
以前、敦盛様と須磨寺、一の谷合戦について記した際、一ノ谷の敦盛様胴塚についてもいずれ…等といっておいて、大分間が空いてしまいました;
ずっと書こう書こうとは思いながらも、何だか画像を見るのも切なくて……とかいいつつ何度も行っておりますが…誠に複雑な病で御座います(苦笑)
先週末より 経正様とその縁者、それから経俊様に経盛様…と経盛様御一家関連の記事が続いておりますので、この機会に便乗して記しておきたいと思います。

敦盛様の胴塚は、山陽電鉄 須磨浦公園駅の西方…海を正面にして右側へ数分歩いた場所に御座います。
大変御立派な五輪塔が、海に向かって聳えております。
須磨寺にある首塚に対して、胴塚と呼ばれているようで御座います。
大正期には、子供の病気の神様といわれ、参拝者が絶えなかったといいます。
そして、その御礼参りには 青葉の笛(=平家物語では“小枝”)に習って、穴を開けた竹に白い紙を巻き水引をかけて奉納したと伝えられております。
神戸市指定有形文化財 敦盛塚石造五輪塔
○総高 397cm
○制作年代 室町時代末期〜桃山時代
○指定年月日 平成9年10月23日
この五輪塔は花崗岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔(京都市八幡市)に次ぎ、全国で2位の規模を誇る。
法量は総高397cm、2石から成る地輪は幅126cm、高さ98.5cm、水輪は最大径130.4cm、高さ99cmで下部がすぼまり、火輪は軒幅26.4×119cm、高さ75.8cm(上面に径30cm、深さ20cmの納穴)、風、空輪は一石彫成で、風輪の径73cm、高さ56cm、空輪の最大径69cm、高さ72.9cm。
各輪四方にそれぞれ五輪塔四門の梵字を薬研彫りに配している。
紀年銘はなく、梵字が大きいことや水輪や火輪の様式にやや古調がみられるが、風・空輪は明らかに近世塔の先駆的様式を示していることから、室町時代末期から桃山時代にかけての製作と思われる。
この付近は源平一の谷合戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に、当時16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から、“敦盛塚”と呼ばれるようになった。
このほか、鎌倉幕府の執権 北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278〜1288)に造立したなどの諸説がある。
昭和60年(1985)4月に、神戸市教育委員会が周辺整備のための発掘調査を行ったところ、下半部から埋没した地輪の下に、四角に囲った板石とその中に2枚の石から成る基壇遺構があることが分かった。
このため、基壇の上部を地表に現し、地輪部以上を完全に露出するように積み直した。
平成11年3月 神戸市教育委員会
敦盛様の供養塔とされておりますが、その御縁起に関しては定かでは無いようで…。
平家一門の供養の為、鎌倉幕府第9代執権 北条貞時様が建立し、“あつめ塚”と呼ばれたものが、時の流れと共に“あつもり塚”と呼ばれるようになったという説も御座います。
ちなみに、福原の清盛塚も貞時様が建立したという伝承が御座います。
何故、貞時様の御名前がちらつくのかしらという疑問はわいて参りますね。
……元々、北条家は桓武平氏 平貞盛様の子孫であるとされております。
平時方様が伊豆介となり伊豆国北条郷に住まうようになってから北条氏を名乗り、坂東平氏ともいわれておりますが詳細は明らかとなっておりません。
源平合戦の折、北条家は源氏方についておりますし、鎌倉幕府では歴代執権の地位を得ておりますので、余り平氏一族として扱われる事は御座いませんね。
貞時様の御人柄も関係していたのかもしれませんが、これだけでは平家一門の弔いに至る動機は考えにくいような気も致します。
また、貞時様が執権職に就いておられた際、執事には貞時の乳母父である平頼綱様が就いておりました。
これも確証は御座いませんが、頼綱様の家系は平資盛様に続いているといわれております。
資盛様の父 は重盛様で御座います故、平家嫡流に近い御立場で御座いますね。
乳母夫であり、内管領である頼綱様の御先祖、それが御自身にとって かつての遠い親戚にも繋がる事から、御供養を…というも考えられない事では無いかなぁ…と思ったり…思わなかったり;(微妙)
それから、その頼綱様で御座いますが、後に恐怖政治を行い 更には次期将軍の画策を目論んだ事から、1293(正応6)年の鎌倉大地震に便乗して貞時様の軍勢によって滅ぼされております(※平禅門の乱)
その後に、頼綱様の御霊供養を兼ねて その祖である平家一門を弔…………いえ…これは相当無理がありますね;すみません;;
頼綱様の祖を辿るのであれば、どちらかというと壇ノ浦で御座いましょうし、清盛塚の方は?と思うとサッパリで御座いますね。
浅はかな考えばかりで申し訳御座いませんー…(苦)
この五輪塔は、古来の山陽道であり 近世の西国街道であった為、往来の旅人はここで足を止めて、献花を供え、手を合わせて祈りを捧げたといいます。
西国大名の参勤交代の際にも、途中 こちらの塚を詣でられていたと伝えられます。
思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。 (幸若舞“敦盛”による)
幸若舞「敦盛」が織田信長様に好まれたように、若く雅な無官大夫とはいえ、敵に背を向け逃げる事無く立ち向かい散って逝かれた敦盛様は、時代が下った後にも 武士達から誉高い御霊として崇敬されたので御座いましょう…。
笛を愛された美少年の 儚くも強く潔い死というのは、いつの世も日本人の心を捉えて離さないので御座いますね。
(ちなみに信長様は、“下天”を“化天”と謡っております)
逃げ延びて、ただ生きる事に執着するのも1つの人生の選択で御座いますが、
たとえ命は途絶えども、己の正義を貫いて散る事も1つの選択で御座います。
長く生きる事は大切な事ですし、それが生物としての本能にも近い願望なのかもしれません。
ですが、私は“長く生きていく事”よりも“どう生きるかという事”を常に考えていたいと思っております。
平たくいえば、“いつ死んでも悔いの残らない生き方”を追求している訳で御座いまして…友達に話すと怒られますが(私がいうと洒落に聞こえないらしく…本気でいっておりますので、自分勝手な意見である事は承知しております;)
だから、こんなにも敦盛様に惹かれているのかもしれませんね……。
どんな生物も生まれた瞬間から死に向かっていると良くいわれますが、確かにその通りだと思います。
だからといって“死”ばかりを見据えて生きているのでは無く、いつか終わる事が解っているからこそ 目標を掲げ、希望を持って迷う事無く頑張れるのだと思うのです。
そんな私の密かな野望の1つと致しまして、いつか龍笛の腕が上達した暁には この塚に向けて曲を奏でられたらなぁ…と!
御近所迷惑だったどうしよう…と先々から要らぬ心配をしては、須磨の海岸からこちらに向けて吹けば届くかもしれない等とつまらない考えを抱いたりしておりますが、生きている内にその腕前まで到達せねばなりませんね!(笑)
ま、負けない〜……っ
頑張りましょうー花林さん


生田神社に引き続きまして、生田の森について。
大河の影響かな、神戸の源平史跡には、こういう旗があったり致します。
これはちょっと見上げすぎだろう…という位に見上げて撮影してますね…何でだろう;
赤い幟も有るんですよ〜!
神戸は平家寄りの地ですので、赤い旗の方が多かった気も致します。
大河が終わって少し経ってしまいましたが、未だ有るのかなぁ…。

生田神社の御本殿よりも、更に奥へ進んで行きますと、生田の森が御座います。
本当は、もっと広大な面積だったようですが、空襲や戦後の土地開発を経て現在の状態に至っているようです。
生田の森は、“杜は生田”と清少納言が枕草子で言っているように、平安貴族に良く好まれ、多くの和歌が残されております。
タイトルの和歌は順徳上皇が春に生田の森を訪れた際に詠まれたもので御座います。
秋にもう一度来たいなぁ〜っていう感じですね。
月残る 生田の森に 秋ふけて 夜寒の衣 夜半にうつなり (後鳥羽院)
汐なれし 生田の森の 桜花春の 千鳥の鳴きて かよへる (上田秋成)

西は一ノ谷を城郭に構え、東は生田の森を大手の木戸口とぞ定めける。
その間、福原・兵庫・板宿・須磨に籠もる勢、山陽道八箇国、南海六箇国、都合十四箇国を討ち随えて、召さるるところの軍兵十萬余騎とぞ聞こえし。
一の谷は、北は山、南は海、口は狭くて奧広し。
岸高くして屏風を立てたるに異ならず。北の山際より、南の海の遠浅まで、大石を重ね上げ、大木を伐って逆茂木にひき、深き所には大船どもを側だてて掻楯にかき、城の面の高櫓には、四国鎮西の兵ども、甲冑弓揃を帯して、雲霞の如くに並ゐたり。
(平家物語 巻九「樋口斬られの事」)
一ノ谷の合戦では、平家の陣営が置かれた生田の森。
平家物語では、平家が平知盛様が源範頼様が生田の森で戦った様子が描かれておりますね。
生田の森を東城戸とした平家軍は、生田川に茂木を並べて陣を張り、知盛様を大将として、源氏の本軍である範頼軍を迎え撃ちました。
戦は熾烈を極めましたが、義経様の鵯越奇襲によって、戦況は悪化し、平家は海上へと撤退を始めます。
知盛様は御嫡男、知章様と監物太郎頼方と三騎で海へと馬を走らせておりましたが、途中で源氏の軍勢に発見され、その際に知章様が身代わりとなって討死しております。
個人的に知章様には色々と(一方的な)思い入れが御座いまして……その内、知章様墓所と伝わる史跡と共に詳しく書けたらと思います。

生田の森の中心には、小さな御社があるのですが…何故か、立ち入り出来る時間帯には写真を撮っていなかったようで……微妙に柵の外から撮った画像ばかりですみません;
こういうのを、間が悪い…と言うのでしょうか……いや、間抜け?(…凹)

↑御祭の時期でしたので、なんだかゴチャゴチャとしておりますが…
こちらは、先日の藤原紀香さんと陣内さんの結婚式を執り行われました、
生田神社で御座います〜。
神戸で縁結びの神様といえば、生田神社で御座いますね♪
縁結び系の神社に詳しいよね、と良く言われますが、別に私が良く恋愛祈願をしているからという訳では無いですよー東急ハンズが近いからですよー(嘘/笑)
私は、基本的に神社で御願い事はしない主義です。
普段は御挨拶という意味で参拝させていただいておりますし…、友人や家族の事で特別気になる事がある場合のみ、御祈祷させていただく事が御座います。
隣接する生田の森は、一ノ谷の戦いに向けて平家の陣営が築かれた場所で御座いますね。
生田の森については明日触れる事と致しまして、本日は生田神社と境内に御座います敦盛の萩について。

□ 生田神社 □
所在地:兵庫県神戸市中央区下山手通
御祭神:稚日女尊
御鎮座:201(神功皇后元)年
旧社格:官幣中社
社 格:別表神社
通 称:生田さん
稚日女尊は、稚く瑞々しい日の女神様であり、天照皇大神の御幼名、もしくは妹姫神様であるとも言われております。
当初は、布引山(砂山)に祀られておりましたが、799(延暦18)年4月9日の大洪水の被害による倒壊を避け、生田の森に移されたと伝えられます。

↓御祭り当日で、ステージの丁度裏側に隠れていた“敦盛の萩”を、30センチ位しか無い隙間に入って撮影したり、裏側に回ったりして撮影したりした…画像です……非常に強引にすみません…すみませんすみません。
(※ステージ裏に潜り込んだ感じでしたが、巫女さんに一言告げて許可をいただいております)
生田神社には何度も行っているのに、どうして余り写真を撮っていなかったのだろう私…;

口碑によりますと、寿永の頃、無官大夫敦盛様は、深く此の萩を愛し、和歌をも作られたそうで御座います。
敦盛様の亡き後、その遺子が賀茂明神に祈請した所、御告げを受け、遥々生田の地を尋ねて参りましたら、たまたま休憩がてら寄り掛かった萩の木陰に亡き父の姿を見、父と子の感動の出逢いとなったようで御座いまして……。
謡曲「生田敦盛」に基づいた伝承なのではないかと思われます。
玉織姫の記事でも触れましたが、子敦盛はおろか妻の存在自体、史実として残ってはおりませんので、何ひとつ確証の持てる史跡では無く……然し、それ故の浪漫はたっぷりで御座いますので、それらをキッカケに幾らでも妄想…いえ、想像は沸いて参りますよね。
敦盛の萩は、とても可愛らしい萩さんで、敦盛様も愛されたのかしらと思うと、ウフフフ…
と ついアヤシイ笑みが込み上げて参ります;私は、萩の葉がとても好きです。
色形といい、大きさといい、とても可愛くて愛おしく感じますよね。
※タイトルは、藤原定家様の和歌で御座います。
46箇所の障子画に添える和歌として、後鳥羽上皇、慈円等と共に詠進したもので御座いますが、この和歌を上皇が採歌されなかった事から、不満を抱いた定家様の愚痴が上皇の耳に届き、印象を下げる元となってしまいました…;;
私は今頃、白拍子に扮して、平家御一門と共に宮島島内を進んでいる頃で御座いましょうか……ドキドキ///
心は平家色に染まりまくりであろう今日は、昨日に引き続きまして須磨の源平史跡巡りを記録しておこうかと存じます。

須磨浦公園内に御座います、戦の濱之碑です。
天然の要害とも言える一ノ谷には、平家軍が本陣を構え、その軍勢からは「赤旗の谷」とも称されていたそうです。
今は大きな公園となっておりますが、元々、ここまで浜辺であったようです。

以前も少し触れましたが、源平合戦の中でも、激戦区とされる一ノ谷。
この戦いで、平家の失った犠牲は本当に涙が出てしまう程……私の敦盛様(←すみません、病気なので見逃して下さい…)も、この濱で討死なさいました……。
敦盛様の兄上方であられる経正様と経俊様、その他にも、知章様、通盛様、忠度様、師盛様等が、一ノ谷にて果てられました(涙)
義経様ファンとしては、「源九郎義経」という名を知らしめた栄光の地、と言える場所だとは思うのですが……矢張り、切ないものです;;

今では、とても穏やかで歩いていて心地の良い一ノ谷。
海、砂浜、公園…デートスポットに最適な場所になっておりますね。
↑これは、うちのルームメイトちゃんと、私の兄ですが……かつて、ここが地で染まったとは到底思えない光景ですね〜。
帰省&旅行中では御座いますが、毎日更新はしていきますので、よろしければ御付き合い下さいませ♪

こちらは、兵庫県は神戸市須磨区の一ノ谷公園に隣接する、安徳天皇内裏伝説地「安徳宮」で御座います。
平家御一門の都落ちに同行した安徳天皇が、一ノ谷に陣を構えていた際、この地に内裏を置かれたと伝えられております。
安徳天皇は大輪田沖にて、船上生活されていたようですので、実際はこの地に内裏が在った訳では無いようですけれども、時代の犠牲となった幼帝への哀れみから生まれた伝承のようです。

□ 安徳宮 □
所在地:兵庫県神戸市須磨区一ノ谷2丁目
御祭神:第81代安徳天皇
安徳天皇は、1185年4月25日(元暦2年3月24日)、壇ノ浦にて、二位の尼と共に8才の若さで海の底に御命を沈められました。
安徳宮は、安徳天皇の御冥福を祈る為、後の世に祀られたものであると伝えられます。

画像では解り辛いのですが、御社の横には小さな池?のような水場が御座いまして……水天宮のような印象も見受けられます。
こちらも、子供守護の神様として御祀りされております。
それから水難除け、学業成就の御神徳もあるのだそうで御座います…。

時代は下って、江戸末期。
「大奥」では安達祐美ちゃんが演じられた皇女・和宮様の像が、安徳宮の直ぐ、公園内に御座います。
和宮様は、私が最近の女性(※あくまでも私基準で…;)で好きな御人で、江戸幕府第14代将軍家茂の奥方となられた方で御座います。
桜田門外の変を経て、政権の揺らぎを感じた徳川幕府は、和宮様を将軍の妃に迎えることで、朝廷との関係を深めようと画策致します。
朝廷と将軍家との婚儀は、そう簡単な事では御座いませんでしたが、尊王攘夷派等の反発を押し切っての結婚となりました。
然し、家茂様は1866年に病死。
和宮様は静寛院宮と称され、その後も幕府を支えてゆかれました。
家茂様との御関係につきましては、色んな解釈がされておりますが、私は「大奥」で描かれた御2人の御関係が想像通りの理想だなとおもっております。
この像は、昭和9年に日本女性の伝統的なシンボルとして建立されたのだそうで御座います。

