日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

音戸の御所から眺むる飛沫は、今はむかしの秋霖か。
音戸>御所の浦01


音戸の瀬戸開削伝説と、広島県呉市音戸町に伝わる平家の伝承地。
音戸大橋を渡って倉橋島に入り、音戸観光文化会館うずしおさんと清盛塚の間の国道487号線を波多見方面へと進んで行きますと、高須3丁目辺りに“御所の浦”というバス停が見付かります。

音戸>御所の浦02


バス停の向かいには、藤三 御所の浦ショッピングセンターさん。
その他には、特に これといったもの等は無いのですけれど……。

この場所は、長寛2(1164)年 平清盛様が、音戸の瀬戸を開削された際に仮御殿を建てられた事に因んで“御所の浦”と呼ばれているようで御座います。
清盛様は、一時的に こちらに御住まいになられ、工事の監督をなさっておられたという事で御座います。

そもそも、“御所”とは皇族の御方や将軍様等の貴人と その御住まいに対する尊称で御座います。
音戸の瀬戸を開削された頃といえば、清盛様は従二位。
最盛期には未だ至られておりませんが、着々と御一門を高みに盛り上げる為の手筈を整えておられ、時勢は平家を中心に動いていくようになっていた頃の事で御座います。
清盛様が初めて大臣職に就かれるのは、これより2年後の永万2(1166)年の事。
その翌年、仁安2(1167)年には ついに従一位 太政大臣の地位に上り詰められる事となる訳では御座いますが……そんな政治的な事とは関係無く、都から離れた この音戸の地で清盛様は
御所様、御所様
と土地の方々に尊ばれ、親しまれておられたので御座いましょう。
後年、福原の地に築かれた別荘が“雪見御所”と呼ばれておりますが、これは栄華を極めた後の事。
もしかすると、音戸の この場所が“御所の浦”と呼ばれるようになったのは後付けであったかもしれませんが、そこに敬愛の心が無ければ“御所”とは呼ばなかったのでは無いかと思います。
形として残される御所の遺跡等は御座いませんが、そんな心が地名となって伝えられているというのは、本当に素敵な事で御座いますね。

ちなみに…開削の同年12月17日(1165年1月30日)に、清盛様は京にて後白河上皇の為の三十三間堂こと蓮華王院本堂を完成させられております。

音戸>御所の浦03


また この辺りは、瀬戸の渦潮が酷くて船の航行が出来なくなった時に、避難場所として潮待ちをした事から“泊”とも呼ばれているそうで御座います。

開削当時、大変な急流であったといわれる音戸の瀬戸。
清盛様は波に睨みを利かせて その難を乗り切られたと伝えられておりますが、もしかしたら時には この辺りで激しい渦潮を眺められた事もあったのやもしれません。

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音戸の瀬戸の清盛塚。
音戸 清盛塚01


広島県呉市の“音戸の瀬戸”に語り継がれる、平清盛様の偉業の伝説――。
おんど観光文化会館 うずしおさんから道路を挟んで直ぐ目の前に見えます海の上には、その功績を讃えて建立されたという清盛塚が伝えられております。

清盛塚の御参道には石段が築かれておりますが……えぇと…見ての通り、その下は海で御座いますので、自家用の船等で来ない限りは、自由に上陸は…出来ないのでは無いかなぁ?と思われます。
もしかすると、干潮時には下に下りて歩いて渡れちゃったりもするのかしら?とも思ったので御座いますけれど、でも岩礁の上に石垣を築いて造られているそうで御座いますし。。
というか…足があっても、自由に上陸をしても良いものか否かは…私の存ぜぬところで御座います;

音戸 清盛塚02


という訳で、私はいつも 塚に対面出来る形で設けられた参拝橋から、清盛塚を拝みます。
清盛様を御祀りされた宝篋印経は直ぐ目の前だというのに、手の届かない このもどかしさ…。
御前に跪いて手を合わせる事も、御供えも出来ないだなんて……と、ちょっぴり切ない気持ちで見詰めてしまいます。

背後に見える赤い大橋は、呉市の警固屋と音戸とを結ぶ音戸大橋。
この橋を渡る前には、どちら側からも螺旋状の道を延々上らなくてはならず…ぐるぐるぐるぐると目が回るので、小さい頃は苦手な橋ベスト1で御座いました(涙)
免許を取得した今では、とても興味津々な橋ベスト1でも御座います(笑)

音戸 清盛塚03


□ 清盛塚(きよもりづか)

所在地:広島県呉市音戸町鰯浜
御創建:元暦元(1184)年?


音戸の瀬戸に御祀りされる清盛塚は、宝篋印塔。
倉橋島に寄り添うように、岩礁上に築かれた小島内に建立されており、実際に近くに寄って見る事は出来ませんが、高さは約2メートルという事で御座います。

伝承によれば、元暦元(1184)年 音戸の瀬戸を開削なさった清盛様の その功徳を讃えて、供養の為に建立されたものという事で御座いますが……見た感じ、元暦の頃(1184〜1185年)に建てられた宝篋印塔とは思えない造りで御座います;
余計な突っ込みで御座いますが、“寿永”では無く“元暦”の年号で伝えられている事や、当時の情勢を思うと、やや疑問に思われる部分が幾つか生じてくるようにも思われます。
民間の方々が建立されたとは考えにくいもののように思えますので、このように立派な石塔を建立出来るだけの人物の存在や、それが可能な時代背景…そして、鎌倉初期頃の宝篋印塔には見られない塔の特徴。
私の勝手な推測では御座いますが、恐らくは鎌倉後期以降から室町時代頃のものでは無いかと。
遠目では御座いますが、海上に立つ塔とは思えない程、状態の良いものだなぁと感じております。
昭和26年に広島県の史跡に指定されておりますが、矢張り室町期御作の“清盛塚”として登録されているようで御座いますね。

現在は埋立の為に倉橋島に接するばかりで昔日の面影が見られないという清盛塚。
往時の姿が偲ばれる事で御座います。

音戸 清盛塚04


清盛塚を囲う石垣は、周囲49.14メートル、高さ5.46メートルのものだそうで御座います。
塚の左手前に建立されているのは、改築記念碑で御座いますね。
この裏側には“大正十三年四月一日 山下芳雪 書”と刻まれているそうで御座います。

清盛様の供養塔傍らに生えているのは、大変見事な松の木さん。
“清盛松”と呼ばれているのだそうで御座います。
何とも素敵なネーミングで御座います♪
この松さんは、3代目。
私の母が、ここで
清盛さんの松がねぇ、枯れてしもぉたんよ
と唐突に言うので、一瞬 何の事かと思ってしまいました;///

こちらに在った以前の老松さんには、不思議な伝承があったそうで御座います。
老松の葉が枯れ始めると、蛸の湯掻き汁をかけると元通りの青々とした緑に戻るという御話。
それから、歯痛で困った時には、この老松の葉を噛むと治るという御話。
今は もう枯れてしまって代がわりをなさった松さんで御座いますが、音戸の人々との絆は しっかりと受け継がれているので御座いましょうね。

音戸 清盛塚05


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ひと仰ぎ――そこから始まる、伝説は。
音戸の瀬戸01


こちらの建物は、広島県呉市音戸町鰯浜に御座います おんど観光文化会館うずしおさん。
音戸の瀬戸を開削された平清盛様にまつわる伝説等について調べる為の拠点の1つとして屡々利用させていただいております。

全国各地に平家伝承地は数多く伝えられておりますが、その全盛の頃の偉業を今も感じさせられる土地といえば、矢張り安芸国で御座いましょう。
安芸国は、私の故郷。
地元では英雄として称えられる清盛様や平家御一門で御座いますが、いざ関西関東へと出てみれば、何故か悪評の方が割と良く耳に入って参ります…。
人間という生き物は、どうして他者を見る時、良い面よりも悪い面の方で記憶するので御座いましょう。
確かに、平家物語にも語られておりますように、反論出来ないような場面は多々御座いますが…で、でも…;;
宮島に上陸する度、厳島神社の御社殿に立つ度に、先ず考えるのは清盛様の事で御座います。
今の宮島の姿は、清盛様あられてこそのもの。
この想いを、何と言葉に表したら良いのだろうかと いつも思います。

うずしおさんは、地元の名産品販売所や食事処等を兼ね備えた観光情報施設。
こちらの2階には、音戸に伝わる“清盛祭”を御人形等を使った再現を交えつつ紹介するミュージアムフロアがあり、
3階の しおさいホールでは、清盛様の日招き伝説を基に制作された瀬戸開削のアニメーション作品「小さな瀬戸の大きな物語」を観る事が出来ます。
2階3階については、また別の機会に記す事と致しまして…本日は、1階フロアに展示されている音戸の歴史と、そして 以前にも記してはおりますが清盛様の音戸開削、日招きの伝説について、改めて触れておきたいと思います。

音戸の瀬戸02


現在は呉市に属する音戸の地で御座いますが、つい最近までは広島県安芸郡の音戸町で御座いました。
私が広島を離れる頃には未だ音戸町で御座いましたので、いつの間に!??という感じだったので御座いますけれど…。
音戸のある倉橋島には知人も住んでおりましたので、広島不在中とはいえ、知らなかった事が少し恥ずかしくも感じられました;
漁業が盛んで、牡蠣や炒子等を特産とする、瀬戸内の島の1つで御座いますね。

音戸という地名が、私は とても好きで御座います。
“音戸”と書いて“おんど”と読みますが、その地名には幾つかの説や経緯があるようで、同じ音でも様々な漢字が充てられていたようで御座います。
現在、統一されている“音戸”は、字画の複雑化を避ける為に明治39年に定められたもの。
それ以前には、“隠戸”や“音渡”“隠渡”と表記されたり“於牟登迫門”と呼ばれたり…また、清盛様の功績を讃えて建立された清盛塚に由来して“御塔”と記された事もあったようで御座います。

音戸の瀬戸03


うずしおさん1階の情報プラザでは、音戸の歩みを太古の時代より辿った年表を見る事が出来ます。
古代、古墳時代の頃には、既に人々が居住し生活なさっていたといわれる倉橋島。
古墳から発見された人骨には、炭素化した米粒が見られ、その頃には既に水田を開き、稲作を行われていた事が伺えております。

奈良時代…倉橋島には万葉歌碑が御座います。
そちらについても いずれ記そうとは思いますが、万葉集によりますと、倉橋島は 現在の倉橋側を“長門島”、音戸側を“波多見島”と呼んでいたようで御座います。
伊予国の河野一族が こちらに向かわれる際に波が多く見られた事から波多見の島と名付けられたという事で御座います。

そして、平安末期。
平家御一門と安芸国との繋がりは、平正盛様、忠盛様が瀬戸内の海賊追討等を行われた事に始まるといわれております。
つまり、“源氏と平家”として扱われる“平家”は、その始まりと時を同じくして、安芸国との関係を持たれていったので御座いますね。
久安3(1146)年、清盛様は安芸守に任ぜられると、以後10年の歳月をかけて国司と知行国との絆を深め、厳島神社を平家御一門の氏神様として篤く信仰されるようになりました。
清盛様以後は、保元元(1156)年に経盛様、それから頼盛様も安芸守に任官されていらっしゃいます。
平家都落ちに際しては、屋島から壇ノ浦へと向かわれる途中に安徳天皇を奉じて近くの能美島へ御一門が立寄られたといわれ、それに纏わる伝承地等も島内に伝えられております。

室町期には、波多見島を巡って竹原小早川氏野間氏が戦乱を繰り広げております。
野間氏は、伊予国の水軍出身であったといわれる、私の故郷 矢野の領主様。
天文24(1555)年に毛利氏によって矢野城を攻められ、降伏の後に一族を皆殺しにされて滅亡したと伝えられております…(現在も、末裔の御家は矢野にいらっしゃいますが)
竹原小早川氏は、沼田小早川氏の御分家筋で御座いますね。
小早川氏は元を辿れば、桓武平氏 土肥氏より繋がっております。
源頼朝様に仕えられた土肥実平様の御子様、遠平様が小早川姓を称されるようになり、安芸国沼田庄の地頭職を任じられた事に始まります。
沼田庄といえば、元は平家の所領であった土地…時代の変遷を感じます。
波多見島をめぐる闘争は、結果的に大内氏の仲介によって波多見島は“瀬戸島”と“渡子島”に二分される事で治められたといいますが、野間氏が滅んだ後は毛利元就様の統制の元、小早川氏によって支配されるようになりました。

その後、江戸時代に至ると、音戸の瀬戸には伝馬船が往来するようになり、舟渡が始まります。
そして明治、大正、昭和…現在と、時代の変化と共に大きく発展を遂げられながらも、港町としての風情を今に伝えておられます。

音戸の瀬戸04


厳島神社を崇敬された清盛様は、厳島の海上に見事なまでに美しい御社殿を建立。
幾つ島神社に伝わる史料には、厳島参詣の便を整える為に清盛様が音戸に芸海の航路を開かれた事が記されております。

ここで有名なのが、清盛様の“日招き伝説”で御座いますね。
清盛様の瀬戸の音頭 開削時期については諸説御座いますが、一般的にいわれているのが長寛2(1164)年、清盛様 御年48歳の時の事。
10ヶ月に及ぶ難工事の末、竣工まであと僅かとなった永久元年7月16日(1113年8月28日)の夕刻…引潮を見計らっての作業には限度があり、あと一歩というところで日没が近付いてしまいました。
何が何でも この日の内に完成させねばならぬと判断された清盛様は、右手に金の扇を掲げられ、西へと沈んでいく太陽に向かって、
返せ、返せ
と呼び止められました。
すると……不思議な事に、沈み掛けていた筈の日輪が天へと舞い戻り、その明かりで更に工事が続けられ、無事に その日の内に開削成就と相成ったので御座いました。
自然の理をも動かされ、天地を照らす日輪をも味方に付けられたという、清盛様の この伝説は、最早 広島っ子だけの郷土昔話では御座いませんよね。
地元には、清盛様が好いておられた厳島の巫女の気を引く為に1日で開削されたという伝承も御座いますが、1日は流石に神業過ぎで御座いますよね〜(笑)

音戸の瀬戸05


また 清盛様は、音戸の瀬戸開削に際して、それまでは このような難工事には不可欠であった人柱を立てての祈願を行われなかったと言い伝えられております。
人柱等といった、くだらぬ迷信に惑わされる私では無い
神仏を畏れ、占いや祈祷といった儀礼が重要視されていた この当時、これだけの偉業を成し遂げようとされる信心深い清盛様が、これを拒まれたという事は、土地の方々にとっては さぞ驚愕の事実だったので御座いましょう。
されど、誰しも身近な人命は尊いもの…もしも、ここで人柱が立てられていたとすれば、当然 悲しまれる方も居られた事で御座いましょう。
清盛様は、人柱の代わりに御自ら記されたという一字一石経を海に沈められ、工事に臨まれたという事で御座います。

音戸の瀬戸06


清盛様の瀬戸の音戸開削は、史実では無いという見方をされる場合も御座います。
瀬戸内の歴史を様々な方面から考えた時、平安末期には既に瀬戸の音戸は海峡としての機能を持っていた…つまりは、元々 海峡であったのでは無いかという説も挙げられるようで。

音戸には、清盛様の偉業を讃え偲んで踊られるようになった念仏踊や、そこから発展して行われるようになった清盛祭が、現在も続けられております。
そこで感じられるのは、清盛様に対する感謝の心と、郷土への愛…。
真偽云々よりも、伝えたいのは そんな文化で御座いますね。

音戸の瀬戸07


開削された音戸の瀬戸は、大変な急流であったといいます。
向かい潮で船が波に乗らない事に御怒りになられた清盛様は、舳に立たれて海上を睨まれたのだとか…。
その途端、急流がぴたりと止まり、航海に便利な海峡になったと伝えられております。
人の域を超えた、伝説的人物――平清盛様は、瀬戸の英雄で御座います。

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天上の龍がくださる知恵のみず。
龍頭峡01


ここは、広島県と島根県の県境近く…。
湯来の源平合戦の後、平家城を離れた平家方の方々は滝谷川を上流へ逃れられたと伝えられます。
龍頭滝の谷底に平家軍縁のものと噂される跡等が残ると聞いて、流石に谷底は見えないのでは…と思いつつも、せめて近くまで行きたいなぁと思い、道標に従ってドライブを進める事に致しました。

龍頭峡02


ところがドッコイ!(笑)
道標は山越え経路へと繋がっておりまして;
免許取得から1ヶ月も経っておらず、未だ未だ不慣れな私には、ぶっちゃけイジメ…?とさえ感じられるハードなコースで御座いました……だって 気付けば どんどん崖っぷちを走っており、路端の向こうは谷底で、狭い林道には普通に落石の跡がゴロゴロと放置されていたり、唐突に道路に大きな穴が空いていて脱輪しそうになっちゃったり。。
↑おまけに、ふと山側に目をやれば、すっかり干上がったダムがあったりして…ここは本当に通れる道なのだろうかと、軽く不安に駆られました;
途中、“龍頭峡まで七.〇km”と書かれた道標が御座いましたが、劣化の為に小数点が消えていて、
私「あと“70km”…!?
母「えー、そんなに遠いと帰りが遅ぅなるんじゃない?
  夕飯の支度せんといけんのんじゃけどー…

私「い、いえ…!
  冷静に考えれば、きっと これは“7.0km”という事だと……!!

……焦りました///
この時は、母が一緒だったのが救いで御座いましたね〜(←その翌月には、孤独に死と隣り合わせの恐怖体験をする事になりましたが…/最新トラウマ)

後で聞いた話では、矢張り崖崩れや落石が多い為、私が通った林道は しょっちゅう通行止めになるそうで御座いますー。

龍頭峡03


えぇと…それなりに四苦八苦致しましたが、何とか龍頭峡に辿り着く事が出来ました〜!

三谷川の上流 龍頭峡は、旧山県郡筒賀村――現在は 安芸太田町筒賀に位置する渓谷で御座います。
四季折々な木々が清流の見事な景観と交わって、清々しい空間を作り上げております。
様々な見所が見る人を癒し、楽しませる この名所は、広島県の自然環境保全地域にも指定されております。

龍頭峡04


龍頭峡には、二段滝、奥の滝、ナメラ滝、追森の滝、引き明けの森 等、様々な名所があり、春は桜と新緑、秋は紅葉が見事に映えるのだそうで、ハイキングコースとしても親しまれているようで御座います。

龍頭峡05


私が龍頭峡を訪れたのは丁度 桜が終わった頃の事で、新緑にも未だ少し早く…景観としては、ちょっと殺風景かな;という感じで御座いました(苦笑)
所々に黄色い小花を沢山つけた木が植わっており、母が
あの花の木が欲しいー
と延々申しておりました…でも、自然環境保全地域の植物を採取する訳にはいきませんので、ただ じ〜…っと物欲し気に見上げていたのが妙に印象的な思い出に…;

地元ならではの制限で、夕飯の時間までに戻らなくてはいけなかったので、余り奥までは入れなかったのですけれど、念仏の滝、追森の滝を見る事が出来ました。

平家武者の槍の跡、馬の蹄跡、馬盥に似た凹み等は、龍頭峡の龍頭滝谷底岩盤にあるといわれます。
龍頭滝は2段状に流れ落ちる事から“二段滝”とも呼ばれております。
上段は約20m、下段が約18m…岩壁で水しぶきをあげながら落ちる御姿は迫力であるといいます。
渓谷の岩場の様子から、苦難しつつも上流へと進まれて行く御姿が想像出来るようで御座いました。

龍頭峡06


龍頭の清水は“天上の明水”と呼ばれ、井戸水や川の水とは違う口当たりが好評で、遠方から この御水を汲みに来られる方も多数いらっしゃいます。

この天上の名水の誕生には、筒賀の里の棚田を母龍の鱗と見間違えて天空より降りて来てしまった子龍と それを見付けて狙う村の狩人の若者、そして 狩人から子龍を守った1頭の雄龍の伝説が語り継がれているそうで御座います。
子龍を仕留めようと引き明けの森まで追い詰めた狩人が、いよいよとばかりに弓矢を引き絞った時、霧の中から現れた雄龍が狩人に子龍の助命を乞いました。
中々説得に応じない狩人に、雄龍は子龍を助ける交換条件として この地に美しい滝を作り、知恵授けの不思議な湧き水を与える事を約束したといいます。
狩人が弓をおろすと、雄龍は震える子龍を大事に抱えて天へと昇って行きました。
激しい突風が起き、空高く吸い上げられたせせらぎが狩人の前に戻って来た時、それは見事な御滝が出来ており、豊かな湧き水が溢れて出ていたのだそうで御座います。
狩人は この水を両親に持ち帰り、以後は里の方々の飲み水として愛される事となったといいます。
“龍に授けられた知恵の滝”の意から“龍頭滝”と呼ばれるようになり、ここに湧き出る不思議な清水を“天上の明水”と呼ばれるようになったそうで御座います。

龍頭峡地内、森林館の向かいには龍頭峡温泉汲取場があり、誰でも自由に御水を汲み取る事が出来るようになっております。
天上山ミネラルウォーターの元である名水で御座いますので、家庭での飲料水や 飲食店で料理に使う為にと、車で汲み取りに来られる方が絶える事が無いという事で御座いました。
この時にも、汲取場には常にボトルやタンクを持参された方々で賑わっておりました。

龍頭峡07


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かわしもに矢流。
湯来01


ここは、広島県広島市佐伯区湯来町の“矢流”と呼ばれる地区の土手。
直ぐ下に流れている川が水内川、中央右端に映っている小山が、平家城で御座います。
この矢流は、湯来の源平合戦の際に通矢辺りで飛び交った矢が川に落ち、多く流れ着いた事に由来しているといわれております。
矢流は現在“やながれ”と読みますが、戦後の頃までは“やながせ”と呼ばれていたそうで御座います。

先日、この地に落ち延びられた“平家落人”とは一体どなたであったのか…と記しましたが、もう少し調べてみました所、芸藩通志に平家城は市川周防兄弟の居城と伝えられておりまして。
その他資料には、“上総五郎の裔、市川周防兄弟平家城により戦い敗る”と御座いました。

上総五郎様といえば、確かに壇ノ浦まで同行された平家方の武将…上総七郎こと景清様の御兄様、忠光様で御座いますね。
平姓で呼ばれてはおりますが、藤原秀郷様の御子孫 伊勢藤原氏の御出自で御座います。
“平忠光”様と呼んでしまうと、平良文様の御子息の村岡小五郎様と同姓同名になってしまうので少々紛らわしいですね;;

上総五郎様は、壇ノ浦合戦にて平家御一門が滅亡を迎えられる際、景清様、越中次郎兵衛尉 盛次様等と共に落ち延びられたと伝えられております。
後に源頼朝様暗殺を企てられて処刑された事が吾妻鏡に記録されておりますが、平知盛様の遺児 知忠様を大将に兵を挙げられたとともいわれております。
平家物語で知忠様は藤原能保様邸の急襲を企てたとして討取られた事となっておりますが、この件は吾妻鏡の欠落部分の頃であり、忠光様、知忠様共に御消息の真相は謎のままで御座います。
共に壇ノ浦を去られた景清様、盛次様も同様に数多くの伝説と謎を全国に残されております。

湯来02


↑御家の向こう側に茂っている林の中には、何基かの小さな五輪塔があるそうで御座います。
それがどなたの供養塔なのか御墓なのかは、付近の方々も今となっては良く分からないのだそうで御座いますが、もしかすると平家武者の方々に関係があるのでは無いかしらという事で御座いました。

佐伯郡誌によれば、平家城近くには市川周防守様、児玉式部様、内藤越後様のものと伝えられる古い御墓があるようで御座いますが…もしかすると、こちらが そうなのかもしれませんね。
建立年代や様子等が知りたくて、立ち入っても良いでしょうかと尋ねましたら、平家城以上に止められてしまいました(苦笑)
前日まで降っていた雨の所為でぬかるんで足場が悪いという理由で御座いましたが、それ以上に こちらでもし何かがあってはいけないと心配して下さっての事で御座いました。
五輪塔はとても小さなものらしいのですけれど、以前うっかり その石に足を乗せてしまった土地の方が祟りに遭われてしまわれたそうで……“触らぬ神に祟り無し”といわれておりました。

湯来03


湯来の伝承について教えて下さったのは、かつて私の故郷 矢野町に住んでいらっしゃった御一家の皆様。
折角近くまで来たのだから〜という母の発案で、事前連絡もせず唐突に押し掛けてしまったにも関わらず、大変御親切に色々と教えて下さいました。
実は…私は未だ小さい頃の御縁であったようで、全く覚えておらず…思いっきり初対面な気分で御座いました…も、申し訳御座いません…あぁぁ…なんて無礼な私;

湯来04


↑ワンさんが食べているのは、おやつの大根で御座います。
大根を生で食べるんだー!?と驚いてしまいましたが、大好物のようで美味しそうに齧っておられました。
私が近付くと突然に激しく動き回り始めてしまったので、ヤバい…吠えられるかな;と思ったので御座いますが、尻尾を振ってじゃれ付いて下さいました!
おばあちゃんが大好きなのだそうで御座います〜、きゃわゆ〜い〜。

私にとって、犬は とっても親近感を感じる動物。
心理テスト等では悉く“一匹狼”と診断され、知人からは“猫っぽい”と言われがちな私で御座いますが、何を隠そう根っからの犬気質なので御座います(笑)
犬は好きですが、“犬好き”という感じでは無くて…それ以上に“鳥好き”で御座いますし。。
小さい頃に猟犬を飼っていた事も御座いますが、“飼い主”というよりは、当時から矢張り“友達”として犬と接触していたなぁと思います。
猟犬で御座います故、山に入って獲物を仕留めて来る事も御座いましたが、彼の武勇を我が事のように誇らしく感じていた記憶が御座います。
忠誠心を感じるワンさんであればある程、気が合う仲間のような意識を持って接してしまいます。
猫のように気紛れに見えるのは、ぶっちゃければ興味のある事と関心を示せないものに対する感情の落差が非常〜に激しい事と、仕えるべき主の存在しない今生(!?)で自分以外の方に忠実に生きる意義を感じられていないからで御座いましょう…執着するものにはストーカーレベルで執拗に調べ上げる割に、かなりの割り切り屋さんだったりも致しますので、良く難解な人だと言われます;

湯来05


矢流地区に御祀りされていた大歳神社で御座います。
湯来町内や周辺地区には“大歳神社”が多く御祀りされており、こちらも その内の1社で御座いました。
御祭神は田圃の神様 大年神様と思われます。

湯来06


川沿いには、長閑な田園風景が広がっております。
水と木と空に囲まれた静かな景観は珍しいというよりも、矢張り 懐かしいという感じでしょうか。
東京は大都会で御座いますし、地元は何だかどんどん都会化していっておりますので、久々に広島の田舎町に帰って来たような妙な気分で御座いました(笑)

湯来07


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