
奥州一之宮、塩釜神社。
塩釜様は奥州藤原氏や鎌倉幕府、松尾芭蕉さんとも関係の深い場所で御座いますが、その前に…塩釜様といえば、塩釜明神様――平家物語に伺える、藤原実方様の阿古屋の松探しの際に所在を示された翁の正体が塩釜明神様であったと、謡曲や伝承として今も語られておりますね。
松島を訪れる前に、どうしても塩釜の地を訪れてみたくて…行って参りました(だから、松島で散策時間が無くなってしまったので御座いますが/苦笑)

真直ぐな石段の下に立った時、何となく宇都宮二荒山神社と似ているような気がするなぁ…と思いましたが、思いっきり気の所為で御座いました;(何それ…)
正面からパッと見た感じが似ているように思われたので御座いますが、いざ石段を登り始めると、そこに漂う空気は関東の神社とは矢張り違うもので。
一瞬、ここは何処だったっけ;等と間抜けな事も考えてしまいましたが、初めて訪れた塩釜は、私が事前に想像していた塩釜とは、色々な意味で かなり印象の違う場所で御座いました。
石段を登りきって唐門を潜ると、正面に左右宮拝殿が御座います。
この御社殿の左宮には武甕槌神が、右宮には経津主神が御祀りされております。
左右宮拝殿の手前右手側には別宮拝殿があり、そちらに主祭神 鹽土老翁神。
主祭神は、別宮にて御祀りされているので御座いますね…!
鹽土老翁神は、“しおつちおぢのかみ”と読みます。
神武天皇や山幸彦を導いたという伝説もある航海の神様であり、塩の神様、安産の神様としても、古来より信仰されてこられました。
実方様が出逢われたという翁が塩釜明神様であった…つまり、実方様は鹽土老翁神に御逢いになられたという御話になるので御座いますね。
これは、きちんと御挨拶をせねば!!という事で、気を引き締めて手水を済ませ、参拝させていただきました。

□ 塩釜神社(しおがまじんじゃ) □
所在地:宮城県塩竈市一森山
御創祀:弘仁11(820)年以前
御祭神:塩土老翁神、武甕槌命、経津主神
正式称:志波彦神社鹽竈神社
塩釜神社は陸奥国一之宮にして、全国の塩釜神社の総本社。
御創建年代は不詳で御座いますが、武甕槌命、経津主神が東北を平定した際に先導役を務められた塩土老翁神がこの地に留まられ、土地の方々に製塩を教えられた事に始まると伝えられております。
史料上での所見は、弘仁11(820)年撰進の弘仁式といわれており、その時点で朝廷より祭祀料を受けている事から、それ以前より存続されていた大社であった事が分かります。
ただ、古い時代の神名帳にはその名称が記載されていないそうで、神階昇叙の記録等も近世に至るまで窺えないという事で御座いました。
古代において塩釜神社がどのような存在であったのかは、はっきりと解明されていないようで御座います。
平安から鎌倉時代。
奥州藤原氏の時代には奥州藤原氏に、その滅亡後には鎌倉幕府によって陸奥の支配が行われました。
鎌倉幕府より発せられたという建久4(1193)年の文書には“一宮塩竈社”と記されており、この事から塩釜神社が陸奥国の一之宮として信仰を集めていた事が分かっているようで御座います。
文治6(1190)年に伊沢家景様が陸奥留守職に任じられると、その御子様 家元様より“留守”姓を名乗られて神官を従え、別当寺であった塩竈神宮寺の支配も行いました。
南北朝時代に入ると、東北においても内乱が起こり、留守氏は次第に勢力を失っていきます。
代わりに盛り上がってきたのが室町幕府の奥州管領で、留守氏に代わって陸奥を統率し塩釜神社を崇敬されました。
応安8(1375/南朝…天授元)年以前の編纂である諸国一宮神名帳に、塩釜神社は陸奥国一之宮“鹽竈大明神”として記されております。
然し、その後 室町期の大日本国一宮記によりますと、陸奥国一之宮は都都古和気神社となっております。
そして、近世…塩釜も矢張り、伊達な土地で御座います。
仙台藩伊達氏の篤い信仰によって御社殿の造営や鐘楼の再建、拝殿、長床の修繕等を度々に行われております。
現在の御社殿は、宝永元(1704)年に竣工されたもので、それ以後は20年毎の式年遷宮が制度付けられて現在も続けられているそうで御座います。
明治期に、式内社であった志波彦神社が同境内に遷座されました。
その為、現在の正式名称は“志波彦神社鹽竈神社”とされております。

左右宮拝殿前、御参道を挟んだ両側には“文治の燈篭”と呼ばれる燈篭が御座います。
これは、藤原秀衡様の御三男 和泉三郎忠衡様による御奉納の燈篭という事で…わぁ、一気にテンションが上がってしまいます!
忠衡様といえば、紀伊熊野古道 中辺路上における不思議な御出生伝承が真っ先に思い出されます♪
燈篭のには“文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白”の文字を読み取る事が出来ます。
屋外にありながら、約800年が経過した今でも、こうして状態良く保たれている事に驚きで御座いますね…!
間近でしげしげと拝見させていただきましたが、ちょっと触れたら崩れてしまいそうな様子も全く無く、堂々と根を張るように構えておられる姿に、心底感動させていただきました。
ちなみに…忠衡様は文治5年6月26日(1189年8月9日)に御亡くなりになられておりますので、この奉納は その3年ちょっと前の事になります。
吾妻鏡によれば、忠衡様の享年は23歳という御若さ……亡き秀衡様の遺志を継いで、最後まで源義経様派であった為に兄 泰衡様によって殺されてしまったと伝えられております…。

早朝朝、塩釜の明神に詣づ。
国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重なり、朝日あけの玉垣をかかやかす。
かかる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、わが国の風俗なれと、いと貴けれ。
神前に古き宝燈あり。
かねの扉の面に、“文治三年 和泉三郎 寄進”とあり。
五百年来のをもかげ、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。
かれは勇義忠孝の士なり。
佳名今に至りて、したはずといふ事なし。
誠に人能く道を勤め、義を守るべし。
「名もまたこれにしたがふ」
といへり。 (おくのほそ道による)
この日私が巡った塩釜を詣でて松島に至るルートは、芭蕉さんと同じもので御座いました。
あ…私は、電車を使っちゃいましたけれど(苦笑)
芭蕉さんも、当時から500年程前に奉納された忠衡様の燈籠を御覧になって感動されている事を書き残されていらっしゃいますね〜。
おくのほそ道に、忠衡様は勇義忠孝の士であったと記されている事が堪らなく嬉しい私で御座いました///

燈篭の近くには、珍しい日時計も御座いました。
日時計といえば…小学生の頃、校庭の隅にあった日時計が妙に寂しく思えて、国語の時間に それを詩に書いて提出したら先生に絶賛されて学級新聞に載せていただいたなぁーという微妙な思い出があるのですが(笑)、こちらの日時計は小学生の時の記憶にあるものよりも、もっと厳粛で西洋的な趣があるように感じました。
これは、長崎で天文や地理を学んだ林子平氏によって奉納されたもののレプリカなのだそうで、本物は博物館の方に展示されているようで御座います。

塩釜神社には、境内社として神明社、八幡社、住吉社、稲荷社が御祀りされておりました。
この他にも幾つかの境外社があるそうで御座います。
和歌好きと致しましては、いつか籬島に御祀りされているという曲木神社へも詣でてみたいもので御座います。




“歌枕、探して参れ”
宮中で藤原行成様に対して起こした事件が元で陸奥守に任じられ、遥か みちのくへと旅立たれる事となった藤原実方様。
山形市の千歳山萬松寺さんでは、阿古屋の松を探し当てるよう命じられた実方様は陸奥の有名な3老松の1つである阿古屋の松を尋ねてまわられ、その際に松島にも立ち寄られたと伝えられているようで御座います。
阿古屋の松は、古来より詠われてきた有名な歌枕――という事になっておりますが、以前にも記しております通り、これは平家物語の創作では無いかという考え方もされており、確かな事は判っておりません。
松島の名称の由来や沢山の松が植えられる事となった経緯に、鳥羽院もしくは北条政子様による寄進説が御座いますが、どちらも平安末期の御方。
では、それ以前の松島は どのような景観であったので御座いましょうか。
現在に伺えるような松島信仰の形跡は、主に中世以降の特徴が多いようで御座います。
実方様は、何か思い当たる事があって この地へも足を運ばれたのでは無いかと思われるので御座いますが…。
日本三景に数えられる松島は、平安期より有名な歌枕として数々の御歌に詠まれて参りました。
平安期……もしかすると、それよりも もっと古い時代からの事なのかもしれないのですけれど、それを裏付けられる御歌は伝えられておりません。
松島を詠んだ御歌で現存する最古のものは、応徳3(1086)年編纂の後拾遺和歌集に収録されております、源重之様の御歌なのだそうで御座います。
重之様は、実方様の陸奥行きに同行された御方で御座いますね…。
松島や 雄島の磯に あさりせし
あまの袖こそ かくはぬれしか
詞書は“題しらず”
“こんなにも濡れる袖といえば、松島の雄島の磯で漁をする海女の袖 位のもので御座いますよ…私が、どんなに待ち焦がれて涙を流したか御存知では無いのでしょう”
“歌枕、探して参れ”…重之様は、実方様と共に この地へ来られたので御座いましょうか。
実方様は ここで阿古屋の松に辿り着く事は出来なかったようで御座いますが、その頃から既に“松島”という総称がされていた事は判りますね。
ちなみに、清少納言様も松島を詠んだ御歌を とある御方に送られていらっしゃいます。
これについては、また いずれ別の機会に記したいと思っております。
重之様の この松島の御歌を本歌として詠まれたのが、小倉百人一首にある殷富門院大輔様の御歌で御座いますね。
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
濡れにぞ濡れし 色は変はらず
“雄島の海女の袖でさえ、濡れに濡れたところで色が変わったりはしないでしょうに。
私の涙は、こんなにも私の袖を濡らして色を変えてしまった…見せたいもので御座いますよ”
この御歌は、重之様の御歌に対する御返歌のようでも御座いますね。
殷富門院大輔様は平安末期の女流歌人で御座いますが、時代を超えて恋の問答をされていらっしゃるような感じが素敵だなと思います。




□ 源 重之(みなもとのしげゆき) □
生 年:不詳
没 年:長保2(1000)年頃?
実 父:源兼信
母 :不詳
養 父:源兼忠(伯父)
義兄弟:能正、能遠、女(藤原済時室)、女(藤原兼家妾)
妻 :不詳
子 :有数、為清、為業、重之女
官 歴:天暦4(950)年、帯刀舎人長
康保3(966)年、播磨介
康保4年10月(967年11月)、右近将監→左近将監
康保4年11月(967年12月)、従五位下
安和2(969)年、相模権介
天延3年正月(975年2月)、左馬助
貞元元(976)年、相模権守
天元年間(978〜983年)頃、肥後守、筑前守
源重之様は、藤原実方様と大変繋がりの深い御方。
共に三十六歌仙に数えられ、また藤原定家様の小倉百人一首にも御歌を採られている有名な歌人でも御座いますね。
重之様は、清和天皇の曾孫様。
源兼信様の御子様として誕生されておりますが、伯父様の兼忠様の養子となられております。
皇太子 憲平親王(後の冷泉天皇)の帯刀先生として東宮様の護衛を務めておられた頃、百首歌を東宮様に献上されております。
その百首は“重之百首”として家集 重之集に収録されており、現存する中では最古の百首歌といわれております。
重之集冒頭部分には“しげゆきに歌たてまつれと、うちよりおおせごとありければ、たてまつりける、あたらしうよみて”とあり、東宮様の御希望によって新たに春夏秋冬の各20首、恋10首、恨10首と、“かずのほかにたてまつれる”として詠まれた2首…合計102首の御歌を見る事が出来ます。
百人一首の48番“風をいたみ 岩うつ波の 己のみ くだけて物を 思ふころかな”は、この内の恋歌で御座いました。
冷泉帝が即位されると、重之様は右近将監、左近将監に任じられます。
その後は余り華やかな官職に恵まれていらっしゃらない御様子で御座いますが、歌人としての才と その御人柄には、人を惹き付ける魅力が兼ね備えられておられたのかもしれません。
貞元2(977)年には三条左大臣 藤原頼忠様の歌合に参加され、御自身でも歌合を開かれておられたようで御座います。
従五位下、地方官…都の貴族としては、この不遇は矢張り肩身の狭いものがあった事と思われます。
その背景に、どのような事情が見え隠れしていたのか…今となっては知る由も御座いませんが、次第と都から遠ざかった生き方を自ら選ばれているような……いえ、そうせざるを得なかったのかも…しれません。
正暦2(991)年以降、参議、兵部卿を辞任して大宰大弐になられていた藤原佐理様を頼って太宰府へ赴かれ、身を寄せられた事が伝えられております。
佐里様は、小野道風様、藤原行成様と共に三蹟の1人に数えられた御方。
重之様は、佐理様が九州へ下向される際、請われて書の手本となる御歌を詠まれておられます。
その後…長徳元(995)年以後、重之様は 宮中で藤原行成様と諍いを起こして一条天皇の怒りに触れ、陸奥へと左遷させられた藤原実方様に同行されておられます。
実方様とは歌人としての御付き合いで、仲を深められておられたので御座いましょう。
――けれど、この辺りの出来事…どうも靄が掛かっているように私には思えて…何を知っているという訳でも御座いませんが、無性に気になって仕方が無いので御座います。
実方様は“歌枕見て参れ”と主上より陸奥へと飛ばされた事になっておりますが、主上は それと同時に実方様の都離れを惜しまれてもいらっしゃるようで御座います。
陸奥守という職を与えられ、下向には重之様を伴われた実方様……そして、余りにも疑問が残る名取 笠島での御最期…私の中には、常に嫌な予感が消えずに留まっております。
実方様と重之様は歌人同士…みちのくの様々な景観を共に目にし、歌枕を数えられておられたのかもしれません。
重之様は、名取の郡を詠まれた御歌“あだなりな とりの氷に おりゐるは したよりとくる 事はしらぬか”も残されていらっしゃいますね。
重之様は、実方様亡き後も陸奥に留まられ、長保2(1000)年頃 享年60歳余で御亡くなりになられたといわれております。
都に戻る事の無かったという重之様。
重之様が見られた景色には、どんな色が映っておられたので御座いましょうか…。
重之様と交遊の深かった歌人として筆頭に挙げられるのが、平兼盛様。
兼盛様は重之様の親友と称される事も御座いますが、それだけ御2人の間に強い絆を感じさせられるという事なので御座いましょう。
また、兼盛様は重之様の妹様方に好意を抱いておられたようで、陸奥に下られた後も御歌を送って来られております。
重之様は御家族共々、陸奥へ入られたので御座いましょうか…これについては、実方様にも もしかして?と思わされる事が御座います…。
重之様の御子様について…。
尊卑分脈によりますと、重之様には三男一女があられたという事になっております。
重之様の娘様は、御父様の才能を受け継いでいらっしゃったようで、新古今和歌集以降の勅撰和歌集にしばしば御歌を見る事が出来ます。



こちらは名取市に御座います、たこうやさんという御菓子屋さん。
先日、伊達色な仙台駅で萩の月を購入した事を記しましたが、実は今回 何が何でも!!という勢いで求めていた御菓子は別に御座いまして。
なんと、たこうやさんは実方まんじゅうという藤原実方様に因んだ御饅頭を製造、販売されていらっしゃる御店なので御座います!
前々から、名取を訪れる度に買わなきゃ買わなきゃと思いつつも、時間が無くて御店まで行けなかったり、駅の売店に置いているかと思ったら無かったり…と、悲しい程に御縁が御座いませんでした……が!!
今回は、その為に仙台に宿をとったといっても過言では御座いませんっ(笑)
名取に着くと先ず、たこうやさんの場所を営業時間の確認をした私で御座いましたが、その前に矢張り実方様に逢いに行かなくちゃ…という事で、愛島の墓所を目指しました。
御墓参り後は、名残惜しい気持ちを引っ張りながらも名取市内の気になる史跡や寺社等を巡り、再び たこうやさんの所まで戻って来る事には、すっかり日が暮れておりました。
いざ!と意気込んで、たこうやさんの自動ドアを開きます。
思っていた以上に沢山の美味しそうな御菓子が沢山並んでおり、期待も一層膨らむなぁと実感しながらショーケースを端から じっくりと眺めさせていただいたので御座いますがー………あ…れ…?……“実方まんじゅう”らしき案内も商品も、一向に目に飛び込んで参りません;;
おかしい…私が実方様の御名前を見逃す筈が…と思い悩んでいると、店員さんが御声を掛けて下さいましたので、
「あの、実方まんじゅうは……」
と言い掛けると、
「あー…実方まんじゅう、今日は もう売り切れちゃったんですよー…」
……………ガァーン;||| あぁぁ、矢張り来るのが遅過ぎたのでしょうか…。
そ、そんな〜…と思わず泣きそうになりながら、
「 いつも、この時間には売り切れてしまうのですか?」
と聞くと、
「いえ、いつもは普通にあるんですけど…今日に限って、つい先程 全て売り切れてしまいまして」
それって、単純に運が悪いと申しますか…私と実方まんじゅうには御縁が無いという事なので御座いましょうか………凹。
で、でも、めげない私!
「あ!仙台駅にも御店がありましたよね。
そちらでなら購入出来ますでしょうか?」
「御店はあるんですけど、実方まんじゅうは名取だけなんです;」
…め…めげないー…(往生際悪)
「では、明日来れば大丈夫でしょうか?」
「そうですね…明日には、また並びますから。
御急ぎだったのでしょうか?」
「あ、いえ…急ぎというか、えっと……中々、名取に来られる機会も少ないものですから;;
でも、こちらでしか購入出来ないのなら、明日また来ますので」
「はい、実方まんじゅうは名取の御店にしか置いていないので、ここと駅の向こう側のコープにしか置いてないんですよ、御免なさいね…」
…!??
「え…、コープさんにも置いてあるのですか?」
「はい、あちらにも御店が入っておりますから……あ、向こうには未だ残っているかも」
なんと!実方まんじゅうは、未だ 私にチャンスを残しておいて下さいましたか…(感涙)
という訳で、既にホテルのチェックイン予定時間を過ぎておりましたが、それより何より実方まんじゅう!!!(苦笑)
御店の方にコープさんの場所を確認して、猛ダッシュで向かう事に致しました。

いざいざ、コープみやぎさん!
多分ここだろうなぁと思っていた通り、コープさんは駅前の実方通に面するスーパーマーケットで御座いました。
コープは会員でなければ御買物が出来ないという風の噂を聞いた事が御座いましたので、大丈夫かなぁ大丈夫かなぁとオドオドしつつ、たこうやさんを目指します。

ついに発見…こちらの壁には、“実方まんじゅう”と記されたPOPも掲示されておりまして、感動も一入で御座いました。
実物も、ちゃんと見本や商品が綺麗に並べられており…本当に嬉しかったです。
何個入りにしよう等という事はサッパリ考えておりませんでしたので、ここで凄く悩みました(笑)
大きな箱に一杯入っているものも気になったので御座いますが、賞味期限や その後の移動距離を考えたら、余り沢山は難しいかなと思いまして、小さなパックに6個入りの実方まんじゅうを購入させていただきました。

パッケージに書かれた“光源氏の里なとり”の文字に、郷土愛を感じます〜♪
個人的には、正直余り 実方様=光源氏のモデルという印象を抱いていないので御座いますが、もう何だか無性に嬉しくなってしまいまして。
御味の方で御座いますが、私が想像していた御饅頭とは少し違って、黒糖の甘味が優しく口の中に広がる、とても美味しい御菓子で御座いました。
実方様の味ー…と、既に危ないレベルにまで達してしまっている私で御座いますが、本当に美味しくて、御茶菓子にぴったりだなと思いました。

クラさんも、大変御気に召している御様子で何よりで御座いまする(笑)
今度は、たこうやさん本店でも実方まんじゅうが買えるように、少し早めの時間に行きたいなと思います。



どうしてだか突然に、藤原実方様が恋しくなって、先月 唐突に訪れてしまった名取の墓所。
久々の御墓参り…実は、ずっと秋に来たいと思っていたので御座いますが、中々 都合が合わなくて……結局、季節は冬となってしまいましたが、私の求めていたものは、確かに ここに御座いました。

実方橋を渡ると、あら…掲示板が設置されたので御座いますね〜!
御墓前献詠会で詠まれた優秀作品が展示されておりました。
昨年11月に取市教育委員会の文化振興課文化振興係様より送っていただいた短歌集を拝見しながらも思った事なので御座いますが、名取の子供達は、小さい頃から実方様の御歌に触れ、短歌を詠む心を養われているので御座いますね〜…いいなぁ。

芭蕉さんの句碑の直ぐ奥に御座います、草鞋塚碑を取り囲む かたみの薄。
これまでは夏以前にしか来た事が御座いませんでしたので、いつも青々としている印象のあった かたみの薄…盛りを迎え、過ぎた頃だったので御座いましょうけれど、それでも眩しく金色の光を放っている事に心から感動致しました。
かたみの薄は、西行様が詠まれた御歌“くちもせぬ 其名ばかりを とゞめおきて 枯野のすゝき 形見にぞ見る”にある薄のようで御座います。
当時の墓所入口付近は、もっと薄が生い茂る原っぱであったのかもしれません…。
今は、たったの これだけしか残されていない微かな存在。
縁が枯れてしまう事を拒むように、姿は細くとも しっかりとした存在感を感じさせられる薄で御座います。
かたみの薄
有名な西行法師のうたの「かたみのすゝき」である。
これは、中将の墓の入口から数歩、仙台の歌人馬年の歌碑のそばにある。
残り少なく、数葉が秋風に細々と靡いている程度、記念に取られたものか。
この薄、葉は細く、生えているせん毛が少ない。
(名取市史による)

私は、薄が好き……という表現は余り しっくりこないのですけれど、何処か特別な植物という感覚が御座います。
いつの記憶か、夢の中の出来事なのかは定かで無いのですけれど、ざわめく薄の原っぱに切なさを憶わずにはいられない、と申しましょうか…。
綺麗と感じるよりも、悲しい、怖いと直感的に悟ってしまって。
それなのに、どうしても身を寄せる事を止められない魅惑的な存在でもあり。
勢い余って手を伸ばせば、痛い思いをするという事は何度も経験して判っている筈で御座いますのに、無ければ無いで 探し求めてしまう…不思議な気持ちで御座います;
実方様は、どのような視線で この薄を見詰めておられたので御座いましょうか。
薄は、何を知っているので御座いましょう…。

そして、墓所へ。
ここは…本当に、綺麗な場所で御座います。
一瞬、時が止まったかのような錯覚に陥るので御座いますが、静かでも確かに時間は動き続けているのだという事を教えてくれるので御座います。
…私が今、ここに生きているのだという事も。
これまでは、季節が季節だからと思っておりましたが、今回初めて そうでは無かったのだなぁと感じさせられました。
止まっているように見えるからといって、止まってしまう時というものは、生きているものである限りは決して無いのだと。
抽象的で申し訳御座いませんが、誠に その通りだと思いました…。

墓前に御参りをした後、少しの間 その場で呆然としておりましたが、折角なので今回も和歌を投稿して帰る事に致しました。
余り働かない頭のままで御座いましたので、自分が何と詠んで投稿箱に入れたのか…今となっては、さっぱり思い出す事が出来ません…凹。
あぁ;私の事で御座いますから、また おかしな事を書いて投稿してしまったのでは無いかと不安で仕方が御座いませんが、過ぎた時は過ぎた時で御座いますので、暫くは忘れておく事に致します(苦笑)





