
やうやう事静まりゆくに、長雨のころになりて、京のことも思しやらるるに、恋しき人多く、女君の思したりしさま、春宮の御事、若君の何心もなく紛れたまひしなどをはじめ、ここかしこ思ひやりきこえたまふ。
京へ人出だし立てたまふ。
二条院へたてまつりたまふと、入道の宮のとは、書きもやりたまはず、昏されたまへり。
宮には、
松島の 海人の苫屋も いかならむ
須磨の浦人 しほたるるころ
「いつとはべらぬなかにも、来し方行く先かきくらし、“汀まさりて”なむ」
松島といえば、源氏物語!!…とは普通思いませんよね(苦笑)
我ながら、なんて強引な記事を書こうとしているのか;と思いつつも、昨年末は頭の中が源氏物語源氏物語しておりましたので、松島を訪れた時も敢えて ここで源氏物語!?という事を考えたりしておりまして。。
余りおかしな妄想は避けて、とりあえず源氏物語に伺える松島の事を ちょろっと書いておこうかなと思います。
えっと……源氏物語の中に松島は、歌枕として登場しております。
……………そ、それだけ、で御座います;すみません。
第12帖“須磨”で、須磨へと移られた源氏の君は、少し経って身辺が落ち着いた頃に京の人々へと御手紙を出されておられます。
そこで源氏の君から藤壷様へ送られた御歌に“松島”という歌枕が使われているので御座いますねー;
松島の 海人の苫屋も いかならむ
須磨の浦人 しほたるるころ
“須磨の浦で涙に暮れております頃、尼様はどのように過ごして御座いましょうか。
松島の漁師の苫屋はどんな御様子なのでしょう”
“松島”は“待つ”に掛かり、“海人”を“尼”に掛けておられます。
尼とは、出家された藤壷様を指しているので御座いますね。
あくまでも歌枕として御歌の表現に使われておりますので、別に直接 松島と関係がある訳では御座いません。
関係無いのに一体何を思う事があるのかという感じで御座いますがー……あははは…。
つ、ついでなので、この時に源氏の君が中納言の君に私信を送るフリをして朧月夜様に宛てた御歌にも触れておきましょう(誤摩化…)
尚侍の御もとに、例の、中納言の君の私事のやうにて、中なるに、
「つれづれと過ぎにし方の思うたまへ出でらるるにつけても」
こりずまの 浦のみるめの ゆかしきを
塩焼く海人や いかが思はむ
さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし。
大殿にも、宰相の乳母にも、仕うまつるべきことなど書きつかはす。
(源氏物語 第12帖“須磨”による)
悲しいのはいつもの事ですが、過去だけで無く御先も真っ暗です…といった感じで、ひと際 悲観的になった自分を告白されて、御歌を詠んでおられます。
こりずまの 浦のみるめの ゆかしきを
塩焼くあまや いかが思はむ
“懲りる事無く貴女に御逢いしたいと思っております。
塩を焼く海人等は、如何でございますか”
冗談めいた御歌で気を引かれようとなさっている感じが何ともいえませんねー(笑)
また、源氏の君は 紫の君や葵様、夕霧様の乳母にも、御手紙を出されているようで御座います。




今月初め頃の心友達との京都旅行で上賀茂神社の後に訪れたのが、下鴨神社で御座いました〜!
こちらへは閉門時間ギリギリに訪れてしまった為、何とか御本殿への参拝は済ませる事が出来ましたが、門内で撮影した写真はカメラの設定ミスで、面白い程 手ブレしまくっておりました…あ、慌て過ぎ 私!(苦笑)

さて。
賀茂の下社も、源氏物語に縁ある神社で御座いますね。
賀茂の下の御社を、かれと見渡すほど、ふと思ひ出でられて、下りて、御馬の口を取る。
ひき連れて 葵かざしし そのかみを
思へばつらし 賀茂の瑞垣
と言ふを、
「げに、いかに思ふらむ。人よりけにはなやかなりしものを」
と思すも、心苦し。
君も、御馬より下りたまひて、御社のかた拝みたまふ。
神にまかり申したまふ。
憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ
名をば糺の 神にまかせて
とのたまふさま、ものめでする若き人にて、身にしみてあはれにめでたしと見たてまつる。 (源氏物語による)
第12帖“須磨”の中で、都落ちを決意された源氏の君は、亡き御父様の御陵へ御挨拶に詣でる際、賀茂の下社を通り掛かって御歌を詠まれておられます。
ひき連れて 葵かざしし そのかみを
思へばつらし 賀茂の瑞垣
これは、源氏の君が御供に連れていた右近衛将曹様が、下社が見えた瞬間に、ふと かつて斎院の御禊の日に大将の仮の随身を務められた事を思い出されて御馬から飛び降り、源氏の君が乗る御馬の口を取って詠まれたもの。
“葵を頭に挿して従いました御禊の日の事を思うと、御護りいただけなかったのかと辛くなります、賀茂の神様”
それを聞いた源氏の君は、誰よりも優れて華やかであった この青年はの悲しみを思うと、心が苦しくなるので御座いました。
御自身も御馬から降りられると、そこから賀茂社を遥拝し、
憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ
名をば糺の 神にまかせて
と詠んで、神様に御暇乞を申し上げられました。
“辛い世の中に今、決別を致します。
後に残った噂の是非は、物事を正して下さる 糺の神様に委ねましょう”
源氏の君の優美さと御心を感じ取られた右近衛将曹様は、その御立派な御姿に感激されるので御座いました。

上賀茂神社の焼き餅に引き続き、下鴨神社では御手洗団子を食しました〜

実は、本場 下鴨の御手洗団子には前々から秘かに憧れておりまして…!
ようやっと、念願叶っての御手洗デビュ〜で御座いました(笑)

おぉ…下鴨付近の御手洗団子は、1串に5個の御団子が刺さっているので御座いますね!!
4個と1個の間に少し隙間があるのは、何か意味があるので御座いましょうか…と疑問に思い、少し調べてみましたところ、何と纏まった4個の方は四肢を、上の1個は頭を表して人間の体を模しているという事で。
成程、“御手洗”とは下鴨神社の御手洗川の“御手洗”…御手洗川は禊の川、毎年 夏の土用の丑の日には無病息災を祈る夏越しの例祭 御手洗祭が行われております。
葵祭に際しては、斎王代が御禊の儀で御手洗川で御手を清め、穢れを移した形代を流して心身を清められますね。
御手洗団子が人形を模しているのは、形代に準えられて作られたからなのでは無いでしょうか。
御団子の数が“5”個=人の体というのは、五輪塔にも通じるものが御座いますね。
墓石や供養塔として用いられている五輪塔で御座いますが、5つの部品それぞれには宇宙を表す空、風、火、水、地が当て嵌められており、同時に人体の頭、顔、胸、腹、足を表しているともいわれます。
スーパーやコンビニで売っている御手洗団子は3個や4個のものも多く御座いますが、発祥の地では今でも1串5個の伝統を守られているようで…。
御手洗川に流す形代に肖る事で、厄除団子の意味合いを持たせてあるのかもしれませんね。
御団子に浮かれ過ぎて、ついつい『だんご三兄弟』を口ずさみ始める私…。
「♪みっつ並んで団子、団子…む!みっつじゃなかったぜ!!」
……わぁ、テンションの高い事(笑)
心友達と一緒に居ると、それだけで無意味に何でも楽しいのです……愛で御座いますね、愛


「大き過ぎず、甘過ぎず、美味クラ〜
」クラさんも、御手洗団子は大変御気に召された御様子で…(笑)
また、皆で来られたら良いなぁと思います。



心友達との京都旅行で上賀茂神社を訪れた際、立砂前の朱鳥居傍に源氏物語千年紀イベントの水彩画展の案内を発見致しました。
源氏物語 水彩画展“女君と花々”と題された藤田まゆみさんの個展で、12月12〜14日の3日間限定で開催されておりましたので、タイミングが良かったね!と浮かれ足で庁ノ舎を目指しました〜。

明神川を渡る際、橋の手前にも手作りの道標が置いてありました。
何と無く、アットホームな感じが良いなぁと思いながらも、わくわくしながら進んで行きます。
重要文化財である庁ノ舎は、普段は一般公開をされておりません。
時折、楽や舞 等の催物に際して使用されている事は存じておりましたが、私は今まで入った事が御座いませんでしたので、この内部に入れる事も楽しみで御座いました。

「女君と花々」は、源氏物語千年紀委員会さん後援の絵画展。
後日、公式サイトを拝見しましたら、情報が掲載されておりました。
庁ノ舎は元々 展示施設で無い会場で御座いますが、趣のある古い建物の色合いの中、展示物の傍らでは綺麗な着物帯等が飾られていたりして、工夫や演出が施されていたのが良いなと思いました。
水彩画で描かれた、源氏物語の女君と縁の花々達。
源氏物語に詳しく無い方でも親しめるようにと、物語を短く纏めた案内等も御用意されていらっしゃり、作品の前にも紹介パネルが置かれてあって、解りやすく じっくりと拝見させていただく事が出来ました。
藤田さんの絵画は とても優しいタッチで、見る人を癒す力が溢れているのを感じました。
資料等で見る源氏絵とは また違い、日本画というよりは少女漫画のような…と感じるのは、背景にパースが きちんと取られてあって画面の中に遠近感を感じられるからなのかもしれません。
遠近感があると、パースのおかしい日本画と違って現実味が増しますので、そこに藤田さん独特の綺麗な色彩や線の細さが加わって、浪漫ちっくさが出ているので御座いましょう。
そんな淡く繊細な中にも、それぞれの女君の個性が すっと溶け込んでいるように描かれていて、素敵だなと思います。
例えるならば、そう…上賀茂神社の境内を流れる あの御物忌川の清水のようで。
さらさらと、静かに心の中に浸透する、透明感のある作品を楽しませていただきました。

上賀茂神社参拝後は、駐車場近くの焼き餅屋さんで、名物の焼き餅をいただきました。
こういう事は、ひとり旅では絶対に出来ない事で御座いますので(※私の場合)、とても嬉しかったですね〜。
出来たてだった為か、想像していたよりも ずっと柔らかい食感で大変美味しかったです。
以下、何だかローカルな話題で御座います…。
どうゝね「焼き餅といえば、“咲ちゃん”じゃねぇ〜」
と言うと、
海藻さん「はぁ?誰それ」
と冷たい反応……。
どうゝね「えぇーッ!?何でぇや、広島人なら“咲ちゃん”判るじゃろぅ!??」
海藻さん「……何の事ね?」
どうゝね「ひーどーいー…そりゃ、もみじ饅頭よりはメジャーじゃ無いかもしれんけどさぁ、“やき餅 咲ちゃん”も にしき堂さんの銘菓じゃんよ〜…」
咲ちゃんは、平成8年に開催された ひろしま国体の大会マスコットだった 紅葉な可愛こちゃんで御座います。
国体が終わった今も、銀行のキャラクターとか御菓子のパッケージで活躍されておられるというのに、唯一この3人の中で広島在住の海藻に惚けられるとは予想外で御座いました…(笑)



上賀茂神社こと賀茂別雷神社について記した記事で、“摂社 片山御子神社、御末社 橋本社については、それぞれ思い入れが御座いますので、機会を改めまして記させていただこうと思っております”と書いておりました。
橋本社の事は藤原実方様 実方様関連記事として記しましたが、書こう書こうと思いつつ片山社の記事は長い事放置しており…それを思い出したのは、今月初旬の心友2人との京都旅行で上賀茂神社に立ち寄った時の事で御座いました///
千年紀になってからは1度も訪れていなかった賀茂の上社なので御座いますが、久々に来てみると さり気無く片山社への道標が設置されていたり、説明書きが少し詳しくなっていたり…と、藤式部(紫式部)様に縁の神社としてのアピールが行われているなぁと感じました。

□ 片山御子神社(かたやまみこじんじゃ) □ ※賀茂別雷神社 第一摂社
所在地:京都府京都市北区上賀茂本山(※賀茂別雷神社 境内)
御創祀:不詳
御祭神:玉依比売命
通 称:片山社、片岡社
片山御子神社は、上賀茂神社御本殿手前の楼門から御物忌川を挟んだ向かい側、片岡山西麓に南南西に向って鎭座される古社。
確かな御創祀年代は判っておりませんが、延喜式に“片山御子神社 大、月次 相嘗 新嘗”と記載されており、御創建当初より賀茂別雷神社の第一摂社として、絶えず祭祀が行われ続けている事が伝えられております。
御祭神は、本宮の御祭神 賀茂別雷大神の母神様である玉依比売命。
御社名の“御子”とは、“巫女”の意…賀茂社を奉祀する賀茂県主族の祭祀権を握る最高位の女性を指しており、賀茂別雷大神の御傍に仕えられた巫女神様であるといわれております。
御本殿、拝殿は、共に国の重要文化財に指定されております。
縁結びの神社として、有名で御座いますね。
賀茂別雷神社 第一摂社
片山御子神社
祭神 玉依比売命 一柱一座
延喜式内の古社である。
『延喜式』には、「片山御子神社 大、月次、相嘗、新嘗」と載せている。
賀茂縣主族の祭祀の權を握って居られた最高の女性、本宮御祭神別雷神を感得せられた神で、常に別雷神の御傍に侍ってお仕え申し上げておられたのである。
よって現在にあっても本宮恒例の祭祀には、先づ当神社に祭を行う例となっている。
それは只今より御奉仕申し上げる本宮のお祭は、御祭神の御名によって、お仕え申し上げる由を、予め奏上せんとする意味から行うのである。
古来第一摂社と崇められている。
事情かくの如くであるので、皇室の御崇敬も厚く、本宮へ行幸、御幸等の場合は当社へも奉弊あらせられることが屡々あった。
天正十九年六月十一日正一位を奉られている。
古く当社の後ろに「よるへの水」を湛えた□が三個あったが、天正年中汚穢の禍を懽れて地下に埋没したという。

古くから恋愛成就、子授けの神様として知られていた片岡社には、藤式部様も屡々参詣に来られていたといわれます。
新古今和歌集 巻第三“夏歌”には、藤式部様が片岡の森を詠まれた御歌が収録されておりますね。
当時の この辺りは、もっと木々に囲まれた森であったのかもしれません。
拝殿前には15個あるという小鈴が参拝毎にシャン、シャン、と神聖な音を奏で、奉納されている沢山の可愛らしいハート形の絵馬には式部様の御歌と御姿が描かれておりました。
紫式部と片岡社
賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほとゝぎす鳴かなんと申しけるあけぼの、片岡の梢おかしく見え侍ければ
ほととぎす 声まつほどは 片岡の
もりのしづくに 立ちやぬれまし
(『新古今和歌集』巻第三 夏歌)
【解釈】ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待ちわびる間は、この片岡の社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう。
(ホトトギスと共に片岡の社もまた素晴らしいという意味)
片岡社(縁結びの神様)
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の第一摂社・片山御子神社の別称で、賀茂別雷神の母神・玉依比売命を祀っております。
当時より恋愛成就の神様・子授けの神様として有名で、紫式部も度々参拝され、このように祈願しておりました。
―・―・―・―・―・―・―・―
紫式部作の『源氏物語』は世界最古の長編小説で、『紫式部日記』の寛弘五年(一〇〇八)十一月一日の条に、既に宮中で読まれていた記述があります。
来る平成二十年が一千年の大きな節目の機会と捉えて「源氏物語千年記」とし、日本が世界に誇る価値と魅力を有する『源氏物語』や日本の文化の素晴らしさを再確認する契機となりそうです。
片岡社のある上賀茂神社は、源氏物語の作品中にも登場する場所で御座いますね。
源氏の君の正妻である葵様と六条御息所の車争いが行われたのは賀茂の斎院御禊の日の事で御座いましたし、紫の君も御阿礼詣をしようと見物に出られております。

↑天正19(1591)年の宣旨のコピーも掲示されておりました。
安土桃山時代の文書には“片岡社”と表記されているので御座いますね。

片岡社の傍を流れる御物忌川の清水は、とても綺麗で御座います。
薄く静かな流れから、さらさらという音が聞こえてくるみたいだね〜と3人で少しの間見詰めておりました。
* * * * * * * *

心友達と訪れた この日は、休日で更に大安だったという事も御座いまして、境内では短い時間の中でも数組の新郎新婦さんを見る事が出来ました。
幸せそうに手を繋いで歩く、和装のカップル…素敵で御座いますね♪



京都市上京区には、小野篁様縁の御寺 引接寺さんが御座います。
引接寺さんという名称よりも、“千本ゑんま堂”としての通称の方が有名で御座いますね。
御本堂の手前左側の2階部分には、わわ!閻魔様…っ!!!
こちらへは何度か御参りに来させていただいておりますが、私が最初に訪れたのは真夜中の事で御座いましたので、ふと何と無く見上げた先にライトアップされた巨大な閻魔様の御姿を確認した時には度肝を抜かれたように驚いてしまいました;
……驚いた理由は、実は他にも御座いましたが(苦笑)

この辺りは、平安時代の葬送地――“蓮台野”と呼ばれていたところで御座います。
清水寺の事を記した際、東山の鳥辺野については触れておりますが…蓮台野と鳥辺野、そして小倉山麓の化野は、京都の三大葬送地であった場所として知られております。
今では すっかり京都のメジャー観光地と化してしまった清水寺付近では余り当時の面影等は感じられないかもしれませんが、化野 念仏寺さんまで行くと、その意味も御理解いただけるのでは無いかな…と思います。
蓮台野は現在、普通に京都の町中という感じになっておりますが……それでも、所々に あぁと思わされる瞬間は御座いますね。
今でも、この周辺からは沢山の石仏群が出土しているのだそうで御座います。
そんな蓮台野の入口に位置しているのが、この 千本ゑんま堂。
“千本”という地名は、ゑんま堂から蓮台野へ遺骸を葬った際に建てられた石仏や卒塔婆の数が数え切れない程であった事に起源しているといわれております。

□ 引接寺(いんじょうじ) □
所在地:京都府京都市上京区千本通蘆山寺上ル閻魔前町
御創建:寛仁元(1017)年
御開基:小野篁
御開山:定覚上人
山 号:光明山
宗 派:高野山真言宗
御本尊:閻魔法王
正式称:光明山歓喜院引接寺
通 称:千本ゑんま堂
ゑんま堂は、小野篁様の御開基と伝わる御寺さん。
昼は宮中に出仕され、夜は地獄の冥官として閻魔之廰に仕えられたという篁様は、現世と冥府を行き来する人並み外れた存在として伝えられております。
昼夜通して御忙しかった篁様は、一体いつ眠られておられたのかしら…と、つい要らぬ心配をしてしまう私で御座いますが、そんな夢のない事は突っ込んではいけないのかもしれませんね…(苦笑)
現世浄化の為、閻魔法王様より精霊迎えの法を授かられた篁様は、その根本道場として朱雀大路北側に閻魔法王様の御姿を刻んで祠を建立されたといわれ、これがゑんま堂の御開基であるといいます。
その後、寛仁元(1017)年に定覚上人が、諸人化導引接仏道の道場として寺院を開山され、光明山歓喜院引接寺と名付けられました。
引接寺の“引接”は“引導”と同義なのだそうで御座います。
応仁の乱では京中が戦禍によって火の海と化してしまいますが、その際に こちらも かなりの被害を受けてしまわれたようで御本尊も焼失されております。
現在の御本尊の御像は、長享2(1488)年に定勢様が元の御尊像を再現して刻まれたもの。
脇侍には、罪状の読上げと判決記録の役割を担う書記官 司命像と司録像が配されております。
昭和49年には不審火で御本堂と狂言堂が焼失してしまっておりますが、一般の寄進によって修復され、狂言堂も再建されております。
千本ゑんま堂 引接寺
光明山歓喜院引接寺と号する寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。
開基は小野篁卿(八〇二〜八五三)で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之廰に仕えたと伝えられ、朱雀大路頭に閻魔法王を安置したことに始まる。
その後、寛仁元年(一〇一七)、叡山恵心僧都の法弟、定覚上人が「諸人化導引接佛道」の意を以って当地に「光明山歓喜院引接寺」を開山した。
現存の閻魔法王は、長享二年(一四八八)に造立されたもので、高さ二、四メートルある。
篁卿は『お精霊迎え』の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、この地を現世浄化の根本道場とした。
以降、宗旨・宗派を問わない民間信仰が続いている。
五月に行われる千本ゑんま堂大念佛狂言は、京都三大念佛狂言のうち唯一の有言劇で、京都市無形民俗文化財に指定されている。
名桜「普賢象桜」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。
往時、この地に桜が千本あったことと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。
また圓阿上人が至徳三年(一三八六)に建立した紫式部供養塔は、貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されている。

↑御本堂のショーケースの中には、坂ノ上家の雅な御子様 おじゃる丸様の御姿が…!(笑)
『おじゃる丸』といえば、おじゃるは“平安朝”では無く、“ヘイアンチョウ”の、それも妖精界の御出身なので御座いますね〜。
おじゃる丸は いつも楽しく見ておりますが(それは、もう…NHK教育番組マニア的な勢いで見ております;)、おじゃるは なんちゃって平安時代の御子様なだけに、歴史好きな観点から見てしまうと、実に突っ込みどころが満載で面白いです。
放映開始直後は、牛車がオープンカーというだけで大笑いをしておりました…すみません///
御子様と言いながらも、直衣のような(でも違うような)装束を身に着け、烏帽子を被っている おじゃる丸様で御座いますが、これで本当に平安時代に生きていたら 結構な異端児扱いを受けてしまっている事と思われます…烏帽子は そんな気軽に取りまくってはいけませぬっ(苦笑)

京都では毎年、旧盆である8月7日〜15日に、ゑんま様のお許しを得た御先祖様の精霊が各家庭に帰って来られる為に御精霊迎えが行われ、16日には御精霊送りの儀が行われます。
御精霊迎えは、御先祖様の御名を記していただいた卒塔婆を持って御本堂へ御参りし、御本堂の奥にある地蔵供養池に浮かべて流し迎え鐘をつく事で、その音に乗って御精霊様が やって来られるという事で、御家に帰って御仏壇の扉を開いて御迎えするのだそうで御座います。
そして御盆の終わりには、水塔婆を流して御精霊様を御送りする鐘をつく御精霊送りが行われるようで御座います。
地蔵供養池に立ち並ぶ沢山の御地蔵様。
以前聞いた、御地蔵様は地獄へまでも赴いて救いの御手を差し伸べて下さるという御話を思い出し、私も静かに祈らせていただきました。

こちらは境内に御座います、紫式部様供養石塔と伝えられる石塔。
至徳3(1388)年の建立で、高さは6メートル、幅奥行は185センチで花崗岩製、重要文化財に指定されております。
何でも、円阿様が藤式部様があの世で不遇な御姿をされているのを見、それを成仏させる為に思い立たれたという事で御座いますが……没後の式部様に、一体何が…。
昨日、藤式部(紫式部)様と篁様には共通の場所が数カ所…と書きましたが、こちらも その1カ所で御座いますね。
藤式部様と この地の直接的な関係は特に言い伝えられて無いようで御座いますし、篁様と藤式部様とでは生きた年代も違いますので特に関わりがあったという訳でも無いようで御座いますし、供養塔が建立されたのは平安期よりも随分後の事で御座いますので、篁様との事は、ぐ…偶然…?い、いいえ、もしかすると、それこそが必然の理の内で繋がっている事なのかもしれなかったり…!??(笑)
[紫式部供養石塔]
一重目は、円形の基礎石の表面に十四体の地蔵小像をきざみ、その上の軸部に、薬師如来(東面)、弥勒菩薩(南面)、定印阿弥陀如来(西面)、釈迦如来(北面)の四佛座像をあらわし、像の横に、至徳三年(一三八八)八月二十二日に、僧 円阿の勧進によって建立された旨の銘がある。
二重目は、四隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部を置いている。
その上には、九個の笠石を置いて、十重の塔としている。
これは二重の宝塔と十三重塔の残欠の二つを組み合わせた珍しい偶数の塔で、古来より、紫式部の供養塔と伝えられている。

この画像は、今月の13日に心友2人と訪れた時のものなので御座いますが…なんと、この日は、源氏物語千年紀の記念事業として企画された藤式部様像の御入山と、供養塔修理安全の御法要が営まれる記念すべき日で御座いまして!
特に狙って参詣した訳でも御座いませんでしたので(私は、この前日にも御参りに来させていただいておりますが、掲示されていた御法要の案内に全く気付いておりませんでした…;)、これも何かの御縁なのかもしれないね、と3人で秘かに盛り上がりました。

京都市指定文化財の梵鐘は、南北朝時代の御作。
高さ148センチで口径は82センチの鋳銅製で御座います。
これが、8月の御精霊行事の際に“迎え鐘”“送り鐘”としてつかれる鐘なので御座いますね。
大晦日には、こちらで除夜の鐘をつこうと長蛇の列が出来るのだそうで御座います。
梵鐘上の天上には、ぎっしりと梵字が書き詰められておりました。
心友は、こんなに沢山の梵字を見たのは初めてだったようで大層驚いておりました。
鐘楼手前には、可愛らしい童観音様がいらっしゃいました。
こちらは平成17年の春に建立されたばかりの御像で、“わらべちゃん”と呼び親しまれているそうで御座います。
子供達の守護仏様として、信仰されているようで御座います。

ゑんま堂では、至る所に顔はめパネルを発見する事が出来ます。
御本堂前には出家した尼様のパネルが御座いますが…これは、どなたをイメージして置かれたものなのかな〜と考えた時、ふと藤式部様の事が頭に浮かんだり致しました。
式部様出家の有無については、諸説あって確かな事は伝わっておりません。
ただ、仮に出家されていなかったとしても、後に供養塔が建てられた御寺さんで御座いますので、式部様の成仏を祈って出家された御姿を思い描かれたものなのかもしれませんよね。
私も、世が世ならば既に出家した身の上かもしれません。
気分だけでも…と思い、元気良く顔を入れさせていただきました(笑)
御殿様と太郎冠者は、ゑんま堂狂言の登場人物のようで御座います。
ゑんま堂狂言は京都三大念佛狂言にも数えられる狂言で、京都市の無形民族文化財。
殆どの演目に台詞がある、珍しい狂言なのだそうで御座います。
御殿様=平維茂様のようで御座いますが…おっと、維茂様は桓武平氏の御方では御座いませぬか〜!
今昔物語集によれば、平貞盛様の養子であるという事で御座いますが、実の御父様がどなたであられたかは尊卑分脈等と一致しておらず、はっきりとした御出自は分かっておりません。




