
静岡県三島市の神社といえば、先ず真っ先に思い浮かぶのは こちら――三嶋大社で御座いますね。
古くより三島の地に御鎮座なさっておられたといわれ、源頼朝様以降の東国武士から篤く崇拝されて来られた大社で由緒ある御座います。

鳥居を潜り 境内に入って先ず出逢う事が出来ますのが、安達盛長様との待ち合わせ場所…相生松で御座います(笑)
流人時代の頼朝様が源氏再興の願をかけて百日詣をされていた際に、御供として従って来られていた盛長様は、この松の元で頼朝様の守護に当たられたそうで御座います。
現在の松さんは、とても樹齢800年を超えているようには見えませんので、恐らくは この伝承と共に植え継がれて来られているので御座いましょう。
安達藤九郎盛長 警護の跡
治承四年(一一八〇)源頼朝が源家再興を祈願し百日間毎晩蛭島より三嶋大社に日参するに際し従者盛長が此の所で警護したと伝えられている。

広い境内には、とても大きな池が御座います。
三島の地は水と縁が深いようで、町中に通る水路を逆流する鴨さん達や水車、蛍の集う景観の良い川縁、川沿いのライトアップされた公園を歩くカップル等、様々な場所で“水源”を感じる事が出来、何処に居てもせせらぎが聞こえてきそうな気分になってしまう土地だと感じております。
水に近い場所は 季節の移り変わりと共に目に見えて色を変えてゆかれるので、様々な季節の中で染まり変わる色々な三島を見てみたいな、と思いました。
それは三嶋大社でも感じる事で御座いまして…きっと、季節毎に景色は一変されるのだろうなぁと、何処よりも強く感じさせられております。
境内入口と御神門を結ぶように、池の中心につくられた御参道を真っ直ぐに進んで参ります。
あ…えっと、特に何処にも表記等は無かったので御座いますが、池に浮かぶこの小島(↑)って 亀さん…に見えます…よ…ね。
私だけだったら微妙に恥ずかしいかしら?と思いつつ写真を撮っておりましたら、近くを歩かれていた団体さんが、
「ねぇ見て、亀さんよ!」
と盛り上がって下さったので、非情に安堵してしまったり……(笑)
神池
天長四年(八二七)神池の水が渇れ天下大旱し神官の訴えにより朝廷は三嶋神殿に於て澪祭(雨乞)を行わしめた
六月十一日から十五日まで大雨が降る
時の帝は当社に圭田を寄せ神官に禄金財帛を賜わった(類聚国史)
元暦二年(一一八五)八月 源頼朝は神池に於て放生会を行い その際 糠田郎・長崎郷を三嶋社の科と定めた(吾妻鏡)
↑神池傍に立てられていた説明板に記されております、こちらは元暦2年4月20日(1185年5月21日)の吾妻鏡の記述によるもので御座いますね。
元暦二年四月二十日
廿日 癸酉
今日、迎伊豆國三嶋社祭日、武衛、爲果御願、被寄附當國糠田郷於彼社。
而先之、御奉寄地、三箇所有之。
今已爲四箇所也。
相分之、以河原谷三薗、募六月廿日臨時祭料所、被付神主盛方、<號東大夫。>以糠田長崎、爲八月放生會<二宮八幡宮>料所、被付神主盛成、<号西大夫。>是皆北条殿御奉、令施行給<云云>。 (吾妻鏡による)
三嶋大社例大祭にて頼朝様は伊豆国の糠田郷を寄進され、それまでに既に3ヶ所の寄進をなさっておられたので、4ヶ所になったという事で御座います。
更に これを分けて、河原谷三園を6月20日の祭礼用に定め、神主盛方様に御任せし、糠田と長崎を8月の放生会に当てられるように 神主盛成様に御任せされたようで…。
ちなみに……この頃は、平家との合戰において功績を挙げられた方々が、鎌倉殿の許可無く任官を受けたとして頼朝様の御怒りが露になられている辺りの事で御座います。
義経様の御立場も危ぶまれて参ります頃に御座いますね……。

さて…。
長い御参道を進んで行きますと、いよいよ神門の前に辿り着きます。
この門外には幾つかの御土産物屋さんも立ち並んでおりますが、ここを潜ると いよいよ別世界という 厳かな空間で御座いまして、ここまで来て やっと その先に見える神門の奥が、微かに見えて来るので御座います。

□ 三嶋大社(みしまたいしゃ) □
所在地:静岡県三島市大宮町
御創建:不詳
御祭神:三嶋大明神=(大山祇命、積羽八重事代主神)
三嶋大社の御創建は不詳とされておりますが、奈良期の古文書等に記録が残されている事から、その歴史は深いものと想像されます。
この辺りの地名にもなっております“三島”は、三嶋大明神の社名、明神名に由来するもののようで御座います。
また“三嶋”の語源は“御島”であったとも考えられ、富士噴火と それによる島の草創の神様として、火山帯地域を代表する御社であったのでは無いかともいわれております。
三嶋大明神は 元は三宅島に住まわれ、伊豆半島東岸本宮に御鎮座なさっており、また 伊豆諸島には その家族神がそれぞれ御鎮座なさっておられたようで御座います。
三嶋大明神=大山祇命、事代主命という事で御座いますが、大山祇命は伊予国大三島の大山祇神社の御祭神を勧請されたものであるという説も伝わっているようで御座います。
現在地に新宮として分霊、祭祀されるようになったのが現在の三嶋大社であり、恐らくは平安中期頃の御鎮座であろうと考えられております。
その際の伝承に面白い逸話が伝えられておりまして、遷座の時、元々この地に御鎮座なさっていた若宮八幡神様に 三嶋大明神が“藁1掴み程の土地を私に分けて欲しい”と頼まれたそうで御座いますが、なんと三嶋大明神は その藁を解いて1本の藁に繋ぎ合わせ、それに相応する広範囲の社地を御自身のものにされたのだそうで…。
予想外な三嶋大明神の行為によって、退けられるように若宮八幡様は境外摂社へと追いやられてしまいます。
若宮八幡の御社が三嶋大社に背を向けた形で建てられているのは、その故事によるものである…という事なのだそうで御座います。
若宮八幡様と致しましては、随分と不条理で複雑な御心境であられた事で御座いましょう;
平安末期、流人時代の源頼朝様によって深く崇敬を受け、平家滅亡の後は鎌倉幕府とそれ以降の武家によって篤く崇められて参りました。
東海道に面し、伊豆玄関口である下田街道の起点に位置している事もあって、伊豆国の一ノ宮として長きに渡って盛勢を誇っておられます。
御由緒
創建年代は不明であるが、古くより三島の地に御鎮座し、三嶋大明神と称せられ、富士火山帯の根元の神、伊豆の国魂の神、国土開発の神としての信仰は古く、天武天皇十三年(日本書紀) 淳和天皇天長九年(続日本紀)仁明天皇承和七年(続日本後期)宇太天皇仁和三年(扶桑略記)等に大明神の造島の事が見え、仁明天皇嘉祥三年(文徳実録)以下、その位階は累進し、延喜の制においては名神大社に列し、月次、新嘗の官弊を預り、祭科稲二千束を寄せられた。
中世以降、武士の崇敬極めて篤く、殊に永暦元年伊豆に流された源頼朝は深く當社を崇敬し、雌伏二十年、治承四年八月十七日、當社御例祭の夜、御神助を得て、山木判官兼隆を討ち、旗挙に成功し、神領を寄せ益々崇敬するところとなり、以来部門武将の尊崇篤くこれらの奉納品多数を所蔵している。
又、東海道に面し、下田街道の起点に位する交通の要衛に当り、三嶋大明神の称は広く天下に広まって行った。
尚明治四年には社格が制定され、官弊大社に列せられた。
三嶋大社本殿・幣殿・拝殿・舞殿・神門
三嶋大社の創建は明らかではないが、鎌倉時代(一一九二〜一三三三)初期には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の尊崇を受けた名社である。
一遍聖絵の社頭と現在のそれとではかなり異なり、焼失記録をみると、文永五年(一二六八)と永仁四年(一二九六)に焼け、また延享元年(一七四四)と安政元年(一八五四)の地震で倒壊している。
今の社殿は万延元年(一八六〇)から明治二年(一八六九)にかけて再建されたものである。
本殿は流れ造(棟より前方の屋根が、広報の屋根よりも長く反っている建築様式)で切妻屋根(本を半ば開いて伏せた様な形の屋根)、棟には千木・鰹木をつけている。
拝殿は入母屋造(上部を切妻屋根とし、下部を四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式)で、前面には三間の向拝をつけ、正面に千鳥破風と軒唐破風がつく。
両殿の間には軒下に納まるように相の間がつくられている。
この建築の様式は権現造といわれる。
全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、高さ二三m、鬼瓦の高さ四mという豪壮なものである。
彫刻は伊豆国名工小沢希道、駿河国名工後藤芳治良がそれぞれ門人とともに技を競いあって完成した傑作である。
平成十六年三月 三島市教育委員会

舞殿の近くにいらっしゃる金木犀さんは、なんと樹齢1200年を超える大木。
恐らくは、三嶋大社創始の頃より この地に根を張られ、流れ移りゆく時代と人を静かに見守られて来られたので御座いましょう…。
800年以上の長生き杉さんや楠さんには、たまに御逢いする機会が御座いますが、金木犀さんというのはとても珍しい事で御座います。
生命の神秘、という言葉が自然と頭に浮かんで来るようで御座います。
三嶋大社のキンモクセイ(国指定天然記念物)
この樹木はウスギモクセイの雄木として日本有数のもので、大社の神木とshして大切に保存されている。
樹齢は一二〇〇年を越えると伝えられ、訪れる参詣社の目を引いている。
根廻り約三m、高さ地上約一mのところで二大枝幹に分かれている。
枝の展開は円形であり、その先は地面に届くほど垂れている。
九月上旬から中旬にかけて一度開花し、九月下旬から十月にかけて再び開花する。
淡黄色で可憐な花をつけ、甘い芳香を発するが、その香は神社付近はもちろん、遠方にまで及び、時には二里(約八km)先まで届いたと伝えられている。
平成九年十一月 三島市教育委員会
天然記念物三嶋大社の金木犀
昭和九年五月一日 文部省 告示第一八一号により文部大臣から 国の天然記念物の指定を受けた
学名は薄黄木犀という
九月上旬より中旬にかけ 黄金色の花を全枝につけ 再び九月下旬より十月上旬にかけて満開となる珍しい老木で 樹齢凡そ壱千弐百年 幾百星霜干魃や霜雨に堪え 又は風雪に侵されるも 樹勢 尚旺盛にして 葉の光澤も美しく新緑に輝き 誠に神々しい御神木で 日本一のキンモクセイである
開花時には馥郁たる芳香を放ち 風向きによっては一口米に及ぶという

こちらは神門の直ぐ外に御座います、頼朝様と政子様の腰掛石で御座います。
熱海の伊豆山神社の腰掛石は、ベンチのような長細い形で御2人が寄り添って座られたような石で御座いましたが、こちらはこちらで個別の…しかも 豪華に背もたれ付き仕様で御座います(笑)
向かい合った感じというよりは、矢張り横並びな向きのように思います。
いえ、でも横並びの同じ目線の景色を見つつ語らわれたり たまに横座りに座って向き合われたりさていたのかも…で御座いますよね!
政子様の方の御石は やや控え目なところがポイントで御座いましょうか、可愛らしく頼朝様の王座脇に座られる姿を想像しては、微笑ましい気持ちを抱いてしまいます。
源頼朝 北条政子 腰掛石
治承四年五月源頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参をした折 腰を掛けて休息したと伝えられる
右側は北条政子の腰掛けた石である

奉納されておりました絵馬の絵柄にも頼朝様の御勇姿が…!
こちらの授与所で御受けする事が出来ます、武士の御守的 勝守も、非常に武士の為に設計されておりまして(笑)…御勧めで御座います。

境内神池の御参道から続いております中島には、境内社 厳島神社が御座います。
御祭神は、勿論 市杵島姫命で御座いますね。
こちらは、政子様が勧請、そして篤く信仰されたと伝えられる御社で御座います。
安芸国 厳島神社は平氏の氏神様で御座いますが…元は平氏の家系とはいえ、源氏方に付かれた政子様は一体、どちらの厳島社から勧請された御霊だったので御座いましょうか…。
厳島神社
北条政子が勧請し 殊の外信仰したと伝えられる当社は家門繁栄・商売繁昌・安産・裁縫等の守護神として広く信仰されている
↑……“殊の外”と記してあるのが、何とも…(笑)

政子様の勧請以前の天長9(832)年、池の水が涸れた際に雨乞を行ったところ 雨に恵まれたという伝承がある事から、三嶋大社は 水の神様、農業の神様としての信仰が強かったようで御座います。
その故事に肖って、後の時代には 天気に恵まれるように旅人が祈願をする習慣が出来たといわれます。

三嶋大社を訪れたら、何が何でも訪れたいのが宝物館で御座います〜。
注目すべきは、矢張り 政子様の奉納物であり、国宝にも指定されております“梅蒔絵手箱”で御座いますねー!
鎌倉期の代表的漆工芸品で、その完成度、美しさ、そして保存状態の良さには目を見張るばかりで御座います。
手箱本体だけで無く、中身の鏡、鏡箱、白粉箱、歯黒箱、薫物箱、螺鈿櫛、銀軸紅筆、銀挟等、当時の御化粧道具が ほぼ完璧に揃った状態で保存されており、本当に胸が高鳴ってしまいます。
それから、頼家様の御自筆と伝えられる重要文化財“紙本墨書 般若心経”も見過ごせません。
これは、頼家様 唯一の自筆書といわれる一品なので御座います。
“建仁三年八月十日三嶋社奉納”との奥書から察するに、頼家様は病に倒れられた最中、苦悩しつつ般若心経を筆写され、建仁3年8月10日(1203年9月16日)に三嶋社へ奉納されたもののようで御座います。
また、頼家様亡き後、この般若心経は数奇な運命を辿られているようで……。
判明しているだけで、2回以上社外へと持ち出されているようで御座いますが、まるで神意に導かれるように何故か再び奉納によって戻って来ているのだそうで御座います。
不思議といえば、とても不思議な事なので御座いますが、それだけ頼家様が込められた祈りの念は三嶋の神様に対して真摯なものだったので御座いましょう。
頼家様によって記された経文は、自らの帰る場所を明確に示しておられたのかもしれません。
頼家様の帰りたい場所は、どちらだったので御座いましょうか…。
ちなみに…宝物殿1階では、入場無料のグッズ販売、大社紹介ビデオの放映が行われております。


静岡県伊豆市修善寺温泉場は、伊豆最古の温泉場――その温泉郷の中心に流れております 桂川の中央には、修善寺温泉の中でも最古の歴史を持つ史跡温泉 独鈷の湯が御座います。
独鈷の湯は、筥湯、新湯、河原湯、石湯、乳児の湯、杉の湯と、共同浴場では御座いませんが 瀧の湯、馬の浴場である馬の湯と並んで伝えられております、修善寺温泉9つの外湯の1つでも御座いますが、その中でも最古という事で…つまりは、修善寺温泉の発祥の御湯という事で御座いますね〜。
御開湯は大同2(807)年 弘法大師(空海)様の御手によるものと伝えられ、折しも 今年2007年は、修善寺温泉開湯1200年という記念すべき年なのだそうで御座います!
源頼家様が修善寺に幽閉されたのが建仁3年9月29日(1203年11月4日)の事で御座いますので、もしかしたら頼家様も こちらの御湯を利用されておられたかもしれないですよね。
修善寺温泉は発祥時より湯治の御湯として親しまれていたそうで御座いますので、病み上がりに連れて来られた頼家様が弘法大師様縁の薬湯に入られていても何の疑問も無いように思われます。
……という私の勝手な想像から、こちらも強引に源平史跡(静岡)扱いで御座います;すみません…。
修禅寺の斜め前辺りに位置しており、観光コースのほぼ中心部で周辺の温泉宿も全てこちらを中心に集っておられるようで御座いますので、絶えず沢山の方が集まっていらっしゃいました。
独鈷の湯
大同二年(八〇七年)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、桂川で病み疲れた父の身体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれ
「川の水では冷たかろう」と、手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたという。
そして、大師が父子に温泉療法を教えたところ、不思議なことに、父の十数年の固疾はたちまち平癒したと伝えられ、その後この地方には温泉療法が広まったという。
いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものといわれている。
独鈷の湯
大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた時、桂川で病み疲れた父の身体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷たかろう」と、手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたと言う。
そして、大師が父子に温泉療法を教えたところ、不思議なことに、父の10数年の固疾はたちまち平癒したと伝えられ、この後この地方には温泉療法が広まったという。
いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものと言われている(2007年で開湯1200年)。
なお、現在は観光施設として管理されており、多くの方に見ていただくため、入浴はお断りしている。
伊豆市
弘法大師様が まるで魔法使いのようで、とても素晴らしい誕生伝説で御座います〜。
“魔法のステッキ”ならぬ、“魔法の独鈷”で御座いますね(笑)

こちらも、かつては湯治客で大変賑わった露天浴場であったと伝えられております。
また、御開湯当時よりも土台の岩や石が積み重ねられており、浴槽の高さが随分持ち上げられているようで御座います。
それによって一般の方が橋を渡って入浴出来るようになっていたそうで御座いますが、修善寺温泉の象徴的な湯屋である事と、それから入浴される方々のマナーが問題になったとか…で、現在は入浴厳禁の観光施設となっております。
入浴禁止と掲げられておりますが、足湯として ちょこっと浸かっていかれる分には特に問題無いそうで、雑誌や足湯紹介のサイト様等でも たまに御紹介されておりますね。
ただ、夜中に密かに御入浴に来られる湯治客の方も結構いらっしゃるのだとか…;
私も、弘法大師様に御声を掛けられた少年の気持ちを少しでも感じたく思いまして、ほんの1、2分では御座いましたが 足を浸けさせていただきました。
少し熱めの温度では御座いましたが、季節が良かった所為か、聞いていた程の熱湯では無く むしろ心地良い御湯で御座いました。
ふと耳を澄ますと聞こえて参ります 川のせせらぎが色々なものを洗い流して下さるようで、目線を上げると 同じように御湯に足を入れられていらっしゃる方々の楽しそうな笑顔……一瞬 時間の経つのを忘れてしまう程に心穏やかな気持ちにさせていただきました。

とても綺麗な外観で御座いますが、実は 2002年、2004年の台風で悉く流失、現在は再建されて数年の状態なのだそうで御座います。
然し、台風被害に遭った際に 川沿いの旅館やホテルが被害を受けてしまったようで、残念な事に現在 独鈷の湯には移設計画が上がっているそうで御座います…。
当初は、河床を下げる事での対処も検討されていたようで御座いますが、自然災害の度に四阿が決壊する事を危惧する地元の方々の大半の意見によって移設案が可決されてしまったと耳に致しました。
来年の秋には、今よりも20メートル程度離れた左岸へと移動してしまわれるという事で…。
…折角、弘法大師様が岩を砕いて霊泉を湧出させた修善寺温泉の発祥地といわれる伝説の場所を 1200年も護り受け継がれて来られましたのに…現地住民でも無い余所者の私が、当地の方々が御決めになられた事に対して意見する事等出来ませんが、余所者と致しましては残念で仕方が無いと思われるばかりで御座います……。
跡形も無くなった史跡は、矢張り寂しいもので御座います。
失ってから気付く大切さというものも確かに御座いますが、歴史深いこの場所に これだけ人が集まっているというだけで、ここがどれだけ貴重な存在であるか既に誰もが知っておられる事で御座いましょうから……同じ名前で別の場所へ改設される事で遺していかれると土地の方々が御決断をなさったのならば、矢張り黙って現在の姿を目に焼き付けておく事しか出来ない…ですよね。
* * * * * * * *
※和暦年月日の後に括弧にて西暦換算の年月日を付記しておりますが、一昨日の記事よりユリウス暦に変更致しております。
その為、それ以前の記事とは西暦換算日が一致しない事が御座います(特に ここ最近はグレゴリオ暦にて換算していた為…)
紛らわしくて申し訳御座いません……。。
何故、盛長様の御墓が修善寺に…?と疑問を抱きつつも、とりあえず行ってみようと思い 足を運んで参りました。

盛長様の墓所は、範頼様墓所や頼家様墓所のように観光地図や案内板には余り詳細に記されておらず、やや解り難い場所で御座いました。
修善寺自然公園の梅林入口付近である事は判っておりましたので、梅林への道標に従って歩いて行ったので御座いますが、何と梅林への道は途中で二股に分かれており、どちらを通っても梅林へは行けるようで御座いまして……;
数秒悩みましたが、私の第六感(?)が直進せよと訴えるので、直感を信じて進む事に致しました…ら、どうやらそれが正解だったようで御座います(笑)
そのまま道なりに進んで行きますと車道にぶつかりますが、それを越えて 更に山へと向かう歩道を進んで行きますと、間も無くして右手に小さな墓地が見えて参りました。

手前が盛長様の御墓だと思われますが、他にも数基、囲うような形で幾つかの御墓が建てられております。
傍に立てられていた説明板には、盛長様の人物紹介がなされているだけで御座いまして…;
何故、この地に盛長様墓所が在るのかというのは 矢張り不詳のようで御座います。
安達盛長の墓
安達盛長(保延元年一、一三五〜正治二年一、二〇〇)。
通称藤九郎、法名は蓮西。
早くから頼朝に仕え、鎌倉幕府創設に尽力後は上野奉行職三河守護などを歴任、頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わった。
盛長様墓所と伝えられる場所は修善寺以外にも存在致しますが、範頼様、頼家様、それから北条氏…と 鎌倉幕府の中心的人物に縁ある土地に、というのが気になるところで御座いますね。

こちらが盛長様の御墓と思われる宝篋印塔で御座いますが、隅飾の形から鎌倉時代後期に建立されたものと考えられます。
上部には九輪や宝珠等の相輪の部分もあった事と思われますが、長い年月の中で上部は折れ朽ちてしまったので御座いましょう。
手前の石上に置かれている線香か御花用の立筒が付いた台には、“安達”と刻まれておりますね。
これは かなり新しいもののようで御座いますので、恐らくは安達氏の御末裔の方…か、土地の方々によって設置されたものでは無いかと思うのですけれど。
ただ、御末裔という可能性は低いようで…安達氏は、弘安8(1185)年の霜月騒動でほぼ壊滅的に滅ぼされており、残された僅かの安達氏もその後に亡くなられております……。
安達氏に縁あった地方には、地名等に“安達”、“足立”が残っている所が幾つかあり、現在でも“安達”さんという姓が多い事から、もしかしたら そういった関係を辿られて来られた方々によって供養されておられるのかもしれませんね。
山道途中の薄暗い場所で御座いますし、私が訪れた時期は梅林が賑やかになる季節では御座いませんでしたので、修禅寺付近に比べますと、随分と人気が少なくて もの寂しい雰囲気は否めませんでしたけれど、決して不気味な場所という事は御座いませんでした。
むしろ、背後の明るさに後光を思わされたり、流れる水音に心が洗われるような気持ちにさせられたり……とても、綺麗な場所だと感じました。

付近に住んでいらっしゃる方に擦れ違った際、盛長様の御墓について伺う事が出来ました。
“安達盛長”様という御名前には全く反応が無かったので御座いますが、何だか昔からあるので大切になさっておられるという事で…御墓に御供えされていた榊も、地元の方々によるものなので御座いましょうか。
そういう御話を聞くと、何だか無性に嬉しくなってしまいますね。
素晴らしい事だと思います。
盛長様墓所の直ぐ近くにも、鹿山 の義経様像付近や範頼様墓所で御見掛け致しました 桂谷八十八ヶ所の霊場が御座いました。
第八番のこちらの御本尊は、千手観世音菩薩様で御座います。

静岡県伊豆市修善寺温泉場、西北の山腹には源範頼様の墓所が御座います。
確証たる史料が残されておりませんので、修善寺に幽閉された後の範頼様の消息は不詳とされており、各地に生存説、落人伝説等が散らばっておりますが、この修善寺に残る伝承では 範頼様は修禅寺の鎮守社 日枝神社下の信功院に幽閉された後、梶原景時様に攻められ その地で自刃されたと伝えられているそうで御座います。
そして、その墓所と伝わる場所は 日枝神社(信功院跡)前の道路を真直ぐに進んで、修禅寺を越え、更に進んで民家の間の道を少し上った場所に、今も尚 大切に護られているので御座います。
修善寺温泉郷は散策客に優しく、案内板に従って進んで行けば 大抵の場所には迷う事無く辿り着く事が出来ます。
範頼様墓所へは、情緒ある遊歩道を外れて 道路沿いの民家と民家の間の御参道を通り、アパートや民家の前を通り過ぎつつも、道なりに進んで参ります。

ゆるやかな上り道の各所には、幾つもの道標が出ておりますので、迷う事無く進むことが出来ます。
大変有り難い事で御座いますね。
途中、季節の花々が色とりどりに咲いている場所等も御座いまして、とても綺麗で長閑な空間に ほんわかしながら、ゆっくりと上って行きました。
観光案内図に載っておりますので、短い道中では御座いますが 何名かの方と擦れ違いました。
少し前の方を歩いていらっしゃった 私と同年代位の女性グループの方々が、
「源範頼っていう人がここで死んだんだってー。」
「えー、誰…?あ、源頼朝の弟って書いてあるよ!」
「ホントだ〜!義経の兄だって!タッキーの兄??」
という会話をなさっておられたので、何だか微笑ましい想いで 後ろから密かに見守ってしまいました…(笑)
こんな風に、毎日きっと いろんな方が範頼様の御墓を御参りされて、何となくでも範頼様という御方の事を知って帰られているので御座いますね。
温泉目的でいらした方々でも、このように周辺を散策出来るように工夫されている事は、本当に素晴らしい事だと思います。

石段を登って行きますと、範頼様の墓所前に辿り着きます。
遠目に見ると、木々に埋もれるような形で ひっそりと佇んでいるようで御座いますが、近くまで上りますと暗い印象というよりは木漏れ日の差し込む清浄な場所だなぁと感じました。
ちなみに、この直ぐ傍には“茶庵 芙蓉”さんという御茶屋さんも御座いまして、甘味処なので御座いますが、とてもとても雰囲気の素敵な穴場的なオススメ茶庵さんなので御座います〜。

こちらが範頼様の御墓なので御座いますが、見た感じ…形から考えましても、塔自体は割と新しいもののようで御座いますね。
土台となっている下の大きな石は元々あったのかもしれませんが、その辺りの情報については何処にも記載されておらず……イマイチ良く判らず仕舞で御座いました;
恐らくは後年に、修善寺にて散られたという範頼様を偲んで 地域の方々等によって建立されたものであろうと考えられます。

この地では、範頼様の御命日は9月15日と伝えられているようで御座いまして、毎年その日には 地元の町内会、子供会の皆様によって 範頼忌が執り行われているのだそうで御座います。
吾妻鏡によれば、範頼様が修善寺に幽閉されたのは 建久4年8月17日(1193年9月21日)の事。
それから約1ヶ月後の事であったのか、それとも数年の時が経た後の事であったのか…。
甥に当たる 頼家様が北条氏によって修善寺に幽閉される事となるのは、それから丁度10年の後…建仁3年9月29日(1203年11月9日)の事で御座いますが、それ以前に範頼様を討ったという景時様が鎌倉から失脚、謀反の末に果てられておりますので、範頼様が修善寺で御過ごしになられた時間というのは とても僅かなものだったのでは無いかと…。
源範頼の墓
範頼は鎌倉初期の武将。
源義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。
治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」を慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。
範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修善寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。
伊豆市
範頼様の墓地内には、義経様像の御座います鹿山でも しばしば御見掛け致しました、桂谷八十八ヶ所の八十一番の石碑が御座います。
こちらの御本尊は、千手観世音菩薩様で御座います。

範頼様の墓所へは、行きも帰りも 竹林の小径を経由致しました。
修禅寺前の道を真直ぐに進んで行っても良いのですけれど、余りに素敵な景観なもので御座いますので、何という事も無く ただ通りたくて…。
竹林の小径は、天然の竹林を生かし 桂川に沿って整備された遊歩道で御座います。
桂川に架かる朱塗の橋が竹林の緑に映えて、とても綺麗で素敵な雰囲気を醸し出しておりました。
私の前に、川沿いを散策されているカップルがいらっしゃったので御座いますが、後ろから見ていて 絵になるなぁ〜…と、見とれてしまう程で御座いました。
* * * * * * * *
※タイトルは、夏目漱石氏がこちらを訪れた際に残されたという句で御座います。
正岡子規氏は、頼家様の御墓と並べて、
“この里に 哀しきもの 二つあり 頼家の墓と 範頼の墓と”…と詠まれております。
どちらも源氏の稀なる御方であられた筈で御座いましたのに、哀しい結末を迎えざるを得なくなられた方々……。
決して、儚い方々として語り継がれている訳では御座いませんが、それでも 哀しい最期を背負われたまま逝かれた御2人に、祈りを捧げずにはいられない――そんな、堪らなく不思議な感覚に捕われてしまうようで御座います。

静岡県伊豆市――修禅寺の東、修善寺温泉バス停に程近い こちらは、日枝神社で御座います。
大きな神社では御座いませんが、空気の澄んだ境内に立ち並ぶ木々の緑が大変印象的で御座いました。

境内御参道の手前の石段を上って直ぐの右手には、信功院跡と記された案内板と共に 小さな庚申塔が立てられております。
こちらは、源範頼様が修善寺にて幽閉、そして終焉を迎えられたといわれる信功院の跡地で御座います。
こちらの伝承では、建久5(1194)年 梶原景時様率いる約5百騎の軍に攻められ、防戦の末に自害なさったといわれております。
信功院は後に庚申堂になり、その名残として現在も1基の庚申塔が残されているのだそうで御座います。
信功院跡
修禅寺八塔司の一つ信功院の有った所です。
源範頼は兄頼朝の誤解に依りこの信功院に幽閉されました。
建久五年(一、一九四年)梶原景時五百騎の不意打に合い範頼は防戦の末自害しました。
信功院は後に庚申堂となり今は庚申塔一基が残っています。
伊豆市教育委員会

□ 日枝神社(ひえじんじゃ) □
所在地:静岡県伊豆市温泉場
御創建:不詳
主祭神:大山咋命
旧 称:山王権現
日枝神社の建立者は、弘法大師様と伝えられます。
修禅寺の鬼門に位置しており、神仏集合時代は修禅寺の鎮守社である山王権現社として崇拝されておりました。
修善寺幽閉中の源頼家様も御参拝なさっておられた事で御座いましょう。
明治期の神仏分離令によって修禅寺とは断たれ、名称も“日枝神社”と改められ、今日に至ります。
主祭神の大山咋命の他、相殿に 熊野社(伊邪那美命)、山神社(大山祇命)、第六天社(旧社/御祭神不詳)が御祀りされております。
御社殿は、明治以前の建造物なので御座いましょうか。
古めかしく堂々とした佇まいでありながらも、柔らかな雰囲気がとても素敵で御座いました。
御社殿に向かって左方には、“子宝の杉”と名付けられた大きな御夫婦の杉さんがいらっしゃいます。
傍には“天に向って真直ぐに聳え立つごく稀なる根幹が接合した樹齢八百年の大杉 子は夫婦の鎹”と記されており、注連縄で括られた この神聖な杉さんに祈願絵馬を奉納されておられる方もいらっしゃる様子で御座いました。
御夫婦で樹齢8百年……す、素敵で御座います!!!
“樹齢8百年の夫婦杉”といえば、熊野那智 大門坂入口の夫婦杉さんを思い出しますね〜///
この杉さん方は、範頼様や頼家様の修善寺での御姿や最期の時を知っておられるのかもしれません…。
日枝神社
日枝神社は修禅寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。
明治元年(1868年)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。
毎年10月18日、19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には神輿が練り歩き、威勢の良い掛け声が温泉場中に響き渡る。
境内には夫婦杉の大木や、静岡県指定天然記念物の一位樫などがそびえ立っている。
一位樫は九州地方に生育する木で伊豆では珍しい。
また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。
伊豆市
日枝神社畧記
由緒
当社の創建年月不詳と雖も頗る旧社にして寛永十五年戌寅極月の上梁文に神像二体は弘法大師の手刻なりと、又享保十年十二月の上梁文に山王堂宝印と刻せる古き木板は僧空海の真書にして当社の神祇となりと記せり。
征夷大将軍源頼家公蒲冠者三河守範頼卿当地に幽閉せらるるや深く尊崇し、しばしば社頭に参向せられ、社宝社領等の寄進状も有せり。
今上陛下皇孫殿下に在せし折当地に行啓の節数回当社に御歩を進ませ給へり。
又明治四十一年一月東宮殿下同年四月皇后陛下行く啓の砌、畏くも玉歩を當社に遷させ給ひし光栄を有し、其の他幾多の大臣名士の参拝下されしは枚挙に暇あらず、又鎮守地辺りの名を神戸と称する等を以って考察する時、其の由緒最も遼遠なり。
然し征夷大将軍源頼家公しばしばの参向せられて桂谷の紅葉を賞で禰宜に紅の姓を賜へり。
沿革社歴に依れば当社往古頗る大社にして社殿宏壮境内幽不邃なりしが、時運均しからず。
間間悲哀ありしは免れざりし事にして中古より浮屠氏の間する所区なり、山王権現と称し当修善寺に於て伽藍神の如く為せるも明治維新後今の社号に改め、明治六年一位郷社に列せらる。
日枝神社社務所

御社殿の右奥には、静岡県の指定天然記念物に指定されている一位樫さんもいらっしゃいます。
一位樫は雌雄同株のブナ科植物で、樫類の中でも特に大きく育つそうで、材木としても良質である事から“一位”の樫と名付けられたともいわれております。
樫の木は、厳樫。
神聖な植物で御座いますので、関西以西の神社等では御神木として見掛ける事も珍しく無いように思います。
関東では滅多に見掛けませんので、珍しい事で御座いますね。
日枝神社のイチイカシ
静岡県指定天然記念物(ブナ科)
昭和32年5月13日指定 文化財指定
根回り5.5m、目通り4.5m、樹高25mの大木、一位樫は九州地方に生育する木で、伊豆には珍しい。
日枝神社は修禅寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立といわれる。
明治初年(一八六八)の神仏混淆廃止令(神仏分離令)により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社であった。
境内には杉の大木、欅、槙等が亭々とそびえ立っている。
伊豆市教育委員会

境内で写真を撮っておりましたら、社務所から出ていらっしゃった方が 大変御親切に色々と教えて下さいまして、更に 御社殿前や夫婦杉さんの前で記念撮影までして下さいましたー///
私は大抵1人で行動しておりますので、御声を掛けていただけるのが凄く凄く嬉しくて、浮かれ上がってしまいました(笑)
慣れぬ土地であれば尚の事、矢張り その土地の方と御話が出来ますと、地域的な情報を得られる事も多いですし、何より 土地柄を通した御人柄…のようなものを感じられる気が致しまして…。
物騒な世の中で、このような余所者に対しても自然と優しく嬉して下さる方と出逢えた事に心から感謝出来る事が また嬉しいので御座います。
日枝神社に流れる時間は、修善寺の中でも 特に和やかなものであったように感じました。



