
香川県高松市牟礼町牟礼の屋島合戦における、佐藤継信様、大夫黒縁の史跡――。
源義経の弓流し跡から5分程歩いた場所に、州崎寺という御寺さんが御座います。

□ 州崎寺(すざきじ) □
所在地:香川県高松市牟礼町牟礼
御創建:大同年間(806〜809年)
御開山:弘法大師
山 号:眺海山円通院
宗 派:真言宗高野山派
御本尊:聖観音菩薩
現在は とても綺麗に整備されており、休日等にはイベントも行われていらっしゃるようで御座いますが、弘法大師様御創建と伝わる歴史深い御寺さんで御座います。
“洲崎”という名称から、かつては この辺りも海岸であったので御座いましょう。
源平合戦の頃も、恐らくは波打つ浜辺であったのでは無いかと思われますので、この辺りも合戦場となっていたのでは無いでしょうか。
当時、こちらは大伽藍を持つ大きな寺院であったといわれておりますが、合戦の戦渦に巻き込まれてしまったようで御座います。
御本堂にも火の手が上がり、源氏軍は燃え落ちた その扉を担架にして継信様の亡骸を瓜生ヶ丘の本陣まで運ばれたと伝えられております。
平家物語等に、継信様を供養された寺院の名称は登場致しませんが、伝承によれば こちらが継信様の菩提寺であり、名馬 太夫黒が寄進された御寺さんという事なのだそうで御座います。
継信様の遺品が残されているとも御聞き致しました。
また、負傷した源平両軍の兵が運び込まれたとも伝えられております。
その後、暫く衰退されてしまっていたようですが、元禄12(1699)年に再興。
江戸時代初期、四国遍路の概念が成立した事から、四国八十八ヶ所、西国三十三箇所観音霊場の御遍路として巡礼されるようになったようで御座います。
例によって画像がアレなので御座いますが…(苦笑)、綺麗に整えられた境内は、源平合戦時の屋島周辺を象られて作られております。
苔の陸、砂の海、那須与一様の扇の的の場所等も作られていて、ミニチュア屋島のようで御座います。
屋島合戦の頃の地形や、合戦当時の様子を伺う事が出来て、とても素晴らしい庭園だと思います。
その他 境内には、“四国御遍路の父”とも称される眞念法師の御墓がある事でも知られております。

境内に面した塀壁には、源平合戦のレリーフが掲げられておりました。
屋島合戦の絵図は故事に基づく絵と史跡場所が解りやすくて記されており、史跡巡りをするにはとても有難い事で御座いますね〜。

↑の合戦絵図の傍には、これに照らし合わせて合戦の流れを追った あらましが非常に解りやすく記されており、これならば何方にでも気軽に歴史に触れていただけるなぁと感動致しました。

那須与一 扇の的(祈り岩・駒立岩)
日はすでに傾き、沖では平家の軍船が赤旗をなびかせて態勢を立て直していた。
と、その船団の中から一艘の舟が渚に向かって漕ぎ寄せて止まった。
見れば、舟の帆先に赤地に金の日の丸を描いた扇を付け、優美な女性が招いている。
「これは扇を射よとの合図でしょう。」
そして、弓の名手、那須与一が選ばれた。
この扇を射落とさねば源氏の恥。
与一は祈り岩まで馬を進め、『南無八幡大菩薩、願わくはあの扇の真中を射させ給え』と一心に願った。
決意した与一は駒立岩に駒を止め、鏑(鳴矢)を取って引き絞り、ひょうと放った。
矢は見事に扇に命中した。
『浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の一寸ばかりを射て、ひふっとぞ射切ったる。鏑は海に入りければ、扇は空へと揚がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風にも一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ落ちたりける。みな紅の扇の日いだしたるが、夕日の輝いたるに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、陸には源氏、箙(矢入れ)をたたいてどよめきけり。』
「平家物語」はこの名場面を絵のように伝えている。

佐藤継信の討死(菩提寺 州崎寺・射落畠)
屋島合戦では数多くの死傷者が出た。
義経四天王の中の佐藤継信もそのひとりである。
平家きっての強者・教経は源氏の大将・義経を射落とさんとするが、武蔵坊弁慶、佐藤継信・忠信の兄弟、江田源三らの勇士たちが駒をずらり並べて義経の前に立ちはだかる。
教経が「九郎判官義経はいずこにあるや……」と放った矢は、先頭を切って立ち向かってきた継信の左の肩から右の脇腹を射抜いた。
継信は義経の身代わりとなって討死したのである。
そして、継信の亡がらは戦火によって焼け落ちた州崎寺の焼け残った本堂の扉に乗せられて源氏の本陣 瓜生ヶ丘まで運ばれた。
州崎寺は継信の菩提寺となり、毎年春には慰霊法要が行われている。
義経が建てた継信の墓は義経の愛馬 太夫黒の墓と並んで葬られている。

景清の錣引き(祈り岩付近)
源氏の武将 美尾屋十郎は平家の勇士、悪七兵衛景清の大長刀で太刀を落とされ、逃げようとした。
景清は、十郎の兜の錣をつかみ、逃がせまいとする。
引っ張り合いの末、遂に錣が切れ、十郎は逃げきった。
十郎が「腕の強さよ」と下を巻けば、景清は「首の強さよ」と十郎を褒め称えた。
義経の弓流し(相引川の中)
源氏の大将 義経は一寸した油断があったのであろうか、平家の舟から繰り出される熊手に引っかけられ、弓を海に落としてしまった。
弓は波間に見え隠れして流れてゆく。
「お捨てなされい。お捨て下されい。」
と部下たちが止めるのも聞かず、義経は右手の太刀で戦いながら、左手のムチで弓を広いあげた。
「一張の弓と大将軍の命と何れが大切であるか。」
と語気を荒げる部下たちに義経は答えた。
「叔父為朝の弓のような剛弓であるならば、わざとでも敵に拾わせてやろう。しかし。拙者程度の者では、源氏の大将の名をけがすことになる。それが、口惜しかったのだ。」
どちらも松平頼重公によって整備された史跡では御座いますが、屋島東町の御墓は顕彰碑であり、こちら――牟礼の御墓こそが、墓所であるといわれております。

↑うーん…これまた微妙な写真しか残っておらず;;
ちらりと見えておりますが、こちらの継信様の御墓でも、石碑の背後に五輪塔が御座います。
この五輪塔は そんなに古いものでは無い(※私の感覚で…)ようで御座いますね。
頼重公による建立であろうと思われますが、屋島東町の碑も頼重公による整備で御座いましたので、何となく御墓が2ヶ所になってしまったような感じも致します。
…呼び分けられれば良かったようにも思われますね(苦笑)
佐藤継信の墓
源平合戦の際、義経の身代りとなって戦死した佐藤継信の墓です。
寛永二十年、松平頼重公が新しく墓石を建てて、その忠死を称えました。
昭和六年五月、継信三十世の孫・山形県人佐藤信古氏が更に第修築を加えて面目一新しました。
“胸板をすえて忠義の的に立ち”

写真ではサッパリ判りませんが(申し訳御座いません;;)、継信様の墓所は綺麗に整備されており、御墓にしては少し広めとも感じられる墓域は柵で囲まれております。
そんな墓所内…継信様の御墓の右奥には、義経様が後白河院より賜ったといわれる名馬 大夫黒の御墓も御座います。
何を思ったのか、私はこの墓前で
「この薄は植えられているのだろうか、それとも生えているのだろうか…」
と 延々必死に考えてしまっておりました……すみません。。
大夫黒は 継信様亡き後、その菩提供養を頼まれた御寺の御住職に 義経様が差し出された御馬さんで御座います。
この大夫黒も、義経様と共に合戦を乗り越えて来た名馬で御座いました…それを惜しむ事無く、継信様の為に捧げられた義経様の御心に涙したのは 御傍近くにいらした忠信様、郎党の方々のみでは無かったのでは無いかと…思います。
太夫黒の墓
この墓は継信の墓域内の右奥にあります。
この馬はもと後白河法皇から義経に賜わったもので、継信の忠死を賞揚する余りに、義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせました。
太夫黒がたおれて後、ここに埋めたといわれています。
源平屋島合戦八百年祭準備実行委員会

こちらは大夫黒の墓石の右横にあった五輪塔…恐らく、これがいちばん古くから伝わる 大夫黒の御墓なので御座いましょう。
この地の伝承では、継信様の死を悲しんだ大夫黒は その御墓に寄添うように倒れ、そのまま亡くなってしまった為、哀れんだ人々によって継信様の御墓の傍らにその亡骸を葬られ、供養されたといわれております。
昨日の記事(射落畠)に、屋島には継信様の御墓が何故か2ヶ所あると記しましたが、こちらはその内の1つ――“御墓”として残されてはおりますが、正しくは顕彰碑、供養塔の類として建立された石碑で御座います。

↑………これは1年以上前に撮影した写真なのですが…凹。
こりゃッ、何やっとんよねー!?と 当時の自分を締め上げてしまいたい位、肝心なものが写っておりません…というか、たったの2枚しか撮影していなかった事が疑問で仕方が御座いません;;
この頃は未だアナログな人だったのですが、それにしても酷過ぎます…四国入りして直ぐに写真屋さんに駆け込んで大量にフィルムを買い込んでいた筈なのにー…(涙)
えっと……とても判り辛いのですが、石碑の背後に密かに積石のようなものが写っております(苦)
これが、御墓と呼ばれている供養塔で御座いまして…。
本当は横から見れば良く判るのですが、何もそんな隠すような高い石碑を真前面に建てなくても;と思ってしまう感じにも思えてしまいますね(苦笑)…言い訳がましくて申し訳御座いません。。
この碑は、寛永20年5月(1643年6月) 初代高松藩主松平頼重公が継信様の忠死こそが“武士道の鏡”として儒臣岡部玄拙等斎氏に碑文を作らせて建立された顕彰碑であると伝えられております。
継信様の故事を より多くの方に伝える為、遍路道沿いの現在地へと移されたとも伺いました。
頼重公は屋島の源平史跡を整備された御方で御座いますね〜。
素晴らしい偉業で御座います!
その御蔭で、今の私達が その縁の史跡を巡る事が出来ている訳で…大変有難い事で御座います。
佐藤継信の墓
継信は、寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登守教経の強弓により、大将 義経の一命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の死を広く世の人に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁重に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍らに建立しました。
また、墓は牟礼町王墓に残っています。

この近くには、安徳天皇社、そして継信様と僅かの差で討死なさった平家方の若き忠心者 菊王丸様の為に能登守教経様が建立されたという御墓が御座います。
※明日は、もう1つの継信様の御墓(こちらが、正しくは御墓と伝わっております)について。

香川県高松市牟礼町の屋島合戦関連史跡――。
総門跡より少し東へ進んだところには、佐藤継信様終焉の地“射落畠”が伝えられております。
義経様の盾となって能登守教経様の強弓に射られ、亡くなられた継信様…。
射抜かれ馬から落ちて亡くなられた事から、“射落畠”と呼ばれるようになったといわれております。
自分でもガッカリする位に微妙に部分的な画像しか発掘出来ず、とても判り辛いのですが(申し訳御座いません/涙)、綺麗に整備された囲いの中には“胸板をすえて忠義の的に立ち”と刻まれた石碑が建てられております。
射落畠
寿永四年二月十九日(一一八五)源平合戦の際、源氏の武将佐藤継信が大将義経の身代りとなり、平家の雄将能登守教経の強弓に射落された所です。
昭和六年継信の墓所大修築と共にこの地に柵をめぐらし池泉をつくり射落畠碑と、遠祖君馬薄墨碑を建立し、これをあらわしました。
牟礼町教育委員会

囲いの入口右手前には、福島飯坂ライオンズクラブさんが建立された顕彰碑が御座いました。
継信様は、みちのく…陸奥国は信夫里佐藤庄、現在の飯坂温泉辺りの御出身であると伝えられております。
昭和60年の源平合戦800年と、福島飯坂ライオンズクラブさんの発足20周年とを併せて記念しての御建立であったようで御座います。
佐藤継信顕彰碑
この地は源義経の四天王の一人 佐藤継信戦死の場所である
継信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に従う
継信は若くして智略兵法に通じ 豪勇の名を知られる
源義経陸奥に来て秀衡の庇護をうけ後頼朝挙兵を援けすため都に上るに際し 父の命により継信 忠信の兄弟もこれに従う
連戦して平家を追い屋島壇ノ浦にいたり 敵将平教経の挑戦をうけ 義経の身代りとして戦死
時に年二十八才
継信は みちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身であり 源平八〇〇年祭と当クラブ結成二十周年を記念してこの碑を建立するものである
昭和六十年四月十八日 福島飯坂ライオンズクラブ
こちらは単純に“射落畠”と呼ばれる由来として、継信様の事が伝えられている為、それに関して記されているのだろうと思われます。
……が、個人的に密かに思うのは……継信様が射落とされた場所という事は、つまり…菊王丸様が射られた場所もこの付近という事にもなると思うのですけれどー…それについてはノータッチなんだなぁという事だったり致します(苦笑)
この時、源平両氏の間にどれ程の距離があったのかは判りませんが、平家物語によれば、菊王丸様は継信様の御首を取ろうと走り寄られておられ、その後 継信様の弟 忠信様の弓に射討たれてしまいますので、そんなに遠い場所であったとも考え難いように思われます。
矢張り合戦勝者である源氏方の、それも平家物語の中心人物である義経様の大切な郎党で奥州藤原氏とも通じる佐藤兄の御最期の方が、元々は教経様の兄 通盛様付きの童であったというだけで出自の伝わらない元服前の一少年の御最期より、人々の印象に残りやすいものなのかもしれませんね…等と、うっかり皮肉めいた内心を抱きつつも、少し離れた場所に、菊王丸様墓所と伝わる御墓は御座います…し、継信様の御墓もちゃんと別の場所に…何故か2ヶ所も御座いますし(笑)
この碑の前に立って、そのような事を悶々を考えていた自分は、傍から見ると かなり変な人であったようで、この時 同行してくれていた母も 何やら不思議な目付きで付き合ってくれておりました。。

屋島――現在の香川県高松市牟礼町牟礼には、屋島の合戦にて 藤原景清(=伊藤景清=平景清)様が 平家物語に記されている“錣引”を行われたといわれる伝説の場所が御座います。
こちらには、案内板のみが立てられているだけで、特に何か史跡的なものが残されているという事も御座いません。
恐らくは、土地の方々の口伝による伝承地なので御座いましょう。
錣引で残るようなものがあれば それはそれで妙な御話で御座いますし、特にこれといって何も無い事で、不思議と納得させられる気がしないでも無いなぁと感じます(笑)
当時の面影…等と考える以前に、当時この辺りは陸地では御座いませんでしたので…ここが海だったのよね、と想像するばかりで…否が応でも時間の流れを感じさせられるような気が致します(苦笑)
ちなみに、“錣引”直前の件である那須与一様の扇の的当て史跡である祈り石、駒立岩は、どちらも歩いて5分とかからない距離に御座います。
是をもて扇をたてたらば、九郎判官さるなさけある男なれば、近く打寄せて興に入んずらんとはかりて、船の艫屋形に簾をかけて、その中に能登守教経、上総悪七兵衛景清以下惣じて十余人、究竟の手たりの精兵をととのへて、近付よりたらば、一矢にい落さんと巧みて、さらぬ様にもてなして、渚近くさし寄せたれば、判官先に心えて、はるかに引退てぞ見られける。
蘇武が胡国に囚られし事も、一百の城をかまへたりけるに、九十九の城おとして、今一の城を攻落さんとしたるに、美女を出て扇をたてて射させけるに、心ゆるしをやしたりけん、生ながらとられて、十九年の春秋をぞ送りける事どもぞんぢし、平家のはかりごと賢かりけれども、源氏それに落ざりけるこそいみじけれ。
去程に平家の方より、はし船に弓取一人、打ものもちたる一人、楯付一人、以上三人乗せてするりと押し寄せて、渚に下りて楯を付きて、敵をよせよと招きたり。
判官これを見給ひて、先若党一あてあてよとのたまへば、常陸国住人水深屋十郎、同弥藤次、同三郎、武蔵国住人金子十郎、同余一、究竟の者五騎連てをめいてかく。
真先に水深屋が進むを、楯の陰より黒つはの征矢の、塗のの十二束三ぶせあるを能引て放ちければ、水深屋が馬の草分に、矢筈隠るる迄こそ射こうたれ。
馬がはぬれば足をこしてひらとたつ、太刀を抜て額にあてて飛でかかるに、楯の陰より大の男の大長刀持ちて走り向ふを、水深屋十郎しばしむかひあひけるが、大長刀に叶はじとや思ひけん、かいふして迯げけり。
やがて追かけたり、大長刀をば左の脇にはさみて、右の手を差のべて、水深屋が甲のしころをつかまんつかまんとするが、二三度取はづしけるが、追懸てむずととらへて、ゑいとひく。
水深屋一すまひすまふやうにぞ見えける、鉢付の板よりしころをつと引ちぎりてぞ迯げたりける。
残の四騎は馬を惜みてかけず、どうれうどもが馬のかげに迯入てかへり見れば、たけ七八尺ばかりなる大の男が、左の手には大長刀を持て、右の手にはしころをさげて、あざ笑ひてぞ立たりける。
「我をば誰とか見る、わらべの云なる上総悪七兵衛景清とこそ申なれ」とて帰りにけり。
平家は是をもて少し色直りたり。 (平家物語 長門本による)
↑これは昨日の高野本からの引用とほぼ同一の場面なので御座いますが…読み本系の長門本では少々経緯の事情が違うようで…。
巻第20まである長門本で御座いますので、当然 他諸本よりも内容に膨らみがあるのですが、この場面においては先ず扇の的を掲げた美女 玉虫御前の存在が挙げられますね。
彼女を起用した時点から、扇の的当て自体が平家の謀であった事が長門本には伺えます。
しかも、ここには能登殿(平教経様)の御名前まで…。
吾妻鏡によれば、一ノ谷の合戦にて御亡くなりと伝わる能登殿で御座いますが、平家物語では壇ノ浦の合戦まで生きて登場されております。
それはまぁ、良いのですけれど…;
…この扇の的の件以前に、能登殿は菊王丸様を亡くされており……戦意喪失されていたのではー…という疑問が浮かぶのですが、長門本において菊王丸様の御最期に関する記述は実にアッサリとしたもので御座いまして、敵方に御首を取られるより先に舟へと連れ戻されてはおりますが、その死によって能登殿がどうした的な事は描かれていないので御座いました…うぅん;;
別に、菊王丸様の仇討という事でも無く……切替の早い御方設定なのかなぁ…。
というか、むしろ ここでは、義経様がその策を見抜かれた事がポイント…なのだろうかとも思うのですが。
この後の“弓流”でちょっと残念な場面を演出する為に、ここでガガッと!でもさり気無ーく、義経様の賢さを示されている……?等と、色々…考え込んでしまいます;
何だか景清様からは離れた話題になってしまいましたけれど(笑)、語り本系である諸本と、読み本系である長門本等を比べるのは、いろんな発見があってとても面白いですし、双方に古説が伴うだけに興味深く感じられます。
長門本は、何だかアッサリしているかと思えば、そこまで語る…?というような事もあったりするのですが、そこに不思議とメリハリのようなものを感じたり、音読して初めて生きるリズムのようなものがあったりして…目が離せませんね。



