日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

御伽の姫君のゆかりにて。
唐糸様、万寿姫様 供養塔01

 寿永二年の秋の頃、鎌倉の兵衛佐頼朝は、八か国の侍たちを、みな鎌倉へ召し上せ、中門に出でさせ給ひて、侍たちに向つて仰せけるは、
「いかに方々、聞き給へ。そもそも、平家、頼朝が威勢に恐れてこそ、都をば落ちて候ふに、木曾の左馬頭義仲、十郎蔵人行家らが、高名顔に、関白にやならん、主上にや参らん、法皇にやならんと、天下をほしいままにふるまふことこそ、奇怪なれ。平家退治のさきに、義仲を退治せん。佐竹の冠者も、そのよしを申し、奥州の秀衡も、九郎冠者義経を上せんと申すなり。この十月の頃なるべし。勢を残さで連れ給へ。支度せよ」
とぞ仰せける。
侍たちは承り、
「かしこまる」
と申して、みな国々へと下られける。
 折節、その頃、鎌倉殿に、唐糸の前と申して、御所方の女房あり。
これは、信濃国の木曾殿の侍に、手塚太郎光盛が女なり。
あまりに琵琶の上手なり、琴もすぐれてあればとて、十八の年、鎌倉へ召し上せ、管弦の座敷を預けらるるが、唐糸は、このよしを承り、情なのことどもや、木曾殿の御滅亡は親一門の滅亡なり、いかにもして、このことを木曾殿へ聞かせ奉らんとて、一間所へ忍び入り、文こまごまと書き、下人の男に持たせて、都へとてこそ上せらるる。
 (御伽草紙“唐糸草子”による)


これは、室町期の物語集 御伽草紙に収録されている、唐糸草子という短編物語の冒頭部分。
この物語に登場される 唐糸様は手塚光盛様の娘様、そして 万寿様は その唐糸様の娘様…光盛様の御孫様という設定になっております。

唐糸様、万寿姫様 供養塔02

□ 唐糸(からいと)

生 年:永万2(1166)年頃?
没 年:不詳
 父 :金刺光盛
 母 :不詳
 夫 :不詳
 子 :万寿
本 名:不詳


唐糸様は、琵琶と琴の名手として知られていたようで御座います。
そもそも、実在されたか否かも定かでは御座いませんが、とりあえず ここでは それは置いておく事と致しまして。

18歳の頃に鎌倉に召し出されたという事で御座いますが…頼朝様が鎌倉に入られたのが治承4(1180)年の事で御座いますので、当然それ以降という事になりますね。
寿永2(1183)年の時点での御年齢は記されておりませんが、逆算致しますと永万2(1166)年から承安3(1173)年の頃に御生まれ…少なくとも、この時に22歳以上であるという事は無いと思います。
鎌倉へ来られた時には既に子持ちの身の上であられたようで御座いますが、もし治承4(1180)年 早々に鎌倉へ入られたと考えたとすると、18歳の時に9歳の御子様がいらっしゃるという計算になりますので…御出産は9〜10歳の頃という事に…;
それを考えると、それ以上御若かったと考えるのは厳しいように感じます。
作中で、娘の万寿様は4つの時に親と離れたと12〜13歳の御歳で仰っておられますが、もしも その時に唐糸様が鎌倉へ召されていたというのであれば、これは…もう、有り得ない御話だなぁという感じになってしまいます;;
この物語は、最初の頼朝様の台詞に伺える義経様の参陣の時期や佐竹隆義様の事等にも、ん…?と思わされますが、この他にも あれ?と思う部分が多く、あくまでも後世の創作なのだろうなぁという印象が強いので、余り深く考えてはいけないのかもしれません(苦笑)

義仲様の御命が狙われている事を知った唐糸様は、都へと密書を送り、頼朝様暗殺の為にと 義仲様より送られた“ちやくい”という脇差を受け取られました。
ちなみに義仲様、この時の御文に
「もしも頼朝の命を奪う事が出来たなら、そなたを私の妻にしてやろう」
等と書かれております……この物語、何故か唐糸様の夫については全く触れられておりません……;

然し、その脇差を梶原景時様に見付かってしまい、唐糸様は逃れようと必死に弁解をなされましたが、今は敵である木曾方武将の娘を傍に仕えさせる訳にもいかぬと、唐糸様は石牢へ閉じ込められてしまいました。

唐糸様、万寿姫様 供養塔03

□ 万寿(まんじゅ)

生 年:承安2(1172)年
没 年:不詳
 父 :不詳
 母 :唐糸


万寿様は、唐糸様の娘様。
今様が上手な美女であったようで御座います。

風の噂に御母様の事を伝え聞き、乳母 更科様と共に、鎌倉を目指して女性2人の長旅をなさいました。
鎌倉に到着すると、計画通りに御所への奉公を望んで政子様に面会され、とりあえずは侍従局様に御仕えするという事になりました。

その後、無事に母子の再会を果たされた唐糸様と万寿様で御座いましたが、見付かれば殺されると考え、秘かに忍んで通われるという日々を送られました。

ある時、頼朝様の御座敷に6本の松が生え、それが大変吉事であるとされた事から、この松を鎌倉山に移しかえる儀式において12人の美女を集められました。
その中には、平重衡様との関係が伝えられる千手様も選ばれておられます。
最期の1人として選ばれた万寿様は、見事に今様を謡い舞われ、頼朝様に絶賛されました。
頼朝様が褒美を取らすと言われると、万寿様は身分を明かして唐糸様の助命を請われます。
これによって、頼朝様は この親子を許し、国元の信濃へと送り帰されたという事で…唐糸草子は、万寿様の親孝行話として伝えられてきた御話で御座いました。

唐糸様、万寿姫様 供養塔04

……画像を無視して、話を進めてしまいました。
実は、この唐糸草子の唐糸様と万寿様の供養塔が、長野県諏訪郡下諏訪町内の鎌倉街道上の何処かに存在するという情報が御座いまして…。
諏訪大社 下社 秋宮の御近くだという事で御座いましたので、行けるものなら是非とも行って御参りさせていただきたいと思いまして、秋宮の社務所にて神職さんに御聞き致しましたところ、資料等も少ないようで、場所も御存じ無い御様子だったのですけれど、なんと御一緒に尋ね歩いて下さいまして…!
観光案内板や歴史民俗資料館へ立ち寄り、付近に御住まいの方々に御尋ねしつつ、20分位歩いた頃、遂に供養塔に辿り着く事が出来ました。

とても御世話になりましたのに、御名前を御伺いするのを忘れてしまったので御座いますが…秋宮の神職さんは、供養塔までの道中、平家物語の木曾義仲様と斎藤実盛様の件や、唐糸草子について御話をして下さいました。
供養塔に到着し、確認されると、私達に ごゆっくりどうぞ、と告げられ、颯爽と下って行かれました。
私に着いて来て下さったドラさんも神職さんで御座いますので、諏訪大社は御忙しいところと思われますのに、大変御親切で驚いたと仰っておられました。
本当に、あの神職さんがいらっしゃらなければ辿り着く事は出来なかったと思います。
私の個人的な用件に貴重な時間を割いて下さって、本当に有難う御座いました。
神社で御質問をさせていただく事は御座いますが、こんなにも丁寧に対応していただいたのは生まれて初めての事で御座います…神社、神職さんによっては、迂闊な質問をして困らせてしまったり、怒られてしまう御方もいらっしゃったりで…私も甘え過ぎている節があるのかもしれません;
極力、事前に調べられる限りの事は調べてから行動したいと思っているのですが、どうしても時々先走って身体が動いてしまうのが、私の欠点で御座いますね…(長所でもあると信じたいのですが/笑)

唐糸様、万寿姫様 供養塔05

この2基の五輪塔が、唐糸様と万寿様の供養塔と伝わります。
どちらが、どちらの供養塔かは分かりませんが、創作上の架空の人物と思われる唐糸様と万寿様が、鎌倉から諏訪へ戻った後に霞ヶ城の辺りに住まわれたという伝承が語り継がれているという事で御座います。
これは、その伝承に基づいて建立された五輪塔という事で…確かに、割と近世の頃に造られた塔のようで御座います。

   唐糸と万寿姫 五輪供養塔

 唐糸は手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手、十八歳の時鎌倉に召し出され、管弦の座敷をあずけられた。
 源頼朝が義仲を討とうとしている計画を知り、父光盛に知らせた。
義仲は光盛を通して、頼朝の命をねらえと唐糸に短刀を送ってきた。
唐糸は、頼朝を討つ機会をうかがっていたが、湯屋でこの刀を見つけられ、捕えられ石牢に入れられた。
 唐糸の一人娘の万寿姫は十二歳。
風の便りにこれを知り、鎌倉へ出て頼朝の館に仕えた。
 鶴岡八幡宮で舞の奉納の機会を得た万寿姫は、目立って立派に踊り、頼朝からほうびをと言われた時、母唐糸の身代わりになりたいと願い出た。
驚いた頼朝も孝行に免じ許し、母子ともに信濃の国へ帰ることができた。
 以上は、室町時代のお伽草子に書かれた物語であるが、唐糸と万寿姫は諏訪へ帰ったのち、霞ヶ城の一部に館をつくって暮らしたと伝えられている。
 その言い伝えに基づいてここに五輪供養塔を祭った。



唐糸様、万寿姫様 供養塔06

向かって左の五輪塔には水輪部分が抜けており、恐らくは天災等で崩れた際に失われてしまったのでは無いかと思われます。

地元の方々は、こちらの事を余り御存知無いようで御座いましたが、傍には案内板も立てられておりましたし、1円玉が沢山地輪部分に載せられておりましたので、鎌倉街道を散策される方々が主に御参りなさっていらっしゃるのかな…という感じで御座いました。

唐糸様、万寿姫様 供養塔08

唐糸様、万寿様供養塔の少し手前には、小湯の上地区の山の神社が御祀りされておりました。
小さな御社で御座いましたが、ここから望む景色は 諏訪の何処で見た風景よりも綺麗だなぁと感じました。

そういえば、私は ここで
わぁ!下諏訪の町並と、海が見える〜
等と おかしな事を言ってしまったような……;
あれは、海では無く 諏訪湖で御座います…しっかり私!(苦笑)

唐糸様、万寿姫様 供養塔09

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鎌倉の御恩を諏訪の下宮に御祀りし、
梶原塚01

長野県諏訪郡下諏訪町――。
こちらは、JR下諏訪駅より徒歩5分程の場所に御座います、菅原町会館。
この敷地内に、金刺盛澄様が命の恩人である梶原景時様の御供養の為に建立されたといわれる梶原塚が伝えられております。

源平合戦期、鎌倉と諏訪の関係は非常に複雑なもので御座いました。
吾妻鏡によれば、元々は平家方であったという諏訪下宮の大祝 盛澄様。
然し、盛澄様、弟の手塚太郎光盛様は共に木曾義仲様を幼い頃より匿い、養育され、挙兵の後も付き従っておられます。
義仲様、光盛様亡き後、諏訪に戻られておられた盛澄様は、その後に鎌倉の源頼朝様に召し出されておりますが、遅参した事により処刑される事となり…そこを、頼朝様の側近であり、盛澄様の御身柄を預かられておられた景時様が上手く助命に結び付けられたので御座いました。

   鎌倉幕府との関係

 前田氏本「神氏系図」には、諏訪神氏すなわち大祝の始祖有員以下に十四代の欠失部分がある。
そしてその部分に、実にリアルな欠失の理由が書き留められている。
十七代大祝為仲は、職位前に源義家について、十二年も奥州の戦場にあって武勲をたてた。
前九年・後三年の両役である。
やがて時いたり、帰京して大祝に職位した。
ところが、後から帰路に立ちよった義家に強く上京をすすめられたのである。
もちろん、そこには論功と栄光が待っていたわけであろう。
しかし為仲には、すでに大祝のタブー、境を越えられないという絶対な枷があった。
が、父為信の諫止もきかず、為仲は敢然、人間の行動に出て義家に従った。
神の呪縛からとかれた人間の旅が続けられた。
そして美濃国莚田庄芝原宿で、為仲の人間の旅は終わった。
その夜、新羅三郎義光の手の者と為仲の従者とが、双六賽のことから大乱闘をはじめ、双方すくなくない死者をだした。
為仲はみずからその責を負って腹を切ってはてた。
 「神氏系図」は、この悲劇をきっぱり偏所致神罰也といいきっている。
人間の知性は神の呪性に敗北したのである。
書類、系図、勅裁、相伝の証文のたぐいは、すべて為仲が舅の伊那馬太夫にあずけていったまま、その所在を失ってしまった。
これが欠失の理由であるといっている。
いろいろの論議もあるが、筆者は創作ではできぬ中世(寛治元年一〇八七)らしい現実性を、その説話から感じるのだが。……
 それはそれとして、為仲以来諏訪神氏は、はげしく武士化していったようである。
上社の諏訪神氏も下社の金刺氏も、それから分かれた各地の諏訪氏も、強く源氏と結ぶようになった。
そして保元の乱。
さらに治承四年(一一八〇)には、源義仲の木曾挙兵について下社金刺、上社諏訪、千野の一族中の強力者は、あげてこれに馳せ参じた。
おなじ年、これに呼応するかのように頼朝から諏訪上・下社に、平井出、宮処、竜市、岡仁谷など、天竜川の水源の牧場地帯が寄進されている。
もちろん、これは源氏再興の先付手形であったろうが、いずれにしろ鎌倉幕府と諏訪神氏との結びつきは、いよいよ深まったわけである。
 しかし、信濃源氏は木曾義仲と運命をともにし、手塚光盛、今井兼平、樋口兼光、千野光弘、ほか藤沢、根津などの勇将を失って一応壊滅することとなった。
 一つの諏訪神社の危機であったわけである。
 ところが、そのうちの一人、下社大祝金刺盛澄は御射山祭事のために、一人遠征軍の中から越前安保で引きかえしている。
そしてそのまま頼朝の傘下に入り、由来、鎌倉幕府と諏訪大社との、切っても切れない縁が生まれることになった。
文治五年(一一八九)のことである。
諏訪神は蘇生した。
       ( 「諏訪大社」 藤森栄一 氏 著)



梶原塚02

文治三年八月十五日
十五日 癸未
鶴岡放生會也。
二品、御出。
參河守範頼、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等、扈従。
有流鏑馬射手五騎、各先渡馬場、次各射訖。
皆莫不中的。
其後、有珎事。
諏方大夫盛澄者、流鏑馬之藝窮依慣傳秀郷朝臣秘決也。
爰属平家、多年在京、連々交城南寺流鏑馬以下射藝訖。
仍參向關東事、頗延引之間、二品、有御氣色、日來爲囚人也。
而被斷罪者、流鏑馬一流、永可凌廢間、賢慮思食煩、渉旬月之處、今日俄被召出之、被仰可射流鏑馬之由、盛澄、申領状。
召賜御廐第一惡馬。
盛澄、欲令騎之刻、御厩舎人、密々告盛澄云、此御馬、於的前、必馳于右方也<云云>。
則出一的前、寄于右方、盛澄、爲生得達者、押直兮射之。
始終、無相違。
次以小土器、挾于五寸之串、三被立之。
盛澄、亦悉射畢。
次可可射件三箇串之由、重被仰出。
盛澄、承之、既雖思切生涯之運。
心中奉祈念諏方大明神、拜還瑞籬之砌、可仕靈神者。
只今垂擁護給、者然後、鏃於平<仁>捻廻<天>射之、五寸串、皆射切之。
觀者、莫不感二品御氣色、又快然、忽被仰厚免<云云>。

今日流鏑馬。
一番 射手 長江太郎義景、<的立、野三刑部烝、>盛綱、
二番 射手 伊津五郎信光、<的立、河勾七郎>政頼、
三番 射手 下河邊庄司行平、<的立勅使河原三郎>有直、
四番 射手 小山千法師丸、<的立、浅羽小三郎>行光、
五番 射手 三浦平六義村、<的立横地太郎>長重、 (吾妻鏡による)


文治3年8月15日(1187年9月18日)、鶴岡八幡宮にて行われた流鏑馬神事。
景時様の進言により、参加させられる事となった盛澄様には、最も悪い御馬が与えられました。
然し、景時様が手回しなさったのか、密かに馬屋の舎人が御馬の特徴を盛澄様に御教えされていたようで、癖のある御馬を見事に乗りこなした盛澄様は、全ての的、竿や細串までもを射落とされ、頼朝様を感嘆させられたという事で御座います。
諏訪の大祝は、生き神様も同様の意義を持たれる存在…元々 本来は、その神域の境を超える事すら許されなかった筈の御立場であったようで御座います。
そんな特別な神官だからこそ成せる技、これは まさに諏訪大明神の神技であるとして、神を処刑するような事を避け、盛澄様は罪を許され、帰国なさいました。

   梶原塚と金刺盛澄

 寿永二年(一一八三)の夏 下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と供に木曽義仲を助け平家追討中、下社御射山神事の為帰国した
 義仲は平家を追い落し京に入り威権をほしいままにした為 頼朝は兵を派遣し義仲を攻め 義仲、光盛は粟津において討伐された。
 義仲に最後まで従った盛澄は頼朝の関東参向の命をためらい その怒りにふれ捕えられ頼朝の重臣 梶原景時に断罪の為預けられていた。
 文治三年(一一八七)八月 鶴岡八幡宮放生会の折かねてより盛澄の流鏑馬の妙技を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した
 盛澄は癖馬をあてがわれたが景時の秘かなる助言で乗りこなし、すべての的をみごとに射落とし再三に及ぶ難技もみな射切った
これを見た頼朝は
「これぞ神技の故なり」
と感嘆し、金刺盛澄と部下六十余名は許されて帰国する事ができた。
 正治二年(一二〇〇)一月梶原景時の死後 盛澄は、その人徳を尊び恩義に報いる為 諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て五、三の桐の太刀を納めた。
この南西百米先にあったが鉄道開通の折移転され以後菅原町により毎年九月に例祭が行われている



梶原塚03

外側からは見えない、案内板の影に、梶原塚は御座いました。
何と無く想像していたものとは全く違う石碑に、少し違和感を覚えてしまいましたが…刻まれた文字が鮮明であった事を思うと、近代に改められたものでは無いかなという気も致します。

梶原塚は、景時様亡き後、その御最期を知った盛澄様が下宮上座堂の地に塚を建立されたものであると伝えられます。
そこには、五三の桐の太刀を納めて御祀りされたという事で御座いますが…その太刀について、現存するか否か等、詳しい事は分かりませんでした。
近代に至り、幾度かの移転を経て、現在に至っておられるという事で御座います。

  “鎌倉絵巻”
   金刺盛澄とその時代の武将


 寿永二年(一一八三)の夏下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と共に木曾義仲を助け平家追討の途中、下社御射山神事のため急ぎ帰国して来た。
義仲は平家を追い落し京に入ったが、あまりにも威権をほしいままにしたために頼朝は兵を派遣して義仲を攻め、義仲は粟津で討伐され、手塚太郎光盛も義仲と共に討死にした。
 盛澄の娘が義仲の側室であることから最後まで義仲に従った盛澄に対する憎しみが強い頼朝は盛澄に鎌倉への参向を命じたが、流鏑馬などの行事にかこつけて出頭が遅れ、怒った頼朝は彼を捕えて重臣の梶原景時に断罪のために預けた。
 文治三年(一一八七)八月十五日鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬にかねてより盛澄の流鏑馬の妙技の死滅を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した。
盛澄は召し出されてその技を命じられ、癖馬をあてがわれたが舎人がひそかにこの馬の悪癖を教え、盛澄心得て見事にのりこなし、すべての的をみごとに射落とした。
更にその竿も、次いで出されたカワラも、更にそれをはさんだ串までも、しかもその串は上五寸ばかり切れて残寸法は皆同じ長さであったと言う。
頼朝もその非凡な妙技に
「人力の及ぶ所ではない。諏訪大明神の神職である盛澄、神の加護であり、神技である。」
と深く感嘆し、金刺盛澄と部下六十余名は許されて帰国する事が出来た
 頼朝死亡後、有力御家人間の対立から景時は追放され正治二年(一二〇〇)一月駿河国狐崎の戦で敗死した。
これを知って盛澄は彼の人徳を尊び、その恩義に報いるために諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て、五三の桐の太刀を納めて祭ったと言う。
この祭は長らくすたれていたが明治十八年頃復活され、二十一、二年頃に「上座堂梶原塚」の碑を建てたが明治三十八年中央線開通にあたり駅構内から中学校下の旧公会所(現武川氏宅)に移り、更に昭和十六年公会所移転にともない現在位置に移った。
毎年九月に菅原町では盛大に例祭が行って来ている。
     文責 菅原町町史編纂委員長 丸田 浩



梶原塚04


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諏訪下社、秋宮境内の御城跡。
霞ヶ城跡01

長野県諏訪郡下諏訪町。
諏訪大社 下宮 秋宮の八幡山、駐車場付近一帯は、手塚太郎こと金刺光盛様が築かれた居城 手塚城跡であるといわれております。
手塚城は、別名 霞ヶ城、光盛様がいつ頃に建立され、どの位存続していたのか等、詳しい事は殆ど定かでは御座いませんが、諏訪大社の御由緒書によりますと、木曽義仲様が幼少期に匿われた場所でもあるという事で…。
光盛様の兄 盛澄様は、義仲様の御養父であられ、その娘と義仲様は結婚されていたとも伝えられます。
そして、義仲様の乳母夫 中原兼遠様は、諏訪社の祠官。
平家全盛の世の中で、義仲様は諏訪下宮の大祝である金刺氏…諏訪下宮の生神様の御加護によって護られておられた、という事になりますでしょうか。

秋宮の駐車場や八幡山の脇には、石垣のようなものも見受けられました。
それが御城の痕跡であるのか否かは、素人の私には判りかねる事で御座いますけれど、それが真実で無くとも頭の中で想像する分には適度な情報だなぁと感じました。

霞ヶ城跡02

秋宮境内に御座います、山王閣ホテルさん。
秋宮駐車場から八幡山を越えた所にある こちらも、手塚城跡の一部で御座いました。
現在は道路を挟んでおりますが、元々はひと続きの地形であったようで御座います。

ホテル駐車場の中心には、天然の温泉が龍口から湧き出ており、その上には凛々しい流鏑馬姿の盛澄様の銅像が建立されておりました!

霞ヶ城跡03

光盛様の居城跡なのに、御兄様の銅像なんだ…と密かに思いましたが、光盛様を銅像にしてしまうと斉藤実盛様との組討場面とか、義仲様のもとに実盛様の御首を届ける場面の再現になっちゃいそうですものね(苦笑)
盛澄様も光盛様も、共に武勇に長けた御方のようでは御座いますが、流鏑馬の名人であられた武士団の御頭 盛澄様は諏訪下宮の大祝でも御座いましたので、ここも諏訪大社の境内地で御座いますし、盛澄様の御像が建てられたという事にも納得で御座います。
盛澄様の流鏑馬は、源頼朝様が処刑を取消され、諏訪の御神徳と絶賛される程に見事であったそうで御座いますので、縁起が良い感じも致しますよね。

霞ヶ城跡04

ホテルの駐車場隅には展望台も御座いました。
何といっても秋宮の境内ですし、温泉も御座いますし!
諏訪を120%楽しめそうなホテルで御座いますね〜。

   霞ヶ城跡(手塚城)

 この地は、手塚別当金刺光盛の居城跡です。
 城主光盛は木曽義仲に従い、寿永二年(一一八三年)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な倶利伽羅峠の合戦に源氏方で参戦。
 つづく加賀篠原の戦いでは、敗北する平家群の中にあって、ただ一騎ふみとどまって奮戦する武将斉藤別当実盛と一騎打ちに及んだ。
 この古式に則った見事な一騎打ちは、武士道の鑑とされ、能「実盛」の題材となって今に伝えられている。

 光盛について、平家物語によれば

光盛 かく申すは、信濃国諏訪郡霞ヶ城主手塚別当金刺光盛なり。
実盛 仔細あって名のらじ、唯、首を取って木曽殿に見参されよ。
光盛 あなやさし、いかなる人に渡らせ給へば、みかたの御勢は、皆落行き候に、ただ一騎残らせ給いたるこそ、優に覚え候。名乗らせ給へ。
実盛 存ずる皆あれば名乗る事はあるまじいぞ。組もう、手塚。

 激闘の末、光盛がその首を討ち取るが、その人こそ、幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人斉藤別当実盛であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られている。



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諏訪の下社、秋宮。
諏訪大社 下社 秋宮01

諏訪大社 下社 秋宮は、JR下諏訪駅より徒歩約10分。
温泉街に近く、拓けている為、観光客も多く参拝に来られる御社で御座います。

私にとって、諏訪の神域は異国の聖地ような印象すら感じる場所で御座いました。
この国の、この土地に古来より根付き信仰されてこられた神様…とても自然で、とても新鮮。
4社から成る大社の中でも、特に ここと私は何だか縁遠い気がするなぁと感じさせられたのが、秋宮で御座いました。
秋宮は、私がいちばん好きだと感じた春宮と同じ下社で同一の御祭神を御祀りされる御宮様で御座いますのに…不思議なもので御座います。

諏訪大社 下社 秋宮02

こちらも、境内入口には御神湯が御座いました。
これがまた、想像以上に熱くって…(笑)

諏訪大社 下社 秋宮03

境内に入って、先ず目に入りましたのが、大きな御神木の杉の木で御座いました。
“根入りの杉”と呼ばれる、樹齢600〜700年の大木なのだそうで御座います。

   根入りの杉

この杉の木は樹齢 凡六〜七百年、丑三っ時になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ、子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれております



   ネイリの杉

 鳥居から正面に見える大きな杉の木は大社の御神木の一つです。
枝が垂れ下っていて「寝入りの杉」だとか、枝の挿木に根が生えたものなので「根入りの杉」とか言われています。
また夜は特に枝を下げ布団を掛けて静かに寝ている様にも見え、時にはイビキも聞こえると言われこの杉の木の皮を使ったお守りは、夜泣きをする子供がよく眠れるようになると言われております。
樹齢は六七百年と言われます。



諏訪大社 下社 秋宮04

国の重要文化財に指定されている秋宮の神楽殿は、とても見事で御座います。
この御立派な注連縄は…何だか出雲大社を思い出しちゃいますね〜。
と思ったら、出雲から職人さんを呼ばれて作られたもののようで…全くの無関係という事でも無いので御座いますね。

   神楽殿

 狛犬を両脇に従えた三方切妻造りの大きな建物は神楽殿で、神様をお慰め申し上げ、またお楽しみ頂くために雅楽や舞を奉納したり、色々の祈願をするところです。
現在の建物は神社本宮と同じ二代立川和四郎富昌に依り、一八三五年天保六年に完成したもので、雄大な構想を清楚で簡単にまとめてあり、神社に相応しく、鮮やかな手腕と言われます。
 神楽殿の大きな〆縄は地元下諏訪町氏子有志に依る、大〆縄奉献会の人々が出雲から職人を呼び作らせたもので、出雲大社のものと良く似ておりますが、長さが約十三米あって出雲大社型の〆縄では日本一長いと言われ、目方は推定ですが五百キロ位です。



諏訪大社 下社 秋宮05

□ 諏訪大社 下社 秋宮(すわたいしゃ しもしゃ あきみや)

所在地:長野県諏訪郡下諏訪町
御創建:不詳
主祭神:建御名方神、八坂刀賣神(※8月1日〜1月31日)


諏訪大社 下社の御祭神は、2月から7月までは春宮に鎮座されておられますが、8月1日から翌2月1日までは秋宮に鎮座されます。
本来、諏訪大社は上社に建御名方神、下社に八坂刀賣神を御祀りされていたようで御座いますが、現在 下社には両神様が御祀りされておられます。

上社の大祝は神別、御諏訪様の御子孫を称されておりましたが、下社では皇別…つまりは、皇族の御子孫 神武天皇の御子である神八井耳命を祖とする御家系が代々大祝を務めてこられたと伝えられます。

秋社は御宝殿の奥に、御神木である一位の木があり、御本殿は存在致しません。

諏訪大社 下社 秋宮06

境内には拝殿の手前両脇に幾つかの摂末社が御祀りされておりました。
新潟の諏訪神社の御子息でいらっしゃるドラさんは、諏訪大社に鹿島社が存在している事が面白いと仰られておりました。
古事記によりますと、鹿島社の御祭神 武甕槌命は、国譲りに反対した御諏訪様=建御名方神と相撲勝負で勝利され、建御名方神を諏訪へと追いやられたと伝わる神様。
そんな かつて敵対関係であられたといえる武甕槌命が諏訪大社の境内に御祀りされている事は、確かに興味深く感じられます。

諏訪大社の各社には子安社が御祀りされており、どの御社でも底無しの柄杓が沢山奉納されているのを見る事が出来ました。
底無し柄杓は、底が抜けていて 掬った水がストンと落ちてしまう事から、安産祈願で奉納される事が多いですね。
この信仰、知識として知ってはおりましたが、実際に安産の御神徳、御利益があるという社寺でも殆ど見掛けた事が御座いませんでした。

その他、境内社として賀茂上下社、八坂社、皇大神宮社、若宮社、稲荷社…それから、秋葉社と津島社と思われる小さな石祠も境内で見掛ける事が出来ました。
神宮の遥拝所が設けられていた事にも、関心を引かれます。

諏訪大社 下社 秋宮07

秋宮の宝物殿。
こちらには、源頼朝様直筆と伝わる下文が展示公開されておりました〜。

その他にも、国の重要文化財である売神祝印や、武田信玄公奉納と伝わる太刀、東郷平八郎氏の鑑定証付御神号等、貴重な御宝物を間近で拝観する事が出来ます。

諏訪大社 下社 秋宮08

正面の大鳥居の左手前には、千尋池という御神池が御座いました。
“千尋”という響きが好きだなぁと思っておりましたが、ちゃんと御由来があるそうで…池の底が静岡県の浜松の海まで続いているといわれた事から名付けられているそうで御座います。
何だか何処かで耳にした伝説と似ておりますが…目に見えないところで繋がっているものが確かに在るのだと、その御名が示しているようにも感じます。

   千尋池

 秋宮大鳥居手前左側の池で、古図を見ると今より相当大きかったことがわかります。
神社の御手洗川の清流が入りこむ池で、池の底は遠く遠州浜松の近くの海に続くと言われ、そこから千尋の名が付いたと言われます。
 社伝に依ると大社の宝物で、国の重要文化財に指定されている銅印、奈良朝時代平城天皇の御下賜と伝えられている「売神祝印」が、火災の際の灰と共にこの池から発掘されたと言われています。
また神社の古い神楽歌に
『諏訪の海 大和の浜よりよする波、千尋の池に重の浪立つ』
という歌が残っています。



諏訪大社 下社 秋宮09

秋宮の駐車場前には、八幡山と呼ばれる小さな丘が御座います。
こちらには、天満宮、貴船社、御室社等を合祀された八幡社と、秋宮恵比寿社が御祀りされておりました。
この高台辺りは、下社の大祝である金刺氏の御館である神殿に付属する御城の跡地であるようで御座います。
鎌倉幕府、それから木曾義仲様とも非常に御縁の深い場所で御座いますので、これについては また改めて別記したいと考えております。

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諏訪の下社、春宮。
諏訪大社 下社 春宮01

信濃國一之宮の諏訪大社
上社は 本宮が諏訪市、前宮が茅野市に御座いましたが、下社の春宮と秋宮は諏訪郡下諏訪町に御座います。
4社を合わせた総称が諏訪大社になるのですが、それぞれの御鎮座置が 市外、郡外で離れている事にも驚きで御座いますね。

諏訪大社 下社 春宮02

春宮の前には、約800メートルの大門通という御参道が御座います。
かつては、春宮専用の道として武将方が流鏑馬を競った馬場であったようで、金刺氏をはじめ、鎌倉幕府に従う多くの武将方も こちらに集われたといわれます。
画像には御座いませんが(苦笑)、御参道途中の道路上には太皷橋が御座いました。
別名 下馬橋ともいわれた太鼓橋は室町時代の建立で、身分を問わず下馬の礼をとらねばならぬように定められていたといいます。

境内に入って先ず目に入るのが、大社内で最も改修の多い建物と伝わる神楽殿。
最近では、昭和初期に大改修が行われているそうで御座います。

   神楽殿

ご神前にお神楽を奉納するための建物で落成は江戸時代前期天和年間(一、六八〇年)ころのものです。



諏訪大社 下社 春宮03

□ 諏訪大社 下社 春宮(すわたいしゃ しもしゃ はるみや)

所在地:長野県諏訪郡下諏訪町
御創建:不詳
主祭神:建御名方神、八坂刀売命(※2月1日〜7月31日)


諏訪大社 下社の御祭神は、2月から7月まで春宮に鎮座され、8月1日の御舟祭にて秋宮に遷座されて、翌年2月1日に再び春宮に帰座されるそうで御座います。
下社の2社が“春”と“秋”と季節を表されているのは、それ故なので御座いますね。

   諏訪大社下社春宮
 幣拝殿・左右片拝殿
 重要文化財 昭和五十八年十二月二十六日 指定

諏訪大社は建御名方富命と八坂刀売命を祀り、上社は建御名方富命(彦神)を下社は八坂刀売命(女神)を主祭神としている。
下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に春宮に帰座される。
下社の中心となる建築は、正面中央にあり拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある、東西宝殿からなる。
東西の宝殿は茅葺・切妻造・平入の簡素で古風な形式をもち、申寅の七年ごとに新築する式年造替制度がとられている。
右のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、また、その幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。
現在の春宮の幣拝殿は安永八年(一七七九)に完成したと考えられる。
大工棟梁は高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(一七四七〜一八〇〇)であった。
幣拝殿は、間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設ける。
二階は四方がふきはなちで、屋根は切妻造・平入の銅板葺(元は檜皮葺)で、正面は軒唐破風をつける五間で、屋根は片流れの銅板葺である。
幣拝殿の建築様式の特徴は各所につけられた建築彫刻の数の多さと、その躍動感にあふれた表現である。
正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹・唐獅子、唐破風内部の飛竜・一階内部の小壁の牡丹・唐獅子、扉脇の竹・鶏で名作が多く、建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。
     諏訪大社 / 下諏訪町教育委員会



諏訪大社 下社 春宮04

上諏訪社には、上社の御祭神である建御名方命が御祀りされ、若宮社には御諏訪様の13柱の御子神である建御名方彦神別命伊豆早雄命妻科比賣命池生神須波若彦神片倉辺命蓼科神八杵命内県神外県神大県神意岐萩命妻岐萩命が御祀りされておられます。
子安社の御祭神 高志沼河比賣神は、御諏訪様の御母神と伝わり、安産の神様として信仰されておられるそうで御座います。

諏訪大社 下社 春宮05

下社の春宮は、個人的に4社の中で いちばん好きだなぁと感じた場所で御座いました。
特に、何が良かった!という事では無いのですけれど、何と無く 境内の静かな雰囲気とか、他社よりも地面に近い感覚とか、緑の茂り具合とか……とても心地良いものに感じられました。

諏訪大社 下社 春宮06

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