
高野龍神スカイラインは、高野山と龍神村とを結ぶ道路。
全長42.7キロメートルの国道で御座いますが、元々は有料道路だったそうで御座います。
私が こちらを通ったのは、今年の5月27日の事。
我ながら、孤独に誕生日をエンジョイしているなぁと苦笑しつつも、五月晴れの空の下でのドライブは、本当に楽しくて清々しいもので御座いました♪
龍神村から高野山方面へ車を走らせて行くと、元々上り坂であった道が、かなり急なこう配の坂道へと変わっていきます。
元は有料であった国道なので、ちゃんと2車線で整備された走りやすい道である事が とにかく有難く感じられる道で…安全運転、安全運転、と気を付けながら進んで行きますと、護摩檀山森林公園への入口があり、その先には ごまさんスカイタワーという展望台のある休憩施設が御座いました。
既に標高1000メートルの地点を通過しておりましたので、何処かで景色を見渡してみたいなぁと丁度思っていたところで…。
私もクラッカーさんも、高い場所が大好きで御座いますので、
「やったぁ、展望台!」
と元気良くスカイタワーに向かってダッシュしておりました(笑)

護摩檀山は標高1372メートルで、和歌山で2番目に高い御山。
和歌山県と奈良県の県境近くに位置しており、高野龍神国定公園の一部となっております。
“護摩檀山”という名称について。
実は…こちらも、熊野へ落ちられ那智沖で入水して果てられたと平家物語に語られる平維盛様の、その後の伝承地の1つで御座います。
維盛様は、この御山に登って護摩を焚き、平家の行末を占われたといわれております。
煙が天に昇れば御家の再興、下に降りれば敗北を意味すると定義付けて望まれたところ……煙は、上へは昇って行かなかったという事で御座います。
これにより、維盛様は平家再興を諦められ、更に落ち延びられて行かれた――と、語り継がれております。
↓スカイタワー入口である売店の傍には、この伝承について記された説明板も立てられておりました。
護摩檀山
その昔、屋島の合戦から逃れた平維盛は この山のふもとで恋人お万とかくれ住んでいた.
ある日山頂に登り護摩を焚き平氏勝利を得るならば この煙を天へ上げ給へ、もし不運にして敗るならば この煙を地に下し給いて我が家の運命を知らせ給へと運を占ったが煙は地に下っていった.
これを見て維盛は平家の繁栄は覚来ないと思い煙の流れる西方に落ちのびていった.
この護摩を焚いた故事により護摩檀山と名づけられた.
龍神村
護摩檀山は“ごまだんさん”と読みますが、近くの方々には“ごまさん”として親しまれているのだそうで御座います。

スカイタワーへは、売店で入場料を御支払いしてゲートを通過して向かいます。
タワーのエレベーターまで少しだけ階段を上るのですが、丁度階段を上り切った辺り…エントランスの手前右脇には祠が御祀りされており、その傍には“提灯杉”と呼ばれる杉の木が立っておりました。
「チョウチン杉」の謂れ
昔、高野山と龍神を行き来する人は、この街道のちょうど真中位にあたるこの護摩檀山で一服した。
その時、近くの手頃な木に提灯をぶら下げて火を取り換えた。
いつしかこの木は「ちょうちん杉」と呼ばれるようになった。
この木が、中庭にある御神木の杉だといわれている。
この大きな杉もそのころは、まだ背も低く、提灯をさげるのに、ちょうどよかったことが想像され、旅人の休む姿が、この木の下に思いおこさえる。
この杉の木は、今も昔もここを行き来する人を暖かく見守っている。
提灯杉さんは、腕の形が面白くて…まるで踊っているみたいだなぁと思いました。
高野と龍神とを結ぶ街道の中心、護摩檀山の頂上に程近い この場所で、往来の人々を見守ってこられた この杉さんは、道標の役割も持っておられたのかもしれませんね。
人と自然との共存が当たり前であった時代から現代に至っても、常に人との距離を近く感じさせて下さる提灯杉さんなので御座いましょう。

そして、スカイタワーの展望室へ。
スカイタワーの外見は、維盛様が護摩を焚かれたという伝承に肖って、護摩木を組んだデザインになっております。
こちらからの眺めは、まさに絶景!
紀伊山地の山々が、どうして自分よりも下に見えるのかが不思議で堪らないという感覚に、しばらく呆然としてしまいました。
展望室の高さは、33メートル。
ここから、なんと四国までもを望む事が出来るという事で御座いました。

えぇと…展望室から、龍神村の小森谷渓谷周辺の位置を探ります。
小森谷には、護摩檀山に至られる前に維盛様が暫く滞在された跡や、それにまつわる伝承等が伝えられております。
その辺りについて、詳しい事は また秋以降に記そうかと思っております。

小森谷は、護摩檀山を源に発する渓谷。
越戒の滝は、その密林に覆われた絶壁にあり、真下約24メートル、幅は最大約15メートルにも達する壮大な御滝であるという事で御座います。
いずれ、また写真や付近の維盛様関連史跡等と共に御紹介したいもので御座います。



西日本をはじめ、全国的に各地で見られる年中行事なのだそうで御座いますが、私は この春まで全く知りませんでした…;
という事で、先ず辞書で調べてみましたら……。
むし-おくり【虫送り】
農作物、特に稲の害虫を追い払う呪術行事。
たいまつをともしたり、実盛とよぶわら人形を担いだりして、鉦・太鼓をたたいてはやし、村境まで送って行く。
稲虫送り。
実盛送り。 (大辞泉による)
……む!? 実盛……斎藤実盛様!??
呪術行事という響きが、何とも私の興味をそそりますね(笑)
“実盛送り”でも辞書を引いてみました。
さねもり-おくり【実盛送り】
虫送りの行事。
非業の死を遂げた斎藤実盛が稲の害虫に化したという伝説に基づく。
わらで人形を作り、鉦・太鼓をたたき、囃子詞を唱えつつ村境や川まで送り捨てる。
実盛祭り。 (大辞林による)
……非業の死を遂げた…実盛様?
いえ、確かに実盛様は穏やかに御最期を迎えられた御方では御座いませんけれど…それでも、平家物語に語られる その御覚悟は とても潔いもので……。
実盛様は、寿永2年5月21日(1183年6月19日) 篠原合戦にて、敗走する平家軍に従う事無く、決死の御覚悟で奮戦。
老武者と侮られぬように白髪を黒く染め、大将軍と見紛う格好での出陣で御座いました。
そして、木曾軍の手塚光盛様によって討取られ、かつて御命を御助けしていた木曾義仲様の目前に御首のみの御姿となって差し出される事となりました。
敵味方に関係無く、涙を流して惜しまれた実盛様…“非業の死”と称するには聊か疑問が生じるので御座いますけれど…これ如何に。。
虫送りの起源について、詳しい事はハッキリとしていないようで御座いますが、土地によって 江戸期から続く行事であるとか、もっと以前から行われてきた行事であるとか…様々だそうで御座います。
古くから稲作を行ってきた民にとって、害虫被害は大きな問題の1つで御座いました。
いつの頃からか、そんな害虫の大量発生が実盛様の怨霊の仕業であるという迷信が生まれ、そこから虫供養、実盛供養と呼ばれる行事が始まったといわれております。
地域によって様々な言い伝えがあるという事で御座いますが、私が調べた中で多く見られたものに、“源氏の目を逃れて落ちられる途中の実盛様が、稲の株に躓いて倒れられ、無念の御最期を遂げられた”という御話で御座いまして…、実盛様が落武者……で御座いますか。
その死因については、転んだ際に打ち所が悪かったとか、躓いたタイミングで追手に討たれたとか、これも色々のようで御座いますが、亡くなられた実盛様の怨霊が害虫となって原因となった稲を害すようになったという事で御座います。
田植えの後に、田の神様が天に御帰りになるのを御見送りする行事を“早苗饗”といいますが、“さなぶり”が“さねもり”と似た音である事や、イナゴ等を“べっとう”と呼ぶ事から、別当 実盛様の伝承、信仰が生まれたのでは無いかともいわれております。
私が、この虫送りについて知るキッカケとなったのが、和歌山県のみなべ町について調べている時に拝見した資料の中の記述で御座いました。
この時は、みなべに伝わる実盛様伝承なのだと思い込んでいたのですけれど、後々に調べていく中で全国的な風習である事を知りました。
江戸期の頃には全国的に行われていた行事であったそうで御座いますが、移り変わる時代と失われていく田圃の数の所為で、現在では殆どの地域で廃絶しているのだといいます。
私の実家も元は農家であったと聞いておりますし、幼い頃は田畑に囲まれた日々を送っておりましたが、そのような行事は御座いませんでしたので…恥ずかしながら、みなべの西本庄地区で今も虫送り行事を続けられている地域の御寺さんを訪ねて、初めて知った事が沢山御座いました。

こちらが、現在も毎年 虫送りを行われていらっしゃるみなべ町西本庄地区の極楽寺さん。
“実盛様の御弔い”と唱えられる虫送り行事について詳しく知りたいと思い、この6月に伺わせていただいて参りました。
本当はレンタカーを借りて行こうかなと思っていたのですけれど、迂闊な私は 駅から歩いて行けるかも?と浅はかな考えで みなべ駅へ向かってしまいまして;
駅前でタクシーの運転手さんに西本庄までの距離を御聞き致しましたら、とんでもないから乗って行きなさいと勧められまして(笑)…そうさせていただく事に致しました。

□ 極楽寺(ごくらくじ) □
所在地:和歌山県日高郡みなべ町西本庄
御創建:寛永11(1634)年
御開山:空恵龍雲
宗 派:浄土宗西山派
山 号:願西山
御本尊:阿弥陀如来
旧 称:満福寺(※前身)
極楽寺さんは、浄土宗西山派筋村超世寺の末寺として、寛永11(1634)年に御創建されました。
それ以前には満福寺と称する御寺さんが存在していたそうで御座いますが、宗派や詳しい場所等は伝えられていないという事で御座います。
文化11(1814)年に御本尊宮殿を新調され、その後 天保4(1833)年、昭和14年に御本堂の再建が行われております。
庫裡は大正9年9月、地蔵堂は昭和29年の再建で御座います。
英霊堂は昭和24年9月、鐘楼堂並びに鐘楼は昭和37年に新築されたもののようで御座います。
また、極楽寺さんが管理される小字薬師の薬師堂には藤原時代の特色を残す薬師三尊木造立像が伝えられ、小字久米川原の阿弥陀堂には藤原期から鎌倉期の御作と推定される阿弥陀如来木造座像が安置されているそうで御座います。
とても静かで、綺麗な境内で御座いました。

みなべ町の無形文化財にも指定されている極楽寺さんの虫送り行事が行われるのは、毎年7月。
以前は、例年7月7日の行事であったという事で御座いますが、梅の収穫の頃合いや子供達の集まれる日を考慮して、この10年は流動的に日程を決められるようになったそうで御座います。
虫送り当日は、先ず御本堂で百万遍の念仏供養、大数珠操り、御勤めが行われ、19時半過ぎに御寺を出発し、提灯を持った子供達が田をまわり、最後は それを燃やして害虫供養をされるという事で御座います。
その時に子供達が唱えて歩く言葉が、
“サンヤリ、サンヤリ、サネモリサンノ、オトムライ”
“サンヤリ”って何だろう…と思わず思ってしまうのですが、古くから伝えられる掛け声で御座いますので、明確な由来は分かりません。
もしかすると、矢張り早苗饗と繋がっているのかもしれませんね。
この言葉から、土地の方々は虫送りの事を“さんやり”とも呼ばれているのだそうで御座います。
今年は、7月11日に行われたそうで御座います。
とても興味深い行事で御座いますので、是非拝見してみたかったので御座いますが、仕事の都合と合わず、残念ながら その日に訪れる事が出来ませんでした;;
みなべ町指定文化財
極楽寺『虫送り』 一件
― 極楽寺のさんやり ―
『虫送り』は、農耕儀礼として日本各地で古くから行われて来た。
記録によると数百年の歴史を持つ年中行事だという。
戦前は村内でも各地で行われて来たが、現在はその殆どが廃絶している。
そうしたなかで西本庄・極楽寺に伝わる『虫送り』は土地の人々から『さんやり』と呼ばれ、古い伝統をそのまま受け継いで、毎年檀信徒の手によって七月七日に行われている。
その次第は次の通りである。
当日午後二時頃より、極楽寺本堂で住職を導師に檀信徒の人達が『南無阿弥陀仏』を唱えながら一〇八〇顆の大数珠を操って稲の害虫退散を祈願する。
夕方からは檀信徒の子供達(小学生)が、同様のお勤めをする。
夜七時頃から数十名の子供達が炬火をかかげ、寺総代の先導で
「サンヤリ、サンヤリ、サネモリサンノ、オトムライ」
と称えながら極楽寺を出発し、西本庄のムラをまわった後、ムラはずれにある鎮守の森近くの橋のそばに炬火を積み上げ住職を中心に読経の中、炬火の燃え尽きるまでお勤めをして行事を終わる。
二〇〇七年(平成十九)年一月 みなべ町教育委員会

私は事前連絡も無しに極楽寺さんを訪ねさせていただいてしまったので御座いますが、御住職様に御話を伺わせていただく事が出来ました。
とても素敵で有難い御縁に、ただただ感謝の気持ちで一杯で御座います。
虫送りに関する情報をいただいた他にも、様々な御話を聞かせていただきました。
虫供養を通して、環境問題や内面的な心の持ち方を伝えていきたいと仰られておられたのが大変印象的で、今も心に残っております。
帰る際、私がタクシーで来た事を口に致しましたら、なんと御住職様が御車で駅近くの図書館まで送って下さいまして…!
本当に、色々と御世話になりました。有難う御座いました。
↓こちらは、極楽寺さんでいただいた資料によるもので御座います。
極楽寺の虫送り行事
村の無形民俗文化財に指定される
南部川村教育委員会は、村内の歴史や考古学的に価値あるものを調査して、「南部川村の文化財」を一冊にまとめて、このたび、文化財保護審議会によって出版されました。
当山、極楽寺に関係あるものとしては、恒例の虫送り行事が無形民俗文化財として指定(平成八年三月一日附)
境外仏堂である奥谷薬師堂の、薬師三尊立像(平成四年三月二十五日附)
そして奥谷薬師堂に奉納された鯰(なまず)図二個(平成八年三月一日附)が指定され、極楽寺が保存管理することになりました。
因みに南部川村は古い歴史を物語る証據として銅鐸(どうたく)が、六個も出土していて、約千七百年前、弥生時代作と推定されますから、かなり古くから文化の香りがただよっていたものと思われます。
石斧(せきふ)なども見つかっているところからもっと古く、縄文時代にさかのぼることも実証されるわけであります。
(『りんどう』復刊264号 / '96年8月発刊 による)
* * * * * * * *

極楽寺さんの御傍に御祀りされていた、御稲荷様の御社。
何と無く、不思議な雰囲気だなと感じました。
その後、みなべ町の図書館にて この地方の虫送り行事について調べさせていただきました。
この辺りも、全国的にいわれている伝承と同一の謂れなのかなぁと思っておりましたら、どうやら実際に実盛様の落人伝承というのも みなべの埴田地区に伝えられていたようで御座います。
埴田は、敦盛塚、鹿島明神社のある鹿島を間近に望む港付近…現在の鹿島神社や浦安神社が鎮座される海寄りの地域で御座います。
斎藤実盛と虫供養
埴田では毎年七月初めの丑の日に子供たちが鉦を叩いて、
さんようり、さんようり、さねもり、どんざの、おおとむらい
と歌いながら田んぼの畦をまわって虫供養をする。
こうすると「まなご」という虫を田んぼの中から直ぐ見つけることができるという。
昔、平家の落武者、斎藤実盛が紀州熊野から追われてきた。
その時、ちょうどこの辺りでは田植えをしていた。
実盛は百姓から野良着をかりると百姓になりすまし、一緒に田植えをしていた。
そこへ追手がきて
「今しがた平家の落武者が逃げてきたはずだ」
と百姓を調べた上、実盛を見つけ出して首を落とした。
それで埴田の人たちは毎年七月初めの丑の日に、実盛の霊をなぐさめるために鉦を叩いてまわるようになった。
また、こうすると「まなご」がなくなると伝えられる。 (『南部民話伝説集』)
…何故に、実盛様が熊野から追われるという事になってしまったのかは分かりませんが、平家や皇族の方々の落人伝承も数多く語り継がれている熊野という地を想えば、不思議と然程 違和感を感じないような気も致します。
虫送り
埴田地区の丑の日の行事は他の地区とかなり変わっている。
『埴田区史』に次のように記している。
牛の縁日で浜で牛を洗う。
休み。
又当日は「虫送り」いわゆる「さんやり」である。
小学校の上級生が指揮をとり区内の男子を集め、隊列を組み、尖端に笹のついた丸竹を捧げ、大太鼓を先頭に、まずひよ川(通称すくんど)で区長はじめ立会議員列席、薬師寺住職の虫送りの供養を受け、それから大太鼓をたたきつつ声高らかに
「さんやーりさんやり 実盛どんのおとむらい あーと先け とうてやろ」
と唄いながら区内を一巡、川口へ送り出すのである。
明治二十四、五年(一八九一・二)ごろまでは川口で区から酒を出したが、その後禁酒、菓子に代えた。
子どもの娯楽日であったが、この行事も昭和に入ってから自然と消えた。
(南部町史による)
埴田地区では既に途絶えてしまったという、虫送り行事。
また機会を見付けて、その他の地域の虫送り風習等についても調べてみたいなと思いました。



和歌山県日高郡みなべ町――南部湾の沖合に浮かぶ、鹿島。
古くより信仰の対象として崇められ、大宝元(701)年に この御島を詠まれた御歌が万葉集に収録されております。
そんな島内の聖域に、平敦盛様の御墓、もしくは供養塔がある…という情報を元に、色々と調べさせていただいたので御座いますが……どうやら、鹿島は現在 無人島のようで御座いまして、定期船等も運航されておりませんので、釣りを楽しまれる方やハイキングに出掛けられる方以外は普通、地元の方でも滅多に赴かれる事が無いそうで御座います;
観光協会さんのサイトの鹿島神社の説明文のところに“北島にある宝篋印塔は、平敦盛の冥福を祈るため、弥平兵衛宗清が建立したと伝えられています”と記載されておりましたので、詳しく教えていただきたいと思いまして問い合わせをさせていただいたので御座いますが、何故か役場の方も観光協会の方も御存じ無いという事で御座いました;
鹿島周辺には小さな島々が幾つも点在しているらしく…“北島”というのが何処を指しているのだろうかと大いに悩まされたので御座いますが、それでも鹿島の辺りに現存する事が確かなのであれば、それだけで充分!!ここは ひとつ自力で探し当ててみせようぞ!という事で…単純な私は、予備知識もろくに持たぬままに鹿島を目指す事を決意致しました。
幸い、渡島前に鹿島神社の神主さんに鹿島について少しだけ御話を伺う事が出来まして。
鹿島神社は、元々 鹿島の島内に御祀りされていた神社で御座いますので、詳しい事は分からないそうですが島内には何らかの石塔が現存するという事と、鹿島には遊歩道が整備されており、案内板もあるので迷う事は無いだろうという事で御座いましたので、先ずは渡船を出して下さるところを探しました。

鹿島への船渡しをして下さる渡船屋さんに御願いをし、いざ、埴田の港から 沖に浮かぶ鹿島を目指して出発で御座います!
…唐突に思い立って行動しているように見えるかもしれませんが、実は鹿島に渡るまでには2ヶ月の準備期間が御座いました(苦笑)
最近の私はひと月毎に熊野参詣をしておりましたので、その度に みなべに立寄って海際から鹿島を観察したり、図書館等で調べ事をしたり。
“敦盛塚”と呼ばれる敦盛様の塚が島内にある事、それが宝篋印塔である事等は事前に知る事が出来ましたが、それでも、その塚が鹿島のどの辺りであるのかは結局分からぬままでの出発で御座いました。
この日は余り天候が優れず…海上に浮かぶ雲の具合を見て、渡船屋さんが
「もしかすると、嵐になるかもしれませんが……」
と仰られたので、やや不安も御座いましたが、目的は敦盛塚のみで御座いましたので、それさえ発見出来れば直ぐに引き返し、長居は致しませんという事で、御船を出していただきました。
御船に乗り込むと、とてもワクワクした気持ちで楽しくなってしまいます。
桟橋から御船に乗る瞬間の、ちょびっと危険な感じとか…懐かしいなぁと思います(笑)
定期船では御座いませんので、勿論 乗船者は私ひとり。
瀬戸内育ちで、家庭用の小型船等には小さい頃から乗り慣れておりましたので、ついつい はしゃぎたくなってしまいますね///

そして、上陸。
出航から、10分も経過しない位で御座いましたでしょうか。
渡船屋さんは、用事が済んだら携帯に電話を下さいと仰られて、一旦 埴田港へと戻って行かれました。
無人島に、ひとり居残る事となり、一気に緊張が高まります。
町指定・鹿島
三名部の浦塩な満そね鹿島なる
釣する海人を見てかへりこむ
この歌は犬宝元年(七〇一)冬十月文武・持統天皇が紀の湯(湯崎温泉)に旅行された時の歌で、南部地区で最も古い歌であり、南部とか鹿島のはじめての文献でもある。
鹿島は埴田崎から約五百米の南部湾上にあり、周囲約一五〇〇米、面積二・六ヘクタール、最高部二七米あり、砂浜によりて南北二島に分れている。
両島共樹木鬱蒼と繁り、奇厳累々として景勝は見事で、県立自然公園に指定されている。
南の森には古来より常陸国(茨城県)の鹿島神宮より勧請したと伝えられるタケミカヅチノミコトを祀る鹿島神社があったが、明治四十二年対岸に移転し、現在は社のみ残されている。
北の森は真中の鞍部より二島に分かれているようで、気佐藤方面より望めば三島に見え、これが三つの鍋を伏せた様だから三鍋の名前となったとも伝えられている。
北の森には鹿島開発に情熱をそそいだ長岡翁の記念館、恵比須大黒天社、竜ノ口観音、船魂神社、戦勝観音、平敦盛の宝篋印塔などが建立されている。
その他幾つかの宿泊施設もあったが、台風などのため昭和三十年代にはすべて全壊した。
しまにはまた山藍、たにわたり、わんじゅ、きのくにすげ、はまゆう等の珍らしい亜熱帯植物やびゃくしんの大木も自生していたが、たにわたりなど見ることが出来ない。
さぁ、気合を入れて敦盛様の塚を探しあてて見せるぞ!!
と意気込み、遊歩道を登り始めてから約1分後――いともアッサリと発見しちゃいまして…これは、かなり予想外でした(笑)
何て素敵な偶然…い、いいえ!愛の力で御座います!!!(言張る!)

遊歩道沿いに木々の繁る辺りに足を踏み入れると、正面に案内図的な看板が置かれておりました…が、その手前に蝶々が舞っており近付く事が出来ませんでした……視力の弱い私は、後で蝶々が居なくなったら、また戻って来て場所を確認しよう;と思いつつ、先ずは右端に寄って静か〜に走り抜けようと致しました。
そうしましたらば、何と その蝶々が私の目の前に やって来てしまいまして…。
「わー!!御免なさい、御免なさい!!!」
と謝り倒しながら、傍にあった長岡翁頌徳碑にしがみ付きかけた時。
「あれ…何か、奥に石塔が……?」
良く見れば、その手前には“文化財を大切にしましょう” “宝篋印塔(伝 平 敦盛の墓)”と記された標が立っており。
余りにも突然の事で御座いましたので、暫く その場に立ち尽くしてしまいました(本当は、蝶々が そちらへ入って行ったので、中々入って行けなかったという説も…ごにょごにょ)

遊歩道脇の草叢に建つ、敦盛様の宝篋印塔。
想像以上に大きくて立派な台座が拵えられていて、とても驚きました。
文化財表示は御座いますが、埴田の港近くの方々も御存知無いようで御座いましたし、ここは現在 無人島で御座いますし…余り頻繁に管理がなされている様子は無いのだなぁという事が感じ取れます。

□ 平敦盛の墓(たいらのあつもりのはか) □
所在地:和歌山県日高郡みなべ町鹿島(北島)
建立年:不明
相輪部分、隅飾突起等が欠落しており、素人の私がパッと見ただけでは制作された年代を推測する事が出来ませんでしたが、図書館にて拝見した資料によれば室町期の建立であるという事で御座います。
昔から この御島には弥兵衛宗清様という御方が建立された敦盛様の塚があると言い伝えられていたそうで御座います。
鹿島は、2つの島が連なっているような趣である事から、船着場のある方が北島、鹿島神社の旧社地である方が南島と呼ばれているようで御座います。
元々、この宝篋印塔は北島では無く、南島に埋もれていたものを、明治期 鹿島の遊園地開拓の際に長岡翁が発見され、現在地に移されたという事で御座います。
宝篋印塔は四方正面の為、ぐるりと1周出来る程度に周囲に空間を設けられているもので御座いますが、生い茂った草々を踏み倒す訳にもいきませんので…背後に回り込む事は遠慮致しました。
▽平敦盛卿の宝篋印塔
鹿島遊園地の長岡翁頌徳碑の後約三間程地点(里見館の下側)に一基の宝篋印塔が建てゝある。
元鹿島神社(現御旅所の社殿)と長床の東南方に落葉で建った侭八分程埋まってあるのを長岡翁が発見し遊園地開拓の人夫を指揮して現在の地点に移したのである。
之は敦盛塚と称し弥兵工宗清が平家の滅後其菩提を弔わんがため石工に仮装して建てたという千基の石塔の一つと伝えられている。(高さ凡そ二米)
町指定・鹿島の宝篋印塔
鹿島の波止場から登ったところ、すなわち鹿島の北島の鞍部に一基の宝篋印塔がある。
宝篋印塔は、元来内部に宝篋印心呪経を納めたことからその名がでたが、後、この塔形の名称となった。
宝篋印塔には、木像、銅造、石造等があるが、石造では宝治二年(一二四八)在銘のが最も古い。
一般に鎌倉中期以降供養塔や墓塔としてさかんに造立されたものであるが、当地方の宝篋印塔は殆んど室町時代中期から安土桃山時代に造立されたものである。
鹿島の宝篋印塔は、参議平経盛の第三子従五位下平敦盛の墓と称せられている。
塔のそばに「敦盛塚」の標石があり、それに「昔より此島に弥兵衛宗清の建てたる敦盛公の塚ありと伝へ来りけるが、明治三十六年(一九〇三)南の御山手入れの際地中深く埋もりありたるを発見しこの所へ置す」と記されている。
南の御山とは、もとの鹿島神社のあった場所である。
本塔は砂岩製で、埋もれていたといわれるが風化がはげしく、相輪を失い、隅飾突起も欠失しているのが残念である。
現在高は一メートルであるが、復元すれば一・三米以上もあったと推定されるかなり大きな宝篋印塔であろう。

宝篋印塔の傍に建てられた碑文には、
“昔より此島に弥兵衛宗清の建たる敦盛公の塚ありと傅へ来りたるが明治三十六年南の御山手入□の際地中深く埋もりありたるを発見しこの所へ安置す”
と刻まれております。
敦盛塚
南部湾にある鹿島の波止場から山に登る途中に室町時代に建立されたと推定される宝篋印塔がある。
この宝篋印塔は参議、平経盛の第三子従五位下平敦盛の墓と称せられている。
塔のそばに「敦盛塚」の標石があり、それに「昔より此島に弥兵衛宗清の建てたる敦盛公の塚ありと伝へ来りけるが、明治三十六年(一九〇三)南の御山手入れの際地中深く埋もりありたるを発見しこの所へ置す」と記されている。
南の御山とは、古くから鎮座する鹿島神社のあった場所である。

敦盛様と熊野…史実の上で、直接的な関係があった事は記録されておりませんが、平家御一門は熊野と深い繋がりを持っておりましたし、熊野三山への信仰も篤かったようで御座いますので、全く無関係であったと言い切る事は出来ないように思います。
もしかしたら敦盛様も、平家全盛の時代であった幼い頃に御一門の方々と共に熊野を詣でられておられたかもしれませんよね。
室町期の頃に、敦盛様供養の為に供養塔が建立された…というのは、それ程 疑問に思う事でも御座いませんが、その場所が紀伊国熊野の神島として崇められていた鹿島であった事は、大変 興味深く…そして、嬉しく思えてなりません。
大好きな熊野の地で、敦盛様を想う事が出来る…――幸せで御座います。



和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字西中野川周辺――…。
色川郷に伝わる維盛様伝承を調べに行った帰り道、那智山方面へ戻る筈が、うっかり道を間違えて勝浦〜太地町方面へと下る道路を延々走る事になってしまったので御座いますが、目敏い私は その途中でこのように記されている案内板を見逃しませんでした(笑)
此処小色川は
平光盛の隠れ里です
この近くには隠れ家のあった上屋敷と
丸山の上には墓があります。
光盛は 色川に隠れ住んだ平維盛と古座の
高川原家の娘との間に出来た子です。(1190年頃出生)
又、丸山家には皇族に関係した
ミサオ姫の墓があります
丸山家の先祖という事です。
西中ノ川区有志
色川出張所で御世話になりました浦さんが、
「この直ぐ下の集落には、平光盛という人の伝説があるんですよ」
と仰っておられましたが、その時 私は光盛様って誰だっけ…?等という感じで御座いまして(苦笑)
そういえば吾妻鏡には金刺光盛様が平家方であられたと記されているけれど恐らくは関係無いと思われるし、でも御一門に光盛様を名乗られる御方がいらっしゃったかしら??と本気でぼんやりしていたので御座いますが…うわぁん、ちょっと!しっかり、私っ!!!
都落ちには同行されておられませんが、平光盛様といえばいえば、清盛様の異母弟 池殿こと、頼盛様の御子息の御名前では御座いませんかー!…あわわ(涙)
そうでした…平家の御方では御座いますが、鎌倉で源頼朝様の庇護を受け、承久元(1219)年には実朝様暗殺現場に居合わせられた御方で御座いました。。
………え…でも……あれ?
御一門の方々のように源氏の目を逃れる必要の無い光盛様の御墓が、何故 熊野の山中の郷に……?
先ず、浮かんだのは この疑問で御座いました。
色川地区南平野の桧曽原の地に維盛様の供養塔を訪ねた際、その地で2基の五輪塔を護られておられるのが頼盛様の御子孫とされる潮崎さんの御家である事に驚きましたが、もしかして そちらとも何か御関係が――…!??
正直、こちらに関しての予備知識が全く無かった為、また後日に改めるべきかと一瞬悩んだので御座いますが、ここを通り掛かる事が出来たのも、何かの御縁。
奥の方から、光盛様らしき御方も まぁちょっと寄って行けと仰って下さっていたので(笑)、ここはひとつ都合良くデスティニィを感じさせていただく事と致しまして、車を停められそうな場所を探しました。

案内板のある場所から道なりに車道を少し下りますと、“平光盛の墓”“ミサオ姫の墓”と記された道標が!
どうしよう、ここに駐車出来ないかなぁ
と焦って前方を見回しましたら、意外にも直ぐ傍に駐車場が………。若干、テンションの上がっていた私は、
「有難う、運命!」
と意味不明な独り言を発しつつ、道標に沿って進んで行きました。

田畑と民家の敷地の間にある細道を通り、突然 現れた小山に登ります。
木や石等が置かれ、一応は登りやすく段上になっているような感じなので道無き道という程でも無いので御座いますが、身長156cmの私の胸の高さに次の段があったりするので、よじ登りながら進みました。

御墓は、集落の田圃の中央に盛り上がった小高い丘の上に御座いました。
登り切った手前の場所にミサオ姫様、そして その奥に 光盛様の御墓が御座いました。
五輪塔のような供養塔を想像していた私は、無造作に集め積まれた状態の御墓に少しだけ驚いてしまいましたが、ここに寄せられた石に込められた想いの色々が、とても尊いものに感じられました。
その後、両墓に手を合わせ この場所を後に致しましたが、こちらを訪れる事が出来て本当に良かったと思います。
そして、後日。
東京に戻り、この小色川の光盛様について調べようと頑張ったので御座いますが……何の情報も得られず;;
しかも、道を間違えて通った場所であった所為で、正確な地名が分からずに随分と苦戦致しました(苦笑)
案内板にあった“小色川”というのは、現在は殆ど使われない地名のようで、那智勝浦町の役場や、この辺りも管轄内と思われる太田出張所に御電話で伺ってみたのですが、どなたも全く御存知無いという事で御座いました…。
然し、然程古く無い案内板が立てられていたという事は、必ず その御近所の方々等は御存知の筈!と思って、粘り強く 色々な場所に問い合わせをさせていただきました。
教育の現場なら何か御存知かと思い、小学校に御電話をさせていただいたところ、矢張り分からないという事だったのですけれど、もしかしたらと再度御電話をいただきまして“小色川橋”が架かる西中ノ川地区の区長さんの御宅を御紹介いただきました。
区長さんの御宅に御質問させていただいたところ、確かに この地に御墓が御座いますとの事。
詳しい謂れや伝承等について伺いたいと思ったので御座いますが、残念ながら この土地の方々でも、詳しい事は御存知無いのだそうで……。
これ以上は、もう無理なのかなぁと諦めかけた時、
「うちでは分かりませんが、ここを調べて下さった先生は新宮にいらっしゃいますよ」
と、御連絡先を教えていただく事が出来まして…!
御連絡先を伺って驚いたのが、桧曽原で見せていただいた資料で維盛様の伝承について詳しく調べられておられた御方が その先生であった事で御座いました。
早速、連絡をとらせていただきまして、私が色川の維盛様について調べて来た事や小色川について知りたいと思っている事を御伝え致しましたら、快く豊富な資料を御送付下さいました。
御陰様で、とても深いところまで勉強する事が出来まして…本当に、有難う御座います。
いただいた資料によりますと、現在は小山の頂上に御墓のみが存在しておりますが、元々は御墓の両脇に大きな杉の木が立っており、御墓の在処を示しておられたのだそうで御座います。
こちらの御墓については、幾人かの証言があったようで、
“幕末の頃、平光盛がこの地に来て住居する。ある時、□の川を渡る際 藤原家に討たれて死ぬ。その後、ミサオ姫と共にこのところに祀る……”等と記された木札が下里の御宅に保存されているという事も記されておりました(※幕末というのは間違いで、鎌倉時代であるという事で御座います)
えぇと…ここで初めて分かった事なので御座いますが、ここでの“平光盛”様というのは、頼盛様の御子息の“光盛”様では無く、熊野で落ち延びられた維盛様の御子息と伝わる“光盛”様のようで御座います。
間際らしい書き方をして申し訳御座いません…;;
また、ミサオ姫様と光盛様には、全く何の繋がりも無いものと思われます。
恐らくは、この地に祀られる貴人として別々に崇められていたのでは無いかと思うのですが、いつの頃か 同じ場所に並べて御祀りして大切に護られて来られたのでは無いでしょうか。

ミサオ姫様についてで御座いますが、皇族の御姫様であるという事が伝えられております。
直ぐ傍に御座います丸山家はミサオ姫様の御子孫といわれ、慶長6(1601)年に熊野川町方面より移り住まれたという事で御座います。
ミサオ姫様は“ミサ姫”とも呼ばれており、奈良の天皇の子孫と伝わります。
奈良の天皇がどなたを指されるのかは定かでは御座いませんが、奈良の吉野に御住まいになられた後醍醐天皇→後村上天皇→後亀山天皇の事では無いかという事で御座います。
奈良に縁のある皇族の御方で、この辺りに落ちられた御方は、後亀山天皇の曾孫様である 融仁王様。
ミサオ姫様は、融仁王様と その御父様である泰仁王様と繋がりの深い御姫様であられたのかもしれません。
ミサオ姫様は、腰から下の病を治して下さると言い伝えられているそうで御座いますが…何だか 広島県庄原市の玉織姫様伝承と良く似たものを感じますね。

そして、光盛様。
□ 平 光盛(たいらのみつもり) □ ※平頼盛の子とは別人
生 年:建久元(1190)年頃?
没 年:不詳
父 :平維盛
母 :高川原家女
妻 :不詳
子 :行盛
光盛様は、色川潜伏中の維盛様が、中ノ川の小松庄右衛門様の案内で重景様、石童丸様と古座の高川原家に鮎釣りを兼ねて遊びに行かれた際に、高川原家の娘と一夜を共にされ、授かった御子様であると伝えられます。
小色川には“上屋敷”と呼ばれる場所が御座います。
光盛様は、この上屋敷に住まわれておられたのでは無いかという事で御座います。
いつ頃の事かは分かりませんが、光盛様は川を渡ろうとしている時に藤原氏によって討たれてしまわれたとの事…。
光盛様以降、高川原家は暫く小松姓を名乗られたようで御座います。
光盛様より続く御子孫は、後に浅野家に仕え、今も広島に存続されているという事で御座います。
広島……案外、身近なところで出逢っているのかもしれませんね(笑)

この度、小色川の光盛様、ミサオ姫に関する情報を下さいましたのは、坂本顕一郎先生で御座います。
その他にも、色川に関する資料や、熊野地方に伝わる落人伝承についての情報を多くいただく事が出来まして、本当に心より感謝の気持ちで一杯で御座います。
先日、坂本先生が維盛様伝承について纏められた御本『どっこい維盛生きていた』が文芸社さんより発売されました。
帰省から戻って来まして、私も予約していた書店さんに受け取りに行って来たばかりで未だ完読は出来ておりませんが、とても興味深く拝読させていただいております。
オンラインでも入手可能のようで御座いますので、御興味を持たれた方は是非〜。
(※セブンアンドワイは、こちらから / 楽天ブックスは、こちらから / アマゾンは、こちらから)



和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大野地区には、四季を通してアウトドアを楽しめるオートキャンプ場 円満地公園が御座います。
色川郷までの道程を調べていた時、どの地図にも この公園が表示されておりましたので、きっと大きな公園なのだろうなぁと思い、こちらを目標に色川方面へと車を走らせました。
史跡を巡らせていただいた帰り道、折角ここまで来たのだし…という事で、少しだけ園内を散策させていただく事に致しました〜。

公園駐車場の向かい側にある道路脇の小高い部分には、色川郷の案内板と石祠が御祀りされておりました。
案内板には、熊野へ落ち延びられた平維盛様の色川入りの事や妻子、御子孫等について説明されており、色川郷の歴史深さを知る事が出来るようになっております。
設置場所が道路を挟んだ反対側ですので、公園側から案内板を発見しても、興味を持たれないと道を渡って ここまで見に来られないかもしれないなぁ…と思うと、少し勿体無い気も致しましたが、そんな趣にも、不思議と奥床しさを感じられる事が魅力的でも御座います。
色川郷
上古色川郷は、十八の大字からなる村落であったという。
源平時代 一一八五年(文治一)屋島の戦で戦線を離脱した平維盛は、紀伊熊野に逃れ、那智浜の宮から沖の山成島に渡り、入水したと 平家物語に記されている。
しかし 郷土の伝承によれば 維盛は死なず、山成島から太地に渡り、市屋、中ノ川を経て、色川郷藤綱要害の森に隠れ棲み、妻帯し二児をもうけたという。
その子孫は豪族色川氏、清水氏である。
熊野年代記によると一一九一年色川宗家清水氏鎌倉に至るとある。
これは維盛について喚問されたが知らぬ存ぜぬと答え通して帰った。
南北朝時代(一三三六-一三九二)、色川氏は郷民を率いて南朝に忠節を尽し、後醍醐天皇からお賞めの論旨を賜った。
徳川時代、徳川光圀は大日本史編纂に寄り家臣佐々宗淳を遣わして、庄屋に伝わる史料色川文書を調べさせた。
色川郷には、全域に渡って十六ヶ所の銅鉱山があり、表層からは金鉱も採掘された。
この円満地公園も銅鉱山の跡地である。
鉱山の盛時には 銅鉱日産三百屯あったが一九七二年(昭和四十七)閉山した。
一六〇九年(慶長十四)徳川家康は名古屋城築城の際、天守閣の金の鯱の材料として色川産の金も採用した。
色川郷の産土の神、明乃清富神社は、特に病気平癒祈願に、霊験あらたかである。 合掌
あたたかく維盛公を迎へたる
茶の香もゆかし 色川の郷
名古屋城 天守に高く色川の
黄金輝く 金の鯱
円満地公園も、銅鉱山の跡地になるので御座いますね〜!
名古屋城天守閣の金の鯱材に色川の金も採用されている事は、こちらで初めて知りました。
きっと、とても上質な金が採れていたので御座いますね。
傍の祠には、特に何かが記されているという感じでも無く…。
土地の守神様とか、道の神様が御祀りされているのかなぁと思ったので御座いますが、見た感じがとても御立派で御座いましたので、少し気になりますね〜。
結局、こちらに関しての詳しい事は分からず仕舞いで御座いました。

円満地公園には、太田川沿いに12区画のキャンプ場と、5棟のコテージ、4棟のログハウスがあり、その他にも売店や水車小屋、夏季にはウォータースライダー設備のあるプールも利用出来るのだそうで御座います。
私が訪れた時、管理棟は閉まっておりましたが、こちらの2階部分は世界の蝶々を蒐集し展示された博物館になっているのだそうで御座います。
あわわ…私は入れなくて良かったかもしれませ…ん…(汗)

駐車場には私の他にも数台の車が停まっていたのですけれど、園内を散策している間は どなたとも出会う事は御座いませんでした。
土日祝日や大型連休、子供達が夏休みに入る今頃には、きっと大勢の御家族連れで賑わっているので御座いましょうね。
静かな雰囲気の中、川のせせらぎに ぼんやりと耳を傾けつつ、維盛様も この渓流に想いを馳せられた事があったかしら等と思いながら歩いておりました。






