
“えさし藤原の郷”の最寄駅である 水沢江刺駅は、東北新幹線専用の駅で御座います。
平成18年に 水沢市と江刺市の合併で“奥州市”となった今としては、こちらは“水沢江刺駅”よりも“奥州駅”の方が気持ち良いのですけれど…と、現地の方が仰っておられたのが印象的で御座いましたが、実際に“奥州駅”へ改名しようという動きも、地元 奥州市より起こっているそうで御座います。
水沢江刺駅は、元々は“新水沢駅”として始まる予定で御座いましたが、隣接の江刺市には鉄道が通っていなかった為、新駅には“江刺”という名を入れて欲しいと要望を出され、結果 水沢江刺駅となったと御聞き致しました。
水沢江刺は、駅前に置かれた巨大な南部鉄器がインパクト大で御座いますね。
急須形は、ある意味で縁起物…“幸福を沸かす”“愛情を注ぐ”という意味合いを持たせる場合も御座いますので、そう考えると より素敵だなぁと思います。
色々な面で、この土地はアピールに情熱を注がれており、大変素晴らしい事だと思います。
世界遺産登録を控えて頑張っていらっしゃる平泉もそうで御座いますが、今 東北が熱いなぁと、しみじみ感じさせていただいております。

構内には、大河ドラマ「炎立つ」のロケ地を記念して出演者の方々による記念手形を見る事が出来ます。
安倍頼良様役の里見浩太朗さんや、鈴木京香さん等、豪華な方々の手形と、その両脇には記念パネルと作品内の相関図が展示されております。
それから、後で付け加えられたものかと思われますが 柔道の谷亮子(田村亮子)選手の銀色の手形も御座いました。

↑藤原経清様役の渡辺謙さんの手形に手を合わせているのは私では無く、my sisterのあきこ嬢で御座います。
左手の薬指が眩しい事…!(こんな事書いて、万が一 妹に見られたら滅茶苦茶怒られそうで御座います;;)

こちらは、駅構内に貼られていた宣伝用ポスター。
“黄金 かもめの玉子”……黄金!?
あの銘菓“かもめの玉子”に、そんな素敵な関連商品があったなんて…!
見てみたいな〜と思ったのですが、残念ながら 何処の御店でも御見掛け致しませんでした…;

構内には、この地域の特産品を御紹介されているスペースが御座いまして、売り物では無いようで御座いましたが色々な商品が並べられておりました。
その中に“藤原四代”と記された商品が御座いまして…!
藤原四代……良い響きで御座います。
奥州藤原氏は4代目 泰衡様の代で途絶えてしまっており、その際に 先代が受け入れた義経様を見放して自害に追い詰め、義経様寄りであった御兄弟方を討ち、挙句 その直後に鎌倉軍によって滅ぼされてしまっておりますので、後世からの評価は低く…現代でも一般的に奥州藤原氏については“奥州藤原三代”と3代目までで表される事が多い事となっております。
が、中尊寺蓮の例のように、泰衡様に対する土地の方々の御気持ちというものも確かに、存在していると思うので御座います。
中身が何であるのかはイマイチ良く判らないのですけれど、こちらの商品名からは、奥州藤原氏への尊信と愛情がひしひしと伝わって来るようで大変感動致しました…じぃん


↑弁慶様、大人気で御座います。
“弁慶のほろほろ漬”って、あちらこちらで御見掛けはするのですけれど、一体どのようなものなので御座いましょう…御漬物、ですよね…。
個人的に気になるのは、味よりもネーミングなので御座いますが、どうして“ほろほろ”なので御座いましょうか。。
弁慶様 +“ほろほろ”で思い付くのは、大河ドラマ「義経」で松平健さん演じる弁慶様が、
「御曹司ぃ〜…」
と良く泣いていた御姿で御座います(笑)

「あの人形達は、一体何処の御人形さんですか?」
という御質問をいただきました〜。
葉書を送りつけた知人、友人からは、怖いだの気持ち悪いだのと非難され…何も言わずにスルーしてくれる事が優しさのようにも感じておりましたが(苦笑)、御興味を御持ちいただける方がいらっしゃって嬉しいです///
ハーレム状態で私を取り囲んでいた あの御人形さん達は、岩手県奥州市は“えさし藤原の郷”にて大活躍中の奥州藤原氏と源平合戦期を生きられた方々で御座いました〜。
という事で、本日は 私の心のテーマパーク!
1度は住みたい(?)夢の都 “えさし藤原の郷”について御紹介してみたいと思います。

“えさし藤原の郷”は、平成5年に放送されたNHK大河ドラマ「炎立つ」ロケの為に造られた20ヘクタールの広大な歴史公園で御座います。
以後、歴代 大河ドラマの撮影や、「陰陽師」の撮影でも、こちらがロケ地として使われており、歴史ファンにとっては 現代の聖地
ともいうべき場所なので御座います〜!勿論、大河ドラマ「義経」のロケも行われておりましたし、昨年の「風林火山」もこちらでのロケが御座いました。
上戸彩ちゃんの“元気ハツラツゥ?”で御馴染みの、あのCMも牛若編はこちらでの撮影で御座いましたね〜。
ここへ来ると、かな〜りテンションの上がる私…思わず、駆け足で突進してしまう程に、憧れの都に御座いますー。
入場すると、先ず正面には政所北門が御座います…が、先ずは私も「元気ハツラツゥ?」と話し掛けたくて、政所向かって左手に御座います義経様の御館へ直行致します〜。

義経様の御館は、平泉での…という事では無く、京都での居館を想定して再現されたものだそうで御座います。
六条堀川邸で御座いますね。
中に入ると、御館の主である 義経様と愛妾 静様…それに、何と常磐様と、清盛様までいらっしゃるので御座います!
清盛様と常磐様は、厳かに御座りになっていらっしゃいますが、義経様は直立で、静様に至っては白拍子姿で舞の御披露で御座いましょうか……これは、きっと稀なる御客様に対すて御持て成しの精神がー………(以下略)←勝手に状況設定…すみません。
義経様の御邸内は、主に源平合戦に関する説明がパネルや模型等で解りやすく説明されておりました。
主要人物についての説明もあり、これなら 歴史に然程興味の無い御方でも楽しく解せるのでは無いかなぁと思われます〜。
義経屋敷
「義経」の京都の居館を想定して再現。
邸宅・厨・望楼櫓・塀で構成しています。
当時、最も一般的な武家屋敷で、屋根は板葺きです。

義経様の御館の奥には、離れのような感じで 弁慶様の御館が御座いました。
中に入ると、弁慶様の薙刀や下駄が置かれており、自由に手に取って体感出来るようになっております。
――で、実際に手に取ってキャイキャイやっておりますと、背後から大声で叱られるので御座います…弁慶様に(笑)

義経様、弁慶様の御館を抜けて その斜め後方にある小高い丘を登って行きますと、義経様の持仏堂が御座います。
麓の見渡せる丘の上のこの場所に立つと、平泉の高館を思わされるような気持ちになります。
こちらの義経様、弁慶様は、麓で御逢いした頃の御姿とは違い、御覚悟を決められた表情で静かな時を数えておられるようで御座います。
その身に幾本もの矢を受けた弁慶様は、立往生を思わされる御姿で主の最期の時間を護っておられるようで御座いました。
義経持仏堂
平安時代の建築様式をもとに、正方形の屋根とし、外見も飾りが少なく、後の時代のものより、シンプルになっています。
今日、「義経の霊を慰める」ものです。

持仏堂の丘を更に登ると、藤原経清様の御館 豊田館(経清館)が御座います。
経清様は、初代奥州藤原氏 藤原清衡様の実の御父様。
奥州藤原氏の祖ともいえる御方で御座いますね。
経清様の御館 豊田館は江刺の地に御座いましたので、“えさし藤原の郷”と致しましては、この御方無しに奥州藤原氏は語れないところなので御座いましょう。
とはいえ、前九年の役にて源頼義様に敗れた経清様の御館が今に伝わる訳も無く…実際の御館の詳細は伝わっておりませんが、同じ頃の他資料等を元にイメージ、再現された東北武士館なのだそうで御座います。
経清様については、明日 改めて詳しく記したいと思っております。
経清館
陸奥国府の官であった藤原経清は、奥六郡の豪族・安倍頼良(後の頼時)の娘と結婚し、後に安倍氏とともに陸奥守・源頼義の軍と戦うことになりました。
その経清が江刺に移り住んだ11世紀半ば頃の地方豪族の一般的な館であることから、この館を「経清館」(第一期豊田館)と呼んでいます。
神殿、奥殿、西対の三棟が茅葺屋根になっているのが特徴です。
中は板敷きで、座るところに敷物が敷かれました。

経清館の更に奥には、経清様の実の息子であり、奥州藤原氏の文化を築かれた初代 清衡様の御館が御座います。
こちらも 豊田の御館で御座いまして、清衡様が平泉へ移られる以前に御住まいであった御館を想定して再現されております。
清衡館
藤原経清の息子・藤原清衡は後三年合戦で源義家と手を組んで清原氏を滅ぼし、奥羽の覇者となりました。
その戦で父の時代から続いた館を失った清衡は、新しい館を再び江刺の地に建てました。
清衡は平泉に進出するまでこの館に住んだと言われています。
こうした時代背景をもとに再現されたことから、この館を「清衡館」(第二期豊田館)と呼んでいます。
寝殿造初期の建築様式で、京都の影響を受けたものと推定されます。

藤原の郷には、なんとなんと!安宅関まで御座います〜。
まさか東北で安宅の関所に出会すとは…とは思いましたが、流石は大河ロケ地で御座いますね。
安宅関の逸話は後世の創作であると考えられておりますが、それでも 義経様の苦行を語るには欠かせない場面の1つでも御座います。
安宅関
源義経が兄・頼朝から逃れ、奥州に向かう途中、関守に通行を咎められますが、武蔵坊弁慶の機転によって、危機を脱した関所とされています。

経清様、清衡様の御館、安宅関から川(池…?)を跨いで反対側の山の方へ向かうと、その中腹に金色に輝く御堂が見えて参ります。
中尊寺の金色堂は、平泉黄金文化の最高傑作。
現在、実際の中尊寺金色堂には覆堂があり、その中へ入って初めて金色堂と対面出来るようになっている為、創建当時のように屋外で輝きを放つ金色堂を見る事は出来ませんが、こちらではその当時を想定して 覆堂が無い姿で再現されており、大変感動的で御座いました。
金色堂
平泉黄金文化の最高傑作である金色堂を、建立当時を想定して覆堂のないかたちで再現しています。
奥州の覇者となった藤原清衡は平泉で新都建設に着手しました。
その宗教的中心となったのが中尊寺で、諸堂の造営にかかった歳月は21年に及びました。
現存する金色堂きは三間四方の単層方形造の外観をもち、屋根は小瓦葺で、木像に漆が塗られ、その上に金箔が張られています。
当時流行の阿弥陀如来を本尊としています。
金色は価値の高さを表現する色であり、宗教的には霊性を示します。
清衡は、戦乱で罪なくして死せられた魂を弔い、奥羽の安寧と国家の安泰を祈念するとともに、辺境と言われた地に都と同じ仏教文化を築くという願いを込めて金色堂を建立しました。

金色堂を下ると、政所手前に伽羅御所が御座います。
伽羅御所は、奥州藤原三代目 秀衡様の居館。
こちらでは、平安時代ファンには堪らない素敵平安体験をさせていただく事が可能で御座います…っ

何といっても注目は、時代衣装着付体験で御座いますね〜!
年賀状の真ん中でぼんやりと狩衣を纏っていた立烏帽子の私も、こちらでちゃちゃっと撮影したもので御座いました。
狩衣の他にも、女房装束(十二単)や小袿等が御用意されており、しかも御色も豊富で思わず「どれにしよう〜」と悩んでしまう程で御座います。
こちらでの衣装体験、なんと無料で自由に行わせていただけるので御座います。
勿論、写真撮影も各自で自由に…という事で、京都市内の時代貸衣装屋さんもビックリで御座いますね!(笑)
その他、蛤への絵付体験もさせていただく事が出来ます。
いっぱい作って、いつか私だけの貝合わせを一式揃えるんだぁ…
と、夢見がちな私は目を輝かせてしまうので御座いますー。伽羅御所
奥州藤原氏の再盛期を築いた藤原秀衡の居館を再現しました。
平安時代の寝殿造の様式で、寝殿を中心に東、北、西の対屋が渡殿で結ばれ、家臣たちのいる侍廊、蔵人所、料理所、玄関にあたる中門なども廊でつながれています。
寝殿は主人の住居であり、公的な行事の場でもありました。
庭園の奥には、宇治平等院を模して秀衡が建立したと言われる無量光院が、背後の山を借景に実際の距離感をもたせて4分の1の大きさで造られています。

伽羅御所の庭園には、これまたビックリの無量光院が造営されているので御座いますー!
無量光院は、宇治の平等院鳳凰堂を模して秀衡様が建立された伽羅御所隣接の寺院で御座いました。
実物は現代に伝わっておらず、今は跡地のみが史跡に指定されております。
こちらは、実際の4分の1の大きさで再現されたものなので迫力を感じるという事も無いので御座いますが、どっちかといえば美しく可愛らしい外観という印象で御座いました。

そしてそして、政庁。
政治の中心地だけあって、園内で最も広域を占める私設で御座いますね。
北側の屋根は板葺きで、塀も板塀。
南側は平泉黄金時代の様式の再現で建物は朱塗り、配置は唐の影響を受けたものになっております。
こちらの2つの様式での再現は、どんなロケでもどんと来い!と構えておられるようで(笑)1度で2度の御得感と申しましょうか…良い勉強をさせていただきました。
正殿内部には、前九年の役の際の頼義様もいらっしゃいます。
政所
政治や重要な儀式が執り行われていた場所です。
北側に古い時代のもの、南側に平泉藤原時代のものの二つの儀式で再現しています。
この古い政所は8〜9世紀頃のまだ東北地方の全土が掌握されていない時代を想定しています。
正殿を囲んで板葺の脇殿、北門と門番が詰めていた衛舎を再現し、板堀を施しています。
ここでは新しい政所と背中合わせに造っているので正面が北向きになっていますが、本来、正殿は南面することになっていました。

何ヶ所かでは、牛車も見掛けまして。
行く日を選んで行けば、牛車に乗せていただく事も出来るそうで御座いますので、いつか必ずや…と目論んでおります。
↑この どうゝねは、微妙に無理な姿勢をしておりますが 何より脇息にもたれて偉そうですね…清衡様の御館内での1コマで御座います。
靴を抜けば、上がらせていただいても良いのだそうで…なんて太っ腹な御方で御座いましょう…清衡様!(感涙)

政所の横、伽羅御所前には、庶民の街並も再現されており、御茶や特産品等を販売される御店となっております〜。
園内には、さり気無く美味しいポイントが多いので、何度訪れても飽きません…!
というか、住みたいのです!!(まだ言う…)

園外には御休処が御座いまして、その前では特産品が破格で販売されております。
以前、林檎がとても御安かったので買って帰ったのですが、凄く甘くて美味しかったです。
こちらのレストランで、平安時代食を体験する事が目下の野望で御座います…が、5名以上で無いと申し込み出来ないので……大きな壁で御座います(涙)
それから、“えさし藤原の郷”のキャラクターグッズが可愛いので、とても気になっております…。

こちらは、岩手県は平泉に御座います 陣場山。
移動中の車の中から撮影したものなので、今思い返すと微妙に記憶がアヤフヤな部分もあるのですけれど(す…すみません;;)、中尊寺前の車道を前沢方面へ進む途中、衣川手前の右手に見る事の出来る御山で御座います。
「あの山は“陣場山(じんばやま)”といいましてね、かつて源平合戦の時代に 京から遥々この奥州平泉の地まで、あの有名な源義経さんを連れて来られた 金売吉次という商人が、馬を飼っていたといわれている山なのですよ」
そんな風に御話して下さったのは、地元でガイドをされておられる方で御座いました。
世界遺産登録を目指している平泉では、色々な方が 土地に伝わる伝承や文化を守り伝えていく為に、日夜工夫に励まれ、行動をなさっておられます。
平泉は史跡としては かなりの有名ポイントで御座いますが、そんな中でも 観光案内には記されていない、土地の方ならではの情報を伺う事が出来ると、まるで自分が秘密の場所でも発見したかのような図々しさで大いに喜び勇んでしまいまして…(笑)
書物等で事前に調べていた以外の収穫が得られる事も、史跡巡りの素敵な醍醐味の1つで御座いますよね。
陣場山に関しては、“この地には、そんな言い伝えがある…”程度にしか語られていないようで、山中に史跡等が残されている訳では無いようで御座いますが、秀衡様が京へ献上された馬が競馬で勝馬に入った事から、奥州の馬は良い馬との評判が高かったようで御座います。
吉次様がどういう意図で馬を育てておられたのかは判りませんが、単純な私は、何となく牧場のようなものをイメージしてしまっております…(苦笑)
盛次「さる事あり。一とせ平治の合戦に、ちちうたれてみなし子にてありしが、鞍馬の児して、後にはこがね商人の所従になり、粮料せをうて奥州へおちまどひし小冠者が事か」とぞ申たる。 (高野本による)
盛次申けるは、去事あるらん、平治の乱に義朝討れて後、尋出されて九条院雑仕常葉が抱て参りたりし、二歳子が赦免の後、舎那王丸とてくらまにありし小童か、金商人が従者にて、粮料せおうて陸奥へまよひくだりし小冠者が事かとぞ申ける (長門本による)
昨日の記事でも記しました通り、吉次様は出自はおろか その御存在の真偽自体が不明な御方で御座います。
平家物語には、“金商人”と記されているだけで 名前すら挙げられていない吉次様で御座いますが、平泉にとって 奥州藤原3代+泰衡様は決して欠かせない方々であり、そして恐らくは近世にかけての源平ブームで義経様が英雄視されるようになると その御2間を結び付けたとされる存在の吉次様に対しても自然と裏付けが成されていったのでは無いかと考えられます。
当時、金の取引の為に奥州と京を行き交う商人は少なくはなかったようで御座います。
そんな中、京でも外れに位置する鞍馬寺に稚児として入られていた牛若様を、何故 吉次様が同行される事となったのか…。
平家全盛の世の中で、源氏の遺児である少年を持ち上げようとする動きが完全に無かったという訳では無いでしょう。
けれど、いくら世が世であったとはいえ、一商人である吉次様が 身の危険を冒してまで牛若様を奥州まで御連れするのには、かなり無謀な挑戦であったようにも思えます。
商人としての野心からの行動であったにしても、気の遠くなるような命懸けの行為で御座います。
恐れるのは平家だけにあらず…金商人の通る道を使って奥州まで向かうとなると、途中に盗賊や山賊に教われる危険性も随分大きかったのでは無いかと。
そんな難儀を承知の上での平泉行きであったので御座いましょうから、吉次様には何らかの深い理由があったのでは無いかと思いたくなるのが人というもの…。
もしや 吉次様の背後では何か別の大きな力が働いていたのでは?とか、実は金商人というのは世を忍ぶ仮の御姿で…?とか、考えれば考える分、想像の世界が広がっていくような気が致します。
そういった思想から生まれたものの中に、吉次様=堀景光様であるという説も入っているのかもしれませんね。
※明日は、福島県白河市に伝わる 吉次様の墓所について。
一般的に 吉次様墓所として有名なのは、これまた意外な気も致しますが岡山県新見市で御座いますが、白河にも吉次様と…そして、その御兄弟のものと伝えられる御墓が遺されております。

中尊寺さんの麓、御参道である月見坂入口手前には、武蔵坊弁慶様の御墓と伝えられる石塔が御座います。
弁慶様が立往生――御亡くなりになられたといわれる場所は、北上川と衣川が合流する辺り。
義経様が御住まいであったといわれる高館から少し離れた場所で御座います。
石塔は高さ50cm程度に盛り上がった塚上に置かれており、現地の方に伺った御話によれば、弁慶様御自身の御遺言によって、中尊寺麓のこの場所に亡骸が葬られているそうで御座います。
また 近くには、同じく義経様の部下として共に討死を果たされた鈴木三郎重家様の供養松跡もあるようで…。
弁慶様がどのタイミングで そのような御遺言を何方に託されたのか…何故、中尊寺であったのか…真偽も含めて それらは今となっては最早誰にも知る由は御座いませんが、このように手厚く葬られて五輪塔を建て永年の供養が施されてきた背景には、土地の人々の弁慶様に対する様々な想いがあった事で御座いましょう。
武蔵坊弁慶大墓碑 建立由来
文治五年(一一八九)義経の居城高館焼打されるや、弁慶は最期まで主君を守り遂に衣川にて立往生す。
遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧 素鳥の詠んだ石碑が建てられた
色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊

左の画像の“武蔵坊瓣慶之墓”と刻まれた墓標は、割と最近に建立されたもののようで御座います。
弁慶様の御墓は、向かって右斜め後方にバラバラに崩れた状態で残されております。
最初に見た時は、小さな墓石が幾つも…?と思ってしまいましたが、良く良く見れば これらは五輪塔のパーツのようで御座いますね。
実際に組み立ててしまう事は出来ませんが、組み立っていた往時の御姿を想像する限りでは鎌倉期前後のもののように思われます。
右側に置かれている丸い大石は恐らく五輪塔の水輪部分であろうと思いますが、何だかアンバランスと申しましょうか、火輪部分と比較すると随分大きいなぁ…と感じます。
流石は、弁慶様の供養塔といわれるだけの事はありますね(笑)
献花の間にある手前の石は、後年に置かれたものでは無いでしょうか。
墓塔の横に植えられているのが、弁慶標の松で御座います。
紀州田辺に伝えられる弁慶松さんを思い出します〜。
田辺は弁慶様誕生の地といわれており、 平泉にて壮絶な御最期を遂げられた弁慶様を偲んで植えた松を“弁慶松”と名付けて、傍に祀られた御霊と共に 今に伝えられておられます。
闘鶏神社の弁慶社にも関連しておりますね。

こちらは何というか…寂しく無い場所で御座いますね。
目の前は車道で御座いますし、直ぐそこには中尊寺さんへの御参道が開かれておりますので、常に沢山の人通りがあって、近くの花壇には色とりどりの御花が綺麗に咲いていて……何方でも弁慶様を近く感じられる距離というのが嬉しいですね。
車で中尊寺参詣される場合には見落としそうなスポットでは御座いますけれど、平泉駅から徒歩もしくは自転車で訪れる場合には確実に通過する場所で御座いますので、これまでも、そしてこれからも沢山の方々が こちらで弁慶様を想って様々な念を抱かれるので御座いましょう。
* * * * * * * *

↑↓中尊寺さん向かいのレストハウスには、とってもナイスな目印の御店が〜♪
“藤原四代”の方々が良いですね!


中尊寺境内――月見坂登り途中、左脇に入ったところには、“弁慶堂”と呼ばれる御堂が御座います。
頼朝様との対立の後、追捕の目をかい潜って奥州平泉まで辿り着かれた義経様御一行は衣川高館の御館にて妻子共に御暮らしになられておられたといわれますが、藤原秀衡様亡き後、次代である泰衡様の軍勢に攻められた末に自刃なさいました。
その際、弁慶様は主人を最期の瞬間まれ護り抜く為に 多勢の兵に立ち向かわれ、雨のように飛んで来る矢をその身に受け続け、仁王立ちになられたまま御亡くなりになられたと伝えられます。
今も身動きの取れない状況を“弁慶の立往生”といいますが、これの基となった故事で御座いますね。
そもそも“往生”とは、極楽浄土…仏国に往き仏に生まれ変わる事であり、平たくいえば現世での死と直結する事になりますが、これを戦場で それも立ったまま遂げられた事は、その場に居た人も居なかった人にも衝撃的な出来事だったので御座いましょう。
弁慶様のその行為を立往生と呼ぶ事自体に、弁慶様の御供養の心が繋がっているように思います。
居合わせた者にとっては阿修羅のように恐ろしい御姿として映っておられたかもしれませんが、守護者の内側にあったのは 恐らく主君への忠誠心、そして人として芽生え育まれて来られた愛情であったのでは無いかと思いでしょうか(変な意味では無く…;)
この故事について真偽の程は明らかでは御座いませんが、既に絶命しても尚、義経様を御護りする為に その身を退ける事を拒まれた弁慶様は、御自分の使命を最期の瞬間まで全うされた英雄として、日本人の心を常に惹き付け続けて来られた御方なので御座います。

今は普通に“弁慶堂”と呼ばれ表記されおりますが、元々は勝軍地蔵菩薩を安置した愛宕の御宮さんであったようで御座いますね。
当時は神仏混合しておりましたので、御堂前の御参道に建てられている鳥居も 明治以前の建立で御座いましょう。
鳥居につられて、ついつい2礼2拍手1礼作法で参拝しかけてしまいます…;
でも、私は神仏集合時代の名残を感じられる寺社は大好きで御座いまして……そんな間違いも現代人ならではと思うと、何だか妙におかしな気分になってしまいますね。
矢張り、私の心は現代人離れしているので御座いましょうか(苦笑)
“弁慶堂”と呼ばれるようになったのは、いつ頃からの事か存じませんが 義経様の木像と共に弁慶様の御像も安置されておられるが故のようで御座います。
義経様もいらっしゃるのに、あえて“弁慶堂”というところがミソで御座いますね〜。
こちらの弁慶様像は薙刀を持ち、七つ道具を背負われる巨大な御仏像で御座いますので、パッと見も 矢張り弁慶様に目が行ってしまうようで御座います。
御堂の再建年代は文政9(1826)年という事で御座いますが、御創建年代は伝わっていないようで御座います。
由緒
この堂は 通称 瓣慶堂という
文政九年の再建である
藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を杞愛宕宮と称した傍に義経公と瓣慶の木像を安置す
瓣慶像は文治五年四月高館落城と共に主君のため最後まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり
更に宝物を陳列
国宝の馨及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。

↑弁慶堂への御参道入口付近には、個人的にいつも御世話になっております フジカラーさんのロゴが入った記念撮影用パネルが置かれております。
これが無ければ もっと厳かな場所のような感じでは御座いますけれど(笑)、これが置いてある御陰でとてもファンシィさがアップしておりまして、何方でも気軽に御参詣出来そうな感じが とても素敵で密かな御気に入りスポットで御座います♪
毎回、恥ずかし気も無く顔を嵌め込んでしまいます。

※明日は、中尊寺麓に御座います 弁慶様の墓所について。



