日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

能勢の八幡様。
大阪府豊能郡能勢町に伝わる、安徳天皇潜幸説。
本日は、来見山御陵の入口でも御座います、若宮八幡宮こと 岩崎八幡社について。

能勢町>若宮八幡宮01


こちらは神社で御座いますが、神社には付き物といっても過言では無い“鳥居”が1つも存在しておりません。
↑の門が、恐らくはそれに準じた役割と果たしているように思えます。
この門は 然程古い感じは致しませんでしたが、それでも神仏分離前の明治以前に建てられたものであると思われます。
ただ、史料にある江戸期の地図には、岩崎八幡宮の麓に鳥居が描かれておりまして…昔はあったのかなぁとも思われます;

能勢町>若宮八幡宮02


門を潜って直ぐ左手には、大きな石の霊跡碑が御座います。
以下、霊跡碑前に立てられた案内板より。

   安徳天皇御霊跡地

 寿永四年(一一八五)三月二十四日壇の浦の敗戦に、平氏に擁護された安徳天皇は、二位の尼のはからいによりご潜幸になった。
供奉する従者源典侍・左少辨藤原経房・大輔判官種長・郡司景家は、石見・伯耆・但馬の国を経て、その年の六月十五日、ここ摂津国能勢の野間郷に来られた。
主上は長い苦難の旅路をこの地において快気され、漸く安穏の月日を送られたのである。
家二つ三つ見える山深い谷間、紅葉の秋に、二位の尼恋しさのあまり
   冬ちかき木々のこの葉も色よきに
     恋しききみのいかできまさぬ
と詠まれ、経房は涙せきあえず
   色ぐかくそむる紅葉のなかにもぞ
     まつは時雨のかひなかりけり
 ご潜幸の年も明けた文治二年(一一八六)五月十七日朝まだき、供奉者らの手厚いご介護もむなしく、この地で崩御されたのである。
歎き悲しみのうちにご遺体は、主上が日ごろ御幸のあった来見山に、御衣・ご調度は岩崎社にあわせ鎮めて「若宮八幡宮」とよび、経房・里人らによって長らく奉斎されてきたのである。
 また主上の読まれた来見山の歌
   初雪をめでつゝここにくる見れば
     峯にきのふににずもありけり
を御霊代として種長・景家らは野間大原の里に「来見権現」を勧請したという。
 以上は文化十四年(一八一七)三月中旬、この村の辻勘兵衛の屋根葺き替えのとき、棟木に吊るした竹筒から発見された建保五年(一二一七)の「経房遺書」によってこの事実が明らかになり、以来全国的にも知られて陸墓の話題に上った。
明治後年には岩崎社殿下から、養和元年(一一八一)在銘の経筒・鏡・合子など経塚遺品が出土し、能勢の位置・歴史と共に今やご霊跡地としての存在が確認されつつある。
 里人たちは主上の「ケシ髪」のお姿に遠慮して、子どもには「おけし」にしないことや崩御された日が神田の田植えの日で、漸く夜間に田植えしたことが明治の代まで慣例となっていた。
なお付近にはこれに因んだ地名位の高・ご殿ケ芝・玉垣内などもみられる。
 今を去る八百有余念、幾星霜を越えてきたにもかかわらず、付近の地名・習俗などにも昔日の名残を留め、岩崎の社殿に佇めば古木にわたる風の音に昔の影を浮かべることができるのである。
   平成元年三月吉日  能勢町教育委員会



能勢町>若宮八幡宮03


門を潜って御参道を登って行きます。
途中までは坂道…上の方は、石段が積まれて登り易くなっております。
元はただの山道だったので御座いましょう。

能勢町>若宮八幡宮04


□ 岩崎八幡社(いわさきはちまんしゃ)

所在地:大阪府豊能郡能勢町
御創建:不詳
御祭神:安徳天皇、八幡神(応神天皇)?もしくは大鷦鷯尊(仁徳天皇)?
別 称:岩崎神社、岩崎八幡宮、若宮神社、若宮八幡社、若宮八幡宮


御由緒に関して、殆どの事柄が伝わっておりません…。
南北に拓かれた境内は、何処か古墳のような印象さえ受けるもので御座いますが、詳細は不明で御座います。

御祭神は安徳天皇という事で御座いますが、“八幡社” “若宮八幡社”という名称で御座いますし、境内南側に位置する御社は八幡様の御社だと御聞き致しましたので、八幡様も御祀りされているものと思われます。
若宮八幡社という事は若宮の大鷦鷯尊(仁徳天皇)を御祭神とする御社かなと思いますが、八幡神(応神天皇)を指す場合も御座いますので、こちらも謎で御座います。

元禄5(1692)年の寺社相改吟味帳には、
 一、岩崎の八幡
   敷地三間に四間 周り岩森有之、村の支配、但こけら葺社梁行四尺桁行六尺五寸
   右勧請の時代年暦分明に知れ不申

と記されており、矢張り 江戸時代に遡っても確かな事は何も伝わっていない事が分かります。

これは私の推測に過ぎませんが、能勢に於いて安徳天皇潜幸説が発生した以降に、時代の流れと共に 自然とこちらが主上を祀った御宮だといわれるようになったか、もしくは 野間大原の来見権現社から安徳天皇の御霊を勧請されたという事も考えられるように思います。
大原の来見権現社は、正安2(1300)年に大原氏が建立した大原宮権現の御社に 種長、景家が安徳天皇の御製歌を御神体に来見権現を勧請したといわれる御宮さんで御座います。

能勢町>若宮八幡宮05


北側にある御社については、その名称すら良く分かりませんでした;
八幡社の方も然うで御座いますが、特に額が掛けられているという訳でも無く…。
来見山を背に建てられているので、もしかしたら こちらに来見権現が勧請されているのかもしれませんし、もしくは 合祀された周辺地域の御祭神が御祀りされているのかもしれません。

この御社の裏側から、来見山に向かって山道が続いているようで御座います。
その道を進むと、山頂手前に藤原経房さんの御墓が、山頂には安徳天皇の御墓が御座います。

能勢町>若宮八幡宮06


こちらは 八幡様の御社殿に掲示されておりました、江戸期以降のものと思われる境内図(の写しだと思われます)で御座います。
現在の境内と違うのは、登って右手側が平地になっておらず、御社も無さそうな様子である事。
つまり、来見山側に御社が建てられたのは割と近い過去の出来事であるという事で御座いますね。
明治期に周辺にあった御社を合祀した記録が幾つか残っているそうで御座いますので、こちらでもその類で 内社として建立されたのかもしれませんね。

↓ちなみに…何となく、境内の感じが解りづらいかなと思いまして、その辺にあったフォトペーパーに油性ペンでザカザカと現在の境内見取図っぽいものを適当に一発画きしてみました……。

能勢町>若宮八幡宮07


…うぅん……これはこれで解り辛いような…す、すみません;;
本当に画家志望だった人なのかい…?と問うのは勘弁して下さい……今は昔の事に御座います…あはは…は…(←笑って誤魔化…)

御参道とは違う方向を向いて建てられている神社というのは各地に色々と御座いますが、こちらもまた その1つで御座いました。
集落の方を向いているのかなとも思ったのですが、そういう訳でも無さそうで御座いますし、来見山に向いている訳でも背を向けている訳でも御座いません。
御話を伺いましたら、恐らくは方角的な意図でこういう配置となったのでは…という事で御座いました。

能勢町>若宮八幡宮08


享保6(1721)年、天災か何かによって大破した岩崎八幡宮の修復時に御社殿の下より銀の筒、剣3振が出土したという記事が残されております。
その時は、発掘してしまったものの どうやら再びそのまま埋められてしまったようで御座いますが、それが明治40年以前頃の整地に際して再び出土したそうで、発掘されたそれらは 明らかに経塚の遺品であったそうで御座います。

出土した銀の筒こと、銅鍍銀経筒には“養和元年十月五日聖人澄珍、願主米多氏”と記されてあったそうで御座います。
養和元年=1181年…壇ノ浦合戦よりも4年程前の事で御座いますね。
主上がこの地へ辿り着かれるよりも以前に埋められたという経筒…高貴な御方によって作られたと考えられは致しますが、かといって 安徳天皇潜幸伝承との関連があるようには余り思えないかなと…。
当時の能勢の背景と致しまして、この辺りは平安期より銅の産地で御座いまして、採銅作業の為に多くの人数が能勢に居たものと思われます。
都まで近い土地で御座いますし、人々の出入りもあった事で御座いましょうから、当時都で流行っていた末法思想が入っていても不思議はありませんよね。
銅の採れる土地なら当然 羽振の良い豪族も居た事で御座いましょうし、教養、資産に優れた人物によって経塚が作られていても、それはそれで納得出来る状況だと思われます。

この地で発掘された出土品は、現在 東京上野に御座います、東京国立博物館に所蔵されているとの事で御座います。

能勢町>若宮八幡宮09


能勢町にて学んだ事、感じた事は、私の中で今も整理中の事柄が殆どで…自分でも書いていて、未だ消化し切れていない感がたっぷりで御座います。。
自分なりに、今後も色々と こちらの伝承について考察していきたいと思います。
免許を取った暁には(←コレずっと言ってますね…;;)、いつか再び能勢の地を訪れてみたいと思っております。

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みやこの傍で。
大阪府豊能郡能勢町――この地域には、安徳天皇が落ち延びられて来られたという伝承が御座います。

京都まであと少しという大阪北部…源平合戦後の御時世に、御身を御隠しになられた幼い御方が居たとして、何故 わざわざ西国から危険の伴う都手前まで連れて来られたというのかしら…と、矢張り疑問に思えてならず……唐突で御座いますが、先月行ってきてしまいました(笑)

能勢町


本当に突然思い立って発ちましたので、事前に何の準備も無く現地へ赴いてしまいましてー…今思い返しますと、とっても無謀な事で御座いました;
数年住んだ関西の地なのだから無問題!!と何の根拠も無しに高を括って向かいましたが、能勢町に入る手前から深々と反省する事となりました(苦笑)
能勢町は大阪府内ですが、地理的には京都寄り…然し、交通機関を使って行く場合は兵庫県側からまわらなくては行けない場所で御座います。
阪急宝塚線で川西能勢口駅まで行き、能勢電鉄で山下駅へ下車。
そこから更に1時間に1本程度のバスで、約30分かけて大阪府内の能勢町に到着致します。
バスの窓に映る景色が段々と深くなって行くので(ダムやらトンネルを経過するもので…)、能勢町入りする前から不安を覚えたりも致しました。

えぇと…いきなり交通機関を乗り継いで行った私が言うのも何ですが……能勢は広いので、町の中の移動にも車は必需で御座います。。
私は、えっと……本当に感謝してもし足りない程に色んな方々に御助力いただいてしまいまして…///
能勢町の方々は、とても親切で不躾に突然訪れてしまった私に対しても 大変優しく接して下さいました。
バスの運転手さん、能勢町中央公民館、能勢町教育委員会の方々、能勢町内で出逢った方々…只管、感謝の気持ちで一杯で御座います。
「運が良かったね」と仰っていただきましたが、全ては 土地の方々の暖かい御気持ちがあったからこそ辿り着けた場所で御座います…本当に有難う御座いました。
事前の調査の重要さを深く思い知ったのと同時に、人の暖かさに心から感動させていただきました。
公民館の図書室で町史や史料等を見せていただき、数時間勉強させていただいた後に 伝承地を巡る事が出来ました。

能勢町


↑こちらが、安徳帝陵墓が伝えられる 来見山。
能勢町中央部、野間にある標高268メートルの里山で御座います。

この山の頂上付近に、安徳天皇の御陵が残されているのだそうで御座います。

能勢町


ここが来見山の御陵への入口……なので御座いますが、現在は道無き道状態で御座いまして…マムシが出るので、この時期に入るのは危険という事で 今回は奥へ入るのは断念致しました。
茂みの中に立つ案内板まで行く事すら危うい感じで御座いましたので、案内板は望遠レンズで撮影;
以下は、案内板に記されていた説明文で御座います。

   安徳天皇御霊蹟伝説地
       来見山御陵墓

 寿永四年三月二十四日、かの有名な源平合戦で、幼帝安徳天皇は無常にも壇の浦でご入水になったと伝えられているが、侍従藤原経房・原田種長らに供奉されて、山陰を経て丹波から摂津天王・田尻を通り、この地へ六月十五日御潜行になった。
 その後、一年余日をお過しになったが、旅のつかれか、冬の寒さのためか、ついに文治二年(一一八六)五月十七日おなくなりになった。
侍従や里人たちは来見山に葬り、若宮八幡宮にお祀りしたと経房遺書は伝えている。
 この若宮八幡宮には経塚があり「養和元年(一一八一)十月五日、聖人澄珍願主米多氏」と針書きされた銀の経筒・鏡・刀剣などが出土した。
 これらは『能勢古記』に詳記されており、今に地名・習俗が名残をとどめている。
   注・経房遺書とは文化十四年(一八一七)、出野村辻勘兵衛の屋根の棟木から発見されたもの。
     平成十年三月 能勢町教育委員会



能勢町


文化14(1817)年、能勢郡野間出野村の辻勘兵衛さんの御宅の屋根葺き替えの際に偶然発見された古い木箱の中から、竹筒に入った古文書が出てきた事によって、能勢における安徳天皇潜行説は浮上致しました。

古文書には建保5年9月2日(1217年10月10日)の年月日が記されており、その内容には 壇之浦合戦の後、密かに逃れて山陰を経由して能勢に潜幸された事、そして 文治2年5月17日(1186年6月13日)にこの地で崩御された、等と それまでの常識を覆す衝撃的な記録が記されておりました。
発見当時は、全国的に大騒ぎになったといわれております。
それはそうで御座いましょうね……、室町期辺りで源平モノが流行って以降は、人々の中に 海峡に沈まれた悲劇の幼帝として安徳天皇は印象付けられていたものと思われますし…。
西国には、その他にも潜行説の伝わる地が幾つか御座いますが、そこに能勢が加えられた事に驚くのは、何処よりもそこが都に近いから…という理由に他なら無いのでは無いでしょうか。

全国的に騒がれたとは申されますが、かといって歴史の書き換えにまで至らなかったのは事実。
その背景と致しまして、幕末〜維新の動乱が考えられますが、明治大正期に至って 宮内省より調査が入って厳重整備と現地保存を申し渡された後は、特にこれといった動き等は起こされなかったようで御座います。

この古文書=遺書を記したとされるのは、安徳天皇の侍従であるという 左少弁 藤原経房という御方…出自は不明で御座います。
同時代の同姓同名に権中納言の藤原経房(吉田経房)様がいらっしゃいまして、寿永3(1184)年に従三位 左少弁となられておられ、吉記に朝廷の儀式や礼法、源平争乱に関する記事を記されておりますが、この御方は平氏や主上と共に西国へは下っておられず、源平合戦後も都にて生活をされておりますので、恐らくは別人であろうかと存じます。
左少弁 藤原経房さんの御墓は、来見山の安徳天皇御陵の程近い場所にあるそうで御座います。

遺書の原本で御座いますが、明治の頃 京都古筆見所等へ持ち歩いていた時に亡失されてしまったそうで御座います。
現在残されているのは、その写本とされる幾つかの諸本。
当然、内容も諸本によって変わってしまっており、正確な内容は不確かなものとなってしまっております。
中でも、最も原本に近いと考えられている山川本の概要を挙げますと、藤原経房さんが壇之浦から能勢にて遺書を書くまでの記録は↓のような内容で御座います。

寿永4年3月24日(1185年5月2日)
……壇之浦合戦。平氏敗戦につき、主上は典侍、侍従経房、従者種直 等と小舟で磯へ付き、山中を3里余行った木の下の庵に潜む。

寿永4年3月28日(1185年5月6日)
……管家の公達の筑紫詣 帰路と偽って、石見国を通過。

寿永4年5月11日(1185年6月17日)
……伯耆国埴生里に到着。

寿永4年5月30日(1185年7月6日?)
……但馬国国府に到着。

寿永4年6月13日(1185年7月18日)
……摂津国天王に入る。
         
寿永4年6月15日(1185年7月20日)
……摂津国能勢長尻から野間郷へ渡る。

寿永4年7月2日(1185年8月6日)
……野間郷に潜行以来、御悩みの御様子であった主上の御気分が優れてきた。

寿永4年9月20日(1185年10月22日)
……主上、従者達、紅葉狩りの後に姫の宮へ御幸。
  それぞれ和歌を詠まれる。

寿永4年10月24日(1185年11月24日)
……初雪降る。
  主上、来見山に御幸され、和歌を詠まれる。

文治2年4月初旬(1186年4〜5月)
……主上、突然御悩みになられる。

文治2年5月17日(1186年6月13日)
……5月に入って弱っておられた主上が、遂に崩御なされる。
  夕方、御衣と御調度を共に岩崎に葬り祀る。

文治3年4月(1187年5月)
……(※安徳天皇と諡号が付けられる)

建久9(1198)年
……原田種長、没。

元久元(1204)年
……郡司景家、没。

建保5年7月5日(1217年8月15日)
……源典侍、没。享年55歳。

建保5年9月2日(1217年10月10日)
……藤原経房、遺書を書く。


能勢における 安徳天皇能勢潜幸説は、史実としての確証が高いと考えられる学者の先生ももいらっしゃるそうで御座います。

都は直ぐそこ…そこへ行ければ、御母様(建礼門院様)もいらっしゃる故郷でも御座いますのに、ついに都に戻られる事無く この地で亡くなられたという主上。
共に都落ちをした平家御一門の方々の御名前も見られず、もしや改名を?とも考えられぬ事では御座いませんが、幼い主上には さぞや心細く御寂しい旅路とその末だったのでは無いでしょうか…。
壇之浦にて海の底の都へ逝かれた通説と、こちらの説と……一体、どちらであれば主上は幸せであったというので御座いましょうか…。
どちらにせよ、戦乱の世の渦中に巻き込まれた事実には変わりは無いので御座います。

能勢地域…来見山周辺には、“王垣内” “御殿ヶ芝” “乳母ヶ懐” “位ノ高” 等の地名が残っており、主上伝承に縁する地名といわれております。

能勢町


※明日は、能勢町安徳天皇伝承縁の岩崎神社 若宮八幡宮について。

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