日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

御御足洗ひて、洗足池とぞなる。
「最近は他県での事ばかり書いているけれど、ちゃんと東京で頑張ってるの〜?」
という意見を身内より受けました。
な、何と失礼な…わわわ私だって、いつも旅してる訳じゃ御座いませんよー…ちゃんと東京に在住しておりますっ(笑)
という訳で(?)、本日は久々に舞台を都内に移して記してみようかと。

洗足池 八幡様01


こちらは 東京都大田区南千束に御座います、洗足池
実は結構近くに住んでおりますので、行こうと思えばいつでも行ける場所だったり致します。
…が、行きたいなぁ行こうかなぁと思いつつも中々行けておらず;
梅雨入りして屋外写真を撮る機会がめっきり減ってしまったので、御天気の回復した先日の夕方、唐突に思い立って散歩がてら行って参りました〜。

洗足池は源氏縁の史跡。
平安末期には既に“千束”という地名で呼ばれておりました。

身延を下山された日蓮様が、この御池の畔でを御いになられた伝説から、“千束”が“洗足”となり、“洗足池”と表記されるようになったといわれております。

洗足池 八幡様02


平日で御座いましたけれど、公園内には幅広い年代の方々がいらっしゃいました。
中原街道に面した南側からはボートに乗る事が出来るようで、御家族連れやカップルの方々が楽しまれる姿を見る事が出来ました。

流石にひとりでボートに乗るような淋しい真似は出来ませんので(苦笑)、先ずは御池の西岸に御座います源頼朝様縁の“旗上八幡”こと千束八幡神社へ参拝させていただく事に致しました。

   区指定名勝 洗足池

 洗足池は、武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、昔は千束郷の大池と呼ばれ、灌漑用水としても利用されました。
 池畔の風景は優れ、江戸時代には、初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていました。
昭和3年(1928)に池上線が開通すると、公園として整備され、 同5年には風致地区として指定されました。
 面積は、 周辺を含めると約67,000�、 水面の広さは約40,000�です。
 日蓮が足を洗ったので洗足池というとか、 袈裟をかけたといわれる袈裟掛けの松のある御松庵など、日蓮にまつわる伝承も残されています。
 また池畔にはこの地を愛した勝海舟の墓や西郷隆盛(南州)の留魂祠・詩碑などがあります。
 池の西北部一帯は桜山と称し、桜の名所で、区内有数の景観に富むところとして貴重です。
     昭和50年3月19日指定 大田区教育委員会



洗足池 八幡様03


中原街道を背に、左回りに池畔を歩いて行きますと、少しして三連太鼓の池月橋が見えて参ります。
その橋の向こう側に、朱鳥居と千束八幡神社の入口が御座います。

洗足池 八幡様04


神社手前の朱鳥居は、目前の池に面して建立されておりました。
池月橋は少し横にズレた場所に架けられており、もしかすると正式な御参道は水上で、昔は御舟で参拝されていたのかなぁ…等と想像しながら渡りました。

洗足池 八幡様05


石鳥居を潜り、数段の石段を上ると手水舎と神楽殿、境内社等があり、更に数段の石段を上った先に御本殿が御座います。
多くの人々で賑わう公園の一部で御座いますが、境内は殊の他 静かで…遠くに聞こえる微かな賑わいが、御社の空気を包み込んでいるような気がして心地良く感じられました。

洗足池 八幡様06


□ 千束八幡神社(せんぞくはちまんじんじゃ)

所在地:東京都大田区南千束
御創建:貞観2(860)年
御祭神:品陀和気之命(応神天皇)
通 称:旗挙八幡


八幡様で御座いますので、御祭神は応神天皇
私が事前に調べていた資料には誉田別尊とありましたが、応神天皇の別名で御座いますね。
同じく、品陀和気之命古事記に基づく表記で御座います。

御創建は貞観2(860)年、千束郷の総鎮守社として宇佐八幡より勧請されました。
平将門公が乱を起こした際、鎮守副将軍として赴かれた藤原忠方様は、この地に留まられ、千束八幡様を氏神として、池上姓を名乗られたといわれております。

後三年の役に際して奥州討伐へ向かわれる源義家様は、こちらで禊をなさり、戦勝祈願されたと伝えられます。

そして、平安末期。
以仁王の令旨を受け、伊豆にて挙兵された頼朝様は、石橋山合戦にて敗退。
安房へと逃れられ、房総の有力勢力者であった上総広常様と千葉常胤様の支持を得て鎌倉へ向かわれる途中、この御池に駐軍されたという事で御座います。
その際、こちらに源氏の氏神様である八幡様が御祀りされている事を大変喜ばれたと伝えられます。

延文3(1358)年、新田義興様が足利方の策略で矢口へ下られた時、この御社に暫く滞留されたともいわれているそうで御座います。

現在の御社殿は、昭和17年に建立されたもの。
平安期より続く歴史ある古社が、こんなにも身近に御祀りされている事に感動で御座います。

   御由緒

御祭神 品陀和気之命(應神天皇)
 當社は千束八幡神社と称し 平安前期の貞観二年豊前國宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の総鎮守としてこの密上に創建せられ 今日に至る
 遠く千百余年の昔より この地の氏神として尊崇せられ 普く神徳を授けてこらる
 承平五年 平将門の乱が起る
朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり
乱後忠方は池畔に館を構え 八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき 館が池の上手に当るに依りて池上氏を呼称
この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す
之池上康光なり
 又八幡太郎義家奥羽征討の切 この池にて禊を修し 社前に額づき戦勝祈願をなし出陣せりと伝えらる
源頼朝も亦鎌倉に上る途次 この地を過ぐるに八幡宮なるを知り 大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる鴾
近郷より将兵集まりて 鎌倉に入る事を得 旗挙げ八幡の称あり
名馬池月を得たるる此処に宿営の折なりとの傅承あり
 尚境内に武蔵國随一と云われし火松ありしが 大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし
 古歌に「日が暮れて足もと暗き帰るさに空に映れる千束の松」と詠まれて居り 老松の偉容が想像されよう
 斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にして亦名社なり
     宮司 恵良彰記識



洗足池 八幡様07


境内社として、神明社、稲荷社が御祀りされておりました。
神明社の御祭神は天照大神、稲荷社は御稲荷様で御座いますね。
ひっそりと御参道の方を向いて、手水舎奥に並んで建立されておりました。

洗足池 八幡様08


頼朝様と千束八幡神社といえば、池月
社前の御池に架けられた橋の名前にもなっておりましたが、池月は洗足池にて頼朝様のものとなった名馬の御名で御座います。

伝承によれば治承4(1180)年、頼朝様がこの地に宿営された時、何処からとも無く、野生の御馬が現れたといわれます。
青い毛並で白い斑点があるという、不思議な御馬は郎党によって捕えられ、頼朝様に献上されました。
池に映る月のような美しい御馬であった事から、“池月”と名付けられたといわれ、頼朝様所有の御馬さんとして大切に鎌倉へ同行されたようで御座います。
もしかして神様の御使いだったのでは…と思われるような御馬さんを捕まえてしまって良いのかしら;とも思いますが、これも御神徳のひとつだったのかもしれませんね。
池月は後に、佐々木高綱様に下賜される事となり、宇治川の先陣争いにおいて梶原景季様の磨墨と競う事となります。

池月の出生地については、全国各地に多くの伝承が残されており、こちらも その1箇所という事になっております。

   池月発祥傅説

 治承四年(一一八〇)八月 源頼朝は石橋山に敗れて安房に逃れこの地の豪族上総介廣常等の参陣を得て再び鎌倉へ向ふの途次、ここ洗足郷の大池に軍を駐め、八幡丸の丘を本陣として近隣よりの味方の集るのを待つ。
 この時何処よりか一頭の野馬飛び来り、嘶く聲は天地を震はすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献するに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ、恰も池に映る月影の様であったので、池月と命名して自分の乗馬とした(池月発祥)
 寿永三年(一一八四)春宇治川の合戦に池月を頼朝から賜わった佐々木高綱は磨墨に乗る梶原景季と先陣を競ひ、ついに一番乗りの功名を立てた、史書に云ふ宇治川の先陣物語である当八幡神社を別名旗上げ八幡と云ふはこの故事に依る。
     平成二年十一月吉日



洗足池 八幡様09


境内池寄りの場所には、とても立派な池月の像が御座いました。
躍動感のある池月さん、素敵で御座いますね〜!
思わず乗りたくなる気持ち…分かります(笑)

   池月発祥伝説の由来

 池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承四年八月(一一八〇)頼朝、 相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何処方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向って飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。
 郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであつた為之を池月と命名して自らの料馬とする。
 頼朝先に磨墨を得、 今またこゝに池月を得たるは之征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来たれりと云ふ。
士卒之を伝へて征旗を高く揚げ歓声やまざりしとか。
 当八幡宮の別名を「旗揚げ八幡」と称するはこの故事による。
寿永三年春(一一八四)頼朝木曽義仲を京師に攻む。
義仲宇治、 勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。
史書にいふ宇治川先陣争いである。
 池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の譽れを伝へてゐる。
 この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
 古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、 今はない。
 遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、 時代の変遷と共にこの伝説の亡失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。

 尚磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。
 氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年九月の祭日に奉納されてゐる。
   池月の 蹄の音か 撥の冴え
  平成四年三月     千束八幡神社 / 洗足風致協会



洗足池 八幡様10


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母子を護る、龍の御宮。
水天宮01


大阪在住の元ルームメイト ゆりちゃんが妊娠中という事で、先日 東京都中央区の水天宮へ参拝して参りました。
以前、この辺りに通う機会が多かった事と、地元の心友の出産前に安産祈願の為に何度か御参りさせていただいておりますので、個人的には御馴染の神社でも御座います。

東京の水天宮は、都会の中の現代的な神社…といった感じでは御座いますが、妊婦の方でも負担を軽減して参拝できるような設備が整えられておりますので、誰もが安心して詣でられる都会ならではの御社でも御座います。
それに、ひとたび境内に入ってしまうと 周囲にビルが立並んでいる事や、車の通りの激しい場所に面している事をさらっと忘れさせて下さるような…そんな不思議な感覚に陥る事も御座います。

水天宮02


□ 水天宮(すいてんぐう)

所在地:東京都中央区日本橋蛎殻町
御創建:文政元(1818)年
御祭神:天御中主大神、安徳天皇、二位の尼、建礼門院


“水天宮”という名称の神社は、全国各地に伺う事が出来ます。
北九州市門司の水天宮のように、同じ“水天宮”でも御祭神の異なる神社が各地には御座いますが、一般的に“水天宮”といわれて思い浮かべられるのは、福岡県久留米市の水天宮を総本社とする天御中主神安徳天皇建礼門院徳子様、二位尼時子様を御祭神とされる御社で御座いますね。

久留米の水天宮については、またいずれ詳しく記したいと思っておりますが、水天宮として安徳天皇や時子様方を御祀りされるようになった経緯には、入水前の二位尼より“御前は生き残り、我等の霊を慰めよ”と命じられた女官 按察使局が九州へ逃げ落ち、筑後川畔に小さな庵を結ばれた事が起源していると伝えられております。
御幼少にして帝位に立たれ、平家と運命を共にされた末に短い生涯を閉じられた安徳天皇。
御霊信仰の盛んであった時代…そして、亡くなられた場所が海であった事から、水害等の恐怖や、稲作に欠かせない水への想い、願いが水神信仰とも重ねられるようになったのでは無いでしょうか。

久留米に水天宮が創建されたのは、江戸時代の事。
筑後久留米藩 有馬忠頼公によるもので御座いました。

そして文政元(1818)年、第9代藩主頼徳公は参勤交代に際して、江戸詰期間に水天宮参拝が出来ない事を愁い、久留米より御霊を分霊。
分社として御祀りされた御社が、こちらの水天宮のはじまりで御座います。
当時は、藩主様の御屋敷内に氏神様として御祀りされていた為、一般の方々の参拝は出来なかったそうなので御座いますが、古典芸能等で源平物が流行していた影響もあってか、参拝の叶わぬ水天宮に関心を寄せ、塀越しに御賽銭を投げ込んで来る江戸っ子も多かったのだとか…御殿様もビックリで御座いますね(笑)
民衆の希望と期待を受けて、5の日に限り水天宮への参拝が許される事となりました。
御屋敷の敷地内で御座いましたので、流石に常時開放という訳にはいかなかったと思いますが、独り占めにせず、江戸の庶民と可能な範囲で信仰を分かち合っていらっしゃった事には拍手を送りたい気持ちにさせられますね。

明治4年、御屋敷の移転と共に赤坂へと移転。
翌明治5年には、日本橋蛎殻町…現在の場所へと移転されてこられました。

関東大震災で被災された際、御神体は新大橋に避難された事で事無きを得られたといいます。
昭和5年に御社殿が復興され、昭和42年に現在の権現造の御社殿となりました。

水天宮の登場と共に活気を養っていったといわれるこの周辺は、今も賑わいが耐える事無く、多くの人々が行き交う場所で御座います。

   由来記(社紋 椿)

文政元年(一八一八)江戸三田赤羽の有馬藩邸に時の殿様有馬頼徳公が領地久留米水天宮の御分社を神主に命じ建てられたのが創めです。
明治四年有馬邸が赤坂に移ると共に赤坂へ、更に明治五年十一月、現在地に移られました。
以来彼の関東大震災で社殿焼失、昭和四十二年十一月現在の権現造りの社殿となりました。
江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ参拝したと言います。
ただし毎月五日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され邸内にて参拝を許されました。
その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがり(古くなったもの)を頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益が広まりました。
その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に“なさけありまの水天宮”という洒落言葉があった程です。
御利益として安産祈願はもちろんのこと、子授け、水難除、渡航安全の神様としても有名です。
境内社として「火風神社」「高尾神社」、芸能・辯論・貨殖の神、「中央辨財天」、幕末の勤皇の志士である真木和泉守保臣を祀る「紫灘神社」が鎮座しております。



水天宮03


水天宮境内は、そんなに広いという事も無いのですが、いつ訪れても とにかく参拝の方が沢山いらっしゃいますので、常に警備員さんが御社殿前に待機されております。
御祈祷の時間になると、警備員さんの指示で拝殿へ入ります。

ゆりちゃんの妊娠5ヶ月目に当たる戌の日まではもう少し時間が御座いましたが、私の個人的な御願いとして、彼女が無事に出産出来る事を御祈りして参りました。
↑授与品の安産御腹帯には、閉じられていない御守袋も付けていただけるので御座いますが、この中には“いつもじ”と呼ばれる神呪文字の記された護符が入っております。
妊娠中や陣痛時に飲用すると体の具合が良くなり、また 御産が楽になるという言い伝えも御座いますので、辛いつわりに辛抱し続けている ゆりちゃんに、少しでも御神徳をいただけますように…との願いを込めて、彼女に送ることに致しました。

ゆりちゃんが、
「大阪では何処でマタニティマークを貰えるのか分からなくて、困ってる…」
と相談してくれましたので、マタニティマークもいただいて参りました。
以前、心友の安産祈願の際にも私が水天宮でマタニティマークのバッジをいただいて来たのですが、当時 一緒に住んでいたゆりちゃんは それをしっかりと覚えていたようで御座います(笑)
流石は、“御母さん”ですね。

   当神社安産御腹帯の由来

御社殿の前に神様をお呼びするのに鳴らす鈴があります。
この鈴を鳴らすのに布地(晒し)の鈴紐が下がっています。
これを「鈴乃緒」と呼びます。
この「鈴乃緒」は月に一度新しい物と交換致します。
その昔、この鈴乃緒のおさがり(古くなったもの)を頂いた妊婦の方が腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから、人づてにこの御利益が広まりました。
その後毎日御妊婦さんの参拝が絶えませんので、水天宮としてはこの鈴乃緒を特に「戌の日」に安産の御祈祷を済ませて毎日お領けするようになりました。
以上の御由来から水天宮の御腹帯を「鈴乃緒」と呼んでおります。
何故「戌の日」に安産の御祈祷をするのかと申しますと、古来よりお産が軽いと言われる「イヌ」にあやかり「戌の日」に帯を締める週間が古くからあり、それに因んでのことであります。
お産後のお礼参りは都合のよろしいときにお越しください。
報賽のお気持ちとして御奉納金をお納めくださればお礼参りは済みます。



一般的に“岩田帯”と呼ばれている御腹帯で御座いますが、水天宮では“鈴乃緒”という名称で呼ばれております。

   水天宮御守に就いて

水天宮御守は五つの神呪文字より成り「いつもじ」とも申します。
この御守は毎年大寒の頃、筑後川の水を汲み七日間の特別祈祷を行なった「神水」で墨をすり、五つの神呪文字からなる版木に塗り、謹製されたものです。
この文字を水といっしょに飲んでいただくと非常に有り難い御利益を得られると言われております。
特にお産の方は妊娠中、体の具合がすぐれない時や、陣痛があってからお飲みになると体の具合が良くなったり、お産が楽になると古くから言い伝えられております。
御参考までに、その飲み方をご説明申し上げます。
御守を開けていただくと五センチ四方の和紙に五つの神呪文字が記されて居ます。
最初は五つの文字の真中の文字より指でチ切って水に浮かべ水といっしょにお飲み下さい。
陣痛が続くような時や、再び体の具合がすぐれなくなった時には左下、左上、右上、右下と平仮名の「」の字を書くような順番でお飲み下さい。
一度に全部飲む必要はございません。



妊娠5ヶ月目の戌の日に安産祈願で腹帯を締めるのは、日本独自の風習。
戌=犬。
人懐っこい犬は、遠い昔から人間と共に生きており、外敵から人間を護ってくれる存在でも御座います。御産が軽く、沢山の子を産む事から、“犬”は古くから安産の守神として大切にされて参りました。
そして
“戌”の日に祈願するのは、それに肖っての事といわれております。
皇室でも妊娠5ヶ月目最初に迎える大安の日には帯を御祓いし、戌の日に内着帯の儀が行われるそうで御座います。

↓ちなみに、2008年度の戌の日は以下のようになっております。
地域によっては戌の日で無かったりする事もあるようで御座いますが、水天宮に限らず、戌の日参りの安産祈願に行かれる御方の御参考になれば幸いで御座います。

□ 2008年度 戌の日一覧 □

   (2008年)
 4月…4日(金)、16日(水)、28日(月)
 5月…10日(土)、22日(木)
 6月…3日(火)、15日(日)、27日(金)
 7月…9日(水)、21日(月)
 8月…2日(土)、14日(木)、26日(火)
 9月…7日(日)、19日(金)
 10月…1日(水)、13日(月)、25日(土)
 11月…6日(木)、18日(火)、30日(日)
 12月…12日(金)、24日(水)
   (2009年)
 1月…5日(月)、17日(土)、29日(木)
 2月…10日(火)、22日(日)
 3月…6日(金)、18日(水)、30日(月)
 

水天宮04


水天宮境内には、日本橋七福神の1社 中央辨財天様も御祀りされております〜♪
日本橋七福神は、七福神巡りとしては日本一短いコースなのだそうで御座います。
私は未だ7社全ては巡り切れておりませんが、散策がてらゆっくりとまわってみるのも楽しそうで御座いますね。

水天宮05


その他、境内社として 高尾神社、火風神社、秋葉神社。

そして幕末の勤皇志士であり久留米水天宮祠官でもあった真木和泉守保臣を御祭神とする紫灘神社が御座います。
禁門の変(蛤御門の変)の後に自害して果てられた御方で御座いますね。

水天宮06


御社殿の傍には、安産子宝河童さんの親子もいらっしゃいます。
画像には無いですが可愛らしい子宝犬さんの親子もいらっしゃいますし、こちらは狛犬も親子なので御座います〜。

↑“光源氏”と名付けられている椿さんも、ギリギリ御健在で御座いました
大輪を鮮やかに咲かす光源氏…美しゅう御座いました。

水天宮07


水天宮前交差点側の交番の傍には、妊婦さんや階段を上るのが困難な方の為にエレベーターが設置されております。
女性に優しい神社は親しみやすいですし、特に安心して参拝する事が出来ますね。

※平家の方々を御祭神とされている事から“源平史跡(東京)”に分類しておりますが、源平に直接関わりがあった伝承等が伝わっているという意味では御座いません;
 紛らわしい上、いつもの事ですが適当過ぎる分類で申し訳御座いません。。

* * * * * * * *

水天宮参詣の折には是非♪


水天宮前交差点に面する人形焼の 重盛様。
水天宮参拝の折には、必ずこちらで人形焼を購入させていただいております♪
他の御店と比べますと御値段はちょっと御高めなので御座いますが、1度食べれば直ぐに納得がいく美味しさで御座います。
私はグルメな人では御座いませんが、御勧めで御座います〜。

私がこちらに惹かれる最大の理由は、既にバレバレかとは存じますが…御店の御名前が“重盛”様だからで御座います(笑)
安徳天皇、時子様、徳子様を御祀りされる御宮の御傍に、重盛様…!!
小松大臣と何らかの繋がりが…!??と勝手な想像を致しておりますが、如何なので御座いましょう。
御店の方に直接伺ってみたいと思いつつも、いつも大変繁盛していらして御忙しそうで御座いますので、なかなか御声を掛ける事が出来ず……御土産だけ買わせていただいております(苦笑)

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いにしへのかほり霞んだ都内の古社。
荏原神社01


東京都品川区北品川には、かつて 品川神社と共に品川大明神と呼び並べられ、北の天王社に対して“南の天王社”と呼び親しまれた由緒ある御社 荏原神社が御座います。
品川神社からは歩いて数分の距離に位置しておりまして、現在は目黒川の北側に御鎮座されている神社で御座いますが、元々は目黒川を挟んで北品川と南品川に分けられておりました。
品川宿最大の祭典で御座います品川天王祭は、北品川鎮守と南品川鎮守の天王祭を合わせた通称として有名で御座いますね。

荏原神社02


□ 荏原神社(えばらじんじゃ)

所在地:東京都品川区北品川
御創建:和銅2年9月9日(709年10月16日)
御祭神:豊受姫之神、天照皇大神、高淤加美神、須佐男之尊、手力雄之尊
旧 称:貴布彌大明神、品川大明神、天王社
通 称:南天王社


※高淤加美神(たかおかみのかみ)は、“おかみ”の文字は変換不可能なので表示出来ない為に別表記(古事記によります)にて記しておりますが、こちらの神社の表記では雨冠に龍とかいて“おかみ”と読みます。
日本書紀で伊邪那岐神が迦具土神を斬った際に御誕生になった3柱の内の一柱で、京都貴船神社の主祭神でも御座いまして、日本の代表的な水神様で御座いますね。

荏原神社は、和銅2年9月9日(709年10月16日)の御創建。
大和国の丹生川上神社より、高淤加美神を勧請された事に始まると伝えられます。
時代背景的には、藤原京から平城京への遷都の前年という事で…!
江戸文化溢れる東京都内で、こんなにも歴史ある神社が今も静かに佇まれている事が奇跡のようで感動致します。

元は、南品川の地に御鎮座されていたといわれ、旧鎮座地には現在も水神様を御祀りした貴布彌神社が御座います。
現在地に御遷座された年代等は伝わっていないようで御座います。

長元2年9月16日(1029年10月25日)、伊勢神宮より天照大神、豊受大神を勧請。

康平5年(1062)年、前九年の役後三年の役の際、勅命によって奥州の阿部氏討伐へと向かわれる源頼義様、八幡太郎義家様親子が、こちらの御社と大國魂神社に参詣され、戦勝祈願の為に品川沖にて身を清められたと伝えられます。
そして、成就後には御礼参りにも訪れていらっしゃっておられるようで…。
頼義様、義家様は、東国における源氏の地位を築かれた方々で源頼朝様や範頼様、義経様等の御先祖様に当たる方々に御座いますね。
この海中での禊の故事に倣って、現在でも例祭に際して 大国魂神社の神職さんは品川沖で身を清め、潮水を荏原神社へと持ち帰って潔斎に用いられるのだそうで御座います。

宝治元年6月19日(1247年7月22日)には、京都の祇園社(=八坂神社)より牛頭天王を勧請されております。
それによって、品川神社を北の天王社、こちらを南の天王社と呼ばれるようになったので御座いますね。
品川神社を頼朝様が御創建されたのが文治3(1187)年の事で御座いますので、頼朝様の頃には未だ天王社として信仰されていた訳では無いようで御座いますね。

以降、源氏からの信仰を受け、また時代が下るにつれて 上杉氏や徳川氏等、数多くの武家にも篤く崇拝され、品川総鎮守として護り栄えられてきたそうで御座います。
現在の御社殿の建立は弘化元(1844)年だそうで、都内でも古い建物の1つに数えられております。

荏原郡の名をとって荏原神社と改称されたのが、明治8年の事。
現在では、都内にありながらも静かな佇まいを残す穏やかな場所となっておりますが、矢張り品川の地で御座いますので、全く人気が無いという事も無く……付近に御住まいの方々の良い御散歩コースとして人気があるようで御座います。

また、古来より こちらに参じて叶わぬ祈願事は無いと有名であったそうで、勝負、学問、商売、病気平癒、恋愛…等、様々な御願い事に御神徳があるといわれております。

荏原神社03


御社殿とは少しだけ離れた右手と申しますか裏手と申しますか…微妙にあれ?と思われるような場所に、素敵な能舞台が御座いました。
土地開発等で境内地が縮小されてしまったのかな…とも思われる感じも御座いますが、何だか勿体無いような気分も致します。。

荏原神社04


そして、能舞台の反対側に当たる辺りには、境内社…いえ、境外社になるので御座いましょうか;
稲荷神社を中心に、八幡宮と熊野神社の小さな御社が御末社として3社並んで御祀りされておりました。

室町期以降、荏原神社の祠官である鈴木氏は 紀伊熊野の出自なのだそうで御座います。
それ故…か否かは不詳で御座いますが、熊野社が御祀りされているのが嬉しいな〜と(笑)
……ちなみに、歴代鈴木氏は神職でありながらも武士として活躍なさっておられたとかで…何とも衝撃な事実で御座いますね;

荏原神社05


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“品川”の祖。
品川神社01


東京都品川区は、江戸時代 東海道の重要な宿場であった品川宿が御座いました。
目黒川を挟んで北と南に分けられ、7千人もの人々が住む活気に溢れる宿場町であったといわれます。
現在も その道幅は当時のまま…都内中心部からはやや離れておりますが、品川はビジネスオフィス街として現在も多くの人が行き交う街で御座います。

東京は部分的では御座いますが 御江戸な文化が今も色濃く残される地で御座います。
けれど、その時代よりも もっと以前…関東が勢力を持ち始めた 平安末期〜鎌倉時代頃の史跡も、都内で ちらほらと見掛ける事が出来るので御座います。

この品川の地にも、源頼朝様に御縁の強い御社が御座います。
それが、この地名の由来にもなったといわれる神社、品川神社で御座います。

品川神社02


実は、私は品川区に程近い場所に住んでおりまして…ちょっとした用事等で品川に出掛ける事も良く御座いますので、個人的に 品川神社は割と御馴染みの神社さんで御座います。
目の前の道路は交通量が多く、正直 東京って誰もが忙しない感じがして疲れるなぁ…と思わされるので御座いますが、境内の奥へと進んで行くにつれ、その清涼な空気に安堵感を覚える事が出来ます。

私が、こちらの神社のカッコいいなぁ〜と思うところは、この鳥居。
両側に しっかりと龍が絡み付いておられまして、何だかとっても素敵なのです…!

品川神社03


□ 品川神社(しながわじんじゃ)

所在地:東京都品川区北品川
御創建:文治3(1187)年
御祭神:天比理乃命、素盞嗚尊、宇賀之売命
旧 称:品川大明神、北品川稲荷社、天王社、品川鎮守
通 称:北の天王


品川神社の御創建は、文治3(1187)年。
なんと、頼朝様による御創始で御座います〜!
頼朝様は安房国の洲崎明神から天比理乃命を勧請して品川大明神と名付けられ、海上守護と祈願成就を願われたと伝えられます。

文治3年といえば、既に平家御一門の滅亡と共に源平合戦が終結して2年後の頃であり、奥州の藤原秀衡様が御亡くなりになられた年で御座います。
その2年後には衣川の合戦にて義経様が自刃なさっており、その後 頼朝様率いる鎌倉の奥州討伐軍によって藤原泰衡様が打たれる事となるので御座いますが……頼朝様が成就を願われた祈願事とは如何なるものであったので御座いましょうか。

鎌倉期の後、室町期以降も土地の豪族等の庇護の得て、天正19(1591)年には徳川家康様より、南品川の貴布禰神社(現 荏原神社)と合わせて5石の社領朱印を受けております。
また、寛永14(1637)年 東海寺建立に際して、その敷地の一部が境内地であった事から代替の社領を賜り、更には 東海寺の鬼門に位置していた事から鎮守社にも定められ、江戸幕府によって守護されたそうで御座います。

   御由緒

今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(一一八七)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃?命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
やがて、鎌倉時代末期の元応元年(一三一九)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(一四七八)に太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
慶長五年(一六〇〇)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)などを奉納されました。
また、寛永十四年(一六三七)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄七年(一六九四)・嘉永三年(一八五〇)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(一八六八)十一月には明治天皇様が新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使がご参拝になられ御祈願をされました。
大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(一九六四)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建されました。



品川神社04


境内には、阿那稲荷社の上社と下社が御座いまして…こちらがまた、都内の神社境内とは思えない程に神秘的な空気を醸し出しておられるので御座います。
全体的にはこじんまりとした感じなので御座いますが、それ故に……と申しましょうか、京都の伏見稲荷さんの御山巡りで感じるようなゾクゾク感とは また違った感覚を味わう事が出来るので御座います(苦笑)

品川神社05


品川神社の宝物殿は常時開放されている訳では御座いませんので、訪れる際には注意が必要で御座います〜。
こちらでは、家康様御奉納の面や 家光様御奉納の御神輿等、文化財にも指定されております御宝物を拝む事が出来ます。

品川神社07


正中を中心とした社務所向かいには、とても御立派な能舞台が御座います。
ちなみに…品川神社の境内裏手には、板垣退助夫妻の墓所が御座います。

品川神社08


↑……すみません、とっても意味不明な画像に見えてしまいますが(反省中…;)、こちらは境内御参道の左脇に造られた人口の小高い丘…山?で、“富士塚”として品川区の有形文化財に指定されております。
品川富士とも呼ばれており、数歩登れば、“1合目”“2合目”…といった感じで、アッサリと頂上まで辿り着けてしまう小さな山で御座いますが、ここを登る事=富士山に登ったのと同じ事になるのだそうで御座います。
富士塚は、明治2(1869)年に約300名の方々の手によって造られましたが、大正11(1922)年 第一京浜国道建設の為、数十メートル移動した現在地に移設されたもので御座います。
塚というか、本当に小さな“山”で御座います。
品川神社には境内社として浅間神社も御祀りされており、この一帯での富士山信仰を伺う事が出来ますね。

品川神社06


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別当様の名を持つ坂道。
実盛坂01


東京都文京区――湯島天神の南に御座います、こちらの階段…もとい坂道は、“実盛坂”と呼ばれているそうで御座います。
坂道巡りをされておられる方も多いそうで御座いますね〜。

文京区には坂道が多く…といいますか、私的に関東は坂道が多いなぁと度々感じさせられております。
ただでさえ、地下鉄等の乗り継ぎで登っては降り、降りては登り…を繰り返しておりますのに、地上に上がっても尚、急な坂道が続いていたりで……よくもまぁ、このように波々しい土地を首都に定めたものだなぁと不躾ながら呆然と考える事もしばしばで御座います;
江戸期〜維新にかけての帝都整備は、とても大変だったのでは…と思う一方、それよりもずっと以前の山道であったであろう時分の姿の方が鮮明に思い浮べる事が出来てしまいます。

ちなみに…この辺りが武蔵国と呼ばれておりました平安末期の頃、武蔵野守として一帯を治めておられましたのが平家の方々。
平治元(1159)年の平治の乱以降、知盛様、知重様、知度様、知章様と代々の武蔵守に補任し、国司を務められておられました。
そう思えば、東京での生活も少しは楽しいもののように感じるので御座いますが(苦笑)、実際に方々がこちらへ赴かれたか否かは不詳で御座いますし、恐らくは都にいらっしゃられた事で御座いましょうから、残念ながら縁の史跡等が残されているという事も無いようで……;
その代わりといっては何ですが、東国には東国ならではの方々の史跡も数多く点在しておりますし、それらを巡るのも私の日々の楽しみの1つとなっているので御座います〜。

実盛坂02


さてさて…実盛坂の“実盛”とは、勿論 斉藤別当実盛様の事に御座いますが、江戸砂子改撰江戸志に伝えられる伝説に、篠原の戦いにて木曾軍に討たれた実盛様の塚、首洗いの井戸等が、この坂下の南側にあったという伝承に基づいて その名が付けられたのだそうで御座いまして………。
はて…色々と合点のいかぬ伝承に御座いますね(苦笑)

以下、坂上に記された案内書きの内容で御座います。

   実盛坂

 『江戸志』によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。
また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。
この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。
寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。
この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の“実盛塚”や“首洗いの井戸”の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
   −郷土愛をはぐくむ文化財− 文京区教育委員会 平成14年3月



……という事で、後世の人々によって形成された伝説のようで御座いますね。
古典芸能等でも題材として取り上げられ、平家物語の実盛最期を基にして作られた実盛物語等でも分かりますが、室町以降の源平ブームには当然、実盛様の勇姿と心意気も羨望の対象であった事で御座いましょう。

元々は何の縁も無かった土地が、後の人々によって 身近な場所であったかのように伝わるのは、素晴らしい事だと思います。
何の思い入れも無いところには、何も残らないのですもの…。
それだけ、偉大な御方であったという証でも御座いますよね。

実盛坂03


実盛坂は、階段にしては結構な急傾斜で御座いますが、石段が造られる前は、本当にただの坂道だったので御座いましょうか。
だとしたら、坂というよりは崖にも近いようなものだったのでは;…とも思えてしまいますが、街の整備に際して、このような形になったのかもしれないですよね。

あ、段下で待っているのは、私の母上で御座います。
仕事で上京した折に、上野動物園に行きたいというので…(笑)

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