
広島市中区の広島本通商店街は、広島一の賑わいを誇る商店街。
通称“本通り”として、老若男女問わず人気のアーケード街で御座います。
最近は、市街を少し離れた至る所にショッピングモール的な御買い物スポットが出来、便利になっていく反面、どうしても地元を離れた人間と致しましては、変わっていく故郷に躊躇いを感じずにはおれない今日この頃だったりも致します…。。
本通り内の御店も、久々に通ってみれば、何だか以前は無かったような御店が増えていて、あぁ…この御店、東京で流行ってるけど広島にも進出したんだなぁー…とか……、ここに前あった御店、好きだったんだけどなぁ……とか(苦笑)
私が中高生の頃までは、田舎では手に入りにくい物や余所行きの御洋服等を買うという時には、市内の大型デパートと本通りしか選択肢が御座いませんでした。
広島で“街”と言ったら、先ずは本通りの事を指しておりましたし、広島での生活には欠かせない重要な拠点でもあった訳ですね。
勿論、市内中心部を市電に平行して通っている商店街で御座いますので、今も大勢の人で賑わっております。
この本通りでも、“ヒロシマ”の傷跡や希望を感じる事が出来ます。
先週通った時も、市内の小学校の児童の方々が描かれた平和の絵が掲げられておりましたが、商店街内にある文房具屋さんではヒロシマに捧げられてた折鶴を再利用して作られたノート等を購入する事が出来ますし、数多く残っている訳では御座いませんが、現存する被爆建物も見る事が出来ます。
本日は、本通り内で最も有名な被爆建物――現在は、全国的にも大人気の日本一のパン屋さんの本店である 広島アンデルセンについて。

アンデルセンは、関西や関東の街中や駅構内でも見かける事が出来ますね。
個人的には、小さい頃から地元の町や通学路等に何店舗かあって親しんできたアンデルセングループのタカキベーカリーやリトルマーメイドの方が親近感を感じますが、ちょっとリッチで御洒落な美味しいパンを味わえるアンデルセンも大好きで御座います〜。
広島アンデルセンの建物は、最初からパン屋さんであったと思われがちで御座いますが、実は銀行で御座いました。
大正14年、三井銀行広島支店として建てられ、合併を経て帝国銀行となっておりました。
ルネッサンス様式を基本とする鉄筋コンクリート2階建で、正面外側の1階と2階には4本の丸い石柱と丸みのある窓、1階は吹き抜けで中2階の部分はギャラリーが回してある等、格調高い趣であったといいます。
昭和20年8月6日、原爆によって大破。
爆心地の360メートル東に位置していた帝国銀行は、熱線によってあっという間に全焼しました。
その時、内部にいた職員さん等は、12〜13名であったといわれておりますが、即死者、脱出者含め、全員が死亡されました。
戦後の議論で、原爆ドームを残すか、この建物を残すかという事が話し合われたようで御座います。
帝国銀行は、仮店舗等で営業を続けられた後、昭和25年に被爆社屋を大改修し、ここで営業を再開。
その際、1階の床面、2階ギャラリー、屋根の残存部分を全て撤去されておりますが、正面1〜2階の石柱や窓の構造は、そのまま残して修復されたそうで御座います。
帝国銀行は後に三井銀行と改称され、昭和37年に移転。
この建物には、農林中央銀行が入り、更に昭和42年にタカキベーカリーが買取り、広島アンデルセンとしてオープンされました。
建替えの検討もされたそうで御座いますが、折角のヨーロッパの建築様式で御座いますので、それを生かした大改装がなされました。
この時、正面玄関の撤去と、地下の金庫を冷蔵庫にする等の改装が行われ、近年にも耐震工事等が実施されたという事で御座います。
次々と被爆建物が姿を消していく中、飲食業界という厳しい目で見られがちな御店でありながらも、必要な部分で補強を行いつつ、その姿を留められようとなさっている姿勢は本当に素晴らしいもので御座います。

帝国銀行広島支店(爆心地から約300メートル)
この建物は、1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。
原爆が投下されたときは、合併により、帝国銀行となっていましたが、猛烈な爆風のため、屋根は抜け落ち、爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。
戦後、何度か修復され、現在はベーカリーとして利用されています。
アンデルセンはパン屋さんの他、レストラン等も併設する、広島でも指折りの高級御食事スポットで御座います(笑)
レストランは流石に敷居が高いかなぁ〜…と感じますが、それでも中に入ってみたくなっちゃうのが、アンデルセンの魅力。
買ったパンを食べる事も出来るのが、嬉しいですね♪

アンデルセンといえば、アンデルセンのメルヘン文庫。
小さい頃から、パンを買ってシールを集めては、メルヘン文庫を貰って、大切に家で読んでおりました。
いつか、私もメルヘン大賞に応募して、絵本にして貰うんだ〜って思っておりましたっけ///
まだ、諦めた訳では御座いませんよ…えへへ(怪)


1945年8月6日――1発の原子爆弾の投下によって、焼け野原と化したヒロシマの街。
私は、最近初めて聞いたのですが、
「原爆が落ちたのが、公園で良かったよね」
と言われる他県の方々というのも多いそうで御座います……流石に愕然と致します。
知らぬとは、何と恐ろしい事で御座いましょう。。
“平和公園”は、原爆が投下されたから 公園として整備される事になったので御座います。
正式名称は、広島平和記念公園。
壊滅に陥ったヒロシマには、広島平和記念都市建設法が制定され、過去の過ちを繰り返さない為に、平和な世界を築く為に、爆心地に近い場所を公園とする事を決めたので御座います。
被爆前の爆心地付近で御座いますが、沢山の民家があり、大勢の人々で賑わう商店街等もあったようで御座います。
現在公園になっている中島地区は、毛利輝元様が広島城を築城されて以来の町人町で、広島の中でも特に栄えた場所で御座いました。
それから…県外の方には、世界遺産にも登録された原爆ドームの真上に原爆が投下されたと思われていらっしゃる事も多いようですが、原爆の投下目標は 原爆ドームの傍を流れる本川と元安川の分岐に架かるT字の相生橋であったといわれております。
そして、上空には風があった為か、実際に炸裂したといわれるのが 原爆ドームよりももっと陸に寄った現在の島病院辺り。
猿楽町(さるがくちょう)通り周辺
この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートルでさく裂し、爆心直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。
焼け跡には、広島県産業奨励館の残骸(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。
復元地図は、原爆で消えたかつての町並みを後世に残すため、1998(平成10)年に作成されたもので、この一帯が最も活気あふれていた1940(昭和15)年前後を生存者の情報をもとに再現したものです。
原爆ドームのみを形見のように残して消えてしまった猿楽町…。
そんな猿楽町の原爆被災説明板は、市内の何ヶ所かに設けられているようで御座いますが、今年 私が追悼式に参列した中国軍管区司令部跡(防空作戦室)のある広島城入口にも設置されておりました。
本当は、毛利家や浅野家縁の史跡として御紹介したかったのですけれど……等と思いつつ、本日は その他の広島城遺構等について部分的では御座いますが、少し記してみたいかなと思います。

広島城は、爆心地から約1キロメートル。
当時は、現在のように高層ビル等は立ち並んでおりませんでしたので、防壁になるようなものは殆ど無く……広島城も、例には漏れず 原爆によって壊滅した場所の1つで御座います。
現在は所々に再建された建物が点在しており、若干違和感を感じる部分も御座いますが、私は地元民で御座いますので、写生大会や御花見等でちょくちょく遊びに訪れておりますし、小さい頃等は城跡というのはこういうものなのだと思い込んでいたりも致しました;
史跡 広島城二の丸表御門(復元)
規模 桁行7.64m、梁間4.85m、軒の出1.27m、軒高7.03m、棟高10.61m
構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺、軸組真壁
表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失まで約350年間存続していました。
現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。
この平成の復元では、昭和9年当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。
平成3年12月 広島市教育委員会

8月になると、広島の街は平和月間と呼んでもおかしくない位に、色々な場所で展示や参加型のイベント等が催されます。
年中そういう行事は何処かしらで行われておりますが、ボランティアで活動される方が特に活発に動かれるのが、矢張り8月。
8月6日の平和公園、広島市内では、至る所で それぞれに平和活動に励まれていらっしゃる方々に出会う事が出来ます。
広島城も、毎年ボランティアの方が城内の戦跡等を案内されております。
私は小学生の頃に、新聞社主催の戦争と平和を考えるセミナーで広島城も巡っておりますので、一通り知ってはおりますが、何と無く何度も教えていただいてしまいます。

御掘の傍には被爆したユーカリが、中御門跡近くにはマルハヤナギが御座います。
どちらも原爆によって大きなダメージを受けており、ユーカリは1度枯れてしまったといいますが、それでも生きる事を諦めなかったようで、現在も腕一杯に青々とした枝葉を広げております。
近寄ると、爆風で傷付いた箇所や焼け焦げた跡等も痛々しく見受けられますが、それよりも強い生命力には本当に勇気をいただいております。
史跡 広島城跡
指定 昭和二十八年三月三十一日
史跡指定地 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺
別名 鯉城・在間城
形状 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城
沿革 一五八九年(天正十七年)
毛利輝元 築城工事に着手
一五九一年(天正十九年)
毛利輝元入城
一六〇〇年(慶長五年)
福島正則芸備四十九万石余を領し、翌年三月入城
一六一九年(元和五年)
浅野長晟芸備四十二万石余を領し、八月入城
一八七一年(明治四年)
廃藩置県により本丸内に広島県の役所を置く
一八九四年(明治二十七年)
日清戦争時本丸内に大本営を置く
一九四五年(昭和二十年)
原爆により天守閣・太鼓櫓・表門などすべて崩壊
一九五七年(昭和三十三年)
現在の天守閣再建

原爆が落とされる前まで、広島城は重要な軍事拠点になっておりました。
中でも、国指定の史跡となっていたのが広島大本営跡。
元々は第五師団司令部の建物の1つで、白亜の殿堂と呼ばれた木造2階建ての洋館で御座いました。
日清戦争の際、明治天皇が直接の戦争指揮の為に置かれた最高統帥機関で御座います。
天皇が滞在された場所であり、国の臨時議会が開かれた場所でも御座いました。
日清戦争終結と共に解散となり、その場所は史跡として保存されていたようで御座いますが、原爆によって建物は崩壊。
現在は、基礎、礎石のみが現存しております。
軍都廣島の一つの象徴でもあった
広島大本営跡
日清戦争は、日本と清国(清朝中国)とが朝鮮半島の支配をあらそった戦いで、明治維新後天皇政府は朝鮮への侵略を意図していた。
これに対して朝鮮を属国とみなす清国が対立し、日英改正条約の調印などでイギリスのはげましを受けて、日本は開戦にふみきった。
戦争は日本の勝利に終わり、清国から多額の賠償金や中国におけるいくつかの特権を得た。
さらに、遼東半島(後に「三国干渉」で返還)と台湾をうばい、日本は初めて植民地をもつことになった。
日清戦争が宣戦布告されたのは一八九四年(明27)八月一日であったが、その二ヵ月前から出動し七月二十三日には「京城」の王宮を占領した。
二十五日には豊島沖で清国艦隊を奇襲し、二十九日には牙山などで清国軍を攻撃した。
こうして、朝鮮植民地化の一歩がふみだされたのである。
日清戦争開始の前年に戦後大本営条例が制定され、宣戦布告後の九月八日に、天皇みずから臨戦地の広島で直接戦争を指揮するため、第五師団司令部がある広島城中に「大本営」が置かれた。
つまり、廣島大本営は最初の大本営であった。
広島が一番目の大本営とすれば、日中戦争のとき東京へおかれたのは二番目の大本営。
そして十五年戦争の末期、長野県松代に13kmもの地下壕を掘り幻となった松代大本営は三番目の大本営ということになる。
大本営とは、戦争遂行にあたって政府・議会から独立した天皇直属の最高統帥機関で、のちに最高戦争指導会議と改称されたが、いずれにしても天皇がその頂点に位置していた。
広島大本営跡
明治27年(1894)3月に日清両国に□端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を□するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所とされ、ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。
その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。

こちらが、天守閣。
被爆前に存在した天守閣は、爆風によって東側に倒壊。
本来ならば、元々の木材を使用して再建…という事になるもので御座いますが、戦後は兎にも角にも家がなくなってしまった人々が落ち着いて生活出来るようになるのが最優先。
資材として色々な方が持ち帰られたといわれております。。
強い熱線や爆風の影響が酷かった為に、再建資材に使用するのは危ないという事もあったと思われます。


長崎市立 城山小学校。
爆心地より浦上川を挟んだ、丘の上の小学校で御座います。
未だ年端もいかない幼い子供達が、学校で学ばなくてはいけないもの――。
戦前と今とでは、こんなにも その意義が違うのか…と、ヒロシマにも同じ事をいえる学校が幾つも御座いますが、私がナガサキで初めて訪れた小学校が この城山小学校で御座いました。

城山小学校…旧城山国民学校は、爆心地から西に約500メートルという場所に位置しております。
鉄筋コンクリート建の校舎は、爆風と熱線によりバラバラとなり、被爆した1500名の児童の内、1400名が亡くなりました。
学校は、将来の為に学ぶ場所である筈なのに……。
市立城山小学校と原爆被災
市立城山小学校は大正12年(1923)、城山尋常小学校として浦上川に臨む小高い丘の上に創設された。
その後昭和12年には当時九州随一といわれた鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が建設され、被爆前は児童1500人が通うマンモス校として知られていた。
しかし、爆心地からわずか500mという至近距離に位置していたため、被爆により強力な爆風と熱線の直撃を受け木造校舎は瞬時に倒壊全焼、鉄筋コンクリート校舎も大きな亀裂が入り内部は全壊、一部は焼失した。
校内にいた教職員28名、校舎の一部を使用していた三菱兵器製作所の職員や動員学徒ら111名、校区内の児童約1400名が死亡した。
戦後の昭和21年4月からは被爆による児童数の減少などにより一時休校が決定。
その3月に戦後初の卒業式が行なわれたが、卒業生は男子5名、女子9名のわずか14名に過ぎなかった。

被爆した校舎は、修復されて戦後にも使用されておりました。
そして崩れた校舎の一部が、平成11年2月25日に城山平和祈念館として開館。
子供達が安心して通えるのが“学校”で御座いますので、土日祝に入る事は出来ません。
被爆校舎
被爆した旧校舎はしゅうふぅされ、戦後も長く使用された。
その後昭和59年新校舎の建設に際し、同窓会などの保存運動が実り一部が遺構として保存された。
その後児童の発案を生かし、平成11年に平和祈念館として改装され、城山小の新しい平和のシンボルとして生まれ変わった。(土・日・祝日は閉館)

学校に入って直ぐの場所には、上半身が裸で、素足で立ち、鳥を腕に乗せた少年の像が建っております。
これは、原爆で壊滅した城山小学校の子供達が、平和を願って立ち上ろうとする姿を象ったもの。
昭和26年8月8日の建立で、現在の城山小の子供達は、毎日この少年像に挨拶をしてから校内に入るのだそうで御座います。
平和少年像
原爆で両親を亡くした当時5年生の少年をモデルに、原爆ですべてを失った城山小の児童が、平和を希求して立ち上る姿を表現している。
昭和26年序幕、製作者は富永直樹氏。
台座の「平和」の文字は、当時6年生の菅原耐子さんが、仏壇の前で被爆した家族6人の冥福を祈りつつ書いたもの。

城山は
人のいしずえ
平和の礎
大正12年4月 城山尋常高等小学校 創立
昭和15年4月 城山尋常小学校(高等科 移転)
昭和16年4月 城山国民学校(児童□数2000名)
昭和20年8月 被爆(児童1400名不帰 校舎壊滅)
昭和20年11月 授業再開(児童43名職員5名稲□小学校)
昭和21〜22年 城山国民学校休校
昭和23年4月 城山小学校再開(児童430名職員10名)
母校よ とこしえに み霊よ やすらかに
平成15年8月 創立80周年を記念して 城山小学校同窓会
六二〇回に及ぶ平和祈念式
平和活動
毎月の平和祈念式…昭和26年8月からスタートし平成15年3月で620回。
平和ウォーク…毎年秋に1年生から6年生までの全自動を縦割りの30班程度に編成し、浦上地区の被爆遺構をウォークラリー形式で回ります。
総合的な学習…中心テーマは平和学習。特に5,6年生は校内の平和に関する碑や遺構を修学旅行生に案内する「城山ピース・ナビ」に取り組んでいます。
2月には平和学習発表会を行っています。
朝掃除…始業前にボランティア活動として,城山小平和ゾーンの掃除を行っています。
城山小学校 (国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 発行カードによる)
城山小学校の校内には平和の鐘があり、その近くには嘉代子桜という碑が、桜の木の下に建てられております。
これは、当時 学徒動員として城山国民学校で働いていて被爆された、林嘉代子さんを偲んで植えられた桜の木で御座います。
嘉代子さんは、被爆22日後の8月30日に御両親に発見され、火葬されたそうで御座います。
嘉代子桜
校舎内で勤務中被爆死した林嘉代子さん(16歳)の母、林津恵さんが、昭和24年に娘が好きだった桜の苗木を寄贈、それが大きく育ったもの。
春には美しい花を咲かせ、子どもたちに親しまれている。
「嘉代子桜」の碑は昭和41年に建てられた。

平和の鐘、嘉代子桜に近い場所には、平成7年に建立された平和モニュメントが御座います。
私は、丁度ここで このモニュメントをデザインなさった御方と偶然にも御会いする事が出来ました。
これは、城山小学校の児童の皆さんの願いが形を成したもの。
心、夢、願い、希望…中々、形では表し辛いものばかりで御座いますが、それらに形を与え、色が付けられると、1歩現実に近付けられたような気持ちが致しますね。
感受性の豊かな時期に、願いを形に変える事の出来る力を知る事は、とても大切な事だと思います。
形が成れば、次は そこからどうすべきかを考える事が出来ます。
希望は向上心を生み、そこから未来は幾らでも変えていけると思うのです。
そうやって、少しずつでも1歩1歩前へ進む努力と根性を養っていっていただきたいと思います。
出来るなら、地域学校に関わらず、全ての子供達に。
この記念碑「三つの願い」は、被爆五十周年の節目の年に平和の誓いを新たにするために建立されたものです。
デザインは、全校児童の発想を生かしたもので、三つの輪は、
○大きな希望
○広い心
○深い愛
という願いがこめられています。
その下の葉は、平和をささえる全人類の手であり、緑の自然を永久に残す意味がこめられています。
平成七年八月九日 長崎市立城山小学校
昭和二十年八月九日午前十一時二分 松山町上空に炸裂した原子爆弾は城山国民学校を破壊し尽し うっそうとした森もなぎ倒した
この時 学校にあった教師二十六名 庁務員三名 家庭にあった児童千四百余名および本校で服務中の三菱兵器製作所員 挺身隊員学徒報国隊員あわせて百五名が 悲惨きわまりない爆死を遂げたことは痛恨のきわみである
ことに教師のほとんどが校庭にあったため その多くが瞬時に声もなく無惨な姿と化し ありし日の面影を確認することすらできず 遺体を収容することもできなかった
また即死を免れた者もこの世のものとも思われぬ姿で 苦痛にうめき水を求めながら次つぎに息絶えていった
さらに殉難した児童のひとりひとりについても 今日なおその姓名の確認さえできないのは 真に遺憾に堪えない
あの日の地獄さながらの凄惨な光景は いつまでもわたくしたちの脳裏を離れず 悲しくも痛ましいこの歴史的事実は 時が移り人が代ろうとも永久に忘れ去られてはならない
今後戦乱が起りふたたび原水爆が使用されるとすれば 世界人類の滅亡は必至であろう
このことを思えば真に恐怖と憂慮に堪えない
みずから原爆を浴びたわたくしたちは かかる悲惨事がふたたび繰返されないよう念願し平和と人類愛の道を求めてやまない
ここに 碑を整備し この地で原爆に殉じた児童 教師 庁務員 三菱兵器製作所員 挺身隊員 学徒報国隊員の御霊の冥福を祈るとともに 世界の恒久平和を祈念する
昭和五十年八月九日 長崎市立城山小学校

平和の鐘からグラウンドを迂回するように奥へと進んで行きますと、運動場の端に被爆した楠の木を見る事が出来ます。
原爆で、根元から吹き千切られましたが、そこから芽吹いて成長し、今も大きく葉を揺らしているという事で御座います。
原爆の後は、何十年も草木が生えない……被爆直後は、そんな風に言われていた、という話を小さい頃から沢山の方に聞かされて参りました。
人によって50年だったり60年だったり100年だったりと様々なのですが、結果的に ちゃんと芽吹いて緑を増やし、実らせる事も出来たんだよ、という話を聞く度に、生命って凄いんだなぁと思いました。
原爆で、一瞬にして消え去った生命もあれば、原爆でなぎ倒されても そこから新たな息吹を生み出す生命もある…戦後のヒロシマ、ナガサキの発展を思えば、何だか理由も分からず納得してしまいそうになります。
校庭の奥には、原爆殉難者の碑が御座いました。
ここには、原爆で殉難された方々の御名前が記された名簿が奉納されております。
台座の左側の立体が遺族、右側の低い立体が人類、中心の立体が殉難者を表しており、周辺に置かれた赤煉瓦は、元々 防空壕の入口に作られた供養塚だったそうで御座います。

学校へ続く道の1つに、永井坂と名付けられている坂道が御座いました。
これは、永井隆さんが著書の印税を桜に変えて寄贈され、桜のトンネルを作られた事に由来しているそうで御座います。

永井坂をゆっくりと下って行きますと、学校側の縁に防空壕跡が御座いました。
現在はコンクリートで埋められておりますが、随分と大きな壕であったように思います。
被爆当時、城山町一帯は豊富な丘陵地帯の崖を利用して沢山の防空壕が掘られておりました。
城山国民学校には、崖下、正門坂道、運動場西側と3ヶ所に防空壕が掘られておりました。
原爆炸裂時、空襲警報は発令されておらず、防空壕は使用されておりませんでしたが、被爆後に負傷した方々の避難所として使われたようで御座います。
然し、爆心地に近かった事もあり、重症を負った多くの方々が、その中で息を引き取っていかれました。
崖下には5つの防空壕があったそうですが、整備されて今も見学が可能な防空壕も2つ残っているそうで御座います。
防空壕(跡)
第2次世界大戦の終わり頃、飛行機が夜も昼も飛んできて、空から爆弾を落とす日が多くなりました。
その恐ろしい空襲から命を守るため、空襲の時、避難する防空壕があちこちに掘られました。
城山小学校には、10箇所の防空壕が掘られ、子供たちや近所の人たちの避難場所となっていました。
長崎に原爆が落ちた1945年(昭和20年)8月9日には、ものすごい爆風のために熱線でやけどをおったり、放射能を浴びたりして、子供たちや近所の人たちが亡くなっていきました。
二度とこのようなことがないように、平和への決意と平和を語り継ぐ場所としていきたいと思います。


長崎県長崎市坂本町――山王神社から坂本国際墓地方面へと向かう浦上街道沿に面した道脇に、長崎四国霊場第八十三番 坂本山王観音堂が御座います。
最初に通りかかった時は、御地蔵様が3体御祀りされていらっしゃるのかな〜という思い、御挨拶をしようと近寄ってみましたら、中央の御本尊は聖観世音菩薩様で御座いました。
両脇に御祀りされているのは、御地蔵様で御座います。
□ 坂本山王観音堂(さかもとさんのうかんのんどう) □
所在地:長崎県長崎市坂本町
御創祀:宝永5(1708)年頃
御本尊:聖観音菩薩
通 称:御観音様、被爆仏像
長崎四国八十八ヶ所は、四国の八十八ヶ所になぞらえられるもの。
八十三番霊場である こちらの御堂は、高松の神毫山 一宮寺さんに準じて、聖観世音菩薩様を安置されておられるようで御座います。
海と山に挟まれた浦上街道の傍という事で、きっと御創建当初より街道を通る旅人たちの様々な御祈願を託されて来られたので御座いましょう。
御本尊 聖観世音菩薩
御真言 おん あろりきゃ そわか
長崎四国 第八十三番 御詠歌
さぬきいち みやのみまえに
あふぎみて かみのこころを
たれかしらゆふ
第八十三番霊場縁起
長崎四国霊場は、四国の弘法大師にゆかりの霊場、八十八カ所にちなみ設けられたものです。
当霊場は八十三番霊場で、四国の八十三番霊場一宮寺(高松市一宮)になぞらえたものであり、本尊は聖観世音菩薩像、両脇に地蔵菩薩像二体が安置されております。
当霊場の台座の残欠に、今から二百八十五年前の宝永五年(一七〇八年)の銘があるので当霊場が崇祀された時期を推測することができます。
当霊場は長崎の街より西坂、山王、浦上を通り時津宿に至り、船で彼杵宿に渡る浦上街道に面しており、いにしえよりあまたの人々の崇拝を受けておられました。
先の大戦の終末、浦上の地に落とされた原爆の災禍に遇われながらも、同じこの場所に立ち続けられたお観音様、お地蔵様は、時の流れのなかで、道行く人々の過ぎしこのかたをご覧になっておられています。
これからも皆さんで大事にお守りいたしましょう。
平成五年十月吉日
一見しても、良く良く見ても、言われても分からない程で御座いますが、実は こちらは被爆仏像”とも呼ばれているのだそうで。
爆心地から程近い この場所でも、奇跡的に御無事であられたのだそうで御座います。
まさに、御仏の神秘といった感じでは御座いますが、壊滅状態の地域で生存者は殆ど居らず、瓦礫の中に ただ取り残されて……どんな御気持ちであられたのだろうかと思うと、悲しくなってしまいます。
然し、後の復興の中で、この御仏の存在が人々の大きな支えになった事も また、事実なのでは無いかと思います。
生き証人であり、物言わぬ語り部なので御座いますね。
優しい御顔が大変印象で御座いました。
被爆仏像
長崎四国第八十三番霊場の中に安置されています。
被爆後の瓦礫の中、まるで犠牲者の冥福を祈るかのようにうなだれてたたずむ被爆当時の姿の写真が堂内に展示されています。



そして、ナガサキ――。
平成20年8月9日の今日、午前10時40分より長崎県長崎市松山町 平和公園平和祈念像前にて式典が行われました。
去年の被爆62周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典には、私も長崎へ直接訪れて参列させていただいたのですが、今年は どうしても今の自分には必要な仕事が御座いまして…6日の追悼式の後、実家へ帰る余裕も無く、その日の内に広島を発つ事となりました。
その瞬間に、己の身を何処に置くかという事が問題なのでは無く、大切なのは心の在処。
何処に居たって、私の心は私のものなのだと…頭で納得を付けようと思うものの…本当は、矢張り長崎へも行きたかったです。
私は、もっとナガサキを知り、学ばなければいけないと思うのです。
仕事中では御座いましたけれど、11時02分のその時間の間だけは、仕事を抜けて黙祷を捧げました。
遠い、ナガサキの鐘が、今あの空に鳴り響いているのだなぁと思うと、何とも表現し難い感情に襲われます。
長崎の式典の様子は、帰宅後に見させていただきました。
63回目の原爆の日。
この1年間に死亡が確認された3058名分の名簿3冊が、平和祈念像前の祭壇に奉安されました。
原爆死没者名簿の総冊数は、これで147冊。
そこには、145984名の原爆死没者の御名前が記録されております。
参列者の数は、およそ5650名。
海外からの来賓は、去年より7ヶ国も減少しているようですが、北京オリンピックの影響であると考えられます。
核を保有する国からは1ヶ国、ロシアのみが参加されました。
今年は丁度、自らも被爆者でありながら、被爆者救護に その生涯をかけられた永井隆さんの生誕100年目に当たります。
長崎市長による平和宣言では、永井さんの言葉の引用が用いられ、全人類に対する核兵器廃絶の呼び掛けが行われました。
平和宣言
あの日、この空にたちのぼった原子雲を私たちは忘れません。
1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍機が投下した一発の原子爆弾が、巨大な火の玉となって長崎のまちをのみこみました。
想像を絶する熱線と爆風、放射線。崩れ落ちる壮麗な天主堂。
廃墟に転がる黒焦げの亡骸。
無数のガラスの破片が突き刺さり、皮膚がたれさがった人々が群れをなし、原子野には死臭がたちこめました。
7万4千人の人々が息絶え、7万5千人が傷つき、かろうじて生き残った人々も貧困や差別に苦しみ、今なお放射線による障害に心もからだもおびやかされています。
今年は、長崎市最初の名誉市民、永井隆博士の生誕100周年にあたります。
博士は長崎医科大学で被爆して重傷を負いながらも、医師として被災者の救護に奔走し、「原子病」に苦しみつつ「長崎の鐘」などの著書を通じて、原子爆弾の恐ろしさを広く伝えました。
「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」という博士の言葉は、時を超えて平和の尊さを世界に訴え、今も人類に警鐘を鳴らし続けています。
「核兵器のない世界に向けて」と題するアピールが、世界に反響を広げています。
執筆者はアメリカの歴代大統領のもとで、核政策を推進してきた、キッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長の4人です。
4人は自国のアメリカに包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を促し、核不拡散条約(NPT)再検討会議で合意された約束を守るよう求め、すべての核保有国の指導者たちに、核兵器のない世界を共同の目的として、核兵器削減に集中して取り組むことを呼びかけています。
これらは被爆地から私たちが繰り返してきた訴えと重なります。
私たちはさらに強く核保有国に求めます。
まず、アメリカがロシアとともに、核兵器廃絶の努力を率先して始めなければなりません。
世界の核弾頭の95%を保有しているといわれる両国は、ヨーロッパへのミサイル防衛システムの導入などを巡って対立を深めるのではなく、核兵器の大幅な削減に着手すべきです。
英国、フランス、中国も、核軍縮の責務を真摯に果たしていくべきです。
国連と国際社会には、北朝鮮、パキスタン、イスラエルの核兵器を放置せず、イランの核疑惑にも厳正な対処を求めます。
また、アメリカとの原子力協力が懸念されるインドにも、NPT及びCTBTへの加盟を強く促すべきです。
我が国には、被爆国として核兵器廃絶のリーダーシップをとる使命と責務があります。日本政府は朝鮮半島の非核化のために、国際社会と協力して北朝鮮の核兵器の完全な廃棄を強く求めていくべきです。
また、日本国憲法の不戦と平和の理念にもとづき、非核三原則の法制化を実現し、「北東アジア非核兵器地帯」創設を真剣に検討すべきです。
長崎では、高齢の被爆者が心とからだの痛みにたえながら自らの体験を語り、若い世代は「微力だけど無力じゃない」を合言葉に、核兵器廃絶の署名を国連に届ける活動を続け、市民は平和案内人として被爆の跡地に立ち、その実相を伝えています。
医療関係者は、生涯続く被爆者の健康問題に真摯に対応しています。
来年、私たちは広島市と協力して、世界の2,300を超える都市が加盟している平和市長会議の総会を長崎で開催します。
世界の都市と結束して、2010年のNPT再検討会議に向けて核兵器廃絶のアピール活動を展開していきます。国内の非核宣言自治体にも、長崎市が強く呼びかけて活動の輪を広げていきます。
核兵器の使用と戦争は、地球全体の環境をも破壊します。
核兵器の廃絶なくして人類の未来はありません。
世界のみなさん、若い世代やNGOのみなさん、核兵器に「NO!」の意志を明確に示そうではありませんか。
被爆から63年が流れ、被爆者は高齢化しています。日本政府には国内外の被爆者の実態に即した援護を急ぐよう重ねて要求します。
ここに原子爆弾で亡くなられた方々の御霊の平安を心から祈り、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言します。
2008年(平成20年)8月9日 長崎市長 田上 富久

平和宣言に続いて、被爆者代表による平和への誓い。
平和への誓い
あの日、私は9歳でした。
当時、長崎市南部の南山手町に祖父母、両親、兄1人、5人の姉妹の大所帯で生活していました。
8月9日、朝からの空襲警報が解除になったので防空壕から出て空を見上げていると、友だちが防空壕に忘れ物をしたと言うので一緒に中に入りました。
その時です。
突然強い風が吹いて持っていたろうそくの灯が消え、暗闇の中に火の塊のようなものが飛んできました。
やがて近所の人たちが次々に駆け込んできて、皆口々に
「大変な爆弾が落ちた」と叫んでいました。
私を捜しに来てくれた母はガラスの破片で背中に傷を負っていました。
末の妹にお乳を飲ませていたとき、爆風で割れた窓ガラスが背中に刺さったのです。
家族の無事を確認しましたが、浦上地区の中学校に登校した3歳年上の兄だけは夜になっても帰ってきません。
その日の朝、兄はどういうわけか
「頭が痛かけん、学校に行きたくなか」
と渋ったのを、父が
「なんか男が、頭の痛かくらいで学校ば休むな」
としかったのです。
無理に送り出した父の悔やみようは大変なものでした。
翌日から毎日毎日、父と母は浦上一帯を捜し、黒焦げの死体や、「水が欲しい」と足をつかむ瀕死の人たちの顔を一人ひとり見て回ったと聞きました。
結局、兄を見つけることはできず、中学校で焼いたたくさんの死体から骨を1本だけもらい葬式を済ませました。
私は今でも、兄がひょっこり元気な姿で帰ってくるのではないかと思っています。
両親は、ものすごい放射線を浴びていたのです。
母は翌年の10月に亡くなりました。33歳、妊娠5カ月でした。
父もその4カ月後に亡くなりました。
残された私たち姉妹は別々の親せきに引き取られ、ばらばらの生活を強いられました。
その後、姉と妹の2人は原爆症とおぼしき病気で亡くなりました。
悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし、何十万人もの尊い命を奪い、生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器です。
核兵器の廃絶と平和を求める世界の人々の願いとは裏腹に、今なおアメリカなど大国のエゴで大量に保有され、拡散されつつあります
。東西の冷戦が終わっても、民族や宗教の違いや貧富の差からくる戦争は現在も世界中で絶え間なく続き、多くの人々が苦しんでいます。
しかし、わが国は戦後63年間1度も戦争をすることなく、1人の日本人も戦争で殺されたり、他国の人を殺したりしていません。
これは、多くの人々の犠牲の上に定められた平和憲法のおかげです。
私は、この平和憲法と非核3原則を日本のみならず世界中に広げていくことこそが、戦争をなくし、核兵器の増大と拡散をとめる有効な手段であると考えます。
地球上のすべての人々が、いつまでも平和で豊かに暮らしていくことを願ってやみません。
2008年8月9日 被爆者代表 森重子
長崎市内の代表児童による合唱の後に来賓挨拶。
福田首相の挨拶は、以下の通りで御座います。
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に臨み、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心よりお見舞い申し上げます。
今日、ここ長崎は、国際交流の歴史が息づく観光都市として、国内外に魅力を発し、常に人々が集い、賑わう街として発展しています。
しかし、夏が訪れるたび、長崎には、厳かな静けさが訪れます。
それは、人々が深く重い悲しみに胸塞ぎ、平和への祈りを捧げるからでありましょう。
そのような夏も、今年で63回を数えました。
この間、我が国は、唯一の被爆国として、広島、長崎の悲劇を決して繰り返してはならないと堅く決意し、一貫して国際平和への途を歩み、繁栄を享受してまいりました。
平和で安定した国際社会は、我が国の安全と繁栄にとってもかけがえのない財産であり、これを守り育てるためにも、我が国は「平和協力国家」として、国際社会において責任ある役割を果たしていかなくてはなりません。
先の北海道洞爺湖サミットのG8首脳会議では、首脳宣言として初めて、核兵器削減を歓迎し、すべての核兵器保有国に核兵器削減を求めました。
本日、私は、ここ長崎で、我が国が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立っていくことを、改めてお誓い申し上げます。
被爆により苦しんでおられる方々には、保健、医療や福祉にわたる総合的な援護策を充実させてまいります。
本年度より、原爆症の新たな認定方針に従い、できる限り多くの方を認定することとしました。
在外被爆者の方々についても、被爆者健康手帳を容易に取得できるようにいたします。
1人でも多くの方々を援護できるように取組みを進めてまいります。
結びに、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸、そして長崎市の一層の発展を心より祈念申し上げ、私のあいさつといたします。
平成20年8月9日 内閣総理大臣 福田康夫

画像は、長崎大学医学部前(旧長崎医科大学)の戦跡で御座います。
長崎医科大学
長崎大学医学部は、被爆当時「長崎医科大学」という名称だった。
その前身は、明治の初期までは東京大学と並んで2大学の1つともいわれるほど、日本における最高の医学教育機関であり、伝統と由緒に輝く西洋医学発祥の学校であった。
1945年(昭和20年)8月9日、11時2分、爆心地から東に約600mの距離にあった長崎医科大学の木造建物は、原子爆弾の炸裂により全壊全焼した。
教授や学生たちは逃げるひまもなく、倒壊した講堂の下敷きとなり、次いで発生した火災のために焼死し、講堂の焼け跡からは、教授は教壇に、学生は座席についたままの姿の遺骨が発見されたという。
長崎医科大学における死亡者数は、附属病院を含め、大学関係者と学生を合わせて892名であった。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。
平成5年8月 長崎市(国際文化会館)
1番上の画像は、11時2分のモニュメント。
毎日、原爆投下時刻である11時2分に、“原爆許すまじ”の音が鳴り響きます。
2番目は、被爆後の長崎医科大学の写真で御座います。
長崎原爆資料館から長崎大学医学部へと直進し、バス通りに面した場所にモニュメントがあり、大学入口に向かって直ぐの所には、稚桜神社が御座います。
↑神社入口の左手の石碑は、山里・浜口町原爆殉難者慰霊碑。
爆心地から500メートル圏内であった浦上、山里地区には約8000名の方々が生活されておりましたが、原爆炸裂の瞬間に、その殆どが即死したといいます。
碑文には、“この丘 この町にて 昭和20年(1945年)8月9日 原子爆弾により被災されしかたがたの霊よ安らかに在られむことを”と記されております。
画像には御座いませんが、その他にも学内には爆風によって傾きズレている正門門柱、慰霊塔、被爆当時の学長胸像が残されております。

□ 稚桜神社(わかざくらじんじゃ) □
所在地:長崎県長崎市坂本町
御創祀:不詳
御祭神:出雲色男命?、履仲天皇?、神功皇后?
御由緒書らしき石碑が御座いましたが、解読が困難だった為、詳しい事は良く分かりません。
ただ、“息長帯姫命”(=神功皇后)らしき文字が確認出来ましたので、奈良の稚桜神社と同じ御祭神…勧請された神社なのでは無いかな、と思われます。
現在は、小さな石祠が小高い丘の上に建てられているのみ。
江戸時代は海に突き出た高台であったこの場所は、原爆投下前まで閑静な住宅街であったといいます。
この神社は、亡くなられた大勢の方々の鎮守様、産土神様であられたのかもしれません…。
護り祀るべき方々が一瞬にして消えてしまったという、事実。
神社巡りの好きな私では御座いますが、こんなにも苦しい気持ちで参拝しなくてはならぬ現実が、悔しくて仕方御座いません。
ひとりひとりの命とは、そんなにも軽いもので御座いましょうか。
大切に想う人が、ひとりでも死んだら、悲しい。
誰だって、そんなの同じでは御座いませんか…。
長崎平和宣言に、“若い世代は「微力だけど無力じゃない」を合言葉に、核兵器廃絶の署名を国連に届ける活動を続け、市民は平和案内人として被爆の跡地に立ち、その実相を伝えています”と御座いました。
直接聞く事は出来ませんでしたが、この文章を読んだ時、涙が出ました。
私に言わせるならば、ヒロシマナガサキに育った者であるなら、こんな事は当たり前の事です。
でも、そんな当たり前ですら“当たり前”では無いのが今の現実なので御座います。
広島を出て関西に住み、関東に住んで、つくづく思います。
もっと、大きな視野で“幸せ”というものを考えてみませんか?
何を大と思い、何を小と認識するかは、人それぞれで御座います。
微力と無力は別のもの、1秒でも一瞬でも感じるものがあるならば、それを日常の範囲内で連鎖させていく事も大切だと私は思います。



