日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

おとしだまをおとしたままでおおとしじんじゃにおまいりだ。
大歳神社1


……又しても、変なタイトルで申し訳御座いません;;早口言葉…?

下関駅から赤間神宮方面に向かって進みかけて直ぐ、左側にジャジャーン!と(?)聳える御立派な石階段が目に飛び込んで参ります。

こちらは、大歳神社
源義経様に御縁のある神社で御座います。

大歳神社2


□ 大歳神社(おおとしじんじゃ)

所在地:下関市竹崎町
御創建:1186(文治2)年
御祭神:木花咲耶姫神、大歳神、御歳神、若歳神


大歳神、御歳神、若歳神は、五穀の神様であり、御正月様、年徳神様。
御正月の“年玉”=“年霊”として崇拝されております。
家内安全、健康長寿、商売繁盛の御神徳が高いといわれ、毎年の御正月には、御加護を求めて大勢の方々が初詣に参られ、賑やかだという事で御座います。

以下は、階段下に設置された案内書に記されている御由緒で御座います。

  御由緒

寿永四年(一一八四年)、平家追討の任を受けた源義経は、壇ノ浦の合戦に望んで、己が武運の守護と頼む富士浅間の大神の神助を請い、敵の陣小戸を隔て、呎尺の間にある有明山の山麓に小松(富士川の合戦以来担いできた「富士の小松」)を植え、篝火を焚き、七日七夜の斎戒を修め、戦捷祈願をした。
その後、神前に捧げた桑の弓を以て、開戦矢文を対岸の平家の布陣に射込んだ。
平家統帥の知盛はこれに驚き壇乃浦に軍船を進めた。
壇乃浦には範頼の部隊が待機しており、義経軍との挟み撃ちに合い、敢えなく平家は滅亡したと伝えられる。
翌文治二年(一一八五)に、付近の漁民が神司を祀ったのが、大歳神社の起源と云われる。
武運長久の神としての神としてのご神威は年を追って光輝き文久三年(一八六三)奇兵隊の発足に際し、高杉晋作は旗揚げの旗を大歳神社に奉納、また白石正一郎は攘夷必勝を祈請して大鳥居を奉納した。
明治七年(一八七四)、村社に列せられる。
昭和十五年(一九四〇)、関門鉄道トンネル工事の際、社地は鉄道路線敷地に接収され現在の小山に遷座された。



義経様の故事を受け、1186年に山麓に住んだ4軒の漁民が、神祠を祀られたという事で御座います。

現在の鎮座地は、鉄道トンネル工事の為に御引越しされて来た場所で、未だ新しいのだそうで御座います。
その辺りの事を神職の方に御話を御聞き致しましたら、とても御親切に色々と教えて下さいまして…下関のオススメスポット等も教えていただいてしまいました(笑)有難う御座います〜♪

大歳神社3


  源義経と大歳神社

 源義経は文治元年、有明山(現JR下関駅辺りの線路敷)にて大歳御祖神のご神霊を祀り、平家追討の戦捷の祈願を捧げました。
 現社殿は昭和十五年に当地に遷座されました。
当時の階段は一二三段築きお祓い坂としての祈りを込めました。
(現在はその数を留めていません)
 社殿の左面には黒御影石に源義経が弓矢を引く姿を画碑に留めています。
その雄姿をお守りに印し「勝守」として授与いたしております。



御社殿の左側には、黒御影石の画碑が御座います。
立て掛けられるように置かれているので御座いますが、艶やかな御影石に映る景色が想像以上に鮮やかな事が印象的だと感じました。

 

  義経戦捷の弓

「平家追討のため西下した義経は、平家の本陣彦島と対峙する有明山(竹崎町)に大歳神を祭り、桑の木で弓矢を作り、神前に供えたのちその矢を彦島に向けて射込み、戦勝を祈願したことから、のち地元の人たちがその地に大歳神社を創建したという。」



何だか……義経様には失礼な物言いやもしれませんが、ちょっと意外では御座いますよね〜、弓は苦手だったのでは?と。
だからこその祈願だったのでは無いかとも思われますが、あんまり素敵に格好良いものですから…(笑)

大歳神社4


石段両脇には、白幟が立ち並んでおります。
大河ドラマ放映時には、「源氏」と記された白旗が大量にはためいておりました〜。

大歳神社5


その他、境内社と致しまして、五社稲荷神社、蛭子、八坂神社が御座います。
また、七卿顕彰画碑、明治維新萌漸之史蹟 等、明治維新期の史跡も御座います。

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仏造る ま朱足らずは 水たまる 池田の朝臣が 鼻の上を掘れ
西楽寺1


山口県下関市彦島に御座います、西楽寺さん。
こちらに伝わる阿弥陀如来像は、平重盛様に御縁のものと言われております。

壇ノ浦と重盛様――一瞬、あれ?と思いたくはなりますよね。
壇ノ浦の戦いは、1185(寿永4)年ですけれど、重盛様が亡くなられたのは、1179(治承3)年の事。
その嫡男である維盛様も、一ノ谷の戦いの後に陣営を離脱、熊野灘にて入水されたと平家物語に伝えられます。
小松家の他の御子息…資盛様や有盛様、行盛様方は、壇ノ浦にて没されておられますが、特にこちらの御由緒にその御名前は御見掛け致しませんでした;

西楽寺2


□ 西楽寺(さいらくじ)

所在地:下関市彦島本村町
御創建:1276(建治2)年
寺 号:西楽寺
御本尊:阿弥陀如来座像


平家に縁の御寺さんで御座いまして、一遍上人の弟子で平忠政様の嫡孫の西楽法師によって開かれたと伝えられております。

下関市指定有形文化財にも指定されている御本尊の阿弥陀如来座像は、御縁起によれば、重盛様が熊野参詣の際に受けた御神託に従って、奈良の東大寺より譲り受けたものだそうで御座います。
小松の邸に勧請して、朝夕に礼拝供養をされていたのだとか…。
御病気になられて以降に、弟君様でいらっしゃいます知盛様の知行地であり“西の極楽”と呼ばれていた彦島の地を訪れて、阿弥陀如来を安置され、その足で御自分の知行国であった九州にて御亡くなりになられたといわれておりまして……。
また、阿弥陀如来像の縁起と致しまして1186(文治2)年1月に平家の執権であった植田治部之進岡野将監百合野民部の手によって持ち込まれたものであるという説もあるようで御座います。 

源平合戦の後、こちらに平家御一門の御霊を御祀りされた…という御話も耳にした事が御座います。

西楽寺3


  

西楽寺本尊阿弥陀如来像縁起

 当西楽寺本尊阿弥陀如来は当彦島に置いては昔しから彦島開基尊像平重盛公護持佛として島民に尊ばれておられました。
此の阿弥陀如来は其の昔、第四十代天武天皇(六七五)佛教に深く帰依をされ眞の阿弥陀如来を拝せんことを発願されて奈良春日大明神に参籠祈誓をされて一夜春日大明神の神示を受けられ、神示にしたがて賢門子と言へる佛師に命じられて造られた阿弥陀如来と伝へられ、それから五百年後、平家全盛の時、平清盛の嫡男平重盛公は日々に募る父清盛の専横に心を痛めて世の無常を観じ紀州熊野権現に参籠、平家滅亡後の平家一門の菩提の為に眞の阿弥陀如来を拝せんことを祈誓された所「奈良東台寺に安置してある天武天皇発願の阿弥陀如来座像は極楽の眞の阿弥陀如来也」との霊夢を受けられて急ぎ京に帰り、第八十代高倉天皇(一一六八)に奏上されて奈良東台寺より件の阿弥陀如来をゆづり受けて自邸に勧請して朝夕礼拝供養をされた阿弥陀如来と傳へられて居ります
 重盛公は父清盛の専横に心労のあまり病氣になられて其頃西の極楽と呼ばれていた平智盛公の知行地彦島に阿弥陀如来とともに京を西下されて彦島に渡られて阿弥陀如来を彦島に安置して御自分は自分の知行地九州に渡られて九州の地で亡くなられました
 平家壇ノ浦に滅びて五十年。
河野一族から一遍(一二七六)と言へる浄土門の奥義を窮め禅にも達した念佛聖が出られ念仏平和を日本国内に勧めるべく跣で日本廻国を始められ、その途路下関に来られ、彦島の話を聞かれ弟子西楽法師(平忠正の嫡孫)を連れて彦島に渡られ彦島の人たちに其の否を悟らせて、西楽法師を彦島に残して一遍は下関へ帰へられました。
彦島に残られた西楽法師は島の人たちと語らい、重盛公の護持佛阿弥陀如来を本尊に精舎を建てられ、西の極楽と言われた彦島の名を取て西楽と寺号をされました
 人は変わり幾星霜時は流れて明治の世となり明治政府は西楽寺を廃寺にしました。
島の人たちは一丸となって西楽寺の存続を嘆願しましたが許されず、寺号のみが許されました。
寺はつぶされ後には小さな寺子屋式の堂宇が建ちました。
明治、大正は過ぎ、昭和の初期、西楽寺は再建されましたが、日本は戦争に突入敗戦、西楽寺も安定せず衰微荒廃の一途でした。
ところが源平八百年祭を前にして奇特なる屋根師が出られ(昭和五十九年十月)寺は修復され寺は奇なるかな不思議の一途あるのみです。
西楽寺本尊阿弥陀如来は霊佛であり活仏です。
亦壇ノ浦に滅んだ平家人の幽魂未だ滅せずの感があります。
     南無阿弥陀佛 西楽寺



西楽寺4


阿弥陀如来像は、御本堂に祀られております。
像高83.5センチメートルで、平安時代(藤原期)の作と推定され、作者は不明だそうで御座います。

西楽寺5


※タイトルは、万葉集巻第16より大神奥守の和歌。

 原文は、“佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼

 仏を造る辰砂が足りないのならば、池田の朝臣の赤鼻の上を掘ってみたらいかがかな(笑)

 からかい半分に詠まれた御歌のようで御座います。
 仏=東大寺の大仏だと思われます。

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大船の 香取の海に 碇おろし 如何なる人か 物念はざらむ
碇1


山口県下関市――赤間神宮向かいの駐車場奥には、知盛様に因んだ碇が御座います。
海に沈む事も無く、地上からただ靜かに海峡を見守る この碇さんには、何の情報も持たない方でも、思わず近くまで行って見てしまいたい気持ちを抱かされるという……そういう御話を良く耳に致します。

碇2


   謡曲「碇潜」と壇の浦
 謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。
 壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍物語を所望する。
 漁翁(実は平知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り、弔いを願う。
 旅僧の回向に導かれるように勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め一門悉く入水するまでの経過と自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった。という構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
 壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥の面目と情趣に想いの馳せる海岸である。
              謡曲史跡保存会



   海峡守護『碇』の由来
 水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。
 今を去る八百年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見収め、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、龍宮城へ旅立たれました。
 それより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将振りがたたえられています。
 このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、海峡の平安を祈るものであります。
  昭和六十年 五月二日
  源平八百年祭を記念して
              寄進  下関海洋少年団



海参道といえば、私は真っ先に厳島神社を連想してしまうのですけれど、
ここ赤間神宮も、かつては海に直結していたようで……今でこそ駐車場から道路を挟んだ向かいに御座いますが、矢張り、平家御一門と海上との繋がりの深さを改めて感じさせられてしまいます。
そして、その海上にて滅亡を迎えられた事に対して“奢れる者は久しからず”と言われ、“もののあわれの典型”と言われ…複雑な気持ちが溢れるばかりで御座います。

壇ノ浦


※タイトルは、万葉集巻第11より柿本人麻呂の和歌。
 碇関連という事で何となく…。

大船が碇をおろしているけれど、どんな人でも恋に物思いをしないという事は無いでしょう……(私は、こんなに恋に悩んでいるのです)

の“いか”と如何なるの“いか”を掛けておられます。
大船が碇を下ろしているというのは、何だか余裕のある光景に見えますよね。
あんなに大きな船が泊まっているけれど、何処から来て、この先は何処へ向かうのであろうかという意味も含まれているように感じます。
香取の海とは、琵琶湖の香取浦の事で御座います。

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今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは
みもすそ1


海峡大橋を見上げる場所に御座います、下関市みもすそ川町のみもすそ川公園
壇ノ浦古戦場跡を一望する事の出来るこの公園内には、躍動感溢れる源義経様と平知盛様の像が御座います。

日本史の節目を刻む関門海峡

 西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。
せまい所では、両岸の幅は七〇〇メートルあまりで、潮流の速度は最高で約一〇ノット(時速一八キロ)にもなります。
また、瀬戸内海の入口に位置する地理条件から、昔も今も交通の要塞で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。
 寿永四年(一一八五)三月二四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。
当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。
最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。
日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。
なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。
                      下関市



みもすそ2


こちらの像デザインは、一般公募の案から選ばれたそうで御座います。
向かって左側に義経様、右側に知盛様がいらっしゃいます。
義経様は八艘飛び、知盛様は碇を担いでおられます〜。
向かい合っているけれど、直接対峙している訳では無いのですね(苦笑)

みもすそ川公園では“歴史体験☆紙芝居”を毎日上演されております。
演目は勿論「壇之浦合戦絵巻」で、語り手は武者姿で登場されるそうで御座いますー!
迫力満点で解り易く楽しいと大変評判で御座いますので、私も1度は観たい観たい〜と思っているのですが、折が合わず、未だに観れた試しが御座いません;;
移動中に車の中から通りすがりに一瞬だけ観掛けた事は御座いますが…もっと、ちゃんと観たかったー(涙)
今年の11月末までは、毎日10:00〜15:00の毎正時、もしくは時間内に人が集まり次第、公演が開始されるそうで御座います。
雨の日は、関門トンネル人道口付近に移動しての上演だそうです。
この夏には観られると良いのですが……!

みもすそ3


↑後ろから見ると、こういう感じで……右奥に見えているのが、関門トンネルの人道入口で御座います。
その手前にさり気なく掛かっている朱色の橋が、御裾川橋の欄干で御座います。

みもすそ4


↑さてさて、こちらは大河「義経」ファンにも、芸能人ファンにも嬉しい 「義経」出演者さん方のサイン入りブロンズ手形で御座います〜!
義経様像と知盛様像の手前の芝生に設置されておりまして、最初は滝沢秀明君と中越典子さんのみであったようですが、現在は松坂慶子さん、小泉孝太郎さんのサイン入り手形も追加されております〜。豪華ですね!!
こちらの手形には直接触れる事も出来ますので、ピトッと掌を合わせられちゃいます〜。
滝沢君の掌の大きさをチェックするチャンスで御座いますヨ!!(笑)

ちなみに…安部さんは無いのですよね〜(ちょっと淋しい…)

みもすそ5


源平関連の他、この地は幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でも御座いますので、5門の長州砲のレプリカも設置されております。
幕末に思い入れの強い方にも、こちらは御勧めの公園で御座いますね。

※タイトルは、二位尼の辞世の御歌。
 みもすそ川公園内に歌碑も御座います。

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とこしへの水面に映る、濡衣。
下関市彦島に御座います清盛塚
初めて行かれる方に“とっても判り辛い…”と言われまくりな史跡で御座いますが、確かに判り辛い場所に御座います(苦笑)
道標は何箇所かに御座いますが、何の情報も無くフラッと行くと、途中で堪らなく不安な気持ちに襲われます;
私も、事前に道順を調べていたにも関わらず、
「え…ここ通っちゃっていいの?いいの?」
と挙動不審になったもので御座います;;
事前に“例え不安に駆られても、迷わず突き進むべし”とのアドバイスを受けておりましたので、この不安こそが正しい道順の証なのだわ〜と思い込む事で、何とか無事に辿り着く事が出来ました〜。
いやぁ……愛の力は偉大で御座います!(?)

清盛塚1


□ 清盛塚 □

所在地:下関市彦島江の浦町


「杉田」のバス停留所より、地図と道標に従って進んで参りますと、ここ?と思われる坂道の入口には民家が御座いまして…とりあえず、そこで1度不安を覚えます。
登り始めると直ぐに畑が御座いまして、そちらで畑仕事をされている方がいらっしゃいましたので、思わずビクビク……すみません、ちゃんと御挨拶すべきでしたと深〜く反省中で御座います;;
更に昇って行きますと、狭い道の両脇に生い茂っております木がトンネル状態で出迎えて下さいます。ここは、単純に楽しいです。
となりのトトロの「木のトンネル〜!」という台詞を思い出しながら、ルンルンと進みます。
あっという間で御座いますが、トンネルを抜けますと、確かここにも道標があったと思いますが…向かって左方向に進んで鉄塔(電気塔?)を迂回する形で更に上に上れるようになっております。
何だか大量の草花がガッツリと私の胸の高さ辺りまで伸びていらっしゃいまして、
「ここ通れるの?」と思いつつも、必死で草分けて進んで行きました。
そうしましたら、アラ!……急に視界が開けて、意外にもあっさりと辿り着いてしまいました!(笑)
この丘は、杉田丘陵と呼ばれております。
判り辛いというだけで、距離的には然程遠い訳では無いのですね〜。

清盛塚2


清盛塚傍の記書には、以下のように書かれております。

  清盛塚

 寿永三年(一一八三)、中納言平知盛は亡き父清盛の遺骨を携えてこの彦島に入り平家最後の砦、根緒城の築城に取りかかり砦と定めたこの丘陵の小高い場所に遺骨して墓碑を建立した。
 翌年四年三月二十四日壇ノ浦の合戦に出陣したが、再興の夢ははかなくも渦潮の中に消え失せた。
 墓碑は永年無銘のまヽ荒地に放置されていたが昭和四年土着の歴史に詳しい人達の手によって清盛塚と刻まれた。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり

 昭和六十二年十月
      江の浦町四丁目自治会有志による
      聖域整備によせて
        郷土史家  澤 忠宏 記


知盛様が、清盛様の遺骨をこの地に埋葬し墓碑を建立されたという事で……実際は、遺骨では無く弔いの為に御霊を御祀りされたのやもしれませんが、清盛様は死して後まで、御一門の衰退と最期を見遂げられたのかしらと思うと何だか切ない気持ちになってしまいます。
それと同時に、御一門の絆の深さのようなあたたかみを感じまして。
だからこそ、儚さは募るので御座いますねー……。

清盛塚横には、地鎮神と刻まれた石碑も御座います。
これについては特に説明等が無かった為、以下は私の憶測に過ぎませんが…、
 ・地鎮とは、その土地の神様を鎮めて土地利用の許可を願い得る際に使われる場合が多いので、
  この地に清盛塚が鎮座された際に、土地の神様を鎮める為に祭祀?
 ・清盛塚が建てられる以前より、地鎮の神様が鎮座されていた?
 ・元々は道祖神、庚申塔であった可能性は…低いかなぁ;
 ・もしや清盛様を地鎮神として御祀りされている?
……調査不足で申し訳御座いませんー;

清盛塚のある丘陵に立ちますと、眼下には海が望めます――…と聞いておりましたが、私はここでも揚羽蝶さんと出くわしまして……愚かにも長居する勇気が無く、そそくさと撤退してしまいました…あぁぁ(涙)

清盛塚3


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