
□ 以仁王(もちひとおう) □
生 年:仁平元(1151)年
没年月日:治承4年5月26日(1180年6月20日)
父 :後白河天皇
母 :藤原成子(藤原季成女)
兄弟姉妹:兄…二条天皇、守覚法親王(同母)
弟…円恵法親王、定恵法親王、高倉天皇、静恵法親王、道法法親王、
承仁法親王、恒恵、真禎
姉妹…亮子内親王(殷富門院/同母)、好子内親王、式子内親王(同母)、
休子内親王、惇子内親王、覲子内親王(宣陽門院)
妻 :安井宮(八条院三位局)、殷富門院治部卿局 他
子 :北陸宮、真性、道尊、法円、道性、仁誉、三条姫宮、姫宮
通 称:三条宮、高倉宮
自 称:最勝親王
以仁王は、後白河天皇の第三皇子。
二条天皇の弟宮、高倉天皇の兄宮様で御座います。
平家物語では後白河天皇の第二皇子となっておりますが、これは御兄様であられる守覚法親王が仏門に入られた事による記述かと思われます。
守覚法親王は、平経正様が幼少期に稚児として御仕えしていた仁和寺の第6世門跡で御座いますね。
以仁王は、御若くして 学問や詩歌、書、管弦に秀でる優れた御方であったといわれ、母方の生家 閑院家からも皇位継承者としての密かな期待を抱かれていたようで御座います。
幼い頃に天台座主 最雲様の弟子として寺院に入られましたが、間も無くして最雲様が御亡くなりになられた事で出家には至りませんでした。
最雲様より寺領を相続し、暲子(八条女院)の猶子として静かに、そして真面目な日々を送られておられたといいます。
三条高倉の邸宅に御住まいであった事から、三条宮、高倉宮と称されておられました。
然し、時代の背景は平家全盛期へと突入する頃で御座いました。
仁安3(1168)年、清盛様は 六条天皇を退位させた後に平滋子(建春門院)様を御生母とする憲仁親王(高倉天皇)が即位。
平家との繋がりが無く、優秀な才覚と共に人望も厚かった以仁王の存在は、清盛様の妻 時子様の妹である滋子様にとっては要注意人物に思えた事で御座いましょう…。
生まれも育ちも申し分の無い筈の御方で御座いましたのに、以仁王は滋子様に疎まれた事によって不遇の人生…哀しい運命を辿られる事となったので御座います……。
蟄居の身となった以仁王は、第三皇子(事実上は、第二皇子)でありながらも親王宣下を受けられず、生涯“王”のままで御座いました。
治承3(1179)年には、清盛様の娘である中宮 徳子様が御生みになった皇子 言仁親王(後の安徳天皇)が皇太子となった事で、以仁王は即位の希望を失いました。
同年11月(1179年12月)に清盛様の起こした治承三年の政変の際、以仁王は最雲様より受け継いでおられた寺領を没収されてしまわれております。
平家独裁の世の中で以仁王は、恵まれない孤独な日々を詩歌管弦に没頭する事で慰めておられました。
そんな時に訪れた人生最大の転機が、源頼政様が持ち込んだ打倒平氏の計画で御座いました。
挙兵に至るまでの動機や推移には諸説いわれており、以仁王から持ち掛けた御話であったと考えられる事も御座いますが、一般的には頼政様が以仁王を説得した事によるといわれております。
平家の世に不満を抱く者にとっては、身分的にも御立場的にも、以仁王の存在は捨て置けないものであった事と思われます。
治承4年2月(1180年3月)、高倉天皇譲位の後 言仁親王が安徳天皇として即位致します。
それが以仁王の躊躇いを断ち切った最後の綱であったのかもしれません…挙兵を御決意された以仁王は、京近辺の寺社勢力と東国の武士達に対して 平家追討の令旨を発されました。
治承四年四月二十七日
廿七日 壬申
高倉宮令旨、今日到著于前武衛將軍伊豆國北條館。
八條院藏人行家、所持來也。
武衛裝水干、先奉遥拜男山方、謹令披閲之給。
侍中者、爲相觸甲斐信濃源氏等、則下向彼國。
武衛爲前右衛門督信頼縁坐、去永暦元年三月十一日、配當國之後、歎而送二十年春秋、愁而積四八餘星霜也。
而項年之間、平相國禪閤、恣管領天下、刑罰近臣。
剰奉遷仙洞於鳥羽之離宮。
上皇御憤、頻惱 叡慮。
當于此時、令旨到來。
仍欲擧義兵、寔惟天與取、時至行謂歟。
爰上野介平直方朝臣五代孫、北條四郎時政主者、當國豪傑也。
以武衛、爲聟君、専顯無二忠節。
因茲最前招彼主、令披令旨給
下東海東山北陸三道、諸國源氏、并群兵等所。
應 早追討清盛法師并從類叛逆輩事右前伊豆守正五位下、源朝臣仲綱、宣奉最勝王勅爾。
清盛法師、并宗盛等、以威勢起凶徒、亡國家惱亂百官萬民、虜掠五畿七道、幽閇 皇院、流罪公臣、斷命流嶋、沈淵込樓、盗財領國奪官授職、無功許賞、非罪配過。
或召釣於諸寺之高僧、禁獄於修學僧徒、或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、斷百王之跡、切一人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也。
于時天地悉悲、臣民皆愁。
仍吾爲一院第二皇子。
尋天武皇子舊儀、追討 王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣、唯非憑人力之搆。
偏所仰天道之扶也。
因之如、有 帝王三寳神明之冥感、何忽無四岳合力之志、然則源家之人、藤氏之人、兼三道諸國之間、堪勇士者、同令與力追討。
若於不同心者、准清盛法師從類、可行死流追禁之罪過。
若於有勝功者先預國之使、兼御即位之後、必隨思可賜勸賞也。
諸國宜承知、依宣行之
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱 (吾妻鏡による)
この令旨で以仁王は、自らを最勝親王と称して平氏討伐後は皇位に就く事を宣言されております。
以仁王の令旨内容についてですが、平家物語、吾妻鏡 共に 後世の創作であるとの味方も御座いまして 真偽の程は定かでは無いといわれております。
令旨の伝達者は、熊野新宮に隠れ住まわれておられた源行家様。
諸国の源氏等をまわって内密に計画を進め伝えて参りましたが、京を発った翌月には早くも情報は露見してしまっております。
平家物語によれば、密告者は熊野別当湛増様という事で御座います。
これを知った平家側は、ただちに追討を準備致しますが、平家側には頼政様に縁ある者も含まれていた為、事前に危機を察知した頼政様は以仁王を女装させて密かに園城寺(三井寺)へと隠されました。
朝廷側は、以仁王を“源以光”という名に改名させ、土佐へ流罪に処す事を決定致しました。
然し、間も無くして園城寺には平氏軍による以仁王引渡しの圧力がかけられる事となり、近隣寺院等に援軍を求めつつ頼政様の合流を待ちました。
夜襲をかけ時間稼ぎを狙いますが、これは逆効果で状況は悪化…混乱の中を抜け出した以仁王は 乗り馴れぬ馬に四苦八苦されつつも、何とか奈良へと辿り着かれました。
平家物語には、三井寺から宇治への途中 以仁王は6度も落馬をされたと記されておりますが、日頃 馬になど乗る事も無い宮様が、しかも精神的にも追い詰められておられた時の事で御座いますので…私は格好悪い事では無いと…むしろ、そうまでしても諦めず己の選んだ道を進まれた御心に とても共感を致しております。
そして、宇治にて休息を取られている際に 追い付かれた平家軍による襲撃を受け、宇治川を挟んでの攻防戦を繰り広げられる最中、一足先にと逃された以仁王は 頼政様とは離別…頼政様は平等院内にて自刃なさったといわれます。
逃された以仁王では御座いましたが、奈良を目指して逃亡される途路、山城国と大和国の国境――光明山の鳥居前で大量の矢に射られ、その内の1矢が左脇腹に命中して落馬……あっという間に平家軍に取り押さえられ、御首を討ち取られてしまわれた御最期であったと平家物語には伝えられます。享年30歳。
時代の波に翻弄された、志半ばの非業の最期であられた哀れな宮様であったと語り継がれる以仁王で御座いますが、その御覚悟を定められた時より それは見えていた未来であったのかもしれません。
穏やかな日々の中に潜ませていたのは、希望、野心……存在意義なのでは無かったのでは無いかしらと…。
やらずにする後悔よりは、やって後悔する生き様が良い…と、私は思います。
例え険しい路だとしても 己の立てた志に、本気で命をかけられる御方は 誰よりも魅力的で御座います。
以仁王の発した令旨は、後に各地の反平氏勢力の旗挙げへと発展。
結果的に、以仁王の選択が 平家滅亡へと追い込んだ 最大のキッカケになったので御座います。
ただ、それを見届ける事…その後を統治する事の叶わなかった……そんな生涯では御座いました。
以仁王は、この国の歴史に決して欠かしてはならない 歴史を動された御方の御1人なので御座います。
ちなみに…以仁王生存説も、当時よりささやかれていた事実のようで御座います。

□ 高階 栄子(たかしなのえいし、たかしなのよしこ) □
生 年:不詳
没 年:建保4年2〜3月(1216年2〜3月)?
父 :法印澄雲(延暦寺僧)? or 上座章尋?
夫 :平業房
子 :平業兼、藤原教成、女、女、女、覲子内親王(父は後白河法皇)
通 称:丹後局、浄土寺二位、丹後二品、院執権
国語辞典に“院政の陰の実力者”と記され、“日本の楊貴妃”とまで称される丹後局様こと、高階栄子様。
大河「義経」で夏木マリさんが演じられた丹後局様の「面をあげよ」と仰られる独特のイントネーションや、後白河法皇との遣り取りは、何度見ても大変インパクト大で御座いました〜。
皇族に関わり世を動かされたといわれる丹後局様では御座いますが、その出自については殆どが謎に包まれております。
栄子様は、後白河法皇の近臣 平業房様の妻で御座いました。
御2人の間には5人の御子様が在ったといわれます。
そんな御一家にとって…栄子様にとっての決別、転機のきっかけとなったのが、安元3年6月(1177年7月)の鹿ヶ谷事件――業房様は、この陰謀の参加者で御座いました。
法皇様に乞われた事によって追捕は免れる事が出来ましたが、それも一時の気休めだったので御座いましょうか…。
治承3(1179)年の平清盛様のクーデターの際、法皇様は鳥羽殿に幽閉、側近の業房様は解官され、伊豆への流罪に処されました。
が、その途路にて業房様は脱走。
平家の手によって殺められ、この世を去られました。
未亡人となった丹後局様は、法皇様の院御所に宮仕えをされる事となったようで御座います。
業房様御存命時から既に宮仕えされていたのか否かは定かでは御座いません。
愚管抄によれば、清盛様が法皇様を幽閉された時、丹後局様だけは御附け申されたという事で御座いますので、もう少し前の頃から召されていたのかもしれません。
後に、傾国の美女に例えられる程の御方で御座います故、元より素晴らしい美貌の持ち主だったので御座いましょう。
法皇様の寵愛を得、間もなく御懐妊なさっておられます。
養和元年7月(1181年9月)、出産を控えたこの時期に 丹後局様は業房様の供養を行われておられます。
然し、身重の丹後局様の代わりに、法皇様が殿上人を御遣わしになられたようで、玉葉には人々の微妙に不思議な心中が記されております。
そして、養和元年10月5日(1181年11月20日)、皇女 覲子内親王を出産。
内親王様御誕生と同じ年の閏2月、清盛様が死去。
これを機に、丹後局様は政治にも口を出すようになられたようで御座います。
法皇様にとって、心も身体も安心して預けられる存在だったのかもしれませんね。
それ故に、傾国…なので御座いましょう。
寿永2(1183)年、安徳天皇を奉じた平家一門が都落ち。
平家では最期の時まで安徳天皇を今上帝として奉じておられましたが、京では 8月に法皇様が安徳天皇を廃し、新天皇を擁立されておりました。
その際、丹後局様が後鳥羽天皇を立てるように薦められたといわれます。
そして、平氏滅亡後……時代は鎌倉幕府を中心とした武士のものへと移り変わって参ります。
この頃になっても、浄土寺への供養は続けておられたようで、文治2(1186)年に浄士寺御堂へ法皇様と共に御幸され、業房様の供養を行われていらっしゃいます。
建久2(1191)年、院号宣下によって覲子内親王は宣陽門院となられ、その生母である丹後局様は従二位に叙せられます。
そして 建久3(1192)年、長きに渡って寵愛を受けた法皇様が死去なされると、丹後局は出家。
法皇様の遺言によって 丹後局様は山科に所領を、宣陽門院様には長講堂領が与えられました。
法皇様亡き後の朝廷では、鎌倉を後ろ盾とする九条兼実様が権勢を誇っておりましたが、これに反発する一派が土御門通親、そして丹後局様方等で御座いました。
兼実様を失脚させる事に成功した後は、幼い主上に代わって政治の実験を握りますが、建仁2(1202)年に通親様が亡くなられると、心身ともに成長された主上は親政を始められます。
それによって、丹後局様の権威は次第に衰えていったので御座います。
丹後局は、頼朝様とも親しい関係ではあったようで御座います。
鎌倉とはしばしば連絡をとりあっていたようで御座いますし、建久元(1190)年には、初度上洛された頼朝様と対面。
院宣によって頼朝様が修繕された法住寺殿に、法皇様は丹後局と共に渡御されておりますし、何かと贈り物も交わされていたようで御座います。
建久6(1195)年の頼朝様2度目の上洛の際には、頼朝様は宣陽門院の御所に祗候されており、また丹後局様は六波羅の頼朝様邸にて、政子様、大姫様にも御会いになられております。
頼朝様上洛の理由は、東大寺再建供養…というのが建前で、実は大姫様入内計画の準備であったといわれます。
晩年、朝廷から退いた丹後局様は、業房様の所領であり度々供養を行っていた浄土寺に住まわれました。
“浄土寺二位”と称されるのは、それに由来する呼び名で御座います。
生年も没年月日も定かで無い御人が、時代の流れには確実に関わられておられます。
時代の流れに翻弄された女人というよりは、自らが望んで飛び込んだような…そんな野心すら伺えるようでも御座います。

* * * * * * * *

ちなみに…この時代の丹後局様といえば 先ず↑この丹後局様なので御座いますが、ほぼ同時期の鎌倉にも“丹後局”が居られます〜。
比企能員様の妹様で、源頼朝様と恋仲であった御方で御座いますが…そちらの丹後局様につきましては、またいずれ。
鎌倉方の方々や史跡について 色々と記していきたいと思いつつも、ついつい京〜西国に重点を置いてしまうのは、私が西の人間だからなのか、東国に在住している為か(苦笑)
鎌倉へはかなり頻繁に通っているので、小出しにでも鎌倉関連の記事を上げていきたいと思います。
※イラストは、「十五夜」様の素材を使用させていただきました……→


崇徳上皇の熊野参詣で御座いますが、実に1回きりの事で御座いました。
そもそも、熊野信仰が大きく広がっていくキッカケになったのが、上皇による熊野御幸で御座いました。
初めて熊野に参詣された上皇は、907年の宇多法皇。
それから暫くの間を空けて、992年に参られたのが 私も大好き(?)花山法皇!
それからそれから更に暫くの間があって 1090年、崇徳天皇の実父の噂が付き纏う白河上皇が熊野へと御幸なさいます。
白河上皇の熊野参詣回数は、9回。
この辺りから、熊野という場所が世間に知られるようになり、熊野信仰が広がりを見せ始めていく感じで御座います。
崇徳上皇の事実上の父、鳥羽上皇は21回の熊野御幸、
そしてそして、熊野参詣の超有名人 後白河上皇の熊野御幸回数は、最多の34回!!で御座います〜。
藤原頼長様の日記 台記によれば、
“康治二年二月二十八日精 閏二月五日発 三月四日還 (崇徳上皇御同列)”
と記録されており、鳥羽上皇の参詣に同行した盲が伝えられております。
ちなみに、後白河院が院政を行った時期に上皇となった二条上皇、六条上皇、高倉上皇は熊野へは御幸しておりません
高倉天皇の第4皇子である後鳥羽上皇は、後白河院没後に院政を引き継ぎ、熊野御幸も受け継ぐように28回行われております。
後鳥羽上皇の院政下で上皇になった土御門上皇、順徳上皇についても熊野御幸の記録は残されておらず、御幸している方々の共通点として、力のある上皇のみが行われていたようにも見取る事が出来ますね。
崇徳上皇が熊野を参詣されたのは 1143(康治2)年、近衛天皇に譲位された翌年で御座います。
1142(康治元)年に出家された父、鳥羽法皇の熊野御幸に同行する事となった訳で御座いますが、崇徳院を幼い頃から公私共に疎み続け、息子と認めようとしなかった鳥羽法皇が何故、この年の御幸には同行を許したので御座いましょうか…。
もしかして、出家を機に現世での過ちを思い返し、崇徳上皇に歩み寄ろうとされていた……とか…。
然し、その後の時勢は 近衛天皇の崩御、呪詛騒ぎ、そして後白河院の即位…と、崇徳上皇にとっては望みを絶たれるような展開となり、鳥羽法皇との間に和解が成立したと思われるような出来事は遺される事がありませんでした。
崇徳上皇が熊野の地を踏まれたのも、その生涯の中で、その1回きりの事で御座います。
崇徳院が幼少の頃より和歌に秀で、幾つもの和歌を遺された事は昨日の記事にも記しましたが、編算させた和歌集に“詞花和歌集”が御座います。
詞花和歌集は、崇徳上皇の院宣を受け、藤原顕輔によって選出された第六の勅撰和歌集で御座います。
崇徳上皇が、この院宣を下したのは1144(天養元)年の事。
鳥羽法皇と共に熊野参詣した翌年の事で御座いますね。
鳥羽法皇の院政が敷かれた頃に、新院の崇徳上皇が院宣を下されたというのは、鳥羽法皇が崇徳上皇の和歌の才を認めていたという事なのかもしれませんし、この頃だけかもしれませんが それだけ父子としての距離が近付いていた証なのかもしれませんよね…。
詞花和歌集は、春、夏、秋、冬、賀、別、恋(上、下)、雑(上、下)の全10巻による編成で、総歌数は勅撰和歌集の中では最も少ないといわれております。
主な歌人に、曾禰好忠、和泉式部、大江匡房、源俊頼 等が見られ、
その他にも赤染衛門、清少納言、愛しの藤原実方様(笑)、花山院と 平安中期の有名人揃い…!
それから、平忠盛様や平清盛様、平教経様、源頼政様の御歌も…!!
崇徳院による御歌は7首。
完成は1151年頃で、崇徳院が讃岐に配流される5年前の事で御座います。
詞花和歌集の中には、熊野を詠んだ御歌が幾つか御座います。
崇徳院の御製ではありませんが…(苦笑)
先ずは、巻第八“恋(下)”より和泉式部の和歌。
詞書は“おなじ所なるをとこのかき絶えにければよめる”
“いくかへり つらしと人を みくまのゝ
うらめしながら 恋しかるらん”
“幾度も恨めしいと思ってあの御方を見て来たというのに
そう思いつつも、どうしてこんなに恋しいのでしょう…”
失恋歌で御座いますね。
この場合の“みくまの”は、枕詞のような意図で使われているのではないかと…。
こういう御歌を遺されているから、後の熊野信仰に和泉式部の説話が使われる事になったのやもしれません。
和泉式部も熊野参詣を行ったと熊野には伝えられておりますが、史実である確証は無いようで御座います。
***
続きまして、巻第十“雑(下)”より道命法師の御歌。
詞書は“熊野へ詣でける道にて、月をみてよめる”
“みやこにて ながめし月の もろともに
旅の空にも いでにけるかな”
“都で眺めた月が、私と共に旅の空に出ております”
***
崇徳上皇にとって、熊野はどういう土地であったので御座いましょうか。
自分を疎み続けた父の御幸に御供して、熊野の大自然の中、何を感じられたのでしょう…。
※明日は、崇徳天皇が御祭神の安井金毘羅宮について。
香川の金刀比羅宮には、未だ行った事が無いのです;;
免許取ったら、実家の車を拝借して行きたい場所で御座います(笑)
13日の金曜日で御座いますね〜…(笑)
不吉な日といわれる本日は、没後 怨霊となり恐れられたと伝えられる崇徳天皇について記してみようかと思います。
“こんぴら様”と呼び親しまれる金刀比羅宮、そして各地の金毘羅さまの御祭神でもいらっしゃいますね。

□ 第75代 崇徳天皇(すとくてんのう) □
生年月日:1119年7月7日(元永2年5月28日)
没年月日:1164年9月14日(長寛2年8月26日)
在 位:1123(保安4)年→1141(永治元)年
諱 :顕仁(あきひと)
父 :鳥羽天皇
母 :璋子(待賢門院/藤原公実女)
皇 后:藤原聖子
皇 妃:源師経女(女房)、源行宗養女
皇 子:重仁親王、覚恵
追 号:崇徳
異 称:新院、讃岐院(退位後)
御 陵:白峯陵
鳥羽天皇の第一皇子 で御座います。
崇徳上皇は鳥羽天皇の実子ではなく、鳥羽天皇の祖父 白河法皇と 白河天皇が鳥羽天皇に与えた待賢門院との間に生まれた子であったといわれており、5歳の時に皇位に就きましたが、鳥羽天皇からは“叔父子”と呼ばれ疎まれていたようで御座います…。
白河法皇亡き後は、鳥羽上皇に疎まれ続けたといわれ、1141(永治元)年、異母弟である近衛天皇に譲位致しました。
この時、新帝は崇徳帝の養子として即位させる予定で御座いましたが、鳥羽上皇の宣命には“皇太弟”と記されており、退位と同時に崇徳天皇は“治天の君”となる資格を剥奪される事となってしまいました。
その近衛天皇ですが、1155(久寿2年) 17歳の若さで亡くなられてしまいます。
この辺りから囁かれるようになったのが、“近衛天皇が崩御されたのは、崇徳上皇が呪詛を行った所為である”という噂。
これを耳にした美福門院もこの噂を信じ、怒りを露にしたと伝えられます。
崇徳上皇は、近衛天皇の次点には再び自分が皇位に就くか、又は 第一皇子である重仁親王を皇位に就けたいと望んでおりましたが叶わず、後白河天皇の即位となった為、これを強く怨んだといわれております。
1156(保元元)年に鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇は 摂関家にて不遇にあった藤原頼長様 等と共に謀って挙兵致しました(※保元の乱)
後白河天皇から重仁親王に譲位させ、自らは“治天の君”となって実権を手にする事が目的で御座いましたが、亡き鳥羽院が生前に有力な武士に対して後白河天皇の護衛を命じていた事もあってか 崇徳天皇方に付く武士は少なく、平清盛様、源義朝様 等によって崇徳上皇方は奇襲攻撃を受け、敗北となりました。
この時、崇徳上皇側に付いていた武士は、源為義様、源頼賢様、源為朝様、源頼憲(多田頼憲)様、平忠正様 等で御座います。
為義様は嫡男である、そして為朝様から見れば兄である義朝様と、
忠正様は甥である清盛様と…源平それぞれが 身内同士で敵対する事となってしまいました。
頼長様は戦死、忠正様、為義様は処刑となり、為朝様は流罪とされております。
白河北殿を脱出した崇徳上皇は、東山の如意山に隠れ、その晩の内に 紫野の知足院近くの僧坊にて剃髪、出家されたという事で御座います。
そして、その後に讃岐国への流刑が処されます。
讃岐の御所では侘しく寂しい生活を余儀無くされ、いつも心には都を想われていたようで御座います。
戦死した者達の菩提を弔う為、指先から血を垂らして、3年もの月日をかけて五部大乗経(法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経)を血書されたといいます。
この写本を、仁和寺の覚性法親王に送り、都の近くに安置して欲しいと朝廷に願いましたが、呪詛の疑いを持った後白河院によって拒否されました。
これに激しく怒りを覚えた崇徳法皇は、髪を伸ばし放題、爪も切らぬ状態のまま、激しい形相となって死後の崇りを誓ったといいます。
そして、1164年9月14日(長寛2年8月26日)、朝廷に怨念を抱きつつ、讃岐の地にて崩御。享年46歳。
さて。
崇徳天皇を語るのに欠かせないのが、怨霊伝説で御座いますね…。
崇徳法皇亡き後、激しい源平争乱の時代となり、鎌倉幕府成立後の承久の乱では後鳥羽上皇が流刑に処せられました。
朝廷は、これは崇徳法皇の祟りであるとして、酷く恐れたといわれ、治承元年“崇徳”の諡号が定められ、崇徳法皇と挙兵し没した藤原頼長様には従一位太政大臣を追贈して、共に粟田宮に御祀りしております。
これは、平安期に確立した御霊信仰によるもので御座いますね。
朝廷や民を脅かす天災、疫病の類を“政治的に失脚した者や、敗戦して非業の死を遂げた者の怨念=怨霊”とみなし、これを鎮めて“怨霊”→“御霊”=“神様”と崇める事で平穏を願う信仰で御座います。
御霊信仰で神様に祀り上げられた有名人を挙げますと…、
先ずはオカルト界では超有名人な 早良親王(崇道天皇)、
御存知、天神様の 菅原道真公、
それから、井上皇后、他戸親王、伊予親王、藤原吉子(伊予親王母)、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇……矢張り、皇族の方がダントツで大半を占めているような気も致しますが、御霊として祀られている方々は まだ沢山いらっしゃいます。
悲しい事で御座いますが、安徳天皇もこの中に御名前が入る御1人でなのですよね。。
出生のその時から父に疎まれ、抱いた夢や希望は悉く周囲に消され、本当ならば誰よりも華々しく、全ての民の上に立って生きられる筈の御立場にも関わらずの人生……ですが、生きていた全ての日々が辛く苦しいという事も無かったのではないかと思います。
和歌や音楽を愛されたこの御方は、物事を美しく感じる心、日常から感動を見つけて音や言葉にあらわす事の出来る御方ですもの。
青く澄んだ空を見て、そこに浮かぶ雲を見て、飛ぶ鳥を見て、きっと色んな事を感じられていた筈。
マイナスの感情を幾つも幾つも抱きつつ、それでも光を求めようとされた…その先に描いていた理想の都は、どんな場所だったのでしょうか。
私は、この御方は本当に芯の強い御方だったのでは無いかしらと思います。
それから…熊野大好きな私と致しましては、崇徳上皇が1度のみ行われた熊野御幸も見落としてはならぬポイントで御座います〜。
その辺りについて、明日は少し考察出来たら良いなと思っております。
※タイトルは、保元物語より崇徳法皇の詠まれたとされる和歌。
幼少の頃から和歌を好んで、歌会や歌合を開いたり、和歌集を編ませたりしております。
百人一首にも登場されておりますよね!
“浜の千鳥は都に通い、私の筆の跡(=五部大乗経)も都へと届けられるけれど、私の身は松山にあって泣いてばかりおります…”
覚性法親王は、この和歌を見て涙されたとの事で御座いました。

不吉な日といわれる本日は、没後 怨霊となり恐れられたと伝えられる崇徳天皇について記してみようかと思います。
“こんぴら様”と呼び親しまれる金刀比羅宮、そして各地の金毘羅さまの御祭神でもいらっしゃいますね。

□ 第75代 崇徳天皇(すとくてんのう) □
生年月日:1119年7月7日(元永2年5月28日)
没年月日:1164年9月14日(長寛2年8月26日)
在 位:1123(保安4)年→1141(永治元)年
諱 :顕仁(あきひと)
父 :鳥羽天皇
母 :璋子(待賢門院/藤原公実女)
皇 后:藤原聖子
皇 妃:源師経女(女房)、源行宗養女
皇 子:重仁親王、覚恵
追 号:崇徳
異 称:新院、讃岐院(退位後)
御 陵:白峯陵
鳥羽天皇の第一皇子 で御座います。
崇徳上皇は鳥羽天皇の実子ではなく、鳥羽天皇の祖父 白河法皇と 白河天皇が鳥羽天皇に与えた待賢門院との間に生まれた子であったといわれており、5歳の時に皇位に就きましたが、鳥羽天皇からは“叔父子”と呼ばれ疎まれていたようで御座います…。
白河法皇亡き後は、鳥羽上皇に疎まれ続けたといわれ、1141(永治元)年、異母弟である近衛天皇に譲位致しました。
この時、新帝は崇徳帝の養子として即位させる予定で御座いましたが、鳥羽上皇の宣命には“皇太弟”と記されており、退位と同時に崇徳天皇は“治天の君”となる資格を剥奪される事となってしまいました。
その近衛天皇ですが、1155(久寿2年) 17歳の若さで亡くなられてしまいます。
この辺りから囁かれるようになったのが、“近衛天皇が崩御されたのは、崇徳上皇が呪詛を行った所為である”という噂。
これを耳にした美福門院もこの噂を信じ、怒りを露にしたと伝えられます。
崇徳上皇は、近衛天皇の次点には再び自分が皇位に就くか、又は 第一皇子である重仁親王を皇位に就けたいと望んでおりましたが叶わず、後白河天皇の即位となった為、これを強く怨んだといわれております。
1156(保元元)年に鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇は 摂関家にて不遇にあった藤原頼長様 等と共に謀って挙兵致しました(※保元の乱)
後白河天皇から重仁親王に譲位させ、自らは“治天の君”となって実権を手にする事が目的で御座いましたが、亡き鳥羽院が生前に有力な武士に対して後白河天皇の護衛を命じていた事もあってか 崇徳天皇方に付く武士は少なく、平清盛様、源義朝様 等によって崇徳上皇方は奇襲攻撃を受け、敗北となりました。
この時、崇徳上皇側に付いていた武士は、源為義様、源頼賢様、源為朝様、源頼憲(多田頼憲)様、平忠正様 等で御座います。
為義様は嫡男である、そして為朝様から見れば兄である義朝様と、
忠正様は甥である清盛様と…源平それぞれが 身内同士で敵対する事となってしまいました。
頼長様は戦死、忠正様、為義様は処刑となり、為朝様は流罪とされております。
白河北殿を脱出した崇徳上皇は、東山の如意山に隠れ、その晩の内に 紫野の知足院近くの僧坊にて剃髪、出家されたという事で御座います。
そして、その後に讃岐国への流刑が処されます。
讃岐の御所では侘しく寂しい生活を余儀無くされ、いつも心には都を想われていたようで御座います。
戦死した者達の菩提を弔う為、指先から血を垂らして、3年もの月日をかけて五部大乗経(法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経)を血書されたといいます。
この写本を、仁和寺の覚性法親王に送り、都の近くに安置して欲しいと朝廷に願いましたが、呪詛の疑いを持った後白河院によって拒否されました。
これに激しく怒りを覚えた崇徳法皇は、髪を伸ばし放題、爪も切らぬ状態のまま、激しい形相となって死後の崇りを誓ったといいます。
そして、1164年9月14日(長寛2年8月26日)、朝廷に怨念を抱きつつ、讃岐の地にて崩御。享年46歳。
さて。
崇徳天皇を語るのに欠かせないのが、怨霊伝説で御座いますね…。
崇徳法皇亡き後、激しい源平争乱の時代となり、鎌倉幕府成立後の承久の乱では後鳥羽上皇が流刑に処せられました。
朝廷は、これは崇徳法皇の祟りであるとして、酷く恐れたといわれ、治承元年“崇徳”の諡号が定められ、崇徳法皇と挙兵し没した藤原頼長様には従一位太政大臣を追贈して、共に粟田宮に御祀りしております。
これは、平安期に確立した御霊信仰によるもので御座いますね。
朝廷や民を脅かす天災、疫病の類を“政治的に失脚した者や、敗戦して非業の死を遂げた者の怨念=怨霊”とみなし、これを鎮めて“怨霊”→“御霊”=“神様”と崇める事で平穏を願う信仰で御座います。
御霊信仰で神様に祀り上げられた有名人を挙げますと…、
先ずはオカルト界では超有名人な 早良親王(崇道天皇)、
御存知、天神様の 菅原道真公、
それから、井上皇后、他戸親王、伊予親王、藤原吉子(伊予親王母)、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇……矢張り、皇族の方がダントツで大半を占めているような気も致しますが、御霊として祀られている方々は まだ沢山いらっしゃいます。
悲しい事で御座いますが、安徳天皇もこの中に御名前が入る御1人でなのですよね。。
出生のその時から父に疎まれ、抱いた夢や希望は悉く周囲に消され、本当ならば誰よりも華々しく、全ての民の上に立って生きられる筈の御立場にも関わらずの人生……ですが、生きていた全ての日々が辛く苦しいという事も無かったのではないかと思います。
和歌や音楽を愛されたこの御方は、物事を美しく感じる心、日常から感動を見つけて音や言葉にあらわす事の出来る御方ですもの。
青く澄んだ空を見て、そこに浮かぶ雲を見て、飛ぶ鳥を見て、きっと色んな事を感じられていた筈。
マイナスの感情を幾つも幾つも抱きつつ、それでも光を求めようとされた…その先に描いていた理想の都は、どんな場所だったのでしょうか。
私は、この御方は本当に芯の強い御方だったのでは無いかしらと思います。
それから…熊野大好きな私と致しましては、崇徳上皇が1度のみ行われた熊野御幸も見落としてはならぬポイントで御座います〜。
その辺りについて、明日は少し考察出来たら良いなと思っております。
※タイトルは、保元物語より崇徳法皇の詠まれたとされる和歌。
幼少の頃から和歌を好んで、歌会や歌合を開いたり、和歌集を編ませたりしております。
百人一首にも登場されておりますよね!
“浜の千鳥は都に通い、私の筆の跡(=五部大乗経)も都へと届けられるけれど、私の身は松山にあって泣いてばかりおります…”
覚性法親王は、この和歌を見て涙されたとの事で御座いました。

□ 第77代 後白河天皇(ごしらかわてんのう) □
生年月日:1127年10月18日(大治2年9月11日)
没年月日:1192年4月26日(建久3年3月13日)
在 位:1155年8月23日(久寿2年7月24日)→1158年9月5日(保元3年8月11日)
諱 :雅仁
父 :鳥羽天皇
母 :待賢門院璋子(藤原公実女)
皇 后:藤原忻子、平滋子、藤原懿子
皇 妃:原子、藤原成子、高階栄子、徳大寺公能女、大江信重女、
源仁操女、紀孝資女
皇 子:守仁親王(二条天皇)、守覚法親王、以仁王、円恵親王、
定恵親王、恒恵、憲仁親王(高倉天皇)、静恵親王、道法親王、
承仁親王、真禎
皇 女:亮子内親王(殷富門院)、好子内親王、式子内親王、休子内親王、
惇子内親王、覲子内親王(宣陽門院)
追 号:後白河
法 名:行真
異 称:行真法皇(出家後)
御 陵:法住寺陵
鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、1127年12月19日(大治2年11月14日)親王宣下、1140年1月18日(保延5年12月27日)元服。
近衛天皇崩御に伴い、立太子していないにも関わらず 1155年8月23日(久寿2年7月24日)践祚、1155年11月22日(久寿2年10月26日)に即位致しました。
1156(保元元)年7月2日 鳥羽法皇が崩御すると、後白河天皇の即位に反感を抱いていた崇徳上皇との間で衝突が起こりました。
世にいう、保元の乱で御座います。
事前に兵を集めていた両者で御座いますが、崇徳上皇方に付いたのは源為義様、源頼賢様、源為朝様、源頼憲(多田頼憲)様、平忠正様 等、
後白河天皇方には、源義朝様、平清盛、源頼政様、源義康(足利義康)様 等が付きました。
義朝様、清盛様を中心とした後白河天皇側の武士達は、先手を打って白河北殿へ夜襲をかけ、激戦の後の火攻によって戦闘は終結、後白河天皇方の勝利となりました。
閏9月に保元新制という荘園整理令を発令、翌年は35箇条の新制を発布されております。
1158年9月5日(保元3年8月11日)、守仁親王(二条天皇)に譲位。
以後、治天の君として 二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代に渡って院政を行われました。
そんな中、院の近臣である藤原信西と藤原信頼、保元の乱では共に後白河方として戦った清盛様と義朝様の対立が深まっていき、更には、若くして英君と称された二条天皇を囲む者達によって朝廷内で分裂が起き、12月 平治の乱の勃発となりました。
清盛様が平家一門を従えて熊野参詣に出掛けた直後の事で御座いますね。
結果は、信頼側の敗北に終わり、信頼方に付いていた源氏も都から敗走致しました。
義朝様は途中 尾張にて殺害され、それ以前に敗走軍から逸れてしまった頼朝様は捕まって京へ送られた後、伊豆に配流されております。
常盤御前は、今若(後の阿野全成)様と乙若(後の義円)様、牛若(後の義経)様を連れて、京を落ちますが、後に清盛様のもとへ自ら出頭する事となります。
ここからが、平家一門全盛期と呼ばれる時代で御座いますね。
この頃の後白河上皇と清盛様は、利害関係の一致による御関係のように思われます。
後白河上皇は、平家の力を利用しつつ、天皇側を押さえながら、院政を続けようと致します。
反発する二条天皇側との朝廷内揉めで、一時 政治は混乱に陥りますが、1166(永万2)年 二条天皇は急死。
院政を再開させた上皇は、2年後 二条天皇の遺児であり、自らの孫でもある六条天皇を廃位に追い遣り、高倉天皇を即位させました。
六条天皇はその後、世に忘れ去られた身として儚く過ごされ、13歳の若さで亡くなられたといいます。
元服も未だで后妃も居らず、勿論 子供も遺されておりません。
美少年といわれた二条天皇の御子なだけに、さぞ美しい皇子様だったのでは無いかしら…と切ない気持ちになってしまいます。。
1169年7月13日(嘉応元年6月17日)出家し、後白河法皇となります。
勢力をつけすぎた平家に対して、法皇は打倒を目論みますが(鹿ヶ谷の陰謀)、事前に情報が漏れてしまい、失敗に終わります。
1179年(治承3)年、平重盛様が亡くなられると、法皇は重盛様の所領を没収。
これに怒った清盛様により、法皇は鳥羽殿に幽閉され、院政は停止となりました。
1180年(治承4)年には御歳2歳の安徳天皇が即位。
実母である建礼門院 徳子様が清盛様の娘である事で、外祖父として政治の実権は清盛様が握られる事となりました。
それによって絶望へと陥れられたのは、後白河法皇の第三皇子である以仁王で御座いました。
身分あっても、政権を握る平家の圧力によって親王宣下を受ける事すら叶わず、学や楽に優れていたといわれるその御方は、30歳近くなっても皇位への望みから出家をしなかったといいます。
その以仁王が、源頼政様と謀って諸国の源氏、大寺社に対して令旨を発しました。
この挙兵自体は失敗に終わりますが、この令旨を受けた各地に潜む源氏…木曾の源義仲様や伊豆の頼朝様 等が次々と兵を挙げており、最終的に平家の滅亡へと導いたキッカケにもなっているので御座います。
1181年3月20日(治承5年閏2月4日)の清盛様病死によって、平家の勢いは加速をつけて衰え始めます。
後白河法皇は、再び院政を開始致しました。
1183年(寿永2)5月、義仲様率いる木曾の軍勢が北陸から京へと進軍すると、平家一門は、安徳天皇と三種の神器を伴って都を落ちました。
以仁王の遺児である北陸宮を即位させるよう勧める義仲様を無視し、法皇は後鳥羽天皇を即位させます。
三種の神器が無い為に、緊急時の特別措置としての院宣による即位で御座いました。
これによって、同時期に天皇が2人存在する事となってしまっております。
都では後鳥羽天皇が主上、西国の平家方にとっては安徳天皇が主上という状況で御座います。
加えて 法皇は平家追討の院宣を下します。
また、初めは歓迎していた義仲様に対して 粗野な田舎者と疎むようになっていた法皇は、備中水島の戦いにて平家軍に惨敗して帰って来た義仲様を受け入れず、追い出そうと兵を固めました。
それに怒った義仲様によって法皇は五条内裏に幽閉され政権を掌握されますが、源範頼様、義経様率いる源氏軍によって救い出されました。
頼朝様の東国支配権を認め、平氏討伐令を発します。
そして、1185年4月25日(元暦2年3月24日) 長門国壇ノ浦の戦いに於いて、平家は滅亡致しました。
この時の年号を“寿永4年3月24日”と記すのは、平家方を中心に考える場合で御座います。
都では“元暦”と改元されておりましたが、平家方では“寿永”を使用し続けておりました。
平家が滅びてこれでやっと落ち着いて…と思いきや、今度は頼朝様との間に不和が生じ、鎌倉を追放された義経様に頼朝様討伐の院宣を下します。
然し、その後は頼朝様に義経様追討の院宣を下す事となります。
義経様が奥州衣川館にて自害されると、続いて奥州藤原氏追討の院宣を頼朝様に請われますが、これを認めませんでした。
結果的には頼朝様が奥州を攻めた後、事後承諾として院宣を下されました。
1190(建久元)年、上洛した頼朝様と対面し、事実上の和解となります。
この時、征夷大将軍就任の願いは聞き入られなかった為、頼朝様の征夷大将軍就任は、御存知イイクニ作ろう〜の1192(建久3)年の事となるので御座います。
1192年5月2日(建久3年3月19日)、後白河法皇死去。享年66歳。
蓮華王院法華堂に葬られました。
* * * * * * * *
“御白河法皇”で思いつく事柄…。
〃野御幸34回+京にも熊野社を勧請。
熊野以外の諸寺、諸社への参詣回数も素晴らしい事で御座いますが、
矢張り、熊野だけは一層特別な場所であったようで、非常に信仰の篤さを感じさせられております。
私の熊野参詣の目標は、法皇様で御座います故!(笑)
新熊野神社、熊野神社、熊野若王子神社=京の三熊野を作り上げられた事には、ただただ感服致しております〜。
若王子神社は、私が京都で1番好きな神社で御座いますので…。
∈M預膵イ。
法皇自身の編集による“梁塵秘抄”には、当時の流行歌である今様が数多く収められております。
法皇は10代の頃より昼夜を忘れて稽古に励み、何度も声を枯らしたといわれます。
今様の研究、発表の為ならば、どんな身分の者でも招き、今様合わせの会には院御所殿上に庶民が聴聞に押し寄せる事にも寛容であったと伝えられております。
遊び事であろうとも、好きな事に真剣に取り組みすぎて熱中してしまう御気質だったので御座いましょう…あぁ、何か他人事とは思えないなぁ…(苦笑)
鳥羽上皇に、即位の御器量に非ずと考えられていた一員にもなっているようで御座います。
I櫃じ翳……頼朝様曰く、大天狗。
文治元年・十一月十五日
十五日 甲午
大藏卿泰經朝臣使者參著。
依怖刑歟、直不參營中、先到左典厩御亭、告被献状於鎌倉殿之由、又一通、獻典厩。
義經等事、全非微臣結搆。
只怖武威、傳奏許也。
及何様遠聞哉、就世上浮説、無左右、不鑚之様、可被宥申<云云>。
典厩、相具使者、達子細給。
府卿云状、披覽、俊兼、讀申之。
其趣、行家、義經、謀叛事、偏爲天魔所爲歟。
無 宣下者、參宮中、可自殺之由、言上之間、爲避當時難、一旦雖似有 勅許、曽非 叡慮之所與<云云>。
是偏傳天氣歟。
二品、被投返報云、行家、義經謀叛事、爲天魔所爲之由、被仰下、甚無謂事候。
天魔者、爲佛法成妨、於人倫、致煩者也。
頼朝降伏數多之朝敵、奉任世務於君之忠、何忽變反逆非指叡慮、被下 院宣哉。
云行家、云義經、不召取之間、諸國衰弊、人民滅亡歟。
仍日本第一大天狗者、更非他者歟<云云>。 (吾妻鏡による)
↑コレですね〜…。
この頃は、義経様がー…。。
* * * * * * * *
………あぁ;;
全然纏まっておりません…申し訳御座いません;;
どんな視点で考えてるんだかサッパリです……あわわ、あわわ(焦)
※タイトルは、千載集より 後白河法皇が天皇時代に詠まれた御歌。
詞書に“位の御時、皇太后宮はじめてまゐり給へりける後朝につかはしける”とあります……まぁ、初々しい!!(笑)
皇太后宮=藤原忻子様の事で御座いますね。
“永遠の契りを交わした その証として、もう既に日暮が待ち遠しくてならないのです…1日が永遠のように長いだなんて”
暗躍者な印象の抜けない法皇様では御座いますが、生まれた瞬間から大天狗だった訳では御座いませんもの…(苦笑)
| ホーム |




