
現在、JR大津駅のある場所には、かつて秋岸寺という御寺さんが御座いました。
この御寺さんの境内にあったという竹薮は、木曽義仲様の愛妾であったと伝えられる山吹御前終焉の地といわれております。
元暦元年1月(1184年3月)、義仲様が粟津原の戦いにて敗死された頃の事。
義仲様を慕って、京より逢坂山を越えて追いかけてきた山吹様で御座いましたが、義仲様と再び見える事叶わず……秋岸寺境内の竹薮の中にて敵刃にかかり、御亡くなりになられたと伝わります。
その後、山吹様の悲運を哀れんだ付近の方々は、その菩提を弔う為 秋岸寺境内に御地蔵様を立てて御祀りされたそうで御座います。
然し、大正13年 鉄道開通に際して、秋岸寺は移転。
地蔵尊はこの場所に取り残されてしまわれましたが、鉄道宿舎内にて、鉄道関係者の妻達によって大切に護られて来られ、昭和50年の駅舎改築の際に現在の場所――大津駅西側に立派な祠を建てて御祀りされるようになったそうで御座います。
誰とも無く、この御地蔵様を“山吹地蔵”と呼ぶようになったと現在も伝えられ、大切に大切にされていらっしゃいます。
人通りの多い駅前に、どこか隠れるような感じで佇んでいるようにも思えますけれど、実際に御傍に寄ってみますと 隠れているのでは無く、溶け込むように行き交う人々を見守っていらっしゃるように感じました。
秋岸寺には、山吹様供養塚、句碑もあったそうで御座います。
供養塚は、昨日の記事に記しました 義仲寺の山吹御前供養塚の事で御座います。
同じ大津市内の義仲寺へ移されたという事で御座いますが、ようやっと山吹様の御霊が義仲様の御傍へ参る事が出来たという事でも御座いますね。
山吹様にとっては、それが何よりの御供養であったかもしれません。
句碑は、現在 山吹地蔵さんの前に 由緒書と並んで建てられております。

□ 山吹地蔵(やまぶきじぞう) □
所在地:滋賀県大津市春日町
祠の中には、12体の石地蔵様が安置されているようで御座いました。
こちらには、毎日のようにどなたかが綺麗な御花を供えて 御地蔵様の御世話をなさっていると御聞き致します。
御地蔵様って、神社に御祀りされる神様や御寺さんの御本尊様よりも身近に感じられる存在で御座いますよね。
私達が歩いているのと同じ道の上で、いつでも同じように生活を見守って下さっている…そんな姿に、とても親しみを覚えます。
私は、何処ででも御地蔵様を見掛けると「こんにちは〜」等と気軽に御挨拶をするようにしているので御座いますが、そんな通り掛かりの私にも優しい御地蔵様は結構多いなぁと思う事は多々御座います。
……っていう御話をすると、非常に難解な人物のように扱われる事があるのですけれど、思い込みでも良いと思うんですよね…。
道の神様、塞の神であれば尚更ですけれど、誰だって自分が護っている領域に見知らぬ土地の者が当然のような顔をして踏み込んで来れば警戒しますし、矢張り無礼者だと思うのでは無いかしら…と…私は思うのです。。
山吹地蔵
大正十年八月大津駅がここに建設させるまで この地一帯は秋岸寺という古いお寺でありました。
その昔木曽義仲が粟津が原で鎌倉軍勢と戦って敗れ、今井兼平等多数の部下とともに戦死した時、愛妾山吹御前は京洛から義仲を慕ってはるばる逢坂山を越えてここまで来ましたが、逢うことができず秋岸寺境内の竹薮の中で敵刃に倒れたのであります。
後世有志が薄幸の山吹を弔うために境内に地蔵尊を刻んでお祀りしていましたが駅の新設と同時に寺は移転し地蔵尊は鉄道宿舎の主婦達の手によって祀られてきたのであります。
昭和五十年駅舎改築を機にりっぱな祠を建ててここに祀ることになり、誰いうことなく山吹地蔵と呼ばれております。
大都駅長 大津市観光物産課

こちらが、秋岸寺さんの時分より あったという句碑で御座いますね。
“木曽どのを したひ山吹 ちりにけり”
□ 山吹(やまぶき) □
生年:不詳
没年:元暦元(1184)年頃?
山吹様に関しては、史実上の人物であったという確証的な証拠は何も残っておりません。
平家物語にも、諸本によって 山吹様の御名前すら伺えないものも御座います。
木曾殿は信濃より、ともゑ、山吹とて、二人の便女を具せられたり。
山吹はいたはりあて、都にとどまりぬ。 (高野本による)
分かっている事は、義仲様が巴様と共に 木曽より連れて来られた女人であるという事。
それから、病の為に京に残されたという事。
……それだけで御座います。
義高様の母御前様であったのでは、と仰る方もいらっしゃいますが、確かな事は何も伝えられておりません。
大河「義経」には巴様しか女武者は出て参りませんでしたが、木曽殿の傍で戦われる山吹様の御姿を描かれた作品というのも たまに御見掛け致します。
病気がちであったと伝えられるところもあるようで御座いますが、共に木曽より戦場を駆けて来られた女性なのだとすれば、病気というのは流行り病か何かだったのやもしれませんね。
病が治ったから追いかけたのか、病の床から這い出してでも御傍へ戻りたかったのか……どちらにせよ、恋に焦がれる都の姫君様よりも ずっと抱く愛に比例した根性を秘めた御人だったので御座いましょう。
私は、山吹様を儚い御方だとは思っておりません。

山吹地蔵の由来
粟津の合戦で敗死した木曽義仲が都から大津へと落ちて行くとき、義仲を慕って追ってきた妻の山吹は、この付近にあった秋岸寺境内の薮の中で敵刃にたおれた。
そこに句碑と供養塚がたっていたが、昭和50年(1975)大津駅の新駅舎完成のころ、供養塚は義仲寺に移され、句碑は山吹の霊を弔う地蔵とともに駅舎西側の現在地に移築され、だれ言うこともなく山吹地蔵と呼ばれるようになった。
↑こちらは、駅前に御座います周辺地図案内板なのですが、こんなところにも 山吹地蔵さんについての説明が記されている事には感動致しました!
…でも、地図には 山吹地蔵さんの所在地は明記されておりません〜(苦笑)
実は こちらへ伺った日は 逢坂の関を巡っておりまして。
大津駅に辿り着いた際、山吹地蔵さんの事を私はすっかり忘れてしまっておりました…ご、ごめんなさい;
私は案内板的なものには何となく近付いてしまう性質で御座いますので、この地図にも考え無しに近付いてみたのですけれど、御陰様でハッと思い出しまして……うっかり見過ごすところで御座いましたので助かりました。
あぁぁ…有り難い事で御座います〜///

滋賀県大津市 義仲寺――古くは、粟津ヶ原と呼ばれたこの地に、木曾義仲様と その縁者の方々が靜かに眠られております。
元暦元年1月20日(1184年3月4日)に31歳の御生涯を終えられた義仲様は ここに葬られ、その後 尼僧となられた巴様が傍に庵を結ばれた事に起源すると伝えられております。
□ 義仲寺(ぎちゅうじ) □
所在地:滋賀県大津市馬場
山 号:朝日山
宗 派:真言宗→天台宗、単一宗教法人
開 山:天文22(1553)年
御開基:近江源氏22代佐々木義実
御本尊:聖観音菩薩
別 称:無名庵、巴寺、木曾塚、木曾寺、義仲寺(※よしなかでら)
義仲寺は、JR膳所駅、京阪電鉄膳所駅から5分程の距離に御座います。
当初、“無名庵”と称された小さな塚で御座いましたが、時代が下ると共に次第と荒廃し、それを嘆いた時の近江国守 佐々木氏が再建、寺領を進めたといわれます。
義仲寺といえば、義仲様…と、芭蕉さんで御座いますね。
江戸時代には、松尾芭蕉様が度々訪れたといわれ、大阪で亡くなられた後に遺言に従って 義仲様の御隣に御墓を立てられました。
単立寺院となったのは昭和40年の事。
寺域を整備し、御堂等を改築されております。
境内には多くの句碑が立てられており、今も昔も俳諧を親しまれる方々の参拝が絶えないそうで御座います。
現在は、全境内が文部省の史跡に指定されており、広い敷地では御座いませんけれど 非常に見応えのある御寺さんで御座います。
文部省指定史跡 義仲寺
源家大将軍木曾義仲公御墓所
俳聖松尾芭蕉翁御墓所
義仲寺は、源平合戦のころ、この地で討ち死にされた木曽義仲公の菩提を弔うために、義仲公の愛妾巴御前が、公の墓のそばに結んだ草庵をはじめとする。
俳聖松尾芭蕉翁は、しばしば当寺を訪れ、巴御前ゆかりの名称によって無名庵を営み、滞留長く、その間、俳諧名士の往来またひんぱんであった。
翁は大坂で客死されたが、遺言により、遺骸を義仲公の墳墓の傍に葬る。
無名庵は、翁の高弟丈艸居士が後をついだ。
わが国俳諧第一の聖地である。
翁の没後百年のころ、蝶夢法師は、当寺を修復し、翁の百回忌をつとめ、粟津文庫を創建、また、「芭蕉翁絵詞伝」「芭蕉門古人真蹟」を奉納した。
現在、義仲寺境内は、文部省より国の史跡に指定されている。
当寺は戦国のころ、近江国守佐々木候が復興し、芭蕉翁の無名庵以後は、代々の風雅人、俳諧者の寄進報賽によって維持されてきたのである。
無名庵における作(元禄四年)
木曽の情雪や生えぬく春の草 芭蕉 (拝観券裏面記載内容)
義仲寺略誌
当、義仲寺の地は、その昔は粟津原といはれ、寿永三年一月二十日、征夷大将軍木曾義仲公はこヽで討死せられた。
その後、年を経て、一人の尼が来り、公の・に侍して、供養ねんごろになるによつて、里人いぶかしみ、その有縁を問ふに、「みづからは名も無き女性」と答へるのみだつたが、この尼こそ巴御前の後身にて、これが往昔当寺を、巴寺と呼び、また無名庵の名の出た由緒である。
戦国の世に至って、近江の国守佐々木侯は、木曾公墓を護持するため当寺を修復された。
其頃の義仲寺の景観は、湖水を前にし、現在の龍岡あたりに及ぶ山地を後にし、境内極めて廣大であつたと云はれる。
元禄の俳聖松尾芭蕉は、木曾公の心情に同情し、慕って無名庵に来り滞在されること多く、大阪の宿で死去される時、意外は近江義仲寺なる義仲公の御墓の傍に埋めよと遺言され、現在、義仲公の墳に並んで、芭蕉翁の墓が建つてある。
無名庵は芭蕉翁の没後、その高弟藤丈艸が庵主となつた。
代々の俳人によつて、我国俳諧道第一の聖蹟とされてきたのである。
天明の頃の俳僧蝶夢は、芭蕉翁を深く敬慕し、蕉門の俳風を顕揚した、芭蕉翁の二つの重き遺蹟として、無名庵と嵯峨の落柿舎の復旧に努めた。
義仲寺無名庵は、国史上有数の名所として、昭和四十二年十一月二十日、境内地全部が、文化財保護法によつて、文部省より史蹟と指定された。
現在寺内には、朝日堂、無名庵、翁堂、粟津文庫が建ち、義仲公墓、芭蕉翁墓、巴塚があり、翁の句碑を始め碑文が多い。
粟津文庫は蝶夢法師の開堂になり、俳諧の古書籍書畫を所蔵する。
今も新著の俳書等を奉納する例がある。
名高い巴地蔵尊は、山門前右側の堂内に安置され、古より信仰厚く親しまれてゐる。
「大津市指定史跡」なる龍岡俳人墓地には、丈艸以下代々の無名庵主の墓石が並んでゐる。
本寺は、古から「よしなかでら」とも呼ばれ、現在は天台宗なれど、宗教法人上の単立寺院である。

山吹様の塚は、境内入り口に程近い場所に御座います。
元々はJR大津駅前にあったものを、昭和48年12月に移されてきたそうで御座います。
山吹供養塚
山吹は義仲の妻そして妾とも云う
病身のため京に在ったが義仲に逢わんと大津まで来た
義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われる
その供養塚である
元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである

こちらが、巴様の塚で御座います。
画像右側は、三浦義一翁の歌碑。
“巴”と刻まれる歌碑は2カ所に御座います。
“かくのごとき をみなのありと かつてまた おもひしことは われになかりき”
“としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みづうみのうへを わたりゆく月”
巴塚(供養塔)
木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが 義仲が強いての言葉に最期の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた
和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという
それより何処ともなく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う

巴様塚右隣には、義仲様御墓である宝篋印塔が御座います。
芭蕉さんは、義仲様の御墓を 木曾塚と呼ばれていたようで御座います。

義仲公墓(木曽塚)
土壇の上に宝篋印塔をすえる。
芭蕉翁は木曽塚ととなえた。
義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年1月の第3日曜日に営む。
燧山(元禄2年)
義仲の寝覚めの山か月恋し 芭蕉
無名庵にての作(元禄4年)
木曽の情雪や生ぬく春の草 芭蕉

木曾殿と背中合わせの寒さかな…という事で、背中合わせでは御座いませんが、義仲様の御隣には松尾芭蕉様の御墓が並べられていらっしゃいます。

芭蕉翁墓
芭蕉翁は元禄七年(一六九四)十月十二日午後四時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。
享年五十一歳。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。
十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。
門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。
其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸の筆といわれる。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の季節に合わせて、毎年十一月の第二土曜日に営む。

景観の良い境内には、溶け込むように数多くの句碑が点在しており、それらひとつひとつを探し巡りながら読み進んで参りますと、とても穏やかな心持ちになる事が出来ます。
義仲寺境内
義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところから来ていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
門を入ると、左奥に俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。
また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和四二(一九六七)年十一月に国指定の史跡となりました。
平成四(一九九二)年三月 大津市教育委員会

義仲寺には、境内社として木曽八幡社が御祀りされております。
八幡様は源氏に縁ある神様で御座います故、いつの頃か勧請されて来られたので御座いましょう。
木曽八幡社
木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。
昭和五十一年(一九七六)社殿鳥居を併せ新造、十一月十三日夜、遷宮の御儀を行った。

朝日堂は、義仲寺の御本堂で御座います。
朝日堂の“朝日”は、勿論“朝日将軍”に由来するもので御座います。
御本尊、木彫聖観世音菩薩が安置されており、また 義仲様、義高様の木像が厨子に納められているそうで御座います。
義高様も御一緒に御供養されているのだなぁと思うと、胸が熱くなってしまいます。
こちらには義仲様、今井兼平様、芭蕉様 等、31の位牌も安置されております。
現在の朝日堂は、昭和54年11月改築されたものという事で新しいものでは御座いますが、とても趣のある御堂で御座いました。

翁堂は、芭蕉さんの座像を安置した小さな庵で御座います。
手前に掛かる石橋や、傍に立つ石灯籠等、まるで中を覗けば 作句に勤しむ芭蕉さんの後ろ姿でも伺えてしまうのでは無いかしらと錯覚してしまう程に、何ともいえない佇まいを守っていらっしゃいます。
翁堂
正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。
天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図である。
翁堂は蝶夢法師が明和六年(一七九六)十月に再興。
翌七年に画像完成。
安政三年(一八五六)類焼、同五年再建。
現在の画像は明治二十一年(一八八八)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和6年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。

拝観受付の直ぐ横に御座います史料館には、芭蕉さん関連の墨書や掛軸、芭蕉さんが愛用されたと伝えられる椿の杖や蝶夢の絵巻「芭蕉翁絵詞伝」の複製 等が展示されており、小さくも深い史料室となっております。

巴地蔵様は、義仲寺を外から見て山門右手の御堂の中にいらっしゃいます。
石彫の御地蔵様で、古くから信仰されてきたそうで御座います。
私が訪れた際にも、地元の方々がいらっしゃいまして、御花を御供えになっておられました。
巴地蔵様は とても優しい御顔立ちで、暖かく土地を見守っていらっしゃるようで御座います。

* * * * * * * *
※タイトルは、露城様の句で御座います。
義仲寺境内には句碑も御座います。
この記事を書きながら、大河「義経」のDVDを堪能しておりました。
丁度、観ていたのが義仲様挙兵〜討死辺りの巻で御座いまして……義仲様の死報を受けた義高様と共に私もさめざめと泣いてしまいました…。
昨日は昨日で、清盛様御逝去の回を観て 酷く号泣してしまい、喪失感に耐え切れず そのまま布団に駆け込んでしまったり…と、久々に大河三昧な日々を送っておりまする(笑)

鏡神社より 近江八幡市方面に国道を進んで参りますと、数分と経たぬ程の場所に、源義経様宿泊の館“白木屋跡”と伝わる場所が御座います。
事前に私が仕入れていた情報に因れば、こちらは田畑であるという事だったので御座いますが、現在は空地となってしまっているようで御座いました。
それでも、この場所で義経様が横になられたのかしらと思うと、ついウキウキしてしまう私で御座います。。
承安4年3月3日(1174年4月13日)、鞍馬を降り 京を抜けられた遮那王様御一行がこの地にて宿泊されたといわれるのが、時の宿駅長者であった沢弥伝の白木屋。
少し前までは藁葺屋根の家屋が残されていたようなので御座いますが、台風によって倒壊してしまったそうで、現在は石碑が立つのみとなっております。
昭和30年の頃までは、義経様に肖った“とがらい祭り”の斎場として使われていたそうで御座います。
とがらい祭りは、里の男児を主役に年長者が中心となって執り行う行事のようで御座いますが、悪戯OKな感じが 何となくハロウィンのようで…楽しそうで御座いますね!
現在は、鏡神社にて斎行されているそうで御座います。
とがらい祭り(義経まつり)
十二月の二の午の日は夕刻より源義経主従の御霊を招き火焚きの神事を行う「とがらい祭り」がある。
かつては澤弥伝屋敷の「白木屋」で神事を行っていたが、澤家の屋敷が朽ちてからは鏡神社の社務所で執り行われる。
この祭りは小学生までの男児が主役となり、老中が中心となって祭りの準備をすすめる。
子供たちは太鼓と鉦を打ち鳴らし「とがらい まがらい まがあったら とがらい」と囃しながら集落を廻る。
義経公にあやかり、子供たちが勇気のある立派な成人に成長する願いを始め、鏡の里の繁栄を祈念する神事で、鏡特有の義経祭りである。
因みに当日は子供たちのいたずらが、多めに見てもらえる楽しい一日でもある。
(鏡神社由緒書による)

以下、碑文で御座います。
義経宿泊の館
沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた
牛若丸はこの白木屋に投宿した
義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保管してゐる
西隣は所謂本陣で元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔である
その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である
鏡景勝会建立

こちらは歩道の狭い国道沿いにあるので御座いますが、何となく遠目に見ても近目に見ても寂しい感じが否めませんでした;
史跡に興味の無い方から見れば、ただの荒れかけた空地に見えてしまうかもしれない感じが…少し悲しいところで御座います。。
かなり傾いたり倒れかけたりしておりますが、この白旗と 大きな石碑が無ければ、今は何の面影も見られない感じが、移りゆく時の無常さをあらわしているようでも御座います。
***

↑鏡神社境内に設置されていた 鏡の里の観光案内図で御座います。
矢張り、平宗盛様の胴塚は管轄外のようで御座いますね(苦笑)
適当に赤い丸を付けてしまいましたけれど、上から 義経様元服池→鏡神社、烏帽子掛け松→義経様宿泊の地(白木屋跡) で御座います。
全て国道8号線沿いに御座いまして、国道を挟んだ元服池向かい側辺りに道の駅“かがみの里”が御座います。

こちらは、竜王町内に掲示されておりました“鏡の里元服式”の告知(…終わっておりましたが;)ポスター。
今年は3月4日(日)に執り行われたようで御座います。
その月の2日〜4日には、かがみの里にて“義経元服まつり”も開催されたようで御座いまして、元服式には義経様や静様に扮された若い男女の方々が多数参加されたようで御座います。
元服式の詳細は、竜王かがみの里公式サイト様にて伺う事が出来るのですが、女の子にも加冠…?元服??をされているようで…独特で御座いますね(笑)
* * * * * * * *
大河ドラマ「義経」では、鏡の里元服説は使われておりませんでしたけれど、こちらの御紹介は御座いましたね!
大河といえば……最近ついに「義経」完全版のDVD-BOX(上下巻)を大人買いしてしまった私で御座いますが(←よく今まで我慢していたなぁとは思います/笑)、矢張り素敵な作品で御座います〜。
万人が抱いているであろう麗しき悲劇の英雄 義経様像や平安末期の世界観を決して壊す事無く、さり気無く面白い解釈が加えられ…これ程に裏切られないドラマは久々だ!!と 何度観ても感無量で御座います(感涙)
何よりビジュアル的に美しかった事が最大の評価ポイントで御座いますね

大河ならではの豪華キャスト…牛若時代の義経様の時分には、平家御一門が本ッ当〜に煌びやかで、心拍数が上がりっ放しで御座いました///
源氏側では、矢張り大姫様と義高様が……この御2人好きと致しましては結構簡略的な描かれ方にも感じられましたが、義経様の生涯を主とされる作品の中で あれだけ幼き姫様と若様について取り上げられるとは思っておりませんでしたので、胸に込み上げるものが強かったです。
※滋賀県の史跡が続いておりますが、折角の機会で御座いますので もう少し記しておこうかなと思っております(滋賀県史跡強化期間…?)
明日は義高様の御父上 木曾義仲様の御墓が御座います 義仲寺について。

記紀に記される神々を御祀りする竜王町の古社、鏡神社は道の駅“かがみの里”、義経様元服の池より3分程の距離に御座います。
この土地の“鏡“という地名は、こちらに納められた日鏡から付けられたといわれます。
こちらの神社は、承安4年3月3日(1174年4月13日) 源義経様が元服の折に参拝なされたと伝えられ、その際に烏帽子を掛けたといわれる松の幹、水鏡に使用したという盥の底板が残されております。
義経様がこちらの神社で源氏再興と武運長久を祈願されたのは、こちらの御祭神が 源氏の祖である新羅大明神=天日槍である事に因るといわれます。

こちらが、義経様が枝に烏帽子を掛けられたと伝わる松の木の幹で御座います。
明治6年の台風で倒れてしまったそうで、現在は幹の部分のみが石垣の上に安置され、仮屋根を設けられた状態で保存されております。
源義経 烏帽子掛けの松
承安四年三月三日鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願したのであった
明治六年十月三日台風により破損したため幹の部分を残して保存し後世に伝えるものなり
鏡神社
謡曲「烏帽子折」と鏡神社
謡曲「烏帽子折」は、鞍馬山を脱出して奥州に向かった牛若丸が、その途次での元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物である。
この鏡神社は、平家のきびしい追手をのがれるため東男に変装し、俄に左折りの烏帽子を作らせて、自らを源九郎義経と名乗って元服したところと伝えられている。
即ち、謡曲「烏帽子折」の前半の場面の舞台となった所である。
此の地を出立の後、赤坂の宿で熊坂長範に襲われるが、これを退治して奥州へ下った勇壮な謡いが後半の場面となっている。
この二つの全く異った二つの場面は、牛若丸の守刀「こんねんどう」によってつながりを見せている曲なのである。
謡曲史跡保存会
また、神社石段手前には“弁慶の筵石”なる平石があるのだそうで御座います…が、私は発見出来ず(苦笑)
義経様の御名前は良く御見かけ致しましたが、なかなか弁慶様については触れられていなかった為、鏡の里の伝承には弁慶様は遮那王様御同行に非ず…?と疑問に思ったりもしておりましたが、伝承とはいえ 矢張り義経様の傍に弁慶様有りで御座いますね〜。

□ 鏡神社(かがみじんじゃ) □
所在地:滋賀県蒲生郡竜王町
御創建:不詳
御祭神:天日槍尊、天津彦根命、天目一箇神
その他、境内社として若王子神社(御祭神:天津日高日子邇邇芸命)、雨宮神社(御祭神:罔象女命、竜王山近江貴船大神別霊、北野天満宮別霊菅原道真公)、守山神社(御祭神:大国主命)、大島神社(御祭神:大海津見命、金比羅大権現)、末社として八幡神社(御祭神:応神天皇、鵺義経公)、そして境外社には、龍王宮=貴船神社(御祭神:八代竜王摩耶斯龍神)が御座います。
鏡神社 由緒
当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅国の王子にして垂仁天皇三年の御世(BC三一)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。
天日槍は持ち来たる神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。
鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。
延喜の御世には大嘗会に鏡餅を勧請した火鑕の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として百五十余首詠まれ、宮廷巫女の歌人額田王や鏡王女にも所縁の地である。
現社殿は室町時代に再建された三間社流れ造りにして屋根は「こけら葺き」の貴重な建築様式は国の重要文化財である。
承安四年(一一七四)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊まり境内宮山の岩清水を盥に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。
鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した武将元服の地である。
以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。
義経公を偲ぶ「とがらい祭り」は十一月の二の午夕刻に男児を主役に斎行される。
大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり鏡神社宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。
以後宮山を御幸山と称し、自然公園として管理される。
飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を祭り七月十日を例祭とする。

御本殿前には、素敵な絵馬が幾つか掛けられておりました。
土地に因んだ絵柄、元服したての若武者な義経様がとても魅力的で御座いますね。
重要文化財 明治三十四年八月二日指定
鏡神社本殿 鏡神社
三間社流造の庇に建具を設けて前室とし、さらに向拝をつける形式は滋賀県に中世の遺構が多く、古式流造が一層優美に発達したものである。
即ち、向拝の柱間を三間に構え、階段を三間通しとしたものは県下に現在例が少ない。
また、屋根は杮葺で、母屋の正面三間及び両側面の前の間を幣軸板扉構とし、前室の正面は格子戸引違い、側面は板戸引違いになっているが、ここに花挟間格子戸を建てる例が少なくない。
妻飾は、虹梁上に豕扠首を組み、組物は円柱上に舟肘木、前室及び向拝は出三斗組、中備に彫刻入りの蟇股を入れ、室町時代特有の彫刻手挾を用いるなど、正面の装飾は豊富である。
建立年次の記録がないが、蟇股は、湖東町の春日大社本殿(文安元年=一四四四年)、泰荘町の大行社本殿(文安四年)によく似ており、ほぼ同時代の建立と考えられる。
平成四年一月 竜王町教育委員会
重要文化財 鏡神社本殿
明治三十四年八月二日指定
神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命を祀る。
現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県に遺構の多い前室付三間社本殿。
蟇股を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。
重要文化財 鏡神社法篋印塔
昭和三十五年二月九日指定
法篋印塔は、この境内より西南方約五百メートルの山裾、西光寺址といわれる林の中に建っている。
鎌倉時代中期に建てられたもので、軸石の四隅に鳥居を造りだした形態の優れた作品である。
重要文化財 石燈籠
昭和三十七年六月二十一日指定
応永廿八年<辛丑>八月八日(一四二一)の銘がある。
昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会

こちらは、境内社 八幡神社。
社務所近くの御幸山の登り口に御座います小さな御社で、こちらに応神天皇と共に義経様の御霊が合祀されております。
応神天皇=兵法に優れ、学術技芸で国を栄えさせた長寿天皇=誉田別尊という事で、義経様がこちらに合祀されたものといわれております。
御社は京の鞍馬山の方角に向けられているそうで御座いまして、義経様を偲ぶ土地の方々の御心が伝わってくるようで御座います。
境内社 八幡神社
主祭神 誉田別尊(応神天皇) 合祀神 源義経公
主神は武勇の神として信仰篤く源義家始め源氏の崇敬する神で、源義経公と合い通じて後に合祀されているが、この社は西を向き御鎮座されているのは源義経公の幼少時鞍馬を忍ぶ所以でもある。

鏡神社と武将
承安四年(一一七四)名を遮那王と称した源氏の牛若丸は京都鞍馬から奥州へ向かう途中、この鏡の宿「白木屋」に泊まり、烏帽子屋五郎太夫に左折烏帽子をあつらえて元服をする。
時に十六歳、鏡池の清水を盥に汲み取り前髪を落とし元服した遮那王は鏡神社へ参拝し「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した。
岩清水の元服池を始め神社の参道には参拝時に烏帽子を枝に掛けたとされる烏帽子掛けの松が幹の部分だけになっているが古木として残されている。
遮那王投宿の白木屋の主は鏡の長者「澤弥松」と呼ばれていたが昭和五年家系が絶えたため屋敷は現存しないが石碑が建てられている。
この宿で元服に使われた「盥の底板」は代々家宝として残されてきたが正統が絶えた後は鏡神社の社宝として保存している。
たらいの底板を納めた箱の内側には、次のように記載されている。
「是源判官冠礼所用之沐板也四囲皆脱唯存底板為鏡驛澤氏之所蔵澤氏世称弥伝旧駅長判官赴奥時投之加元服五郎太夫者進烏帽子云今猶有掛唱松及五郎太夫之宅地焉頃者郡守田中胤信為製中箱襲之夫古物難観況名将吉礼之余乎宣永世珍蔵之」 文久□□□年昇■君平
盥の底板が一部欠けているのは戦のつど、出兵の地元民が義経の武勇にあやかろうと削り取り、お守りに持って行ったため半月状になっている。

鏡神社には、発展、技術向上、武術、学業、開運、繁栄の御利益があるといわれます。
義経様が、こちらで描かれた未来図はどのような御姿だったので御座いましょうか。

竜王町に伝わる、源義経様の史跡。
道の駅“かがみの里”から国道8号線を挟んだ向かい側には、牛若様が元服の際に使われたといわれる小さな池が御座います。

この池の水源は 浦山の湧水で、古来より地元の方々や旅人の喉を潤されてきたそうで御座います。
現在は道路脇で御座いますので、流石に飲用としては使用できませんが、水道が引かれる以前までは周辺住民の貴重な飲料水であったといいます。
遮那王様が鞍馬寺を抜け出し、藤原秀衡様を頼って都を下られたといわれるのが、承安4年3月3日(1174年4月13日)の事。
於鞍馬寺相語東國旅人諸陵助重頼、令約諾、承安四年三月三日暁天<于時十六才>窃立出鞍馬山赴東國下著奥州 (新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集による)
新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集=尊卑分脈の記述に因りますと、遮那王様16歳の時 東国の旅人であった陵助重頼様と約束を交わし、3月3日の明け方に鞍馬山を出立して関東へ…その後に奥州へと向かわれたという事で御座います。
鏡の宿に伝わる伝承では、鞍馬を抜けられた遮那王様は、兄 頼朝様を尋ねる為に 金売吉次と陵助頼重様を同伴して京を出、東国へと向かう途中に近江の この宿に入られたといいます。
平家全盛期の世で御座います故、稚児姿では目立って道中に危険が伴うとされ、この地での元服を決意されたそうで御座います。
この地で烏帽子屋を営む五郎大夫に、源氏の左折れ烏帽子を作らせたそうで、能の演目に御座います“烏帽子折”は、これに基づいているので御座いましょう。
遮那王様は、鏡池の石清水にその姿を映しながら、前髪を落とされ元服されたと伝えられます。
元服の池は、鏡池…遮那王様が元服され、義経様となられた姿を最初に映された水鏡の池なので御座いますね。
大人へと変わる大切な儀式を行う遮那王様を見詰めるのは、矢張り 水に映る御自身の御姿で……。
本来であれば、もっと周囲から祝福を受けて晴々しく元服式を行われるべき御曹司であった筈ですが、世が世であるが為に それも叶わず…。
遮那王様は 御父上、御母上の御記憶をどれ程 鮮明に御持ちであったというので御座いましょう。
こんな芽出度い日だけでも、御両親の顔を思い浮かべるだけの御記憶があったなら…そう思えてなりません。
幼くして鞍馬へと送られ、そこで過ごした稚児としての日々こそが、遮那王様の全てでは無かったので御座いましょうか。
突然に告げられた、源氏の遺児であるという事実――平家全盛の時代に、平家の隠し子といわれるのならばまだしも、よりによって源氏の生き残りであるという出生。
それを聞かされて、誰が素直に信じられるかしらと思います。
もしも、私が遮那王様であったとして、寺での生活を捨て 源氏再興への道を進む決意を抱くのだとすれば、それは自分の存在意義を見出す為で御座いましょう。
何の為に生まれ、何の為に生きているのか…その答えをくれる者がいないのであれば、自身の手で求める他に手段は無いと思うのです。
私のような者が遮那王様の御気持ちを解せるような気がする等といえる立場では決して御座いませんが、寺に残ったとしても高僧にはなれぬ身と知ってしまったら、例え困難が待ち構えていようとも外へ出たいと……私ならば考えるだろうなぁと…。。
価値観は違えど、誰だって幸せになる為に 道を進むのだと思うのです。

以下、池の傍に建てられた石碑の碑文で御座います。
義経元服池
父は尾張の露と消え 母は平家に捕へうれ
兄は伊豆に流されて おのれ一人は鞍馬山
と歌はれし不遇の児 牛若丸は遮那王と称して鞍馬山に仏道修行していたが 十一歳の時母の訓戒により祖先の系図に感じ平家を滅ぼし父の遺志を達せんと堅い決意を抱いた
それより後は昼は書を読み文を習ひ夜は僧正谷にて一心に武術に励み 時の来るのを待っていた
京都の天満宮に日参して源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であつた
時に奥州と京都を往返する金売商人吉次に語ひ承安四年三月三日の暁(昭和四十一年より七百九十二年前)住み慣れた鞍馬山に別れを告げ機を見て兄頼朝に謁せんと 憂き旅の東下りの途につき吉次 下総の深栖陵助頼重等と共にその夜鏡の宿につき 吉次の常宿白木屋に投宿することになつた
牛若丸つらつら考へるに道中安全を期するには元服し東男に粧ふに若くはないと 吉次 陵助と語り元服に際して烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして烏帽子を進めた
其の夜この池の清浄水を汲み取り 前髪を落飾し源九郎義経と名乗つた
時に年十六歳 これが元服池の由来である
かくて烏帽子を戴き源氏の武運長久を鏡神社に祈つた 当地こそ武人としての義経出生の地である
鏡景勝会建立


