日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

御諏訪様の通り路。
諏訪湖01

長野県岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町を取り囲む大きな湖、諏訪湖
以前、竹生島詣の際にも琵琶湖に同様の印象を抱いていたのですけれど、瀬戸内育ちの私にとって、海でも川でも無い湖は正直、良く分からない不思議な存在で御座います;
海でも無いのに波の立ち、水平線まで見渡せる湖とは、一体何ぞや……と、今でも大きな疑問を抱いております(苦笑)

諏訪湖の間近まで訪れてみて…正直、残念に思いました。。
水際には沢山の魚の死体が上がっており、ゴミが溜まって水がよどみ…遠目には、あんなに奇麗に見えていたのに…と、何だか悲しくなってしまいました。
元々は、とても澄んで上質な御水であったという諏訪湖で御座いますが、高度経済成長期頃より生活排水等の影響で汚染が進み、現在のような状況になってしまったという事で御座います。
現在は行政や市民の方々の手によって、水質改善運動が行われているそうで御座いますが、失ってから気づく事がどれだけ大きいかったものかと、考えさせられてしまいます。
最近のエコブームの背景にある現代の深刻な環境問題、それが誰にとっても決して他人事では無いという事を、もっと ひとりひとりが しっかりと認識して、生かされている事に感謝すべきなのでは無いかなと思いました。

   諏訪湖

 海抜759m、周囲16kmで信州では一番大きな湖で、日本列島のほぼ中央にあたります。
遊覧船、ボート、ヨットを始め鯉、ふな、わかさぎなどの釣りも楽しめます。
また春秋にはめずらしい水平虹、冬は諏訪明神ご夫妻が再会のために湖の氷が帯状に裂け、せりあがると伝えられる御神渡りの現象が見られます。
武田信玄の石棺、武田勝頼と八重垣姫の悲恋物語など多くの歴史ロマンを秘めた湖です。
1周徒歩3〜4時間程度。
歩道が整備され、ウォーキングが人気です。



諏訪湖02

諏訪湖といえば、浄瑠璃や歌舞伎の演目で知られる本朝廿四孝において、八重垣姫様が武田勝頼様との恋を実らせる際に氷の張った諏訪湖を渡るという場面が御座います。
これは、恐らく創作なので御座いましょうけれど、“氷の張った諏訪湖を渡る”――これは、諏訪湖の御神渡伝説に肖って生まれた物語なのでは無いでしょうか。

寒い時期、諏訪湖全面が氷結すると、轟音と共に氷が裂けて、その裂目が山状に盛り上がるという自然現象が起こるそうで御座います。
これは、諏訪上社の御祭神 建御名方神が、下社の妃神様のもとへ通われる際に通られる御神路であると言い伝えられております。
いつか、生で見てみたいなぁとは思いますが、寒さに弱い私には厳しい野望かもしれません…(苦笑)
ただ、最近は温暖化の影響で この神秘的な風景も見られなくなってきているという御話も聞きました。
ここでも地球の環境問題について、考えさせられてしまいますね。
古来より語り継がれてきた伝説を、本当に昔話の中の奇跡のように語る未来が来ぬ事を願います。

諏訪湖03

諏訪湖にまつわる伝説は、もうひとつ御座いまして…。
武田信玄公の水中墓伝説というのが伝えられているそうで御座います。

これは、信玄公が その死に際に、死後3年間は自分の死を秘密にし、遺骸には甲冑を着せて諏訪湖に沈める事を命じられたと甲陽軍鑑に記述されている事に基づいているようで御座います。
何処かで聞いたような御話でも御座いますが、なんと今から22年前、湖底より一辺25メートルで菱形をした、謎の物体が発見されるという大ニュースが流れました。
これが信玄公の水中墓なのでは無いかと騒がれ、それ以降 様々な調査が行われてきたそうで御座います。
然し、泥深い湖底の調査は困難で、それが御墓であるという確証を得られる事は出来いまま、それは湖底窪地の影なのであろうという結論に至ったようで御座います。

今も多くの謎が残されているという水中墓伝説、歴史はミステリィで御座います〜。

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下諏訪の身代わり地蔵様。
かやなき地蔵様01

長野県諏訪郡下諏訪町。
諏訪大社 下社 秋宮の前にある観光案内板を見て、下諏訪には和泉式部様の守り本尊が安置される御寺さんがあるという事を知り、それは是非行ってみなくては!という事で、訪ねて参りました。

かやなき地蔵様02

□ 来迎寺(らいこうじ)

所在地:長野県諏訪郡下諏訪町湯田本町
御創建:天文10(1541)年
御開基:諏訪金刺右衛門尉
御開山:栄海上人
宗 派:浄土宗知恩院派
山 号:引接山
御本尊:阿弥陀如来


和泉式部様縁の御地蔵様は、この来迎寺さん境内に御座います。
余り詳しい御縁起等は分からなかったのですが、来迎寺さんは天文10(1541)に栄海上人によって開山された御寺さん。
御開基は、諏訪大祝 金刺右衛門尉と伝わっており、正確な御名前までは記録されていないようで御座いますが、金刺盛澄様の御子孫なので御座いましょう。

かやなき地蔵様03

今から千年余前の事、下諏訪の湯屋別当方に かねという名の、幼い娘が奉公をされておりました。
かねちゃんは、とても心の優しい女の子だったようで、畑に行く時には、いつも道端の御地蔵様に、自分の御弁当を少し御供えしていたそうです。

ある時、御弁当が足りなくなるという出来事が起こりました。
奉公人仲間に告げ口をされた かねちゃんは、別当の奥様に酷く御叱りを受け、焼けた火箸で額を打ちすえられてしまいました。
額から血が流れ、その激痛に耐えられなかった かねちゃんは、いつも信心していた御地蔵様のもとへと走り、泣きながら祈りました。
すると、不思議な事に御地蔵様の額から血が流れ出ており、気付けば かねちゃんの傷は跡形も無く綺麗に消えて、しかも美しい御顔に変わっていたといいます。
かねちゃんの身代わりとなり、更に御利益を与えられた御地蔵様は、あっという間に有名になりました。

それから、どれだけの時が経った頃の事かは分かりませんが、この地を訪れれていた都の大江雅致様は、この話を耳にされると、かねちゃんを是非にも養女にしたいと願い、都に連れ帰る事となりました。
雅致様の元で改名され、“かね”と呼ばれる事が無くなった この少女は、書道、歌道に秀で、後に宮中に出仕。
和泉守 橘道貞様と結婚の後、“和泉式部”と呼ばれるようになりました。

………と、いう伝承と この御地蔵様が、今も下諏訪には語り継がれているようで御座います。

案内板で“和泉式部”という文字を発見した時、何故 諏訪に和泉式部様縁の場所が?と、とても疑問に思いました。
この伝承については、諏訪を訪れて初めて知ったのですけれど…何というか、ただただ吃驚で御座いました。
和泉式部様の御幼少期について謎は多いのは確かな事で御座いますけれど、平安の都において数々の恋愛遍歴を持たれた御方として知られる和泉式部様が、実は信濃国の御出身で湯屋奉公をされていた……と…言われても、なかなか想像が出来ませんよね…(苦笑)

かやなき地蔵様04

そんなに大きな境内では御座いませんが、全体的に とても綺麗で真新しい感じで御座いました。
沢山並んだ赤い消防バケツが、何やら大変印象的では御座いましたが…境内の至るところで、かねちゃん こと和泉式部様に肖った碑等を拝見する事が出来ました。
水を覗き込む かねちゃんと、それを見守る御地蔵様の像を見ていると、あぁ愛されているのだなぁ〜と、とてもあたたかい気分にさせられます。

かやなき地蔵様05

こちらが、銕焼地蔵様を御祀りされる御堂で御座います。

和泉式部様は、道貞様との間に小式部内侍様をもうけられておりますが、小式部様は若くして早世…。
伝承によれば、我が子に先立たれた事を悲しまれた和泉式部様は、仏門に入って庵を結び、そこに下諏訪より御地蔵様を勧請されたのだそうで御座います。

そして、それから少し後の時代に至り…諸国遍歴で その庵に立ち寄られたという北条時頼様の夢枕に御地蔵様が立たれ、下諏訪に連れ帰るように望まれたといわれます。
その御告げを受けた時頼様は、御地蔵様を笈に入れて下諏訪まで移動。
御堂を建立し、そこに御地蔵様を安置されたのだそうで御座います。

  和泉式部の守り本尊
   銕焼地蔵尊と“かね”

今から千年あまり語りつがれて来た伝説です。
下諏訪の湯屋別当方に“かね”という幼い娘が奉公していました。
 畑に行く時はいつも道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
 ある時“かね”をそねんでいた仲間がつげ口をしたことから別当の妻はおこり、焼け火箸でかねの額を打ちすえました。
いたさにたえかねた“かね”は日頃信心のお地蔵様のもとに走り、ひざまづいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れでており、自分の痛みは消え、傷はなくなり美しい顔にかわっていました。
 お地蔵様が“かね”の身代わりになってくださったのです。
この話は瞬く間に拡がって誰言うことなく
「かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様」
と遠近に聞こえ、お参りする人で賑わうのでした。
たまたま都からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き、“かね”をぜひにと、都に伴い養女としました。
雅致夫妻のもとで書道・歌道などを学んだ“かね”は宮中に仕えるようになりましたが、歌人として群をぬき、やがて和泉守橘道貞と結婚、和泉式部となりました。

百人一首のなか
  あらざらむ この世の ほかの おもひでに
 いまひとたびの あふこともかな

       銕焼地蔵尊(かなやきさま)奉賛会



かやなき地蔵様06

銕焼地蔵様の御堂前には、和泉式部様の供養塔が建立されておりました。
これは、本当に ごく最近のもののようで御座いますね。

気になったのは、供養塔の傍にいらっしゃる数体の御地蔵様の御首から上部分だけが新しくされていた事…。
首から下の部分は、若干古めかしい状態で御座いましたので…なんだか、とても心配になってしまいました。
これは、明らかに人為的な被害に遭われた跡なのでは無いかと思うのです。
仏様の御首を壊すだなんて…もしかすると、明治期の廃仏毀釈運動で壊されてしまった御地蔵様を最近 修繕されたのかもしれませんが…見た感じは、もう少し新しいのでは無いかと。
どれが正解であったとて、悲しい事実に変わりは御座いません。

かやなき地蔵様07

銕焼地蔵様の御堂の御賽銭箱傍には“恋札を入れてください”と記された箱が御座いました。
和泉式部様は、恋多き女流歌人。
和泉式部様の故事に肖って、恋愛の守り仏様としても崇められているのかもしれませんが、ただ幸せな恋愛をされて、そのまま幸せに暮されました〜目出度し!…という感じの御方でも御座いませんので…ちょっと複雑な部分も御座いますが、そんな和泉式部様の一途さに惹かれる乙女は意外と多いのでは無いかしらとも思います(笑)

  下諏訪町文化財
   銕焼地蔵尊像

 この尊像は、厨子入りの秘仏で、例年四月二十四日に、ご開帳供養が行なわれる。
総高六七、五cm 御丈二九、五cmで温容すこぶる美しく華麗な作である。
当時門前の巨碑にもみるように、早くから厚い信仰にまもられてきたものである。
また、和泉式部の守本尊でのちに鎌倉時代に最明寺入道時頼が、京都から負うてきてここにまつったという伝説がある。
       下諏訪町教育委員会



かやなき地蔵様08

銕焼地蔵堂の前には、和泉式部様の歌碑も御座いました。
刻まれた御歌は、百人一首でも知られるあらざらむ 此世のほかの おもひ出に いまひとたびの 逢うこともかな

和泉式部様、小式部様は、母子共に百人一首に詠まれる平安期の代表的な女流歌人で御座いますね。

かやなき地蔵様09

* * * * * * * *

昼食は御蕎麦

下諏訪では、御昼御飯に御蕎麦をいただきました〜♪
天麩羅蕎麦、美味しかったです。

ドラさんは、いつも美味しそうに御飯を食べるので、見ていて楽しいですね。
ついつい連れ回してしまうので、御迷惑も御掛けしまくっていると思うのですが、
運転は任せました!
と容赦無く呑み始めるドラさんは素敵です(笑)

西の人間な私は、東国で御蕎麦を食べる時は、いつも微妙に悩みます;
最近は、段々と東の蕎麦ルール?が解ってきたような、そうでも無いような…という感じなのですが、とりあえず冷たい御蕎麦を頼むと、暫くして“蕎麦湯”というものが出されるらしいという事は覚えました…初めて出された時は、何が来たのかと思って非常に焦りました;
それ以降、御蕎麦屋さんに入った時は、温かい御蕎麦しか頼まないように致しております(笑)

関東に来て思ったのは、意外と饂飩よりも御蕎麦の方を好まれている方が多いなぁという事。
地元では饂飩は食べに行きますが、余り御蕎麦を食べに行くという習慣は御座いませんでしたので、何だか不思議な感じで御座います〜。

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御伽の姫君のゆかりにて。
唐糸様、万寿姫様 供養塔01

 寿永二年の秋の頃、鎌倉の兵衛佐頼朝は、八か国の侍たちを、みな鎌倉へ召し上せ、中門に出でさせ給ひて、侍たちに向つて仰せけるは、
「いかに方々、聞き給へ。そもそも、平家、頼朝が威勢に恐れてこそ、都をば落ちて候ふに、木曾の左馬頭義仲、十郎蔵人行家らが、高名顔に、関白にやならん、主上にや参らん、法皇にやならんと、天下をほしいままにふるまふことこそ、奇怪なれ。平家退治のさきに、義仲を退治せん。佐竹の冠者も、そのよしを申し、奥州の秀衡も、九郎冠者義経を上せんと申すなり。この十月の頃なるべし。勢を残さで連れ給へ。支度せよ」
とぞ仰せける。
侍たちは承り、
「かしこまる」
と申して、みな国々へと下られける。
 折節、その頃、鎌倉殿に、唐糸の前と申して、御所方の女房あり。
これは、信濃国の木曾殿の侍に、手塚太郎光盛が女なり。
あまりに琵琶の上手なり、琴もすぐれてあればとて、十八の年、鎌倉へ召し上せ、管弦の座敷を預けらるるが、唐糸は、このよしを承り、情なのことどもや、木曾殿の御滅亡は親一門の滅亡なり、いかにもして、このことを木曾殿へ聞かせ奉らんとて、一間所へ忍び入り、文こまごまと書き、下人の男に持たせて、都へとてこそ上せらるる。
 (御伽草紙“唐糸草子”による)


これは、室町期の物語集 御伽草紙に収録されている、唐糸草子という短編物語の冒頭部分。
この物語に登場される 唐糸様は手塚光盛様の娘様、そして 万寿様は その唐糸様の娘様…光盛様の御孫様という設定になっております。

唐糸様、万寿姫様 供養塔02

□ 唐糸(からいと)

生 年:永万2(1166)年頃?
没 年:不詳
 父 :金刺光盛
 母 :不詳
 夫 :不詳
 子 :万寿
本 名:不詳


唐糸様は、琵琶と琴の名手として知られていたようで御座います。
そもそも、実在されたか否かも定かでは御座いませんが、とりあえず ここでは それは置いておく事と致しまして。

18歳の頃に鎌倉に召し出されたという事で御座いますが…頼朝様が鎌倉に入られたのが治承4(1180)年の事で御座いますので、当然それ以降という事になりますね。
寿永2(1183)年の時点での御年齢は記されておりませんが、逆算致しますと永万2(1166)年から承安3(1173)年の頃に御生まれ…少なくとも、この時に22歳以上であるという事は無いと思います。
鎌倉へ来られた時には既に子持ちの身の上であられたようで御座いますが、もし治承4(1180)年 早々に鎌倉へ入られたと考えたとすると、18歳の時に9歳の御子様がいらっしゃるという計算になりますので…御出産は9〜10歳の頃という事に…;
それを考えると、それ以上御若かったと考えるのは厳しいように感じます。
作中で、娘の万寿様は4つの時に親と離れたと12〜13歳の御歳で仰っておられますが、もしも その時に唐糸様が鎌倉へ召されていたというのであれば、これは…もう、有り得ない御話だなぁという感じになってしまいます;;
この物語は、最初の頼朝様の台詞に伺える義経様の参陣の時期や佐竹隆義様の事等にも、ん…?と思わされますが、この他にも あれ?と思う部分が多く、あくまでも後世の創作なのだろうなぁという印象が強いので、余り深く考えてはいけないのかもしれません(苦笑)

義仲様の御命が狙われている事を知った唐糸様は、都へと密書を送り、頼朝様暗殺の為にと 義仲様より送られた“ちやくい”という脇差を受け取られました。
ちなみに義仲様、この時の御文に
「もしも頼朝の命を奪う事が出来たなら、そなたを私の妻にしてやろう」
等と書かれております……この物語、何故か唐糸様の夫については全く触れられておりません……;

然し、その脇差を梶原景時様に見付かってしまい、唐糸様は逃れようと必死に弁解をなされましたが、今は敵である木曾方武将の娘を傍に仕えさせる訳にもいかぬと、唐糸様は石牢へ閉じ込められてしまいました。

唐糸様、万寿姫様 供養塔03

□ 万寿(まんじゅ)

生 年:承安2(1172)年
没 年:不詳
 父 :不詳
 母 :唐糸


万寿様は、唐糸様の娘様。
今様が上手な美女であったようで御座います。

風の噂に御母様の事を伝え聞き、乳母 更科様と共に、鎌倉を目指して女性2人の長旅をなさいました。
鎌倉に到着すると、計画通りに御所への奉公を望んで政子様に面会され、とりあえずは侍従局様に御仕えするという事になりました。

その後、無事に母子の再会を果たされた唐糸様と万寿様で御座いましたが、見付かれば殺されると考え、秘かに忍んで通われるという日々を送られました。

ある時、頼朝様の御座敷に6本の松が生え、それが大変吉事であるとされた事から、この松を鎌倉山に移しかえる儀式において12人の美女を集められました。
その中には、平重衡様との関係が伝えられる千手様も選ばれておられます。
最期の1人として選ばれた万寿様は、見事に今様を謡い舞われ、頼朝様に絶賛されました。
頼朝様が褒美を取らすと言われると、万寿様は身分を明かして唐糸様の助命を請われます。
これによって、頼朝様は この親子を許し、国元の信濃へと送り帰されたという事で…唐糸草子は、万寿様の親孝行話として伝えられてきた御話で御座いました。

唐糸様、万寿姫様 供養塔04

……画像を無視して、話を進めてしまいました。
実は、この唐糸草子の唐糸様と万寿様の供養塔が、長野県諏訪郡下諏訪町内の鎌倉街道上の何処かに存在するという情報が御座いまして…。
諏訪大社 下社 秋宮の御近くだという事で御座いましたので、行けるものなら是非とも行って御参りさせていただきたいと思いまして、秋宮の社務所にて神職さんに御聞き致しましたところ、資料等も少ないようで、場所も御存じ無い御様子だったのですけれど、なんと御一緒に尋ね歩いて下さいまして…!
観光案内板や歴史民俗資料館へ立ち寄り、付近に御住まいの方々に御尋ねしつつ、20分位歩いた頃、遂に供養塔に辿り着く事が出来ました。

とても御世話になりましたのに、御名前を御伺いするのを忘れてしまったので御座いますが…秋宮の神職さんは、供養塔までの道中、平家物語の木曾義仲様と斎藤実盛様の件や、唐糸草子について御話をして下さいました。
供養塔に到着し、確認されると、私達に ごゆっくりどうぞ、と告げられ、颯爽と下って行かれました。
私に着いて来て下さったドラさんも神職さんで御座いますので、諏訪大社は御忙しいところと思われますのに、大変御親切で驚いたと仰っておられました。
本当に、あの神職さんがいらっしゃらなければ辿り着く事は出来なかったと思います。
私の個人的な用件に貴重な時間を割いて下さって、本当に有難う御座いました。
神社で御質問をさせていただく事は御座いますが、こんなにも丁寧に対応していただいたのは生まれて初めての事で御座います…神社、神職さんによっては、迂闊な質問をして困らせてしまったり、怒られてしまう御方もいらっしゃったりで…私も甘え過ぎている節があるのかもしれません;
極力、事前に調べられる限りの事は調べてから行動したいと思っているのですが、どうしても時々先走って身体が動いてしまうのが、私の欠点で御座いますね…(長所でもあると信じたいのですが/笑)

唐糸様、万寿姫様 供養塔05

この2基の五輪塔が、唐糸様と万寿様の供養塔と伝わります。
どちらが、どちらの供養塔かは分かりませんが、創作上の架空の人物と思われる唐糸様と万寿様が、鎌倉から諏訪へ戻った後に霞ヶ城の辺りに住まわれたという伝承が語り継がれているという事で御座います。
これは、その伝承に基づいて建立された五輪塔という事で…確かに、割と近世の頃に造られた塔のようで御座います。

   唐糸と万寿姫 五輪供養塔

 唐糸は手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手、十八歳の時鎌倉に召し出され、管弦の座敷をあずけられた。
 源頼朝が義仲を討とうとしている計画を知り、父光盛に知らせた。
義仲は光盛を通して、頼朝の命をねらえと唐糸に短刀を送ってきた。
唐糸は、頼朝を討つ機会をうかがっていたが、湯屋でこの刀を見つけられ、捕えられ石牢に入れられた。
 唐糸の一人娘の万寿姫は十二歳。
風の便りにこれを知り、鎌倉へ出て頼朝の館に仕えた。
 鶴岡八幡宮で舞の奉納の機会を得た万寿姫は、目立って立派に踊り、頼朝からほうびをと言われた時、母唐糸の身代わりになりたいと願い出た。
驚いた頼朝も孝行に免じ許し、母子ともに信濃の国へ帰ることができた。
 以上は、室町時代のお伽草子に書かれた物語であるが、唐糸と万寿姫は諏訪へ帰ったのち、霞ヶ城の一部に館をつくって暮らしたと伝えられている。
 その言い伝えに基づいてここに五輪供養塔を祭った。



唐糸様、万寿姫様 供養塔06

向かって左の五輪塔には水輪部分が抜けており、恐らくは天災等で崩れた際に失われてしまったのでは無いかと思われます。

地元の方々は、こちらの事を余り御存知無いようで御座いましたが、傍には案内板も立てられておりましたし、1円玉が沢山地輪部分に載せられておりましたので、鎌倉街道を散策される方々が主に御参りなさっていらっしゃるのかな…という感じで御座いました。

唐糸様、万寿姫様 供養塔08

唐糸様、万寿様供養塔の少し手前には、小湯の上地区の山の神社が御祀りされておりました。
小さな御社で御座いましたが、ここから望む景色は 諏訪の何処で見た風景よりも綺麗だなぁと感じました。

そういえば、私は ここで
わぁ!下諏訪の町並と、海が見える〜
等と おかしな事を言ってしまったような……;
あれは、海では無く 諏訪湖で御座います…しっかり私!(苦笑)

唐糸様、万寿姫様 供養塔09

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鎌倉の御恩を諏訪の下宮に御祀りし、
梶原塚01

長野県諏訪郡下諏訪町――。
こちらは、JR下諏訪駅より徒歩5分程の場所に御座います、菅原町会館。
この敷地内に、金刺盛澄様が命の恩人である梶原景時様の御供養の為に建立されたといわれる梶原塚が伝えられております。

源平合戦期、鎌倉と諏訪の関係は非常に複雑なもので御座いました。
吾妻鏡によれば、元々は平家方であったという諏訪下宮の大祝 盛澄様。
然し、盛澄様、弟の手塚太郎光盛様は共に木曾義仲様を幼い頃より匿い、養育され、挙兵の後も付き従っておられます。
義仲様、光盛様亡き後、諏訪に戻られておられた盛澄様は、その後に鎌倉の源頼朝様に召し出されておりますが、遅参した事により処刑される事となり…そこを、頼朝様の側近であり、盛澄様の御身柄を預かられておられた景時様が上手く助命に結び付けられたので御座いました。

   鎌倉幕府との関係

 前田氏本「神氏系図」には、諏訪神氏すなわち大祝の始祖有員以下に十四代の欠失部分がある。
そしてその部分に、実にリアルな欠失の理由が書き留められている。
十七代大祝為仲は、職位前に源義家について、十二年も奥州の戦場にあって武勲をたてた。
前九年・後三年の両役である。
やがて時いたり、帰京して大祝に職位した。
ところが、後から帰路に立ちよった義家に強く上京をすすめられたのである。
もちろん、そこには論功と栄光が待っていたわけであろう。
しかし為仲には、すでに大祝のタブー、境を越えられないという絶対な枷があった。
が、父為信の諫止もきかず、為仲は敢然、人間の行動に出て義家に従った。
神の呪縛からとかれた人間の旅が続けられた。
そして美濃国莚田庄芝原宿で、為仲の人間の旅は終わった。
その夜、新羅三郎義光の手の者と為仲の従者とが、双六賽のことから大乱闘をはじめ、双方すくなくない死者をだした。
為仲はみずからその責を負って腹を切ってはてた。
 「神氏系図」は、この悲劇をきっぱり偏所致神罰也といいきっている。
人間の知性は神の呪性に敗北したのである。
書類、系図、勅裁、相伝の証文のたぐいは、すべて為仲が舅の伊那馬太夫にあずけていったまま、その所在を失ってしまった。
これが欠失の理由であるといっている。
いろいろの論議もあるが、筆者は創作ではできぬ中世(寛治元年一〇八七)らしい現実性を、その説話から感じるのだが。……
 それはそれとして、為仲以来諏訪神氏は、はげしく武士化していったようである。
上社の諏訪神氏も下社の金刺氏も、それから分かれた各地の諏訪氏も、強く源氏と結ぶようになった。
そして保元の乱。
さらに治承四年(一一八〇)には、源義仲の木曾挙兵について下社金刺、上社諏訪、千野の一族中の強力者は、あげてこれに馳せ参じた。
おなじ年、これに呼応するかのように頼朝から諏訪上・下社に、平井出、宮処、竜市、岡仁谷など、天竜川の水源の牧場地帯が寄進されている。
もちろん、これは源氏再興の先付手形であったろうが、いずれにしろ鎌倉幕府と諏訪神氏との結びつきは、いよいよ深まったわけである。
 しかし、信濃源氏は木曾義仲と運命をともにし、手塚光盛、今井兼平、樋口兼光、千野光弘、ほか藤沢、根津などの勇将を失って一応壊滅することとなった。
 一つの諏訪神社の危機であったわけである。
 ところが、そのうちの一人、下社大祝金刺盛澄は御射山祭事のために、一人遠征軍の中から越前安保で引きかえしている。
そしてそのまま頼朝の傘下に入り、由来、鎌倉幕府と諏訪大社との、切っても切れない縁が生まれることになった。
文治五年(一一八九)のことである。
諏訪神は蘇生した。
       ( 「諏訪大社」 藤森栄一 氏 著)



梶原塚02

文治三年八月十五日
十五日 癸未
鶴岡放生會也。
二品、御出。
參河守範頼、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等、扈従。
有流鏑馬射手五騎、各先渡馬場、次各射訖。
皆莫不中的。
其後、有珎事。
諏方大夫盛澄者、流鏑馬之藝窮依慣傳秀郷朝臣秘決也。
爰属平家、多年在京、連々交城南寺流鏑馬以下射藝訖。
仍參向關東事、頗延引之間、二品、有御氣色、日來爲囚人也。
而被斷罪者、流鏑馬一流、永可凌廢間、賢慮思食煩、渉旬月之處、今日俄被召出之、被仰可射流鏑馬之由、盛澄、申領状。
召賜御廐第一惡馬。
盛澄、欲令騎之刻、御厩舎人、密々告盛澄云、此御馬、於的前、必馳于右方也<云云>。
則出一的前、寄于右方、盛澄、爲生得達者、押直兮射之。
始終、無相違。
次以小土器、挾于五寸之串、三被立之。
盛澄、亦悉射畢。
次可可射件三箇串之由、重被仰出。
盛澄、承之、既雖思切生涯之運。
心中奉祈念諏方大明神、拜還瑞籬之砌、可仕靈神者。
只今垂擁護給、者然後、鏃於平<仁>捻廻<天>射之、五寸串、皆射切之。
觀者、莫不感二品御氣色、又快然、忽被仰厚免<云云>。

今日流鏑馬。
一番 射手 長江太郎義景、<的立、野三刑部烝、>盛綱、
二番 射手 伊津五郎信光、<的立、河勾七郎>政頼、
三番 射手 下河邊庄司行平、<的立勅使河原三郎>有直、
四番 射手 小山千法師丸、<的立、浅羽小三郎>行光、
五番 射手 三浦平六義村、<的立横地太郎>長重、 (吾妻鏡による)


文治3年8月15日(1187年9月18日)、鶴岡八幡宮にて行われた流鏑馬神事。
景時様の進言により、参加させられる事となった盛澄様には、最も悪い御馬が与えられました。
然し、景時様が手回しなさったのか、密かに馬屋の舎人が御馬の特徴を盛澄様に御教えされていたようで、癖のある御馬を見事に乗りこなした盛澄様は、全ての的、竿や細串までもを射落とされ、頼朝様を感嘆させられたという事で御座います。
諏訪の大祝は、生き神様も同様の意義を持たれる存在…元々 本来は、その神域の境を超える事すら許されなかった筈の御立場であったようで御座います。
そんな特別な神官だからこそ成せる技、これは まさに諏訪大明神の神技であるとして、神を処刑するような事を避け、盛澄様は罪を許され、帰国なさいました。

   梶原塚と金刺盛澄

 寿永二年(一一八三)の夏 下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と供に木曽義仲を助け平家追討中、下社御射山神事の為帰国した
 義仲は平家を追い落し京に入り威権をほしいままにした為 頼朝は兵を派遣し義仲を攻め 義仲、光盛は粟津において討伐された。
 義仲に最後まで従った盛澄は頼朝の関東参向の命をためらい その怒りにふれ捕えられ頼朝の重臣 梶原景時に断罪の為預けられていた。
 文治三年(一一八七)八月 鶴岡八幡宮放生会の折かねてより盛澄の流鏑馬の妙技を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した
 盛澄は癖馬をあてがわれたが景時の秘かなる助言で乗りこなし、すべての的をみごとに射落とし再三に及ぶ難技もみな射切った
これを見た頼朝は
「これぞ神技の故なり」
と感嘆し、金刺盛澄と部下六十余名は許されて帰国する事ができた。
 正治二年(一二〇〇)一月梶原景時の死後 盛澄は、その人徳を尊び恩義に報いる為 諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て五、三の桐の太刀を納めた。
この南西百米先にあったが鉄道開通の折移転され以後菅原町により毎年九月に例祭が行われている



梶原塚03

外側からは見えない、案内板の影に、梶原塚は御座いました。
何と無く想像していたものとは全く違う石碑に、少し違和感を覚えてしまいましたが…刻まれた文字が鮮明であった事を思うと、近代に改められたものでは無いかなという気も致します。

梶原塚は、景時様亡き後、その御最期を知った盛澄様が下宮上座堂の地に塚を建立されたものであると伝えられます。
そこには、五三の桐の太刀を納めて御祀りされたという事で御座いますが…その太刀について、現存するか否か等、詳しい事は分かりませんでした。
近代に至り、幾度かの移転を経て、現在に至っておられるという事で御座います。

  “鎌倉絵巻”
   金刺盛澄とその時代の武将


 寿永二年(一一八三)の夏下社大祝金刺盛澄は弟の手塚太郎光盛と共に木曾義仲を助け平家追討の途中、下社御射山神事のため急ぎ帰国して来た。
義仲は平家を追い落し京に入ったが、あまりにも威権をほしいままにしたために頼朝は兵を派遣して義仲を攻め、義仲は粟津で討伐され、手塚太郎光盛も義仲と共に討死にした。
 盛澄の娘が義仲の側室であることから最後まで義仲に従った盛澄に対する憎しみが強い頼朝は盛澄に鎌倉への参向を命じたが、流鏑馬などの行事にかこつけて出頭が遅れ、怒った頼朝は彼を捕えて重臣の梶原景時に断罪のために預けた。
 文治三年(一一八七)八月十五日鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬にかねてより盛澄の流鏑馬の妙技の死滅を惜しみ処刑を延ばしていた景時は頼朝にその技を見る事を強く進言した。
盛澄は召し出されてその技を命じられ、癖馬をあてがわれたが舎人がひそかにこの馬の悪癖を教え、盛澄心得て見事にのりこなし、すべての的をみごとに射落とした。
更にその竿も、次いで出されたカワラも、更にそれをはさんだ串までも、しかもその串は上五寸ばかり切れて残寸法は皆同じ長さであったと言う。
頼朝もその非凡な妙技に
「人力の及ぶ所ではない。諏訪大明神の神職である盛澄、神の加護であり、神技である。」
と深く感嘆し、金刺盛澄と部下六十余名は許されて帰国する事が出来た
 頼朝死亡後、有力御家人間の対立から景時は追放され正治二年(一二〇〇)一月駿河国狐崎の戦で敗死した。
これを知って盛澄は彼の人徳を尊び、その恩義に報いるために諏訪下宮の上座堂の地に塚を建て、五三の桐の太刀を納めて祭ったと言う。
この祭は長らくすたれていたが明治十八年頃復活され、二十一、二年頃に「上座堂梶原塚」の碑を建てたが明治三十八年中央線開通にあたり駅構内から中学校下の旧公会所(現武川氏宅)に移り、更に昭和十六年公会所移転にともない現在位置に移った。
毎年九月に菅原町では盛大に例祭が行って来ている。
     文責 菅原町町史編纂委員長 丸田 浩



梶原塚04


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引く弓の、加減を心の軸として。
景時様

□ 梶原景時(かじわらのかげとき)

生  年:保延6(1140)年?
没年月日:正治2年1月20日(1200年2月6日)
  父  :梶原景清
  母  :横山孝兼女
兄  弟:朝景、友景、景道
  妻  :横山孝兼三女、狩野尼
  子  :景季、景高、景茂、景国、景義、景宗、景則、景連、女(武藤資頼妻)
戒  名:龍泉院梶勝源公
通  称:平三


梶原景時様といえば、鎌倉幕府の有力御家人。
諸説御座いますが、梶原氏は桓武平氏 平良文様の御子孫で、鎌倉党 坂東八平氏に数えられる一族といわれます。
本領は、相模国梶原郷。
元々は源氏に仕える御家系で御座いましたが、平治の乱の後は平家方として存続されておりました。
文武両道に長けた御方として知られておりますが、判官贔屓な近代においては、義経様を悲劇の結末へと導いた張本人として悪者的な扱いをされる事も多いですね…;

治承4(1180)年、源頼朝様が挙兵なさると、景時様は大庭景親様と共に頼朝様の討伐に向かわれました。
石橋山合戦にて頼朝様の軍に勝利され、景時様は山中へと潜まれた頼朝様を探し発見されますが、ここで頼朝様の事を見逃されております。

大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。
佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。
景時哀に見奉りて、
「暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へ」
と申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。
景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。
佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。
後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。
平三伏木の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、
「此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へ」
とぞ下知しける。
大場見遣て、
「彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べし」
と云ひけるが、
「其も時刻を移すべし、よしよし景親入て捜てみん」
とて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、
「やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺に劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさん」
と宣はば、
「我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は」
と云ければ、大場もさすが不入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からりからりと二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。
深く八幡大菩薩を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はたはたと羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。
 (源平盛衰記による)


この場面は、矢張り源平盛衰記に語られるイメージが強いですね。
景親様が怪しまれる臥木の洞窟に入られた景時様は頼朝様を見付けられますが、その時に自害なさろうとした頼朝様を制止し、貴殿が戦に勝った際には御忘れにならぬようにと告げると、体を張って庇っておられます。
この出逢いが後の運命を大きく変える事を、景時様は本能的に悟られておられたのかもしれません。

鎌倉へと入られた頼朝様は、同年10月(1180年11月)の富士川合戦にて平維盛様率いる平家軍に勝利。
大庭景親様は捕えられた後に処刑されておりますが、2ヵ月後に土肥実平様経由で降伏した影時様は、養和元(1181)年のはじめに頼朝様と対面を果たされ、頼朝様の厚い信任を得、鎌倉御家人に列せられる事となりました。
侍所所司に任命された他、鶴岡八幡宮若宮造営や御台所 政子様の出産奉行等、重要な役割を担っておられます。

寿永2年12月(1184年2月)、景時様は頼朝様の命により上総広常様を殺害致します。
後に誤解であった事が判明するようで御座いますが、頼朝様は東国で大きな勢力を有していた広常様が謀反を企てられているという噂に不安を抱かれたので御座いましょうか…景時様は、広常様と双六を楽しんでいた最中、隙をついて御首をとられたので御座いました。

寿永3(1184)年には、御嫡男 景季様と共に宇治川合戦、続いて一ノ谷合戦に参戦。
一ノ谷合戦において、景時様は当初 義経様の侍大将で御座いましたが、義経様とは余り御気が合わなかったようで範頼様率いる大手軍へと変わっておられます。
景時様は、景季様、景高様と、生田口の平知盛様率いる軍勢と交戦されました。
この時、私党の方々が先陣を争って抜駆けをされておりますが、家人が少ない河原兄弟は2人共に死を決して平家陣へと矢を放ち、平家方の真名辺四郎様、五郎様兄弟に討たれ亡くなりました。
これを知った景時様は、それぞれが自分勝手に功名を求めた結果が軍全体にどれだけの損害を与えるのか考えられないのかと、大変御怒りになっておられます。

其時下人ども、
「河原殿おととい、只今城の内へまさきかけて討たれ給ひぬるぞや」
とよばはりければ、梶原是をきき、
「私の党の殿原の不覚でこそ、河原兄弟をばうたせたれ。今は時よくなりぬ。よせよや」
とて、時をどとつくる。
やがてつづひて五万余騎一度に時をぞつくりける。
足がる共にさかも木取のけさせ、梶原五百余騎おめひてかく。
次男平次景高、余にさきをかけんとすすみければ、父の平三使者をたてて、
「後陣の勢のつづかざらんに、さきかけたらん者は、勧賞あるまじき由、大将軍のおほせぞ」
といひければ、平次しばしひかへて
「“もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかは”と申させ給へ」
とて、おめいてかく。
「平次うたすな、つづけやものども、景高うたすな、つづけやものども」
とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。
梶原五百余騎、大勢のなかへかけいり、散々にたたかひ、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、ざとひいてぞ出たりける。
いかがしたりけん、其なかに景季はみえざりけり。
「いかに源太は、郎等ども」
ととひければ、
「ふかいりしてうたれさせ給ひて候ごさめれ」
と申。梶原平三是をきき、
「世にあらんと思ふも子共がため、源太うたせて命いきても何かはせん、かへせや」
とてとてかへす。
梶原大音声をあげて名乗りけるは、
「昔八幡殿、後三年の御たたかひに、出羽国千福金沢の城を攻させ給ひける時、生年十六歳でまさきかけ、弓手の眼を甲の鉢付の板にいつけられながら、当の矢をいて其敵をいおとし、後代に名を
あげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は、景時うて見参に入れよや」
とて、おめいてかく。
新中納言
「梶原は東国にきこえたる兵ぞ。あますな、もらすな、うてや」
とて、大勢のなかに取こめて攻給へば、梶原まづ我身のうへをば知らずして、
「源太はいづくにあるやらん」
とて、数万騎の大勢のなかを、たてさま、よこさま、蛛手、十文字にかけわりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲にたたかいなて、馬をもいさせ、かち立になり、二丈計ありける岸をうしろにあて、敵五人がなかに取籠られ、郎等二人左右に立てて、面もふらず、命も惜しまず、ここを最後とふせきたたかふ。
梶原是を見つけて、
「いまだうたれざりけり」
と、いそぎ馬よりとんでおり、
「景時ここにあり。いかに源太、しぬるとも敵にうしろをみすな」
とて、親子して五人の敵、三人うとり、二人に手おほせ、
「弓矢とりはかくるもひくも折にこそよれ、いざうれ、源太」
とて、かい具してぞ出たりける。
梶原が二度のかけとは是なり。


ここは、景時様に関する御話の中で私がいちばん好きな件で御座います。

合戦が始まると、景時様は御次男の景高様が先駆けをされようとするのを諫める為に使者を送られておりますが、それに対して景高様は

   もののふの とりつたへたる あづさ弓
     ひいては人の かへすものかは


“武士が、先祖代々伝えられてきた梓弓を引いてしまったのです。
 1度引いた弓は、元には戻りません”


と景時様に御歌を伝えられ、再び進んで行かれました。
景時様は、予想外な息子の反応に驚かれた部分もあったので御座いましょう…平次を討たせるな、景高を討たせるなと、景季様、御三男 景家様を従えて駆け出されました。
梶原500騎は本隊から離れてしまいますが、ここで歩を緩める事は武名に関わるとして、そのまま平家の軍勢の中へと突進されていきました。
大軍を有す平家の中で景時様の軍勢は僅か50騎となり、敵陣を退かれたので御座いますが、退陣してみると、景季様の御姿が何処にも見えない事に気が付かれます。
所在を尋ねると、もしや深入りなさって討たれたのかもしれない…等と、ひとりの郎等が発言しました。
景時様も、人の親で御座います。
この世に行き留まろうと思うのも、子供達の為…源太を敵に討たせて、自分の命が助かったとして、一体それが何になろう!引き返す!」
と敵陣に舞い戻り、そこで勢い良く名乗りを上げられました。
「昔、八幡太郎義家殿が後三年合戦で、出羽国千福の金沢城を攻められた時、生年16歳にして先陣を駆け、左眼を射貫かれながらも、その矢を引き抜き相手を射殺したと、後代にまで名を挙げられた鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時、一騎当千の強者である。
 我と思わん者は、この景時を討ち取って、そちらの大将軍の元へ差し出すが良い!」
これを見た知盛様は、梶原は東国に聞こえる強者であるとして、士気を高められました。
激しい戦乱の中、景時様は ようやっと地面で戦う景季様を発見されますが、そんな景季様に死んでも敵に背を向けるような事はするなと励ましておられます。
弓矢を取る者は、進むも引くも機を見て行わねばならぬ。さあ源太、続け!
ここで先程の御歌に対する御返事で御座いますかー!と、思わず余裕なのでは無いかと思わせられるような発言で御座いますが…こういう所も、平家物語の魅力の1つで御座いますね。
ここで景時様は景季様を抱えて馬に飛び乗り、敵陣を突破。
2度も敵陣へ飛び込んだ景時様の事を“梶原の二度駆け”と呼ばれ、誰もが讃えられたといわれます。

合戦後、景時様は播磨、備前、美作、備中、備後の5ヶ国守護を命じられております。
そして一ノ谷で捕虜となった平重衡様を鎌倉へと護送する為に上洛されると、平家の所有していた領地を没収なさいました。

さて…一ノ谷合戦で戦功をあげられた人物として、特に有名なのは義経様で御座いますね。
然し、合戦後の小除目に際して、義経様には任官がなされませんでした。
その後、義経様は頼朝様の許可無く、後白河法皇より従五位下に叙せられ、左衛門少尉、検非違使少尉に任官して、院への昇殿を許されました。
この辺りから、掛け違い始めた釦と釦穴のように、頼朝様と義経様の御関係の雲行きが怪しくなってくるので御座います。

元暦元(1185)年のはじめ、一ノ谷に続いて、屋島合戦を迎えるにあたり、頼朝様は敢えて出陣命令を下していなかった義経様に摂津国にて軍を編成させ、讃岐国屋島に本営を構える平家軍を攻撃する事を定められました。
ここで行われたのが、景時様vs義経様による“逆櫓”の論争で御座いますね。
恐らくは、景時様にまつわる御話の中で最も有名なのでは無いかと…。

渡辺には大名小名よりあひて、
「抑ふないくさの様はいまだ調練せず。いかがあるべき」
と評定す。
梶原申けるは、
「今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候ばや」
判官
「さかろとはなんぞ」
梶原
「馬はかけんと思へば弓手へも馬手へもまはしやすし。舟はきとをしもどすが大事候。ともへに櫓をたてちがへ、わいかぢを入れて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」
と申ければ、判官の給ひけるは、
「いくさといふ物はひとひきもひかじと思ふだにも、あはひあしければひくはつねの習なり。もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門でのあしさよ。さかろをたてうとも、かへさまろをたてうとも、殿原の舟には百ちやう千ぢやうもたて給へ。義経はもとのろで候はん」
との給へば、梶原申けるは、
「よき大将軍と申は、駆くべき処をばかけ、退くべき処をばひいて、身をまたうしてかたきをほろぼすをもてよき大将軍とはする候。かたおもむきなるをば、猪のしし武者とてよきにはせず」
と申せば、判官
「猪のしし鹿のししはしらず、いくさはただひらぜめにせめてかたるぞ心地はよき」
との給へば、侍共梶原におそれてたかくはわらはねども、目ひきはなひきぎぎめきあへり。
判官と梶原とすでに同士いくさあるべしとざざめきあへり。
やうやう日くれ夜に入ければ、判官の給ひけるは、
「舟の修理してあたらしうなたるに、おのおの一種一瓶してゆはひ給へ、殿原」
とて、いとなむ様にて舟に物の具入れ、兵粮米つみ、馬どもたてさせて、
「疾く疾くつかまつれ」
との給ひければ、水手梶取申けるは、
「此風は追手にて候へども、普通にすぎたる風で候。奥はさぞふいて候らん。争か仕候べき」
と申せば、判官おほきにいかての給ひけるは、
「野山のすへにてしに、海河のそこにおぼれてうするも、皆これせんぜのしゆくごう也。海上にいでうかふだる時風こわきとていかがする。むかひ風にわたらんといはばこそひが事ならめ、順風なるが少しすぎたればとて、是程の御大事にいかでわたらじとは申ぞ。舟つかまつらずは、一々にしやつばら射ころせ」
と下知せらる。
奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、伊勢三郎義盛、片手矢はげ、すすみ出て、
「何条子細を申ぞ。御ぢやうであるにとくとく仕れ。舟仕らずは一々に射殺さんずるぞ」
といひければ、水手梶取是をきき、
「射殺さんもおなじ事、風こはくは、ただはせじににしねや、物共」
とて、二百余艘の舟のなかに、ただ五艘出でてぞはしりける。
のこりの船は風におそるるか、梶原におづるかして、みなとどまりぬ。
判官の給ひけるは、
「人の出でねばとてとどまるべきにあらず。ただの時はかたきも用心すらむ。かかる大風大浪に、思ひもよらぬ時にをし寄せてこそ、思ふかたきをばうたんずれ」
とぞの給ひける。 (平家物語 高野本による)


景時様は、兵船に逆櫓をつけて進退の自由を優先すべきと提案なさっておられますが、義経様は逃げる準備等いらぬ!という御意見……B型?(笑/すみません;)
逆櫓でろうが返様櫓であろが、貴殿等の船には百挺でも千挺でも付ければ良かろう!義経の船にはいらぬ
……なんて事を言われてしまっても、
良き大将軍というものは、出る所では出、引き際を知り、身を全うして敵を滅ぼすものです。
 そのように、短慮な事ではいけませんよ、それではまるで突き進むことしか知らぬ愚かな猪武者ですぞ

と景時様は、大人な対応…年齢差は、はっきりとはしないものの最低でも20歳位は離れておられたのでは無いかと。。
冷静かつ慎重な御考えで行動なさりたい景時様とは、どうあっても気が合わなかったのかもしれません;
結局、勝てば良いのだし、その方が気持ちが良い!的な御考えの義経様とは相容れる事無く……この件に関しては、結果的には確かに咎められるべき事にはなりませんでしたけれど…大勢の部下を従える大将軍の御言葉としては、危なっかしくて…正直、景時様のアイディア云々よりも、その発言の裏側を、義経様には汲み取って和解して欲しかったなぁー…と思わされる私で御座います。
歴史に“if”は御座いませんけれど、でも たったそれだけで変わった未来も想像出来てしまうのが、恐ろしいところで御座いますね;;

景時様との内乱には至らなかったものの、更に義経様は悪天候にも関わらず、順風であるなら構わぬ!とばかりに強引に出航されてしまいました…。
暴風の中、僅かな数で上陸された義経様は、あっという間に屋島を攻め落とされます。
景時様率いる140余艘の本隊が到着する頃には、既に平家軍は逃げられておりました。
この事から、景時様は五月五日の端午の節句に間に合わなかった菖蒲という意味を込めて“六日の菖蒲”と嘲笑されてしまったといいます。

そして、壇ノ浦での決戦。
平家物語によりますと、この時に景時様は先陣を希望されておりますが、なんと総大将の義経様は自らが先陣に立たれると言われ、総大将が先陣とは何事かと騒動になっております。
合戦は、義経様の御活躍によって源氏の勝利、平家の滅亡という形で終結致しましたが、肝心の三種の神器を完全に取り戻す事は叶いませんでした。

元暦2年4月21日(1185年5月22日) 九州より鎌倉へ、景時様が親類の方を御使いに文書を届けられました。
その手紙の内容は、はじめに合戦の次第について、そして後半は義経様の不義について訴えられる内容で御座いました。

元暦二年四月二十一日
廿一日 甲戌
梶原平三景時飛脚、自鎮西參著。
差進親類献上書状。始申合戰次第、終訴廷尉不義事。
其詞云、西海御合戰間吉瑞多之。
御平安事、兼神明之所示祥也。
所以者、何、先三月廿日、景時郎従、海太成光夢想、浄衣男、捧立文來。是石清水御使、覺、披見之處、平家未日可死載<タリ。>覺之後、彼男相語、仍未日、搆<テ、>可決勝負之由、存思之處、果而如旨。
又攻落屋嶋戰場之時、御方軍兵不幾、而數萬勢、<マボロシニ>出現<テ、>敵人見<云云>。
次去々年、長門國合戰之時、大龜一出來、始浮海上、後<ニハ>昇陸。
仍海人恠之、参河守殿御前持参。
以六人力、猶持煩之程也。
于時、可放其甲之由、相儀之處、先之有夢之告、忽思合、参河守殿、加制禁、剰付簡<テ。>被放遣畢。
然臨平氏最後、件龜再浮出于源氏御舩前、<以簡知之>次白鳩二羽、翻舞于舩屋形上、當其時、平氏宗人人、入海底、次周防國合戰之時、白旗一流、出現于中虚。
暫見御方軍士眼前、終収雲膚畢。
又日、判官殿、爲君御代官、副遣御家人等、被遂合戰畢。
而頻雖被存一身之功由、偏依多勢之合力歟。
謂多勢、毎人不思判官殿、志奉仰君之故、勵同心之勲功畢。
仍討滅平家之後、判官殿、形勢、殆超過日来之儀。
士率之所存、皆如踏薄氷。敢無眞實和順之志。
就中景時、爲御所近士、愍伺知嚴命趣之間、毎見彼非據、可違關東御氣色歟之由、諫申之處、諷詞還爲身之讎、動招刑者也。
合戰無爲之命、祇候。
無所據。
早蒙御免、欲歸參<云云>。
凡和田小太郎義盛、與梶原平三景時者、侍別當所司也。
仍被發遣舎弟兩將於西海之時、軍士等事、爲令奉行、被付義盛於參州被付。
景時於廷尉之處、参州者、本自依不乖武衛之仰、大少事示合于常胤義盛等。
廷尉者、挿自専之慮曽不守御旨。
偏任雅意、致自由張行之間、人之成恨、不限景時<云云>。


この文の後半で景時様は、先ず義経様が頼朝様の代官として派遣され、鎌倉の御家人を与えられておられたが故に、合戦に勝利する事が出来たと記されております。
然し、御自らの策略による独り善がりな戦功と思い込まれている御様子…多くの武士達が鎌倉殿の為に心を合わせて協力したからこそ勝てた訳で、義経様に従われていたという事では無いといわれております。
それなのに、平家を滅ぼした後の判官殿は、まるで思い上がっていらっしゃる。
 付き従う兵達は、薄い氷の上を歩いているような心持ちで、心から判官殿に従っている訳では御座いませぬ。
 この景時は、頼朝様の側近として鎌倉殿の求める真の目的を存じておりますので、間違いを指摘する事も御座いましたが、判官殿は御怒りになられるばかりで、危うく処刑されそうな事になってしまいます。
 合戦が終わった今、御傍に居てもどうするという事も御座いません、ただただ今は早く関東へ帰る御許しをいただきとう御座います

景時様は、義経様が自己中心的なので、自分だけで無く他の武士達も恨みに感じておりますと報告されたので御座いました。
いわゆる“梶原景時の讒言”と呼ばれる御手紙で御座います。
この文書が、どれだけ頼朝様の御内情に関わられたかは存じませんが、この後 義経様は鎌倉への帰還を許されず、その御生涯において2度と兄 頼朝様と対面する事は御座いませんでした。
平泉にて義経様が自刃なさった後、鎌倉へと送られた御首を実検されたのは、和田義盛様、そして景時様で御座いました。

“梶原景時の讒言”と呼ばれる例は、他にも幾つかあるようで…。
土佐国の住人 夜須行宗様が壇之浦合戦での恩賞を願い出られた際、景時様は そのような者は居なかったとして申し立てられておりますが、これには証人がいらっしゃった為、景時様には処罰が科せられております。
また、畠山重忠様が謀反を企てていると言上された際には、重忠様の誠意が頼朝様に届き、身の潔白が証明されました。
もしかすると、その時その時の裏の事情等が御有りだったのかもしれない…とは思いますが、その深い御心の中までは知る由も御座いません。

建久3(1192)年、和田義盛様に代理として侍所別当に就任。
これは別当職を臨んでいた景時様が、謀って職を奪ったとされております。

正治元年正月13日(1199年2月9日)、頼朝様 御逝去。
景時様は、宿老として引き続き幕府の中心で2代将軍 頼家様に御仕えされました。
十三人の合議制が置かれると、景時様もその御1方として列せられております。

頼朝様亡き後も、頼家様の御傍で その権力を誇り、尚且つ 将軍への告口が悪質であるとして、景時様は次第に他の御家人衆の方々より敵視されていかれる事となります。
ついに、有力御家人を含む諸将66名による景時様排斥を求める連判状が提出されると、景時様は“引き時”と感じられたので御座いましょうか、抗う事無く一族の方々と共に相模国一ノ宮の館へと退かれました。

…と思いきや(笑)
正治2年正月(1200年2月)、景時様親子は甲斐源氏 武田有義様を将軍に擁立しようとし、上洛を試まれました。

正治二年正月二十日
廿日 丁未晴
辰剋、原宗三郎、進飛脚申云、梶原平三景時、此間於當國一宮、搆城郭、備防戰之儀。
人以成恠之處、去夜丑剋、相伴子息等、偸遜出此所。
是企謀叛、有上洛聞<云云>。
仍北條殿、兵庫頭大夫屬入道等、參御所、有沙汰、爲追罰之、被遣三浦兵衛尉、比企兵衛尉、糟谷藤太兵衛尉、工藤小次郎已下軍兵也。
亥剋、景時父子、到駿河國清見關。
而其近隣甲乙人等、爲射的群集。
及退散之期、景時相逢途中、彼輩恠之、射懸箭。
仍芦原小次郎、工藤八郎、三澤小次郎、飯田五郎追之。
景時、返合于狐崎、相戰之處、飯田四郎等二人、被討取畢。
又吉香小次郎、澁河次郎、舩越三郎、矢部小次郎、馳加于芦原吉香。
相逢于梶原三郎兵衛尉景茂、<年卅四>互令名謁、攻戰共以討死。
其後、六郎景國、七郎景宗、八郎景則、九郎景連等、並轡、調鏃之間、挑戰難決勝負、然而漸當國御家人等競集、遂誅彼兄弟四人。
又景時、並嫡子源太左衛門景季、<年卅九、>同弟平次左衛門尉景高、<年卅六、>引後山、相戰。
而景時、景高、景則等、雖貽死骸、不獲其首<云云>


正治二年正月二十一日
廿一日 戊申
巳剋、於山中、捜出景時并子息二人之首。
凡伴類三十三人、懸頚於路頭<云云>。
 (吾妻鏡による)


然し、その道中 駿河国清見関にて在地武士と争う事とになり、狐崎にて御嫡男 景季様、次男 景高様、三男 景茂様が討死なされ…景時様は、西奈山上にて自害して果てられました。
生年不詳につき、享年不詳。
梶原景時の変と呼ばれるこの戦闘で、梶原一族33人が討死なさっておられます。

玉葉によりますと、景時様が追放となった原因は、頼家様に 弟 実朝様を将軍に据えようと企んでいる者がいるという事を報告した為という事になっております…。
ただ、実際のところ…それは その通りになってしまったと…いう感じで御座いますので…一概に、吾妻鏡の記録を鵜呑みにするのも如何なものかと思わない事も御座いません;

悪役的な存在として物語等で扱われる景時様では御座いますが……それは、どなたの視線から考えた場合の事なので御座いましょう。
義経様を中心に源平合戦と鎌倉方の諸々を見ていけば、確かに景時様には物申したくなる気持ちにさせられるような気も致します。
人に、“善”だとか“悪”だとか…そんな役割を押し付けて考えるのは、とても悲しい事で御座いますね。
ですが、そこから生まれる文化というものも確かに御座います。
善悪無くして、日本の昔話は語れませんよね。

景時様は、和歌の上手としても知られた御方で御座いました。
奥州討伐に従軍された際にも、頼朝様と御歌を交わされておりますし、建久元(1190)年の頼朝様上洛に同行なさった際にも、遠江国橋本宿での宴で 頼朝様と御歌を詠まれております。
景時様にとって、本当に大切だったもの――それは、決して1つでは無かったので御座いましょうけれど、その御心の中には いつも頼朝様の存在が鮮明であったのでは無いでしょうか。

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