日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

引く弓の、加減を心の軸として。
景時様

□ 梶原景時(かじわらのかげとき)

生  年:保延6(1140)年?
没年月日:正治2年1月20日(1200年2月6日)
  父  :梶原景清
  母  :横山孝兼女
兄  弟:朝景、友景、景道
  妻  :横山孝兼三女、狩野尼
  子  :景季、景高、景茂、景国、景義、景宗、景則、景連、女(武藤資頼妻)
戒  名:龍泉院梶勝源公
通  称:平三


梶原景時様といえば、鎌倉幕府の有力御家人。
諸説御座いますが、梶原氏は桓武平氏 平良文様の御子孫で、鎌倉党 坂東八平氏に数えられる一族といわれます。
本領は、相模国梶原郷。
元々は源氏に仕える御家系で御座いましたが、平治の乱の後は平家方として存続されておりました。
文武両道に長けた御方として知られておりますが、判官贔屓な近代においては、義経様を悲劇の結末へと導いた張本人として悪者的な扱いをされる事も多いですね…;

治承4(1180)年、源頼朝様が挙兵なさると、景時様は大庭景親様と共に頼朝様の討伐に向かわれました。
石橋山合戦にて頼朝様の軍に勝利され、景時様は山中へと潜まれた頼朝様を探し発見されますが、ここで頼朝様の事を見逃されております。

大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。
佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。
景時哀に見奉りて、
「暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へ」
と申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。
景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。
佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。
後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。
平三伏木の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、
「此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へ」
とぞ下知しける。
大場見遣て、
「彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べし」
と云ひけるが、
「其も時刻を移すべし、よしよし景親入て捜てみん」
とて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、
「やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺に劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさん」
と宣はば、
「我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は」
と云ければ、大場もさすが不入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からりからりと二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。
深く八幡大菩薩を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はたはたと羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。
 (源平盛衰記による)


この場面は、矢張り源平盛衰記に語られるイメージが強いですね。
景親様が怪しまれる臥木の洞窟に入られた景時様は頼朝様を見付けられますが、その時に自害なさろうとした頼朝様を制止し、貴殿が戦に勝った際には御忘れにならぬようにと告げると、体を張って庇っておられます。
この出逢いが後の運命を大きく変える事を、景時様は本能的に悟られておられたのかもしれません。

鎌倉へと入られた頼朝様は、同年10月(1180年11月)の富士川合戦にて平維盛様率いる平家軍に勝利。
大庭景親様は捕えられた後に処刑されておりますが、2ヵ月後に土肥実平様経由で降伏した影時様は、養和元(1181)年のはじめに頼朝様と対面を果たされ、頼朝様の厚い信任を得、鎌倉御家人に列せられる事となりました。
侍所所司に任命された他、鶴岡八幡宮若宮造営や御台所 政子様の出産奉行等、重要な役割を担っておられます。

寿永2年12月(1184年2月)、景時様は頼朝様の命により上総広常様を殺害致します。
後に誤解であった事が判明するようで御座いますが、頼朝様は東国で大きな勢力を有していた広常様が謀反を企てられているという噂に不安を抱かれたので御座いましょうか…景時様は、広常様と双六を楽しんでいた最中、隙をついて御首をとられたので御座いました。

寿永3(1184)年には、御嫡男 景季様と共に宇治川合戦、続いて一ノ谷合戦に参戦。
一ノ谷合戦において、景時様は当初 義経様の侍大将で御座いましたが、義経様とは余り御気が合わなかったようで範頼様率いる大手軍へと変わっておられます。
景時様は、景季様、景高様と、生田口の平知盛様率いる軍勢と交戦されました。
この時、私党の方々が先陣を争って抜駆けをされておりますが、家人が少ない河原兄弟は2人共に死を決して平家陣へと矢を放ち、平家方の真名辺四郎様、五郎様兄弟に討たれ亡くなりました。
これを知った景時様は、それぞれが自分勝手に功名を求めた結果が軍全体にどれだけの損害を与えるのか考えられないのかと、大変御怒りになっておられます。

其時下人ども、
「河原殿おととい、只今城の内へまさきかけて討たれ給ひぬるぞや」
とよばはりければ、梶原是をきき、
「私の党の殿原の不覚でこそ、河原兄弟をばうたせたれ。今は時よくなりぬ。よせよや」
とて、時をどとつくる。
やがてつづひて五万余騎一度に時をぞつくりける。
足がる共にさかも木取のけさせ、梶原五百余騎おめひてかく。
次男平次景高、余にさきをかけんとすすみければ、父の平三使者をたてて、
「後陣の勢のつづかざらんに、さきかけたらん者は、勧賞あるまじき由、大将軍のおほせぞ」
といひければ、平次しばしひかへて
「“もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかは”と申させ給へ」
とて、おめいてかく。
「平次うたすな、つづけやものども、景高うたすな、つづけやものども」
とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。
梶原五百余騎、大勢のなかへかけいり、散々にたたかひ、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、ざとひいてぞ出たりける。
いかがしたりけん、其なかに景季はみえざりけり。
「いかに源太は、郎等ども」
ととひければ、
「ふかいりしてうたれさせ給ひて候ごさめれ」
と申。梶原平三是をきき、
「世にあらんと思ふも子共がため、源太うたせて命いきても何かはせん、かへせや」
とてとてかへす。
梶原大音声をあげて名乗りけるは、
「昔八幡殿、後三年の御たたかひに、出羽国千福金沢の城を攻させ給ひける時、生年十六歳でまさきかけ、弓手の眼を甲の鉢付の板にいつけられながら、当の矢をいて其敵をいおとし、後代に名を
あげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は、景時うて見参に入れよや」
とて、おめいてかく。
新中納言
「梶原は東国にきこえたる兵ぞ。あますな、もらすな、うてや」
とて、大勢のなかに取こめて攻給へば、梶原まづ我身のうへをば知らずして、
「源太はいづくにあるやらん」
とて、数万騎の大勢のなかを、たてさま、よこさま、蛛手、十文字にかけわりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲にたたかいなて、馬をもいさせ、かち立になり、二丈計ありける岸をうしろにあて、敵五人がなかに取籠られ、郎等二人左右に立てて、面もふらず、命も惜しまず、ここを最後とふせきたたかふ。
梶原是を見つけて、
「いまだうたれざりけり」
と、いそぎ馬よりとんでおり、
「景時ここにあり。いかに源太、しぬるとも敵にうしろをみすな」
とて、親子して五人の敵、三人うとり、二人に手おほせ、
「弓矢とりはかくるもひくも折にこそよれ、いざうれ、源太」
とて、かい具してぞ出たりける。
梶原が二度のかけとは是なり。


ここは、景時様に関する御話の中で私がいちばん好きな件で御座います。

合戦が始まると、景時様は御次男の景高様が先駆けをされようとするのを諫める為に使者を送られておりますが、それに対して景高様は

   もののふの とりつたへたる あづさ弓
     ひいては人の かへすものかは


“武士が、先祖代々伝えられてきた梓弓を引いてしまったのです。
 1度引いた弓は、元には戻りません”


と景時様に御歌を伝えられ、再び進んで行かれました。
景時様は、予想外な息子の反応に驚かれた部分もあったので御座いましょう…平次を討たせるな、景高を討たせるなと、景季様、御三男 景家様を従えて駆け出されました。
梶原500騎は本隊から離れてしまいますが、ここで歩を緩める事は武名に関わるとして、そのまま平家の軍勢の中へと突進されていきました。
大軍を有す平家の中で景時様の軍勢は僅か50騎となり、敵陣を退かれたので御座いますが、退陣してみると、景季様の御姿が何処にも見えない事に気が付かれます。
所在を尋ねると、もしや深入りなさって討たれたのかもしれない…等と、ひとりの郎等が発言しました。
景時様も、人の親で御座います。
この世に行き留まろうと思うのも、子供達の為…源太を敵に討たせて、自分の命が助かったとして、一体それが何になろう!引き返す!」
と敵陣に舞い戻り、そこで勢い良く名乗りを上げられました。
「昔、八幡太郎義家殿が後三年合戦で、出羽国千福の金沢城を攻められた時、生年16歳にして先陣を駆け、左眼を射貫かれながらも、その矢を引き抜き相手を射殺したと、後代にまで名を挙げられた鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時、一騎当千の強者である。
 我と思わん者は、この景時を討ち取って、そちらの大将軍の元へ差し出すが良い!」
これを見た知盛様は、梶原は東国に聞こえる強者であるとして、士気を高められました。
激しい戦乱の中、景時様は ようやっと地面で戦う景季様を発見されますが、そんな景季様に死んでも敵に背を向けるような事はするなと励ましておられます。
弓矢を取る者は、進むも引くも機を見て行わねばならぬ。さあ源太、続け!
ここで先程の御歌に対する御返事で御座いますかー!と、思わず余裕なのでは無いかと思わせられるような発言で御座いますが…こういう所も、平家物語の魅力の1つで御座いますね。
ここで景時様は景季様を抱えて馬に飛び乗り、敵陣を突破。
2度も敵陣へ飛び込んだ景時様の事を“梶原の二度駆け”と呼ばれ、誰もが讃えられたといわれます。

合戦後、景時様は播磨、備前、美作、備中、備後の5ヶ国守護を命じられております。
そして一ノ谷で捕虜となった平重衡様を鎌倉へと護送する為に上洛されると、平家の所有していた領地を没収なさいました。

さて…一ノ谷合戦で戦功をあげられた人物として、特に有名なのは義経様で御座いますね。
然し、合戦後の小除目に際して、義経様には任官がなされませんでした。
その後、義経様は頼朝様の許可無く、後白河法皇より従五位下に叙せられ、左衛門少尉、検非違使少尉に任官して、院への昇殿を許されました。
この辺りから、掛け違い始めた釦と釦穴のように、頼朝様と義経様の御関係の雲行きが怪しくなってくるので御座います。

元暦元(1185)年のはじめ、一ノ谷に続いて、屋島合戦を迎えるにあたり、頼朝様は敢えて出陣命令を下していなかった義経様に摂津国にて軍を編成させ、讃岐国屋島に本営を構える平家軍を攻撃する事を定められました。
ここで行われたのが、景時様vs義経様による“逆櫓”の論争で御座いますね。
恐らくは、景時様にまつわる御話の中で最も有名なのでは無いかと…。

渡辺には大名小名よりあひて、
「抑ふないくさの様はいまだ調練せず。いかがあるべき」
と評定す。
梶原申けるは、
「今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候ばや」
判官
「さかろとはなんぞ」
梶原
「馬はかけんと思へば弓手へも馬手へもまはしやすし。舟はきとをしもどすが大事候。ともへに櫓をたてちがへ、わいかぢを入れて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」
と申ければ、判官の給ひけるは、
「いくさといふ物はひとひきもひかじと思ふだにも、あはひあしければひくはつねの習なり。もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門でのあしさよ。さかろをたてうとも、かへさまろをたてうとも、殿原の舟には百ちやう千ぢやうもたて給へ。義経はもとのろで候はん」
との給へば、梶原申けるは、
「よき大将軍と申は、駆くべき処をばかけ、退くべき処をばひいて、身をまたうしてかたきをほろぼすをもてよき大将軍とはする候。かたおもむきなるをば、猪のしし武者とてよきにはせず」
と申せば、判官
「猪のしし鹿のししはしらず、いくさはただひらぜめにせめてかたるぞ心地はよき」
との給へば、侍共梶原におそれてたかくはわらはねども、目ひきはなひきぎぎめきあへり。
判官と梶原とすでに同士いくさあるべしとざざめきあへり。
やうやう日くれ夜に入ければ、判官の給ひけるは、
「舟の修理してあたらしうなたるに、おのおの一種一瓶してゆはひ給へ、殿原」
とて、いとなむ様にて舟に物の具入れ、兵粮米つみ、馬どもたてさせて、
「疾く疾くつかまつれ」
との給ひければ、水手梶取申けるは、
「此風は追手にて候へども、普通にすぎたる風で候。奥はさぞふいて候らん。争か仕候べき」
と申せば、判官おほきにいかての給ひけるは、
「野山のすへにてしに、海河のそこにおぼれてうするも、皆これせんぜのしゆくごう也。海上にいでうかふだる時風こわきとていかがする。むかひ風にわたらんといはばこそひが事ならめ、順風なるが少しすぎたればとて、是程の御大事にいかでわたらじとは申ぞ。舟つかまつらずは、一々にしやつばら射ころせ」
と下知せらる。
奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、伊勢三郎義盛、片手矢はげ、すすみ出て、
「何条子細を申ぞ。御ぢやうであるにとくとく仕れ。舟仕らずは一々に射殺さんずるぞ」
といひければ、水手梶取是をきき、
「射殺さんもおなじ事、風こはくは、ただはせじににしねや、物共」
とて、二百余艘の舟のなかに、ただ五艘出でてぞはしりける。
のこりの船は風におそるるか、梶原におづるかして、みなとどまりぬ。
判官の給ひけるは、
「人の出でねばとてとどまるべきにあらず。ただの時はかたきも用心すらむ。かかる大風大浪に、思ひもよらぬ時にをし寄せてこそ、思ふかたきをばうたんずれ」
とぞの給ひける。 (平家物語 高野本による)


景時様は、兵船に逆櫓をつけて進退の自由を優先すべきと提案なさっておられますが、義経様は逃げる準備等いらぬ!という御意見……B型?(笑/すみません;)
逆櫓でろうが返様櫓であろが、貴殿等の船には百挺でも千挺でも付ければ良かろう!義経の船にはいらぬ
……なんて事を言われてしまっても、
良き大将軍というものは、出る所では出、引き際を知り、身を全うして敵を滅ぼすものです。
 そのように、短慮な事ではいけませんよ、それではまるで突き進むことしか知らぬ愚かな猪武者ですぞ

と景時様は、大人な対応…年齢差は、はっきりとはしないものの最低でも20歳位は離れておられたのでは無いかと。。
冷静かつ慎重な御考えで行動なさりたい景時様とは、どうあっても気が合わなかったのかもしれません;
結局、勝てば良いのだし、その方が気持ちが良い!的な御考えの義経様とは相容れる事無く……この件に関しては、結果的には確かに咎められるべき事にはなりませんでしたけれど…大勢の部下を従える大将軍の御言葉としては、危なっかしくて…正直、景時様のアイディア云々よりも、その発言の裏側を、義経様には汲み取って和解して欲しかったなぁー…と思わされる私で御座います。
歴史に“if”は御座いませんけれど、でも たったそれだけで変わった未来も想像出来てしまうのが、恐ろしいところで御座いますね;;

景時様との内乱には至らなかったものの、更に義経様は悪天候にも関わらず、順風であるなら構わぬ!とばかりに強引に出航されてしまいました…。
暴風の中、僅かな数で上陸された義経様は、あっという間に屋島を攻め落とされます。
景時様率いる140余艘の本隊が到着する頃には、既に平家軍は逃げられておりました。
この事から、景時様は五月五日の端午の節句に間に合わなかった菖蒲という意味を込めて“六日の菖蒲”と嘲笑されてしまったといいます。

そして、壇ノ浦での決戦。
平家物語によりますと、この時に景時様は先陣を希望されておりますが、なんと総大将の義経様は自らが先陣に立たれると言われ、総大将が先陣とは何事かと騒動になっております。
合戦は、義経様の御活躍によって源氏の勝利、平家の滅亡という形で終結致しましたが、肝心の三種の神器を完全に取り戻す事は叶いませんでした。

元暦2年4月21日(1185年5月22日) 九州より鎌倉へ、景時様が親類の方を御使いに文書を届けられました。
その手紙の内容は、はじめに合戦の次第について、そして後半は義経様の不義について訴えられる内容で御座いました。

元暦二年四月二十一日
廿一日 甲戌
梶原平三景時飛脚、自鎮西參著。
差進親類献上書状。始申合戰次第、終訴廷尉不義事。
其詞云、西海御合戰間吉瑞多之。
御平安事、兼神明之所示祥也。
所以者、何、先三月廿日、景時郎従、海太成光夢想、浄衣男、捧立文來。是石清水御使、覺、披見之處、平家未日可死載<タリ。>覺之後、彼男相語、仍未日、搆<テ、>可決勝負之由、存思之處、果而如旨。
又攻落屋嶋戰場之時、御方軍兵不幾、而數萬勢、<マボロシニ>出現<テ、>敵人見<云云>。
次去々年、長門國合戰之時、大龜一出來、始浮海上、後<ニハ>昇陸。
仍海人恠之、参河守殿御前持参。
以六人力、猶持煩之程也。
于時、可放其甲之由、相儀之處、先之有夢之告、忽思合、参河守殿、加制禁、剰付簡<テ。>被放遣畢。
然臨平氏最後、件龜再浮出于源氏御舩前、<以簡知之>次白鳩二羽、翻舞于舩屋形上、當其時、平氏宗人人、入海底、次周防國合戰之時、白旗一流、出現于中虚。
暫見御方軍士眼前、終収雲膚畢。
又日、判官殿、爲君御代官、副遣御家人等、被遂合戰畢。
而頻雖被存一身之功由、偏依多勢之合力歟。
謂多勢、毎人不思判官殿、志奉仰君之故、勵同心之勲功畢。
仍討滅平家之後、判官殿、形勢、殆超過日来之儀。
士率之所存、皆如踏薄氷。敢無眞實和順之志。
就中景時、爲御所近士、愍伺知嚴命趣之間、毎見彼非據、可違關東御氣色歟之由、諫申之處、諷詞還爲身之讎、動招刑者也。
合戰無爲之命、祇候。
無所據。
早蒙御免、欲歸參<云云>。
凡和田小太郎義盛、與梶原平三景時者、侍別當所司也。
仍被發遣舎弟兩將於西海之時、軍士等事、爲令奉行、被付義盛於參州被付。
景時於廷尉之處、参州者、本自依不乖武衛之仰、大少事示合于常胤義盛等。
廷尉者、挿自専之慮曽不守御旨。
偏任雅意、致自由張行之間、人之成恨、不限景時<云云>。


この文の後半で景時様は、先ず義経様が頼朝様の代官として派遣され、鎌倉の御家人を与えられておられたが故に、合戦に勝利する事が出来たと記されております。
然し、御自らの策略による独り善がりな戦功と思い込まれている御様子…多くの武士達が鎌倉殿の為に心を合わせて協力したからこそ勝てた訳で、義経様に従われていたという事では無いといわれております。
それなのに、平家を滅ぼした後の判官殿は、まるで思い上がっていらっしゃる。
 付き従う兵達は、薄い氷の上を歩いているような心持ちで、心から判官殿に従っている訳では御座いませぬ。
 この景時は、頼朝様の側近として鎌倉殿の求める真の目的を存じておりますので、間違いを指摘する事も御座いましたが、判官殿は御怒りになられるばかりで、危うく処刑されそうな事になってしまいます。
 合戦が終わった今、御傍に居てもどうするという事も御座いません、ただただ今は早く関東へ帰る御許しをいただきとう御座います

景時様は、義経様が自己中心的なので、自分だけで無く他の武士達も恨みに感じておりますと報告されたので御座いました。
いわゆる“梶原景時の讒言”と呼ばれる御手紙で御座います。
この文書が、どれだけ頼朝様の御内情に関わられたかは存じませんが、この後 義経様は鎌倉への帰還を許されず、その御生涯において2度と兄 頼朝様と対面する事は御座いませんでした。
平泉にて義経様が自刃なさった後、鎌倉へと送られた御首を実検されたのは、和田義盛様、そして景時様で御座いました。

“梶原景時の讒言”と呼ばれる例は、他にも幾つかあるようで…。
土佐国の住人 夜須行宗様が壇之浦合戦での恩賞を願い出られた際、景時様は そのような者は居なかったとして申し立てられておりますが、これには証人がいらっしゃった為、景時様には処罰が科せられております。
また、畠山重忠様が謀反を企てていると言上された際には、重忠様の誠意が頼朝様に届き、身の潔白が証明されました。
もしかすると、その時その時の裏の事情等が御有りだったのかもしれない…とは思いますが、その深い御心の中までは知る由も御座いません。

建久3(1192)年、和田義盛様に代理として侍所別当に就任。
これは別当職を臨んでいた景時様が、謀って職を奪ったとされております。

正治元年正月13日(1199年2月9日)、頼朝様 御逝去。
景時様は、宿老として引き続き幕府の中心で2代将軍 頼家様に御仕えされました。
十三人の合議制が置かれると、景時様もその御1方として列せられております。

頼朝様亡き後も、頼家様の御傍で その権力を誇り、尚且つ 将軍への告口が悪質であるとして、景時様は次第に他の御家人衆の方々より敵視されていかれる事となります。
ついに、有力御家人を含む諸将66名による景時様排斥を求める連判状が提出されると、景時様は“引き時”と感じられたので御座いましょうか、抗う事無く一族の方々と共に相模国一ノ宮の館へと退かれました。

…と思いきや(笑)
正治2年正月(1200年2月)、景時様親子は甲斐源氏 武田有義様を将軍に擁立しようとし、上洛を試まれました。

正治二年正月二十日
廿日 丁未晴
辰剋、原宗三郎、進飛脚申云、梶原平三景時、此間於當國一宮、搆城郭、備防戰之儀。
人以成恠之處、去夜丑剋、相伴子息等、偸遜出此所。
是企謀叛、有上洛聞<云云>。
仍北條殿、兵庫頭大夫屬入道等、參御所、有沙汰、爲追罰之、被遣三浦兵衛尉、比企兵衛尉、糟谷藤太兵衛尉、工藤小次郎已下軍兵也。
亥剋、景時父子、到駿河國清見關。
而其近隣甲乙人等、爲射的群集。
及退散之期、景時相逢途中、彼輩恠之、射懸箭。
仍芦原小次郎、工藤八郎、三澤小次郎、飯田五郎追之。
景時、返合于狐崎、相戰之處、飯田四郎等二人、被討取畢。
又吉香小次郎、澁河次郎、舩越三郎、矢部小次郎、馳加于芦原吉香。
相逢于梶原三郎兵衛尉景茂、<年卅四>互令名謁、攻戰共以討死。
其後、六郎景國、七郎景宗、八郎景則、九郎景連等、並轡、調鏃之間、挑戰難決勝負、然而漸當國御家人等競集、遂誅彼兄弟四人。
又景時、並嫡子源太左衛門景季、<年卅九、>同弟平次左衛門尉景高、<年卅六、>引後山、相戰。
而景時、景高、景則等、雖貽死骸、不獲其首<云云>


正治二年正月二十一日
廿一日 戊申
巳剋、於山中、捜出景時并子息二人之首。
凡伴類三十三人、懸頚於路頭<云云>。
 (吾妻鏡による)


然し、その道中 駿河国清見関にて在地武士と争う事とになり、狐崎にて御嫡男 景季様、次男 景高様、三男 景茂様が討死なされ…景時様は、西奈山上にて自害して果てられました。
生年不詳につき、享年不詳。
梶原景時の変と呼ばれるこの戦闘で、梶原一族33人が討死なさっておられます。

玉葉によりますと、景時様が追放となった原因は、頼家様に 弟 実朝様を将軍に据えようと企んでいる者がいるという事を報告した為という事になっております…。
ただ、実際のところ…それは その通りになってしまったと…いう感じで御座いますので…一概に、吾妻鏡の記録を鵜呑みにするのも如何なものかと思わない事も御座いません;

悪役的な存在として物語等で扱われる景時様では御座いますが……それは、どなたの視線から考えた場合の事なので御座いましょう。
義経様を中心に源平合戦と鎌倉方の諸々を見ていけば、確かに景時様には物申したくなる気持ちにさせられるような気も致します。
人に、“善”だとか“悪”だとか…そんな役割を押し付けて考えるのは、とても悲しい事で御座いますね。
ですが、そこから生まれる文化というものも確かに御座います。
善悪無くして、日本の昔話は語れませんよね。

景時様は、和歌の上手としても知られた御方で御座いました。
奥州討伐に従軍された際にも、頼朝様と御歌を交わされておりますし、建久元(1190)年の頼朝様上洛に同行なさった際にも、遠江国橋本宿での宴で 頼朝様と御歌を詠まれております。
景時様にとって、本当に大切だったもの――それは、決して1つでは無かったので御座いましょうけれど、その御心の中には いつも頼朝様の存在が鮮明であったのでは無いでしょうか。

fc2 ブログランキング…こっちも気が向いたらクリックラ、クリックラ♪にほんブログ村 歴史ブログに参加させていただいておりますクラ!

斉藤別当様を組み討たれし忠臣。
光盛様

□ 金刺光盛(かなさしみつもり)

生 年:不詳
没 年:寿永3(1184)年?
 父 :光頼
 母 :不詳(おとせ?)
 兄 :盛澄
 妻 :不詳
 子 :唐糸
通 称:手塚太郎、手塚光盛


金刺光盛様は 信濃国諏訪の御出身で、諏訪武士団の頭領 金刺盛澄様の弟様で御座います。
諏訪下宮の大祝 金刺一族の御方で、信州塩田平の手塚に御館を構えられていた事から“手塚太郎”様、“手塚光盛”様と呼ばれる方が多いようで御座いますね。

兄 盛澄様は、吾妻鏡によりますと元々 平家方であられた…という事になっておりますが、平家物語に登場はされないものの、木曾義仲様を匿われて養父となられたとも伝えられており、義仲様亡き後には鎌倉幕府の御家人となられておられます。
一方、光盛様は…といいますと、平家物語では木曾勢の有力人物として伺えますが、吾妻鏡に御名前を見る事は出来ません。
御2人が御兄弟であるといわれるのは、室町期の諏訪大明神絵詞の記述による事で御座います。

その御出生等について、余り詳しい事は分かっておりませんが、光盛様は治承4(1180)年に挙兵された義仲様の傘下に入り、最期の時まで義仲様に尽くされておられます。

光盛様といえば、寿永2(1183)年の篠原合戦において、斎藤実盛様を討ち取られた件が特に知られておりますね。

又武蔵国の住人長井斎藤別当実盛、みかたは皆落ちゆけ共、ただ一騎かへし合はせ返し合はせ防たたかふ。
存るむねありければ、赤地の錦の直垂に、もよぎおどしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、切斑の矢おひ、滋藤の弓もて、連銭葦毛なる馬にきぶくりんの鞍をいてぞのたりける。
木曾殿の方より手塚の太郎光盛、よい敵と目をかけ、
「あなやさし、いかなる人にて在せば、み方の御勢は皆落候に、ただ一騎のこらせ給ひたるこそゆうなれ。名乗らせ給へ」
と詞をかけければ、
「かういふわとのは誰そ」
「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」
とこそ名乗たれ。
「さてはたがひによい敵ぞ。但わとのをさぐるにはあらず、存るむねがあれば名のるまじひぞ。よれくまふ手塚」
とておしならぶる処に、手塚が郎等をくれ馳にはせ来て、主をうたせじとなかにへだたり、斎藤別当にむずとくむ。
「あぱれ、をのれは日本一の剛の者とぐんでうずな、うれ」
とて、とて引よせ、鞍のまへわにおしつけ、頸かききて捨てげり。
手塚太郎、郎等がうたるるをみて、弓手にまはりあひ、鎧の草摺引きあげて二刀さし、よはる処にくんでおつ。
斎藤別当こころはたけく思へども、いくさにはしつかれぬ、其上老武者ではあり、手塚が下になりにけり。
又手塚が郎等をくれ馳に出できたるに頸とらせ、木曾殿の御まへに馳まいて、
「光盛こそ奇異のくせ者くんでうて候へ。侍かと見候へば錦の直垂をきて候。大将軍かと見
候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ候つれども、終になのり候はず。声は坂東声で候つる」

と申せば、木曾殿
「あぱれ、是は斎藤別当であるごさんめれ。それならば義仲が上野へこえたりし時、おさな目に見しかば、しらがのかすをなりしぞ。いまは定而白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいこそあやしけれ。樋口次郎はなれあそで見したるらん。樋口めせ」
とてめされけり。樋口次郎ただ一目みて、
「あなむざんや、斎藤別当で候けり」
木曾殿
「それならば今は七十にもあまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいはいかに」
との給へば、樋口次郎涙をはらはらとながひて、
「さ候へばそのやうを申あげうど仕候が、あまり哀で不覚の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりはいささかの所でも思ひいでの詞をば、かねてつかひをくべきで候ける物かな。
斎藤別当、兼光にあふて、つねは物語に仕候し。『六十にあまていくさの陣へむかはん時は、びんぴげをくろう染てわかやがふど思ふなり。其故は、わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし、又老武者とて人のあなどらんも口惜かるべし』と申候しが、まことに染て候けるぞや。あらはせて御らん候へ」
と申ければ、
「さもあるらん」
とて、あらはせて見給へば、白髪にこそ成にけれ。


まるで大将軍を思わせるようないでたちで、ただひとり最期まで戦われる覚悟を決められていた実盛様の前に現れたのが、光盛様。
光盛様は実盛様に名乗りを求めますが、先に御自身が名乗られると、御互いに良い敵であろうとして実盛様は一切名乗られませんでした。
光盛様の郎党は実盛様に討たれてしまいますが、決着は光盛様の勝利に終わりました。

実盛様を組み討たれた光盛様は、その御首を木曽軍の陣へと持ち帰られます。
義仲様に、大将軍かと思われるのに御ひとりで 最期まで名乗らなかったが、関東訛りで喋る武将であった事を御伝えすると、その御首を見た義仲様は ひと目で この御方が幼い頃に見た実盛様である事に気が付かれました。
実盛様は、義仲様の命の恩人。
詳しいエピソード等は語られませんが、義仲様は御幼少の頃の御記憶に実盛様の事を確かに刻み付けられておられました。
元々は源氏方であった実盛様で御座いますが、時勢が変わる中で源氏方から平家方の武将として生きられる事を選ばれ、かつて御自ら救われた源氏の御曹司 義仲様と敵対関係となっておられたので御座いました。

白髪である筈の実盛様が、白髪を黒く染めてまで臨まれた最期の戦。
義仲様に呼ばれて登場する樋口兼光様は、直ぐに実盛様と気が付き、涙を流されました。
実盛様は かつて兼光様に、60を過ぎて戦に向かう時は、いい歳をして若者達と争うのは大人気無いし、かついって老武者と侮られぬように、髪を黒く染めて出ようと思うと語られておられたので御座いました…。
前年の富士川合戦において、平家軍が無様に敗退してしまった事を悔やまれる気持ちもあった実盛様は、この戦で平家の為に討死なさる御覚悟でいらっしゃったので御座います。
大将軍と見紛う格好をされておられたのは、故郷には錦を着て帰れという故事に倣う為と、宗盛様に許可をいただいた上の事であったようで御座います。

染められた黒が洗い流されるのを見、そんな実盛様を想って涙する主君の御姿は、光盛様が実盛様を見付けられた その時には想像の及ばないものであった事で御座いましょう。

同年7月28日(1183年8月17日)、義仲様、源行家様の軍勢は、ついに京へと入られます。
光盛様も、勿論 御同行されておられた事で御座いましょう。
木曽軍の入京に先駆けて、平家御一門は安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ちられております。
奢る平家を京より追い出し、期待の新星として入京された義仲様の軍勢で御座いましたが、京の人々や貴族方からの評判は下がる一方で、次第に法皇様からも疎まれる存在となっていかれました。

法皇様の命により平家追討に向かわれた木曽軍で御座いますが、備中 水嶋合戦では惨敗。
その間に法皇様が鎌倉の源頼朝様と接触をとられていた事を知り、急ぎ帰京し頼朝様追討の院宣を求められました。
11月18日(1184年1月2日)、義仲様は御所法住寺殿へ放火し、後白河法皇を幽閉。
強引では御座いますが、義仲様は この後に征夷大将軍となられております。

然し、法皇様は即座に義仲様追討の院宣を下されておりました。
これを受け取られた頼朝様は、義経様、範頼様に大軍を任せ、義仲様の討伐に向かわせました。

鎌倉の追討軍との戦いの中、次々と消えていく木曽軍の兵達。
その中で、ぎりぎりまで義仲様に付き従われた4騎の内の御ひとりに、光盛様がいらっしゃいました。

「あぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん」
とて、ひかへたるところに、武蔵国に、きこえたる大力、御田の八郎師重、卅騎ばかりで出できたり。
巴その中へかけ入、御田の八郎におしならべて、むずととてひき落し、わがのたる鞍の前輪にをしつけて、ちともはたらかさず、頸ねぢきてすててげり。
其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ぞゆく。
手塚太郎打死す。
手塚の別当落にけり。 (平家物語 高野本による)


平家物語高野本によりますと、義仲様は様と離れられ、手塚別当様は落ちられ、そして光盛様は討死なさったという事で御座います。
手塚別当様で御座いますが、光盛様と同一視される事も御座いますけれど、↓長門本によれば 光盛様の叔父上様、もしくは伯父上様であったようで御座います。

其後かしこに百騎、ここに四五十騎、所々ゆきあひゆきあひ戦ふほどに、粟津の辺にては主従五騎にて落にけり、
手塚別党同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包と云者つづきたり、
「相構へて生捕にせよ」
と、仰せられたるぞ、
「家包ならば軍をやめたまへ、助け奉らん」
と申けるを、
「何条さる事あるべきぞ」
とて、今はかうと戦ひけれども、終に生捕られてけり
 (平家物語 長門本による)


ただ…長門本では、光盛様は討死なさった事になっておらず、生捕りになったとされるようで御座います。
その他、諸本によって記述は様々で御座いますし、吾妻鏡にも記録されておりませんので…この時の光盛様の生死について、確かな事は判りません。

fc2 ブログランキング…こっちも気が向いたらクリックラ♪にほんブログ村 歴史ブログに参加させていただいておりますクラ!

流鏑馬の達人といわれた、諏訪下宮の大祝。
金刺盛澄様


□ 金刺盛澄(かなさしもりずみ)

生 年:不詳
没 年:不詳
 父 :光頼
 母 :不詳
 弟 :手塚太郎光盛
 子 :木曾義仲(養子)、女(木曾義仲室)、盛次、盛重
通 称:諏訪大夫
別 称:諏訪盛澄


金刺盛澄様は、諏訪大社 下宮(春宮秋宮)の大祝。
大祝は“おおほうり”と読み、諏訪社の神官で御座いますが、同時に御神体を持たない諏訪の御社における生き神様的な存在でも御座います。
ちなみに、同時代には 同名の摂津判官 平盛澄様がいらっしゃいますが、平家方の御方で御座いますので、全く関係は御座いません…間違えるのは、私だけかもしれませ…ん;///

室町期の諏訪大明神絵詞によりますと、金刺盛澄様は 平家物語に登場される手塚太郎光盛様の御兄様。
然し、盛澄様の御名前は平家物語には伺えませんね。
その代わり…という訳では御座いませんが、鎌倉幕府の公式記録である吾妻鏡には幾度か御名前が記録されておりますので、盛澄様が実在された御方である事は確かで御座います。
諏訪下社 秋宮傍に、霞ヶ城が築かれ居城とされていたようで御座います。

源平合戦の頃、盛澄様は平家方に属して京におられたといわれますが、諏訪大明神絵詞には盛澄様の娘が木曾義仲様を結婚され、一女をもうけられていると伝えられております。
その娘様の御名前は はっきりと伝わりませんが、義仲様の妻の1人である 山吹様という説もあるようで御座います。

盛澄様は諏訪の武士団を率いる御立場の御方で、義仲様の正式な養父とも伝わります。
義仲様の乳母夫である中原兼遠様は諏訪社の祠官であられたようで御座いますので、共に匿い御育てする事で義仲様との繋がりを深めていかれた事と思います。
諏訪大社の御由緒書にも、幼少期に義仲様が霞ヶ城に匿われていた事が記されておりました。

治承4(1180)年、義仲様の挙兵に賛同された盛澄様は、武士団を率いて光盛様と共に北陸路を進軍されたといいますが、寿永2(1183)年の諏訪明神 例大祭の為に帰国なさっておられます。
この年は、義仲様が御嫡子 義高様を鎌倉の源頼朝様の御長女 大姫様の許嫁として送られた年……木曾勢と鎌倉勢の関係が特に危ぶまれた頃で御座いますね。

義仲様が粟津での御最期を迎えられたのが、その翌年――寿永3(1184)年の事。
盛澄様は、養子であり主君であった義仲様の御最期を 諏訪の地にて御聞きになられたので御座いましょう。
一時は平家を押退けて京にまで上り詰め、その地位を確立なさった筈の御方に訪れた余りにも悲しい結末……幼い頃より御傍で見守られてきた盛澄様にとって、どれ程に衝撃的な報せであった事で御座いましょう。

義仲様亡き後、盛澄様は鎌倉へと呼び出しが掛けられます。
然し、京の城南寺の流鏑馬に参加していた為に鎌倉へ配流のが遅れてしまい、 頼朝様の御怒りを買ってしまわれました。
処刑を命じられてしまった盛澄様で御座いますが、その御命を救われたのが梶原景時様で御座いました。
景時様は、世に比類無い弓馬の達人と知られる盛澄様の腕前を御覧になってから…と頼朝様に持ち掛けられ、処刑前に行われた流鏑馬に盛澄様を参加させられております。
何とも、景時様らしい方法での助命で御座いますね。

文治三年八月十五日
十五日 癸未
鶴岡放生會也。
二品、御出。
參河守範頼、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等、扈従。
有流鏑馬射手五騎、各先渡馬場、次各射訖。
皆莫不中的。
其後、有珎事。
諏方大夫盛澄者、流鏑馬之藝窮依慣傳秀郷朝臣秘決也。
爰属平家、多年在京、連々交城南寺流鏑馬以下射藝訖。
仍參向關東事、頗延引之間、二品、有御氣色、日來爲囚人也。
而被斷罪者、流鏑馬一流、永可凌廢間、賢慮思食煩、渉旬月之處、今日俄被召出之、被仰可射流鏑馬之由、盛澄、申領状。
召賜御廐第一惡馬。
盛澄、欲令騎之刻、御厩舎人、密々告盛澄云、此御馬、於的前、必馳于右方也<云云>。
則出一的前、寄于右方、盛澄、爲生得達者、押直兮射之。
始終、無相違。
次以小土器、挾于五寸之串、三被立之。
盛澄、亦悉射畢。
次可可射件三箇串之由、重被仰出。
盛澄、承之、既雖思切生涯之運。
心中奉祈念諏方大明神、拜還瑞籬之砌、可仕靈神者。
只今垂擁護給、者然後、鏃於平<仁>捻廻<天>射之、五寸串、皆射切之。
觀者、莫不感二品御氣色、又快然、忽被仰厚免<云云>。

今日流鏑馬。
一番 射手 長江太郎義景、<的立、野三刑部烝、>盛綱、
二番 射手 伊津五郎信光、<的立、河勾七郎>政頼、
三番 射手 下河邊庄司行平、<的立勅使河原三郎>有直、
四番 射手 小山千法師丸、<的立、浅羽小三郎>行光、
五番 射手 三浦平六義村、<的立横地太郎>長重、 (吾妻鏡による)


神事に参加する事となった盛澄様には、最も悪い御馬が与えられ、明らかに不利な状況での流鏑馬であったようで御座いますが、密かに馬屋の舎人から御馬の特徴を聞き出しておられた盛澄様は、見事に癖のある御馬を乗りこなし、全ての的と その間の細串までもを、見事に射落とされたので御座いました。
その腕前に感動された頼朝様は、まさに神の成せる業であると評され、処分は撤回となりました。
諏訪への帰国を許された盛澄様は、後に鎌倉の御家人として頼朝様に仕えられる事となっております。

そういえば…鶴岡八幡宮の流鏑馬神事で御座いますが、実は この時が初回であったようで御座いますね。
この流鏑馬神事執行にあたり、事前に射手や的立役等の諸役が与えられておりますが、この時に不満を言って所領を没収されたのが熊谷直実様で御座いました〜;

盛澄様の御名前が吾妻鏡に見られるのは、この文治3(1187)年から建仁3(1203)年の間の事で御座います。
その殆どが流鏑馬に関する記事で御座いますので、余程 盛澄様の流鏑馬姿は見事であったのだろうなぁと思わされます。

その晩年等は詳しく伝わりませんが、平家方であり、木曾義仲様を匿われ、そして後には鎌倉幕府の御家人となられたという盛澄様。
どんな御方だったので御座いましょう。

fc2 ブログランキング…こっちも気が向いたらクリックラ、クリックラ♪にほんブログ村 歴史ブログに参加させていただいておりますクラ!

それは たが御馬ぞ。
いけづきさん。


□ 生食(いけづき)

生 年:不詳
没 年:不詳
出 身:不詳
体 高:8寸(約145〜150cm)
毛 色:黒栗
別表記:池月、生唼
所有者:源頼朝→佐々木高綱


生食さんは、源頼朝様所有の名馬で御座います。
以前、屋島合戦にて亡くなられた佐藤継信様の菩提供養の為に義経様が屋島に残された大夫黒について記した事が御座いますが、平家物語には源平両方それぞれに縁する御馬さんを色々と伺う事が出来ますね。
生食さんは、磨墨さんという御馬と共に、宇治川の先陣争いの件に登場致します。

佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめてふとうたくましゐが、馬をも人をもあたりをはらてくひければ、いけづきとつけられたり。
八寸の馬とぞきこえし。

梶原が給はたるするすみも、きはめてふとうたくましきが、まことに黒かりければ、するすみとつけられたり。
いづれもおとらぬ名馬也。


洗足池に伝わる池月発祥伝説の他にも生食さんの出生に関する伝承は、洗足池の他にも徳島県や島根県、鹿児島県、群馬県、宮城県、岩手県…等々、吃驚する程 全国各地に残されております。

其比鎌倉殿にいけづき、するすみといふ名馬あり。
いけづきをば梶原源太景季しきりに望み申けれども、鎌倉殿
「自然の事のあらん時、物の具して頼朝がのるべき馬也。する墨もおとらぬ名馬ぞ」
とて梶原にはするすみをこそたうだりけれ。
佐々木四郎高綱がいとま申にまいたりけるに、鎌倉殿いかが思し召されけん、
「所望の物はいくらもあれども、存知せよ」
とて、いけづきを佐々木にたぶ。
佐々木畏て申けるは、
「高綱、この御馬で宇治河のまさきわたし候べし。宇治河で死て候と聞し召し候はば、人にさきをせられてげりと思し召し候へ。いまだいきて候と聞し召され候はば、さだめて先陣はしつらん物をとおぼしめされ候へ」
とて、御前をまかりたつ。


生食さんは、当時の御馬さんの平均体高よりも20〜30cm近く大きく、逞しく気性の激しい御馬さんであったようで御座います。
梶原景季様はどうしても生食さんが欲しくて仕方が無かったようで御座いますが、どれだけ頼朝様に望んでも、その願いが聞き届けられる事は御座いませんでした。
頼朝様は、これは事が起こった際に御自身が乗るべき馬であると、代わりに磨墨さんを与えられました。
然し、その後 佐々木高綱様に、頼朝様は御自ら生食さんを与えられております。
誰もが欲しがる生食さんをいともあっさりと下賜され、高綱様は その信頼に生食さんと共に宇治川を真っ先に渡る事を宣言なさいました。

引とをし引とをししける中にも、景季が給はたるするすみにまさる馬こそなかりけれと、うれしう思ひてみる処に、いけづきとおぼしき馬こそ出来たれ。
黄覆輪の鞍をいて、小総の鞦かけ、しらあはかませ、舎人あまたついたりけれども、なをひきもためず、躍らせて出で来たり。
梶原源太うちよて、
「それはたが御馬ぞ。」
「佐々木殿の御馬候。」


高綱様のものとなった生食さん。
同じく 頼朝様より賜った自慢の磨墨さんと共に出陣なさっていた景季様は、満足そうに他の馬々が通り過ぎるのを眺めておられましたが、磨墨さんに勝る御馬等居ないと思っていた矢先、大勢の舎人を引き摺りながら現れた生食さんの御姿を見付けられて心底驚かれたようで御座います。

この時、その生食さんを一体どうやって賜ったのかと殺気立って問うて来る景季様に対して、高綱様は盗んで来たのだと偽って見事に衝突を避けられました。

平等院の丑寅、橘の小島がさきより武者二騎ひかけひかけ出できたり。
一騎は梶原源太景季、
一騎は佐々木四郎高綱也。
人目には何ともみえざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞすすんだる。
佐々木四郎
「此河は西国一の大河ぞや。腹帯ののびてみえさうは、しめ給へ」
といはれて、梶原さもあるらんとやおもひけん、左右のあぶみをふみすかし、手綱を馬のゆがみにすて、腹帯をといてぞしめたりける。
そのまに佐々木はつとはせぬいて、河へざとぞうちいれたる。
梶原たばかられぬとやおもひけん、やがてつづいてうちいれたり。
「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の底には大綱あるらん」
といひければ、佐々木太刀をぬき、馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつとうちきりうちきり、いけづきといふ世一の馬にはのたりけり、宇治河はやしといへども、一文字にざとわたひて向への岸にうちあがる。

梶原がのたりけるするすみは、河なかよりのためがたにおしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。
佐々木あぶみふばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、
「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱にくめや」
とて、喚いてかく。 (平家物語 高野本による)


平等院の東北側にある橘の小島が崎に、登場された高綱様と景季様。
双方とも、我先に!とばかりに意識されておりましたが、景季様の方が少しばかり前を進まれました。
それを見て、高綱様は 景季様に御馬の腹帯が緩んでいるので締め直した方が良いとアドバイスをなさいます…嘘、なのですけれど;
それを疑う事無く素直に受け止められた景季様は、それは大変と留まられました。
その隙を逃さなかった高綱様は、今がチャンスとばかりに景季様を追い抜いて川へ打ち入りなさいました。
騙された!??と気付いた景季様も、高綱様の後を追います。
景季様は水の底に大縄があるので功を焦って油断をなさるなと注意なさいますが、高綱様は それは大変と縄を太刀で斬りながらも進まれました。
流石はこの世でいちばんの名馬といわれる生食さん、宇治川を一文字にザッと渡り切って対岸へと上がられました。 
そこで、鐙に立ち上がった高綱様が先陣の名乗りをあげられます。

味方同士とはいえ、内々には互いにライバルとして意識し合っておられた高綱様と景季様。
共に頼朝様より賜った名馬を共に奮戦なさいました。
この一連は、頼朝様が士気高揚の為に仕組まれた事ともいわれておりますが、真相の程は定かでは御座いません。
個人的に気になるのは、高綱様が吐かれた諸々の嘘…特に生食さんが頼朝様より与えられていたという事実を後々に知る事になったと思われる景季様は、それを如何受け止められたのであろうかという事で御座います。

その後の生食さんの御生涯については、全てが不詳となっております。
福岡県には、生食さんのものといわれる御墓が伝えられているそうで御座います。
今度、福岡へ行く際には そちらの方へも御参りさせていただきたいなと思っております。

にほんブログ村 歴史ブログへ

日輪を棚引き護る者として。
常陸坊様


□ 常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)

生 年:不詳
没 年:不詳
通 称:常陸坊
別 称:海賢、荒尊


源義経様主従の奥州下りに関する物語や伝承に、従者として度々登場されている常陸坊海尊様。
明日、明後日と最上川周辺に伝わる遺跡、伝承について書きたいなと思っておりますので、そちらに欠かせない人物となっている常陸坊様について記しておこうと思います。

えぇと…常陸坊様で御座いますが、先ず実在の人物であった可能性はやや低く、あくまでも伝説上の人物として語られる事の多い御方となっております。
その最大の理由は平家物語吾妻鏡に御名前が伺えない事で御座いましょう。
義経記源平盛衰記等、もっと後世に編まれたと考えられている文学作品には登場されております。

御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸房、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同じく四郎忠信是等を先として三百余騎馬の腹筋馳せ切り、脛の砕くるをも知らず、揉みに揉うで馳せ上る。

常陸坊様の義経記初登場は、巻第3の頼朝様の挙兵を知って義経様が奥州を発たれる段中で御座います。
園城寺の法師であったという事で御座いますが、文献によっては比叡山の僧とされる事もあるようで御座います。
どのような経緯で義経様に御仕えされるようになったのかは存知ませんが、割と初期の頃より御曹司の御傍に控えられておられたようで御座いますね。

続いての登場場面は、平家滅亡の後…義経様主従の西海落ちに際しての件。
鎌倉方と敵対し、追われる身の上となった義経様に常陸坊様も付き従っておられます。

豊島冠者亡せにければ、大物浦に船を漕ぎ寄せて、空しき体を舁きて、泣く泣く宿所へぞ帰りける。
武蔵坊は常陸坊を呼びて申しけるは、
「安からぬ事かな。軍すべかりつるものを。かくて日を暮さん事は宝の山に入りて、手を空しくしたるにてこそあれ」
と後悔する所に、小溝太郎は大物に軍有りと聞きて、百騎の勢にて大物浦に馳せ下りて、陸に上げたりける船を五艘押し下し、百騎を五手に分けて、我先にと押し出だす。
是を見て、弁慶は黒革威、海尊は黒糸威の鎧著たり。
常陸坊は元より究竟の■取なりければ、小船に取り乗り、武蔵坊はわざと弓矢をば持たざりけり。

   (中略)
味方は目をすまして是を見る。
小溝太郎申しけるは、
「抑是程の大勢の中に、只二人乗つて寄る者は、何者にてかあるらん」
と言へば、或る者是を見て、
「一人は武蔵坊、一人は常陸坊
とぞ申しける。
小溝是を聞きて、
「それならば手にもたまるまじぞ」
とて、船を大物へぞ向けさせける。
弁慶是を見て声を上げて、
「穢しや、小溝太郎とこそ見れ。返し合はせよや」
と言ひけれ共、聞きも入れず引きけるを、
「漕げや海尊」
と言ひければ、舟端を踏まへて、ぎしめかしてぞ漕ぎたりける。

五艘の真中へするりと漕ぎ入れければ、熊手を取つて敵の舟に打ち貫き、引き寄せゆらりと乗り移り、艫より舳に向きて、薙打ちにむずめかして、拉ぎ付けてぞ通りける。
手に当たる者は申すに及ばず、当たらぬ者も覚えず知らず海へ飛び入り飛び入り亡せにけり。
判官是を見給ひて、
「片岡あれ制せよ。さのみ罪な作りそ」
と仰せられければ、
「御諚にて候ふ。さのみさのみ罪な作られそ」
と言ひければ、弁慶是を聞きて、
「それを申すぞよ、末も通らぬ青道心、御諚を耳にな入れそ。八方を攻めよ」
とて散々に攻む。
杉船二艘は失せて、三艘は助かり、大物浦へぞ逃げ上がりける。
其の日判官軍に勝ちすまし給ひけり。


↑何気に衝撃的で…絶対に居合わせたく無いと思わされる場面で御座います;
弁慶様と常陸坊様との間には、何やら上下関係のようなものが感じられますね。
というか…弁慶様が、まるで血に飢えた獣のように思えたりもして…。
『漕げや海尊』という台詞が、妙に生々しく私の頭の中に響いております(涙)

流石の義経様も、弁慶様方のこの行為には驚かれたようで…現代ちっくにいうならば、
「何やってんだ、あいつら…!片岡、あれを止めろ!!…なんと罪作りな事を…」
という感じで抑止されておりますが、そんな主の言葉を受け入る事無く、弁慶様は敵を皆殺しにしてしまわれました。
常陸坊様は、弁慶様のなすがままに従われているようで御座いますが…イマイチ、御2人の関係は掴めないなぁという印象で御座います。

常陸坊様といえば、“逃げの海尊”的な扱いを受ける事が多い…と申しますか、いざとなった時に真っ先に逃亡する役所として描かれているようで御座います。
義経記巻第5の“吉野法師判官を追ひかけ奉る事”では皆様が散り散りに逃げられてはおりますが、その中でも特に1番に去られたのが常陸坊様であったようで…。

「すはや、敵よ」
と宣ひければ、骸の上の恥をも顧みず、皆散り散りにぞなりにける。
常陸坊は人より先に落ちにけり。
跡を顧みければ、武蔵坊も君も未だ元の所に働かずして居給ふ。
「我等が是まで落つるに、此の人々留まり給ふは如何なる事をか思召すやらん」
と申しも果てざりけるに、二合の長櫃を一合づつ取りて、東の磐石へ向けて投げ落とし、積みたる菓子をば雪の外に心静かに掘り埋みてぞ落ち給ひける。
弁慶は遙かの先に延びたる常陸坊に追ひ著き、
「各々跡を見るに、曇無き鏡を見るが如し。誰も命惜しくは、履を逆さまに履きて落ち給へや」
とぞ申しける。


ここでも、常陸坊様と弁慶様の関係に?という感じは致します。
真っ先に逃げられたのに、弁慶様は遥か先に居る筈の常陸坊様に追い付かれたので御座いますね…さ、流石で御座います…;

そして、巻第7の“判官北國落の事”でも、作戦会議中、常陸坊様の役所を御決めになったのは弁慶様。
個人的に、義経様との出会いよりも弁慶様との関係性の方が気になるところで御座います(笑)

武蔵坊申しけるは、
「それ程の事安き事候ふ。君は鞍馬に御座しまししかば、山伏の事は粗々御存じ候ふらん。常陸坊は園城寺に候ひしかば、申すに及ばず、弁慶は西塔に候ひしかば、一乗菩提の事粗々存じ仕りて候へば、などか陳ぜで候ふべき。山伏の勤には、懺法阿弥陀経をだにも、詳かに読み候ひぬれば、堅固苦しくも候ふまじ。只思し召し立たせ給へ」とぞ申しける。
「どこ山伏と問はんずる時は、どこ山伏とか言はんずる」
「越後國直江の津は、北陸道の中途にて候へば、それより此方にては、羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき。それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべき」
と申しければ、
「羽黒の案内知りたらん者やある。羽黒にはどの坊に誰がしと云ふ者ぞと問はんずるは如何せんずる」
弁慶申しけるは、
「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ひしが申し候ひしは、大黒堂の別当の坊に荒讃岐と申す法師に、弁慶はちとも違はぬ由申し候ひしかば、弁慶をば荒讃岐と申し候べし。常陸坊をば小先達として筑前坊
とぞ申しける。


無事、奥州入りを果たされた義経様御一行に常陸坊様がいらしたか否かという事は、文学作品と地方に語り継がれている伝承とでは全く違う結論となっており、大変興味深く感じております。

義経記では、常陸坊様は義経様と共に平泉へ到着されていらっしゃる御様子で御座いますので、ここでは義経記の記述に沿っておきたいと思います。
奥州で過ごされた束の間の安息の日々…そして、その後に迎える事となる経様終焉の時 衣川合戦に際して、常陸坊様は――。

さる程に寄手長崎大夫のすけを初として、三萬余騎一手になりて押寄せたり。
「今日の討手は如何なる者ぞ」
「秀衡が家子、長崎太郎大夫」
と申す。
せめて泰衡、西木戸などにてもあらばこそ最期の軍をもせめ、東の方の奴原が郎等に向ひて、弓を引き矢を放さん事あるべからずとて、
「自害せん」
と宣ひけり。
爰に北の方の乳母親に十郎権頭、喜三太二人は、家の上に上りて、遣戸、格子を小楯にして散々に射る。
大手には武蔵坊、片岡、鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢三郎、備前平四郎、以上人々八騎なり。
常陸坊を初として、残り十一人の者共、今朝より近き辺の山寺を拝みに出でけるが、其儘帰らずして失せにけり。
言ふばかりなき事どもなり。
 (義経記による)


………御留守で御座いました…。

まるでタイミングを見計らったかのように、丁度その日に 他11名の方々と共に近くの山寺へ参詣されており、そのまま帰参される事も無く行方をくらまされたという事で……いかにも敵前逃亡者として語られております;
主を捨てた卑怯者として情けない御方と評価されがちな常陸坊様で御座いますが、果たして本当にそうなのであろうか…という疑問は御座います。
山寺参詣の理由は判りませんが、もしかしたら それは主の御為であったのかもしれませんし、御寺参りと称した偵察班であったのかもしれません。
途中、開始された合戦を察知されたかもしれませんが、何も異変を感じておられなかったのかもしれません。
山寺詣を済ませ、帰参していた途中で ようやっと平泉で起こった出来事と主の末路を知り、平泉へ戻る事も出来ず 希望を失われて姿を隠されたとも…考えられなくは無いような、ただ私がそう都合良く考えていたいだけような…。。
常陸坊様は史実上、その存在が確認されている御方では御座いませんので、一応 伝説上の…物語の登場人物として語られる御方で御座いますが、それでも…義経様とギリギリ手前のところまで運命を共にされた御方というのであれば、どうしても私は色々と裏付けが欲しくなってしまうので御座います///
上手く纏められない上に、感情論ばかりで申し訳御座いません;;


ちなみに、その後の常陸坊様について 古典文学にはそれ以上の事は語られておりませんが、東北地方には、その後 常陸坊様は不老不死の仙人になられたとか、源平合戦や義経様の事を語らって歩かれたとか、実は常陸坊様が物語を書かれた作者だとか…色々とファンタジックな伝説が語り継がれております。

古典芸能作品にも度々、義経様の四天王の御1人として登場なさっておりますが、古浄瑠璃の演目「海尊」では、義経様の遺児を支えて源実朝様の御命を狙われるのだとか…気になる作品で御座いますね。

にほんブログ村 歴史ブログへ
Copyright © ■花林 〜小枝の音色に誘はれて〜. all rights reserved.
ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ 専門学校