日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

最期まで、平家の公達として。
野迫川 維盛様歴史の里 資料室01

奈良県吉野郡野迫川村、平維盛歴史の里の資料展示室。
こちらでは、平維盛様の麗しき舞姿が拝めるという事で、張り切って拝観させていただきました〜!

館内は無人の為、入室の際には自分で電気を付けて見学させていただきます。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室02

資料室に入ると、先ず目に飛び込んで参りましたのが、この舞台!
安元2年3月4日(1176年4月14日)から6日(1176年4月16日)にかけて行われたという、後白河院の50歳の御賀にて、維盛様が舞われた青海波の場面を再現されているようで御座いますね。

那智籠の僧共の中に、此三位中将をよくよく見しり奉つたるとおぼしくて、同行にかたり
けるは、
「ここなる修行者をいかなる人やらむと思ひたれば、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にておはしけるぞや。あの殿の未四位少将と聞え給ひし安元の春の比、法住寺殿にて五十御賀のありしに、父小松殿は内大臣の左大将にてまします、伯父宗盛卿は大納言の右大将にて、階下に着座せられたり。其外三位中将知盛・頭中将重衡以下一門の人々、けふを晴とときめき給ひて、垣代に立給ひし中より、此三位中将、桜の花をかざして青海波を舞うて出られたりしかば、露に媚たる花の御姿、風に翻る舞の袖地をてらし天もかかやくばかり也。女院より関白殿を御使にて御衣をかけられしかば、父の大臣座を立、是を給はて右の肩にかけ、院を拝し奉り給ふ。面目たぐひすくなうぞ見えし。かたへの殿上人、いかばかりうら山しう思はれけむ。内裏の女房達の中には、“深山木のなかの桜梅とこそおぼゆれ”などいはれ給ひし人ぞかし。唯今大臣の大将待かけ給へる人とこそ見奉りしに、けふはかくやつれはて給へる御ありさま、予ては思ひもよらざしをや。うつればかはる世のならひとはいひながら、哀なる御事哉」
とて、袖をかほにおしあててさめざめと泣ければ、いくらもなみゐたりける那知籠の僧共も、みなうち衣の袖をぞぬらしける。


以上は、平家物語の記述によるもの。
御一門の中でも、いちばんの美青年であられたと噂される維盛様は、冠に桜枝を挿して青海波を舞われ、その余りにも美しい御姿に“深山木のなかの桜梅”と内裏の女房達から羨望の眼差しで見詰められたようで御座います。
この事から、維盛様は桜梅少将様とも呼ばれるようになられます。

青海波は二人舞で御座いますのに、維盛様のみが素晴らしく評価されるというのは凄い事で御座いますね。
平家の御嫡男であられるという事実以上に、見る者を惹き付ける魅力を醸し出されておられたが故の事と思います。
それが また、源氏物語光源氏像と ぴったり重なるような印象を与えられていたので御座いましょう。

建礼門院右京太夫様も、維盛様が熊野にて入水なさったという事を聞いて、この時の事を思い出して“光源氏のためしも思ひ出でらるゝ”と語っておられます。

又、維盛の三位中将、熊野にて身を投げてとて、人のいひあはれがりし。
いづれも、いまのちをみきくにも、げにすぐれたりしなど思ひいでらるゝあたりなれど、きはことにありがたかりしかたちようゐ、まことに昔今みる中に、ためしもなかりしぞかし。
さればをりをりには、めでぬ人やはありし。
法住寺殿の御賀に、青海波舞ひてのをりなどは、光源氏のためしも思ひいでらるゝなどこそ、人々いひしか。
花のにほひもげにけをされぬべくなど、きこえしぞかし。

そのおもかげはさることにて、みなれしあはれ、いづれかといひながら、なほことにおぼゆ。
「おなじことゝ思へ」
と、をりをりはいはれしを、
「さこそ」
といらへしかば、
「されど、さやはある」
といはれし事など、かずかずかなしともいふばかりなし。

   春の花の 色によそへし おもかげの
     むなしき波の したにくちぬる


   かなしくも かゝるうきめを み熊野ゝ
     浦わの波に 身をしづめける

       (建礼門院右京大夫集による)


   “桜梅将軍” 維盛

後白河法皇50歳の祝いに、
桜の花をかざして、
「青海波」を舞う維盛。
その舞いと容姿の美麗さから
“桜梅将軍”と称えられた。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室03

雰囲気にちょっとした違和感は御座いますが、逆に この距離感がアットホームな感じで素敵だなぁとも感じます。
個人的には、維盛様の舞装束が、特に気になるところで御座いました。
源氏絵に見られる源氏物語の青海波の場面等、史料に伺える装束とは御色とか模様とか違う部分も多かったように思います。
青海波の装束は、縹色に青海波文様の地紋で、五彩の様々な千鳥の刺繍が施されている装束で御座いますが…というか…普通に考えて、青海波の装束というのは 他の装束と比べても かなり高価なもので御座いますので……流石に、現代で実際に使用されている本物の装束を用意するのは大変な事で御座いますよね;
ただ、平安期の青海波の舞装束は現代のものとは異なった柄のものであったようで御座います。
平安末期の頃は、どのような装束を着られたので御座いましょう。
栄華を誇る平家嫡流の御曹司で御座いますので、さぞや御立派な衣装を用意なされた事が想像されますね〜…何だか雲の上の世界で御座います。。

   <青海波>

右大将重盛、青海波の装束見に、一家の人びと、中納言宗盛、別当時忠、右兵衛督頼盛、平宰相教盛、三位中将知盛、頭中将重衡、左少将資盛、新中納言清経、兵衛佐忠房、権少将通盛、是等を引き具して向かふ。
その勢人にこと也。
又、蔵人、管弦の具を楽屋へ持て行く。
内大臣師、琵琶をしらむ。
 (中略)
輪台はてて青海波出で替りて舞ふ。
権亮少将惟盛、右少将成宗、ともに右の肩を脱ぐ。
あをうちの半臂海浦の文、螺鈿の細太刀、紺地の水の文の平緒、桜萌黄の衣、山吹の下重、胡簶をときて、老懸をかく。
山の端近き入日のかげに御前の庭の砂子ども白くきよげなる上に、花の白雪空に知られて散りまがふ程、物の音もてはやされたるに、青海波の花やかに舞ひ出でたるさま、惟盛朝臣の足踏み袖振る程、世のけいき、入日のかげにもてはやされたるかたち、似る物なくきよらなり。
同じ舞なれど目なれぬさまなるを、内、院を始めたてまつり、いみじくめでさせ給ふ。
父おとゞこと忌みえし給はず、をしのごひ給ふ、ことわりと見ゆ。
見る人涙を流す。
片手は源氏の頭中将ばかりだになければ、中々にかたはらいたくなん覚えけるとぞ。
舞ひをはりて、はじめのごとく連なり楽屋へ入る。
たゞし輪台の舞人は立ち加はらず。
 (平家公達草子による)


維盛様も大変麗しかったのですが、実は私は 向かって右奥に座っていらっしゃった童子姿の彼にメロメロで御座いました…好みがバレバレで御座います;///

野迫川 維盛様歴史の里 資料室04

資料室内には、“維盛の生涯”というタイトルで、維盛様が熊野に至った経緯から 野迫川での終焉までをジオラマと共に紹介されておりました。
順を追って見て参ります。

先ずは、史実にも伺える源平合戦の様子。
一ノ谷合戦に大敗し、屋島へと陣営を移した平家軍は、熊野水軍に協力を要請する為に維盛様を熊野別当であり熊野水軍の頭領である湛増様の元へと送られる事を決められたといいます。

   維盛の生涯

1. 合戦
 治承4年(1180)源頼朝追討軍の大将に任ぜられた平維盛は、その年の「富士川の合戦」・寿永2年(1183)の「倶利伽羅峠の合戦」に大敗し、平家一門は都落ちしていく。
更に翌年「一の谷の合戦」でも惨敗し、遂に瀬戸内海を渡り屋島へと陣を移す。
総大将宗盛は四国各地に水軍を求めるが、その効も無く再三再四にわたる群議の末、維盛を軍使として田辺湛増のもとへ派遣することとなった。



私は 以前からこの説を存じておりますが、正直に とても好きな解釈で御座います。
宗盛様の命であったか否か、実際に熊野水軍に交渉されたかという事は別問題と致しまして…単純に、もしそうであったなら平家軍における維盛様の御立場や内面も、また違った角度で考えられるのでは無いかな、という気が致しまして……。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室05

そして、屋島を出立。
イメージ的に、もっと小さな御舟で…という絵が私の中には御座いましたが、宗盛様に見送られての秘かなる旅立ちであれば、これ程の御船でも納得がいきますね。

2. 屋島より援軍を求めて

 源氏側の動向が刻一刻と伝えられる中、平家側にあっては、もはや予断の許されぬ事態となっていた。
この形勢の中、平家側総大将の宗盛にとって頼る者はただ一人。
旧縁旧恩のある熊野別当田辺湛増以外に無いと判断し、親書を維盛に託す。
命を受けた維盛はその重責を全うするため、数人の重臣を従え密かに屋島を出立。
讃岐、阿波の陸路を経て阿波国牟岐浦へと到着する。
そして、一路紀伊水道を横断し田辺浦へと向うのであった。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室06

田辺浦に上陸された維盛様は、湛増様との対面を果たされます。

維盛様の祖父 清盛様の異母弟である忠度様は、熊野出身であるともいわれております。
その出生地と伝わる音川には、忠度様の御生母は湛増様の父 堪快様の娘 浜の女房と呼ばれる女性との事。
その他にも湛増様は平家に旧恩があり、大変縁の深い御方で御座いました。

然し…湛増様の妻の御母様は源氏方の御方。
湛増様御自身も源氏の方々と親戚関係にあられたといわれておりますし、義経様の郎党である武蔵坊弁慶様の御父様であるという伝承も有名で御座います。

つまり、湛増様は源平両氏、それぞれと深い繋がりを持っていらっしゃったという事になります。

3. 田辺湛増との出会い
 田辺浦に上陸した維盛は、一早く湛増と対面する。
湛増にとって平家は一門の宗家にあたり、密接不可分の関係にあった。
そして今、この若き維盛の勇姿を眼前にして心から満足気であった。
しかし、維盛から屋島陣営の状況を聞くにおよび、天下の情勢はすでに源氏方にあることを知り、苦悩はつのるばかりであった。
湛増は平家重代の恩恵を承知しつつも、熊野一国の将来の安泰を考慮し、万やむを得ず源氏従軍の意を打ち明けたのだった。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室07

熊野水軍が源平どちらに味方するかを定めたとされる、新熊野での鶏合。

熊野別当湛増は、平家へやまいるべき、源氏へやまいるべきとて、田辺の新熊野にて御神楽奏して、権現に祈誓し奉る。
白旗につけと御詫宣有けるを、猶うたがひをなして、白鶏七赤き鶏七つ、これをもて権現の御まへにて勝負をせさす。
赤きとり一もかたず。
みな負けてにげにけり。
さてこそ源氏へまいらんと思ひさだめけれ。
 (平家物語 高野本による)


4. 闘鶏
 この頃、別当湛増のもとには源氏方からも熊野水軍加勢の要請使者が幾度となく訪れていた。
湛増は熟考に熟考を重ねたが時迫り、1つの判断をする。
それは、熊野権現の神託に称して紅白の軍鶏による闘鶏占いを演じることであった。
そのことにより家臣の統制と源氏、平家双方に対する公然たる理由づけとして湛増自身の対面も保つことができるからであった。



成程、湛増様の御心は元より定まっておられ、その裏付けの為に行われた闘鶏であったという事で御座いますね。
この時代、寝返りは割と当然の事のようで御座いましたので、然程大事のようにも感じませんでしたが、矢張り人間対人間の問題である限りは、両氏に血縁や御恩がある場合は深刻な決断になりますよね。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室08

熊野が源氏に与する事となり、維盛様は紀伊国内に潜伏される事となったようで御座います。
ここで疑問に思うのは、何故 平家軍に戻られる道を選ばれなかったのか、という事で御座います。
維盛様は以後暫くは湛増様の庇護下で生活なさったようで御座いますが…隠棲を考えられるよりも、この時点ならば 陣に戻って御一門と運命を共になさるという選択も可能だったのでは無いかと思われます。
妻子は京に残してこられたとはいえ、未だ異母弟の資盛様や有盛様もいらっしゃっいましたのに。
それを選ばれなかったのは、湛増様に引き留められたからかもしれませんし、維盛様が自ら望まれた結果だったのかもしれません。
それが何を意味するのかは知る由も御座いませんが…平家物語に語られる、高野山での御出家や熊野三山詣の後の入水とは違う道を歩まれておられるようで御座います。

5. 紀伊潜伏
 闘鶏の結果、源氏側に加勢することとなった湛増は自分の娘(玉乃恵)を維盛に娶らせ舅婿の契りを結ぶ。
そして平維盛を芦部湛之尉と変名させ逃亡の援助を図る。
更に人馬も通わぬ芦山に要害を築き維盛を住まわせたのであった。
一方「屋島の合戦」では平家側が大敗し、その1ヶ月後の寿永4年(1184)天下分け目の一大決戦(壇ノ浦の合戦)が繰り広げられた。
そして安徳幼帝以下平家の主だった人々は、海の藻屑と消えたのであった。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室09

御一門の御最期を知らされた維盛様は、源氏の追手から逃れる為、紀伊山地を奥へ奥へと落ちて行かれます。
その流浪期間は、なんと10年間という事で……維盛様にとって、その10年は どれだけの時間に感じられた事で御座いましょう。

6. 野迫川村へ

 平家が屋島及び壇ノ浦の戦に敗れた情報は、維盛にも早々に伝えられ頼朝による平家狩りが一段と厳しさを増したことを知る。
湛増の隠匿策も限界となり、維盛も遂に覚悟の思いを妻に告げ芦山を後に流浪の旅へと向う。
それから十年間熊野地方に潜伏し、その後日高・有田・十津川等各地へ逃亡していく。
いつしか年老いた維盛は、京に残した妻子を慕い北へ北へと向う。
そしてようやく安住の地、野迫川に辿り着いたのであった。



野迫川に至った維盛様御一行は、ここを安住の地と定められ、この地にて御子孫を遺される事で その生涯を全うなさったと伝えられます。
平家再興を考えられた時期も長かった事と思われますが、護摩檀山での占い結果を受け入れてからは、ただ穏やかに余生を送られるだけの土地を求められて野迫川に入られたのかもしれませんね。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室10

ここまで、どんなに落ちても維盛様は平家の“武士”であられたのだと思います。
終着点と定められた地で、刀よりも大切な道具を得、護るべきものを育んでいかれたのでは無いでしょうか。
それでも、御自身が“平家”の御出自である事だけは、きっと誇りを持たれていたので御座いましょう。
だから今、ここに“平家の里”が存在しているので御座いますよね。

   野迫川と維盛

 平維盛は、「平家物語」で語られているように那智の浦で入水したのではなく、生きのびて平家再興を願い続けていたという伝承が紀伊半島の各地に残っています。
このような貴人伝説は全国にあり、人々は尊い人の子孫であることを誇りに生きてきました。
 野迫川村には、「維盛塚」の他、維盛が平家再興を占ったという護摩壇山や、家来のものと伝えられる墓があり、現在に至るまで村の人々によって大切に守られ語りつがれてきました。



↑この文章を読んで、私は とても嬉しくなりました。
本当に、その通りだと思うので御座います。
伝承地を巡る上で大切なのは、真偽とは別のところに感じる意義であると、私は平素より思っております。
押し付けるでも無く、疑うでも無く…ただ、これまで語り継がれてきた土地の歴史、伝承を受け継いで伝えていかれているという――それだけの事なのですが、たった それだけの事が現代に至って沢山失われてしまっているのも残念ながら事実で御座いますので…。
これも、ひとつの“地元愛”の表現なのだなぁと思うと、力強いものを感じます。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室11

維盛様の歩まれた経路、伝承地が示された地図と映像のコーナーでは、未だ見ぬ伝承地等の情報を得る事が出来、今後の目標を大きく広げる事が出来ました。
既に訪れた場所の映像を見ていて、こういう五輪塔、私は見なかったな;と凹まされたりも致しました(苦笑)

資料室は1室のみで、余り興味の無い方等は 入られても3分位で出て行かれておりましたが、私にとっては全てが興味深く…2時間位 入り浸って勉強させていただきました。
とても充実した、有意義な時間を過ごす事が出来て、幸せに思っております〜。

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花鳥風月の丘に、終焉を知り。
野迫川 平維盛様歴史の里01

和歌山県田辺市龍神村から護摩檀山を越えて、高野龍神スカイラインを高野山方面へ向かって行きますと、途中で奈良県吉野郡野迫川村中心部への分岐が右手に見えて参ります。
道標に従って右折致しますと、直ぐに“平家の里”と書かれて道標が設置されておりました。
ここから、車で更に40〜60分程度進んだ場所に、野迫川村の施設 平維盛歴史の里が御座います。

野迫川 平維盛様歴史の里02

熊野落ちの後、高野山で御出家の後に熊野三山を詣で、那智沖にで入水されたという平維盛様――然し、平家物語に語られる その結末の続きとも解釈出来るような…そんな維盛様にまつわる落人伝承が紀伊山地の各地に伝えられております。
これまでにも、色川郷十津川郷、龍神村、湯の峰…等、少しずつでは御座いますが、その足跡を辿らせていただいて参りました。
この野迫川の地は、その最終地点と語り継がれる伝承地のひとつで御座います。

   平維盛歴史の里

伝説のロマン漂う
平維盛は熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝えられています。
歴史資料館では数々の資料を展示・保存すると同時に、維盛にまつわる多くの伝承を映像・ジオラマ・レプリカなどを駆使して再現しています。
また、野迫川村の自然が生かされた敷地内には、維盛塚を中心に花鳥風月の庭、ツツジ園、散策の路、展望台などが整備されています。
伝説のロマンに思いを馳せ、心和む散策のひとときをお過ごしください。
       ( 「野迫川村ガイドマップ」 奈良県野迫川村地域振興課 発行による)



また、野迫川村役場方面へ向かう分岐手前辺りの龍神スカイライン沿いには、鶴姫公園というのが御座います。
こちらも野迫川村内で、平家伝承に関連する場所でも御座います…が、龍神村の伝承地同様に個人的な心残りが御座いますので(苦笑)、今秋以降に再び訪れて、その後に記事に纏めたいと思っております。

野迫川 平維盛様歴史の里03

野迫川に向かうに当たり、事前に野迫川村役場さんに維盛様の歴史の里について御伺い致しました。
とても御親切に対応いただきまして、維盛様の里、野迫川までの地図をFAX、郵便で送って下さいました。
地図には龍神からの経路が蛍光ペンでなぞってあり、付箋に説明を記してあり、大変嬉しかったです。
出掛ける直前に里に開館の確認の御電話をしたところ、どなたも御出になられませんでしたので、不安に思って役場に問い合わせをさせていただいたので御座いますが、その時にも
近くの方が朝鍵を開けに来られますが、基本的には無人なんですよ
と教えていただきまして。
御陰様で、無事に行って勉強させていただく事が出来ました。
本当に、有難う御座います。

  落人伝説
   平 維盛 歴史の里

 平維盛―これほど伝説のベールに包まれた人物はいない。
 太政大臣平清盛の孫として、また「桜梅少将」と世上にその名を知られた当代随一の美男、など伝説的要素にこと欠かない。
『平家物語』によると、屋島における平家一門の滅亡を前に熊野に逃れ、やがて那智浦で入水したと伝えられている。
しかし、一方では援軍を熊野別当湛増に依頼するため秘かに上陸し、平家狩りの追討を避け、熊野山中を転々としてその生涯を終えたという伝承もある。
 そのいずれが真実であるかどうかは別として、熊野・吉野地方の各地に伝わる“維盛伝説”は、輻輳する現代社会に生きる私たちにロマンの香を感じさせてくれることは確かである。
 いま、本村ではそうした伝承にもとづいて「平維盛歴史の里(花鳥風月―平安の里)」を創設しました。
 現代人が忘れかけたロマンや夢をすこしでも、取り戻したいという願いのもとに施設の整備を行ない、ジオラマ・レプリカ、映像などを駆使し、伝承の再現に努めました。
ここの「平維盛歴史の里」にはいくつもの関連施設があり、それぞれ展示をはじめ、多目的利用を目的としています。
 維盛塚を中心に、花鳥風月の庭、ツツジ園、散策の路、展望台など本村の自然を存分にいかしたこの「平維盛歴史の里」は、広く人びとの心に語りかけ、こころ和むひとときを過ごすことができると思います。
奥高野の一角に、こうした施設が完成し、訪れる人びとを悠久の昔に誘うことでしょう。



歴史の里が御座いますのは、野迫川の平。
ここで維盛様が没されたという伝承を基に、夢のある街づくりを展開しようとなさっている村の方々の御気持ちが原動力となって誕生した里なのだそうで御座います。
とても素敵な事で御座いますね〜!

野迫川には、全国平家会の会員の方もいらっしゃるとの事。
平家会発行の平家伝承地総覧にも、“ここでは春秋二度、平維盛歴史の里大祭が執り行われており、緑麗しい野迫川村のあちこちに平家の赤旗がはためき、平家一色の村となる”と記されており、祭礼の御様子が写真付きで掲載されております。
個人的には、野迫川村のサイトの 春の大祭頁に載っていた、皆のアイドル“これもりくん”の存在が、秘かに気になっております…(笑)

野迫川 平維盛様歴史の里04

歴史の里に到着して先ず目に入ったのが、緑の芝生が鮮やかな小高い丘。
こんもりと形良く、空の青に映える様子が印象的で御座いました。

こちらが、維盛塚。
維盛様供養の為に築かれた塚なのだと思います。

野迫川 平維盛様歴史の里05

維盛塚の頂上には、維盛様の顕彰碑が建立されておりました。
梵字も彫られている事から、供養塔を兼ねているのだと思われます。

   平 維盛塚由来記

 一の谷合戦に敗れた平家は、屋島へと逃げのび、寿永三年(一一八四年)宗盛公の下命により、平維盛公(二十六才)は熊野水軍の援軍を求めるため、熊野別湛増(現在の和歌山県田辺市)のもとへ使者として派遣されたが、天下の情勢はすでに源氏側にあったため、湛増は平家の恩恵は知りつつも、熊野一国の安泰を考慮し、援軍を断った。
 湛増は維盛公に姫を娶らせて、自分のもとに匿い、源氏の追討から守った。
 しかし源 頼朝は文治五年(一一八九年)維盛逮捕令を発令し、一大平家狩りをおこなった。
 湛増は配下豪族に命令し、維盛を守護させながら、奥熊野の山岳地帯に逃した。
 建久九年(一一九九年)源頼朝の死により、平家狩りも休止した。
 維盛は京の妻子に再会するため、紀伊山岳路を北上、建保四年(一二一六年)維盛(五十八才)主従は、野迫川村平へ到着。
 山岳流浪潜伏すること三十余年におよび、源氏追討と山岳突破の疲労により、この地にとどまり承久元年(一二一九年)六十一才で終焉。
 里人により手厚く葬られ「平維盛塚」として伝わる。
 「嗚呼 小松三位左中将 平朝臣維盛公、終焉の地」



野迫川 平維盛様歴史の里06

頂上付近には、白い造花が幾本も御供えされておりました。
維盛様の顕彰碑前には、色鮮やかな生花が手向けられており、あぁ愛されていらっしゃるのだなぁと温かく感じました。

維盛塚からは、歴史の里全体と付近の美しい山並みを一望する事が出来ます。

野迫川 平維盛様歴史の里07

維盛塚を下りながら、周辺を散策していると、維盛様の御家来の御墓への道標が御座いました。
季節的に、草が良く伸びる頃で御座いましたので、途中 ここは通れる道なのだろうかと思われるところも御座いましたが、進める限り歩いて行ってみようと思い、奥に入って行きました。

野迫川 平維盛様歴史の里08

木々に囲まれた少し暗い場所に、ぽつんと置かれていた小さな石…こちらが、維盛様の御家来の御墓のようで御座います。
維盛様の御家来といわれると、どうしても維盛様の乳母子 与三兵衛重景様…それから石童丸様の事が先ず思い浮かぶのですけれどー…平家物語とは筋書や結末も違うだけに、別の御方である可能性も大きいかとは思われます。

野迫川 平維盛様歴史の里09

芝生の草が成長して中々気が付かなかったりもしたのですけれど、里内には このような表示を幾つか発見する事が出来ました。

野迫川 平維盛様歴史の里10

歴史の里は、“花鳥風月―平安の里”とも呼ぶのだそうで…長閑な景色の中、不思議と雅な空間が保たれているのに然程 違和感を感じ無い事が面白いなと思いました。
広い敷地内には幾つかの休憩所が設けられており、観花亭、観鳥亭、観風亭、観月亭…と、それぞれに“花鳥風月”より1字ずつを担った名称が付けられております。
↑あれ?…画像からは観風亭が抜けておりますね……あれれ;(苦笑)
その代わりに入っている左下の画像は、御食事処 笛の茶屋さん。
なんて素敵なネ〜ミング!と興味津々だったので御座いますが、残念ながら休業中のようで御座いました。。

野迫川 平維盛様歴史の里11

建物の近くを流れる小川には、水車の跡が御座いました。
野迫川村の紹介頁に“季節によっては、アジサイの生茂る中で回る水車にも出会える”と記されておりますので、もしかすると紫陽花の季節にだけ水車が設けられているのかもしれませんね。

この風情ある御庭でなら、曲水の宴が出来そう〜♪と、ひとりでウキウキしながら散策させていただきました。
誰も居ないと思っておりましたが、私が滞在している間に何組かのグループが通り掛かりに立ち寄られていたり、御弁当を広げられていたりされておりました。
こんな憩いの場所が近くにあったら、毎日でも 花林さん(※私の愛笛/龍笛)持参で来るのになぁ〜(笑)

野迫川 平維盛様歴史の里12

※明日は、里内に御座います資料館について。

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清流せせらぐ、いもせの丘に。
五百瀬01


奈良県吉野郡十津川村五百瀬は、新宮より熊野本宮大社を経由して国道168号線を北上、十津川温泉郷、湯泉地温泉、十津川村役場前を通過して更に上り、風屋ダム、川津大橋を越えて神納川沿いの細い道路を奥へ、奥へと進んだ先の小さな集落。
平維盛様の伝承と御血筋が今に伝えられる地で御座います。

五百瀬02…腰抜田は、この下の川底に埋もれてしまったようです


角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。
御供の衆には、光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺相摸、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎、彼此以上九人也。
宮を始奉て、御供の者迄も皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作立、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。
 (中略)
数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。
御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。
御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはかばかしきも歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける


太平記巻第5“大塔宮熊野落事”にも伺う事が出来ますように、十津川は大塔宮様こと、護良親王様縁の村で御座います。
村内には幾つかの宮様の足跡が今に伝えられておりますが、ここ五百瀬も その1つ。
五百瀬は、維盛様伝承地であると同時に、大塔宮様の史跡が語り継がれる地でも御座います。

えっと…個人的に鎌倉中期以降は少し苦手な年代になってしまうので御座いますが、建武の新政期頃まではギリギリ守備範囲でも御座います(中途半端…/苦笑)
未だ未だ勉強中では御座いますが、大塔宮様は鎌倉宮の御祭神でも御座いますし、今後もっと深く追求して考えていきたいと思っている御方のひとりでも御座いますので、いずれ詳しく記したいとは思っております、

   腰抜田

 南北朝の頃、五百瀬を通ろうとした大塔宮護良親王は、五百瀬の荘司に行く手をさえぎられ止むなく錦の御旗を渡し通行を許された。
遅れてきた宮の家来 村上義光は大いに怒り、荘司の家来を水田に投げ飛ばし、御旗を奪い返す。
その時家来が腰を抜かしたので、その田を腰抜田というようになったが、明治の大水害で埋没し、今は川底にねむっている。
 (五十 米下手に石碑があります。)



伝承によれば、大塔宮様は五百瀬を通過された際に荘司の妨害を受け、御家来か錦の御旗を置いていかねば通さないと脅迫されたので、御旗をこの地に残されたといわれております。
その後、遅れて一行の後を追われていた宮様の御家来 村上彦四郎様が それを知って御怒りになり、荘司の御家来を水田へ投げ飛ばして御旗を取り返したという事で御座いました。
投げ飛ばされた荘司の御家来がかされた水である事から、以後はその田を“腰抜田”と呼ぶようになったと伝えられます。
“腰抜田”と書いて、そのまま“こしぬけた” “こしぬけだ”と読むそうで御座います。
駄洒落っぽいといいますか、若干の風刺が含まれている印象があると申しましょうか…上手に名付けられたなぁ〜と思わず感心してしまいました(笑)

   南朝史跡 腰抜田

腰抜田は この附近にあったが 明治二十二年の大水害で水没した
     平成六年三月 十津川村教育委員会 建之



   腰抜田

 南北朝の頃、大塔宮護良親王は北朝方の手を逃れ、一時戸津川郷に難を避けられ五百瀬を通過されようとした時、五百瀬の荘司に行手をさえぎられた。
 荘司は宮の通行を認める代わりに、
「家来か錦の御旗を置いていけ」
と要求した。
 宮は大事な家来を置いていくわけにはいかないと、止むなく錦の御旗を置いて通行を許された。
暫くして宮の一行に遅れた家来の村上彦四郎が荘司の館を通りかかり、錦の御旗があるのを見付け、大いに怒り、荘司の家来を水田の中に投げとばし、錦の御旗を奪い返して宮の後を追った。
 その時、投げとばされた家来が、腰を抜かしたのでその田を腰抜田というようになったという。
 腰抜田は明治の大水害によって埋没し、現在は歴史を秘めたまま川底にねむっている。



角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、
「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。
されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」
と語ければ、宮誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、
「若大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」
と問せ給へば、戸野兵衛、
「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津川、吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」
とぞ申ける。 (太平記による)


太平記の成立年代は定かでは御座いませんが、室町期には編纂されていたものと考えられております。
室町といえば、古典芸能作品等で源平合戦物が流行した時代でも御座いますけれど……五百瀬の維盛様伝承は、その影響を受けてのものでは無いように思います。
太平記の記述には、様々な根拠から作者の想像が多く描かれている物語といわれている為、断言は出来ませんが、この頃の十津川では維盛様の落ち延びられた伝承が語られていたようで御座いますね。

五百瀬03


五百瀬トンネルの左手前、現在は機能していない五百瀬小学校の傍にある“政所”と、その背の中腹に御祀りされた祠が、五百瀬に伝わる維盛様の御屋敷跡と御墓であるといわれております。

伝承によれば、屋島を抜け、五百瀬へ落ちて来られた維盛様は、御子孫を残され この地で没されたという事で御座います。
御命日は、寿永3年3月8日(1184年4月20日)との事――史実上、維盛様が那智沖で入水して果てられた御命日は、寿永3年3月28日(1184年5月10日)という事になっております。
……それ以前、という事に少々驚いてしまいますね…。
落ち延びて来られたというのであれば、もっと長生きなさったのでは無いかしらと思いたいところなのですけれど…。
大和名所図会の記述には“平維盛墓戸津川五百瀬村にあり、古老曰く寿永年中、乱を避けてここに来たり、姓を変じ老死すとなん”とあるようで御座いますし、もしかすると、この御命日は 維盛様が“亡くなられた事にする為”に定められたものなのかもしれませんね。

明治期以前まで この辺りにあったという南望山宝蔵寺という御寺さんには、“千手院殿前三位中将義山貞公大居士”と、維盛様の御戒名が過去帳に記されていたのだそうで御座いますが、廃仏毀釈に際して宝蔵寺さんは廃寺となってしまったようで…その記録は現存しないのだそうで御座います。

維盛様の御子孫は、“小松”姓を名乗られ、家宝として平家の宝刀 小烏丸を代々伝えられて来られたという事で御座います。
然し、明治期になって 御家の事情により、小烏丸をはじめとする諸々の伝承物は何処かへと流されてしまったのだとか…以後、その行方は知れず、残念ながら こちらも現在のところ、確認出来ない状況のようで御座います。

五百瀬04


こちらが、政所と呼ばれる辻家住宅。
この地方で最も古い建造物であるといわれており、主屋、表門、棟札は奈良県の有形文化財に指定されております。
棟札には“享保十乙巳年十一月□日”、薬医門形式の表門には“嘉永六年丑十一月二十三日 奉修覆”とと記されているそうで御座います。

平安時代の“政所”といえば、親王様や従三位以上の公家が荘園等の領地を管理する私的な家政機関の意で御座いますね。
維盛様は従三位で御座いましたので、居を定められたこの地に政所と呼ばれる建物を築かれたとしても、目立ちはしそうですけれど不思議な事では無いように思えます。

   政所

五百瀬小学校近くに山家では珍しく格式のある表門をもつ家があります。
政所と呼ばれ、この地方で最も古い建物といわれています。
棟札には享保十乙巳年(1725)と記されており、表門は薬医門形式で嘉永六年(1853)奉修覆となっています。
1980年、主屋、表門、棟札が県指定有形文化財になりました。
平維盛伝説によれば、小松姓を名乗る維盛の子孫が、平家の宝刀小烏丸を代々伝えて住んでいたといわれますが、明治になって没落、宝刀の行方も一家離散と共にわからなくなりました。



元々は維盛様直系と伝わる小松の御家が代々管理されておられましたが、現在 こちらには小松家とは別の御家の方が御住まいで御座います。

五百瀬05


政所の背に見える祠へは、案内板裏を登って行く事が出来ます。
政所の敷地内に御祀りされている御社で御座いますので、かつては直結した御参道が使用されていたので御座いましょう。

五百瀬06


こちらが、維盛様の御墓と伝えられる御社で御座います。

□ 平維盛の墓(たいらのこれもりのはか)

所在地:奈良県吉野郡十津川村五百瀬
御創祀:不明


実は私、事前に資料等で写真を拝見していたにも関わらず、何故か全然違う“祠”の御姿を想像しておりました。
遠目に彼処の御社が御墓だと確認しつつも、それで祠は何処にあるのだろうか等と全く意味不明な事を考えておりまして……も…申し訳御座いません;;

最初に御祀りされた年代等、詳しい事は伝えられていないようで御座いますが、御墓というよりは、御家の守護神様として建立された祖霊社なのでは無いでしょうか。
もしかすると、覆殿になっていて中に墓石や供養塔のようなものが御神体として奉安されているのかもしれないな…等と、色々な想像を巡らせてしてしまいます。

幾度かの修復や再建を経て、現在の御社となられたようで御座います。

   平維盛の墓

 平安時代末期の武将で平清盛の孫・源平合戦の最中、屋島から逃れ高野山に入り出家。
まもなく、那智の海で入水したといわれている(享年二十七歳)
しかし、十津川村に残る伝承によれば、
「維盛は五百瀬に亡命し、その血統は代々小松性を名乗り、平家重代の宝刃小烏丸を伝え、屋敷は政所屋敷といった」
とある。
ここにある祠が、平維盛の墓と伝えられている。



五百瀬07


何と無く気になったのは、基壇の上に残されていた何かの台座?のような跡…。
単純に、自然災害等の影響で燈籠か何かが倒壊してしまったのかもしれませんけれど、宝蔵寺さんの事を思うと、つい 廃仏毀釈運動で何かが取り払われたのだろうかとも考えてしまいます。
私の勝手な憶測で御座いますので何の根拠も無いのですけれど、維盛様の御墓が御社の形を取られたのは近代に至っての事なのでは……という気も致します。
実際に五百瀬を訪れて、新たに抱いた疑問等も御座いますので、その辺りも今後調べていきたいところで御座いますね。

小高い中腹に位置する維盛様の御墓からは五百瀬の集落が一望出来、とても見晴らしが良かったです。
現在は道路両脇に家々が軒を連ねておりますけれど、当時は もっと民家も少なかった事と思われますので、今見えない場所までも見通せていたので御座いましょうね。
絶え間無く聞こえる清流の旋律も心地良くて…あぁ、だから この場所を選ばれたのかなぁと感じる場所で御座いました。

五百瀬08


御墓から政所前まで降りて来た時、五百瀬トンネル側から走って来た自動車の運転手さんが、腰抜田について訊ねて来られました。
直ぐ傍の案内板には、維盛様の御墓の事と並んで 大塔宮様の五百瀬通過伝説の事が記されておりますので、通り掛かりに それを御覧になって御興味を持たれたのだそうで御座います。

腰抜田は明治期の大水害にて川底に水没してしまい、石碑と案内板のみで 現在は面影を感じる事が出来ないのが残念で御座いますが、見えないけれど あの辺りに…!と思うと、とってもわくわくしてしまいますよね♪
目に見えるものだけが、歴史を伝える術では御座いませんもの。
形に遺せないものは、人が語り継いでいく事で遺していく事で後世へ繋いでいけたら素敵だと思うのです。
時代の変化と共に その形が変わっていく事も御座いますが、変化もまた歴史の流れの大切な一部。
それを感じられる事を、心から幸せだと思います。

五百瀬09


今回、五百瀬の伝承について教えていただきました、小松家の奥様で御座います。
維盛様直系の御家系という事で、御家に伝わる御話等を聞かせて下さいました。
その他にも、色々な御話をさせていただきまして…楽しい時間を過ごさせていただきました。
とても御優しい奥様で、笑顔が大変素敵で御座いました〜♪
日差しの強い暑い午後、一緒に歩いてまわって下さいまして、有難う御座いました。

五百瀬10


五百瀬への道程は、初心者の私には ビクビクハラハラの連続で御座いました。
然程広くも無い道路幅なのに、後続車も対向車も工事用のでっかいトラックばかりで…とにかく避けるのに必死で御座いました〜;
どうやっても避ける幅が無いー!!!と明らかに慌てていると、トラックから運転手さんが出て来て誘導して下さったりも致しましてー……色々と御迷惑を御掛けしてしまいました…も、ももも申し訳御座いません;;
あわあわしたり、ペコペコと頭を下げるばかりの私に、窓越しに笑顔を返して下さる運転手さんもいらっしゃいまして…あぁ人情が身に沁みますー(涙)

既に免許取得後の帰省の際に、広島と島根の県境付近にて険しい山越えルートは経験済みで御座いましたが、あの時は助手席に母が居てくれましたので……矢張り、ひとりだと流石に怖いなぁという気持ちと延々葛藤する羽目になりました(苦笑)

えー…っと、この後 何が起こったかについては、恐ろしくて思い出したくも御座いませんので敢えて語るまいとは思いますが…龍神への道程は本当〜に、恐怖…で御座いました;|||
久々に、本気で死を覚悟した あの瞬間の絶望感は、きっと一生忘れられません;;
今後も、十津川村内、龍神村内の史跡は巡っていく予定で御座いますけれど、もう2度と あの道路だけは走りませぬ…と、心に強く誓った私で御座いました。

* * * * * * * *
(※以下、私信で御座います)


この度、五百瀬の伝承地巡りをさせていただくに際して、色々な方に御助力を賜りました。
このようなところで御礼申し上げるのは大変失礼な事かと存じますが、こうして記事を書かせていただけるのも、偏に皆様の御蔭で御座いますので…先ずは こちらにて一言御礼を伝えさせて下さいませ。


小松昭子
本当に御世話になりました。
御話をさせていただいた上、政所や御墓へ御案内下さいまして、有難う御座います。
美味しい御茶とあたたかい御心遣いが、とても嬉しかったです。
共に慣れない運転にワタワタしてしまいましたけれど、無事に 夜には龍神へ到着し、熊野三山へ御参りを済ませて東京に戻って来る事が出来ました。
五百瀬には、そろそろ蛍も飛び交っている頃で御座いましょうか。
また是非、遊びに行かせて下さいませ。
この度は本当に有難う御座いました。


*全国平家会 小松和夫
小松の奥様を御紹介いただきました。
唐突な申し出にも関わらず、快く応じて下さいまして、有難う御座います。
維盛様の伝承地を巡る為に免許を取得したと言っても過言で無い程に行きたかった五百瀬の地を、自分の足で歩く事が出来て嬉しかったです。
事前、事後まで、色々と気にかけていただきまして、何よりも心強く感じました。
小松家縁の方々と御話出来る機会は、日常には無い事で御座いますので、私には この上無い幸せで御座います。
今後とも、どうぞよろしく御願い申し上げます。


十津川村教育委員会
最初に村役場に質問させていただきましたところ、教育委員会さんの方へ…と御紹介いただきまして、御連絡をとらせていただきました。
御忙しい中、地図や資料等を送付していただきまして、大変助かりました。
本当に、有難う御座いました。



前々から、十津川を通る度に ちょこまかと情報収集はしておりましたが、矢張り資料の上で見るのと実際に訪れて見聞するとでは、全く違うものだなぁと改めて実感させられました。
公共の交通機関を使わず、自分ひとりで車を運転して…というのも初体験で御座いましたので、とにかく緊張しっ放しで…それだけに、いつも以上に達成感のような感動を味わう事が出来ました。
今後も、十津川村について追及してみたい事、行ってみたい場所が色々と御座います。
十津川に伝わる諸々の大塔宮様関連地も巡りたいですし、歴史民俗資料館や公民館等で調べたい事も御座いますし、十津川温泉にも入ってみたいですし、谷瀬の吊橋も渡ってみたいですし、玉置神社にもまた参拝したいです〜。
併せて、車の運転にも慣れていきたいなぁと思っております。
初心を忘れず、精進して参ります〜!


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熊野なる 玉置の宮の 弓神楽 弦音すれば 悪魔退く
玉置さん1


熊野本宮大社から、国道168号線を北上……十津川温泉を経由し、平谷の橋を渡り、更に山を登って参ります。
古からの霊山として深く信仰され続け、熊野三山の祖、熊野の奥宮とも言われる玉置山玉置神社について記してみたいと思います。

実は、3月位からずっと書こう書こうと思い続けていたのですが、どうも奥の深〜い感じが私の探究心を燻るものですから、イマイチ踏み出せずにおりまして;
ちゃんと説明出来ないような気も致しますが、今の時点で記しておける事だけでも書いておきたいなと思います。

玉置さん2


駐車場の鳥居から、10分程度歩いた所から表参道が御座いまして、更にズンズン歩いて行きますと、御社殿前に辿り着きます。

私が行ったのは、未だ肌寒い…というか思いっきり寒い3月初旬頃で御座いまして、雪こそ降っておらぬものの、辺りには凍った水場や氷柱等をちらほらと見掛けました。
私は着物を着ておりましたので、割と暖かかったように思っていたのですけれど、気が付けば袖口がやけに冷えておりました(笑)

深い山中の静けさや、降って来るような霊気?神気と申しましょうか…とても清らかで美しいものだと感じました。
真直ぐに杉の木が立並ぶ中、私が歩いている場所だけ少し空間を避けて下さっているかのような錯覚すら覚える程で御座います。
何千年と生きる杉の大木には、神様が宿ると言い伝えられております。
この高く深い山の上で、何千年もの間、何を見、何を感じられた事かしらと考えると、不思議と少し切ないような気持ちにさせられるもので御座いました。

玉置さん3


世界遺産である玉置山は、大峰山系の一峰で御座いまして、古来よりの修験道と言われており、現在でも、現役の山伏さん方が厳かに修行、参詣されているのだそうで御座います。

修験道の開祖とされる役行者もこの地で修行したと伝えられ、空海(弘法大師)も修行を積んだと伝えられております。
858年に円珍(智証大師)が那智修行の後に、玉置山で修法加持して本地仏を祀って以降、玉置山の神仏習合が始まったと伝えられています。

玉置さん4


↑左側が、後白河院の御幸を記念して建立された石塔だそうで御座います。
室町時代中期の作という事に、妙に納得してしまったり…(笑)

御幸時の御詠歌が、

  忘るなよ 程は雲井に へだつとも
     なれて久しき 三熊野の月


右側の石塔が、和泉式部が玉置権現へ参詣した事を記念して作られた石塔とされております。
石塔の奥に御座います地蔵石仏は、室町後期の作だそうで御座います。

この後白河院と和泉式部の参詣について、神職の方に御聞きしましたところ、
「800年以上も前の事ですし、ハッキリとした史実が当社に記録されている訳では御座いませんので、実際はどうなんでしょうね〜。
 ここに参詣する為には、この険しい山を登って来なくてはならないでしょう。
 当時は、今のように途中まで車で登る事は無いのですから、相当な覚悟が無いと参拝なんて出来無いですよ。命懸けですからね。
 熊野三山へ参詣するついでにしても、こんな所を遠回りに経由してまで都から遥々来るかなぁとは思ってしまいますね」
との御話をいただきました。
成程……そうですよねー…。
特に、和泉式部の熊野参詣の事実自体が鎌倉期の創作であるという説も御座いますし……。
でも、そんな謎めいた所が、また更なる魅力を生んでいる訳でも御座いますよね〜。

玉置さん5


□ 玉置神社(たまきじんじゃ)

所在地:奈良県吉野郡十津川村玉置川
御創建:紀元前37〜33年頃?
御祭神:国常立尊
    伊邪那岐尊 
    伊邪那美尊 
    天照大神
    神日本磐余彦尊
通 称:玉置さん、玉置権現


玉置山は、神武天皇が東征の際に八咫烏に先導て兵を休め、神宝を置いて勝利を祈ったと伝えられる神体山です。
紀元前37年、第10代崇神天皇がに玉置山に行幸。
その4年後に玉置神社が造営されたという伝承も御座います。

飛鳥、奈良時代には役行者様が、平安期には弘法大師様が如意宝珠を埋納された場所ともいわれます。

中世以降は、玉置三所権現、玉置権現と呼ばれ、大峰75靡10番の行所であると同時に、十津川郷の総鎮守で御座いました。
神仏習合の社として京都聖護院の配下にあり、山中に7坊15寺を構える修験道場として栄えました。

長い間、神仏習合していた霊地ですが、なんと明治期の神仏分離令に先駆けて1868(慶応4)年に廃仏毀釈を行われたそうで…。
山中の7坊15寺を排して、仏像仏具類は山外寺に移動させたり、谷に投捨てたり、潔く焼捨てたり……そして“玉置三所大神”と称号を改め豆、更に後に“玉置神社”となったそうで御座います。
発令に先駆けて廃仏毀釈というのは、何と言いますか…凄く大胆な事で御座いますね;;
当時を思えば、思ってはいけないと知りつつも、矢張りもったいない…と思ってしまいます。。

御由緒書によりますと、

神武天皇東遷の際熊野に上陸後八咫烏に先導にて、この宮にて兵を休めたと伝えられています。
紀元前37年第十代崇神天皇、玉城火防鎮護と悪魔退散の為、早玉神を奉祀されました。
以来玉置となづけられました。
7世紀後半、役小角(役の行者)が大峰山を開いて修験道の本拠地となります。
玉置山は、大峰入峰修験の順峰双方向の拠点として栄え、山伏姿の修験者の往来が増えていきます。
天安2年(858年)天台宗智証大師が、那智の滝にこもり後当山にて修法加持し本地仏を祭られました。
これより以後玉置神社は神仏混淆となりました。
神武、崇神、景行、天武、清和天皇をはじめ花山院、白河院、後白河院、後嵯峨院などが参拝行幸されたと伝えられ、創建以来元禄年間まで、十数回の造営修復はすべて国費をもって行われました。
また役の行者、弘法大師、智証大師などもこの地で修行されました。


とありまして……わぁ、花山院も行幸!!!と少々、テンションが上がってしまう私で御座いました。

社務所奥には、1745(延亨2)年に狩野派一門である狩野法橋の高弟、橘保春らによって描かれたと伝えられる襖絵が御座います。
樹齢600年前後の杉の一枚板に描かれており、まさに圧巻で御座います。

玉置さん6


こちらは、玉置神社の摂社で御座います三柱神社

□ 三柱神社 □

御祭神:倉稲魂神
    天御柱神
    国御柱神


三柱神社はその昔、三狐神と呼ばれておりました。
つまりは、御稲荷さんの事で御座いますね。
なんでも、熊野地方の稲荷信仰の要だとか、全国の稲荷社の大基社だとか(!??…それは伏見稲荷との関連が気になりますね;)言われているようで、凄い謂れを背負っていらっしゃるようで御座いますね。

商売繁盛、五穀豊穣、大漁海上安全と共に、御神徳に挙げられているのが、なんと悪魔退散!!…だそうで御座いますー。
特に狐憑の除霊にかけては殊更霊験あらたかであったようで……。
御稲荷さんが狐バスターとは、何やら物凄いインパクトが御座いますね〜(笑)
そもそも、三狐神=みけつかみ=御饌津神という事で、元々は食物の神様であったようで御座います。
狐さんの事を古語で“けつ”と呼ぶ為、時の流れと共に、三狐神=狐の神様という考えが定着していったのではないでしょうか。
三狐神は稲荷神とも呼ばれた為、狐さんが神様の御使いであると考えられていったようです。

狐神と聞いて思い出すのが、辰狐王菩薩=茶吉尼天で御座います。
印度出身の神様で御座いますが、日本に入って神仏習合期以降は稲荷神、穀物神となって信仰されたと考えられております。
玉置山権現縁起によりますと、三狐神は天狐、地狐、人狐であり、熊野新宮の飛鳥(阿須賀)を本拠とする事、そして御本地は極秘の口伝だとされております。
どうやら、玉置山には廃仏毀釈以前は天狐王像が存在していたようで、その御姿は、正面は観音、右は天狐面、左は地狐面の三面六臂、足は鳥足で6本あったと伝えられ、その本尊の御本地は聖天、茶吉尼天であると記されております。

昔話に良く聞くように、かつては狐に憑かれる事が度々あり、そんな人々が遥々玉置山まで参って除霊を受けたそうです。
現在でも、動物憑等の悪霊退散の祈祷が拝殿にて行われているのだとか……。 

↑の画像にも御座いますが、社殿左横の木戸を開けて中に入りますと、御社殿の床下に丸い穴が開けられており、その手前に狐さんへの貢物を御供え出来るようになっております。
本当に、この御社には狐さんが住まれていらっしゃるのですよ〜!
白い狐さんがいらっしゃるのだとか…いいなぁ、私も御会いしてみたかったなぁ!!

玉置さん7


こちらは、境内内の末社である白山社
御祭神は勿論、菊理媛命〜

白山信仰や菊理媛命には、個人的かつ一方的な思い入れが御座いますので(苦笑)、嬉しかったです。
白山も修験道で御座いましたから、玉置山に修行に来られた山伏さん方が勧請されて来たのでは…と神職の方も仰っておりました。

その他、末社と致しまして
玉石社、若宮社、出雲霊社、神武社、水神社、大日社、三石社が御祀りされております。

玉置さん8


毎年10月24日に執り行われる例大祭では、ちょっと変わった弓神楽が奉納されているのだそうで御座います。
男子の神子が白弓矢を手に巫女の衣装で舞われるのだそうでー……皇族の御祈願にも納められた由緒ある弓神楽で御座いますが、不謹慎にも純粋な好奇心が募ります///すみません

タイトルの和歌が、その時に奉納される御歌なのだそうで御座います。
解り易い……といいますか、そのまんまで御座いますね。
何だか非常〜にオットコ前な印象を受けます……。

* * * * * * * *

あぁ……矢張り、とっても支離滅裂〜な内容になってしまっております…ね;;反省…。
玉置さんについては、何を読んでも調べても更に更に奥が隠れているように思えてなりません
難解な上に、行こうと決意して辿り付くまでが大変な場所で御座いますので、次に行けるとしたら自分でちゃんと免許を取ってから…という事になりますね〜ぅぅ(涙)

玉置さん9


* * * * * * * *
(※以下、追記です。)

訪れた時は知らなかった事なのですが、玉置神社には 平資盛様の落人伝承が伝えられているようで御座います。

玉置神社を古くより守護されてこられたのは、聖護院十津川氏、そして 資盛様の御子孫と伝わる玉置氏であったといいます。
平家物語において、資盛様は長門国 壇ノ浦にて最期の時を迎えられておりますが、玉置権現縁起によりますと 資盛様は一ノ谷落城後は河内伊勢に退かれ、玉置山へと入られて“玉置直虎”と改称、下野守を称されたとあるようで御座います。
十津川村折立の松雲寺(※廃寺の為、現存しない)に遺されていたという仏像掛札によりますと、玉置直虎という御方は資盛様の御長男であると記されているようで御座います。

玉置姓の御家は、十津川村内に約110戸、新宮市や日高郡、田辺市にも多く所在されているとの事で御座いますが、どの御家系も遡っていけば十津川に繋がり、資盛様に辿り着くので御座いましょうか。

熊野地方には、資盛様の兄 維盛様の落人伝承が数多く伝えられております。
維盛様の後を追って、資盛様も熊野へ入られたのか…小松家の方々にとって、熊野という霊場は、何処よりも特別なものであったのかもしれないと思う事も出来ます。
資盛様の伝承についても、今後もっと調べていきたいと思っております。 (平成20年7月31日 追記)


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