏教に属する門徒から激しく非難、攻撃されるもので御座いました。
元久元(1204)年、叡山僧徒が天台座主に対して専修念仏の停止を訴えました。
この時、法然様は門弟等の署名と共に七箇条制誡を延暦寺へと送る事で収束となりますが、翌年の南都の興福寺の訴えによって、結局 専修念仏は停止させられる事となりました。
そして建永2(1207)年、興福寺の強訴により2名の僧が処刑となり、法然様は讃岐に流罪、他6名の僧も流罪となり、親鸞様もまた越後へと流罪される事となりました。
その際、僧籍を剥奪された親鸞様は還俗させられ、“藤井善信”の御名を名乗られる事となります。
配流先の越後の国府へと赴かれたのは、親鸞様35歳の事。
非僧非俗の破戒僧“愚禿釋親鸞”と自ら名乗られるようになりますが、ここで初めて“親鸞”の御名が登場するようで御座います。
“親鸞”とは、“天親菩薩”と“曇鸞大師”より、それぞれ1字をいただいて名付けられた御名のようで御座います。
親鸞様は、仏門に帰依する僧として あるまじき肉食妻帯の生活を行われた…と取り上げられる事が御座いますが、これは越後にて現地の豪族の女 得信尼様と結婚され、御子様をもうけられていると伝わる説によるもので御座います。
建暦元(1211)年、流罪となって5年の後に、親鸞様は法然様と共に赦免される事となりました。
然し翌年 建暦2年1月25日(1212年2月29日)、法然様が京にて御入滅。
師との再会は叶わなくなってしまった事は、親鸞様にとって都へ戻る意義を失くされる事でもあったのかもしれません…親鸞様は罪が許された後も越後に留まられ、念仏の布教に尽力されました。
健保2(1214)年、親鸞様は42歳にして関東への移住を決められたようで御座います。
常陸国稲田を拠点として念仏の教えを広められたという事で御座いますが、矢張りここでも朝廷、鎌倉幕府による弾圧、旧仏教徒との諍いに悩まされた御様子で御座います。
天福元(1235)年頃、親鸞様は帰京なさっておられます。
この理由は定かでは御座いませんが、天福2(1234)年に幕府が念仏者取締令を発している事から、関東での念仏布教弾圧は相当なものであったのかもしれません。
帰京後は信者への指導の傍ら著作活動に励まれたといわれ、 教行信証、浄土和讃、高僧和讃、唯信鈔文意、浄土文類聚鈔、尊号真像銘文、浄土三経往生文類、愚禿鈔、皇太子聖徳奉讃、入出二門偈頌文、如来二種回向文、一念多念文意、大日本国粟散王 聖徳太子奉讃、尊号真像銘文、正像末和讃等…数多くの書物を残されておられます。
そして 弘長2年11月28日(1263年1月9日)、善法院にて、御入滅。
享年90歳という、当時にしては かなり長命ともいえる御生涯を終えられました。
親鸞様は、人は阿弥陀仏に救われると信じた時、既に もう救われているのだと説かれました。
そして、“南無阿弥陀仏”と念仏を唱えるのは、阿弥陀仏に対する感謝の気持ちを込めた御礼の言葉なのであると教えられました。
歎異抄には、いつも善い行いをして心に悩みの無い善人でさえ極楽往生する事が出来るのだから、心が弱い為に悪事を犯して悩んでいる人間が、どうして往生出来ない事があろうか、と親鸞様が述べられた事が記されております。
親鸞様の教えは、法然様の開いた浄土宗を更に推し進めた教えであるとして“浄土真宗”と呼ばれ、今日まで篤く信仰されて参りました。
広島には浄土真宗の安芸門徒が多いので御座いますが、例に漏れず、私の実家も浄土真宗で御座いますので、幼い頃より祖先と共に阿弥陀仏様や親鸞様を拝む習慣が御座いました。
私自身は神道寄りな信仰心の方が強いのですが、浄土真宗の御寺さんが経営する幼稚園へ通っていた事や、宗教色は全く見られなかったものの中学高校も一応 浄土真宗の学園で御座いましたので、矢張り決して無縁であるとは感じておりません。
歴史上の人物としてだけで無く、親鸞様の御生涯に触れる事で少しでも実家の宗教を理解する事が出来れば、今度 帰省した際に祖父母と語れる話題も増えるかしら…と考えてみたりしております。
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