日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

竹間に注ぐ、御霊の光。
殿墓


福岡県北九州市門司区大字黒川には、“殿墓(とのばか)”と呼ばれる平家の武将のものと伝えられる墓地が御座います。
門司港駅から西鉄バスで20分程、八木田の停留所で下車。
そこから民家脇の小道を上ったところに↑のような案内板があり、一見何ともアバウトな感じの地図のようでは御座いますが(笑)、割とそのまんまな感じに進んで参りますと 殿墓に辿り着く事が出来ます。

道なりにしか進めないので迷いようは無いのですけれど、思いっきり民家前を通過致しますので、そちらの番犬さん方に只管 威嚇され続けてしまいました。。
犬とは仲良くなれる自信があっただけに(何処からくる根拠だか…;)、本気で吠えられて思わず立ちすくんでしまい、立往生しておりましたら御家の方が出ていらして、事情を御話致しまして通らせていただいきました……何て迷惑な私…すみません…凹。

殿墓


民家前を抜けますと、目の前には竹薮が見えて参ります。
距離的には、本当に目と鼻の先位の近さで御座います。

殿墓04


余り御天気の良い日では無かったのですけれど、日暮れ前でも仄暗い薮の入口で御座います。
ストロボ撮影(↑)をしてしまうと妙に怖い感じに写ってしまいますけれど、実際は そんな恐怖感のようなものは感じませんでした。
むしろ、すらりと聳える竹の木々に囲まれて、天井から僅かに差し込む薄明かりが綺麗だなぁ…と思っておりました。

以下、案内板の表記内容で御座います。

   殿墓

 十八基の五輪塔は、平家の武将平休息とその同族の墓と伝えられています。
 伝承によると、一門の武将休息は安徳天皇の命を受け、宇佐八幡宮に戦勝を祈願しましたが、帰路、平家一門が壇ノ浦の合戦で滅亡したことを知りました。
嘆き悲しんだ休息たちは、壇ノ浦に近い黒川の山間部に落ちのび、平家一門の菩提を朝夕弔いました。
平家残党の追求が緩やかになってから里に下り、田畑を耕す生活に入ったといわれています。
のちに源氏の目をおそれ八木田と姓を改めました。
この姓は耕地の中央に居を構え、八方に樹木を植えて風を防いだことにちなんだものといわれています。
     北九州市教育委員会



平休息(たいらのやすおき)様は……平家物語 その他 文献等でも見られぬ御名前で御座います故、存じ上げませんが…説明から察するには御一門、もしくは御縁の方のようで御座いますね;;
御名から御家系を探る事も難しく、その存在自体、今となっては分からない御方で御座います。

主上より直々に…では無いのでしょうけれど、宇佐神宮へ戦勝祈願の参拝を命じられ、その帰路に壇之浦合戦にて平家御一門の滅亡を知ったという事で……。
八幡様はどちらかといえば源氏方の氏神様で御座いますが、壇ノ浦決戦迫る時期に 何故 敢えて宇佐八幡宮への御祈祷が出されたので御座いましょう。
また、帰路にて報を得たとして、そのまま大分まで引き返すなり、遠方へ逃れるなり法はあったで御座いましょうに、わざわざ この地まで戻られて来られたというのは……御一門の最期を その目で見るまでは信じられなかったからなのかもしれませんね…。

殿墓


10メートル程かと思われる細道に沿って、18基の御墓が里の方を向いて並んでおります。
1基1基の御墓に手を合わせながら御参りさせていただきました。
御墓には全て、丁寧に手入れがなされておりまして、地元の方々が大切に護られている御様子を伺う事が出来ました。

* * * * * * * *

殿墓


こちらは、八木田停留所付近に御座いました貴船社。
実は、殿墓へ向かう最初の路地を見付けられず、この御社の付近をフラフラと往来しておりましたら、御宮さんの直ぐ下にいらっしゃった御婆様が親切に教えて下さいまして…。
無事に御参りして戻って来れました時には、既に御婆様の御姿は見えませんでしたので、こちらの御宮に御挨拶をさせていただいて参りました。
拝殿前には土俵も御座いまして、何とも暖かな風情を感じさせていただきました。

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終結の関。
源平壁画


↑こんな ふざけた落書きをしておきながらアレなのですが…この記事を書きながら、大河「義経」の壇之浦合戦の回を観て号泣してしまっております。。
何度観ても駄目ですね…やるせない気持ちで一杯になってしまいます。
悲しいとか、哀れだとか……そういう言葉では括り切れぬ想いで御座います。

約1年間放送される大河ドラマでも短いと感じてしまうもので御座いますね…1話1話の展開が早すぎて、御亡くなりになられていく方々を次々に見送らねばならず、1年間では描き切れない部分もあってか(というか、あくまでも主役は義経様で御座いますので)平家方には登場しない人物も結構いらっしゃいますし…知章様とか…経盛様御一家とか教盛様御一家とか…あと平家方の女性関係等は殆どパスされておりましたね〜;
大河といえば…35年前(だったような…私は未だ生まれておりません;)の大河ドラマ「新・平家物語」の総集編はビデオで所持しておりますが、総集編だとビデオ2巻に全話を凝縮されてしまっているので、怒濤の如く繰り広げられる展開にアタフタしてしまいます;;
1話から最終話まで全部ちゃんと観たいなぁー…と思いつつも、残念ながら見付からないのです(苦笑)

門司側より拝む古戦場


さてさて、大河な話題は この辺に置いておいて…。
こちらは福岡県北九州市門司区――壇之浦合戦場を見下ろす、門司の和布刈山中腹のめかり第2展望台。
源平壁画こと、源平合戦絵巻のある展望台で御座います〜!

関門海峡大橋の方向に向かって、設けられた有田焼の陶板製の壇之浦合戦壁画は、高さ3m、長さ44mという大規模なもので、屋外の陶板壁画では日本一なのだそうで御座います。

源平壁画


↑八艘飛びの義経様に、追っかけようとなさる教経様。

この壁画作成時に参考されたのが、赤間神宮所蔵の安徳天皇縁起図なのだそうで御座います。
教経様が壇之浦まで生存されていたとされるのは、平家物語に因るもので御座いますね。

   壇之浦合戦壁画

壇之浦合戦の模様を美しい有田焼の陶板で再現した壁画で、義経、教経、二位の尼、安徳帝,建礼門院などが生きいきと描かれています。
     北九州市



源平壁画


   源平壇之浦合戦絵巻

 眼下に広がる関門海峡一帯は、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。

 栄華を極めた平家も五年間におよぶ源氏との戦いで追いつめられ、平家一門の存亡をかけて壇之浦に集結した。
一方、源氏方も精鋭を集め、史上まれに見る大規模な海戦に臨んだのである。

 寿永四年(一一八五年)三月廿四日卯の刻(午前六時ころ)、早鞆の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。
四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じった。
当初平家が優勢と見られたが、源義経の巧妙な先方が功を奏し、その日六時ごろ平家の敗北は決定的となった。

おごれる人は久しからず
    唯春の夜の夢のごとし


 この壁画は、うず潮の中で繰り広げられた源平の合戦図である。
赤間神宮(山口県下関市)の社宝、安徳天皇縁起図を参考にして描いたものであり、有田焼(佐賀県有田町)の陶板を使用している。

 御座船に乗っているのは、安徳天皇(御年八歳)、建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の母)、二位尼(平清盛の妻、安徳天皇の祖母)である。
  この後、二位尼は、もはやこれまでと、安徳帝を抱いて「浪のしたにも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。

 波間に浮ぶ女性は建礼門院で、幼帝を追って身を投じたが、源氏方に救われて京都に送られ尼となった。

 海上を跳躍する武将は源義経であり、平家の猛将 平教経に追われて船八艘を飛んで逃れている。
  これを世に義経の八艘飛びという。

 このひときわ大きい唐船は平家の擬装船である。
  これを安徳帝をはじめ大将分の乗った御座舟に見せかけ、源氏軍がこれをめがけて装ってきたところを包囲し、全滅しようという作戦である。

 いるかの群が見えるが、戦い半ばにして早鞆の瀬戸にいるかの大群が突如出現した。
  いるかの様子で吉凶を占ったところ、平家に凶と出た。

 壁画の概要
   長さ 約 四十四m  幅 三m
   陶板(主に三百mm×三百五十mm×五十mmの大きさ) 約千四百枚を使用。
     平成二年十月 北九州市



源平壁画


↑こちらのガイドさんは、源平史跡を巡る観光ガイド付バス レトロめかり周遊バスのガイドさんで御座います〜。
こちらから観る海峡の景色が1番綺麗だと仰っておられました。

レトロめかり周遊バスは、門司港レトロの開業10周年を記念して運行されている観光路線バスで、約1時間程で門司港レトロ〜めかりエリアの史跡等を散策する事が出来ます〜!
ガイドさんも同乗して下さいますので、とっても判り易くて楽しい時間が過ごせるのです♪
門司港駅前 → レトロ展望室 → ノーフォーク広場 → めかり山荘 → めかり第二展望台 → 関門トンネル人道口 → 和布刈公園前 → 甲宗八幡前 → レトロ桟橋通 という源平関連率高!な順路で毎時間に1本ずつ出ておりまして、料金も最後まで乗っていて220円と大変御得なバスで御座います。

うちの母上も、私がしょっちゅう帰省の度に下関〜門司を散策しておりますので、何となく興味を持ったようで御座いまして…九州出張ついでに門司へ行きたいと相談されたので、気軽に観光気分を味わえる このバスを紹介してみましたら、予想外に楽しまれたようで 大絶賛のメールが届きました(笑)
私は、途中下車で利用する事が多かったのですが、途中下車せず最後まで乗ると 楽しくて御得でも御座います。

今年度末までは土、日、祝日、夏冬春休み期間の運行が決定しているようで御座います〜。

源平壁画


壁画はとてもとても幅が御座いますので…なかなか1枚の写真に正面から全景を写す事は出来ません;
は…羽があれば……!(苦笑)

門司側より拝む古戦場


壁画近くには、源平壇之浦合戦について説明された 屏風状の案内板が御座います。
英語でも記されておりまして、なんて国際的!と驚いてしまいました。
屏風を模している感じが、何とも雅で御座いますね。

   源平壇之浦合戦について

 眼下に広がる関門海峡は、一日七百九余艘が通過する国際航路であるが、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。
 寿永二年(一一八三年)栄華を極めた平家も衰えを見せ、永年勢力を争った源氏の木曽義仲に追われ京都を逃れた。
平家は平清盛の外孫安徳天皇を擁して、百艘ばかりの船に乗り、平家ゆかりの地九州の宇佐八幡を頼ったが、平重盛の家人であった緒方三郎惟義の裏切りにあい、やむなく筑前の太宰府天満宮に入った。
しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた、城主山鹿秀遠と香月の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里)に上陸した。

   ここに内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、余限なかりければつくられず、又長門より源氏よすと聞こえしかば、海士の小舟にとりのりて、海にぞうかび給ひける。
         平家物語


 平家は柳が浦に内裏(この故事により、今の大里と改められており、大里には安徳天皇の行在所となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、もはやその力もなく、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、瀬戸内海を東へ逃れた。
 東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島で源義経の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で対峙した。

   源氏の船は三十艘、平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。
  源氏の勢はかさなれば、平家のせいは落ぞゆく。
  元暦二年三月廿四日の卯剋に、豊前の国門司、赤間の関にて源平矢合とぞさだめたる。
   すでに源平両方陣をあわせて時をつくる。
  上は覚天まできこえ、下は海龍神もおどろくらん・・・

       平家物語

 寿永四年(元暦二年、一一八五年)三月廿四日の卯の刻(午前六時ころ)、早鞆の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。
四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をたなびかせて入り交じった。


 当初平家が優勢と見られたが、源氏の勝利を余弦する種々の奇跡が現れて、四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法により、その日十六時ごろ平家の敗北は決定的となった。
 平清盛の妻で、安徳天皇の祖母二位尼は、もはやこれまでと、御座船から八歳の幼帝をいだいて「浪のしたにも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。
帝の母建礼門院もこれにつづいて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。
「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」五年間におよぶ源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。

  この壁画は、眼下の海峡で繰り広げられた源平の合戦図であり、赤間神宮の社宝、安徳天皇縁起図を参考に描いたものである。
  壁画中央の御座船に安徳天皇、建礼門院,二位尼の姿がある。
  御座船の左上、波間に浮ぶ女性は建礼門院,救われ京都に送られ尼となる。
  御座船の右手、海上を飛躍する武将は源義経、平家の猛将平教経に追われて船八艘を飛んで逃れる。
 世に有名な八艘飛びという。
   *平家物語は日本古典文学大系より抜粋。
     平成二年十月 北九州市




門司側より拝む古戦場


* * * * * * * *

門司港駅


こちらは、JR門司港駅。
レトロさ満点なのに、都会付近のレトロ地区のように気取ったハイカラ感が無いところが大好きで御座います。

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鏡ヶ池の玉水。
風呂井戸01


福岡県北九州市門司に御座います、こちらの井戸は“安徳天皇 風呂井戸”と伝えられている史跡で御座います。

安徳天皇を奉じた平家一門が、風呂用の湯浴みに用いた鏡ヶ池という泉の玉水が元のようで御座いますが、現在は井戸として残されております。
汲上式のポンプが付けられておりますので、もしかすると地元の方々が使われているのかもしれませんね。

御風呂用の御水という事で御座いますが、御湯に浸かった……という事で御座いましょうか…。
当時の風俗では 御風呂=蒸風呂で御座いますし、基本的に体は拭くものでしたので、現代のように毎日御風呂に入って御湯に浸かる習慣というのは無かったといわれております。
温泉は御座いましたが、入浴というよりは 湯治という感じで医療目的だったようで御座いますし……蒸風呂の為の御水だったので御座いましょうか。
もしくは、薬湯に使われたのかもしれませんね。

かつて柳村に、平家一門の霊を祀る風呂禅印西光大専寺という御寺さんが在ったそうで御座います。
当時は 湯屋を開放する御寺さんも御座いましたので、恐らくは その御寺さんにて旅の疲れを癒されたのでは無いかなぁと思われます。

風呂井戸02


井戸の後ろには、風呂井戸の碑と並んで 水神様も御祀されておりました。

直ぐ傍の御堂は安徳天皇の御霊を弔って建てられたもので、御仏像が安置されております。

   風呂の井戸

 木曽義仲の乱入で京都を追はれた平家は再起の地を大宰府に求めたが緒方惟義の反逆にあい住吉、箱崎、香椎、宗像をふしおがみ、芦屋から海路この柳ヶ浦につき「内裏」を定めたのが寿永二年の秋であつた。
旅の疲れをいやすための風呂の用水がこの「鏡ヶ池の玉水」で以来この泉を安徳帝風呂の井戸といゝ伝えられている。
この周辺の字名は風呂となつているが大正の末期に不老として町名にした。

   風呂の地蔵

 一度は西下した平家も空しく引揚げ一の谷で敗れ再び西下、壇の浦の藻屑と消えたのが寿永四年であつた。
平家一門の霊を祀った風呂禅印西光大専寺は柳村に在つたが慶長年間に改宗して街道筋に移され、地蔵堂だけは風呂の一角に残されていた。
今改めて小堂を建立し御幼帝の霊を弔う、合掌
 昭和四十六年八月 柳協有組合



風呂井戸03


風呂井戸は 道路脇の路地入口に溶け込むように御祀りされておりまして、地域の方々と共存されている感じが伺えます。
御所神社戸上神社からも 割と近い場所に御座います。

風呂井戸04


↑駅前の不老通りで御座います。
風呂の井戸の“風呂”が この辺り一帯の地名となり、“風呂”が“不老”になって 現在の この通りの名になったそうで御座います。
遡れば寿永の頃に由来する名称を、今も受け継いでいるというのは素敵な事で御座いますね〜!

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1100年後も輝く聖地で。
戸上神社01


JR門司駅から御所神社を経て更に登って参りますと、高速道路の高架下に石造の鳥居が見えます。
戸ノ上山麓に祀られた こちらは、戸上神社――御所神社の“キリメン様”と呼ばれる石室に安徳天皇平宗盛様を象ったとされる木像が、現在は 戸上神社にて御祭祀されていると記しましたが、それが こちらの神社で御座います。
戸ノ上山頂には、上宮が御祀りされております。

海峡ドラマシップの海峡歴史回廊の入口付近の展示に戸ノ上山の説明には“平安初期、唐より帰国した空海は博多より京に向かう途中、門司にそびえる戸ノ上山にはげしい霊感を感じ、小さなお堂をたて満隆寺と名づけ唐より持ち帰った観音像を安置。17日17夜、唐で学んだ仏事を行った”とあり、1100年以上の歴史を持つ由緒正しい聖地である事を学ばせていただきました。

戸上神社02


□ 戸上神社(とのうえじんじゃ)

所在地:福岡県北九州市門司区大里戸ノ上
御創建:寛平年間(889〜897年)
主祭神:天御中主神 伊邪那岐神 伊邪那美神
通 称:権現さん


“権現さん”と呼び親しまれている事からも解りますが、元々は神仏習合の形をとっていた御社で御座います。

主祭神の他に、合祀された御祭神として 奧津日子神、奧津比賣神、須佐之男神、大山祇神、大穴牟遲神、少名比古那神、豐日別命、宇迦之御魂神、保食神、高淤加美神、高淤加美命、闇淤加美命、罔象女神、建御名方神、猿田彦神、安徳天皇平宗盛公 の17柱の神様が御祀りされております。

   戸上神社

御祭神
天御中主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 外十七柱

御由緒
 宇多天皇の寛平年間(約壱千余年前)御神託により創建す
奉祀の際御霊代を枝折戸に奉戴して 山頂に奉安せしに因り 宮を戸上神社と号するに至れり
 江戸時代 小倉藩主細川公 小笠原公の尊崇篤く 社殿造営社領寄進等あり また参勤交代にて九州諸大名大里の宿場通過の砌 武運長久海陸交通安全を祈願せり
 旧柳郷(大)の氏子は古来戸上権現と称し 開運長寿産業興隆の鎮守の社として崇め奉り 霊験著しく今日に至れり



とても綺麗な御社殿が印象的で御座いましたが、こちらの造営は千百年記念事業として行われたそうで、つい最近…平成14年11月の事だそうで御座います。

満隆寺


戸上神社隣には、満隆寺の大師堂が現存しております。
元々、弘法大師(空海)様が名付けて創建したのは満隆寺で御座いましたが、明治の神仏分離後に戸上神社として残される事となったようで御座います。

   満隆寺略記

 戸上山満隆寺縁起によれば 平城天皇の大同元年(西暦八〇六)弘法大師唐より帰朝の折 関門海峡を御通船 霊峰を望見し当地に御上陸 密法を修行され 山麓に一宇を建立 満隆寺と号す
 世移り 戦国時代 大友の兵火に罹り 堂宇僧坊悉く灰燼に帰す
 江戸時代 修験道に属せしも明治初年神仏分離の制度となり 戸山神社として今日に至る
現在の大師堂は満隆寺の名残と伝えしる




戸上神社の境内は、想像以上に清々しい霊地で御座いまして、空海様が思わず上陸して御寺を建立してしまったという故事にも納得してしまいます。
こちらの神職さんにも大変親切に接していただきまして、とても嬉しい気持ちで満たされました〜。

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柳靡く御所。
柳御所01


門司側の源平史跡、柳御所跡地と伝わる 御所神社
平家を中心に考える場合、ここは絶対に外せないポイントで御座いますね。

   柳の御所

 寿永二年(1183) 木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、大宰府に落ちていった。
 しかし、ここでも、豊後の豪族・緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀軍山鹿の城を経て、豊後国 柳ヶ浦にたどりついた。
 この柳ヶ浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
 現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。
 境内の歌碑は映画を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。

  都なる 九重の内 恋しくは
     柳の御所を 立寄りてみよ  薩摩守 忠度

  君住まは ここも雲井の 月なるを
     なほ恋しきは 都なりけり  大納言 時忠

        参考文献 平家物語(応永書写延慶本) 
         北九州市 北九州市教育委員会



柳御所02


境内には、柳御所にて 都を偲んで詠われたとされる和歌が刻まれた歌碑が御座います。

柳と云所に著せ給ひたりけるに、楊梅桃李を引植て、九重の都に少似たりければ、薩摩守忠度のかく、
“都なる九重のうち恋しくば柳の御所を立よりて見よ”

   (源平盛衰記「平家太宰府落並平氏宇佐宮歌付清経入海事」による)


↑の忠度様の御歌の他、寿永2年9月13日(1183年10月8日)の晩、名月に乗じて行われた歌会にて経盛様、時忠様等も 遠い都を思いつつ月に寄せる恋心を詠まれて、互いに涙を流されております。

九月十三夜に成ぬ。
今夜は名を得たる月也。
秋も末に成行ば、稲葉を照す雷の、有か無かも定なく、荻の上風身にしみて、萩の下露袖濡す。
海士の篷屋に立煙、雲井に昇面影、葦間を分て漕船の、波路遥に幽也。
十市の里に搗砧、旅寝の夢を覚しけり。
よわり行虫音、吹しをる風の音、何事に付ても藻にすむ虫の風情して、我から音をぞなかれける。
更行秋の哀さは、何国もと云ながら、旅の空こそ悲けれ。
冷行月にあくがれて、各心を澄しつゝ、歌をよみ連歌せられけるにも、都の恋しさあながち也。
会紙を勧めけるに、寄月恋と云題にて、

薩摩守忠度、
“月を見しこぞのこよひの友のみや都に我を思ひ出らん”

修理大夫経盛
“恋しとよ去年のこよひの終夜月みる友の思ひでられて” 

平大納言時忠
“君すめば爰も雲井の月なれどなほ恋しきは都なりけり”

左馬頭行盛
“名にしおふ秋の半も過ぬべしいつより露の霜に替らん”

大臣殿
“打解けて寝られざりけり楫枕今宵の月の行へ清まで” 

各加様に思つゞけ給ひても、互に御目を見合て、直垂の袖をぞ絞られける。

   (源平盛衰記「平氏九月十三夜歌読事」による)


ちなみに…経正様の御歌“わけてこし 野辺の露とも きえずして 思はぬ里の 月をみるかな”の歌碑もあるのですけれど…これは 平家物語によりますと、大宰府での仮御所にて詠まれたもので御座いますね。
ただ、同じ場面で忠度様や経盛様が詠われた和歌は、上記の盛衰記に記されている柳御所での御歌と同じもので御座います;

   九月十三夜の歌読の事

寿永二年(一一八三)安徳帝を奉じた平家一門は柳が浦に上陸し柳御所を造営した。
九月十三夜の歌宴を此処で催し、次の歌を詠んでゐる。

紐解けて寝られざりけり楫枕今宵の月の行方清むまで
     大臣殿 宗盛

月を見し去年の今宵の友のみや都に我を思ひ出づらむ
     薩摩守 忠度

悲しとよ去年の今宵の終夜月みる友の思ひ出られて
     修理大夫 経盛


   清経、柳が浦へ入海

重盛殿三男 左中将清経は柳御所より小舟に乗り沖に出て
「哀れはかなき世の中よいつまで有るべき所とて」と静かに念佛して波の底に沈んでいった。



柳御所03


□ 御所神社(ごしょじんじゃ)

所在地:福岡県北九州市門司区大里戸ノ上
御創建:不詳
    (※現在、戸上神社御旅所)


こちらの地名に“大里”とありますが、これは“だいり”と読みます。
柳御所=内裏が置かれた事に由来する地名で御座いますね。
元々は“内裏”とか“大裏”等と書かれておりましたが、江戸期に海賊等によって神聖な内裏の地が汚される事を恐れ、“大里”と記す事になったようで御座います。

平家物語によれば、豊前国の柳が浦まで来た平家一門は この地に内裏を造営する事を決めますが、どうやら相応の広さが得られなかったようで御座います。
その為かどうかは判りませんが、余り長居はされなかったようで御座いますね。
安徳天皇が柳御所に滞在されたのは1週間〜1ヶ月程度の期間であろうと推測されております。

   明治天皇玉座の間

明治三十五年(一九〇二)十一月十日(復路仝月十五日)明治天皇は熊本で行われた陸軍特別大演習を御統監のため大里に上陸なさいました。
 このとき明治天皇は大里停車場構内に新築された休憩所にて熊本への往復ともしばらく御休憩になりました。
 この休憩所を安徳帝旧跡の柳の御所拝殿として遺し、長く御聖徳を偲ぼうとの声が起り当時の村長、村会議員の人達は九州鉄道株式会社と折衝を重ねた結果、ついに寄贈が決り、翌年ここに移築造営された物であります。
 この拝殿には正面の屋根には「菊の御紋章」があがり内部左側には、「玉座の間」があって当時の歴史を偲ぶことができます。



柳御所04


こちらは、地元の方々に“キリメン様”と呼ばれている花崗岩製の石室。
この中には、安徳天皇と平宗盛様を象ったと思われる木像が納められていたそうで御座います。
御神像の制作磁器は 源平合戦終結直後の頃であると推測されているそうで御座います。
御縁の方か、もしくは里の方々が 平家一門と帝の死を悼んで、弔いの為に御祀りされたものであろうと思います。
現在は、御所神社より10分位の場所に御鎮座されております 戸上神社にて御神像を祭祀されているという事で御座います。

   

キリメン様の石室

 この石室には、文化2年(1805)9月立之、と刻されております。
木舟をキリメン様と呼び親しんでいた村人達が、御神像を 保存するため、石室を建立したものと思はれます。
平家物語、源平盛衰記に記された、柳御所の所在地を調査の為、旧柳村を訪れた佐野経彦翁は、文久3年(1862)「柳御所考」を着し、次の様に記しています。
   記
一、内裏跡地については、疫神社と木舟社の両説あるが、双方は非常に接近しているので、昔は一体のものと見るべきであろう。
二、疫神社、木舟社と夫々天皇の大御称を隠しひそかに祭祀したのは、其頃は源氏の世であった為と思はれる。
三、木舟社の森の中程に、東面して建てられた一基の石室があり扉の奥には、木像二体の御神像が安置されていた。
四、高さ七・八寸の、霊を抱えて見える小児の御姿が安徳天皇像 公卿の黒の衣装をつけ、腕を組んだ座像が平宗盛卿像である。
五、御神像の製作期は、大変古く考えられ恐らく文治・建久(一一八五〜九八)頃のものと見える。
六、内裏跡の聖地が村人達に踏み汚されぬよう、跡地に樹を植えたため、後年には疫神の森、木舟の森とも呼ばれていた。
現在、この石室にあった御神像は、戸上神社の御神宝として祭祀されております。 敬白
 平成十六年十二月吉日



柳御所05


鮮やかな朱色の拝殿の直ぐ右手には御稲荷さんが祀られており、更に鮮やかな朱と金色が眩いばかりの聖域を保たれているようで御座います。
実は最初、神社正面からでは無く、拝殿正面から見て裏側に当たります 御稲荷さんの朱鳥居の方から神社に入っておりました。
正面の方が、門司駅から近いのに……(笑)

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