日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

しづかなる 里に棚引く まひころも。
源義経様の愛妾 様の伝承地は各地に数多く御座います。
私も未だ全てを把握出来ている訳では無いのですが、平家伝承地巡り等と併せて 今後も色々と訪れてみたいと思っております。

本日は、東京から約1時間の伝承地――埼玉県は栗橋町の静御前墓所について記したいと思います。

栗橋墓所01


隣接するスーパーと並んで、まるで静御前の御店が!?と思われるような案内が道路側に出ておりますが、それだけ町の方々から親しまれ護られているので御座いましょう。
桜舞うピンクの看板は、可愛過ぎて素敵です〜

栗橋墓所02


栗橋に残る伝承では、文治5年9月15日(1189年11月2日)、栗橋町の伊坂の地にて悲恋の死を遂げられたという事で御座います。
それ故か、伊坂はかつて静村と呼ばれていたそうで御座います。
静様は琴柱という侍女を同行していたようで、静様の御遺体は高柳寺(現在は中田光了寺)という御寺に葬り、1本の杉の木を植えて墓標とされたといいます。
然し、弘化3年5月(1846年5〜6月)に起きた利根川の氾濫によって、杉は枯れてしまい、同じ場所に銀杏を植えられたのだそうで御座います。

静様の御墓には標が無かった為、享和3年5月(1803年6月)中川飛騨守忠英によって“静女の墳”が建立されたようで御座います。

栗橋墓所03


墓所入口に1番近い場所には、昭和4年建立の義経様招魂碑が御座います。

栗橋墓所04


義経様招魂碑の傍ら、静様御墓寄りには、御2人の御子様の供養塔 静女所生御曹司供養塔が建てられております。
こちらの建立は、昭和6年。

親子3人の御霊が この地に集い、生前に叶えられなかった時間を永久に得られたかのような……そんな優しい空気に包まれております。
それが、静様にとって1番の願いであったのでは無いでしょうか。

栗橋墓所05


そして、こちらが静様の御墓。
とても御立派でハイセンス!でも何か可愛らしさのような、女性らしい趣を感じさせられるような……現代人向けといえばそうなのですが、万人に愛される形をとられているように思います。

栗橋墓所06


墓石の背後に誂えられた素敵なモニュメント。
漆黒の闇の中、輝く望月の中に1人舞う天女のような静様が美しく、また可愛らしく……大変魅力的で御座います。
そこに刻まれるのは、矢張り 義経様を慕って謡われた あの2首の御歌。

こういった趣で整備されている古人の墓所というのは余り御見掛け致しませんが、こんなに現代的でハイカラな御墓なのに、どうして違和感を感じないのかしらと ふと不思議に思いました。
現代の観光客向けかと思われる程 綺麗に整備された御寺さん等へ行くと、正直余りしっくりと感じられる事が出来ず、伝えるべき、残すべきは何なのであろうかと何処か複雑な心境を抱いてしまう事もしばしばあるのですけれど、こちらでは 特にそういった感情になる事が無く…。
幼い者から御高齢の方まで、幅広い方々に愛されている感じが伝わってくるようで、とてもあたたかい気持ちになりました。

栗橋墓所07


旧墓石は、厨子内に今も大切に安置されて御座います。

栗橋墓所08


静桜は、人の手を加えないと育ち難い里桜なのだそうで御座います。
一重に、八重にと、様々な表情を見せるという静桜。
現在は、栗橋町内の様々な場所に植えられているという事で、今後 栗橋の静桜が益々盛んになっていかれるのが楽しみで御座いますね!
次の春には是非、その咲き誇る姿を拝見しとう御座います〜。

   静桜(しずかざくら)

 静桜は、里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜にくらべ、花期の訪れが遅く、4月中頃から開花します。
花は、 5枚の花弁の中に、旗弁(はたべん)といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲き方をします。
このことから,開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、ほかの桜とは趣を異にした風情を見せています。

 [名のおこり]
 宇都宮市野沢の亀田さんのお宅に原木があるということですが、親株はすでに枯れ、現在のものはそのひこばえということです。
 静御前が義経を追って奥州に向かう途中、義経の討死を知り、涙にくれた静は、一本の桜を野沢の地に植え、義経の菩提を弔ったのが静桜の名の起こりといわれています。
 現在国内には、原木を接ぎ木したものが、わずか栗橋町の静御前の墓所と平泉にあるのみで、当町のものは昭和54年頃、その存在を知った地元有志の熱望により(財)日本花の会から特別に寄贈されたものです。

   静桜の里づくり
 静桜は、数の希少さとともに、学術的見地からもきわめて貴重であるばかりか、なによりも静御前にゆかりの花ということもあり、平成5年の静御前墓前祭で、財団法人日本花の会のかたによって穂木が採られ、芽接ぎが行われたのをきっかけに、栗橋町では静桜を町のシンブルとして大切に育て、その数を殖やすことを目的に現在、「静桜の里くりはし」づくりを進めています。



栗橋墓所09



静女之碑裏手に御座います静女塚碑には、静御前悲話が綴られているそうで御座います。
明治20年、この地の村人が舞姫として、人間としての静様の事を後世に残さんとされた事によって建立されたといいます。
現在は修繕中のようで御座いますが、その内容の詳細は水舎内に掲示されておりました。

平家全盛の寿永元(1182)年頃、神泉苑での舞によって京に3日3晩の雨が齎された褒美として、静様に錦の舞衣を与えられたと伝えられます。
その衣は、古河市中田光了寺にて今も保存されているのだそうで御座います。

墓所内には、江戸時代の歌人 坐泉が詠んだという、
“舞ふ蝶の 果てや 夢見る 塚のかげ”
の句碑が建立されております。
元禄の頃に詠まれたこの句を、覚え書いておいたのでしょうか…文化3(1806)年、村人によって石碑に刻まれたそうで御座います。

   栗橋町指定文化財
     静御前の墓
       昭和53年3月29日

 静御前は、磯の禅師の一人娘として仁安3年(1168)に生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長致しました。
 干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変困っておりました。
そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞い舞」を命ぜられました。
最後に静が舞い始めると空がにわ曇り、激しく雨が降り出し3日3晩も降り続いたと言います。
後鳥羽上皇は、静が15才でありながら類稀な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。
この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されております。
 平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。
その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。
静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。
しかし、重なる悲しみと慣れぬ長旅の疲れから病気になり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
 侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之塚」の墓碑を建立したものと考えられています。
また境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」という歌碑は、江戸の歌人坐泉の作を村人が文化3年(1803)3月に建立したものであります。
 (注)公式には、静御前の生没年は、はっきとしていません。
   ここに記されている内容は当地の伝承をもとにしています。
     栗原町教育委員会 静御前遺跡保存会



栗橋墓所10


ビニール補強されておりました静御前まつりの告知ポスターを撮影したものなので、かなり見難くて申し訳御座いません;
静御前パレード…うわぁ…気になりますね!!
白拍子というより貴族の姫御のようで御座いますけれど、そこがまた 地元の方々の愛なのだなぁと……!

栗橋墓所11


栗橋墓所12


↑駅前の付近案内地図より。
駅から程近いけれど解り辛い場所であるような情報を持っておりましたので、ちゃんと辿り着けるかしらと思っていたのですが、思いっきり地図に場所が記されておりました(笑)
しかも、駅から徒歩1分程…本当に、直ぐそこで御座います。

アンダーラインに深い意味は無いのですけれど、“しずか団地”って可愛い名称で御座いますね〜。

* * * * * * * *

栗橋墓所13


栗橋で御勧めの御土産、静饅頭と最中「静御前」で御座います〜。
静様墓所向かいに御座います、三笠屋 静御前店さんにて販売しておられます。
最中の色合いや笹竜胆紋が何とも可愛らしく、味も白い方が柚子風味でしたっけ…女性好みな餡がたっぷりと詰められておりまして、大変美味しかったです〜。
静饅頭も、とても美味しくて また是非購入しに行きたいと思いました。

私がカメラを提げておりましたら、御店の方が「静さんにいらっしゃったの?」と聞いて下さいまして、はいと答えましたら、大変御親切にしていただきまして、栗橋町の案内パンフレットと静御前墓所前に記されております案内板内容をプリントしたものを下さいました〜。
帰り道に今一度、静様の墓所を眺めておりましたら、先程の御店の奥様が墓所を綺麗に御手入れなさっておられる御姿を拝見致しまして…こちらの静様は地元の方々から大切に護られていらっしゃって、本当に素敵な場所だなと心から感じました。

いただいたパンフレットには、付記として“静御前の出生地や、墓のある所とかいった伝承の地は全国に数か所あるようです。当時、鎌倉幕府からみれば義経や静御前は罪人であり、要監視人であることから、確かな遺物を残すことはできなかったのではないかと考えられます。悲劇のヒロイン静御前の冥福を祈りながら歴史のロマンにふれてみませんか”と記されております。
土地柄、といいましょうか…何処の何関連の伝承地でもいえる事なので御座いますが、“この地こそが!!”とガッツで攻めるところもあれば、“ここであったかもしれませんが、もしもそうであったならと当時を偲んでみると素敵”的な穏やかな場所も御座います。
決して控え目が良いという訳では御座いませんが、100パーセントの確証的な証拠の残らぬ今、各地に伝承が残っている事こそが、また 歴史の1つ1つでもあると思うのです。
追求すべきは真偽では御座いません。
何事をも知識、経験として受け入れ、それぞれの場所で感じる それぞれの感情を大切にしていきたいので御座います。

※栗橋の静様伝承とそれに因んだ静まつり、御菓子等の情報は、栗橋町観光協会様公式サイトにて御確認下さいませ〜。
三笠屋さんの他にも御菓子、御酒等 素敵な御土産品が御座います。

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関東最古の大社浪漫。
鷲宮神社01


埼玉県北葛飾郡鷲宮町に御座います、関東最古の大社と有名な鷲宮神社
この辺りは 古代より土師部(※はじべ/土師器を作る職人集団)の住地であったといわれ、鷲宮の地名は“土師宮”に由来しているのではないかといわれれおります。

そんな東国最古の御社は、歴史に名を連ねる武将達によって篤く信仰されており、源頼朝様、義経様も戦勝祈願をされたと伝えられているそうで御座います。

鷲宮神社02


□ 鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)

所在地:埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮
御創建:不詳(※神代)
主祭神:天穂日命、武夷鳥命、大己貴命


鷲宮神社は、関東最古の大社。
神代の頃まで遡る御由緒には、天穂日宮と武夷鳥宮が、昌彦、昌武父子と外27人の部族等を率いて神崎神社に大己貴命を御祀した事に始まると伝えられます。
次いで、別宮に天穂日宮を奉祀。
これが、現在の御本殿に当たるそうで御座います。
御創建から様々な神様が関与されている辺りが、非常に神秘的かつ魅力的で御座いますね〜。

中世より後は 関東総社として、また関東鎮護神として、東国武将より崇拝され続けて参りました。
藤原秀郷様、源義家様、源頼朝様、源義経様、北条時頼様、北条貞時様、新田義貞様、小山義政様、歴代足利氏、古河公方、歴代上杉氏、武田信玄様、織田信長様、豊臣秀吉様、徳川家康様 等々……錚々たる方々によって武運長久祈願と様々な奉納、寄進、御社殿の造営等が行われたそうで御座います。

近世においても、明治天皇、昭和天皇より幣帛の奉納があり、神代に繋がる大社に対する維新後皇族の信仰も伺えるようで御座います。

   由緒略記

 埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮鎮座
  武蔵国 鷲宮神社

当社は出雲族の草創に係わる
関東最古の大社として今昔より
鷲宮大明神・浮島大明神または
大酉元祖とも称し州郡所々に
多数の分祀あり



   鷲宮神社と文化財

  当社は御祭神 武蔵国造の遠祖天穂日命武夷鳥命大己貴命 外合祀神九柱を奉神 出雲族の草創に係る
関東最古の大社にして景行天皇の御字 日本武尊の造営次いで武蔵国造司祭造営中世以降関東の総社また関東鎮護の神として武将の尊崇厚く藤原秀郷源義家
鎌倉時代には建久四年(一一九三)十一月源頼朝の神馬奉献 社殿造営
建長三年(一二五一)四月北条時頼の神楽奉納
正応五年(一二九二)北条貞時の社殿造営
応安五年(一三七二)小山義政の社殿修復などが古文書に見えます。
 室町時代に至り足利氏 古河公方なとの保護を受け天正十九年(一五九一)徳川家康から四百石の朱印地を与えられました。
したがってこれらゆかりのある文化財が数多く所蔵され国指定 県指定となっているものが多くあります。



鷲宮神社03


境内は とても広く、鎮守の森の中に点在している境内社を巡っていると、それだけでも不思議な感覚に包まれてしまいます。

鷲宮神社04


この御池は、古来より龍神様が御住まいになられていたという御神池で御座います。
つい最近まで埋もれて荒廃していたようで御座いますが、境内整備の一環で復元されたところ、御神託を受け“光天之池”と名付けられたそうで御座います。
近年においても明らかなる御神威をあらわされ、また それを受け取る事が出来る土地というのは大変貴重のように思います。

   みひかりの池

 古来よりこの池には、龍神様がお住まいになられていると言い伝えられてきました。
しかし、永い年月の間に雨風等により土砂が流れ込み、池が埋もれておりました。
 境内整備事業の一環として、平成十一年より、古来の御神池に復元すべく土砂の搬出をしておりますと、池から湧き水が溢れ出て、龍のような雲が空を覆いました。
その時に、
「天まで光り輝くような池」
というご神託を受け、池の名を光天之池と名付けました。
 こちらの鳥居よりご参拝ください。
     社務所


鷲宮神社05


そういえば…後にニュースで見て知ったのですけれど、どうやら鷲宮神社が舞台になっているアニメ作品があるのだそうで、境内には そちらの関連地(?)を巡っていらっしゃる御様子の御兄さん達が多数いらっしゃいました。
絵馬を奉納されている辺りに集合されておりましたので、何かあるのかしら……と不思議に思っていたのですけれど、こういうキッカケで神社やそこに関する歴史に興味を持たれる方も居るというのは素晴らしい事で御座いますね。

ちょっと気になったのは、社務所横に和洋の御人形さんが何体か置いてあった事……可愛いなぁと思ったのですけれど、何とも無造作に置かれてありましたので。。
あ……もしかして、人形供養もされているので御座いましょうか…???

鷲宮神社06


↑境内の鳥小屋には、鶏さんと孔雀さんがいらっしゃいました!
同じ小屋の中で共存される鶏さんと孔雀さん達が何とも可愛らしく、鳥好きには堪らないひと時を過ごさせていただきました…しみじみ。

鷲宮神社07


こちらは、八幡太郎義家様が駒を繋いだとされる桜の木で御座います。
頼朝様や義経様の御先祖様で御座いますね〜。
見た感じは、そんなに御高齢の大木には見えないのですけれど…何代目かなのやもしれませんね。

源頼朝御手植えの木斛も保存されておりますが、こちらは倒れてしまったそうで、切株の状態で保存されております。

鷲宮神社08


この画像では判り辛いかと思うのですけれど、鳥居を直進した先にある御本殿、拝殿は、御参道の方では無く 社務所や神楽殿の方を向いて建てられております。
方位的な理由なのかなぁと思いましたが、神仏分離後の名残とも考えられますよね…。
御朱印をいただいた際に、神職の方に御聞きすれば良かった……と今更ながらに思います;;
こ、今度 訪れる際には、聞いてみたいと思います///

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流れる清水は、紅くて伸びて。
清水八幡01


こちらは埼玉県狭山市の入間河原で御座います。
影隠地蔵さんから、歩いて30〜40分程の場所で御座いましょうか…。

元暦元年四月二十六日
廿六日 甲午
堀藤次親家郎從、藤内光澄、歸參。
於入間河原、誅志水冠者之由、申之。
此事雖爲密儀、姫公、已令漏聞之給、愁歎之餘、令斷漿水給。
可謂理運。
御臺所、又依察彼御心中、御哀傷、殊太。
然間、殿中男女、多以含歎色云云
 (吾妻鏡による)


ここは木曾義高様終焉の地といわれており、現在は清水八幡宮が御祀りされております。

清水八幡02


□ 清水八幡宮(しみずはちまんぐう)

所在地:埼玉県狭山市入間川
御創建:元暦元年5月(1184年6〜7月)
御祭神:清水冠者義高公


義高様亡き後、その死を嘆かれた大姫様とその母 北条政子様に、畠山重忠様 等が進言した事によって創建されたと伝えられております。

入間河原沿いの道路脇に建てられておりますが、これは近年に再建されたそうで御座いまして、元々御祀りされていた場所は 今となっては誰にも判らないのだそうで御座います。

以下は、神社に掲示したあった御由来記なので御座いますが……こちらの内容に関しては 史実というよりも、これを記された方の考察部分が多いようで御座いますね。

   清水八幡宮由来記

  祭神 木曽清水冠者義高公
  祭典日 毎年五月第三日曜日(前日土曜日宵宮)
 源義高は鎌倉時代木曽義仲の侍女巴との間に生まれた嫡子で、比企郡岩倉山大蔵が生まれ故郷であり、七ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った故清水冠者又は志水冠者義高と名乗ったと伝えられる。
 義仲が治承四年(一一八〇)頼朝とともに行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永二年(一一八三)に北陸道を京へせめのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(六才)の時人質として送られたが、後成人になるや頼朝と政と子の間にできた娘大姫の婿となり鎌倉営中に住居を構えていたが、義仲は後白河法皇の義仲追討の宣旨を受け西上した頼朝、義経軍に破れ、寿永三年一月二〇日栗津原の戦に討死するが、日頃疑り深い頼朝は彼義高の意中を計りかね勅勘を蒙って討たれた者の息子を放置する事も出来ず「娘をくれておくも無駄なこと、堀藤次折を見て密かに小冠者を片付けい」と密談(実際には殺す意図はなかったとも伝えられて居る)侍女はこの様子を見て東御殿にかけつけ告げたのである。
寿永三年四月十六日元歴と改元されその月の二十日宵のことで、この知らせを聞いた大姫は自分の夫義高を助けようと母政子と力をあわせ自分の衣装で女装をさせてまわりを女たちに囲ませ従士六名ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)・義仲を授けた畠山重能の地(管谷館)がある現在の嵐山町めざし鎌倉街道に沿って逃亡し、府中、所沢を過ぎ入間川の八丁の渡しに出たとき頼朝が追手として送った堀藤次親家等に追いつかれ藤内光澄の為に遂に此の地で討たれたのである。
 かくて寿永三年四月二十六日藤内光澄等が鎌倉に帰り、この事を頼朝に報告するや姫君は悲嘆のあまり槃水を絶つに及んで間もなく十四才を以って死亡せり。
母なる政子は、頼朝の仕打を怒ると共に直接義高に刃にかけた光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため討ち果てた地入間河原に祠を建てた(五月)と云う次第である。
 正徳三年(一七一三)八幡神社縁起によれば槻の木を植え塚を築いたとの事なるが、政子は廟所を転じ神祠を営み清水八幡宮とあがめ自から入間川の地に来り供養をし且神田を寄附されたという。
この為に社殿は朱の玉垣をめぐらし壮麗なものであったが、応永九年(一四〇二)の大洪水に全てを流出したる由、亦現在の八幡宮の附近に梨畑があり人々は梨原と言い、朱塗の美しい神社を梨原神社とも言った。
その後今から約一八〇年前現在地より北方三丁程の杉林中より石祠が発見され現在の処に鎮座し再建されたるものなり。
 参考資料 狭山の文化財及入間川風土記

 なお木曾清水冠者義高公の墓は、鎌倉市内、臨済宗常楽寺にあり、墓所は裏山標高七十米位かと思われる場所に百平方米程の広さとなっており、墓の周囲には公孫樹、黒松の大木等茂り、中心に石材の高さ四十糎の祠と「木曾清水冠者義高公之墓」なる墓石とが建立され、後世建てられた石碑には次のような由来が記されてある。
(※以下、碑文は以前義高様墓所の記事に記したものと同文ですので省略)



   清水八幡宮の由来

  祭神 清水冠者義高
義高は木曾義仲の子として比企郡大蔵に生まれ 六才の時伯父源頼朝が人質として鎌倉へ呼よせ成人になるや娘大姫の婿となり 鎌倉営中に住居をかまえていた
その後 父義仲が頼朝と不仲となり誅滅したる後 義高も頼朝に疑を受け謀殺されるとの風評く変装して寿永三年四月二十一日佛暁(七百年前)奥州の藤原秀衡をたより逃げたがすぐ頼朝の知る処となり部下を八方に追わせた途中 当地 入間川八丁の渡附近で藤内光澄の為に 遂にこの地で殺害された
頼朝の妻政子及び大姫がこの悲報に歎き亦畠山重忠等の進言により無実なる事明となり当地に壮麗なる清水八幡宮の社殿を造営し政子自から参拝し義高の霊を慰め且神田を寄附されたという
後應永九年八月の大洪水の時全て流失し後年川原より石祠が発見され現在の処に鎮座し再建されるものなり



清水八幡03


   清水八幡

     市指定文化財 史跡
  所在地 狭山市入間川三-三五-九 八幡神社
  指定年月日 昭和五十二年九月一日

 清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
 義高は源(木曽)義仲の嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子の間に生まれた姫、大姫の婿になっていました。
義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふりかか難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(管谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。
このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた蔵内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果てた地、入間河原に社を建てたということです。
それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます。
   平成四年三月 狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会



清水八幡04


↑昭和46年に立てられたという こちらの裏側には、清和源氏の略系図が記されておりました。
主要男子のみの簡単な系図で御座いますので、頼朝様の下には頼家様と実朝様の御名前のみが記されているのですが……義高様縁の地で御座いますので、出来れば大姫様の存在も付記してあって欲しかったかなぁ…と思ってしまいます…すみません;

清水八幡05


義高様が最期に見た景色とは、どのような光景だったので御座いましょう。
それが知りたくて、狭山市へと向かった私で御座いましたけれど……見えたものは、また 見えないものであったようにも思います。
物語にも知られているような大姫様との御関係も非常に気になりますが、義仲様嫡男としての御立場や、御年12歳の素直な御感情、心に抱いていた風景、将来の事…色々と込み上げてくる疑問は募るばかりで御座います。

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姿隠しの護り人。
うわぁん…更新が遅くなりましたー…;;
実は 昨日まで関西に居りまして、台風が近いという事で少し予定を早めて関東に向かったので御座いますが、最初は人身事故で電車が大幅に遅れており、更には台風の影響で途中から電車が止まってしまいまして……静岡辺りで電車の中に13時間近く(合計)閉じ込められてしまい、身動きが取れないまま電車が途絶えてしまいまして…結局、帰って来られませんでした(涙)
台風の中、野宿を覚悟して1時間程度経った頃(←宿泊施設等も無いような駅でぽつーん…と…)、臨時列車を運行して下さるとの事で乗り込んだのは良いのですが、それも速攻で止まってしまい……動いたのは夜も明けた頃で御座いました;
東京入りした後も多摩川の増水で電車が動かず、またしても足止めを食らってしまいました。
今朝は普通に仕事に行かねばならぬ身だったので御座いますが、間に合わせる術も無く――…家にも帰らず、荷物を抱えて仕事へ直行致しましたが、2時間以上も遅刻で御座いました…凹。

何気に久しぶりの天災アクシデントで御座いましたが、これはこれで私個人としましては楽しかったなぁと思います(←楽天家)
持参していた小説2冊全て読み切れましたし、電車だと良く眠れますし…。
携帯電話の充電器を持参しておらず、完全に落ちてしまった携帯の御陰で仕事先への連絡が出来なかった事には心底焦りましたが、立往生をくらった駅の傍にあったコンビニにて電池式充電器を入手出来まして、仕事やら心配してくれた実家の親やルームメイトちゃん、友人等に連絡を入れる事が出来ました。
普段、滅多に携帯を使わない不精者では御座いますが、文明の利器の発達には本当に驚くばかりで御座います…次回からは、ちゃんと充電器も持って行かねばという教訓にもなりました(苦笑)

そんなこんなで、ちゃっかり日付は操作しておりますが、さり気無〜く黙認してやって下さいますと幸いで御座います。。
「なんか大学生のレポートみたいでつまらん…」と、友人共には大変不評な当ブログでは御座いますが(…)、それでも毎日更新が日課になっておりますと 連絡不精な私の生存確認が出来るので、それなりに意味はあるそうで御座います…ふ、複雑…。

* * * * * * * *

影隠地蔵01


埼玉県狭山市柏原――。
車の多く行き交う道路脇歩道の傍に、“影隠地蔵”さんと呼ばれる御地蔵様がいらっしゃいます。
こちらは、木曽義高様が鎌倉より脱走の際、一時的に姿を隠した御地蔵様であると伝えられております。

元暦元年4月21日(1184年6月8日) 夜明け前、源頼朝様による義高様殺害計画を知った義高様は、海野小太郎幸氏様を身代りに残し、屋敷を脱出致しました。
晩になって事の次第がばれ、頼朝様は追手を放ちます。

   影隠地蔵

     市指定文化財 史跡
  所在地 狭山市柏原二〇四-一
  指定年月日 昭和五十二年九月一日

 影隠地蔵と呼ばれるこの地蔵尊は、源義仲の子で源頼朝の娘大姫の婿である清水冠者源義高にまつわる伝説をもっています。
 源義仲が京都に兵を挙げたのち、後白河法皇の宣旨を受けた頼朝の弟範頼・義経軍に敗れて討死しました寿永三年(一一八四)のことです。
 頼朝に人質となっていた義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで頼朝の手からのがれ、父義仲の出生地でもあり関係の深かかった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町へ向う途中、この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次らに追いつかれたことが、吾妻鏡(鎌倉時代の史書)に記されています。
一度はこの地蔵尊の陰で難をのがれたものの、ついに捕えられ、藤内光澄に斬られたといわれています。
 現在の地は狭山〜日高線道路の拡張により、もとの場所から少し移動していますが、入間川のはんらんにより、幾度か場所が移動していると思われ、また、地蔵尊についても義高の悲劇をあわれんだ村人が建てたともいわれています。
   平成四年三月 狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会



義高様が、この辺りに差し掛かったのは3〜4日後頃の事だと思われます。
義高様が討ち取られてた入間河原まで少し距離は御座いますが、馬の脚で考えましたら ほんの目と鼻の先という程の距離で御座います。
そのまま、隠れ遂せたならば良かったのに……と思うのは、私だけでは無いと思います。

影隠地蔵02


帽子とか襷(?)とか…何だか可愛らしい御姿で御座いますね。
何となく、優しい御顔立ちが愛らしく感じます。
地元の方々から大切にされているようで、何よりで御座います。

影隠地蔵03


御地蔵様の直ぐ背後には、鎌倉街道“信濃坂”の案内が立っておりました。
この坂道は、その昔信濃の国へ通じていたので、この名がついたともいわれている”と記されております。

   歴史の道

  鎌倉街道
 鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、その栄枯盛衰の物語を踏みつけた道として、また、さまざまな文化の交流の場として利用され、狭山市の歴史の発展に大きな役割を果たした道です。
 狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう通称「上道」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、堀兼神社前を通る道があります。
このほか、「秩父道」などと呼ばれる間道や脇道もあります。
 また、逆に「信濃街道」・「奥州道」といった鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
     狭山市



影隠地蔵04


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