
その紅い紅い華は、常世に広がる現世の記憶ようで。
いつか、私も この紅に染まる日が来るとしたら。
…いつになれば、私はこの紅に沈む事が出来るのかしらと縋るような想いさえ、何処か懐かしく感じられて。
有毒が故に、死に花、地獄花 等と称される、忌花――それが持つ毒の事実を知りつつも、鮮やかで美しい花弁の紅に魅入られたからには、ただ只管に近付きたくて、恋しくて…許されたいと願ってしまうので御座います。
一体、何が そうさせてしまうので御座いましょう。

冒頭からホラーちっくな画像で申し訳御座いません…危ない人で御座いますね、私;
先月下旬、昨年同様に埼玉県の巾着田へ曼珠沙華を見に行ってまいりました。
“曼珠沙華群の中に佇む少女”……私のイメージでは、もっと幻想的かつ果敢無げな世界観が広がっていたので御座いますが…いや、これはモデルが悪すぎで御座いますね!存在そのものが恐しゅう御座います!!そもそも“少女”って誰の事……あぁ御免なさい御免なさい…凹。。
昨年は夕暮時に1人で訪れた巾着田で御座いましたが、今年はしんやさんを半ば強引に御誘いして、朝イチで行く事に致しました。
東京を午前3時頃に出発して、しんやさんの運転する車で連れて来ていただいたので御座いますが、私は巾着田に到着するまで爆睡しておりました(最低)…も、申し訳…御座いませ…;
1枚目の写真も、私がしんやさんにカメラを預けてシャッターを切っていただいたものなので御座いますが、あわわ…さぞや恐怖体験だった事で御座いましょう;;
来年こそは、私の想像…いえ、妄想の世界に似合う女の子を見付け出して連行したいもので御座います(笑)

曼珠沙華の開花情報は公式サイト様で ちょくちょく拝見しておりましたが、何と無く予定が空いている日に思いつきで予定を入れてしまいまして。
もしかして見頃を過ぎてしまったかしらと心配だったので御座いますけれど、見事に ほぼ満開で御座いました!
部分的に早咲きのエリアでは既に開花が終了していたりも致しましたが、全体的には殆どが綺麗に咲き誇っており、とても圧巻で御座いました。

明け方の時間帯を狙って向かったのは、仄暗さの中に生きる色を印象強く写したかったからなので御座いますが、同時に そこが無人の空間であるように演出したかったからという理由も御座いました。
この日は休日で御座いましたので、時間が経過するにつれて人の数も多くなっていきました。
静かな雰囲気も素敵で御座いましたが、沢山の方々が綺麗ねと語り合いながら散策されている姿や記念撮影を楽しまれている様子もまた、素晴らしい光景だなと感じました。
公園内では“曼珠沙華まつり”も開催されており、段々と賑やかになっていく会場に色々な御店がテント出店されていて楽しかったです。

去年 曼珠沙華について書いた記事に、万葉集に柿本人麻呂様が詠まれた壱師(恐らく曼珠沙華)の御歌について記しておりましたが、巾着田には この御歌とは別の万葉歌碑が御座いました!
場所は、私達が利用させていただいた駐車場の直ぐ傍。
電車で訪れた去年は気付けませんでしたので、今年は車で連れて行っていただけた事を本当に感謝しております。有難う御座います。
こちらの歌碑は巻第14の高麗錦を詠んだ御歌のもので御座いました。
原文は、“巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎”
高麗錦 紐解きさけて 寝るがへに
あどせろとかも あやにかなしき
“高麗錦の紐を解き放って寝たというのに、その上 どうしたら良いというので御座いましょう…どうしようも無く、可愛く思えてならないのです”
何というか、とても甘酸っぱ〜い御歌で御座います(笑)
一線を越えた事で心も体も満たされたというのに、収まるどころか高ぶる気持ちを素直に詠まれたものなので御座いましょう。
高麗錦の万葉歌碑
所在地 日高市大字高麗本郷十七番地
建立日 平成二年十一月十日
巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓
安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
高麗錦 紐解き放けて 寝るが上に
何と為ろとかも あやに愛しき
(万葉集巻第十四、三四六五)
この歌は万葉集の東歌の一首で
「高麗錦の紐をといて共寝もしたのに、まだ恋しさが増す。この上、一体何をすればよいのか。ふしぎなほどに愛らしいことよ」
という意味である。
どんなに愛しても際限がない愛の歓びと切なさを大らかに歌い上げた秀歌である。
高麗錦とは大陸から伝えられた技術による高級な錦織りのことで、当時この地は、高麗郷と称し、大陸からの渡来者が高度な文明を周辺諸国に伝えていたから、ここで錦が織られたとする学説がある。
日高市はこの当時をしのび、郷土の歴史を誇りをもって後世に伝えるために、万葉学者文学博士・中西進先生の揮毫による歌碑を建立した。
市民文化の向上と郷土愛育成の一助となることを念願するものである。
平成二年十一月 日高市教育委員会

ちなみに…高麗錦を詠まれた御歌は、この御歌の他にも万葉集に あと6首程 御座います。
巾着田には来年も訪れたいと思っておりますし、その際には高麗神社や高麗氏 縁の地へも足を運んでみたいと思います。
歴史深い高麗の郷をもっと知りたいという気持ちが御座いますので、いずれ 他の御歌についても触れてみたいと考えております。
歌碑の隣には、曼珠沙華の俳句を募集する投句箱が設けられておりました。
この周辺を歩いていると、一般的に この御花に植え付けられている忌まわしい印象というものが随分と疎遠のものであるかのように感じさせられます。
私の地元では、“気持ちが悪い”“縁起が悪いから抜いて燃やせ”と言われて…それでも、どうしても護りたかった…私にとっては特別な御花。
それが、この地域では普通に“美しい御花”として愛でられている事実……付近の御家庭では、庭先にも秋桜 等と共に、普通に曼珠沙華が風に揺れておりました。

巾着田で曼珠沙華と同時に満開の時を迎えていたのは、秋桜。
畑の中に綺麗に植えられておりましたが、自由に傍に寄って触れる事が出来ました。
春の桜は中々手が届かなくて見上げてばかりで御座いますが、秋の桜は私の背丈と同じ位。
「綺麗に咲きましたね」
そんな風に、つい話し掛けて花弁に手を添えてしまうのは、色とりどりの御花が楽しそうに体を揺らして誘っているように感じるから…なのかもしれません。
自分で思っている以上に、私は乙女ちっくな思考の持主なので御座いましょうか。




こちらは、今年の夏 長崎市神の島岬で出逢った聖母 マリア様の御像。
青空を背負い、海に向かう その力強い存在感と何事をも包み込んで下さりそうな御優しい表情と広げられた御手が印象的で、今も はっきりと脳裏に焼き付いております。

神の島教会から臨んだ景色の中で、一際 気になった この岬…。
こちらを向いていらっしゃらないけれど、大きなマリア様の後姿は遠目からでも確認する事が出来ました。
岬というよりも、元は小さな御島だったものなのでは無いかなと思うので御座いますが……。
私が その御島へ行ってみたいと思ったのは、その入口と中腹に鳥居が見えたからで御座いました。
まるで、マリア様へと続く御参道が設けられているようにも見えましたので、一体どのような信仰の場となっているのかしらと思いまして。

神の島教会の麓から海岸沿いに道路を辿り、海の上に設けられたコンクリートの上を歩いて岬の先端を目指します。
近くまで寄って初めて気が付いたのが、この小島を形成し支えているのが巨大な岩だという事で御座いました。
この巨岩は、その形状から“ドンク岩”と呼ばれているようで御座います。
ドンクとは、ポルトガル語で“蛙”を意味しているという事で御座いますので、“蛙岩”という事になりますね。
海と蛙…何だか連想し辛い気も致しますが(笑)、長崎には他にも幾つかのドンク岩が存在しているのだそうで御座います。
手前の鳥居を潜ると、岩場の上へと続く階段が整備されております。
好奇心、期待、そして少しの不安を感じながら登って行くと、岩上の鳥居の向こう側に安置された 小さな祠と数体の石像が目に入ってまいりました。

□ 恵比寿神社(えびすじんじゃ) □
所在地:長崎県長崎市神の島町
御祭神:恵比寿神
御創祀:不詳
こちらに御祀りされていたのは、恵比寿様だったので御座いますね。
恵比寿様は海の神様としても信仰されておりますので、成程 納得で御座います〜。
祠の中や直ぐ御傍に、様々な恵比寿様の御像が御祀りされている事にも、微笑ましさを感じられます。
海の神様であると同時に航海安全の神様であり、また商売繁盛の神様でも御座いますので、地元の方々によって大切に護られているので御座いましょう。
少し横の辺りにも、小さな祠が御座いました。
この時は、別の神様が御祀りされているのかもしれないな…と思いつつ拝ませていただいたので御座いますが、もしかすると こちらも恵比寿様の祠だったのかもしれませんね。

↑画像の左側の写真は、神の島教会から見た岬先端の様子。
右側の写真は、岬から見上げた神の島教会で御座います。
徒歩5分程度の距離で、この景色の違い…アップダウンの激しい地形だからこそ得られるもので御座いますね。
近い対岸、浮かぶ小島、海沿いの工場地帯、鳥居、マリア様、教会、山の麓に軒を連ねる民家。
これも、長崎独特の風景なのかもしれないなと思いました。

そして、マリア様。
手前からでは後ろを向いた立ち姿しか拝めませんでしたので、許されるのならば御顔を拝見したいと思いまして…。
マリア様がいらっしゃるのは岩場の先端で御座いましたので、果たして正面まで行く事は可能なのだろうかと思いながら、近寄らせていただきました。
マリア様の直ぐ背後まで進むと、想像以上に広範囲で足場がしっかりと整えられておりました。
基盤部分の背には“感謝のことば”が刻まれており、これによって このマリア様の御由来を知る事が出来ました。
感謝のことば
昭和二十四年聖フランシスコ、ザビエル渡来四百周年を記念し、世界平和と航海安全を祈ってこの地に建てられたマリア像は、永年の風雨に傷み、再建のやむなきに至りました。
幸い多くの方々、とくに昭徳昭生両水産会社の御支援により、国際文化都市長崎の港口を守る大マリア像を建てることができました。
ここに制作者ファロニー師と、御協力下さいました方々に深甚の謝意を表し、神のおん母聖マリアの特別なる御守護を祈念いたします。
一九八四年六月十九日(マリア像着座の日) 神ノ島教会信徒一同
記
一、祝別者 長崎大司教 里脇枢機卿
一、制作者 ファロニー師(サレジオ会 イタリア人)
一、マリア像の高さ 四米六十糎
この場所にマリア像が建立されたのは、昭和24年の事。
フランシスコザビエル様が渡来されて400年の記念の年に、世界平和と航海安全を祈願して建てられたのが始まりのようで御座います。
然し、立地条件等の所為もあって風化が進んでしまった為、維持が困難となってしまったようで…昭和59年に2代目のマリア様が、新たに建立される事となりました。
4メートル60センチのマリア様は“岬の聖母”と呼ばれ、土地の方々の崇敬を受けておられるようで御座います。
マリア様の近くには“聖フランシスコザベリオ 渡来四百年記念”と刻まれた昭和24年の石板も見る事が出来ました。
かつてのマリア様と御姿は変わってしまわれましたが、そこに託された想いや願いは変わらないのだという事が伝わって来るようで御座います。
マリア様の正面に立つと、その御足元にはマリア様を歌った御歌の歌詞らしき言葉が記されておりました。
一、天のきさき天の門
海の星とかがやきます
(アヴェアヴェアヴェマリア)
ニ、病める人に慰めを
恵みたまえ愛のみ母
三、行く手示すあけの星
導きませみ母マリア
四、神のみ母わが望み
今もいつも守り給え
マリア様への感謝と願いがこめられた この歌詞を読んでいると、広げられた両手に向かって、まるで幼い子供のような心持ちで手を伸ばしたくなるような気持ちになりまして…そんな自分を少し不思議に感じました。

こちらを訪れた頃は、丁度 夕暮れ時で御座いました。
天上から東の空にかけて真っ青な水色が鮮やかで御座いましたのに、西の水平線間近には傾く日輪の朱が海と空を染めつつあって…。
空の青に映える純白のマリア様の頬が、ほんのり優しい暖色を帯びられている事にも、言葉にならぬ想いを募らされて……ただ只管に、綺麗だと思いました。




長崎県長崎市――“神の島”…長崎市内から車で30〜40分、本土と陸続きになっている長崎港西岸の先端は、そう呼ばれる地域で御座いました。
神の島……神様の、御島?
輝かしいばかりの この地名をカーナビの文字で見た時、長崎で神様といえばキリスト様という意味かしら??キリスト様に御縁の御島が日本に???と、頭の中に疑問符が飛び交った事を記憶しております。
そういえば、民放の某歴史番組でキリスト様の御墓が日本国内に…という話題を取り上げていた事もあったような……。
気になって調べてみましたら、なんと!
神代の頃、この御島に神功皇后様が降り立たれたという伝説があるようで、それが“神の島”と呼ばれるようになった御由来なのだそうで御座います…!!
うわぁ〜…私はてっきり近代以後に付けられた地名なのだろうと思い込んでおりましたので、本当に驚いてしまいました。
神代に神様が選ばれた御島に、こうして足を踏み入れる事が出来てしまうなんて…何だか畏れ多い気も致しますね。
ちなみに、現在は陸続きの御島になっておりますが、これは昭和に至っての埋め立てによるもので、元々は本土とは別の離島だったそうで御座います。
そんな神の島 海岸線沿いから望む丘の上に御座いましたのが、神の島教会と呼ばれる小さな教会。
空色のキャンパスに浮き出されたような、白亜の教会。
石段の下から見上げる光景は、浄土への道筋のようにも感じました。
教会を見て、浄土を連想してしまう辺りが、少々間抜けなところだと思いますが…根本的な気持ちを辿ってみれば、それ程 違和感を覚える事も無いのではという気が致しております。

□ 神の島教会(かみのしまきょうかい) □
所在地:長崎県長崎市神の島町
御創建:明治9(1876)年
教 派:カトリック
神の島教会は、長崎でも特に古い教会のひとつ。
未だ離島であった頃から、この神の島にはキリスト教信徒の方々が集われていたようで御座います。
キリスト教が弾圧されていた時代には多くの信徒が殉教されており、この近辺の海に沢山の遺体が投げ込まれたのだそうで…。
そんな、辛く苦しい日々を乗り越えて、今の美しい景勝地が存在しているので御座いますね。
明治9(1876)年、木造の教会が建てられました。
海に近い為に劣化が酷かった事から、明治30(1897)年にフランス人宣教師のデュラン神父によって現在の教会が建設されます。
平屋建の煉瓦造である この教会は、とても珍しい建築様式なのだそうで御座います。
かつては漆喰塗りであったようで御座いますが、幾度と無く修繕を施されて来られたようで、現在は石灰とセメントで覆われております。

登って来た石段から教会の正面入口前を通り抜けると、直ぐに聳え立つ崖に突き当たります。
そちらにも石段が設けられており、少し上の方まで登る事が出来ました。
目の前に広がる海と夕暮時の空、その合間を伸び伸びと漂う雲の色あいが、とても素晴らしかったです。
石段の中腹には、マリア様の御像が御座いました。
淡い彩色が施されたマリア様の優しくも、どこか寂し気が表情や、御供えされた黄色い薔薇の鮮やかさが印象的で御座いました。

神の島近くの沖合いには、小さな御島が見えました。
何となく、熊野 那智勝浦町にある弁天島のような…とても神聖な感じが致しましたので、きっと あの島には何方かの神様が御祀りされていて、神社が建立されていたりするのだわ!と思い込みつつ、どうやったら渡れるのかしらと考えてしまったのですけれど、うーん…歩くには少し距離がありそうな気も致しましたので、引潮時でも難しいのかもしれませんね……御船で渡るので御座いましょうか。
神の島を訪れた時分は全くの無知で御座いましたので、もしかすると あの沖に浮かぶ小島が“神の島”なのかもしれない、そんなイメージ!!と…随分勝手な解釈を抱いたりもしてしまったので御座いますが;
後日、東京に戻って調べてみましたところ、あの御島は“高鉾島”と呼ばれているという事が判りました。
こちらは、神の島に降臨された神功皇后様が渡られて鉾を立てられた事から名付けられたといわれているそうで御座います。
成程、神々しい訳で御座いますね。
クリスチャン色の強い現代の長崎で日本神代の伝説に触れられるというのは、何とも不思議な気がするもので御座います〜。
この高鉾島は、キリシタン弾圧が行われた当時、信徒方から聖なる御島と崇められる対象であったようで御座います。
神の島では、多くの信徒の方々が、殉教という御最期を遂げられる事となりました。
キリシタンである事がばれて捕らえられ、奉行所で激しい拷問を受けた末に処刑された方々の数は、数え切れぬ程であったといいます。
毎日失われていく魂の抜け殻を、無情にも積み重ねて火にかけるという残虐な処分方法…更に その遺灰が捨てられた場所が、この高鉾島辺りであったといわれております。
教会には、高鉾島殉教者の顕彰碑が建立されておりました。
これは、弾圧下に宣教師 ナバレット神父を匿ったガスパル上田彦次郎様とエルナンド神父の宿主を匿って処刑され高鉾島の海に沈められたアンドレア吉田様を顕彰して建てられたもので御座います。
厳しい禁教の時代の中でも命をかけて信念を貫かれ散っていかれた多くの御霊が、自由な信仰が許される現代のような時間を待ち焦がれていたので御座いますね。
どれだけ、今という瞬間が大切なものであるか……痛感する想いで御座います。
現在も、神の島には大勢の信徒の方々が御住まいになられているそうで御座います。
カトリック系の保育園や修道院等もあるそうで、これから先も この地に根付いた信仰が継承されていくのだろうなぁと思うと、何だか無性に眩しく感じられました。

角島に引き続き、今回こちらを訪れる事となった きっかけを下さったのも真也さんで御座いました。
この教会は、さだまさしさんの“解夏”がドラマ化された際に、ロケ地として使用されていたそうで、菅野美穂さんが御好きな真也さん(笑)の御希望で、神の島を目指す事となりました。
純白の美しい教会、眼下に広がる長崎の海…悲しい記憶。
幼少期をキリスト教の幼稚園で過ごされた真也さんには大変申し訳無いのですが、教会という場所に全く免疫の無い私は、つい さり気無くも思いっ切り異国さんの文化や宗教観を避けて通ろうとしてしまっている所が御座います;
申し訳御座いません&貴重な機会を有難う御座います。
私の心は常に神道寄りで御座いますし、平安以前より この国の文化と一体化してきた仏教にも帰依したい想いは御座います。
ただ、近代に至って伝来されたキリスト教には接点が無かった分、どう捉えたら良いのか考えも及ばず。。
少し前にキリスト教信徒の方々に呼び止められ、洗礼を受けないと不幸になりますと迫られた事が御座いましたが(全てのキリスト教信者の方々がそうでは無いと分かってはおりますが、あの時は本当に怖かったのです…/苦笑)、その際に神道を全否定されてしまった事が衝撃的で…何気に軽いトラウマになっているので御座います。
信仰の自由は人間に与えられた権利だと思いますが、何かを崇めるが余りに他の存在を否定する考えというのは、理解し難いもので御座います。
かといって、否定するものを否定するばかりでは、いつまで経っても理解すら出来ぬまま、御互いを認め合い尊重する事が出来ません。
自然崇拝から始まり、八百万の神々、御仏を畏れ信仰してきた日本の民にとって、絶対唯一の神様のみを尊崇する宗教観というのは、どのように受け入れられるものだったのだろうかと……。
島原の史跡等もいつか巡りたいと思っておりますので(勿論、源平期の史跡、伝承地が優先で御座いますので、先ずは安徳天皇伝承地から巡りたいのですが、出来れば天草四郎様や島原の乱についても学びたいと思っております)、今の内に少し考えておいても良いのかもしれません。



こちらは山口県下関市豊北町角島に御座います、角島小学校。
角島唯一の小学校で御座います。
ひとつ前の記事で、長門国 角島が奈良時代から わかめの産地として知られ、都とも深く関わっていた事に触れました。
古くから知られる角島の名は、“都濃嶋”とも表記されていたようで御座います。
平城京跡から発見された木簡には“長門国豊浦郡都濃嶋出稚海藻 天平十八年三月廿九日”と記されており、また この記述から 角島の わかめが税として朝廷に毎年納められていた事が分かっております。
現在も、角島ではわかめが海産物として有名なのだそうで、沢山のわかめがとられているという事で御座いました。
そんな 歴史深い角島と、角島の わかめを詠まれた御歌が、万葉集にも1首御座います。
↓角島に渡った時、公園入口に案内地図が設置されており、そこに万葉歌碑の存在と場所が紹介されておりました。

この案内板を見るまで、角島が歌枕であった事に全く気付いてもいなかった私で御座いますが、見つけてしまったからには行くしか御座いませんよねっ!!…という事で、行って参りました。
思いっきり“角島小グラウンド東に建っています”と書いてありますが、愚かにも私はこの記述を見落としてしまっておりまして……地図的に、多分 小学校の直ぐ近くの筈だという事で、小学校を目指しました。

海岸沿いの道から続く短い坂を登ると入口があり、校舎に向かって右手前の校庭隅に万葉歌碑が案内板と共に建立されておりました。
一応、どなたかに御声を掛けたほうが良いかしらと思ったので御座いますが、夏休みという事もあって校内には人気も御座いませんでしたので、ささっと歌碑だけ拝見させていただいて立ち去る事に致しました。

ようやっと見付けた歌碑は、とても御立派なもので、
“角島の 瀬戸門のわかめは 人のむた 荒かりしかと わがむたは にぎめ”と力強い筆跡で刻まれておりました。
角島の 迫門の若布は 人のむた
荒かりしかと わがむたは和布
万葉集巻第16に収録されるこの御歌は、防人の御歌。
巻第16は主に伝説歌や滑稽歌 等を集めた由縁ある雑歌として纏められているようで御座います。
原文は“角嶋之迫門乃稚海藻者人之共荒有乃可杼吾共者和海藻”
“角島の乙女は、他人と一緒では荒かったものですが、私と一緒にいる時は和らいだ様子になるのです。
あの海峡の若布のように……”
綺麗な海に浮かぶ小さな離島に生きる女性を、名産の若布に喩えて詠まれた御歌。
己の前でのみ、心を開いて打ち解けてくれた…そんな女性の柔らかい微笑が目に浮かぶようで御座います。
平城・平安京時代の角島
角島の迫門の若布は人のむた
荒かりしかと わがむたは 和布
万葉集巻十六 読人知らず
角島の瀬戸のわかめは、他人には荒々しくて なびかなかったが、私には優しく素直であった。
角島の純情な乙女を、九州西岸の防備に当たるため中央の軍団から派遣された防人がわかめになぞらえて詠んだものである。
角島は古来良質のわかめの産地であったことは、奈良平城京跡から出土した
「長門国豊浦郡都濃嶋所出□海藻天平十八年三月二十九日」と書かれた木簡によっても分かる。
朝廷に献上されたわかめは、天皇の食膳に供されたもので、戸(村)の責任において献上された。
選ばれた角島の若者が、国司に引率されて都に運んだ。
往復一ヶ月、下りは上りの二分の一を要した。
干しわかめとともに生のわかめも運ばれ、鮮度を落とさぬための工夫がなされた。
木簡の文字は、優れた筆跡であり、角島の文化を物語るものである。
これはまた、既に中央の文化が角島に吸収されていたことの実証であり、これが永く平城京・平安時代に続く。

誰も居ない校庭に佇む遊具達も、今は暫しの夏休み…。
小さな頃、よく遊びに行っていた瀬戸内の離島にあった小学校も、夏休みはこういう感じだったなぁと、何だか懐かしく感じました。
先日、選挙の為に東京都内の小学校の校庭に入らせていただきましたが、土色では無いグラウンドには矢張り不自然なものを感じさせられてしまいます。
都会とはいえ、感受性豊かな年頃には、もっと大地との対話をさせてあげられる環境が好ましいのでは無いかなぁと…田舎者としては思ってしまいますね。




例年、私の夏の帰省旅行は御盆よりも少し早い時期に始まります。
今年も8月4日の夜に東京を発って、5日の早朝に広島入りを致しました。
6日の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に参列し、実家に帰って母や祖父母と過ごしたのも束の間、翌日の朝には長崎に向けて旅立ち…我ながら、忙しないなぁと思います;
今年は、東京から しんやさんが御同行下さっておりましたので、道中色々な所へ立ち寄りながら楽しく旅する事が出来ました。
私ひとりだと、黙々と史跡、伝承地巡りに励んでしまって休む間等 自分には決して与えないので御座いますが(←だから誰も付いて来て下さらなくなるのでは…;)、しんやさんは程好く私の目指す場所に御付き合い下さりつつも、御自分が行きたい場所は逸早くピックアップされて予定に組み込まれておりましたので、上手だなぁと……い、いえいえ、とても素晴らしい事で御座います!(笑)
是非、その勢いで今後も じゃんじゃん御付き合い下さいましたら幸いで御座います〜♪
…という訳で、本日は しんやさんチョイスの素敵スポット☆角島での事を少し記してみようかなぁと思います。
山口県の映画ロケ地巡りマップ等で良く紹介されておりましたので、どんなハイカラな場所なのかと思いきや、実に歴史深い御島で御座いまして。
なんと、万葉集にも詠われていたようで、それを知った途端 一気にテンションが上がった御調子者な私で御座いました///;

本土と角島とを繋ぐ角島大橋は、とても有名な景勝地となっているようで御座いますね〜。
余り橋に詳しくない私は、最初に
「ここへ行ってみたいのだけど…」
と しんやさんに写真を見せられた時、密かに これは沖縄の古宇利大橋では?と思ってしまいました;
実際に訪れていると、古宇利大橋とは全く印象の違う大橋で御座いましたが、吃驚する程 綺麗な海の上にすらっと伸びる橋、という点では矢張り似ているかなとも思います。
通行料金が必要無い離島への架橋では、国内第2位の長さなのだそうで御座います。

私も しんやさんも写真を撮る事が大好きで御座いますので、ちょこちょこと移動をしながら高さや角度を変えてみたりして、じっくりと撮影する事が出来て楽しかったです。
私はどちらかというと風景写真よりも人物を撮りたい人なので、ちゃっかり しんやさんをモデルに使ってしまったり(←私と旅する方の宿命)……いつも強引で申し訳御座いません。。
照れつつも爽やかに応じて下さる御優しい しんやさんは、とても可愛らしいと思います(笑)
ちなみに…しんやさんが橋を歩いている写真が御座いますが、これは周囲を確認した上で 手前部分を一瞬だけ ささっと歩いて戻っただけのもので御座います。
角島大橋は思ったより車の通行量が多く、時速40キロ制限になっておりますが それ以上にかっ飛ばしていらっしゃる車も多々見掛けられました;
基本的に自動車専用道路で御座いますので、徒歩での渡島は出来ません。

気が済むまで角島大橋と角島を外側から撮影した後は、次なる好奇心に従い、橋を渡ってみる事に!
こういう見晴らしの良い橋を車で走るのって、とても楽しそうで御座いますよね〜。
運転はしんやさんが担当して下さいましたので、私は窓を開けて のんびりと流れる景色に見惚れておりました。

ゆっくり走っていただきましたが、余り距離が離れている訳でも御座いませんので、角島へは あっという間に到着してしまいました。
渡り終えると、島側にも展望台のある公園が整備されておりました。
駐車場前には、山口県知事 二井関成氏の御筆で“しま心”と刻まれた石碑が御座いまして…私は無礼にもこれを“くま心”と読んでしまい、
「いや、“しま心”でしょ」
と、しんやさんに速攻突っ込まれました…申し訳御座いません。。
展望台には“平城宮着海藻上進之地碑”も建立されておりました。
これは、奈良時代に角島のわかめが毎年 都に運ばれ朝廷に献上されていた事が発掘調査により明らかとなった事を記念して建てられたものだそうで御座います。
奈良時代から平安時代にかけて、時の帝の食事に この角島のわかめが選ばれ続けていたというのは凄い事で御座いますね…!
以下、碑文の引用で御座います。
平城宮着海藻上進之地碑
一九六三年秋、奈良市平城宮跡の天皇の住居の内裏の東北方の発掘で、一辺四メートル深さ二・三メートルの土壌からたくさんの土器などと共に、一八四三点の木簡を検出した。
その中の一つに長門国角島から都に送られた「わかめ」につけた木札(縦二七三ミリ、横三六ミリ、厚さ七ミリ)の送状が含まれていた。
それには天平十八年(七四六)三月二十九日と日付が書かれている。
これはその当時豊浦郡の郡家(都の役所)にいた人がそれぞれの荷札を書いたもので、いまから千二百年以上も前に聖武天皇以下宮廷の人たちが角島の海上ヶ瀬戸のわかめがおいしいことを知っていて毎年島に住む人々から税金として差し出させていたことがわかる。
一九九四年 元奈良国立文化財研究所長 坪井清足

海水浴場があるという事で、ちらっと覗いてみたいな〜…と行ってみましたら。
うわー……有料なのですね…;
瀬戸内には至る所に いつでも泳げるような場所が御座いますし、友達等と泳ぐ際には宮島や無人島等へ行きましたので、有料の海水浴場という所へは行った事が無くて、えぇッ!??という感じで御座いました。
綺麗な海で御座いますので、整備には費用が掛かってしまうのかもしれませんね。
水着は持って来ておりませんでしたし、元々 泳ぐつもりも御座いませんでしたので、別に何の問題も無いのですけれど、柵の向こう側で泳がれている方々の数にもビックリで……。
地元の海でも、沖縄の海でも、大抵プライベートビーチ状態?という感じの場所で泳いでおりましたので、何といいますか…単純に凄いなぁと思いました(笑)

↑しんやさんが、はしゃいでおられますねー…実に微笑ましい光景で御座います(笑)
泳ごうとは思いませんでしたが、余りにも綺麗な海で御座いましたので、少しだけ砂浜を歩いてみたいなと思い、道脇の浜へ降りてみる事に致しました。

歌枕でもあった角島内には万葉歌碑が建立されておりましたので、そちらへも訪れさせていただきました。
次の記事では、万葉集に詠われた角島の御歌と万葉歌碑の事を記したいと思っております。




