日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

実方院前で実方様を想う私。
那智山 実方院01


紀州熊野の那智山――こちらは、熊野那智大社の直ぐ下…那智大社、青岸渡寺へと続く御参道の石段脇に御座います、実方院跡。

□ 実方院跡(さねかたいんあと)

所在地:和歌山県那智勝浦町那智山


実方院は、那智山の宿坊。
同じく那智山の尊勝院と浜の宮の廊之坊と共に、那智三大宿坊数えられておりました。
上皇や法皇の熊野参詣の際にも、御宿所として利用されていたといわれる史跡で御座います。

ちなみに、以前 大門坂から壷装束を着て那智大社、飛瀧神社へ参詣した際に休憩がてらに立ち寄った御茶屋さんは、同じ敷地内に御座います〜。

   実方院跡
     和歌山県指定史跡
    中世行幸啓御宿泊所跡

 熊野行幸は百十余度も行われ、ここは、その参拝された上皇や法皇の御宿所となった実方院の跡で熊野信仰を知る上で貴重な史跡であります。
     熊野那智大社



“実方院”…“実方”…院……“藤原実方”様…!!!
初めて那智詣をした時から、ずっとずっとず〜…っと気になって気になって仕方がありませんでした。
熊野の那智山で“実方”が付く史跡といわれると、矢張り どうしても実方様と無関係であるとは思えず…。
単純に好き故の強引な連想のようで御座いますけれど、気になるのには それなりに?ちょっとした理由があるからで御座いまして(笑)

実方様を寵されたといわれる花山天皇は、即位して2年の後に19歳の若さで退位、御出家されて法皇となられました。
その背景には藤原氏の策略があったようで御座いますが、細かい事に関しましては、また いずれ詳しく記せたらと思っております。
法皇となられた後、花山院は 若干の御供と共に熊野詣に来られております。
那智山に辿り着かれた花山院は、那智の滝上流の二の滝付近に庵を結び、一千日の修行をなさいました。
花山院的にも、矢張り熊野の那智山は特別な地であると感じられたので御座いましょう…。
修行中の花山院と、それを追って来られたという安倍晴明様に関する逸話は色々と伝えられているようで御座います。
那智山にて修行を終えられた花山院は、西国三十三ケ所観音霊場を御巡礼。
この時の観音巡礼が、現在の西国三十三箇所巡礼として継承されているので御座いますね。

花山天皇の退位は、寛和2年6月23日(986年7月31日)
実方様が陸奥守として東下りをなさるのは、そこから約10年の後の事で御座います。
花山天皇退位後の実方様は、次の主上 一条天皇に仕えておられますが、その後も花山院と深い関わりを持っておられたと考える事も十分に可能であるように思います。
例えば、熊野に関する事であったり……とか。

那智山 実方院02


以前も記してはおりますが、後の熊野別当家は実方様の御子孫であるといわれております。
ただ、実方様から熊野別当家に繋がるまでの系図には諸説伝えられているようで…。

実方様は、紀州の左近将監 鈴木重豊様の娘を妻に迎えられており、その祖は熊野速玉神社の禰宜職に行き着くようで御座います。

かかる処に源平たて分れて合戦あるべき由聞えけり。
洛中騒動斜ならず。
如何なる遠国深山の奥までも聞えずといふ事なかりけり。
教真別当これを聞きて、
「我が身は不孝の者なれども、かからん時力をも合はせてこそ、不孝も赦さるべけれ」
とて、常住の客僧、山内の悪党等上下を嫌はず、催し立て、一万余騎の勢にて都に上りけり。
人々それを見て、
「これはいかなる人やらん。和泉・紀伊国の間にはか様の大名あるべしとも覚えず」
とて、委しくこれを尋ぬれば、為義の婿熊野の別当教真なり。
舅の方人の為にとて上りたる由言ひければ、為義もこれを聞きて、
「氏、種姓は知らねども、甲斐甲斐しき者なりけり。何なる人の一門ぞ」
と尋ぬれば、
実方中将の末孫なり
と申しければ、
「さては為義が下すべき人には非ざりけり。今まで対面せざりけるこそ愚かなれ」
とて、請じ寄せ、始めて対面す。
志の余りにや、重代一具の剣を取分けて、吼丸を婿の引出物にぞしたりける。
教真別当この剣を得て、
「これは源氏重代の剣なり。教真が持つべきに非ず」
とて、権現に進らせけり。 (平家物語 剣巻による)


以上は、平家物語剣巻の記述によるものなので余り一般的にでは御座いませんし、史実としても如何かなぁと思われるところでは御座いますが……藤原教真様は源為義様の娘 立田原姫と結婚し、その間に 源平合戦期の熊野別当湛増様が御誕生されたという事で御座います。
教真様は実方様の御子孫で、立田原姫は八幡太郎義家様より繋がる源氏の御家系で御座いますね。

尊卑文脈によりますと、湛増様は源為義様の養子という事になっておりました。

尊卑分脈より。


尊卑分脈では湛増様の御子様には湛全様の御名前しか記されておりませんが、田辺に伝わる伝承では、源義経様の忠心 武蔵坊弁慶様は湛増様の御子息であるといわれております。

   実方院

実方院、昔シハ三山之別当職を願ヘ、今ハ其事無、
是ハ実方中将之末孫也、中古堀内家より此院続、本苗は米良、皆鶴、皆石、昔此山ニあり、
師匠ハ佑蓮坊阿闍梨、皆鶴ハ拾八才ニテ五拾人カ、静憲法師、熊野之廊、此兄弟を申請、京に登、皆鶴を金剛左衛門俊行ト名乗、皆石を兵衛俊宗ト名永ク静憲へ仕へける、
此両人之屋敷三里、但切畑村金剛屋敷ト云処有、
 三年径し那智の御山のかひあらハ立帰り見ん滝のしら浪



熊野別当家は、熊野三山を統轄する地位を得ておられた御家系。
然し、源平合戦期以降…鎌倉中期の頃には次第に勢力が衰退していく事となります。
那智山では、尊勝院と共に実方院が台頭となって組織するようになり、室町期に至ると 那智山は実方院配下にあった諸院房の独占状態となったようです。
江戸時代に入る頃には堀内氏という後盾を失い、実方院米良氏は衰退していったといわれております。

……個人的に、いちばん知りたいのは“実方院”のネーミング由来なので御座いますが、流石に そこまではイマイチ良く判らなくて;;
多分、きっと…恐らくは!御先祖様である実方様に肖って名付けられたのであろうと強引に思い込む事に致しま…す;(自己完結/苦笑)

那智山 実方院03


2つの案内板に囲まれるように大きな木が立っておりますが、こちらは和歌山県の文化財にも指定されております、天然記念物の木斛さんで御座います。

   和歌山県指定文化財
   天然記念物 木斛

 この木斛の大樹は史跡中世行幸啓御宿泊所実方院の庭園にあって樹高十メートル余・幹回り一・八メートル樹齢四百年余という。
 木斛は七月頃に白色五弁の花を開き 果実は球状で暖地に自生し庭木として栽培されているツバキ科常緑高木である。
 木斛の大樹としては県下でも珍しいものである。
     熊野那智大社



これまでの記事や度々の熊野参詣からも実にあからさまでは御座いますが、私は本当に熊野が好きで御座います。
熊野で往生出来たならば、それは今生の私にとっては この上無い幸せなのでは無いかしらと思う位に、熊野という地は特別で御座います。

そんな熊野には、実方様や安倍晴明様、私が常日頃から追い求めて止まない源平合戦期の源平両氏縁と伝わる足跡や伝承が沢山篭められております。
それは、隠国…聖域であるからこその魅力なのかもしれませんね。

那智山 実方院04


……実方様と熊野との関連に触れたところで、とりあえず私の初恋☆実方様特集(?)はこの辺りでスッキリ!しておく事と致しまして(笑)
実方様に関する伝承や史跡、関連人物等については、未だ未だ色々と記しておきたい事が御座いますので、今後も折を見て更新して参りたいと思っております。

明日は、那智繋がり〜という事で 那智山近くに伝わる北条政子様の史跡“尼将軍”について。

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こひうたうたひ、こいうたかける。
01


JR山形駅東口より徒歩15分――千歳山萬松寺方面へと続く道路沿いに、藤原実方様の伝承が伝わる歌懸稲荷神社が御座います。

昨年以前に山形を訪れた時には時間の都合で立ち寄れなかったので御座いますが、どうしても気に掛かっておりましたので、今回の自動車学校入学に際して、ちゃっかり山形駅を経由して乗換の空時間を利用して参拝して参りました。

07


山形に来た初日の朝の事で御座いましたので、ゆ…雪!雪が…!!と慌てふためいてしまいました(笑)
これまでは なるべく寒い時期を避けて東北を訪れるようにしておりましたので(寒いのが苦手なので;)、地元の瀬戸内地方では見られない光景がとても新鮮に感じられます〜。
山形で過ごす日々には何故か不思議と余り寒いという感覚も無く、毎朝 扉を開けると雪景色…というのが むしろ感動的で楽しく過ごしております♪
こちらは未だ未だ冬なのかなぁと思っておりましたが、それでも少しずつ暖かくなっているようにも思えて、四季のある国に生きる喜びを 今季は出羽にて実感致しております。
ちょっぴり近況報告を致しますと、先日 早くも仮免に合格致しまして、現在は卒業試験を控えて勉強中の身で御座います。
何だか、とてもあっという間で…合宿なので結構ハードなスケジュールではあるのですけれど、もっと山形に長居したいな…東京に戻りたくないなぁというのが本音で御座います(苦笑)

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□ 歌懸稲荷神社(うたかけいなりじんじゃ)

所在地:山形県山形市十日町
御創祀:不詳
御創建:元和4(1618)年
御祭神:倉稲魂命、大市姫命、大国主命、猿田彦命、日本武尊、火産霊神


歌懸稲荷神社…とても素敵な名称で御座いますが、こちらの御稲荷様がこの名称で呼ばれるようになったのは、明治期の神仏分離以後の事。

神仏集合時代、こちらに在ったのは 真言宗宝幢寺の末寺 五仏山如来吉祥院
廃仏毀釈運動で吉祥院は廃寺となり、その寺内に御祀りされていた稲荷神社が、現在の歌懸稲荷神社として伝えられているようで御座います。

江戸時代、この付近には短冊に記した和歌を神仏に御奉納するという風習があり、和歌を詠まない者は渡らせないという橋もあったのだそうで御座います。
そんな習慣の裏付的な意で語られるようになった伝承なのかもしれませんが、平安時代 藤原実方様が千歳山の阿古屋松を訪ねてこの辺りを通られた際、こちらで御歌を詠み、御奉納なさったといわれております。
また、同じく平安期の名高い歌人であった 小野小町様が訪れられたという伝承もあるそうで……。

神社の御由緒書によりますと、御創建は江戸時代初期。
山形城主 斯波兼頼公が、山形城の守護神として城内に建立なさった事に始まると伝えられております。
最上家代々より篤く信仰されて来られたそうで御座います。

平成10年に改修が行われ、現在のような綺麗で荘厳な御社殿が建てられたようで御座います。

   歌懸稲荷神社の由来 十日町鎮座

 神社は、山形城主 斯波兼頼が山形城の守り神として城内に建立したのが、その初めと伝えられる。
 それより十代目 最上義定が山形城の部内に社殿を建て十二代目義光の時、天童城主との開戦に際して勝利を祈願するなど、最上家代々の信仰が厚かった。

 城主や城下の人々が、短冊に歌を書いて神社に奉納する風習があり、歌を詠まないものは渡らせない橋も付近にあったところから歌懸の名が起こったと伝えられている。
 元和八年 最上家が改易されて新城主となった鳥居忠政は人心一新をはかり、部内稲荷口(現山形駅付近)にあったこの社を、三の丸の外の現在地に移した。
 それ以後、このご縁日である十日ごとに定期市が門前で開かれ、十日町の名の起こりとなり、その年の最初の十日市(一月十日)を初市と呼ぶなど、城下町の人々と深く結びつき信仰をあつめ、現在に至っている。



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御本殿の丁度裏側は、山形城の三の丸跡地となっており、境内には山形城三の丸跡碑も建立されておりました。

   山形城跡
     昭和六十一年五月二十八日指定
     昭和六十二年七月九日追加指定

 山形城は、山形へと入部した斯波兼頼が延文二年(一三五七)に築城したもの、と伝えられています。
これを最も大きい規模に構築したのが山形城主最上義光で、文禄年間(一五九二〜一五九五)のことです。
 城は本丸・二の丸・三の丸を有する平城で、その規模は東西一四八〇m、南北一八八一に及んだと言われています。
まさしく平城としては全国有数の大きさでした。
 ここ歌懸稲荷神社境内の西側に残る土塁は、三の丸の東南方の十日町口に南接する部分にあたります。
昔を偲ばせる樹木が繁茂しており、東側には堀跡が窪みとなって残っています。
 現在は、二の丸の区域内(霞城公園)とともに、山形城跡として国の史跡に指定されています。
     平成四年三月 山形県教育委員会 / 山形市教育委員会



04


境内には、神仏集合時代の名残を多く見る事が出来ます。
さり気なく点在する庚申塔碑や、出羽三山の1山である湯殿山信仰の伺える石碑、商の神 市神様や大国主神碑、子育地蔵尊…様々な形で残されており、大変興味深く感じました。

05


境内末社には神明神社が御座いました。
元々、何かの祠が御祀りされていたのかもしれませんが、恐らく 現在の御祭神は天照大神であろうと思われます。

他にも、“天狗のつかみ石”なる大石も御座いました。
天狗さん…!
どのような御由来があるので御座いましょう〜と興味津々で御座います。

実方様に関する伝承は稀薄なもので御座いますが、阿古屋松までの距離を考えれば、有り得ない御話でも無いかなと思われます。
実方様は、こちらでどのような御歌を詠まれたのだろうかと想像しながら、雪積もる路上を歩いておりました。

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つれづれに伝え聞くは、橋本の御社。
上賀茂神社こと賀茂別雷神社について記した際、御末社である橋本社に関しては 個人的な思い入れが御座いますので改めて…と記しておりました。
その“個人的思い入れ”=藤原実方様関連という事だったので御座いますが(分かりやすいなぁ私…)、実方様に直接的な関連があったという訳では無く、勘違い的(?)な関連があったというべきなので御座いましょうか……。。

上賀茂神社 橋本社01


 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。
人の常に言ひまがへ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼びとどめて、尋ね侍りしに、
「実方は、御手洗に影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚、
  月をめで 花をながめし いにしへの やさしき人は ここにありはら
とよみ給ひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそさぶらはめ」
と、いとうやうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。

 今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌をよみて、かの二つの社の御前の水にて書きて手向けられけり。
誠にやんごとなき誉ありて、人の口にある歌多し。
作文・詩序など、いみじく書く人なり。 (徒然草 第六十七段による)


以上の徒然草 第六十七段の太字部分を意訳致しますと、以下のような内容となっております。

 賀茂別雷神社の岩本社、橋本社の御祭神は、それぞれ在原業平と、藤原実方です。
大抵の人は その事を言い間違えますので、ある年に御参りした際に、御高齢の神職を呼び止めて、尋ねてみましたところ、
「藤原実方は、御手洗川に影が映ったという故事がありますので、水場に近い橋本社の方なのでしょう。吉水和尚が、
 月をめで 花をながめし いにしへの やさしき人は ここにありはら
 “月を愛で、花を眺めたという古の風流な御人は、ここに在られる――在原業平様の事です”
という和歌を詠まれておりますので、岩本社の方に在原業平は御祀りされていると聞いているのですが、私等よりも貴方方のほうが良く御存知なのでは無いでしょうか」
と、大変丁寧に教えて下さった事が、とても感無量でありました。


現在、橋本社に御祀りされる御祭神は衣通姫神で1柱1座であると記されており、実方様…もしくは在原業平様を御祀りされているという事実は無いようで御座います。
実方様は京の貴族で御座いますし、賀茂の臨時祭にて舞人を務められた故事もありますので、賀茂社自体と全くの無縁であったという事は考えられない事であると思われます。
その上、橋本社は古来より和歌、芸能の神様としての信仰が篤い…という事から、あながち無関係では無いのでは無いかなぁという気もするのですけれど、実際のところ、真実は不詳――。
上賀茂神社にも、それに関する伝承、記録等は伝えられていないようで御座います。

現在、橋本社の御祭神とされている衣通姫は、絶世の美女といわれる御方で御座いますね。
古事記では允恭天皇の皇女であるとされ、日本書紀には允恭天皇の皇后 忍坂大中姫妹姫であると伝えられます。
皇族の姫というよりは、玉津島姫と同一視され、住吉明神柿本人麻呂もしくは菅原道真公と共に和歌三神に称される神様としての認識が高いように感じられますね。
一体、いつの頃から 衣通姫が橋本社御祭神として信仰されるようになったので御座いましょう。

徒然草の作者 吉田兼好様が生きられた時代は、鎌倉末期〜南北朝時代の頃。
以後も、この段の説話が兼好様の勘違いであるとされる文献等は特に無いようで御座いますし…中世においては 橋本社、岩本社に実方様、業平様が御祭神として御祀りされていたのかもしれない、と考えても悪く無いのでは無いかなぁと思わされてしまいます…というか、そう思いたいなぁという淡い希望も御座います(脱線)
または、古来より和歌の神様として歌人方に信仰されてきた御社であるという事から、もしかすると“風流な歌詠みとして名高い、かの実方公や業平公も こちらに参られた事でしょう”という仮定の噂が、時代の流れと共に拡張されて伝えられ、中世の頃には そんな民間伝承が広がっていたのかもしれません。

ちなみに…橋本社と混合されておられたという、業平様が御祀りされていたらしい岩本社で御座いますが、こちらも現在は違う神様が御祀りされております。
現代における岩本社の御祭神は、花筒男神中筒男神表筒男神の3柱の神様。
海上安全守護の神様として信仰されておられるようで御座います。

上賀茂神社 橋本社02


実は私、徒然草のこの段を密かにプチ再現(!?)しようと、上賀茂神社の神職さんを呼び止めて、
「上賀茂神社の橋本社には、藤原実方様が御祀りされていると耳にしたので御座いますが…」
と質問をしてしまいました…。
御年配の神職さんが見当たらなかったので、先ず 御若い神職さんにこれを御伺い致しましたところ、存じ上げませんという事で御座いました。
続いて、通りかかられた御高齢の神職さんに同様な事を御聞き致しましたら、
「何処で そんな事を聞いて来られたのですか?
 私は長年居りますが、そういう御話を耳にした事は無いですね。
 橋本社の御祭神は、衣通姫神様の1柱ですから…。
 それに、ここは賀茂氏縁の神社なので、藤原の人が祀られるという事は有り得ない事ですよ」
と真面目に御答えいただいてしまいました……も、申し訳御座いません;
神社の方は、意外と徒然草のこの件は御存知無いので御座いますね…別に神社の方を試そうとした訳でも意地悪で御伺いしたという訳でも無いのですけれど、もしも!万が一、実方様に関する情報が潜んでいたら…と思うと、つい…(苦笑)
でも、その御蔭で神職さんからは、上賀茂神社に関する御話を聞く事が出来まして〜得るものも多かったように思います。

上賀茂神社 橋本社03


↑橋本社の直ぐそば小川に架けられた小さな橋…楠橋で御座います。
上を渡っていても全然気が付かなかったので御座いますが、この石橋のように見える橋は、楠の化石なのだそうです。

この橋に肖った“楠箸”なる授与品も社務所にていただけるようで御座います。

   

楠橋(くすのきばし)

別名 長寿橋とも云い、一見石橋に見えますが、実は楠(くすのき)の化石であり、この橋を渡ると長寿になるという云われが古くより伝わっております。
この橋に因み、参拝の為にお渡りになる皆様が長寿であることを祈念いたしました「長寿箸」を隣の授与所にて授与しておりますので、御神徳をいただかれまして益々お健やかにお過ごし下さいませ。
     初穂料 一膳 一〇〇円
 長寿箸   上賀茂神社



上賀茂神社 橋本社04


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軌跡のひと枝、その葉先。
戸塚01


神奈川県横浜市戸塚区に伝わります、藤原実方様の伝承について。

↑は、JR戸塚駅前の周辺案内地図の一部で御座います。
ちょっと見え難いのですが、○印を付けております場所には“実方塚”と記されております。
こう見ると、駅から結構近そうに見えるのですけれどー…実際行ってみると、そうでも無いなぁと感じられます(苦笑)

その上、実方塚は、近年 何度か移転をされているようで御座いまして。
…どうやら、私の持っていた地図は古かったようで……付近に辿り着いたのは良いものの、どうしても実方塚を発見出来ず、彷徨ってしまいました;
近くに“実方塚”というバス停もあるのですけれど、バス停付近に何か案内が出されている訳でも無く、御近所を歩かれていた現地の方々に何度か御尋ねしたので御座いますが、意外と知っている方になかなか出会う事が出来ず、
「えー…実方塚っていうバス停はあるけど…本当に、そういう塚があるんですか?」
と逆に聞き返されてしまったり……凹;

1時間以上ウロウロしていたのですが、なかなか見付からず…日暮れも近いのに困ったなぁ、拒まれているのかしらと泣きそうになっておりましたら、犬の御散歩をなさっていた奥様が通り掛りましたので、縋るように御尋ね致しましたら、なんと御存知という事で!!
大まかな場所を教えていただいたので、今度こそ頑張って辿り着こうと意気込んでおりましたら、
「御散歩の途中だから、一緒に行きましょう。女の子ひとりじゃ、ちょっと怖いところだからね」
と言って、連れて行って下さったので御座います〜///
有難い事に、実方塚の旧所在地も教えて下さいましたので、併せて記しておきたいと思います。

戸塚02


実方塚は、元々この山の中にあったそうで御座います。
私が調べていた情報にも、小高い山の歩道脇にひっそりと…と付記してありましたので、恐らくはこちらの事であったので御座いましょう;

都市計画によって道路拡張の為に移動される事となったようで御座いますが、その道路というのが↑こちらの綺麗な車道なのでは無いかと思われます。
人が生活をする上で便利な環境を作る事を否定は致しませんけれど、どんどんと近代的に変わっていく故郷に対する想いと、それは良く似ていて…。
私のような余所者が意見する等 大変おこがましい事とは存じますが、古くより伝わるものの形が元のそれを失われてしまう事を思うと、矢張り手放しでは喜べない心地が致します。

かつて実方塚の両脇には、目印のように大きな松の木が2本立っていたのだそうで御座いますが、どちらも枯れてしまったそうで御座います。

戸塚03


こちらが、最初に移動されていた場所だそうで御座います。
現在地に移されるまでの仮設であったそうなのですが、何だか随分と民家や道路寄りであったようで…それはそれで、身近に感じられて素敵で御座いますね。

戸塚04


①の道を下って少し進んだ正面の足元には、小さく“左 実方塚”と書かれた道標が…!?
私、この道も3度位通っていたのに……と軽く落ち込みました(苦笑)
い…いえ、とても有難い事で御座います…見落としていた私が愚かだったので御座います;;
この道標碑の直ぐ左側から続いております細い小道を登って行きますと、実方塚に辿り着く事が出来ます。

戸塚05


↑ストロボ撮影+明るさを調整しておりますが…日暮れも近かった事もあって、実際はもっと暗い道程で御座いました。

私を案内して下さいました奥様とワンちゃんは、元気良く上へ上へと駆けて先導して下さいましたので、とても心強くて嬉しかったです。
有難う御座います〜///

戸塚06


そして…こちらが、実方塚の現在地。

□ 実方塚(さねかたづか)

所在地:神奈川県横浜市戸塚区上倉田町


実方塚は、実方様の供養碑並びに その御子孫と伝わる実方氏一族の墓所で御座います。

こちらに伝わる伝承によれば、実方様は東下りの途路、病気になられ この付近にて御亡くなりになられたと伝えられております。
つまり、実方様は陸奥国へ赴かれる以前に儚くなられてしまった…と。

これは どんな説話等にも伝えられていない、現地ならではの伝説で御座いますが、伺った当初は大変驚きました…。
随分とまた飛躍した伝承だなぁとも思えるので御座いますが、全く考えられないという事も無いような……気がしないでも無いような…(?)
主を失われた一族の方々は、実方様の菩提を弔う為に この地に留まられたという事で御座います。
実方様は、御早くに実の御父様を亡くされておられますので、家族を大切にしておられたようだともいわれております。
もしかすると、実方様は任地国へ御家族を伴っておられたのかもしれませんね…。
ただ、その後 実方様の御子孫を名乗る御後裔が歴史上に御名を残されておりますので、もし仮に そうであったとしても、全てでは無かったので御座いましょう。

また、御亡くなりになられたのは実方様では無く、実方様に付き従っておられた御方であったともいわれております。

戸塚07


実方塚は、とても綺麗に整備されており、縁の方々に とても大切にされている事が良く分かりました。
実方様を祖と仰ぎ、感謝と尊敬の念を抱かれている御家系の存在…客観的に見て、羨ましくもあり、嬉しくも感じられる事実で御座います。

移設工事の際、発掘調査も行われたようで御座いますが、残念ながら実方様に関する遺物は発掘されなかったようで御座います。

戸塚08


   実方塚

正四位下右近衛中将藤原實方朝臣
一条天皇 長徳元年(九九五年)
陸奥守となり東に下る

 御歌
かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ
   さ志もしらじなもゆるおもひを



   實方塚移設記念碑

     正四位下右近衛中将 藤原實方朝臣 御歌
  桜がり 雨はふりきぬ おなじくは
     ぬるとも花の かげに宿らん


中古三十六歌仙の一人侍従・右馬頭・左少将を歴任、正暦五年(九九四年)右近衛中将となる實方朝臣は蔵頭の行成卿と時の才女、清少納言をめぐり仲が悪く右記の歌のことで争い行成の冠を笏でたたき落し一条天皇の怒りに触れ陸奥守(宮城県)に左遷され歌枕を求め訪ね歩いた。
出羽国・千歳山阿古耶の松を訪れての帰り、陸奥国・名取郡笠島の道祖神前で落馬が元で彼の地にて没す。
長徳四年(九九八年)没後、墓前には西行法師・松尾芭蕉などの歌人が訪れそれぞれ歌を遺している。
     日本史文献より
平成十五年(二、〇〇三年)都市計画道路に位置するところから移転を余儀なく實方良穂が土地提供し實方稔が地権者となりこの地に安置する
     旧塚の構造遺跡調査等は裏面に記録する
   平成十七年(二、〇〇五年)四月   實方 稔書 (表面)



永い歴史と維持管理を続けてきた實方塚は都市計画道路、桂町と塚遠藤線と下永谷・大船線との交差点に当り仮設後この地に安置、既存の塚は三基から成り交差点上の旧塚から北の方向(下永谷・大船線)の道路上に点在し旧塚は現在の交差点上に有り一番北の一号塚までは八十米で中間の二号塚まで五十米、標高は海抜五十米の山頂に一直線上に配列、交差点路面より十六米の高さに有り、調査面積は二九五〇平方米におよび塚形成は三塚共、同じで山頂の地山を基壇状にした上に盛り土し築造され高さは一、二米の円形で基壇状部の直径は五〜六米で以前はこの旧塚の左右に高さ三十米有余の巨木(松樹二本)がそびえ名物な時代とあり明治・昭和の時代にそれぞれ枯死した、
工事に先駆け、横浜ふるさと歴史財団に依り調査名西見谷遺跡発掘調査が行われた
その結果實方に関する遺品となる物は全く無く、何時の時代かに一族が供養塔として建てたものと思われる、
永い歴史の行事として年二回、春秋實方佛の供養を続け平成十年(一九九八年)に一千年祭を催し又、同時期には墓の所在地宮城県名取市及び分骨されたと伝えられる山形県千歳山、萬松寺の一千年祭祀にも参加し交流を深めており改めて尊さを新たにし移設にあたり實方の由来と調査結果等を印しこれからも我々一族の祖先として弛みない尊敬の念を誓い続けるものである。   實方一族 (裏面)



なんと!
名取の実方様墓所や山形の千歳山萬松寺さんとも交流を深められていらっしゃるので御座いますね〜。
そういえば、名取の墓所には 実方様の御子孫らしき方が詠まれた御歌が奉られておりましたっけ…。

戸塚09


道すがら、案内をして下さった奥様が
「この辺りには、実方さんが多いのよ〜」
と言われましたので、
「え……“実方”…さん?“実方”っていう苗字の方がいらっしゃるんですか……?」
と御聞き致しましたら、
「うん、そうそう。前の地区長さんも確か“実方”さんって…。
 あ、ほらほら、この御宅も“実方”さんでしょ?ほら、こっちも。多いのよ、この辺りには。
 御子孫だって聞いてるんだけど……」
言われて ふと通りがかりの御宅の表札をチラリと拝見致しましたら、た…確かに“実方”さん…!!!

“藤原”さんでは無く、“実方”さん…なのですね〜!
不思議は不思議で御座いますけれど…でもでも、良く考えれば これは平家伝承地等にも見られる事…。
平家伝承地では、“平”姓を名乗ると源氏の追手に見付かるという懸念から、様々な姓に変えられて過ごされ伝わってこられたという場所が多いですね…勿論“平”姓や“平家”“平良”という姓も御座いますが。
例えば、平重盛様の御子孫伝承地には“小松”さんとか…“重盛”さんという御宅も御座いますよね。

ただ、実方様は別に姓を隠される必要等は無かった訳で……御子孫なのであれば、何故 現地に留まられたのか…また、何故に“藤原”姓を名乗られなかったのか――と疑問は湧き出でるばかりで御座います。
……等と、考え込んでおりましたら、
「詳しい事は解らないんだけど、昔この辺に実方さんっていう都の人が逃げ落ちて来たって聞いたような…追手に見付からないようにここまで来たのよね、確か…」
え……実方様落人伝承で御座いますか………!??

後で調べましたところ、どうやら実方様が謹慎中の御身であられた事から、京の藤原御一門に遠慮してか、藤原姓では無く“実方”を名乗るられるようになったという事で御座います。
戸塚地域には“実方”姓の御方は結構いらっしゃるのだそうで…皆様、実方様もしくは実方様縁の御方の御末裔であると伝えられているようで御座います。

戸塚10


えぇと…私は戸塚駅より徒歩で向かったので御座いますが、それなりに起伏のある地形で御座いますので、バスで向かう方が無難かと…;(笑)

“実方塚”というピンポイントな停留所名が素敵で御座いますね!

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くれなひに頬そめたるは べにすゞめ、おみやにこもるは菖蒲花。
雀宮


こちらは、栃木県宇都宮市雀宮に御座います雀宮駅。
東京方面から向かいますと宇都宮駅のひと駅手前に当たる駅で、この雀宮町は全体的に静かで とても穏やかな場所で御座います。

雀宮01


雀宮駅から10分程度歩いた場所には、地名の由来になったといわれる雀宮神社が御座います。

“雀宮”……雀好きには、何は無くとも単純に魅惑的な地名で御座いますが、その由来といわれる諸説のひとつに、藤原実方様と実方雀と思われる雀さんに関する逸話が伝えられております。

雀宮02


□ 雀宮神社(すずめのみやじんじゃ)

所在地:栃木県宇都宮市雀宮町
御創建:長徳3(997)年
御祭神:御諸別王、藤原実方朝臣?、綾女姫?


雀宮神社は、延喜式にも見られる式内社で御座います。
御祭神は、日本書紀にも御名の伝わる御諸別王
この辺りに本拠を構えて、東国を治められた御方といわれます。
実方様と綾女姫については、合祀されたという伝承があるようで御座いますが…詳細は不詳で御座います。。

雀宮神社は 清和源氏縁の御社でもあるようで、源義家様が奥州討伐の際に立ち寄り戦勝祈願をされ、平定後に再び この地を訪れられて、御社殿を造営なさったと伝えられております。
(なので、源平史跡に括るのもアリかなぁと思うので御座いますが…義家様は いわゆる“源平合戦期”よりは少し前の御方で御座いますし、なんとなく実方様の方が私の中では位置付けが上になってしまっているようで御座いますのでー…ここでは、藤原実方様関連に分類させていただきます;)

江戸時代に至ると、徳川将軍家 2代秀忠様、3代家光様が日光へ参拝される際にこちらに立ち寄られて天下泰平を祈願なさったといわれております。
また、御祭神 御諸別王が皇族であった事から、正徳3(1713)年に朝廷より金字の勅額を賜っておられます。
その為、参勤交代等でここを通られた諸大名の方々等は下馬の礼をとって御参拝されておられたのだとか…。
更に、宇都宮氏の始祖 宗円様が築城の際に四方へ配した守護の1つ 朱雀の御社として雀宮神社を信仰。
以後、宇都宮城主が遠乗りで御参拝される事もしばしばあったと伝えられます。

雀宮03


さて。
この地に残る実方様の伝承にも、“雀”が関与する事となっておりますが、こちらでは“入内雀”“実方雀”という呼称では無く、“紅雀”として伝えられているようで御座います。

陸奥守として東下りをなさる際、下野国を通られたといわれる実方様。
それから暫くの後に、実方様の若妻で“綾女”と名乗る女性が、夫を追いかけて京を発ち陸奥国へと向かっておられましたが、この地に辿り着かれた頃には重い病を患っておられたそうで御座います。
自らの死を悟られた綾女様は、村の女房達を集めて素性を明かし、もしも夫――実方様が後にこの地を訪れた際には、藤原氏代々に伝わる三種の神器を渡して欲しいと、人々に懇願の後に没されたと…。
これを哀れまれた村の方々は、綾女様を埋葬した塚の上に綾女神社を建立して御奉祀。

そして、そんな事を知る由も無い実方様は陸奥国名取郡笠島にて御逝去。
その後、実方様の御魂は紅雀と化して この地に飛来され、綾女神社の祠に入られ亡くなられたといわれます。
村の方々によって綾女様と共に御祀りされた実方様…それが 現在は、雀宮神社に合祀されているのだとか。

この伝承で気になるのは、先ず綾女様の存在についてで御座いますが…この御方については一切の御出自が不明。
藤原氏代々に伝わる三種の神器というのも気になるところなので御座いますが…藤原氏の三種の神器……?
そして、これを綾女様が御持ちになられていたという事にも、何と申しますか……一体、京で何があったのであろうかと悩まされてしまいます。。

出羽国の千歳山萬松寺さんの伝承でも、実方様を追って十六夜姫が参られておられましたが…この時代で、ここまで女性に追われていらっしゃる都の貴人というのも凄い事で御座いますね(笑)
実方様の奥州行きは、源平合戦期の平家都落ちとは また遥かに事情の違う状況では御座いますけれど、平敦盛様を追われた庄原市の玉織姫伝承然り…“○○様を追って、その縁者を名乗る女性が…”という伝承は、不遇の御最期を遂げられたといわれる御方には付物なので御座いましょうか。

雀宮04


こちらは、境内社の御稲荷様で御座います。
何故か大黒様と恵比寿様の像が数体、御社殿脇にちょこんと置かれており、可愛らしいなぁと思いました。


実方様と綾女様の伝承の他、雀宮の地名の由来には幾つかの説が御座いまして、
下野国の祖と伝わる雀部氏が この地の祖となり“雀宮”と呼ばれるようになったという説、
鬼怒川湖畔の諸神社に伝わる社名伝説“鎮めの宮”と雀宮神社が同一、同義の発祥では無いかという説 等々…どれも伝承で御座いますので、確かな事は伝えられていないようで御座います。

雀宮05


どうでも良い御話なので御座いますが…前々から源平の史跡巡りで雀宮駅を電車で通過する事が何度も御座いまして。
雀宮と実方様の関連の事を知って訪れる以前から、私は この駅を通過する電車の中から朱い鳥居を見ていたので御座いますけれど……実際に降りてみると、そのようなものは雀宮駅周辺には見当たらず、あれ?あれれ!??と驚いてしまいました。。
それ以前の事は全て見間違いだったのかしら…とも思うのですが、史跡巡り用の手帳には何度もしっかりと“雀宮駅から鳥居が見える”等と書き記してありまして;
私は一体、何処で何を見ていたのかしら…と疑問に感じております。
……意味不明な駄文で申し訳御座いません;;(笑)

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