日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

うみを見渡す長谷の御堂に惹かれつつ、愛でる華花うつくしきことかな。
鎌倉 長谷寺01


紫陽花の季節になったら、鎌倉の長谷寺さんについて書こう〜♪
……と前々から決めておりましたのに、気が付けば もう文月;
ちょっと遅いのでは無いかね?と自分に突っ込みたい気持ちをさり気無〜く遠ざけて、本日は 紫陽花寺として大変有名で御座います、長谷寺さんについて記したいと思います(笑)

鎌倉 長谷寺02


長谷寺さんといえば、“御花の御寺”さん!
眼下に町並と海を眺望出来る散策路に咲き乱れる紫陽花が絶景を更に盛り上げる事が特に有名では御座いますが、1年中を通して四季折々の花々が常に境内を鮮やかに彩る事でも広く知られております。
それ故に、いつ訪れても大勢の人で賑わっていらっしゃいますので、人混みの苦手な私は なるべく御天気の優れない平日の朝か夕方に詣でるように致しております…(苦笑)

長谷寺さんは、上下に境内地が分けられており、下境内、上境内 それぞれが美しい景観を生み出しておられます。
入山口直ぐの場所には妙智池と放生池があり、周囲は回遊式庭園になっております。
私は6月の中頃、雨降り予報の出ていた平日の夕方に参拝させていただいたのですけれど、入山制限は無いものの、それでも矢張り結構人はいらっしゃるのだなぁという感じで御座いました。
殆どの方が紫陽花目当てのようで御座いましたが、御池周辺に咲く様々な花々に早くも皆様心を奪われた御様子で、写真撮影に夢中になっておられました〜。
私は、そんな方々の生きた表情を見るのが とても好きで御座いまして…来て良かったなと思いました。

鎌倉 長谷寺03


こちらは地蔵堂。
上境内と下境内を繋ぐ石段の途中に御座いますので、中腹辺りになりますでしょうか…沢山の御地蔵様が ずらっと整列されており、奥寄りに囲い込むようにして地蔵堂が建立されておりました。
長谷寺信者の方々の発願によって建立された地蔵堂で、平成15年に再建されて現代に至っているそうで御座います。
堂内の福壽地蔵も、その際に造立されたもの。
真新しい綺麗な御姿で、優しい御顔立ちをされている事が印象的で御座いました。

鎌倉 長谷寺04


下境内より順路に従って石段を上り、地蔵堂を経て上境内に入りますと、御本堂の手前に御稲荷様が御祀りされていらっしゃいます。
こちらは、かきがら稲荷 と呼ばれる御稲荷様。
“かきがら”とは海中でくっ付く貝の事のようで、御本尊が海に流され漂流していた時に、海中で貼り付いた その貝が御尊像を長井浦へと導かれたといわれ、御祀りされているという事で御座います。
……個人的には、“かきがら”を御祀りされているのに、御稲荷社なのは何故なのかしらという疑問も感じるのですが、もしかすると“かきがら”を御神体として御祀りされていた祠に稲荷神が合祀され、併せて繁栄を願われるようになったのかもしれませんね。

   かきがら稲荷大明神

長谷観音が有縁の地で人々を救いたまえと海に流された時尊像に付着した「かきがら」がこの地に導いたと言われ観音さまのお導びきがあるようにとお祀りしている



この近くには墓地があり、かきがら稲荷様の前の細道の脇に小さな五輪塔がずらっと並んでおりました。
パッと見た感じでは鎌倉期頃のものでは無いかな…と思われるのですけれど、それぞれの謂れ等、詳しい事は分かりません;
また、墓地の手前側から覗いただけでも、歴史を感じさせられる様々な墓塔を何基も見る事が出来…中には、随分と建立年代が古いように見受けられる五輪塔等も御座います。
台石部分だけ最近のもので、上部分は もっと以前のものと思われる宝篋印塔や笠塔婆等もあり、大変興味をそそられてしまいます。
御寺の方に御伺いしてみたい…とも思うのですが、いつも大勢の参拝客を相手に御忙しそうにしていらっしゃいますし、何より こちらは普通の方々の御霊も多く眠る墓地で御座いますので……観光で参拝される方が多い中、私ひとりが興味本位で そのような事を御尋ねするのは余りにも無礼な事と思い、想像に留める事に致しております。。

鎌倉 長谷寺05


□ 長谷寺(はせでら)

所在地:神奈川県鎌倉市長谷
御創建:天平8(736)年?
御開基:藤原房前
御開山:徳道上人
宗 派:真言宗?→浄土宗→浄土宗系単立
山 号:海光山
御本尊:十一面観音
院 号:慈照院
旧 称:新長谷寺
通 称:長谷観音


創建年代について、確かな事は分かっていないようで御座いますが、長谷寺さんの伝承によれば奈良時代――天平8(736)年の事であるという事で御座います。
御開基は、大和の長谷寺と同じく徳道上人であるといわれ、更に大和 長谷寺の十一面観音像と同じ木材で造られた十一面観音像を御本尊として開かれたといわれております。
…先程、かきがら稲荷様のところで御本尊が海に流され漂われたと記しましたが、なんと漂流期間は15年間であったといわれ、相模の三浦半島に流れ着いた後に、この地に安置され寺院建立となった事が伝えられております。

大和 長谷寺の分身のようにも感じられますので、創建当時は真言宗の寺院だったのでは無いかなと思われますが、江戸期に至った 慶長12(1607)年、徳川家康様による伽藍修復の際に中興開山となり、浄土宗へと改宗されていらっしゃいます。
長谷寺さんには鎌倉期以降の遺産が多く現存しており、長きに渡って時の権力者から保護や支援を受けていた事も記録されているようで御座います。
明治期以降は単立寺院として現在に至っておられます。

鎌倉 長谷寺06


観音堂の向かって右隣には、源頼朝様縁の阿弥陀堂が御座います。
こちらに安置される阿弥陀如来坐像は、伝承によれば頼朝様が42歳の厄除けの為に建立されたものといわれ、現在は廃寺となっている誓願寺という御寺さんの御本尊として造られたものであったといわれます。
長谷寺に遷されたのがいつの頃の事なのかは分からないのですが、移設当初の阿弥陀堂は、現在 地蔵堂が建立されている石段途中辺りに建てられていたようで御座います。
阿弥陀様は、頼朝様の伝承に倣って“厄除阿弥陀”と呼ばれ、信仰を集めているという事で御座います。

鎌倉 長谷寺07


こちらは、“まわり堂”と呼ばれる輪蔵。
この奥の傾斜に ずら〜っと紫陽花が咲き並んでおり、紫陽花に囲まれた小さな御堂という感じで大変絵になる光景で御座いました。

   輪蔵

輪蔵は中国、粱時代(五世紀)の学者傳大士の発明によるもので、蔵内には一切経が納めてあり、時計回転方向へ一回まわすと一切経を一通り読んだと同じ功徳があると云われております.
     長谷寺



鎌倉 長谷寺08


下境内の奥には、弁天様を御祀りする洞窟 弁天窟が御座います。
とても神秘的な堂内で…いろんな意味で、こちらは緊張致します…。

鳥居を潜って中に入ると、周囲の壁に彫り造られた壁弁財天十六童子が、中央の弁財天様を護るように従っておられます。
言い伝えによりますと、こちらの出世弁財天様は弘法大師様の御作という事で。
奥へ奥へと進んで行きますと、入口とは別の出口に至るのですが、この洞窟は弘法大師様が参籠されたといわれる空間ともいわれているようで…何とも不思議な場所で御座います。

鎌倉 長谷寺09


弘法大師様縁といえば、上境内の大黒堂に安置されていた大黒天様の御尊像も、大師様の御作であるといわれております。
然し、こちらは応永19(1412)年の御作である事が確認されているそうで…。
それでも、神奈川県内では最古の大黒天像であるのだという事で御座いました。

現在こちらに御祀りされるのは、新しく造られたという出世開運授け大黒天様。
鎌倉、江ノ島七福神の1つに数えられておられます。
ちなみに、神奈川最古の大黒天様は宝物殿にて拝ませていただく事が可能で御座います。
展示室は丁度、この大黒堂の2階になっております。

鎌倉 長谷寺10


上境内には、周辺を一望する事の出来る見晴台が御座います。
御天気の良い日には、とても綺麗な景色が楽しめそうでございますね〜!
……私は、御天気の日を敢えて避けて詣でてしまいますので、中々 こちらかの素晴らしい景観を生で観られる機会が御座いません(苦笑)

鎌倉 長谷寺11


折角、綺麗な紫陽花を沢山観て参りましたので、明日は長谷寺さんの紫陽花小径で撮った 紫陽花さんにも触れてみようかなと思っております。

鎌倉 長谷寺12


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可憐に佇む神苑牡丹。
鶴岡八幡宮 ぼたん園01


先週の今頃に東京を発って熊野へ詣で、丁度 今日戻って来ているで御座いました(笑)
たった1日の仕事の為に、熊野で過ごすつもりだった残り6日分までが丸々空いてしまいましたので、自棄になって内5日は仕事を詰め込んだのですけれど、もう1日はせめて自分への慰めに何か楽しい事を…と思いまして、御知り合いの方と鎌倉へ行って参りました。
私は毎週のように鎌倉へ行っておりますが、誰かと一緒に鎌倉を巡るのは とても久しい事で御座いました。
ひとりでは行き辛い場所(苦笑)に付き合っていただいたり、江ノ島を散歩したり。
いつでも、何処でも、何をするのでも、大抵私は孤独な単独行動で御座いますので、ひとりじゃ無いというのは正直とても嬉しくて心強く感じました。
気楽な独り旅に慣れ切ってしまっていても、矢張り 道中感じる様々な事や他愛の無い会話の出来る相手が居ると嬉しいもので御座いますね。
普段は滅多に休祝日を選んで向かう事が御座いませんので、平日よりも遥かに人出が多い事には ちょっとだけ驚きました…///

JR鎌倉駅構内に 鶴岡八幡宮の神苑 ぼたん庭園の牡丹さんが出張しておりまして、とても綺麗に咲き誇った御姿で出迎えて下さいました。
大勢いらっしゃった観光客の方々も立ち止まって、
「あら、綺麗ね〜」
と微笑ましく和まれておりました。
私もそんな輪に ちゃっかり交じっておりましたら、
「今、八幡宮の境内に沢山咲いてるのよ。行ってみたら?」
と、隣にいらした奥様が御声を掛けて下さいまして…♪
早速、行って参りました〜。

鶴岡八幡宮 ぼたん園02


現在観る事が出来るのは、冬牡丹。
低い気温の中、藁囲いに包まれる姿が暖かそうで可愛いですよね。

園芸種の牡丹は、様々な品種改良が施され、色々な季節に その大輪を拝めるようになっているそうで御座います。
今は特に見頃という事で、沢山の牡丹を楽しませていただきました。

一見、蓮の花のような厳格ささえ感じますが、触れるとパリンと音を立てて壊れてしまうのでは無いかと思える程 繊細に透き通った花弁に知らぬ間に心を奪われてしまいました。
実家の玄関前にも祖母が牡丹を植えておりましたが、私は毎年その御花を観て「牡丹は釦に似ているから“ぼたん”なんだろうなぁ…」と御子様的発想を抱いているばかりで御座いまして(苦笑)
こんなに綺麗な御花だったかしら、と不思議な心地で一杯になりました。

   ぼたん庭園

 鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園は、境内の東南部にかけて築かれた廻遊式の日本庭園です。
昭和五五年、当宮の御創建八〇〇年を記念して開園しました。
 社前の大鳥居をくぐり、表門より園内に入ると、神池・源氏池に面し、景石と御簾垣、杉苔とが見事に調和した景観が広がり、書院造りの斎館までの庭園をご覧いただけます。
 当宮ぼたん庭園は、その名が示す通り、春には牡丹が大輪の花を咲かせるのみならず、本来、春の花である牡丹を冬にもお楽しみいただけるのが最大の特徴です。
当園内の牡丹は約一〇〇品種一、〇〇〇株が植えられ、春の見頃は四月〜五月中旬、冬の見頃は元日〜二月下旬となっております。
雪のちらつく真冬に藁囲いの中で可憐に咲く牡丹の姿は、なかなか他では見ることのできない光景です。
 また園内は牡丹だけでなく、春には桜、夏には蓮、秋には紅葉と四季折々の美しい装いを見せ、北側には、古来より奇石として珍重されてきた中国蘇州産の太湖石を据えて、古典庭園の庭師の手により築かれた湖石の庭があります。
 当宮ご参拝の折には、是非、神苑ぼたん庭園にて憩いの一時をお過ごし下さい。



鶴岡八幡宮 ぼたん園03


牡丹は古来、中国より伝わった御花で御座います。
日本で栽培されるようになったのは、平安期位からの事と思われます。

文学の初出は、平安中期――枕草子の一節で御座いました。

 故殿などおはしまさで、世ノ中に事出で来、物さわがしくなりて、宮また内にも入いらせたまはず、小一条といふ所、おはしますに、何ともなくうたてありしかば、久しう里にゐたり。
御前わたりのおぼつかなさにぞ、なほえかくてはあるまじかりける。
 左中将おはして物語し給ふ。
「今日は、宮にまゐりたれば、いみじく物こそあはれなりつれ。女房の裝束、裳、唐衣などのをりにあひ、たゆまずをかしうても候ふかな。御簾のそばのあきたるより見入れつれば、八九人ばかりゐて、黄朽葉の唐衣、薄色の裳、紫苑、萩など、をかしうゐ並みたるかな。御前の草のいと高きを、『などか、これはしげりてはべる。はらはせてこそ』と言ひつれば、『露置かせて御覽ぜむとて、ことさらに』と、宰相の君の声にていらへつるなり。をかしくも覚えつるかな。『御里居、いと心憂し。かかる所に住まひせさせたまはむほどは、いみじき事ありとも、かならず候ふべきものにおぼしめされたるかひもなく』など、あまた言ひつる。語り聞かせたてまつれとなンめりかし。まゐりて見たまへ。あはれげなる所のさまかな。露臺の前に植ゑられたりける牡丹の、唐めきをかしき事」などのたまふ。
「いさ、人のにくしと思ひたりしかば。また聞きにくくはべりしかば」といらへきこゆ。
「おいらかにも」とて笑ひたまふ。 (以下略 / 枕草子による)


故関白 藤原道隆様が儚くなり世の中が乱れていた頃、中宮様は宮中では無く小一条という所に居られ、そこは何となく嫌な気分であった為に清少納言は長い間御里に隠られておりました。
そこへ、左中将 藤原斉信様(もしくは、藤原正光様)がいらっしゃって、中宮御殿を訪ねた事を語られております。
中将様は、そちらで女房から伺った事を清少納言に伝えに来られたので御座いますが、参上を勧める言葉の中で“牡丹”の事を仰っておられますね。
“露台の前に植えられていた牡丹が、唐めいておもしろい事ですよ”
当時、牡丹は種からしか育たない高嶺の花で御座いましたので、言い方を悪くすれば それを餌に…という感じにも聞こえてしまいそうで御座います。

平安期で“牡丹”といえば…装束の襲の色目にも例えられておりますね。
表が白く、裏地が紅梅であるものを“牡丹”と呼んでいたようで御座います。

鶴岡八幡宮 ぼたん園04


牡丹は、別名“二十日草”とも呼ばれております。
詞花和歌集巻第1に収録される春の御歌に、二十日草が詠まれております。
作者は、関白前太政大臣 藤原忠実様。
詞書“新院位におはしましゝ時、牡丹を詠ませ給けるに詠み侍ける

   咲きしより 散果つる迄 見し程に
     花のもとにて 廿日へにけり


“咲いてから 散り果てるまで 見届ける間に、気付けば花のもとで二十日も経ってしまったのですね”

鶴岡八幡宮 ぼたん園05


“立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花”
良くいわれる、有名な例え文句で御座いますね。
小学生の頃、茶道を教えて下さっていた先生が良く仰っていた台詞で御座います。

…座って撮って貰ったのは全くの無意識なので御座いますが(というか、背景に源氏池と旗上弁天社が〜という事しか考えておりませんでした/笑)、もっと牡丹のように凛としなくては…!と後々、大いに反省致しました(苦笑)

* * * * * * * *

鶴岡八幡宮 ぼたん園06


↑左の写真は、ぼたん園の出入口付近に御座います“静桜”の木。
こちらは、様が鶴岡八幡宮の舞殿で舞われた日の820年目を記念して、静様終焉地伝承が伝わる福島県郡山市より2005年10月16日に寄贈された桜さんで御座います。

右は、鎌倉幕府三代将軍 源実朝様暗殺の際に、公暁様が身を隠しておられたと伝わる大銀杏さん。
秋には、たわわに金色の群を抱えていらっしゃいましたのに、冬場は寒々しい御姿で御座います〜。。

鶴岡八幡宮 ぼたん園07


舞殿では、神前結婚式が行われておりました〜!
見知らぬ観客も大勢集まっていらっしゃいますので、より華々しい御式になっておりました。
休日ならではの素敵な光景で御座います。

普段は平日にばかり訪れておりますので、いつもとは違った鎌倉を知る事が出来て楽しかったです。
でも、江の電や小町通りは物凄〜く混むのですね…(苦笑)

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鎌倉をみおろす父子の塚へ。
ニ伝寺01


“神奈川県藤沢市渡内の二伝寺という御寺さんには、平良文様の塚が伝わっている”
――…そんな情報を頼りに訪れて参りました二伝寺さんは、現代的かつ厳粛な雰囲気を漂わせる御寺さんで御座いました。
綺麗に整備された境内には開花間も無いであろう梅香が麗しく薫り、改修の施された真新しい御本堂は とても輝かしく映りました。

JR大船駅向かいの坂道にあるバス停から藤沢行のバスに乗り、久成寺前にて下車。
バス停からは然程距離が無い筈…と思い、辺りを見回しましても 住宅ばかりの団地に二伝寺さんを発見する事が出来ず、どうしようかとオロオロしておりましたら、御散歩をなさっていた付近の方が御親切にも近くまで連れて行って下さいまして、とても御丁寧に御寺さんまでの道順を教えて下さいました。
有難い事で御座います。

同じく渡内内に御座います 日枝神社も二伝寺さんからは徒歩3〜5分程の距離で御座いますが、どうやら そちらから向かった方が道が解りやすかったようで…(苦笑)

境内に入って右側の道を進むと、御本堂、寺務所が御座います。

ニ伝寺02


□ 二伝寺(にでんじ)

所在地:神奈川県藤沢市渡内
御創建:永正2(1505)年
御開基:北条氏時(初代玉縄城主)
御開山:忍蓮社浄誉正空上人(鎌倉大本山光明寺第十世)
御本尊:阿弥陀三尊
宗 派:浄土宗
山 号:戒法山
正式称:宝国院二伝寺


二伝寺は、永正2(1505)年 初代玉縄城主 北条氏時様の発願によって建立された寺院で御座います。

室町時代創建のこの寺院裏山には、平安時代を生きられた平良文様、忠光様、忠通様 御三代の塚が御座いますが、その由縁等は不詳のようで御座います。
良文様が初代城主と伝わる村岡城と、その鎮守といわれる日枝神社が近くに御座いますので、この場所に供養塔が建立されていても然程不思議は御座いませんね。

戦国時代、この辺りは幾度と無く戦場となったようで御座います。
それによる荒廃の為かは分かりませんが、安土桃山時代から江戸時代前期頃、玉縄領主 松平正次公によって中興されたといわれており、御本堂向かって右手の墓地には その一族の御墓が伝えられております。

また、相模国出身である浄土宗の高僧 幡随意上人は、二伝寺にて出家されておられます。
後に徳川家康公の命で九州へ渡り、キリシタン改宗に尽力された御方で御座いますね。

御本堂には運慶様の御作と伝えられる聖観音を御安置されており、鎌倉郡33所札所観音の第32番所となっております。

ニ伝寺03


良文様方の塚へ参るには、境内に入って左側へ続く道を進みます。
ただし、この先は無断立入禁止で御座いますので、事前に寺務所にて 良文様の塚を御参りさせていただきたいという旨を告げ、御了承をいただく必要が御座います。

ニ伝寺04


御寺の方に御了承をいただき、通路を遮る竹を潜って先へ少し進んで行きますと、左手に“良文公 忠通公 忠光公 塚 入口”と刻まれた案内碑が御座います。
この碑には、与謝蕪村の“雉子なくや 草のむさしの 八平氏”も記されておりました。
句碑でもあるので御座いますね。

その碑の傍には小高い丘上へと続く道があり、それを登ると 頂上に御三方の墓所が御座います。

ニ伝寺05


短い坂道を登り切って、いちばん近い場所に見えるのが忠光様の塚、更に奥の直線上には忠通様の塚、その手前で右手奥に見えているのが良文様の塚で御座います。
私はてっきり 御三方の塚は並べられた状態であるのだろうと思っておりましたので、予想外に離れ離れなのが少し意外で御座いました…。

坂道を登る時から感じておりましたが、とても柔らかくて暖かい土の感触が心地良くて、無造作に生えている草々や落葉まで 生き生きとしているように感じました。
草というか…殆どが小さくて可愛らしい笹のようで御座いましたっけ。

ニ伝寺06


こちらが、良文様の塚と伝わる宝篋印塔で御座います。
これは…何だか割と新しいような…笠部分に施された装飾の形から推測するに、室町期以降の作なのでは?と思うのですが…。
素人の見解で御座いますので断言は出来ないのですけれど、少なくとも、鎌倉期以前のものでは無いように思われます。
もしかすると、二伝寺の御創建と近い時代に かつてこの地を治められた良文様の御霊を慰める為に建立された供養塔なのでは無いかなと…。

御建立年代はともかく、今となっては 良文様の塚である事に変わりは無いので御座いますから、暫くの間 こちらで手を合わせて瞑想させていただいて参りました。
静寂に 滴る雨音だけが響いて、時間を忘れてしまう程の穏やかさで御座いました。

ニ伝寺07


良文様塚の手前には、忠通様の塚が御座います。
忠通様は、良文様の御子息で御座いますね。

良文様の供養塔は宝篋印塔で御座いましたが、こちらは五輪塔で御座います。
右手前の火輪部分が少し欠けておりました。
…見た感じ、鎌倉期頃のものと思われるので御座いますが……。。

ニ伝寺08


そして、最も入口に近い場所に御座いますのが 忠光様の塚。
忠光様も良文様の御子息であると伝えられますが、これも確かな史料が存在している訳では無く、忠通様とは御従兄弟関係という説や 忠通様の御父上であられる(つまり、忠通様は良文様の御孫様とされる)説 等……謎な御方で御座います。
この地では、どうやら後者の説の方が伝えられているようで御座いました。

こちらの五輪塔…これも鎌倉期頃のもので御座いましょうか…。
地輪部分は割と最近に置かれた別の石のようで御座います。

ニ伝寺09


御三方の塚がある丘の麓…塚入口を示す案内句碑よりも少し奥には、墓前碑が建立されておりました。
こちらに刻まれた系図にも、“良文様-忠光様-忠通様”という順に記されております。

   村岡五郎平良文公墓前碑

良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和二年(八百八十六年)三月十八日生まれ、延長元年(九百二十三年) 正月母とともに東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺) 比叡山麓の日吉大社の祭神大山咋命を城砦の守護神に勧請し (現在の日枝神社) 天慶二年(九百三十九) 鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城國の御霊宮の祭神早良親王(追諡号崇道天皇) を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るたり。
その子孫は前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。
公の晩年は子細は不詳なるも天慶六年(九百五十二年)十二月十八日六十七歳を以て病没し此の地に葬る。
右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。
 平成十七年乙酉年 十一月吉日  村岡郷土史研究会 建之



碑文によれば、この地域に伝わる村岡城址、日枝神社、そして宮前御霊神社も全て一貫した良文様関連史跡として伝承されているという事のようで御座います。
ただ、御三方の塚にも 敢えて“塚”と刻まれていたように、こちらの塔は全て供養塔であって“御墓”では無いと思われるので御座います…。
私は専門家では御座いませんが、どの塔も平安期の建立とは考え難いように感じられるような……とか言いつつ間違っていたら申し訳御座いません;;

ニ伝寺10


二伝寺さんの辺りは、戦国時代に後北条氏によって築かれた二伝寺砦跡が伺えるようで御座います。
この竹薮の一帯もその跡地のようで御座います。

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形見の御霊社より、仰ぐ天には恵みのあめが。
宮前御霊神社01


こちらは、神奈川県藤沢市は宮前に御座います 御霊神社
延長元(923)年 勅命によって東下りされた平良文様は、この相模国の村岡郷に居住なさった事から“村岡五郎”を名乗られたともいわれますが、その村岡郷内でも 良文様の居住地が何処であったかは諸説伝えられているようで、村岡城址の他に挙げられる伝承地の1つにこの場所が御座います。

村岡城の鎮守社は渡内の日枝神社と伝えられておりましたが、そこから然程離れてもいない この地にも良文様は御屋敷を構えられていたと伝えられており、その邸内に建てられていた鎮守の御霊社が、この御霊神社の御創祀であるといわれております。

宮前御霊神社02


境内に入って直ぐ右手には、村岡地区随一といわれる大きなタブの木さんがいらっしゃいます〜。
幹の部分が空洞となっていて、とても圧巻で御座いました。
このタブの木さんの通称は“おお木の木”と仰るのだそうで…御霊神社の御神木として地域の方々から大切に護られておられます。

常駐の神職さんがいらっしゃる神社では無いようで御座いますが、境内はとても綺麗で参拝者に対する御配慮も多く見受けられました。
嬉しい事で御座いますね。

宮前御霊神社03


□ 御霊神社(ごりょうじんじゃ)

所在地:神奈川県藤沢市宮前
御創祀:天慶3(940)年
御祭神:崇道天皇(光仁天皇第二皇子早良親王)、鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王
通 称:宮前御霊神社、村岡御霊神社、村岡神社


社伝によれば 御創建は天慶3(940)年、平良文様によるものと伝えられます。
良文様は、京の御霊神社より崇道天皇の御霊を勧請し、自邸の守護神として御祀りされたようで御座います。
崇道天皇は早良親王の追称で御座います。
早良親王については いずれ詳しく記す機会もあるかと存じますが、悲劇の親王として…そして怨霊伝承と共に御霊信仰における御祭神の御1柱として伝えられる御方で御座います。
早良親王は桓武天皇の同母弟で、親王が非業の死を遂げられた後、桓武天皇と京の人々は随分とその怨霊に脅かされたといわれております。
良文様は桓武天皇直系の桓武平氏で御座いますので、御自身が腰を降ろされる地に御霊社を建立なさっていても不思議は無いと考えられます。

また、平将門公征討の為に御霊神社を勧請し、その戦勝祈願をされた事に始まるとも伝えられており、この地域でも良文様は将門公と敵対した関係にあったとされている事が伺えます。


平安後期、良文様の御子孫である鎌倉権五郎景政様が 北西の山中に疱瘡神を勧請。
この疱瘡神様は 通称“温婆神”と呼ばれ、以後 境内社として信仰されているようで御座います。
景政様は、後三年の役の際 源義家様に付き従って奥州へ向かわれておりますが、その際 義家様はこちらにて戦勝祈願をなされ、後に御礼参拝されたといわれております。

鎌倉期に至ると、景政様の御霊が合祀されております。
源平合戦に至る以前、この地方を統べる領主は平氏である景政様で御座いました。
この地域と景政様との関連が故という理由よりは、鎌倉の権五郎神社の御霊信仰と同義で 武人の守護神としての意味合いから御祀りされたのでは無いかと思います。
そして 同じ頃、北条時頼の命によって、葛原親王高見王高望王の御霊も合祀されました。
いずれも桓武平氏の祖人方…北条氏も、その御末裔で御座いますね。


時代が下った戦乱の世には、天災か戦渦に巻き込まれた故か判りませんが、御尊体、御神殿が倒壊したのを、慶安元(1548)年に再興。
寛政8(1796)年には拝殿、御居殿が改築されたようで御座いますが、またしても何らかの事情で御社殿が荒廃したのか、萬延元(1860)年に御本殿と拝殿が再建されております。


そして現代――昭和50年代に御本殿、拝殿、境内、正面階段が整備改修され、村岡総鎮守社として 現在に至っているようで御座います。

   本殿五座由緒沿革

祭神の崇道天皇は桓武天皇の御宇延歴十三年五月に現在の京都市上京区上御霊前通り上御霊監所に祀れし給しこと、
その後この地(村岡)に村岡五郎平良文公が住し天慶三年平将門が征討の為御霊神社を勧請し戦勝祈願をなしたるを始めとす、
のち鎌倉権五郎影政を合わせ祈り二柱たりしが北条時頼の命により葛原親王、高見王、高望王、の三柱を加えて県下に十六の分社がありその後村岡総鎮守として現在に至っている。



宮前御霊神社04


拝殿の横、七面宮より続く道を奥へと進んで行きますと、義家様、景政様 縁の兜松があるそうで御座います……が、雨で足元が危なかった上に日も暮れた頃で御座いましたので、流石に これ以上進むのはマズいかなぁと思いまして、珍しく思い留まる事に致しました(苦笑)

兜松のあるこの山は兜山と呼ばれており、戦勝報告の為に参詣した際、境内の岩上に生える松の根元に 記念に兜を埋めた事に由来しているようで御座います。

宮前御霊神社05


宮前御霊神社は、毎年6月になると 境内の山林に1500本もの紫陽花が咲き乱れるそうで御座います。
今度は是非、その頃に参拝させていただきたいなと思いました。

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坂東八平氏祖を守護した山王権現社。
日枝神社01


平良文様居城跡と伝わる村岡城址公園脇の傾斜になっている道路を登って行きますと、Y字路にぶつかります。
この分岐路の直ぐ傍には、深く趣き深い鎮守の森を背後に日枝神社があると調べていたので御座いますが……土地開発や何かの建設準備の為で御座いましょうか、私が事前に見た資料の写真とは全く異なる雰囲気の神社がそこには御座いました。
神社というよりは工事現場のような感じで御座いましたので、うっかりと1度は通り過ぎかけてしまいまして…危うく見逃してしまうところで御座いました;
森を削られた分、神社境内は随分と改修されている途中のようで御座いますが、余所者と致しましては 矢張り何だか勿体無いと申しますか……私は御社殿は神様に対する人の拝所であって、神様という存在自体は木々の合間に感じられる事の方が多いように思っておりますので、森が失われてしまうのは とても寂しい事だなぁと思ってしまいます。。

こちらは、村岡の地に良文様が居を据えられた際に その守護神として御祀りされた日吉山王大権現であるといわれており、村岡城鎮守社として崇敬されて来られました。
以後、渡内の鎮守社としても信仰されてきたようで御座います。

日枝神社02


□ 日枝神社(ひえじんじゃ)

所在地:神奈川県藤沢市渡内
御創祀:天慶年間(938〜947年頃)
御祭神:大山咋命、村岡良文公
御神体:青石
旧 称:山神社


日枝神社は、天慶の頃(938〜947年) 良文様が御屋敷を村岡の渡内に定められるに当たって日吉山王大権現を勧請し、御屋敷内に守護神として御祀りされた事にはじまると伝わります。
果たして、この時期に良文様がこの辺りにいらしたか…という問題につきましては、数々の説や伝承が御座いますので、史実としてハッキリとした事は不明で御座います。
また、良文様は、妙見様を深く信仰なさった御方。
北辰を象ったともいわれる山王権現は、妙見信仰とも関わりが強かったと考えられますが、その辺りの関連も気になる所で御座います。

応永27(1470)年、福原左衛門平忠次公が御社殿を御遷宮、現在地に移されたといいます。
その時に山王権現と共に 良文様の御霊も合祀。
忠次様の事は不詳で御座いますが、良文様の御子孫の御方であったのでは無いかと思われます。

慶長12年6月(1607年7月)、福原孫十郎重種公によって御社殿が造営され、更に 天保9(1838)年に地頭加藤三左衛門藤原明随公、福原左兵太平高峯村岡六蔵平良毅公等が覆殿を再建されたといわれます。

   日枝神社略記 由緒

 桓武天皇の孫、高望王の御子、村岡五郎太夫平良文公相模國の郷を賜られ、三浦・梶原・大庭・長尾・畠山・千葉・上総・土肥等関東八平氏の祖なり。
天慶年中良文公邸宅を村岡村渡内に定むるに当り、宮山の地に日吉山王大権現を勧請し山神社と称へ守護神とせり。
応永二十七年(一四二一年)福原左衛門平忠次社殿を現在の地に遷したるとき、良文公を合祀せり。
また、慶長十二年六月(一六〇八年)福原孫十郎重種社殿を造営す。
後年天保九年(一八三九年)地頭加藤三左衛門藤原明随・福原左兵太平高峯・村岡六蔵平良毅等により本社覆殿を再建せり。
 明治六年十二月村社に列せらる。



日枝神社03


綺麗に整備されつつある境内なので御座いますが、何か違和感が拭い切れないなぁと感じさせられてしまいました。
良く見れば、新しさを感じる石段や綺麗に敷かれた砂利の上には 元々こちらにあったものと思われる燈籠等が見られ、新旧のものが折混ざった状態になっているようで御座います。
再建では無いようですので、御社殿も以前からのもので御座いましょう。

未だ整備途中の段階のようで御座いますので、今後どんな神社となられるのか気になってしまいますね。

日枝神社04


石段下の脇には、7体の庚申塔や道祖神様が綺麗に並べられておりました。
元々はあちこちに建てられていたものと思われますが、周辺の住宅地開発の際に集められて、こちらに移されたのでは無いでしょうか。
この内、2体の道祖神様がいらっしゃいますが、どちらもの江戸期の建立のようで御座いました。
“見ざる、言わざる、聞かざる”の三猿も見られましたが、三猿は山王権現の使者や化現であるともいわれますので、日枝神社らしいなと感じました。

日枝神社05


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