日本史(主に平安〜鎌倉初期)&源平史跡、伝承地巡りの記録。 あくまでも自分の為の記録で御座います。

これは 我が御馬ぞ。
磨墨様

□ 磨墨(するすみ)

生 年:不詳
没 年:不詳
出 身:不詳
体 高:8寸(約145〜150cm)位
毛 色:黒
所有者:源頼朝→梶原景季


磨墨さんは、平家物語 宇治川の先陣争いの件に生食さんと共に登場される名馬。
生食さん同様に、元々は源頼朝様所有の名馬で御座いました。

佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめてふとうたくましゐが、馬をも人をもあたりをはらてくひければ、いけづきとつけられたり。
八寸の馬とぞきこえし。
梶原が給はたるするすみも、きはめてふとうたくましきが、まことに黒かりければ、するすみとつけられたり。
いづれもおとらぬ名馬也。


磨墨さんは、その御名の通り、御立派な黒馬であったようで御座いますね。
8寸の生食さんに劣らぬ名馬という事で御座います。

生食さんには全国各地に出生地伝承が伝えられておりますが、磨墨さんも また、数多の地で誕生伝説が語り継がれておられますね。

其比鎌倉殿にいけづき、するすみといふ名馬あり。
いけづきをば梶原源太景季しきりに望み申けれども、鎌倉殿
「自然の事のあらん時、物の具して頼朝がのるべき馬也。する墨もおとらぬ名馬ぞ」
とて梶原にはするすみをこそたうだりけれ。

佐々木四郎高綱がいとま申にまいたりけるに、鎌倉殿いかが思し召されけん、
「所望の物はいくらもあれども、存知せよ」
とて、いけづきを佐々木にたぶ。
 (中略)
おのおの鎌倉をたて、足柄をへてゆくもあり、箱根にかかる人もあり、思ひ思ひにのぼる程に、駿河国浮島が原にて、梶原源太景季たかきところにうちあがり、しばしひかへておほくの馬どもを見ければ、思ひ思ひの鞍をいて、色々の鞦かけ、或は乗り口にひかせ、或は諸口にひかせ、幾千万といふ数をしらず。
引とをし引とをししける中にも、景季が給はたるするすみにまさる馬こそなかりけれと、うれしう思ひてみる処に、生食とおぼしき馬こそ出来たれ。

黄覆輪の鞍をいて、小総の鞦かけ、白泡かませ、舎人あまたついたりけれども、なをひきもためず、躍らせて出できたり。
梶原源太うちよて、
「それはたが御馬ぞ。」
「佐々木殿の御馬候。」
其時梶原
「やすからぬ物也。おなじやうにめしつかはるる景季を佐々木におぼしめしかへられけるこそ遺恨なれ。京へのぼて、木曾殿の御内に四天王ときこゆる今井、樋口、楯、祢井にくんで
死ぬるか、しからずは西国へむかうて、一人当千ときこゆる平家の侍どもといくさして死なんとこそ思ひつれども、此御きそくではそれもせんなし。ここで佐々木にひくみさしちがへ、よい侍二人死で、兵衛佐殿に損とらせたてまつらむ」
とつぶやいてこそ待かけたれ。
佐々木四郎はなに心もなくあゆませて出できたり。


梶原景時様の御子様 景季様は、生食さんを頼朝様に御所望されておりましたが、
生食は、いざ何か事が起こったという時に この頼朝が乗るべき馬。
 磨墨とて、生食に劣らぬ名馬であるぞ

として、景季様に磨墨さんを与えられました。
…が、その後に頼朝様は佐々木高綱様に御自ら生食さんを割とアッサリ下賜されておられます;

景季様は、鎌倉殿の乗る御馬と並ぶ程の名馬を授かった事を誇りに思われ、他の方々の どの御馬よりも磨墨さんが勝っていると自信を持っておられましたが、なんと そんな中に大勢の舎人を引き摺りながら やって来る生食さんを発見…!
驚かれつつも、それが高綱様に与えられた事を知ると景季様は、激しく動揺され殺気立って高綱様に どうやって手に入れたのかと詰め寄られました。
そんな景季様に、盗んで来ちゃった★と嘘を吐いて衝突を退けられた冷静な高綱様…その柔軟な気転と冷静さを、頼朝様は先読みされておられたのでは無いかとさえ思えてしまいます。

平等院の丑寅、橘の小島がさきより武者二騎ひかけひかけ出できたり。
一騎は梶原源太景季、
一騎は佐々木四郎高綱也。
人目には何ともみえざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞすすんだる。
佐々木四郎
「此河は西国一の大河ぞや。腹帯ののびてみえさうは、しめ給へ」
といはれて、梶原さもあるらんとやおもひけん、左右のあぶみをふみすかし、手綱を馬のゆがみにすて、腹帯をといてぞしめたりける。
そのまに佐々木はつとはせぬいて、河へざとぞうちいれたる。
梶原たばかられぬとやおもひけん、やがてつづいてうちいれたり。
「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の底には大綱あるらん」
といひければ、佐々木太刀をぬき、馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつとうちきりうちきり、いけづきといふ世一の馬にはのたりけり、宇治河はやしといへども、一文字にざとわたひて向への岸にうちあがる。
梶原がのたりけるするすみは、河なかよりのためがたにおしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。

佐々木あぶみふばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、
「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱にくめや」
とて、喚いてかく。 (平家物語 高野本による)


平等院の東北側にある橘の小島が崎に登場された、生食さんに乗る高綱様と、磨墨さんに乗る景季様。
御味方同士でありながらも、共に頼朝様より大事な名馬を賜ったライバルでもあった御2方は、我先にと先陣を競われました。

磨墨さんに乗った景季様は、最初少しだけ前に出ておられましたが、高綱様に 御馬の腹帯が緩んでいるので締め直した方が良いとの助言を受けます。
景季様は、それは大変と素直に受け入れられたので御座いますが…高綱様にとっては、またとないチャンス!というか、これも作戦だったようで御座います;
あっという間に、磨墨さんは生食さんに追い抜かれてしまいます。
それを見て、ようやっと騙された事に気付かれる景季様は、急いで後を追われます。
景季様は、高綱様に
佐々木殿、高名を急いて御油断をなさるなよ。
 水底には、大綱があるようだ

と注意をなさいますが、見事に それを太刀で斬り進まれた高綱様と生食さんは、宇治川を一文字に渡り切って鐙に立ち、先陣の名乗りをあげられました。
残念ながら、1番乗りは叶わなかった景季様と磨墨さんで御座いますが、その奮闘振りは今も平家物語の有名な一節として良く取り上げられておりますね。
躍動感溢れる、とても生き生きとした場面で御座います。
景季様と高綱様の人間性も、非常に興味深い描かれ方で御座いますね。
生食さんについて記した際、“個人的に気になるのは、高綱様が吐かれた諸々の嘘…特に生食さんが頼朝様より与えられていたという事実を後々に知る事になったと思われる景季様は、それを如何受け止められたのであろうかという事で御座います”と記しておりますが、矢張り気になってしまいますね〜(苦笑)
ただ、御2方は好敵手であっても真実の敵同士では御座いませんので、その後はスポーツマン精神に則って(?)笑って意気投合なさったりされていたのかもしれません。

景季様にとって磨墨さんは、当初 本望の御馬で無かった上、御所望されていた生食さんを間近で高綱様に見せ付けられてショックを受けておられましたが…私が磨墨さんならば、そんな景季様の反応にさり気無く、物凄く…傷付いてしまいそうだなぁと思ってしまいます;;
先陣ばかりが戦では御座いませんけれど、全てが一段落した頃にでも
御前も、良く頑張った!
 これからも、よろしく頼むぞ

…等と、磨墨さんの頭を撫でられてあげたりなんかしていたら、景季様は とっても素敵!!と勝手に頭の中で色々な妄想を繰り広げてしまっている私で御座います///

磨墨さんの御最期については記録が御座いませんが、これも各地に様々な伝説として伝えられているようで御座います。

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妻として尼となり、母として子を育み。
鳥居禅尼

□ 鳥居禅尼(とりいぜんに)

生 年:不詳
没 年:承元4(1210)年〜貞応元(1222)年 頃
 父 :源為義
 母 :立田女房(熊野別当長快女)?or鈴木重忠女?
兄 弟:義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲、行家(同母)
 夫 :行範(第19代熊野別当)
 子 :範誉、行快(第22代熊野別当)、範命(第23代熊野別当)、行遍、行詮、行増、女(第21代熊野別当 湛増妻) 等
別 称:たつたはらの女房、丹鶴姫


鳥居禅尼様は、源為義様の娘様で源行家様の同母姉様。
源義朝様の御姉様で御座いますので、鳥居禅尼様から見れば頼朝様や範頼様、義経様は甥っ子という事になりますね。

御生母は第15代熊野別当 長快様の娘様で立田女房様で、後白河院の熊野御幸に随行された為義様に見初められ、新宮にて鳥居禅尼様と行家様を御出産なされたのだとか…。
もしくは、熊野速玉大社の神官 鈴木重忠様の娘様が御母様であられるともいわれております。
行家様が“新宮十郎”と名乗られていた事は平家物語にも伺える事で御座いますが、新宮の伝承によれば、鳥居禅尼様は元々“丹鶴姫”様、別名を“たつたはらの女房”とも呼ばれていたようで御座います。

また、鳥居禅尼様は第21代熊野別当 湛増様の御母様で、初め 第18代熊野別当 湛快様のもとへ嫁がれておりましたが、湛快様が早世された後に行範様と再婚なさったという説もあり……。
然し、湛増様は湛快様が32歳の頃の御子様…その後も湛快様は76歳まで御存命で御座いましたし、それに…確かに湛増様の御生母は不詳で御座いますが、湛増様は鳥居禅尼様の娘様を妻に迎え入れられているようで御座いますので、これは少々考え辛いかなと;

……何と申しましょうか、源平両氏との縁が大変深い御方であるだけに、一層ややこしく感じさせられる御立場でもあるのですけれど…然し、源平合戦期の熊野を考える上では、絶対に避けては通れぬ御方――正直、今の私では知識不足な部分が否めないので御座いますが、とりあえずは現時点で纏められる事だけでも記しておきたいかなと思います。

行幸の御儀盛んなるに従ひ、文武大官の□従するもの多く、熊野は京□の休息地となるに至りしか、其の比源為義は、熊野別當の娘田鶴原女房に通ひて一女を設けぬ、即ち丹鶴姫にして後に鳥居禅尼と称す。
       (東牟婁郡誌による)



はっきりとした年代は判りませんが、鳥居禅尼様は第16代熊野別当 長範様の御嫡男で速玉大社の社僧、神官を統率しておられた新宮在庁の行範様と御結婚、沢山の御子様に恵まれております。
承安2(1172)年に行範様は第19代熊野別当となられますが、就任後 1年足らずで御亡くなりになりました。
夫の死後は直ちに出家なさったようで、ここから“鳥居禅尼”と名乗られるようになります。
亡き行範様の菩提を弔いながらも、御立派に残された大勢の御子様方を御育てになられておられます。
範誉様は那智執となられ、行快様は後の第22代熊野別当になり、範命様は第23代熊野別当、行遍様は新古今和歌集の歌人、行詮様、行増様は権別当、娘様の御1方は湛増様の妻に…と、見事なまでに皆様が後に活躍される事となっております。
元々、平家寄りであった熊野別当家が源氏との縁を強める事となった理由の大きな1つには、矢張り 鳥居禅尼様の存在があったようで御座います。

源平争乱終結の後は、甥 頼朝様より紀伊国佐野庄、紀伊国湯橋、但馬国多々良岐庄等の地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人であり将軍家の御親族として重視されていた事が伺えます。

建久元年四月十九日
十九日 壬寅
造太神宮、役夫工米、地頭未濟事。
頻有職事奉書、神宮使又參訴之間、可致不日沙汰之旨、下知給。
於有子細所々者、今日令注進京都給。
因州、并盛時俊兼等、奉行之。
其状云内宮役夫大工、作料未濟、成敗所々事
  (中略)
 紀伊國  湯橋
 以消息、下知熊野尼上

  (中略)
抑此内、別紙注分所、廿箇所事、家人知行地内、未請取配府庄々、同分之由、分明也。
就之尋子細、造宮始之後、至于今不付配府<云云>
然者非地頭對捍之儀歟。
成于今、被始催之條、若是爲吹毛歟。
就中國々國司、庄々領家者、大略在京也。
先被催國司領家者、又可下知國衙庄家。
其時號地頭之對捍、直及奏達。
又令觸遣事、其理可然乎。
以于今不催之所、無分別。
家人地頭、未濟之由、被注申之條、未知其理矣
  文治六年四月十九日


建久五年閏八月十二日
十二日 己巳
以但馬國多々良岐庄、始爲地頭補任之地、可被付熊野鳥居禪尼<云云>。
是依所望也


建久五年九月二十三日
廿三日 庚戌
但馬國、多々良岐庄者、源宰相領所也。
而熊野鳥居禪尼、<故左典厩婦公>日者強所望彼邊事、異他之間、被遣地頭補任御下文。
但於有限領家乃貢課役等者、不可有懈怠之由、今日被遣御消息<云云>


紀伊国佐野庄、湯橋の地頭任命は建久元(1190)年の事、但馬国多々良岐庄は建久5(1194)年の事で御座いました。

鳥居禅尼様は養子を迎え入れられておられたようで、鎌倉幕府から任じられていた知行地の地頭職を養子に譲補したいと申し出られておられます。

承元四年九月十四日
十四日 戊戌
熊野鳥居禪尼知行地頭職、譲補養子事、有故 將軍御避状之上、不及左右之由、被仰出。
廣元朝臣、奉行之


承元4(1210)年、幕府は鳥居禅尼様の御申し出を許可されております。
恐らくは、御自身に残された御時間が余り長く無い事を察されての事であったので御座いましょう。
養子がどの御方を指しているのかは、不詳で御座います。

貞応元年四月二十七日
廿七日
以鳥居禪尼所領、紀伊國佐野庄地頭職、尼一期之後、子息長詮法橋、可相傳之由被仰<云云>
彼禪尼者、六條廷尉禪門妹、故右大將家姨母也。
仍令避數箇所地頭職給訖。

而子息法橋行忠、<長詮兄。>背母命、押領當庄、剰去年兵乱之時、候仙洞、致合戰、零落之後、猶立還當庄之由、長詮、就訴申如此。
長詮者、抽關東御祈祷之忠<云云> (吾妻鏡による)


はっきりとした年代は伝わりませんが、承元4(1210)年から貞応元(1222)年の間に御亡くなりになられておられるようで御座います。
生没年不詳につき、享年も不明。
当時の御方にしては、随分と長生きされたのでは無いかといわれておりますが、早くに夫を亡くされ、護るべきものの為に費やされた御時間は、鳥居禅尼様にとって果たして長く感じられるものであったのか……。
今も尚“女傑”と称えられる、鳥居禅尼様については今後も色々な角度から考えていけたらと思っております。

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我も、源氏の ものゝふなれば。
行家さま


□ 源 行家(みなもとのゆきいえ)

生   年:不詳
没年月日:文治2年5月12日(1186年6月1日)
  父  :源為義
  母  :立田女房(熊野別当長快女)?or鈴木重忠女?
兄弟姉妹:義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲、鳥居禅尼(同母)
  妻  :不詳
  子  :義房、家光、行頼、西乗、行寛
改   称:義盛→行家
通   称:新宮十郎、新宮行家、陸奥十郎
官   歴:治承4年4月9日(1180年5月5日)…八条院侍(蔵人?)
      寿永2年8月7日(1183年8月26日)…従五位下、備後守
      寿永2年8月13日(1183年9月1日)…備前守


源行家様といえば……何と申しましょうか…ぶ、不器用な御方?い…いえ、どちらかといえば中途半端に器用な御方のようでもあり……うぅむ(汗)
大河ドラマ「義経」でも、とにかく とことん困った痛い人物として描かれておりましたが…まぁ確かに、その印象を否めないというのが史実上の行家様で御座いまして;
平家物語には欠かせない人物で御座いますので、ある意味では非常に美味しい御方でもあるのですけれど、それは物語の上での御話で御座いますね。
実際、命懸けで何かを掴みとろうとなさったおられた方々の間で、行家様が望まれた未来というのは、一体どのようなものであったのだろうかと考えさせられる事が時々御座います。
それは、主に熊野――新宮を訪れている時、なのですけれど…。

行家様は“新宮十郎”と称されておりますが、これは平治の乱の後に熊野の新宮に潜んで約20年間生活されていたが為。
行家様の同母姉である鳥居禅尼様は、後に19代熊野別当に就任される新宮別当家御嫡流の行範様に嫁いでおられた事もあり、行家様は熊野との縁が大変深い御方でも御座いました。
熊野に特別な感情を抱いている私と致しましては、もしも…このまま何事も無く、行家様が一生を熊野で穏やかに終えられていたのならば…と考えたくもなるので御座いますが…そうならなかったからこそ平家は滅び、鎌倉幕府が誕生し、源平の合戦が現代に伝えられる事となっているので御座いますよね…。

治承4(1180)年、摂津源氏である源頼政様に召し出された行家様は、以仁王様の平家追討の令旨を各地に潜む源氏御一門に伝達する任を命じられました。
それまで新宮十郎を名乗っていた行家様は八条院の蔵人に補され、ここで“行家”という御名に改名なさいます。
行家様の元々の御名は、“源義盛”様で御座いました。

「まづ京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、熊野には、故六条判官為義が末子十郎義盛とて隠れて候。摂津国には多田蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の謀反の時、同心しながら返り忠したる不当人で候へば、申に及ばず。さりながら、其弟多田二郎知実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基、河内国には、武蔵権守入道義基、子息石河判官代義兼、大和国には、宇野七郎親治が子共、太郎有治・二郎清治、三郎成治、四郎義治、近江国には、山本、柏木、錦古里、美濃尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重満、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、其子太郎重行、甲斐国には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃国には、大内太郎惟義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、其子四郎義信、故帯刀先生義賢が次男木曾冠者義仲、伊豆国には、流人前右兵衛佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝が末子九郎冠者義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤なり。朝敵をもたいらげ、宿望をとげし事は、源平いづれ勝劣なかりしかども、今者雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にもなをおとれり。国には国司にしたがひ、庄には領所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすひ思ひも候はず。いかばかり心うく候らん。君もし思し召したたせ給て、令旨を給うづるものならば、夜を日についで馳のぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐらすべからず。入道も年こそよて候とも、子共ひき具してまいり候べし」
とぞ申たる。
宮は此事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言伊長と申し候勝たる相人なりければ、時の人相少納言とぞ申ける。
其人が此宮を見まひらせて、
「位に即せ給べき相在ます。天下の事思食はなたせ給ふべからず」
と申けるうへ、源三位入道もかやうに申されければ、
「さてはしかるべし。天照大神の御告やらん」
とて、ひしひしと思し召したたせ給ひけり。
熊野に候十郎義盛を召して、蔵人になさる。
行家と改名して、令旨の御使に東国へぞ下ける。


行家様は、八条院の蔵人に任じられた事が伝えられておりますが、それは吾妻鏡の記述よるもの。
↑平家物語には、ただ蔵人になさった事のみが簡単に述べられているだけで御座います。

八条院とは、□子内親王様の事。
八条院御所跡である京都駅八条口の記事にも簡単に記しておりますが、以仁王様の養母でもあり、非常に強い繋がりを持った御方で御座いました。
後白河院や平家御一門と並んで、時の権力者の御1方として大きく存在を示されていたようで御座います。
御本人の意志か否かは存じませんが、周辺には平頼盛様や源頼朝様との関係も伺え、反平家勢力の中心的な存在となっていたのかもしれません。

治承四年四月九日
四月小九日 辛卯
入道源三位頼政卿、可討滅平相國禪門<清盛>由、日者有用意事。
然而以私計略、太依難遂宿意。
今日入夜、相具子息伊豆守仲綱等。
潜參于一院第二宮之三條高倉御所、催前右兵衛佐頼朝以下源氏等。
誅彼氏族、可令執天下給之由、申行之。
仍仰散位宗信、被下令旨。
陸奥十郎義盛、<廷尉爲義末子>折節在京之間、帶此令旨、向東國、先相觸前兵衛佐之後、可傳其外源氏等之趣、所被仰含也。
義盛補八條院藏人<名字改行家>


吾妻鏡によれば、治承4年4月9日(1180年5月5日)の事。
入道となった源三位頼政様は、平相国様…つまりは清盛様率いる平家御一門を討滅ぼす為、大義名分を求めて、以仁王様のもとを訪れられました。
それによって発せられたのが、世に“以仁王の令旨”と呼ばれる文書。
丁度都合の良い事に、陸奥十郎義盛という源為義様の末子が京に来ているので、これを持たせて東国へ下らせ、先ずは前右兵衛佐=頼朝様のもとへ行かせ、更に各地の源氏へも伝えさせましょう、という事を提案されたのだとか…。
ちょっと、吾妻鏡らしい微妙さを感じる部分も御座いますが、大体の粗筋は平家物語に語られる事と一致しておりますね。

気になるのは、行家様の事を新宮十郎では無く“陸奥十郎”と記されている事。
陸奥……熊野の新宮にいらっしゃったのでは無かったの?と首を傾げたくなるポイントで御座いますね…;
源氏方で陸奥との縁が深い御方といわれると、矢張り義経様の御名前が先ず浮かんでくるのですけれどー…。

治承4年4月27日(1180年5月23日)、行家様の運ばれる令旨が伊豆国北条館に到着致しました。

治承四年四月二十七日
廿七日 壬申
高倉宮令旨、今日到著于前武衛將軍伊豆國北條館。
八條院藏人行家、所持來也。

武衛裝水干、先奉遥拜男山方、謹令披閲之給。
侍中者、爲相觸甲斐信濃源氏等、則下向彼國。
武衛爲前右衛門督信頼縁坐、去永暦元年三月十一日、配當國之後、歎而送二十年春秋、愁而積四八餘星霜也。
而項年之間、平相國禪閤、恣管領天下、刑罰近臣。
剰奉遷仙洞於鳥羽之離宮。
上皇御憤、頻惱 叡慮。
當于此時、令旨到來。
仍欲擧義兵、寔惟天與取、時至行謂歟。
爰上野介平直方朝臣五代孫、北條四郎時政主者、當國豪傑也。
以武衛、爲聟君、専顯無二忠節。
因茲最前招彼主、令披令旨給。
 下 東海東山北陸三道、諸國源氏、并群兵等所。
   應早追討清盛法師并從類叛逆輩事。
 右 前伊豆守正五位下、源朝臣仲綱宣。 奉
最勝王勅爾。
清盛法師、并宗盛等、以威勢起凶徒、亡國家惱亂百官萬民、虜掠五畿七道、幽閇 皇院、流罪公臣、斷命流嶋、沈淵込樓、盗財領國奪官授職、無功許賞、非罪配過。
或召釣於諸寺之高僧、禁獄於修學僧徒、或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、斷百王之跡、切一人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也。
于時天地悉悲、臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。
尋天武皇子舊儀、追討 王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣、唯非憑人力之搆。
偏所仰天道之扶也。
因之如、有 帝王三寳神明之冥感、何忽無四岳合力之志、然則源家之人、藤氏之人、兼三道諸國之間、堪勇士者、同令與力追討。
若於不同心者、准清盛法師從類、可行死流追禁之罪過。
若於有勝功者先預國之使、兼御即位之後、必隨思可賜勸賞也。
諸國宜承知、依宣行之
  治承四年四月九日
       前伊豆守正五位下源朝臣仲綱


頼朝様の御手元に届けられた令旨は、男山 石清水八幡宮を遙拝された後に謹んで披閲されたようで御座います。
頼朝様は水干を着用なさられたとの事で…当時、水干は庶民の服装にもなっており、特に格式の高い装束というものでも御座いませんでしたが、貴族の方々も普通に着用されておりましたので、その生地の材質等によって格や印象は違っていたものと思われます。
この時代では上皇が遠方へ御幸される際に供奉の貴族が着装されていた事実もあるようで御座います。
流人の身であられた頼朝様では御座いますが、極端に着るものに苦労なされておられたとは考え辛いですし…ここでは、それなりに上質の衣を纏われて令旨に向かわれたのでは無いでしょうか。

同四月廿八日、都をたて、近江国よりはじめて、美濃尾張の源氏共に次第にふれてゆくほどに、五月十日、伊豆の北条にくだりつき、流人前兵衛佐殿に令旨たてまつり、信太三郎先生義憲は兄なればとらせんとて、常陸国信太浮島へくだる。

↑頼朝様のもとに令旨が届いた日は、吾妻鏡には4月27日(1180年5月23日)として伝えられておりますが、平家物語によれば5月10日(1180年6月4日)…他にも、諸本等によって微妙に日にちが違っているようで御座いますね。

令旨の内容は、“東海道、東山道、北陸道諸国の源氏や群兵等は、いち早く反逆者である平清盛とその一族追討せよ”というもので御座いました。
ちなみに、記されたのは源仲綱様で御座います。
“最勝王の勅命として平清盛と その次男 宗盛は力任せの武力行使を行い、国家を崩し、万民を悩ませた。全国を我が物のように扱い、法皇を幽閉して、良い役人を流罪に処した。人殺しに流罪の上、更には財産を横領して国司となり、官職を剥奪し、功の無い者に賞を与え、反意を唱える者には無実の罪を押し付けた。高僧、学僧を監禁し、延暦寺へ納める為の絹や米を独占して兵糧とした。帝に逆らい、仏法を破滅し、古代より続く伝統を絶やしてしまうであろう。これでは身分に関係無く、臣民皆を悲しませる事となる。故に、院の第二皇子として私は命じる。天武天皇に倣って奴等を追討し、聖徳太子に学んで、佛法を破滅させんとする奴等を滅ぼさん。これは、人の力だけに頼っているのでは無い、我々には偏に天道の天照大神の加護が付いているのである。天皇家に神仏が付いているのだ、これで力を合わせず戦わない理由は無いだろう。源氏、藤原氏、または東海、東山、北陸の三道諸国に勇士として名誉な名を残さんとする者は、この令を受け、力を合わせて平家を追討せよ。もしもこれに賛同せぬ者があれば、清盛やそれに従う者共と同じように捕えて死罪や流罪となるであろう。もしも手柄を立てたなら、即位の後に必ずや望むままの賞を与えよう。諸国の者達よ、この令旨に従えよ”
この内容は偽りだという説も御座いますが、それについて確かな事は分かっておりません。

頼朝様に令旨を届けると、行家様は甲斐や信濃に居る他の源氏の方々にも御報せする為、直ぐに伊豆を発たれたといいます。

木曾冠者義仲は甥なればたばんとて、山道へぞおもむきける。
其比の熊野別当湛増は、平家に心ざし深かりけるが、何としてか洩れ聞いたりけん、
新宮十郎義盛こそ高倉宮の令旨給はて、美濃尾張の源氏どもふれもよほし、既に謀反ををこすなれ。那智新宮のもの共は、さだめて源氏の方うどをぞせんずらん。湛増は平家の御恩を雨山とかうむたれば、いかでか背奉るべき。那智新宮の物共に矢一射かけて、平家へ子細を申さん」
とて、ひた甲一千人、新宮の湊へ発向す。
新宮には鳥井の法眼、高坊の法眼、侍には宇井、鈴木、水屋、亀の甲、那智には執行法眼以下、都合其勢二千余人なり。
時つくり、矢合して、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れとて、矢叫びの声の退転もなく、鏑のなりやむひまもなく、三日がほどこそたたかふたれ。
熊野別当湛増、家子郎等おほく討たせ、我身手おひ、からき命をいきつつ、本宮へこそにげのぼりけれ。


行家様が木曾義仲様を訪れられる頃、熊野では熊野別当 湛増様がこの事を清盛様に報告し、源氏方についている那智、新宮を討とうと新宮湊へと出陣されておりました。
この戦で湛増様は敗北、命からがら本宮へと逃れられておりますが、これによって以仁王様の企てが平家の耳に入る事となりました。
結果、宇治川の合戦にて頼政様は平等院で自害、逃れられる途中の以仁王様も討取られてしまっております。
然し、行家様が伝えまわった平家追討の灯火は、以仁王様が討たれた後も吹き消される事無く、燃え盛っていったので御座います。

行家様の苦労の甲斐あって、義仲様、頼朝様が それぞれ決起。
治承5年3月(1181年4月)、行家様は甥の義円様と共に大将軍として美濃尾張の国境で墨俣合戦を繰り広げられます。
が、この戦に源氏軍は惨敗。
義円様は、ここで戦死なさっておられます。
行家様は頼朝様を頼られますが、所領を要求して拒否された事によって不仲となり、以後は義仲様のもとに身を寄せられました。
ただ…これによって、鎌倉と木曽に対立が起こり、その和議の為に義仲様の嫡子 義高様が頼朝様の長女 大姫様の許嫁という建前で、鎌倉へ人質に入られており………義高様と大姫様に思い入れの強い私と致しましては、これまた どう捉えたら良いものか…と、非常に複雑な感じでは御座います;

寿永2(1183)年、行家様は義仲様と共に入京。
その直前に、平家御一門は京を落ちられております。
法皇様に拝謁する際、行家様は義仲様と序列を争われたとか、任官に御不満を唱えられたとか…何だか傍目には少々見苦しく感じられるような行為をなさったといわれておりますが、行家様にしてみれば それまでの人生全てを掛けて辿り着いた この瞬間に込められた思いは相当な強さであったので御座いましょう。
それは勿論、義仲様とて同じ事で…。
木曽の山で育たれた義仲様は、法皇様や京の貴族の方々に受け入れられるどころか、次第に不興を買っていかれてしまいます。
然し行家様は、上手く院に取り入られたようで……大河『義経』で、滝沢秀明君演じる義経様が後に この事を行家様に責められておりましたが、これも義高様の悲劇に繋がる原因の一端かと思うと、私も義経様と同じ意見だなと思わざるを得ない感じで御座いました。

行家様と義仲様の間に懸隔が生じ、行家様が院に義仲様の讒言を行った事が御本人に知られた為、衝突を避ける為に行家様は京を離れて平家討伐に向かわれます。
然し、播磨国室山で平知盛様、重衡様率いる平家軍の迎撃を受け、大敗。
命からがら逃れられた行家様は、河内 長野城に潜伏。
その後、行家様は息を潜めて過ごされる事となり、その間に木曽軍は討伐され、平家御一門は壇ノ浦に沈まれました…。

文治元年(1185)年の後半に入った頃、行家様は突如として甥の義経様の御前に御姿を現されます。
この時の義経様は、頼朝様と対立関係となられており、鎌倉勢に追われる身の上となられておりました。
義経様と提携された行家様は、頼朝様追討の院宣を受けられております。
が、頼朝様は直ちに行家様、義経様追討軍を放たれており、翌月には その院宣をも法皇様より下されております。
行家様、義経様は西海へと向かわれる為、大物浦より出航なさいましたが、暴風雨に遭い、遭難なさいます。
義経様方と再会する事が出来ぬまま漂着された行家様は、和泉国にて再び潜伏生活を送られたようで御座います。

さる程に、北条四郎六代御前具し奉て下りけるに、鎌倉殿御使鏡の宿にて行逢たり。
「いかに」
ととへば、
「十郎蔵人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心のよしきこえ候。討奉れとの御気色で候」
と申。
北条
「我身は大事の召人具したれば」
とて、甥の北条平六時貞が送りに下りけるを、おいその森より
「疾うわとのは帰て此人々おはし所聞出して討て参らせよ」
とて留めらる。
平六都に帰て尋る程に、十郎蔵人殿の在所知たりといふ寺法師いできたり。
彼僧に尋れば、
「我はくはしうは知らず。知りたりといふ僧こそあれ」
といひければ、おしよせてかの僧をからめとる。
「是はなんのゆへにからむるぞ」
「十郎蔵人殿の在所したなればからむる也」
「さらばをしへよ」
とこそいはめ。
「さうなうからむる事はいかに。天王寺にとこそ聞け」
「さらば尋所せよ」
とて、平六が聟の笠原の十郎国久、殖原の九郎、桑原の次郎、服部の平六
をさきとして其勢卅余騎、天王寺へ発向す。


平家物語には、六代様を鎌倉へ連行していた北条時政様が、鏡の宿にて出会した鎌倉からの使者に、義経様に与した行家様討伐の令が出ている事を告げられる場面が語られております。
六代様を連れられている時政様は、甥の北条時定様に その御役目を命じられ、時定様は京に戻られる事となりました。

捜索の結果、行家様の宿場は 谷の楽頭伶人の兼春様の所と、それから秦六様、秦七様という方々の2箇所である事が判ります。
行家様は兼春様のもとにいらっしゃいましたが、武装した鎌倉勢が討ち入って来る事にいち早く気付かれ、背後から逃走なさいました。
兼春様の2人の娘様は、共に行家様の思い人であられたようで、この時に捕えられておりますが、行家様の行方が知られる事は御座いませんでした。

行家様は、1人の従者と共に、縁の深い熊野の地を目指すべく急がれておりました。
然し、その従者の御方が足を痛められ、和泉国八木郷に留まられる事となります。
その八木郷の郷司は、行家様の事を見知っておりました。
そして、夜中に馬を京へ走らせ、この事を時定様に告げられたので御座います。
四天王寺に向かった軍勢が未だ戻っていなかった為、行家様討伐には常陸房正明様という法師様が向かわれる事となりました。

常陸坊様が和泉国に入り、件の家に到着した時、行家様の御姿は何処にも見当たりませんでした。
大路に出て、百姓の女性を引き留めて脅すと、それらしき方々がいらっしゃるという御家を喋られたので、常陸房様は袖ありの鎧に、大太刀を帯びて その御家に入りました。
中では、濃紺の衣に折烏帽子をつけた50歳位の男性がおり、常陸坊様の御姿を見ると逃げ出したので追い掛けられようとなさいましたが、それは囮で御座いました。
恐らくは、行家様の従者の御方だったので御座いましょう。
その者は違うとの呼掛けを受けて常陸坊様が戻ると、白の小袖に大口袴を着、左手に黄金の小太刀、右手に大太刀を持った行家様が待ち構えておられたので御座いました。

常陸房
「太刀なげさせ給へ」
と申せば、蔵人大に笑はれけり。
常陸房走よてむずときる。
ちやうどあはせて躍りのく。
又よてきる。
ちやうどあはせて躍りのく。
よりあひよりのき一時ばかりぞたたかふたる。
蔵人うしろなる塗籠の内へしざりいらんとし給へば、常陸房
「まさなう候。ないらせ給ひ候そ」
と申せば、
「行家もさこそおもへ」
とて又おどり出て戦ふ。
常陸房太刀を捨てむずと組んでどうどふす。
うへになり下になり、ころびあふ処に、大源次つといできたり。
あまりにあはててはいたる太刀をばぬかず、石をにぎて蔵人のひたいをはたとうて打わる。
蔵人大にわらて、
「をのれは下臈なれば、太刀長刀でこそ敵をばうて、礫にて敵うつ様やある」
常陸房
「足をゆへ」
とぞ下知しける。
常陸房は敵が足をゆへとこそ申けるに、余にあはてて四の足をぞ結うたりける。
其後蔵人の頸に縄をかけてからめ、ひきおこしておしすへたり。
「水参らせよ」
とのたまへば、干飯をあらふて参らせたり。
水をば召して糒をばめさず。
さしをき給へば、常陸房とてくうてげり。
「わ僧は山法師か」
「山法師で候」
「誰といふぞ」
「西塔の北谷法師常陸房正明と申者で候」
「さては行家につかはれんといひし僧か」
「さ候」
「頼朝が使か、平六が使か」
「鎌倉殿の御使候。誠に鎌倉殿をば討参らせんと思し召し候しか」
「是程の身になて後思はざりしといはばいかに。思ひしといはばいかに。手なみの程はいかが思ひつる」
との給へば、
「山上にて多くの事にあふて候に、いまだ是ほど手ごはき事にあひ候はず。よき敵三人に
逢たる心地こそし候つれ」
と申。
「さて正明をばいかが思めされ候つる」
と申せば、
「それはとられなんうへは」
とぞのたまひける。
「その太刀とりよせよ」
とて見給へば、蔵人の太刀は一所もきれず、常陸房が太刀は四十二所きれたりけり。
やがて伝馬たてさせ、のせ奉てのぼる程に、其夜は江口の長者がもとにとどまて、夜もすがら使をはしらかす。
明る日の午剋ばかり、北条平六其勢百騎ばかり旗ささせて下る程に、淀の赤井河原でゆき逢たり。
「都へは入れ奉るべからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御気色も其儀でこそ候へ。はやはや御頸を給はて、鎌倉殿の見参に入れて御恩蒙給へ」
といへば、さらばとて赤井河原で十郎蔵人の頸をきる。
 (平家物語 高野本による)


太刀を捨てろと言う常陸坊様に、ただ笑って返された行家様は、そのまま1対1の戦闘に突入されました。
走って斬り込まれた常陸坊様の刀を受けて、踊るように退かれる行家様。
そのような遣り取りを繰り返し、約2時間もの時を過ごされた御2方で御座いましたが、ある きっかけで後退りをしながら行家様が塗籠に入られようとしたので、常陸坊様が
「見苦しい事ですよ、そのような所へ入られる等」
と申されると、行家様は
「行家も、そう思う」
と仰っておられまして……不謹慎ですが 私、行家様の この台詞が好きで御座いまして///
実際は そのような事は決して無いので御座いましょうけれど、何だか可愛らしく思えてしまうので御座います…も、申し訳御座いません。。
おっと、御話が逸れました;
再び躍り出て戦われた行家様に、常陸房様は太刀を捨てて組み掛かられました。
御2人は倒れて、上下を幾度も入れ替わりつつ戦われておりましたが、そこへ突然現れた大源次様が、慌てて石で行家様の額を殴られました……。
行家様は これを笑い飛ばしておられますが、常陸坊様が大源次様に足を縛るよう命じると、なんと更に慌てられたのか、行家様と常陸坊様の足を纏めて一緒に縛り上げてしまわれました。
行家様は引き起こされた際に、水を持って来るように言われますが、大源次様は御丁寧にも水に浸した干飯を持って来られております(笑)
行家様が水だけを飲まれ、残った干飯を常陸房様が食べられたので、何だか場が和んだのかもしれませんね。
御2人は、対談を始められました。

行家様 「貴方は、山法師か?
常陸坊様「はい、山法師で御座います
行家様 「名は何という?
常陸坊様「西塔の北谷の法師で“常陸房正明”と申す者で御座います
行家様 「もしや、以前 行家に仕えたいと言っていた僧か?
常陸坊様「正しく、その通りに御座います
行家様 「それで、今は頼朝の使いか、それとも時定の使いか?
常陸坊様「鎌倉殿の御使いで御座います。
    本当に鎌倉殿を討取られようと御考えで御座いますか?

行家様 「このような立場となっては、最早そう思ったところで何にもなるまい。
    思っていたと言っても、どうにもならないであろう。
    貴方は、私の手並の程をどう思われただろうか?

常陸坊様「比叡の山上では色々な事に遭っておりましたが、今までこれ程までに手強い御相手と思った事は御座いませんでした。
    強敵3人に逢ったような心地で御座いました。
    では、逆に…私の方は、どう思われましたでしょうか?

行家様 「それは、捕われの身の上となっては言えぬ事だが…

行家様は言葉にはなさいませんでしたが、太刀を見せてみろと告げて御互いの太刀を見比べてみた時、行家様の太刀には刃こぼれひとつ無かったのに対し、常陸坊様の太刀は42ヶ所で刃が欠けていたという事で御座いました。
このエピソードは、行家様にまつわる御話の中で、私が いちばん好きな場で御座います。

その後、直ぐに伝馬が用意され、行家様は京へと連行される事となりましたが、その翌日の正午頃、淀の赤井河原で時定様率いる軍勢と行き合ったところで、行家様は斬首となりました。
京には入れぬようにとの法皇様の命が出されており、頼朝様も同じ御意向であった為の処断に御座いました。
行家様の御首を斬られたのは、常陸房様。
隠棲生活の多かった行家様の御生涯は、武士らしい御最期で幕を閉じられたので御座いました。
生年不詳につき、確かな享年も判ってはおりません。

文治二年五月二十五日
廿五日 壬寅
能保朝臣、平六□仗時定、及常陸房昌明等飛脚、參著。
持參前備前守行家之首。
先被召件使者於營中、被尋問事次第、各申云、備州、日來横行和泉河内邊之由、風聞之間、捜求之處、去十二日、在于和泉國一在廳日向權守清實許之由、得其告行向、圍清實小木郷宅。
先之、備州、迯到後山、入或民家二階之上。
時定、襲寄於後。昌明競進出。
備州、所相具之壯士一兩輩、雖防戰、昌明搦取之。
時定、相加其所、梟首畢。
同十三日、又誅備州男大夫尉光家<云々>
又左典厩書状到來。
前備前守誅戮事、以左少辨定長、奏聞之處、不可被知食、可申攝政之由、被仰下。
仍申攝政、又不知之由、返答之間、送献之<云々>
此事、御感已絶常篇。
恩賞、尤得其次者也。
 前備前守從五位下、源朝臣行家。
  大夫尉爲義十男
  治承四年四月九日補八條院藏人<本名、義盛。今同改行家、>
  壽永二年八月七日、任備後守<勲功賞>
  同十三日遷任備前守
 檢非違使從五位下、左衛門權少尉同朝臣光家。
 前備前守行家一男。
  壽永二年十一月九日、補藏人、任左衛門權少尉。
  蒙使 宣旨、<勲功賞。>
  元暦二年六月十六日、叙留。
 (吾妻鏡による)


文治2年5月25日(1186年6月14日)、鎌倉に行家様の御首が届けられました。
簡潔に行家様捕獲の経緯が説明されておりますが、吾妻鏡の記述によれば、行家様は逃げ込んだ民家の2階にて時定様と共に討取られたという事になっているようで御座いますね。

一条能保様の書状によりますと、行家様を殺害の旨を法皇様と摂政様に御報告したところ、どちらからも与り知らぬと返されてしまったので鎌倉へ送られる事となったのだとか…。

何と申しましょうか、源氏の御方と致しましては実にコメントし辛い部分も多い御方なので御座いますが、波瀾万丈な人生を歩まれた事は確か。
生きる時代や、生まれた御家が違えば、また違う人生が花開いておられた事とは思いますが、行家様が源氏の御方として生まれ育ち、そして源氏によって命を落とされた事から学ぶ事は実に多いと考えております。

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引く弓の、加減を心の軸として。
景時様

□ 梶原景時(かじわらのかげとき)

生  年:保延6(1140)年?
没年月日:正治2年1月20日(1200年2月6日)
  父  :梶原景清
  母  :横山孝兼女
兄  弟:朝景、友景、景道
  妻  :横山孝兼三女、狩野尼
  子  :景季、景高、景茂、景国、景義、景宗、景則、景連、女(武藤資頼妻)
戒  名:龍泉院梶勝源公
通  称:平三


梶原景時様といえば、鎌倉幕府の有力御家人。
諸説御座いますが、梶原氏は桓武平氏 平良文様の御子孫で、鎌倉党 坂東八平氏に数えられる一族といわれます。
本領は、相模国梶原郷。
元々は源氏に仕える御家系で御座いましたが、平治の乱の後は平家方として存続されておりました。
文武両道に長けた御方として知られておりますが、判官贔屓な近代においては、義経様を悲劇の結末へと導いた張本人として悪者的な扱いをされる事も多いですね…;

治承4(1180)年、源頼朝様が挙兵なさると、景時様は大庭景親様と共に頼朝様の討伐に向かわれました。
石橋山合戦にて頼朝様の軍に勝利され、景時様は山中へと潜まれた頼朝様を探し発見されますが、ここで頼朝様の事を見逃されております。

大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。
佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。
景時哀に見奉りて、
「暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へ」
と申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。
景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。
佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。
後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。
平三伏木の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、
「此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へ」
とぞ下知しける。
大場見遣て、
「彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べし」
と云ひけるが、
「其も時刻を移すべし、よしよし景親入て捜てみん」
とて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、
「やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺に劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさん」
と宣はば、
「我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は」
と云ければ、大場もさすが不入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からりからりと二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。
深く八幡大菩薩を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はたはたと羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。
 (源平盛衰記による)


この場面は、矢張り源平盛衰記に語られるイメージが強いですね。
景親様が怪しまれる臥木の洞窟に入られた景時様は頼朝様を見付けられますが、その時に自害なさろうとした頼朝様を制止し、貴殿が戦に勝った際には御忘れにならぬようにと告げると、体を張って庇っておられます。
この出逢いが後の運命を大きく変える事を、景時様は本能的に悟られておられたのかもしれません。

鎌倉へと入られた頼朝様は、同年10月(1180年11月)の富士川合戦にて平維盛様率いる平家軍に勝利。
大庭景親様は捕えられた後に処刑されておりますが、2ヵ月後に土肥実平様経由で降伏した影時様は、養和元(1181)年のはじめに頼朝様と対面を果たされ、頼朝様の厚い信任を得、鎌倉御家人に列せられる事となりました。
侍所所司に任命された他、鶴岡八幡宮若宮造営や御台所 政子様の出産奉行等、重要な役割を担っておられます。

寿永2年12月(1184年2月)、景時様は頼朝様の命により上総広常様を殺害致します。
後に誤解であった事が判明するようで御座いますが、頼朝様は東国で大きな勢力を有していた広常様が謀反を企てられているという噂に不安を抱かれたので御座いましょうか…景時様は、広常様と双六を楽しんでいた最中、隙をついて御首をとられたので御座いました。

寿永3(1184)年には、御嫡男 景季様と共に宇治川合戦、続いて一ノ谷合戦に参戦。
一ノ谷合戦において、景時様は当初 義経様の侍大将で御座いましたが、義経様とは余り御気が合わなかったようで範頼様率いる大手軍へと変わっておられます。
景時様は、景季様、景高様と、生田口の平知盛様率いる軍勢と交戦されました。
この時、私党の方々が先陣を争って抜駆けをされておりますが、家人が少ない河原兄弟は2人共に死を決して平家陣へと矢を放ち、平家方の真名辺四郎様、五郎様兄弟に討たれ亡くなりました。
これを知った景時様は、それぞれが自分勝手に功名を求めた結果が軍全体にどれだけの損害を与えるのか考えられないのかと、大変御怒りになっておられます。

其時下人ども、
「河原殿おととい、只今城の内へまさきかけて討たれ給ひぬるぞや」
とよばはりければ、梶原是をきき、
「私の党の殿原の不覚でこそ、河原兄弟をばうたせたれ。今は時よくなりぬ。よせよや」
とて、時をどとつくる。
やがてつづひて五万余騎一度に時をぞつくりける。
足がる共にさかも木取のけさせ、梶原五百余騎おめひてかく。
次男平次景高、余にさきをかけんとすすみければ、父の平三使者をたてて、
「後陣の勢のつづかざらんに、さきかけたらん者は、勧賞あるまじき由、大将軍のおほせぞ」
といひければ、平次しばしひかへて
「“もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかは”と申させ給へ」
とて、おめいてかく。
「平次うたすな、つづけやものども、景高うたすな、つづけやものども」
とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。
梶原五百余騎、大勢のなかへかけいり、散々にたたかひ、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、ざとひいてぞ出たりける。
いかがしたりけん、其なかに景季はみえざりけり。
「いかに源太は、郎等ども」
ととひければ、
「ふかいりしてうたれさせ給ひて候ごさめれ」
と申。梶原平三是をきき、
「世にあらんと思ふも子共がため、源太うたせて命いきても何かはせん、かへせや」
とてとてかへす。
梶原大音声をあげて名乗りけるは、
「昔八幡殿、後三年の御たたかひに、出羽国千福金沢の城を攻させ給ひける時、生年十六歳でまさきかけ、弓手の眼を甲の鉢付の板にいつけられながら、当の矢をいて其敵をいおとし、後代に名を
あげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は、景時うて見参に入れよや」
とて、おめいてかく。
新中納言
「梶原は東国にきこえたる兵ぞ。あますな、もらすな、うてや」
とて、大勢のなかに取こめて攻給へば、梶原まづ我身のうへをば知らずして、
「源太はいづくにあるやらん」
とて、数万騎の大勢のなかを、たてさま、よこさま、蛛手、十文字にかけわりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲にたたかいなて、馬をもいさせ、かち立になり、二丈計ありける岸をうしろにあて、敵五人がなかに取籠られ、郎等二人左右に立てて、面もふらず、命も惜しまず、ここを最後とふせきたたかふ。
梶原是を見つけて、
「いまだうたれざりけり」
と、いそぎ馬よりとんでおり、
「景時ここにあり。いかに源太、しぬるとも敵にうしろをみすな」
とて、親子して五人の敵、三人うとり、二人に手おほせ、
「弓矢とりはかくるもひくも折にこそよれ、いざうれ、源太」
とて、かい具してぞ出たりける。
梶原が二度のかけとは是なり。


ここは、景時様に関する御話の中で私がいちばん好きな件で御座います。

合戦が始まると、景時様は御次男の景高様が先駆けをされようとするのを諫める為に使者を送られておりますが、それに対して景高様は

   もののふの とりつたへたる あづさ弓
     ひいては人の かへすものかは


“武士が、先祖代々伝えられてきた梓弓を引いてしまったのです。
 1度引いた弓は、元には戻りません”


と景時様に御歌を伝えられ、再び進んで行かれました。
景時様は、予想外な息子の反応に驚かれた部分もあったので御座いましょう…平次を討たせるな、景高を討たせるなと、景季様、御三男 景家様を従えて駆け出されました。
梶原500騎は本隊から離れてしまいますが、ここで歩を緩める事は武名に関わるとして、そのまま平家の軍勢の中へと突進されていきました。
大軍を有す平家の中で景時様の軍勢は僅か50騎となり、敵陣を退かれたので御座いますが、退陣してみると、景季様の御姿が何処にも見えない事に気が付かれます。
所在を尋ねると、もしや深入りなさって討たれたのかもしれない…等と、ひとりの郎等が発言しました。
景時様も、人の親で御座います。
この世に行き留まろうと思うのも、子供達の為…源太を敵に討たせて、自分の命が助かったとして、一体それが何になろう!引き返す!」
と敵陣に舞い戻り、そこで勢い良く名乗りを上げられました。
「昔、八幡太郎義家殿が後三年合戦で、出羽国千福の金沢城を攻められた時、生年16歳にして先陣を駆け、左眼を射貫かれながらも、その矢を引き抜き相手を射殺したと、後代にまで名を挙げられた鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時、一騎当千の強者である。
 我と思わん者は、この景時を討ち取って、そちらの大将軍の元へ差し出すが良い!」
これを見た知盛様は、梶原は東国に聞こえる強者であるとして、士気を高められました。
激しい戦乱の中、景時様は ようやっと地面で戦う景季様を発見されますが、そんな景季様に死んでも敵に背を向けるような事はするなと励ましておられます。
弓矢を取る者は、進むも引くも機を見て行わねばならぬ。さあ源太、続け!
ここで先程の御歌に対する御返事で御座いますかー!と、思わず余裕なのでは無いかと思わせられるような発言で御座いますが…こういう所も、平家物語の魅力の1つで御座いますね。
ここで景時様は景季様を抱えて馬に飛び乗り、敵陣を突破。
2度も敵陣へ飛び込んだ景時様の事を“梶原の二度駆け”と呼ばれ、誰もが讃えられたといわれます。

合戦後、景時様は播磨、備前、美作、備中、備後の5ヶ国守護を命じられております。
そして一ノ谷で捕虜となった平重衡様を鎌倉へと護送する為に上洛されると、平家の所有していた領地を没収なさいました。

さて…一ノ谷合戦で戦功をあげられた人物として、特に有名なのは義経様で御座いますね。
然し、合戦後の小除目に際して、義経様には任官がなされませんでした。
その後、義経様は頼朝様の許可無く、後白河法皇より従五位下に叙せられ、左衛門少尉、検非違使少尉に任官して、院への昇殿を許されました。
この辺りから、掛け違い始めた釦と釦穴のように、頼朝様と義経様の御関係の雲行きが怪しくなってくるので御座います。

元暦元(1185)年のはじめ、一ノ谷に続いて、屋島合戦を迎えるにあたり、頼朝様は敢えて出陣命令を下していなかった義経様に摂津国にて軍を編成させ、讃岐国屋島に本営を構える平家軍を攻撃する事を定められました。
ここで行われたのが、景時様vs義経様による“逆櫓”の論争で御座いますね。
恐らくは、景時様にまつわる御話の中で最も有名なのでは無いかと…。

渡辺には大名小名よりあひて、
「抑ふないくさの様はいまだ調練せず。いかがあるべき」
と評定す。
梶原申けるは、
「今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候ばや」
判官
「さかろとはなんぞ」
梶原
「馬はかけんと思へば弓手へも馬手へもまはしやすし。舟はきとをしもどすが大事候。ともへに櫓をたてちがへ、わいかぢを入れて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」
と申ければ、判官の給ひけるは、
「いくさといふ物はひとひきもひかじと思ふだにも、あはひあしければひくはつねの習なり。もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門でのあしさよ。さかろをたてうとも、かへさまろをたてうとも、殿原の舟には百ちやう千ぢやうもたて給へ。義経はもとのろで候はん」
との給へば、梶原申けるは、
「よき大将軍と申は、駆くべき処をばかけ、退くべき処をばひいて、身をまたうしてかたきをほろぼすをもてよき大将軍とはする候。かたおもむきなるをば、猪のしし武者とてよきにはせず」
と申せば、判官
「猪のしし鹿のししはしらず、いくさはただひらぜめにせめてかたるぞ心地はよき」
との給へば、侍共梶原におそれてたかくはわらはねども、目ひきはなひきぎぎめきあへり。
判官と梶原とすでに同士いくさあるべしとざざめきあへり。
やうやう日くれ夜に入ければ、判官の給ひけるは、
「舟の修理してあたらしうなたるに、おのおの一種一瓶してゆはひ給へ、殿原」
とて、いとなむ様にて舟に物の具入れ、兵粮米つみ、馬どもたてさせて、
「疾く疾くつかまつれ」
との給ひければ、水手梶取申けるは、
「此風は追手にて候へども、普通にすぎたる風で候。奥はさぞふいて候らん。争か仕候べき」
と申せば、判官おほきにいかての給ひけるは、
「野山のすへにてしに、海河のそこにおぼれてうするも、皆これせんぜのしゆくごう也。海上にいでうかふだる時風こわきとていかがする。むかひ風にわたらんといはばこそひが事ならめ、順風なるが少しすぎたればとて、是程の御大事にいかでわたらじとは申ぞ。舟つかまつらずは、一々にしやつばら射ころせ」
と下知せらる。
奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、伊勢三郎義盛、片手矢はげ、すすみ出て、
「何条子細を申ぞ。御ぢやうであるにとくとく仕れ。舟仕らずは一々に射殺さんずるぞ」
といひければ、水手梶取是をきき、
「射殺さんもおなじ事、風こはくは、ただはせじににしねや、物共」
とて、二百余艘の舟のなかに、ただ五艘出でてぞはしりける。
のこりの船は風におそるるか、梶原におづるかして、みなとどまりぬ。
判官の給ひけるは、
「人の出でねばとてとどまるべきにあらず。ただの時はかたきも用心すらむ。かかる大風大浪に、思ひもよらぬ時にをし寄せてこそ、思ふかたきをばうたんずれ」
とぞの給ひける。 (平家物語 高野本による)


景時様は、兵船に逆櫓をつけて進退の自由を優先すべきと提案なさっておられますが、義経様は逃げる準備等いらぬ!という御意見……B型?(笑/すみません;)
逆櫓でろうが返様櫓であろが、貴殿等の船には百挺でも千挺でも付ければ良かろう!義経の船にはいらぬ
……なんて事を言われてしまっても、
良き大将軍というものは、出る所では出、引き際を知り、身を全うして敵を滅ぼすものです。
 そのように、短慮な事ではいけませんよ、それではまるで突き進むことしか知らぬ愚かな猪武者ですぞ

と景時様は、大人な対応…年齢差は、はっきりとはしないものの最低でも20歳位は離れておられたのでは無いかと。。
冷静かつ慎重な御考えで行動なさりたい景時様とは、どうあっても気が合わなかったのかもしれません;
結局、勝てば良いのだし、その方が気持ちが良い!的な御考えの義経様とは相容れる事無く……この件に関しては、結果的には確かに咎められるべき事にはなりませんでしたけれど…大勢の部下を従える大将軍の御言葉としては、危なっかしくて…正直、景時様のアイディア云々よりも、その発言の裏側を、義経様には汲み取って和解して欲しかったなぁー…と思わされる私で御座います。
歴史に“if”は御座いませんけれど、でも たったそれだけで変わった未来も想像出来てしまうのが、恐ろしいところで御座いますね;;

景時様との内乱には至らなかったものの、更に義経様は悪天候にも関わらず、順風であるなら構わぬ!とばかりに強引に出航されてしまいました…。
暴風の中、僅かな数で上陸された義経様は、あっという間に屋島を攻め落とされます。
景時様率いる140余艘の本隊が到着する頃には、既に平家軍は逃げられておりました。
この事から、景時様は五月五日の端午の節句に間に合わなかった菖蒲という意味を込めて“六日の菖蒲”と嘲笑されてしまったといいます。

そして、壇ノ浦での決戦。
平家物語によりますと、この時に景時様は先陣を希望されておりますが、なんと総大将の義経様は自らが先陣に立たれると言われ、総大将が先陣とは何事かと騒動になっております。
合戦は、義経様の御活躍によって源氏の勝利、平家の滅亡という形で終結致しましたが、肝心の三種の神器を完全に取り戻す事は叶いませんでした。

元暦2年4月21日(1185年5月22日) 九州より鎌倉へ、景時様が親類の方を御使いに文書を届けられました。
その手紙の内容は、はじめに合戦の次第について、そして後半は義経様の不義について訴えられる内容で御座いました。

元暦二年四月二十一日
廿一日 甲戌
梶原平三景時飛脚、自鎮西參著。
差進親類献上書状。始申合戰次第、終訴廷尉不義事。
其詞云、西海御合戰間吉瑞多之。
御平安事、兼神明之所示祥也。
所以者、何、先三月廿日、景時郎従、海太成光夢想、浄衣男、捧立文來。是石清水御使、覺、披見之處、平家未日可死載<タリ。>覺之後、彼男相語、仍未日、搆<テ、>可決勝負之由、存思之處、果而如旨。
又攻落屋嶋戰場之時、御方軍兵不幾、而數萬勢、<マボロシニ>出現<テ、>敵人見<云云>。
次去々年、長門國合戰之時、大龜一出來、始浮海上、後<ニハ>昇陸。
仍海人恠之、参河守殿御前持参。
以六人力、猶持煩之程也。
于時、可放其甲之由、相儀之處、先之有夢之告、忽思合、参河守殿、加制禁、剰付簡<テ。>被放遣畢。
然臨平氏最後、件龜再浮出于源氏御舩前、<以簡知之>次白鳩二羽、翻舞于舩屋形上、當其時、平氏宗人人、入海底、次周防國合戰之時、白旗一流、出現于中虚。
暫見御方軍士眼前、終収雲膚畢。
又日、判官殿、爲君御代官、副遣御家人等、被遂合戰畢。
而頻雖被存一身之功由、偏依多勢之合力歟。
謂多勢、毎人不思判官殿、志奉仰君之故、勵同心之勲功畢。
仍討滅平家之後、判官殿、形勢、殆超過日来之儀。
士率之所存、皆如踏薄氷。敢無眞實和順之志。
就中景時、爲御所近士、愍伺知嚴命趣之間、毎見彼非據、可違關東御氣色歟之由、諫申之處、諷詞還爲身之讎、動招刑者也。
合戰無爲之命、祇候。
無所據。
早蒙御免、欲歸參<云云>。
凡和田小太郎義盛、與梶原平三景時者、侍別當所司也。
仍被發遣舎弟兩將於西海之時、軍士等事、爲令奉行、被付義盛於參州被付。
景時於廷尉之處、参州者、本自依不乖武衛之仰、大少事示合于常胤義盛等。
廷尉者、挿自専之慮曽不守御旨。
偏任雅意、致自由張行之間、人之成恨、不限景時<云云>。


この文の後半で景時様は、先ず義経様が頼朝様の代官として派遣され、鎌倉の御家人を与えられておられたが故に、合戦に勝利する事が出来たと記されております。
然し、御自らの策略による独り善がりな戦功と思い込まれている御様子…多くの武士達が鎌倉殿の為に心を合わせて協力したからこそ勝てた訳で、義経様に従われていたという事では無いといわれております。
それなのに、平家を滅ぼした後の判官殿は、まるで思い上がっていらっしゃる。
 付き従う兵達は、薄い氷の上を歩いているような心持ちで、心から判官殿に従っている訳では御座いませぬ。
 この景時は、頼朝様の側近として鎌倉殿の求める真の目的を存じておりますので、間違いを指摘する事も御座いましたが、判官殿は御怒りになられるばかりで、危うく処刑されそうな事になってしまいます。
 合戦が終わった今、御傍に居てもどうするという事も御座いません、ただただ今は早く関東へ帰る御許しをいただきとう御座います

景時様は、義経様が自己中心的なので、自分だけで無く他の武士達も恨みに感じておりますと報告されたので御座いました。
いわゆる“梶原景時の讒言”と呼ばれる御手紙で御座います。
この文書が、どれだけ頼朝様の御内情に関わられたかは存じませんが、この後 義経様は鎌倉への帰還を許されず、その御生涯において2度と兄 頼朝様と対面する事は御座いませんでした。
平泉にて義経様が自刃なさった後、鎌倉へと送られた御首を実検されたのは、和田義盛様、そして景時様で御座いました。

“梶原景時の讒言”と呼ばれる例は、他にも幾つかあるようで…。
土佐国の住人 夜須行宗様が壇之浦合戦での恩賞を願い出られた際、景時様は そのような者は居なかったとして申し立てられておりますが、これには証人がいらっしゃった為、景時様には処罰が科せられております。
また、畠山重忠様が謀反を企てていると言上された際には、重忠様の誠意が頼朝様に届き、身の潔白が証明されました。
もしかすると、その時その時の裏の事情等が御有りだったのかもしれない…とは思いますが、その深い御心の中までは知る由も御座いません。

建久3(1192)年、和田義盛様に代理として侍所別当に就任。
これは別当職を臨んでいた景時様が、謀って職を奪ったとされております。

正治元年正月13日(1199年2月9日)、頼朝様 御逝去。
景時様は、宿老として引き続き幕府の中心で2代将軍 頼家様に御仕えされました。
十三人の合議制が置かれると、景時様もその御1方として列せられております。

頼朝様亡き後も、頼家様の御傍で その権力を誇り、尚且つ 将軍への告口が悪質であるとして、景時様は次第に他の御家人衆の方々より敵視されていかれる事となります。
ついに、有力御家人を含む諸将66名による景時様排斥を求める連判状が提出されると、景時様は“引き時”と感じられたので御座いましょうか、抗う事無く一族の方々と共に相模国一ノ宮の館へと退かれました。

…と思いきや(笑)
正治2年正月(1200年2月)、景時様親子は甲斐源氏 武田有義様を将軍に擁立しようとし、上洛を試まれました。

正治二年正月二十日
廿日 丁未晴
辰剋、原宗三郎、進飛脚申云、梶原平三景時、此間於當國一宮、搆城郭、備防戰之儀。
人以成恠之處、去夜丑剋、相伴子息等、偸遜出此所。
是企謀叛、有上洛聞<云云>。
仍北條殿、兵庫頭大夫屬入道等、參御所、有沙汰、爲追罰之、被遣三浦兵衛尉、比企兵衛尉、糟谷藤太兵衛尉、工藤小次郎已下軍兵也。
亥剋、景時父子、到駿河國清見關。
而其近隣甲乙人等、爲射的群集。
及退散之期、景時相逢途中、彼輩恠之、射懸箭。
仍芦原小次郎、工藤八郎、三澤小次郎、飯田五郎追之。
景時、返合于狐崎、相戰之處、飯田四郎等二人、被討取畢。
又吉香小次郎、澁河次郎、舩越三郎、矢部小次郎、馳加于芦原吉香。
相逢于梶原三郎兵衛尉景茂、<年卅四>互令名謁、攻戰共以討死。
其後、六郎景國、七郎景宗、八郎景則、九郎景連等、並轡、調鏃之間、挑戰難決勝負、然而漸當國御家人等競集、遂誅彼兄弟四人。
又景時、並嫡子源太左衛門景季、<年卅九、>同弟平次左衛門尉景高、<年卅六、>引後山、相戰。
而景時、景高、景則等、雖貽死骸、不獲其首<云云>


正治二年正月二十一日
廿一日 戊申
巳剋、於山中、捜出景時并子息二人之首。
凡伴類三十三人、懸頚於路頭<云云>。
 (吾妻鏡による)


然し、その道中 駿河国清見関にて在地武士と争う事とになり、狐崎にて御嫡男 景季様、次男 景高様、三男 景茂様が討死なされ…景時様は、西奈山上にて自害して果てられました。
生年不詳につき、享年不詳。
梶原景時の変と呼ばれるこの戦闘で、梶原一族33人が討死なさっておられます。

玉葉によりますと、景時様が追放となった原因は、頼家様に 弟 実朝様を将軍に据えようと企んでいる者がいるという事を報告した為という事になっております…。
ただ、実際のところ…それは その通りになってしまったと…いう感じで御座いますので…一概に、吾妻鏡の記録を鵜呑みにするのも如何なものかと思わない事も御座いません;

悪役的な存在として物語等で扱われる景時様では御座いますが……それは、どなたの視線から考えた場合の事なので御座いましょう。
義経様を中心に源平合戦と鎌倉方の諸々を見ていけば、確かに景時様には物申したくなる気持ちにさせられるような気も致します。
人に、“善”だとか“悪”だとか…そんな役割を押し付けて考えるのは、とても悲しい事で御座いますね。
ですが、そこから生まれる文化というものも確かに御座います。
善悪無くして、日本の昔話は語れませんよね。

景時様は、和歌の上手としても知られた御方で御座いました。
奥州討伐に従軍された際にも、頼朝様と御歌を交わされておりますし、建久元(1190)年の頼朝様上洛に同行なさった際にも、遠江国橋本宿での宴で 頼朝様と御歌を詠まれております。
景時様にとって、本当に大切だったもの――それは、決して1つでは無かったので御座いましょうけれど、その御心の中には いつも頼朝様の存在が鮮明であったのでは無いでしょうか。

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斉藤別当様を組み討たれし忠臣。
光盛様

□ 金刺光盛(かなさしみつもり)

生 年:不詳
没 年:寿永3(1184)年?
 父 :光頼
 母 :不詳(おとせ?)
 兄 :盛澄
 妻 :不詳
 子 :唐糸
通 称:手塚太郎、手塚光盛


金刺光盛様は 信濃国諏訪の御出身で、諏訪武士団の頭領 金刺盛澄様の弟様で御座います。
諏訪下宮の大祝 金刺一族の御方で、信州塩田平の手塚に御館を構えられていた事から“手塚太郎”様、“手塚光盛”様と呼ばれる方が多いようで御座いますね。

兄 盛澄様は、吾妻鏡によりますと元々 平家方であられた…という事になっておりますが、平家物語に登場はされないものの、木曾義仲様を匿われて養父となられたとも伝えられており、義仲様亡き後には鎌倉幕府の御家人となられておられます。
一方、光盛様は…といいますと、平家物語では木曾勢の有力人物として伺えますが、吾妻鏡に御名前を見る事は出来ません。
御2人が御兄弟であるといわれるのは、室町期の諏訪大明神絵詞の記述による事で御座います。

その御出生等について、余り詳しい事は分かっておりませんが、光盛様は治承4(1180)年に挙兵された義仲様の傘下に入り、最期の時まで義仲様に尽くされておられます。

光盛様といえば、寿永2(1183)年の篠原合戦において、斎藤実盛様を討ち取られた件が特に知られておりますね。

又武蔵国の住人長井斎藤別当実盛、みかたは皆落ちゆけ共、ただ一騎かへし合はせ返し合はせ防たたかふ。
存るむねありければ、赤地の錦の直垂に、もよぎおどしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、切斑の矢おひ、滋藤の弓もて、連銭葦毛なる馬にきぶくりんの鞍をいてぞのたりける。
木曾殿の方より手塚の太郎光盛、よい敵と目をかけ、
「あなやさし、いかなる人にて在せば、み方の御勢は皆落候に、ただ一騎のこらせ給ひたるこそゆうなれ。名乗らせ給へ」
と詞をかけければ、
「かういふわとのは誰そ」
「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」
とこそ名乗たれ。
「さてはたがひによい敵ぞ。但わとのをさぐるにはあらず、存るむねがあれば名のるまじひぞ。よれくまふ手塚」
とておしならぶる処に、手塚が郎等をくれ馳にはせ来て、主をうたせじとなかにへだたり、斎藤別当にむずとくむ。
「あぱれ、をのれは日本一の剛の者とぐんでうずな、うれ」
とて、とて引よせ、鞍のまへわにおしつけ、頸かききて捨てげり。
手塚太郎、郎等がうたるるをみて、弓手にまはりあひ、鎧の草摺引きあげて二刀さし、よはる処にくんでおつ。
斎藤別当こころはたけく思へども、いくさにはしつかれぬ、其上老武者ではあり、手塚が下になりにけり。
又手塚が郎等をくれ馳に出できたるに頸とらせ、木曾殿の御まへに馳まいて、
「光盛こそ奇異のくせ者くんでうて候へ。侍かと見候へば錦の直垂をきて候。大将軍かと見
候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ候つれども、終になのり候はず。声は坂東声で候つる」

と申せば、木曾殿
「あぱれ、是は斎藤別当であるごさんめれ。それならば義仲が上野へこえたりし時、おさな目に見しかば、しらがのかすをなりしぞ。いまは定而白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいこそあやしけれ。樋口次郎はなれあそで見したるらん。樋口めせ」
とてめされけり。樋口次郎ただ一目みて、
「あなむざんや、斎藤別当で候けり」
木曾殿
「それならば今は七十にもあまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいはいかに」
との給へば、樋口次郎涙をはらはらとながひて、
「さ候へばそのやうを申あげうど仕候が、あまり哀で不覚の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりはいささかの所でも思ひいでの詞をば、かねてつかひをくべきで候ける物かな。
斎藤別当、兼光にあふて、つねは物語に仕候し。『六十にあまていくさの陣へむかはん時は、びんぴげをくろう染てわかやがふど思ふなり。其故は、わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし、又老武者とて人のあなどらんも口惜かるべし』と申候しが、まことに染て候けるぞや。あらはせて御らん候へ」
と申ければ、
「さもあるらん」
とて、あらはせて見給へば、白髪にこそ成にけれ。


まるで大将軍を思わせるようないでたちで、ただひとり最期まで戦われる覚悟を決められていた実盛様の前に現れたのが、光盛様。
光盛様は実盛様に名乗りを求めますが、先に御自身が名乗られると、御互いに良い敵であろうとして実盛様は一切名乗られませんでした。
光盛様の郎党は実盛様に討たれてしまいますが、決着は光盛様の勝利に終わりました。

実盛様を組み討たれた光盛様は、その御首を木曽軍の陣へと持ち帰られます。
義仲様に、大将軍かと思われるのに御ひとりで 最期まで名乗らなかったが、関東訛りで喋る武将であった事を御伝えすると、その御首を見た義仲様は ひと目で この御方が幼い頃に見た実盛様である事に気が付かれました。
実盛様は、義仲様の命の恩人。
詳しいエピソード等は語られませんが、義仲様は御幼少の頃の御記憶に実盛様の事を確かに刻み付けられておられました。
元々は源氏方であった実盛様で御座いますが、時勢が変わる中で源氏方から平家方の武将として生きられる事を選ばれ、かつて御自ら救われた源氏の御曹司 義仲様と敵対関係となっておられたので御座いました。

白髪である筈の実盛様が、白髪を黒く染めてまで臨まれた最期の戦。
義仲様に呼ばれて登場する樋口兼光様は、直ぐに実盛様と気が付き、涙を流されました。
実盛様は かつて兼光様に、60を過ぎて戦に向かう時は、いい歳をして若者達と争うのは大人気無いし、かついって老武者と侮られぬように、髪を黒く染めて出ようと思うと語られておられたので御座いました…。
前年の富士川合戦において、平家軍が無様に敗退してしまった事を悔やまれる気持ちもあった実盛様は、この戦で平家の為に討死なさる御覚悟でいらっしゃったので御座います。
大将軍と見紛う格好をされておられたのは、故郷には錦を着て帰れという故事に倣う為と、宗盛様に許可をいただいた上の事であったようで御座います。

染められた黒が洗い流されるのを見、そんな実盛様を想って涙する主君の御姿は、光盛様が実盛様を見付けられた その時には想像の及ばないものであった事で御座いましょう。

同年7月28日(1183年8月17日)、義仲様、源行家様の軍勢は、ついに京へと入られます。
光盛様も、勿論 御同行されておられた事で御座いましょう。
木曽軍の入京に先駆けて、平家御一門は安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ちられております。
奢る平家を京より追い出し、期待の新星として入京された義仲様の軍勢で御座いましたが、京の人々や貴族方からの評判は下がる一方で、次第に法皇様からも疎まれる存在となっていかれました。

法皇様の命により平家追討に向かわれた木曽軍で御座いますが、備中 水嶋合戦では惨敗。
その間に法皇様が鎌倉の源頼朝様と接触をとられていた事を知り、急ぎ帰京し頼朝様追討の院宣を求められました。
11月18日(1184年1月2日)、義仲様は御所法住寺殿へ放火し、後白河法皇を幽閉。
強引では御座いますが、義仲様は この後に征夷大将軍となられております。

然し、法皇様は即座に義仲様追討の院宣を下されておりました。
これを受け取られた頼朝様は、義経様、範頼様に大軍を任せ、義仲様の討伐に向かわせました。

鎌倉の追討軍との戦いの中、次々と消えていく木曽軍の兵達。
その中で、ぎりぎりまで義仲様に付き従われた4騎の内の御ひとりに、光盛様がいらっしゃいました。

「あぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん」
とて、ひかへたるところに、武蔵国に、きこえたる大力、御田の八郎師重、卅騎ばかりで出できたり。
巴その中へかけ入、御田の八郎におしならべて、むずととてひき落し、わがのたる鞍の前輪にをしつけて、ちともはたらかさず、頸ねぢきてすててげり。
其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ぞゆく。
手塚太郎打死す。
手塚の別当落にけり。 (平家物語 高野本による)


平家物語高野本によりますと、義仲様は様と離れられ、手塚別当様は落ちられ、そして光盛様は討死なさったという事で御座います。
手塚別当様で御座いますが、光盛様と同一視される事も御座いますけれど、↓長門本によれば 光盛様の叔父上様、もしくは伯父上様であったようで御座います。

其後かしこに百騎、ここに四五十騎、所々ゆきあひゆきあひ戦ふほどに、粟津の辺にては主従五騎にて落にけり、
手塚別党同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包と云者つづきたり、
「相構へて生捕にせよ」
と、仰せられたるぞ、
「家包ならば軍をやめたまへ、助け奉らん」
と申けるを、
「何条さる事あるべきぞ」
とて、今はかうと戦ひけれども、終に生捕られてけり
 (平家物語 長門本による)


ただ…長門本では、光盛様は討死なさった事になっておらず、生捕りになったとされるようで御座います。
その他、諸本によって記述は様々で御座いますし、吾妻鏡にも記録されておりませんので…この時の光盛様の生死について、確かな事は判りません。

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