日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

博士の愛した故郷。
この夏、母と出雲大社の御本殿特別参拝に参加する為、島根県へ2日間の小旅行に出掛けた帰り道、どうしても行きたかった松江市八雲町の熊野大社へ立ち寄り、御参りをさせていただきました。
出雲市から広島へ帰る予定で御座いましたので、松江経由になると少し遠回りになる…と言いながらも、熊野大社から広島へ向かう経路を地図で探してくれた母。
熊野大社は松江市内の中心部から離れた山側の場所に御座います。
市内に戻って432号線を通り、広島県庄原市の方へ抜けて広島市内に戻るのかなと思っておりましたが、母が このまま更に奥に進んだ方が近いと言うので、熊野大社前の53号線を直進して24号線経由で54号線に出る事に致しました。
熊野大社の周囲には山と数軒の民家を覗けば暫く何も御座いませんので、正直 少し不安は御座いましたが、恐怖の林道走行は和歌山の熊野聖域で これでもか!!という程に体験させていただいておりますし(苦笑)、今回は隣に母も居りますので、割と安心して走行する事が出来ました。
実際は、とても走り易い道で御座いました。

国道54号線に入り、島根県雲南市三刀屋町に入った時、ふと私の視界に“永井隆記念館”という文字が飛び込んで参りました。

永井隆記念館01

――去年の8月9日、ナガサキを訪れた際に長崎市永井隆記念館、永井隆さん御夫妻の御墓へ御参りさせていただきました。
ナガサキで多くの事を学ばせていただいた永井隆さんの故郷が島根県であり、この54号線沿いに記念館が設立されている事を、私は存じておりました。
然し、当初の予定では出雲から広島へ直行するつもりの行程で御座いましたので、元々 通る予定であった道路から離れた場所にある こちらへ行きたいとは言い出せず……。
出雲の宿泊先で地図を広げた時も、流石に遠いから駄目だと言われるだろうなぁと、半ば諦めた気持ちを抱えて過ごしておりました。
熊野大社へ御参りした時、よもや こちらの事を考えて願ったという訳でも無かったので御座いますが、流石は私の信仰する熊野の神様…私の心を導いて、御縁を結んで下さいました(※出雲国の熊野大社と紀州熊野三山との関係等については、また いずれ改めて記します)

永井隆記念館の看板が目に入った時、
諦めてくれるな
……という、そんな声が聞こえたような気が致しまして。
広島に帰るには そのまま直進せねばなかぬ所を、私は とっさに左折しておりました。

永井隆記念館02

島根県雲南市三刀屋町は永井隆さんの本籍地であり、少年時代を過ごされた故郷でも御座います。
御生まれになった場所は御父様の働く松江市の病院で御座いましたが、その御父様が医院を開業なさったのに伴い、飯石村(現在の雲南市三刀屋町)へ移られました。
自然豊かな この地で、永井さんは小学校に通われておりました。

小学校卒業後は、旧制松江中学校、旧制松江高校へ進まれた永井さんは、医師の道を志して長崎医料大学へと進学されました。
在学中も度々の帰省を行われており、御家族や親戚の方々、恩師や御友人方とも触れ合われております。

大学卒業前、急性中耳炎にかかってしまった永井さんは後遺症で聴力が衰え、希望していた内科医への道を閉ざされました。
そして選ばれたのが、放射線医学の道で御座いました。

中国へ出征中、永井さん宛に下宿先の一人娘であった緑さんから慰問袋が届きました。
この中に、手編みの手袋と靴下と一緒に入れられていた公教要理という本に記されていたカトリックの教えに感銘を受けた永井さんは、帰国後に洗礼を受けて改宗。
霊名は、パウロ。
その後に永井さんと緑さんは結婚、御2人の御子様に恵まれております。

昭和14年、再びの中国出征。
永井さんは衛生隊医長として、負傷者の応急処置に当たられました。
中国在国中、永井さんは故郷を想って短歌を詠まれております。

   ふるさとは 思わずとすれ 道のべの
     童を見れば 思い出ず顔


帰国した永井さんを待っていたのは、流行する結核にかかった大勢の患者で御座いました。
レントゲンが有効な検診方法だと確信されていた永井さんは、昼夜を忘れる程に多忙な日々をレントゲン撮影と共に送られました。
レントゲン技術が現代程 発達していなかった当時は、放射線技師も患者と共に放射線を浴びるしか方法が御座いませんでした。
そんな中、1日に何百人分ものレントゲンと向き合う毎日…体調の異変から、自らのレントゲンを撮影した永井さんは、御自身の身体が白血病に冒されている事を認識されたので御座いました…余命3年の命で御座いました。

そして、昭和20年の8月9日。
前日は夜勤で宿直していた永井さんは、大学内にて被爆されました。
自宅では、妻 緑さんが台所にて被爆……そのまま、一瞬で姿形を喪われました。
永井さんが自宅のあった場所へ帰られた時、台所のあった所に御茶碗の欠片が落ちており、その傍らに灰色に塗れた黒い塊があったといいます。
そこに纏わりつくようにあったのは、ロザリオの鎖…。
緑さんの、遺骨で御座いました。

   わがたから

わが家のやけたる あとに
残りたる たからやあると
灰をかき
瓦とりのけ
さがせども 宝はあらず
勲章は焼けて形なく
わが妻の骨のみ白し

富も ほまれも あなあわれ
いとしきものの いのちさえ
すべて ほろびて 過ぎたれど
亡びぬものは ただひとつ
灰の中より 光りつつ
銀の十字架 あらはれぬ

時雨ふる 朝はわびしく
野分ふく 夜は寒けれ
十字架を 柱にかかげ
こんたすを 爪繰りをれば
おん父と共に 吾あり
おん母と共にあり
あな楽しもよ
原子野住居
  昭和二十年十一月末日
  浦上にてよめる
(短歌集「新しき朝」 / 永井隆 氏 著より自由詩『わがたから』)


被爆後、永井さんは救護活動に励まれ、疎開していた子供達を迎えに行かれます。
白血病を患っている上に原爆によって負傷していた永井さんは、その直後に容態が悪化し危篤状態に陥ります。
が、奇跡的に回復し、浦上の焼け跡に戻って小さな小屋を建て、病状が悪化して起き上がれなくなると執筆活動に励まれるようになりました。
被爆地に居合わせ生き残った者の中では、体験を書ける少ない文化人であり、また原子医学を研究していた人となると、永井さんの他には誰も居りませんでした。
自分が書かなければ、そう強く思われた永井さんは、病床から数多くの作品を発表されております。
永井さんの目的は、事実の記録と戦争を2度と起こさせない世の中を築く為に訴える事。
全国、全世界の人々に、“如己愛人”そして“平和を”の精神を伝えられました。

昭和24年3月、寝たきりの永井さんの為に、有志の方々によって小さな御家が建てられました。
永井さんは、これを“如己堂”と名付けられております。
そして ここでも執筆を続け、永井さんにとって生活の場であり、発信の場となった この如己堂には天皇陛下やヘレン・ケラーさん等、国内外から沢山の方々が御見舞いに来られたそうでございます。

永井さん亡き後も、その想いは世界中に広がり、今も尚 継承され続けております。
島根県雲南市では、“如己愛人”の精神をもって人々の為に尽くし、重病の床から世界に“平和を”と訴え続けられた永井さんを顕彰して その精神に学ぼうと、平成17年11月に“平和を”の都市宣言を行われておられます。

   「平和を」の都市宣言

 世界の恒久平和は、人類共通の願いです。
今、世界では、いのちや人権を軽んじる紛争やテロなどの行為が
繰り返され、また、核兵器をめぐる情勢は人々に脅威と不安を与え
ています。
我が国は、世界唯一の被爆国として、広島、長崎の惨禍を繰り返
すことのないよう、核兵器の廃絶と恒久平和を全世界に訴えていか
なければなりません。
 雲南市は、「平和を」と「如己愛人」の精神により世界に平和を
訴え続けられた永井隆博士の有縁の地であります。
私たち雲南市民は、この「平和を」の精神に基づき、心をひとつ
にして、世界平和実現のために努力することを、雲南市誕生一周年
に当たり、ここに誓い、宣言します。

1 私たちは、お互いのいのちと人権を尊重し、差別のない思いや
りにあふれた明るい社会を築くことに努めます。
1 私たちは、次代を担う子どもたちに、戦争の悲惨さと平和の大
切さを語り伝え、平和に関する教育の充実に努めます。
1 私たちは、世界平和の実現と核兵器の廃絶に努めます。
       平成17年11月3日 雲南市




永井隆記念館の設立は、昭和45年の事。
全国から集まった約5000名の芳志を基に、三刀屋町立 永井隆記念館として開館されました。
同年10月20日には、長崎市の永井隆記念館と姉妹館になっております。
そして平成16年11月、合併により名称が 雲南市 永井隆記念館となり、現在に至っておられます。


記念館内部には、永井さんの書や絵画等の遺作、地元で撮られた御写真、御友人や御身内、読者の方々と交わされた沢山の御手紙等が多く展示されておりました。

入場時、受付を済ませると 先ずはロビーでビデオを拝見させていただきます。
私は長崎市 永井隆記念館でもビデオを全て拝見させていただいておりましたので、それでしたら どうぞ展示室の方へ御進み下さいと御案内をいただきまして…限られた時間内では御座いましたが、しっかりと勉強させていただく事が出来ました。
特に心に焼き付いたのは、少年時代の永井さんが御友人方に送られていた絵葉書の数々と、晩年に病床にて記された遠方の方々への御返事の御手紙や色紙等。
本当に……こんなにも、人間味溢るる素晴らしい御方がいらっしゃったのかと思うと、堪らなく言葉には出来ぬ想いで一杯になってしまいます。
こんな人間に、私もなりたい…私が永井さんに対して抱かされるのは、尊敬の念ばかり。
原爆に遭われた博士だからという意味では無く、それが永井隆さんであった事に、涙が出るので御座います。

素敵だなと思ったのが、管理室隣にあった“うちらの本箱”と名付けられた図書室。
これは、永井さんが原爆で全てを失った子供達の為にと、自宅傍に開設された学びの場を倣って設置されたもので御座います。
入口には、ちゃんと永井さんの“おきて”が掲げられておりまして…微笑ましく、また とても嬉しく、羨ましくも感じました。

永井隆記念館03

永井隆記念館の建物入口を目指して敷地内に入ったは、ふと視界に飛び込んで来た この建物を見て、
あ、如己堂がある……!
と、思わず声を出してしまいました。
それは去年、ナガサキで訪れた如己堂と寸分狂わぬもので御座いました。
長崎市の協力を元に建てられたレプリカなのだそうで御座います。
内部まで忠実に再現されており、永井さんの故郷でも如己堂の温かさを感じさせていただく事が出来ました。

   いとし子よ

 わがいとし子よ。
 「なんじの近き者を己の如く愛すべし」
 そなたたちに遺す私の言葉は、この句をもって始めたい。
そしておそらく終わりもこの句をもって結ばれ、ついにはすべてがこの句に含まれることになるであろう。
 (中略)
 己の如く……人を愛す。
 言葉はまことに易しい。
しかし、いざこのとおり行なおうとすると、わが生命を棄てるところまでゆかねばならぬ場合も起こる。
わが子よ、ここにこの句をあげたのは、言葉を教えたのでhあなく、これをそなたたちが一生の間つねに行なってくれるように願ってのことである。
人はともすればわが欲に心を奪われ、このもっとも大きな掟を忘れがちなものである。
それゆえ私は、この私らの住む家に如己堂と名をつけた。
 わが子よ、如己堂に住む者よ。
どうか家の名にふさわしい愛の一生を送っておくれよ!
――これこそ私のそなたたちに遺す言葉のすべてである。

       (「いとし子よ」/永井隆 氏 著より文頭部分抜粋)


如己堂は、2畳ひと間の小さな木造住居で御座います。
“如己愛人”とは、書いて自の如く“己の如く人を愛せよ”というキリスト教の教えに基づいた、永井さんの座右の銘。

幼い子供達を遺して死んでいかねばならぬ辛さを抱えておりながらも、常に隣人愛を実行し、その御心を発信され続けた永井さん。
自分が子供達の事を本に記すのは同情を願ってのものではありません、その優しさを身近で必要とされる方々の為に使ってあげて下さい、と常に客観的な広い視野で物事を捉えられる御方で御座いました。

永井隆記念館04

屋外には、如己堂のレプリカの他、永井さんの像や頌徳碑、歌碑等も建立されておりました。
綺麗に整備された御庭の各所からも、各地との様々な繋がりや絆を見出す事が出来ます。

   永井隆頌

如己愛人
 わが身にたいするごとく人に尽くし われを忘れて
 人のために生涯を生きた 愛の人
平和を
 人を愛するゆえに平和を愛し 重病の床から
 世界に平和を訴え続けた 平和の使途
亡びぬものを
 学問芸術を愛し 信仰を尊び つねにより高い
 真善美にあこがれて
 永遠に滅びぬ価値を追求しつづけた 努力の人
医学博士永井隆の人間性は
かくして人びとの心をうるおし世に輝いた



歌碑は、永井さんの没後50周年の際、長崎医学同窓会島根県支部より寄贈されたものだそうで、“新しき 朝の日差しの さしそむる 荒野にひびけ 長崎の鐘”と刻まれております。


去年、永井さんについて記してから、数名の方から それに関する御感想をいただきました。
永井隆さんについて調べていて、私のブログが引っ掛かったという御意見もいただき、あぁ…私も無力では無いのだと、何度も励まされました。

基本は歴史ブログなので毎日は書きませんが、正直もっと もっと…知っていただきたい事が沢山あるので御座います。
戦争の事、核兵器の事、平和の事。
私がヒロシマ出身だからでは無く、私が“どうゝねひろこ”だから出来る事が、何か1つでも出来るように……考えていきたいと思う課題は、山積みで御座います。

永井隆記念館05

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8月6日+9日=8月15日を。
鎌倉駅地下道01

忘れない事、伝えていく事――ヒロシマに生まれた その時から、私にとっては義務であり、自らの意志であり。

本当は、“ヒロシマ”の人間である事は それ程 必要な事では無い筈なのですけれど、それでも戦争と平和について語る上では、欠かせない枕詞になっている事は否めない…ですね。
私という個人の存在からは何も伝えられないかもしれませんが、その単語が背負っている数多くの尊い生命の重みは、どんなに無関心の方にも少しは察していただけるのでは無いかな、と甘ったれた考えに寄り掛かっている事も また事実で御座います。
幾ら綺麗事を並べても、大切なのは今だ、未来だと仰る方には、届かぬ声で御座いましょう…。
過去は決して変えられず、どんなに省みても やり直す事は出来ません。
だからこそ、人は過去に学び、今を生き、未来を創造していくのでは無いでしょうか。
ヒロシマを語る事は、間違っても過去に縋るという事では御座いません。
私達が今、現在進行形で ここに生きている事は確かなのですから…。

鎌倉駅地下道02

先月23日から29日までの間、鎌倉駅地下道のギャラリー50では平和のパネルが展示されておりました。

何と無くチラ見をしつつも通過して行かれる方、見向きもされない方、色々いらっしゃいましたが、ひとりが立ち止まると、その直後から次々と足を止めて展示と向き合われる方々が見られました。
いろんな方が普通に利用する地下道内の、きっかけひとつで気に留められる場所で このような展示が行われるのは、とても素晴らしい事だと思います。
私は毎週のように鎌倉へ行っており、いつも この場所で見られる展示を毎回楽しみにしておりましたので、特に感慨深く感じております。

鎌倉駅地下道03

『忘れられないあの日』は、被爆55周年に神奈川県被爆者の会によって発行された 広島、長崎被爆者の詞画集で御座います。
これは、神奈川県在住の被爆者の方々が体験した それぞれのヒロシマ、ナガサキを、多くの方々に語り継ぐ為に、辛い過去を思い起こしつつ心を込めて描き記された“記録”であり、“遺言”で御座います。

鎌倉駅地下道04

   幼かった私が見たもの
       八月六日 広島 四歳 幼女

私の家は、広島のはずれの方にあったが、
当時、幼かった私はあまりよく覚えていない。
爆風で家中の窓硝子にひびが入った。
市内の方から大勢の人が、次から次へと家の前を通るので、
廊下の手摺につかまって外を見て驚いた。
子供の私には、幽霊のように見えた。
とても怖かった。



私の生まれた町も、広島市内では御座いますが郊外で御座います。
原爆による直接的な被害は殆ど御座いませんでしたが、次々と運ばれて来る被爆した死傷者によって、間も無く小学校とその校庭は病院、火葬場と化したと聞いております。

   広島駅近くの京橋町で
       八月六日 広島 十六歳 女学生

八月六日、私は爆心地の相生橋を渡って、広島駅近くの京橋町まで逃れてきたが、ここで見たのはこの世の地獄図だった。
顔が火傷で腫れ、目が見えない兵隊さんが杖を突いて立っていた。
怪我に白いチンク油を塗った人は、衣服も破れて肌が見えていた。
暑くて喉が渇くので、水を求めてやっと防火用水にたどりついた人も、気力が尽きて死んでいた。
母親が死んだ子を抱き、血を流して、子を抱いたまま死んでいた。
広島駅の方から火の手が上がり、こちらに迫って来た。



鎌倉駅地下道05

   父と母とわたし
       八月十五日 長崎 十九歳 学生

「新型爆弾による損害軽微」という発表に反して長崎の浦上は焼野ヶ原であった。
爆心地から約五〇メートル、松山町にあった私の家は跡形もなかった。
私は両親の手がかりを求めて焼け跡を掘った。
瓦礫の中から真っ白に焼けた人骨を拾った。
それは母の骨だと思った。

焼跡に漸く拾いし母の骨
   その温もりをこの手忘れず


あの日から半世紀あまり、その時拾い得なかった父の骨は、今も地の底の闇の中に眠っているのであろうか。

人繁くなりたる被爆の地の底に
   行く之知れざる父の声きく



大切な家族だったから、やっぱり御骨は他の御宅の子と混じらないようにしたいじゃない
先月、可愛がっていた愛犬を亡くされた知合いの方が、ペット火葬に際して そのような事を仰っておられたのを思い出します。
誰だって、大切な存在を失くしたら、その欠片を拾い集めて抱きしめたい、自分の手で弔いたいと思うもので御座いますよね。

今も、掘れば人骨が出土するであろう場所は御座います。
例え発掘されたとしても、それが何処の誰であったのか分からなければ、その身体は永久に還る事が出来ないので御座います…それが、もし私であったならば。
そう考えると、背筋が凍る想いが致します。

鎌倉駅地下道06

   その夜から墓場で
       八月九日 長崎 六歳 少女

あの日のことは六歳の私の脳裏にも、しっかりと刻みこまれています。
歩いていたらよそのおじさんが、
「おじょうちゃん飛行機がとんでいるよ」
といいました。
家の中に入った瞬間「ピカッ」と光って壁がおち、もうもうと砂煙につつまれました。
中島川にかかった賑橋近くの墓場に逃げました。
山の上から向こうを見ると火の海でした。
私は無心にその火を見ていました。
あたりには怪我をした人が沢山横になっていました。
その夜から私たちは墓場で過すことになりました。



鎌倉駅地下道07

そして、原爆と人間展
ヒロシマの、ナガサキの、怒りや悲しみ、歎きは、一体何処に向けられ、何処に届くので御座いましょうか。

   墓の中身は空っぽじゃ

夫も息子も帰ってこんじゃった。
探し歩いた私や娘まで
原爆症で寝込んでしもうた。
夫と息子は
生きとるのか死んどるのか?
分からん者の葬式は出せんのじゃ。
しとうもない。
墓の中身は空っぽじゃ。
       『原爆に夫を奪われて』



鎌倉駅地下道08

ヒロシマ、ナガサキだけでは御座いません…。
世界の核保有国で繰り返される核実験による被爆者が、今も大勢苦しまれているので御座います。

   アメリカの被爆兵士

アメリカ海軍の消防兵だった。
一九四六年七月
ビキニでの原爆実験に参加した。
爆心から約三十キロで爆発を見た。
十時間後に爆心の島で作業をした。
一ヶ月後、両足に浮腫が始まり左足切断。
一年後には右足も。
病名は「悪性リンパ腫」。
四年後、左手にも浮腫。
二年後、切断が宣告された。
こんな被爆兵士が
数十万人も苦しんでいる。



この証言を残された元アメリカ兵の方は、直腸癌の全身転移により54歳で亡くなられております。

アメリカの一連の核実験に立ち合わされ、爆発後に突撃訓練、火炎処理等をさせられた兵士の数は約30万人。
NHKの特番等でも取り上げられておりますが、こんな世界の現状が“平和な世界”と言えますか?
紛争で親や住処を奪われ、地雷に怯え、学校に通う事も、明日生きる為の食糧確保も出来ない子供達が現存する この世界が、“平和な世界”と言えますか?
それとも、自分とその近辺の人達が笑って裕福に生活し、安らかに死んでいける世界が“平和な世界”なのでしょうか…もし そうだと肯定される方がいらっしゃるのであれば、それはまた…随分と小さき世界で御座いますね……。

鎌倉駅地下道09

原爆と人間展は、各地で開催されておりますし、web上でも拝見する事が出来ます(※ web gallery『原爆と人間展』は、こちらから)
また、被爆した広島市民の描いた絵を広島平和記念資料館の企画展示場で見る事が出来ます(※ 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアムは、こちらから)

鎌倉駅地下道10

各地で行われる様々なイベントや企画展等で原爆の惨さ、戦争の愚かさ、平和の尊さを学ばれた方が、どうしても1度 ちゃんとヒロシマ、ナガサキを見ておきたかったと、8月6日、9日の式典に合わせていらっしゃったという御話を、8月の平和公園で 良く耳に致します。
実際に訪れてみて、どうでしたか?と尋ねますと、皆さん口を揃えて
「想像以上でした…」
「来て良かったです」
と仰られます。
見て欲しいのは、過去だけでは無いのです。
ヒロシマに来られたら、どうか今のヒロシマの街を、しっかりと見て回っていただきたいと思います。
そうして感じた何かを心に持ち帰って、御家族や御友人に御話されてみては如何でしょうか。

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廣島護国神社。
広島護国神社01

広島城の域内には、大本営跡、それから私の母校の先輩方が大勢亡くなられた中国軍管区司令部跡が御座います。
現在、その司令部跡の直ぐ傍には広島護国神社が御祀りされており、市内中心部に位置している事から、毎年沢山の地元民が初詣に訪れます。
広島東洋カープの選手方が、必勝祈願に参拝される事でも有名で御座いますね。

広島護国神社02

□ 廣島護國神社(ひろしまごこくじんじゃ)

所在地:広島県広島市中区基町
御創建:明治元(1868)年
御祭神:英霊(旧安芸国出身)、広島原爆犠牲者となった動員学徒、女子挺身隊 等
旧 称:水草神社、招魂社、広島招魂社
通 称:広島護国神社


広島護国神社は、戊辰戦争で亡くなられた方々を崇め祀る為に、明治元年に二葉の里に創建された水草霊社に始まります。
以降、終戦に至るまでの戦没者を祀る招魂社として存続され、明治8年に官祭招魂社、明治34年に官祭広島招魂社と改称されました。

昭和9年、御社殿の老朽化によって、西練兵場西端辺りに御社殿を造営し、遷宮。
昭和14年に廣島護國神社と改称されますが、昭和20年8月6日…原爆によって焼失。
前々から、爆心地付近の被爆後写真に、今の広島市民球場の近くに石鳥居が見え、元は神社があったのでは無いかなと思われる部分が気になっていたのですけれど、それが護国神社であると知ったのは、つい最近の事で御座いました。
その後、しばらくは小さな祠が置かれ、御祀りされてこられたようで御座いますが、ヒロシマの復興に伴って移転される事となり、昭和31年に現在地である広島城跡の敷地内に御祀りされる事となりました。
御社殿や境内が整備され、現在に至っております。
毎年8月日には午前10時より原爆慰霊祭が執り行われ、8月15日には英霊感謝祭が斎行されます。

全国の護国神社は、東京の靖国神社同様に、様々な意見、論争が飛び交っておりますが…。
“英霊”を呼ばれる方々が、果たして誠にそうなる事を望まれておられたか。
望まれていらっしゃったかもしれませんし、そうでないかもしれません。
私が戦時中の子供として生まれ育っていれば、確実に そこに祀られる事を目指して日々を励んだ事で御座いましょう。
それは間違っても、“戦争の肯定”と同義では御座いません。
当人に身を置き換えた時、遺族という立場に身を置いた時、そして客観的に考えた時、それぞれの想い、考えを思えば、もっと別の問題が生まれてくると思いませんか。
考えなければならない対象を、見誤っている部分も大きいのではと私には思えてならないのですけれど、今ここでは それ以上 触れずにおきたいと思います。

広島護国神社03

これは、私の身辺のみに当て嵌まる勝手な見解なのかもしれませんが……広島市民は、他地方と比べて かなり神仏、特に神社に対する信仰心が薄いように思えてなりません;
神社好きの私と致しましては、若干寂しいなと感じる部分もあるので御座いますけれど、その大きな理由には原爆投下が挙げられます。
市内には原爆投下によって、消失した小さな社寺等も多いようで…小さい頃には気になりませんでしたが、今にして思えば広島市中心部辺りは、特に神社が少ないなぁと感じます。
実際、原爆に遭って尚も生き延びられた方々というのは、殆どが生きる事に必死だった御方ばかり。
中には勿論、焼けた仏像を大切に祀り直されたり、神仏に祈りを捧げられたり…という方もいらっしゃいますけれど、私が今までに聞いた数々の体験談を振り返ると、
とにかく、自分がその日を無事に生きられるかという事だけで精一杯だった
神様なんかいないと思ったし、居たとしても何もしてくれないんだという事を知った
日本は神の国じゃ言われて育ったのに、あの原爆が落とされて沢山の人が死んで、戦争には負けたじゃないか!
祈るのは、御先祖様と原爆で死んだ親兄弟達だけ
……と、神社や神様に対して、今でも良い印象は余り抱いておられないようで御座いました。
明治期より太平洋戦争終結まで、日本は国家神道を基とした教育が行われておりました。
勿論、現在 神社は国の管理下からは外れた宗教施設として存続されております…が、それを知らない方も多いようで御座いますね;
全国の神社を包括する大きな宗教法人にがあり、それぞれの都道府県には神社庁と呼ばれる機関が御座いますが、“庁”とあるので少し紛らわしいところでは御座いますが、これは あくまでも宗教法人としての組織であり、国によって管理、包括されるものでは御座いません。
ちなみに…ナガサキは元々、キリスト教徒の多い街で御座いましたので、そういう点では全く印象が違うなぁと感じております。

私が、地元での神社に対する意識の低さを感じるのは、神社参拝の意図が随分とテキトーだなぁ;と思わされる時。
現代の感覚でいえば、そんなに極端な御話でも無いのかもしれませんが、初詣に行きたいけど宮島は遠いし、とりあえず交通便利な市内中心部の神社へ行っときたい=じゃあ護国神社でいっか!という感じが何とも……護国神社に御祀りされる御祭神に関する事等は、殆ど認識していないようで御座いますが…そんなものなのかもしれません;;

広島護国神社04

* * * * * * * *

広島城

私達 ヒロシマっ子にとって、広島城は確かに原爆の恐ろしさを知る場所であり、平和とは何だろうと学ぶ場所でも御座います。
が、広島に生活している私達にとって、広島城は いつでも そういう視点で考える場所という事でも御座いません。
ヒロシマの人間が、戦後の廃墟の中に生きてきた事実は、誰だって知っている事。
良く、原爆資料館で被爆した瓦や焼き付いた影の跡、ケロイドの写真等を見て、躊躇っておられる方を御見かけいたしますが、私たちにとっては どれも幼い頃から身近に在ったものばかり。
資料館にあるものが全てでは御座いませんし、特別でも無かったので御座います。

小さい頃は、広島城の写生大会の常連で御座いましたし、学生になると御花見やピクニック等を楽しむ、行楽スポットとして利用しておりました。
↑なので、私のアルバムには かなりの確率で、広島城が背景だなーという写真が多いです(笑)
広島城へ行けば当然のように護国神社に参拝致しますし、学生の頃はみたま祭の巫女舞に参加させていただいた事も御座います。

今後も、きっと機会があれば また広島城で遊ぶ事も、平和学習をする事も御座いましょう。
何があっても、ここが私にとって とても意味のある場所である事に変わりは無いので御座います。

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私の、2008年8月6日。
比治山追悼式01

  戦争と原爆と平和

広島で生まれ育ったから、小学校以来10年以上平和教育を受けてきました。
私自身平和教育にはそれほど興味も持たず、式典なんかも高校に入ってボランティアで参加して初めて行ったとかそんなレベル。

でも広島以外で育った人には8月6日や9日にあまり関心がないのだなと県外人と話すと思います。
もちろん広島人がすべて平和に興味あるわけじゃないけど。

でも、自分の知らない過去とはいえ、知らなくていいわけじゃないと私は思います。
私も最初は人事と思いながらだったけど、知る努力をしないのもまた罪な気がしました。

今年は初めて母校が関係している慰霊祭に行ってみようかな。

       (2008年08月04日 心友の日記より)


これは、私の心友のひとり ちこちゃんが慰霊日の2日前に記していたweb日記。

私は、毎年8月6日には必ず広島に帰り、広島市の式典に参列しております。
学生時代から、青春を共に過ごした心友全てが原爆死没者の遺族という事では御座いませんし、特に平和問題に深刻に取り組んでいるという訳でも御座いません。

ヒロシマの子供達は、小学校以降 必ず平和学習を受けて育ちます。
“怖いから”“悲しくなるから”――そう言って、目を閉じ、耳を塞ぐ何人もの同級生の姿を、小さい頃から幾度と無く見て参りました。
でも、“関係無いから”と言って目を逸らす子は、1度も見た事が御座いません。
幼い時分の私は、そのような反応を示す子達に対して、
なんで、そんな態度が取れるんよ!?
 原爆に遭いたくて遭った人なんか、ひとりも居らんのに そんなの失礼じゃわ!

と、ただただ納得がいかずに憤りを覚えたもので御座いますが…今にして思えば、“怖い”も“悲しい”も、向き合った結果の感覚なので御座いますね。
ヒロシマの子として学ぶ中、子供にしてみれば、はじめは 半ば強制的に始められる平和教育かもしれません。
勿論、最初は小さな子供でも入りやすいようにとアニメや絵本等を使用した学習が考慮されておりますが、全ての子が それを受け入れられるかというと…矢張り、人間の個性は それぞれで御座いますので、難しい面も多いのでは無いかと思います。
私の母は、私が物心付く前から、様々な平和教育の場に私を参加させてくれておりました。
身近に、原爆症で苦しむ方がいらっしゃった事もあり、私は 同級生の子達と比べると少しだけ“平和”というものを考えようと思う気持ちが強かったように思います。

本格的に、私が戦争、原爆、平和といった言葉の意味を考えるようになったのは、中高生になった頃の事で御座いました。
丁度、思春期という難しい時期で……正直、現実逃避の為に自分の踏台にしようとしていた感も随分と御座います…。
それまでは、ただ漠然と“平和”というのは、良い言葉であるという程度の浅い認識しか抱いていなかった私は、図書館や資料館で戦争や原爆について調べて行く中で、これまで自分が学ばされてきた“平和教育”が何の為のものであったのかという事を、生まれて初めて理解致しました。
戦争は、いけない事だと思います
平和な未来を、築いていかなくてはなりません
その言葉達の本当の意味が心に染み渡ると同時に、頭の中でフラッシュバックする、沢山の映像や声。
その正体をようやっと理解して…そうして初めて見えて来た、世界の現状と未来への希望、それから不安……。

ちこちゃんとは、これまで何度も一緒に式典に参列しております。
私にとっての8月6日と、ちこちゃんにとっての8月6日は、きっと同じ意義のものでは無いと思います。
ヒロシマの人間であっても、思う事、感じる事は、人それぞれ。
だからこそ、人は御互いを尊重し、支え合って生きていけるのだと思います。
それは、市外、県外、国外…どんな人と人同士でも成立する事が出来るものだと信じております。

この日記を書く前に、ちこちゃんがくれたメールと それから、この日記を読んで、今年の8月6日の午前8時15分、私も この場所で祈りを捧げたいなと思いました。
この日の この時間、誰もが それぞれの心を近付けられる場所で、慰霊の式や法要等を行われております。
ずっと広島市の式典に参列していた理由は、全ての死没者に哀悼の誠を捧げ、平和を誓う為と、国や県の意向を伺い知りたいが為で御座いましたが…私の身内が、何処で被爆して亡くなったかが定かで無い事も、その理由の1つになっておりました。
私が、心から平和を願うようになった直接のきっかけは、中高時代の とある出来事に御座います。
子供にとって学校は、ただ只管に勉強をして良い大学を目指す為だけの学び舎では御座いません。
様々な経験を積んで行く中で、得られる形無きものこそが、生涯の財産に繋がるものと思います。
そんな小さくて、とても大きな欠片のひとつひとつを、6年間を通して私に与えてくれた母校 比治山学園 比治山女子中学校・高等学校の原爆死没者追悼式に、今年は ちこちゃんと共に参列して参りました。

比治山追悼式02

比治山女子中学校・高等学校の追悼式は、広島城の一角にある 中国軍管区司令部跡(防空作戦室)に建立される慰霊碑前にて行われます。
私は、在学中もボランティアスタッフとして広島市の式典会場へ行っておりましたので、こちらでの追悼式に参加した事は1度も御座いませんでした。

仕事の都合で今回の広島には日帰りとなってしまいましたが、この日は 朝早くに広島駅に到着し、平和公園へ先に立ち寄ってから、広島城を目指しました。
慰霊碑前には白いテントが張られ、直接的に御世話にはなっておらずとも見覚えのある先生方や、私の在学当時の校長先生に教頭先生、それから現在の校長先生と中高生徒会の皆さんが整列しておられました。
懐かしい夏のセーラー服姿が眩しくて…若いって、それだけで素晴らしい事だと思います…(笑)

それから、被爆されながらも生存され 今も御元気でいらっしゃる先輩方、そして、亡くなられた先輩方の御遺族の方々も、同窓会のように顔を合わせて再会を喜ばれておりました。

比治山追悼式03

開式は、午前8時15分――。
1分間の黙祷より始まりました。

先ずは、学校長による追悼の辞。
同級生伝の噂では御座いますが、現校長先生は大変素晴らしい御方だと聞き及んでおります。
校長先生は、追悼文集『炎のなかに』に記される女学生の先輩方…白いセーラー服は灰色に染めさせられ、モンペに下駄、防空頭巾と着用し、ただ懸命に尽くされた姿を、涙無くして読む事は出来ないと語られ、途中 何度も声を詰まらせられておりました…。
その後姿に、とても胸を打たれ…直接存じ上げぬ先生で御座いましたが、本当に心の底から生徒を愛し大切に護ろうとされていらっしゃる先生なのだな、と感じました。

学校長、師友会代表追悼の辞に続き、生徒代表による平和への誓い。
代表として誓いを立てられたのは、高校2年生の生徒会長さんで御座いました。
今年の平和学習では、比治山大学より講師の先生を御迎えし、平和学の講義を受けられたそうで御座います。
そこで学び、感じた事、広島を語り継ぐ継承者である事を自覚させられた事を胸に刻み、日々の暮らしの中に毎年訪れる8月6日、8月9日を次の世代に語り継いでいきたいと仰られておりました。
今年の蝉が来年も生きる事は無いけれど、それでも蝉は同じように 来年も生まれ、懸命に鳴く…そんな連鎖と、継承者としての役割を重ねて話されておられたのが印象的で御座いました。
彼女達から見て、私は決して良い御手本になれるような先輩でも何でも御座いませんが(すみません…私は問題児で御座いました;/苦笑)、あぁ…素晴らしい後輩が、あの学び舎に今も育っているのだなぁと思わされました。

比治山追悼式04

列席者全員による献花では、私も 生徒会の方々より御花を受け取って 碑前に御供えさせていただきました。

そして、折り鶴の献納。
中高時代、平和学習期間には中学校校舎の職員室傍にあった会議室が資料室となり、そこに折り鶴入れの箱が置いてあった事を思い出します。
私は小さい頃から自宅で何千羽も鶴を折り続けておりますが、学校で皆で協力して千羽を折る事は、もっと素敵な事だと思います。
ひとりひとりの祈りの形が、1羽の折り鶴となり、それが数を重ねる…普段見えないものが形となると、それが次の希望に繋がりますね。

比治山追悼式05

そして、鎮魂歌『ほろほろと』の合唱を経て、閉式となりました。

この鎮魂歌…実は在学中から存じてはおりますが、合唱部以外は授業等で習う機会が御座いませんでした……凹。
でも…この御歌は、歌おうと思えば きっと誰にでも歌えるので御座います。
何故ならば、メロディーは重なりが御座いますが基本的には短く単調で、そして歌詞が行基様 御作の和歌だから…で御座います。

  ほろほろと
       行基 作歌

   ほろほろと
   鳴く山鳥の 声聴けば
   父かとぞ思ひ
   母かとぞ思ふ


民衆救済に御生涯を捧げられ、人々から“菩薩様”と崇められた行基様が詠まれた、この御歌。
在学当時、思いっきり反抗期だった私には、到底 理解の及ばない御歌で御座いましたが(恥…)、卒業から随分経った今では、何故この御歌が学園で大切にされてこられたのかという事を感じる事が出来るように思います。
講堂前のホワイエにも、この歌詞が掲げられていたんだっけ…と今更ながらに思い出されます。

“正直”“勤勉”“清潔”“和合”“感謝”
これは、中高一貫制の学校で、6年間を通して教えられてきた五訓で御座います。
私は今も、胸を張って全てが身に付いております!とは言えない、非常に未熟な卒業生で御座いますが…5つ目の“感謝”の心だけは、いつでも しっかりと持って進んでいきたいと常に思っております。
残りの4つも…頑張り…ま…す(←弱気?)

* * * * * * * *

瞑想の森 慰霊碑

こちらは、学園内の“瞑想の森”と呼ばれる庭に建立されている慰霊碑で御座います。
在学中は良く、瞑想の森で遊んだり御弁当を食べたり致しました。
夏休みに学校に来る事があれば、慰霊碑に手を合わせ、原爆で亡くなられた先輩方、先生方の御霊に祈りを捧げました。
原爆で亡くなられた先生は2名、生徒は73名であったと聞いております。

広島市内の中心部に程近い小中高等学校等の校庭には、必ずと言っていい程に慰霊碑が建立されております。

学校は、子供が成長する為の大切な場所で御座います。
戦争は、子供達から学校で学ぶ権利を奪いました。
原爆は、大人や子供達だけで無く、全てのものを奪いました。

“平和”って、どういう事だと思いますか?

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2008.08.06 08:15。
080806ヒロシマ

平成20年8月6日。
63年前の あの日を、今どれだけの方々が想われている事で御座いましょうか。

広島市平和記念公園にて行われる、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式
遺族でもある私は、学生時代はボランティアスタッフとして…広島を出た後は一般参列者として、毎年必ず この式典に参列致しておりましたが、今年は少々思うところが御座いまして、母校の慰霊式に参列をして参りました。
(…思うところというのは、自分の内面的な事で御座いますので、市の式典に不満があるとか、そういう意味では決して御座いません。広島市の式典には出来ませんでしたが、その前後には参拝をさせていただきました)
8月6日の午前8時15分――この瞬間、広島市内で一体どれだけの慰霊行事が行われているという事等は知る術も御座いませんが…それぞれが、想う御方に近い場所にて この時を過ごされておられます。

己が身の置き場所よりも、心の行方の方が重要とは存じます。
然し、そこへ身を置く事で初めて得られるものというのも、確実に御座います。
大切なのは“今、自分は何処で何を感じ、そこから如何すべきなのか”という事。
8月6日の広島市内では、“ヒロシマ”を知る為に行動される方々と多数擦れ違い、また目的地を共にする事も御座います。

本日は、昨年同様に 余り多くは語らず、式典の流れと内容のみを記しておきたいと思います。

080806ヒロシマ

式典の開式は、午前8時。
広島市長と遺族代表による原爆死没者名簿の奉納が行われ、広島市議会議長の式辞となります。
名簿の奉納では、この1年間に亡くなられた被爆者、新たに死亡が確認された方、5302名の御名前が書き加えられた258310名の原爆死没者名簿が、慰霊碑に納められました。

   式辞

 本日ここに、福田内閣総理大臣をはじめ、ご来賓各位、被爆者並びにご遺族の方々のご臨席と、国内外から多数の皆様方のご参列のもと、被爆63周年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式を挙行するにあたり、原子爆弾によって犠牲となられた多くの御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 人類史上最初の原子爆弾による惨禍を身をもって体験した私たち広島市民は、再びこの悲劇を繰り返してはならないという使命感から、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を全世界に対し、訴え続けてまいりました。

 しかしながら、世界では冷戦が終わり20年近く経ったにも関わらず、核兵器の脅威は一向になくならないばかりか、新たな核保有国の登場やテロリストへの核拡散が懸念されるなど、核不拡散条約体制が揺らぎ、人生の生存が脅かされる憂慮すべき深刻な状況が依然として続いております。

 このような中、9月2日には、広島市で、第7回G8下院議長会議が「平和と軍縮に向けた機会の役割」をテーマに開催されます。
被爆地広島において、核保有国を含む主要国の下院議員が、平和や軍縮などについて意見を交わす意義は非常に大きく、国際社会に対し平和を発信する貴重な機会になるものと確信いたしております。

 私たちはこれからも、被爆の実相と平和の尊さを訴え、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向け、全力を尽くすことを、ここに改めてお誓い申し上げます。

 本日の式典にあたり、原子爆弾の犠牲となられた御霊に対し、謹んでご冥福をお祈り申し上げますとともに、高齢化が進む中、今なお後遺症に苦しんでおられる被爆者並びにご遺族の方々への援護が一層充実強化されますよう念願いたしまして、式辞といたします。
     平成20年(2008年)8月6日 広島市議会議長 藤田 博之



続いて、広島市長、広島市議会議長、遺族代表、こども代表、被爆者代表、来賓による献花が行われ、8時15分を迎える事となります。

080806ヒロシマ

8時15分より1分間。
平和の鐘が鳴り響く中、死没者の御冥福を祈る為、平和への誓いを胸に、黙祷を致します。

この瞬間は、広島の何処に居ても、サイレンや鐘の音が聞こえている事と思います。
幼い時分、私は広島市内の自宅にて この時を迎えておりましたが、NHKの中継でテレビから聞こえる平和の鐘の音と、地元の町内に流されるウー…という長いサイレンの重なりの中、子供ながらに手を合わせ、黙祷を捧げておりました。

黙祷の後、広島市長による平和宣言。

   平和宣言

平均年齢75歳を超えた被爆者の脳裏に、63年前がそのまま蘇る8月6日が巡って来ました。
「水を下さい」
「助けて下さい」
「お母ちゃん」
――被爆者が永遠に忘れることのできない地獄に消えた声、顔、姿を私たちも胸に刻み、
「こんな思いを他の誰にもさせない」ための決意を新たにする日です。

しかし、被爆者の心身を今なお苛む原爆の影響は永年にわたり過少評価され、未だに被害の全貌は解明されていません。
中でも、心の傷は深刻です。
こうした現状を踏まえ、広島市では2か年掛けて、原爆体験の精神的影響などについて、科学的な調査を行います。

そして、この調査は、悲劇と苦悩の中から生れた
「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」という真理の重みを私たちに教えてくれるはずです。

昨年11月、科学者や核問題の専門家などの議論を経て広島市がまとめた核攻撃被害想定もこの真理に裏付けています。
核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。
だからこそ、核不拡散条約や国際司法裁判所の勧告的意見は、核軍縮に向けて誠実に交渉する義務を全ての国家が負うことを明言しているのです。
さらに、米国の核政策の中枢を担ってきた指導者たちさえ、核兵器のない世界の実現を繰り返し求めるまでになったのです。

核兵器の廃絶を求める私たちが多数派であることは、様々な事実が示しています。
地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が平和市長会議の活動を支持しているだけでなく、核不拡散条約は190か国が批准、非核兵器地帯条約は113か国・地域が署名、昨年我が国が国連に提出した核廃絶決議は170か国が支持し、反対は米国を含む3か国だけです。
今年11月には、人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。

多数派の意見である核兵器の廃絶を2020年までに実現するため、世界の2368都市が加盟する平和市長会議では、本年4月、核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を発表しました。
核保有国による核兵器取得・配備の即時停止、核兵器の取得・使用につながる行為を禁止する条約の2015年までの締結など、議定書は核兵器廃絶に至る道筋を具体的に提示しています。
目指すべき方向と道筋が明らかになった今、必要なのは子どもたちの未来を守るという強い意志と行動力です。

対人地雷やクラスター弾の禁止条約は、世界の市民並びに志を同じくする国々の力で実現しました。
また、地球温暖化への最も有効な対応が都市の中心に生れています。
市民が都市単位で協力し人類的な課題を解決できるのは、都市が世界人口の過半数を占めており、軍隊を持たず、世界中の都市同士が相互理解と信頼に基づく「パートナー」の関係を築いて来たからです。

日本国憲法は、こうした都市間関係をモデルとして世界を考える「パラダイム転換」の出発点とも言えます。
我が国政府には、その憲法を遵守し、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府へ働き掛けるなど核兵器廃絶に向けて主導的な役割を果すことを求めます。
さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、また原爆症の認定に当たっても、高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を要請します。

また来月、我が国で初めて、G8下院議長会議が開かれます。
開催地広島から、「被爆者の哲学」が世界に広まることを期待しています。

被爆63周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げ、長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽し行動することをここに誓います。
     2008年(平成20年)8月6日 広島市長 秋葉 忠利



平和宣言の括りと同時に、放鳩――沢山の白鳩が、一斉に青空へ飛び立ち、平和公園上空を旋回します。

080806ヒロシマ

こども代表による、平和への誓い。
私は広島以外でも大戦死没者の慰霊式典に度々参列させていただいておりますが、これ程 力強く“未来への希望”を感じさせられる場所は無いと思います。
式典は、原爆関係者が ただ あの日を偲ぶ為に行われているものでは御座いません。
事務的に、行政や各団体が動いている訳でも御座いません。
広島で平和を想うのに、原爆に遭ったか、遭わないか、関係者であるか等という事は、一切必要が無いのです。
自分には関係無いから
広島って、行った事も無いし
だって、今は平和だから
……そんな御意見を御持ちの方にこそ、是非とも直接に御聞かせしたいと思う…こども代表の誓いの言葉は、本当に素直な言葉…だからこそ、老若男女、国内外の人種問わず、伝わるので御座います。

   平和への誓い

 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
 突然のするどい閃光と爆風で、数え切れない多くの尊い命が失われました。
 あの日、建物疎開や工場で働くために出かけていった子どもたちは、63年たった今も帰りません。
「いってきます。」と出かけ、
「ただいま。」と帰ってくる。
原爆は、こんな当たり前の毎日を一瞬で奪いました。

 原爆は、やっと生き残った人たちも苦しめます。
 放射線の影響で突然病に倒れる人。
 あの日のことを「思い出したくない」と心を閉ざす人。
 大切な家族や友人を亡くし、
「わしは、生きとってもええんじゃろうか?」
と苦しむ人。

 でも、生き抜いてくれた人たちがいてくれたからこそ、私たちまで命が続いています。
平和な街を築き上げてくれたからこそ、私たちの命があるのです。
 今、私たちは、生き抜いてくれた人たちに「ありがとう」と心の底から言いたいです。
 忘れてはならない原爆の記憶や、核兵器に対する怒りは、年々人々の心から薄れていると思います。
しかし、人の命を奪う戦争や暴力は、遠い過去のことではありません。
 この瞬間にも、領土の取り合い、宗教の違いなどによる争いによって、小さい子どもや大人、私たちと年齢の変わらない子どもたちの命が奪われています。

 失われた命の重さを思う時、何も知らなくて平和は語れません。
 事実を知る人がいなくなれば、また同じ過ちがくり返され、戦争で傷つき、命を失った人たちの願いは、かき消されてしまいます。
だから、私たちは、大きくなった時、平和な世界にできるように、ヒロシマで起きた事実に学び、知り、考え、そして、そのことをたくさんの人に伝えていくことから始めます。

 また、私たちは、世界の人々に、平和記念式典が行われ、深い祈りの中に有る広島に来てほしいと思っています。
ヒロシマのこと、戦争のことを知り、平和の大切さを肌で感じてほしいのです。
そして今こそ、平和を願う子どもたちの声に耳をかたむけてほしいのです。

 みなさん、見ていて下さい。
 私たちは、原爆や戦争の事実に学びます。
 私たちは、次の世代の人たちに、ヒロシマの心を伝えます。
 そして、世界の人々に、平和のメッセージを伝えることを誓います。
   平成20年(2008年)8月6日
     こども代表 広島市立幟町小学校6年  今井 穂花
           広島市立吉島東小学校6年 本堂 荘太



式典後の平和公園を歩いていると、
平和への誓い、凄く良かったね
うん、凄い分かりやすくて、誰にでも理解出来るし…今日、来て良かった
と会話されている方々と擦れ違いました。
少し、泣きそうになりました。

080806ヒロシマ

続いて、内閣総理大臣挨拶。

 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。

 63年前、幾万の尊い命と共に焦土と化した広島は、今や我が国有数の大都市に発展するとともに、国際的にも平和都市として名誉ある地位を占めています。
私は、これもひとえに市民の皆様方が、廃墟の中から立ち上がり、街を復興するにとどまらず、被爆地として、平和の尊さを世界中に訴える努力を続けてこられた賜と考えます。

   国としても、唯一の被爆国として、広島、長崎の悲劇を二度と繰り返してはならないと堅く決意し、戦後一貫して国際平和の途を歩んでまいりました。

 広島は平和の象徴(シンボル)です。
昨年から日本とアジアの青年たちが「広島平和構築人材育成センター」に集い、平和の大切さを実感しながら国際平和協力活動について学ぶ研修を始めています。

 平和で安定した国際社会は、我が国の安全と繁栄にとってもかけがえのない財産であり、これを守り育てるためにも、我が国は「平和協力国家」として、国際社会において責任ある役割を果たしていかなくてはなりません。
先の北海道洞爺湖サミットのG8首脳宣言では、初めて、現在進行中の核兵器削減を歓迎し、すべての核兵器国に透明な形での核兵器削減を求めました。

 そして、本日、ここ広島の地で、改めて我が国が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます。

 また、被爆により苦しんでおられる方々には、保健、医療並びに福祉にわたる総合的な援護策を実施してまいります。
本年3月には、原爆症認定の新たな方針を策定し、できる限り多くの方を認定するよう努めています。
さらに、6月には、在外被爆者の方々の被爆者健康手帳の取得を容易にするための改正被爆者援護法が成立しました。今後とも、苦しんでおられる方を一人でも多く援護できるよう取り組んでまいります。

 結びに当たりまして、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸、そして広島市の一層の発展を心より祈念申し上げ、私のあいさつといたします。

       平成20年8月6日 内閣総理大臣 福田 康夫



広島県知事挨拶と続き、国際連合事務総長によるメッセージが代読されております。

   広島平和記念式典に寄せる潘基文国連事務総長メッセージ
     2008年8月6日、広島
    セルジオ・ドアルテ国連軍縮担当上級代表が代読

 広島平和記念式典には、毎年恒例の儀式をはるかに越える意味があります。
それは広島市民の皆様と全世界の人々が、核戦争の最初の犠牲者を追悼し、核兵器のない世界を実現するためには何が必要かを深く考える機会なのです。
悲しみや苦悩の中から、私たちがともに、新しい平和と安全の時代に向かって歩を進めていけるという新しい希望が生まれるかもしれません。
このような希望を抱ける根拠は多くあります。

 核軍縮を進める必要性に対する世界の認識は、何年かぶりに高まっています。
これを支持する声は、全世界のさまざまな人々から幅広く寄せられています。
教育者や宗教指導者、新旧の政府高官、非政府組織(NGO)、ジャーナリスト、市長、議員その他の数限りない人々が、単に軍縮を言葉で主張するだけでなく、この目標達成に向けて積極的に取り組んでいます。

 私は毎年、この式典への子どもたちの参加を大いに歓迎しています。
子どもたちはやがて、過去の記憶を胸に刻みつつ、核兵器のない世界を目指して集団的な取り組みを続ける責任を担うからです。

 私は広島、長崎両市長の指導力にも謝意を表したいと思います。
「平和市長会議」を通じた両市長の取り組みは、全世界で認識され、また尊敬されています。
国連人口基金は最近、都市人口が史上初めて、世界の多数派を占めるようになったことを発表しました。
よって、核兵器が二度と使われないようにすることは、全世界の市長にとっても当然の利益となるはずです。
そして、この目標を達成する最も確かな方法が、核兵器の廃絶であるという理解も広がっています。

 この厳粛な場で、私は老いも若きも、広島の全市民の方々に、最も深い敬意を表したいと思います。
私は皆様とともに、過去を記憶に留めながら、核兵器のない平和で安全な世界を実現するため、皆様をはじめ、あらゆる人々と手を携えていく決意を確認いたします。



そして、ひろしま平和の歌を参列者全員が合唱し、閉式。

080806ヒロシマ

私にとって、8月6日は祈りの日であると同時に、決意の日でも御座います。
毎年毎年、繰り返して来た祈りと決意…でも、それは決して恒例のもの等では無く…いつだって、私の中では違う意義を持つもので御座いました。

今年は、より市民側の証言のみに触れる結果になりました。

見つからない家族を探し回る悲しみ、家族の死に直面した悲しみ。
地獄絵図のような惨状に心がつぶされてしまいそうでした。


63年前、何故このような被害を受けねばならなかったのでしょうか?
普通に生活をしていただけの人ばかりなのに。
争いは何故、負の向きに拡大するのでしょうか?

答えはいろいろあるはずです。
あえて1つの答えを出したいわけじゃありません。

私自身明確な答えがまとまらないまま、毎年同じ事を考えます。

     (心友の日記 2008年08月06日『原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』による)


↑これは、私の心友(※親友以上) ちこちゃんが8月6日に記したweb日記より引用させて貰ったもので御座います。
地元の心友達は、私が毎年この日には確実に この場所へ戻って来る事が判っているので、時間を合わせて会いに来てくれたり、式典や慰霊碑巡りに同行してくれたり致します。
大人になるにつれ、足が遠のいてしまいがちな状況にもなってしまう事もあるようで御座いますが、それでも皆 広島っ子で御座いますから…直接足を運ぶ事が出来ずとも、その日を思い祈る事の出来る根を、その心に しっかりと生やしているので御座います。

去年も今年も来年も、迎える8月6日が同じであるという事は絶対に有り得ません。
過去を知り、未来を描く、その為に“今”の私がなすべきと考える事。

ちこちゃん、私も確かな答えが出た試しなんて、1度も無いよ。
自分の出す様々な答えと、社会の状況、身辺の人達の意見…悶々と、交差する様々な想いの中で、自分に出来る事を少しでも実行していけたらいいなって…今は、そう思ってるよ。

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