日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

2009.06.23 平和の丘。
090623 沖縄戦終結から64年。

6月23日の沖縄は、“慰霊の日”――沖縄戦終結から64年の歳月が流れた今年も、摩文仁の丘では沖縄全戦没者追悼式が執り行われました。

本年も、私は心友 イカと共に、6月21日から2泊3日の行程で沖縄を訪れ、沖縄の文化や戦跡に触れながら、この慰霊の日を現地で迎え過ごしてまいりました。
例年に比べ、2週間程 梅雨入りの遅かった今年は、沖縄も未だ梅雨の最中…。
滞在中ずっと雨天だったらどうしよう;と事前に案じておりましたが、晴れ女な私達には要らぬ心配だったようで(笑)、奇跡的に快晴続きの3日間で御座いました。

090623 糸満 ひめゆりの塔01

23日、午前8時。
色々と微妙な事情が御座いまして(ここでは余計な事は書くまいと思います…凹)、かなり早朝に那覇市内の宿泊施設を出た私達は、海辺や近隣市内の戦跡を経由しつつ、糸満市内に至りました。
最初は真直ぐに摩文仁の平和祈念公園を目指そうかと思っていたのですけれど、ふと南部を訪れるのが初めての心友をひめゆりの塔へ連れて行きたいな…と思いまして。
時間的にも余裕が御座いましたので、急遽 そちらへ向かう事に致しました。

090623 糸満 ひめゆりの塔02

凄まじい沖縄地上戦が事実上終結したとされるこの日は、沖縄にある各地の慰霊碑や供養塔において慰霊祭が行われております。
沖縄県が主催となって行っている祈念式典だけが、6月23日の祈りの場では無いので御座います。
この ひめゆりの塔も、そんな祈りの場のひとつ。
こちらでは、慰霊祭の関連行事として鎮魂歌の奉納が行われたようで御座います。

隣接するひめゆり平和祈念資料館が、今年 開館20周年の節目を迎えられているのだそうで御座います。
慰霊の日は、入館が無料。
朝早くから、沢山の方々が一緒に64年前に起こった悲しい現実を学んでおられました。
中には、遊び半分、観光気分で入られている若い学生さん方もいらっしゃいまして…余りのふざけように、思わず“何が可笑しいの?”と声を発してしまいそうになりました。
いつか彼等が、この日の事を思い返して何か思う事があれば……と切に願うばかりで御座います。

私が心友をここへ連れて来たいと思った理由は、私達が中高生時代をセーラー服で共に過ごしたように、ひめゆり学徒隊として出陣された方々もまた 戦争が激しくなるまではセーラー服を着て青春を謳歌されていたのだという事を知って欲しかったから、で御座いました。
たった64年前の出来事…私達が着ていたようにセーラー服を着て、女学校に通って。
では、数年前の私達と 64年前の彼女達との違いとは……?
皇民化教育を受けて、国、天皇陛下の為に命を捧げる事が美徳とされる中、学徒であるにも関わらず危険な戦場に動員された64年前の女学生。
結果的に多くの命が失われ、また生き残っても一生消えない深い傷を負われ、今も尚 苦しみの中で生き続けられている方々がいらっしゃいます。
一方、平和教育のもとに自由な夢を抱き、己の望む人生を選んで歩んでいる私達。
心友がどのような感想を持ったかは追求する由も御座いませんが、ヒロシマに生まれ育った者同士、共通して抱く想いや願いはあるのでは無いかなと思っております。

090623 糸満 摩文仁01

ひめゆりの塔を出た後は、予定通りに摩文仁の丘 平和祈念公園を目指しました。
今回、私達は車移動で御座いましたが、ひめゆり資料館を出るのが少し遅くなってしまった為、平和公園や その周辺施設の駐車場が満車となってしまいまして…1時間以上、渋滞に並んでいたので御座いますが、結局 駐車場には入れずに流されてしまいましたので、再び ひめゆりの塔の近くまで戻って車を置き、そこから路線バスを利用して摩文仁へと向かいました。

平和公園に到着したのは、式典開始の数十分前。
手荷物と身体検査を受けて、式典会場へと入ります。
時間的には丁度良かったのか、一般参列者席の前の方に座る事が出来ました。

後日 諸新聞等で得た情報によりますと、この日の参列者数は、約3000〜4500人。
沖縄戦にて命を落とされた20万余の全犠牲者に対して、祈りと誓いを捧げました。

090623 糸満 摩文仁02

式典の開始時刻は、午前11時50分。
今年は麻生総理大臣も参列なさるという事で、会場の反応はどのような感じになるのだろうかと思っておりましたが、盛大な拍手で迎えられての御入場で御座いました。

090623 糸満 摩文仁03

そして、開式。
炎天下の中、テントの下とはいえ、人口密度の高さもあって息苦しい程の熱気を感じつつ、マイクを通して響く声に耳を傾けておりました。

   式辞

 本日ここに、内閣総理大臣をはじめ御来賓多数の御臨席と、県内外からの御遺族並びに県民多数の御参列を賜り、「平成21年沖縄全戦没者追悼式」を執り行うにあたり、先の大戦で犠牲となられたすべてのみ霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
 我が国唯一の地上戦が行われ、多くの県民の犠牲と破壊の限りを尽くした沖縄戦が終結してから、早64年の歳月が流れました。
 ご家族や肉親の行く末を案じつつ亡くなられた20万人余のみ霊の無念さ、今もなお癒されることのない御遺族の御心情を拝察するとき、私たちは、悲惨な沖縄戦の実相を風化させることなく、戦争がもたらした教訓と平和の尊さを広く世界に訴えていく決意を新たにするものであります。
 国際社会では、今なお地域紛争や民族紛争、テロなどが頻発し、それによって尊い生命が奪われたり、飢餓や病気で苦しんでいる人々が絶えないばかりか、人類絶滅の危機に直結する大量破壊兵器の脅威に常にさらされていることに、危惧の念を抱かずにはいられません。
 アインシュタインは、人類史上初の原爆投下を嘆き、「私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか」と述べ、国際社会の安定は戦争で解決できるものではなく、平和的手段を見い出すあらゆる努力を惜しんではならないと訴えました。
 私たちは、この沖縄において、筆舌につくしがたい戦禍が繰り広げられ、幾多の尊い犠牲があったことを子々孫々に正しく語り継ぐとともに、21世紀の世界恒久平和の実現に向け、全力を尽くすことをここにお誓い申し上げます。
 終わりに、すべてのみ霊の安らかな御冥福と御遺族並びに御列席の皆様の御健勝、御多幸を心から祈念申し上げまして、式辞といたします。
   平成21年6月23日 沖縄県議会議長 高 嶺 善 伸



090623 糸満 摩文仁04

開式の後は、正午の時報に合わせて全員で1分間の黙祷。
続いて、沖縄県遺族連合会からの追悼の言葉が捧げられ、献花、仲井真弘多知事による平和宣言が行われました。

   平成21年沖縄全戦没者追悼式 平和宣言

 私たちの愛する郷土沖縄は、先の大戦で史上まれに見る苛烈を極めた地上戦の場となり、20万人余りの尊い命とともに貴重な文化遺産や美しい自然が失われました。
今日でも最愛の家族や友人を失った深い悲しみは多くの人々の心にいえることのない傷を残し、私たちはこの悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さ、平和の大切さという教訓を学んだのです。

 戦後、私たちは、焼け野原から立ち上がり、たゆまぬ努力とゆるぎない信念を持って、県民が安心して生活できる経済基盤を作り、誇り高く生きるための文化的活力を取り戻すため、懸命に復興に取り組んできました。

 しかし、戦後64年を経たにもかかわらず、依然として沖縄には、広大な米軍基地が集中し、そこから派生する事件・事故が後を絶たないばかりか、今でも地中に残る不発弾に県民は、危険にさらされ、不安を感じているのであります。
 県民の目に見える形での負担を軽減するため、日米両政府に対し、基地の整備縮小や日米地位協定の見直しなど、今後とも粘り強く訴えるとともに、不発弾の早期処理についても政府と連携しながら、取り組んでまいります。

 一方、世界においては、民族的・宗教的な対立や紛争、貧困、環境問題など、平和を脅かす様々な要因によって、私たちが希う平和とは程遠い状況にあります。
 また世界経済は、これまでにない深刻な事態に直面しております。

 このような厳しい現実に正面から向き合い、独自の歴史や文化によって培われた寛容の心を持って、世界すべての人々の共通の願いである恒久平和の実現に向けた取り組みの一層の強化が求められています。
過去の教訓を生かし、平和な未来を築いていくことが、私たち県民に課せられた大きな責務であり、使命であります。

 慰霊の日に当たり、戦争で尊い命を失い、私たちを見守ってくださる全ての戦没者の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。
私たちは、沖縄戦の実相と教訓を胸に刻み、平和を希求してやまない「沖縄のこころ」を礎に、世界の恒久平和の確立を目指し、県民の英知と強い思いを結集し、ここ沖縄の地で全力で邁進することを宣言します。
   平成21年6月23日 沖縄県知事 仲 井 眞 弘 多



090623 糸満 摩文仁05

続いて、平和の詩。
地元の小学生の男の子による詩の朗読で御座いました。

   平和のいのり

石に刻まれた家族の名に
涙を落とす祖母
なんの形見も残っていない石に
声にならない声で
石をさすり
石をだきしめる
小さな声でとても小さな声で
「本当は話したくないサー」
少し首をかしげて
空を見上げる
人さし指の大きさの大きな傷
あごと左腕に残る
戦争の傷あと

祖母は傷の手当てをするために
水くみに行った
防空ごうに姉を残し 母と二人で
そのあとすごい光と音が…
そのまま姉はもどらなかった
「いっしょに連れて行けばよかった」
「ごめんね ごめんね」
と何度も何度も
きたときよりも
石を強くさすり
石を強くだきしめる
ぼくはもう声を上げて泣いていた
そして祖母の背中をずっとさすった

こんな青い空に
こんなおだやかな沖縄に
戦争は似合わない
祖母のくしゃくしゃな涙も
似合わない

そんな祖母はもう今は歩くことが
できない
毎日毎日空を見て
きっと
生きている喜び
生き残った悲しみを感じて
いるのだろう
ぼくは車イスをおして
祖母のいのりを引きつぐ
戦争のない平和な国を

   南城市立大里北小学校 六年 比 屋 根 憲 太



麻生総理の御挨拶では、戦没者の御霊に対し哀悼の誠を捧げる次第である事と戦後沖縄の困難と発展を振り返って今後の沖縄振興の在り方を検討していくという事、そして1月に糸満市で起こった不発弾事故を受けて、更なる不発弾対策を推進していくという事を仰っておられました。
また、沖縄県民の大きな負担となっている米軍施設の集中にも触れ、負担軽減に向けて取り組んでいく姿勢も伝えられました。
括りに、“今日の日本の平和と繁栄が、戦没者の尊い犠牲の上に築かれているという事を私は忘れた事はありません。決して再び戦争の惨禍を繰り返してはなりません。沖縄、日本、ひいては世界の発展の為、平和の構築に全力を尽くしてまいります”と語られた事が、印象的で御座いました。

各代表者の方々による御言葉や、県知事による平和宣言には、思わず首を傾げたくなるような瞬間も多々御座いました。
余り私の個人的な感想を語るつもりは御座いませんが、世界に向かって発信し続けている沖縄の存在は、決して小さなものでは無いと思っております。
日本本土から離れているが故に、同じ国内でも伝えられるべき情報が正しく伝えられていなかったり、届かなかったり。
これはヒロシマ、ナガサキにも共通して思う事では御座いますが、あくまでもローカルな話題としか取り上げられないという時点で、まだまだ足りないものは多いように感じられてなりません。
沖縄は外人さんも多く在住されておりますし、日本人から見ても国内旅行ではダントツに人気の県…未だ未だ、色々な方向に広げられる可能性は無限大と信じたい気持ちで御座います。

090623 糸満 摩文仁06

ひとつだけ…気になったのは、沖縄なのに外人さんの参列者数が圧倒的に少ない事。
広島の平和祈念式典では、多くの外国人参列者の方々を拝見致しておりますので、そういえば少ないよね…と、2人で疑問を感じておりました。
この式典は、沖縄戦で亡くなられた“全ての御霊”の追悼式…つまり、日本人戦死者だけでは無い筈なのですけれど……。
沖縄が日本に返還されて、37年。
こういった点からも、沖縄の現状を感じ取るべきなのかもしれないと改めて考えさせられました。

fc2ブログランキングにほんブログ村 歴史ブログへ

源平勇士を祀る塚。
源平勇士、知章様、通盛様 碑01

兵庫県神戸市長田区。
福原京に、一の谷合戦――…神戸は、平家盛衰の歴史が色濃く残る地で御座います。
平家全盛の時代が過ぎ去り、源平合戦期も終盤に差し掛かる頃には、亡き平清盛様の描かれた理想京の面影は寂しく消え去っていたのかもしれません…。

一の谷の合戦は、源平合戦において数多く 平家の公達方が命を失われる事となった激戦。
そして、源氏方では源義経様が鵯越の奇襲作戦によって一躍御名を馳せられたきっかけとなる戦でも御座いました。
この一戦の件は様々な芸能作品等で諸場面が主題として取り上げられており、作品によって源平それぞれの目線から描かれているのが印象的で御座います。


私が一方的に特別な想いを抱いている敦盛様、知章様も一の谷合戦の戦死者で御座いました。
敦盛様縁の史跡や伝承地、供養塔等については、これまでも ちょくちょく記事にしておりましたが、知章様関連については中々触れられずにおりました…。
そういえば人物紹介記事を書いた時も、自己紹介の中に御名前を挙げておきながら、知章様については最後まで更新を留めておりましたね;
知章様には憧れる想いが強い分、何だか色々と考え過ぎてしまって……この場所を訪れるのにも、随分と時間が掛かったのを覚えております。
しかも、訪れた後 こうして記事にするまでに更に年月が経過してしまっておりますし;;
苦しいからと言って、求めるものから逃げてばかりでは いけませんよね…。

源平勇士、知章様、通盛様 碑02

神戸高速鉄道東西線の高速長田駅から、県道21号線を新湊川に向かって歩いて行きますと、川を渡る橋の手前…神戸村野工業高校グラウンドの直ぐ傍に、源平勇士の碑と呼ばれる墓地が整備されております。

□ 源平勇士の碑(げんぺいゆうしのひ)

所在地:兵庫県神戸市長田区五番町


こちらに御祀りされているのは、平家の知章様と通盛様。
それから、源氏方の木村源吾重章様、猪俣小平六様の供養塔が建立されておりました。

源平両方の武士がひとつの場所に御祀りされているというのは、何だか少し不思議な光景で御座いますが、何処か安堵させられるような気持ちも覚えます。
元々は、現在地よりも南方に建立されていたそうで御座いますが、道路の拡張工事に伴って現在の場所へと移されたのだそうで御座います。
知章様の碑は、その移築の際に合祀されたという事で御座います。

源平勇士、知章様、通盛様 碑03

真正面に堂々と建てられているのが、知章様の碑。
どの碑よりも大きくて大変 御立派で御座いましたし、兵庫県知事の書である事が刻まれておりましたので、てっきり昭和や平成に至って建立されたものなのだろうなぁーと思って眺めておりましたが……申し訳御座いません、私の勉強不足で御座いました(恥)
内海忠勝氏は、江戸から明治期にかけて活躍された長州藩出身の政治家さんで御座いますね。
内海氏が兵庫県知事を務められたのは、明治18年から明治22年の頃の事。
当時の日本は軍国主義の路を突き進んでおりましたので、もしかすると、忠義を貫いて亡くなられた通盛様や源氏方の武士と共に、御父様を護って亡くなられた知章様の御霊を御祀りする事で県民の精神への効果を考えられたのかもしれません…。

知章様の御父様は、源平合戦を最期まで見届けられた名高き知将 知盛様。
名将を立てる為には、若き命を散らす事こそが美徳――と…そう信じられた時代も、この国には確かに御座いました。
だからこそ、この碑々が“源平勇士の碑”と呼ばれているのだろうかとも考えました。
近代の戦争と平安末期の戦とでは、使われる武器も忠誠を尽くす目的も違いますが、そもそも戦…争い事が正当化される事自体が悲しい現実に御座います。
私は、知章様が知盛様を庇われたのは忠義や平家の行末の為だけでは無く、純粋な親子の絆が故の悲しい結果であったと信じたい気持ちで御座います。

源平勇士、知章様、通盛様 碑04

知章様の碑は、享保年間(1716〜1735) 西国街道傍に建立されたのが最初と伝えられております。
この地に散った孝行息子の御供養と共に、世の御手本として人々に親しまれるようにと並河誠所様によって建てられたそうで御座います。
詳しい事は良く分からなかったので御座いますが、何らかの理由で維持出来なくなった碑が明治期に再建されたのかもしれません。

知章様の碑の直ぐ脇には小さめの石碑が2基御座いましたが、こちらに関しても詳しい事は良く分からず…次回、訪れる際に改めて調べ直したいと思っております。

源平勇士、知章様、通盛様 碑05

知章様の碑に向かうように建立されている奥の大きな石碑が、通盛様の供養塔で御座います。
通盛様は、この辺りで源氏方の木村源吾重章様と相討ちとなり亡くなられたと伝えられております。
重章様は……平家物語では、“木村三郎成綱”様になっておりますね。

1184年3月(寿永3年2月)、源氏軍の攻撃に備えて平家軍は福原に陣を敷き、通盛様は弟 教経様と共に、山手の陣を担われました。
三草山の守備に徹されますが、義経様の奇襲攻撃で平家の軍勢は総崩れとなり、敗退を余儀無くされました。

越前三位道盛卿は山手の大将軍にておはしけるが、其日の装束には、あかぢの錦の直垂に、唐綾威の鎧きて、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍をいてのり給へり。
うち甲を射させて、敵にをしへだてられ、おとと能登殿にははなれ給ひぬ、しづかならん所にて自害せんとて、東にむかておち給ふ程に、近江国住人佐々木の木村三郎成綱、武蔵国住人玉井四郎資景、かれこれ七騎がなかに取こめられて、遂にうたれ給ひぬ。
其時までは侍一人つき奉たりけれども、それも最後の時はおちあはず。


教経様と逸れ、いよいよ御覚悟を決められて御自害しようと落ちておられた最中、源氏方の木村成綱様、玉井助景様等に追いつかれ討ちとられたというのが、平家物語の語る歴史で御座いますが、本によっては通盛様はここでは討たれず逆に御2方を討ち取られ、然し最終的には討死なされたというものも御座います。

通盛様の御最期については諸説あり、中々これという確信的な史実は分からないので御座いますが、それよりも気に掛かるのは矢張り小宰相様の事で……。
通盛様は、どのような御心持ちで戦場に向かわれ、この世を去られたので御座いましょう。

以前、この辺りには数本の松の木が立並んでいたそうで、その根元に通盛様を御祀りする御地蔵様がいらっしゃったそうで御座います。

源平勇士、知章様、通盛様 碑06

大正9年建立の この2基は、木村重章様と猪俣小平六様の供養碑。

重章様の御名前や御最期については文献や本によって違いが御座いますので、ちょっとややこしいところなので御座いますが…えぇと、通盛様と戦われた源氏方の武将という認識で間違いは無いと思います。
こちらでは、“成綱”様では無く“重章”様。
通盛様と相討ちの末に亡くなられた事とされているようで御座いますね。

□ 木村成綱(きむらなりつな)

生   年:不詳
没年月日:寿永3年2月7日
  父  :佐々木資経?
  母  :不詳
  妻  :不詳
  子  :盛綱、二郎、俊綱
通   称;木村三郎、木村源蔵
別   称:木村源三則綱?木村重章?


↑一応、平家物語を筋に考えてみたいとは思っておりますが、実際のところ 別人である可能性も御座いますし…どう捉えて考えれば良いのか自分でも怪しくて…勉強不足で大変申し訳御座いません;;
成綱様は、近江国蒲生郡佐々木庄の住人。
源氏勢の武士として源平合戦に参戦されたようで御座います。

寿永3年2月7日
越前三位、到湊河邊、爲源三俊綱、被誅戮。 (吾妻鏡による)


吾妻鏡によれば、通盛様を討たれた御方の御名は“源三俊綱”様。
……うぅ…こんがらがってしまいます…凹。。


そして、隣の御方。
猪俣小平六様は、平盛俊様と戦われた御方で御座いますね。

□ 猪俣則綱(いのまたのりつな)

生   年:不詳
没年月日:建久3年11月(1192年11月)?
  父  :猪俣資綱(猪俣小二郎)
  母  :不詳
  妻  :不詳
  子  :範高、兼綱、忠綱、範親
通   称:猪俣小平六
別   称:猪俣平六範綱


猪俣小平六様は、武蔵七党の1つ…武蔵国那珂郡に根付く猪俣党の頭領。
小野篁様の御末裔を称される横山党の御方で御座います。

源義朝様の頃より源氏に仕えられており保元の乱に参戦、平治の乱の際には義平様に従われて功績をあげられております。
源平合戦では源氏方の武将として頼朝様、義経様の下で働かれました。
平家物語によれば、小平六様は8カ国に御名を轟かせる剛勇であったという事で御座います。

越中前司盛俊は、山手の侍大将にてありけるが、いまは落つとも叶はじとや思ひけん、ひかへて敵を待ところに、猪俣の小平六則綱、よい敵と目をかけ、鞭あぶみを合せて馳せ来り、おしならべてむずとくうでどうどおつ。

一ノ谷合戦にて小平六様が良い敵と狙いを定めて勝負を仕掛けた御相手が、盛俊様で御座いました。
盛俊様は平盛国様と厳島内侍様の間に御生まれになられた御子息。
平家の中でも指折りの剛力として知られておりました。

猪俣は八ケ国にきこえたるしたたか者也。
鹿の角の一二のくさかりをばたやすうひ裂きけるとぞ聞えし。
越中前司は二三十人が力業をするよし人目にはみえけれども、内々は六七十人してあげ下す舟を、唯一人しておしあげ押しおろす程の大力なり。
されば猪俣をとておさへてはたらかさず。
猪俣したにふしながら、刀をぬかうどすれども、指はたかて刀のつか握るにも及ばず。
物をいはうどすれども、あまりにつようおさへられて声も出でず。
既に頸をかかれんとしけるが、力はおとたれ共、心はかう成ければ、猪俣すこしもさはがず、しばらくいきをやすめ、さらぬていにもてなして申けるは、
「抑なのつるをばきき給ひてか。敵をうつといふは、我もなのてきかせ、敵にもなのらせて頸をとたればこそ大功なれ。名もしらぬ頸とては、何にかし給ふべき」
といはれて、げにもとや思ひけむ、
「是はもと平家の一門たりしが、身不肖なるによて当時は侍なたる越中前司盛俊といふもの也。わ君は何者ぞ、名乗れ、きかう」
といひければ、
「武蔵国住人、猪俣小平六則綱」
となのる。
「倩此世間の有様を見るに、源氏の御方はつよく、平家の御方はまけいろに見えさせ給たり。いまはしうの世にましまさばこそ、敵のくびとてまいらせて、勲功勧賞にもあづかり給はめ。理をまげて則綱たすけ給へ。御へんの一門なん十人もおはせよ、則綱が勲功の賞に申かへてたすけ奉らん」
といひければ、越中前司大に怒て、
「盛俊身こそ不肖なれども、さすが平家の一門也。源氏たのまうどは思はず。源氏又盛俊にたのまれうどもよも思はじ。にくい君が申やうかな」
とて、頸をかかんとしければ、猪俣
「まさなや、降人の頸かく様や候」
越中前司
「さらばたすけん」
とてひきおこす。
まへは畠のやうにひあがて、きはめてかたかりけるが、うしろは水田のごみ深かりけるくろのうへに、二人の者ども腰うちかけていきづきゐたり。
しばしあて、黒革威の鎧きて月毛なる馬にのたる武者一騎馳せ来る。
越中前司あやしげにみければ、
「あれは則綱が親しう候人見の四郎と申者で候。則綱が候をみてまうでくると覚候。くるしう候まじ」
といひながら、あれがちかづひたらん時に、越中前司にくんだらば、さりとも落ちあはんずらんと思ひて
待ところに、一段ばかりちかづいたり。
越中前司はじめはふたりを一目づつ見けるが、次第にちかう成ければ、馳来る敵をはたとまもて、猪俣をみぬひまに、ちから足をふんでつい立あがり、ゑいといひてもろ手をもて、越中前司が鎧のむないたをばくとついて、うしろの水田へのけにつき倒す。
起きあがらんとする所に、猪俣うへにむずとのりかかり、やがて越中前司が腰の刀をぬき、鎧の草摺ひきあげて、つかもこぶしも通れ通れと三刀さいて頸をとる。
さる程に人見の四郎落ち合ふたり。
斯様の時は論ずる事もありと思ひ、太刀のさきにつらぬき、たかくさし上げ、大音声をあげて、
「この日来鬼神ときこえつる平家の侍越中前司盛俊をば、猪俣の小平六則綱がうたるぞや」
となのて、其日の高名の一の筆にぞ付にける。
 (平家物語 高野本による)


盛俊様に勝負を挑んだものの、力の差で捩じ伏せられてしまった小平六様は、敵を討つには素性を明かすのが道理であると盛俊様に名乗りを求められます。
瞬殺される事を怖れての足掻きというか時間稼ぎのようで御座いますが、これを受けて盛俊様は素直に名乗られ、また小平六様にも名乗りを求められております。
すると小平六様は、堂々と自らの助命を盛俊様に乞われたので御座います。
その言葉の中には、平家御一門への侮辱の色もありありと見て取れるものが織り交ぜられており……これに御怒りになられた盛俊様は、このまま首を掻こうとなさりますが、小平六様は咄嗟に降伏。
降伏した者の首を取ると言うのかと告げると、盛俊様は小平六様を助けられました。
御2方は暫く水辺に腰掛けておられましたが、そこに源氏方の人見四郎様という御方が馬に乗って現れます。
小平六様は、御互いが空気を伺い合っている隙をついて、盛俊様を田圃に突き落とされました。
そして盛俊様の刀を奪って3度も刺し、首を掻き切ってしまわれました…。

平家物語に語られる盛俊様の御最期は、実に呆気無く…戦場においても誠実な態度を貫かれた盛俊様は、騙し討ちによって その命を失われたので御座います。
小平六様の行動は、実に人間らしいもののようにも感じられますが、だからといって それが盛俊様を討取る為の最善の策という筈も無く、ただ やり場の無い悔しさが込み上げてくるような思いにさせられてしまいます…。

石碑の隣のグラウンド辺りには、かつて“小平六池”と呼ばれた御池が存在していたそうで御座います。
この地の伝承によりますと、盛俊様を討取られた小平六様は、その直後 この付近で討死なさったといわれており、御池の中には小平六様の塚が御祀りされていたそうで御座います。

小平六様の御最期について、確かな事は伝えられておりません。
各地に また違った伝承も遺されているようで、神奈川や埼玉にも御墓が供養塔が御座いますね。

源平勇士、知章様、通盛様 碑07

fc2 ブログランキング…こっちも気が向いたらクリックラ、クリックラ♪にほんブログ村 歴史ブログに参加させていただいておりますクラ!

5月のヒロシマ。
広島フラワーフェスティバル01

今年のゴールデンウィークは、後半の3日間を広島に帰省して過ごしました。
私は最近、2ヶ月に1度の頻度で広島に帰っておりますが、いつもバタバタと慌しくしておりますので、今回は珍しくまったり出来たかな〜という感じで。
母とは恒例の史跡巡り(源氏縁の伝承地を訪ねました)やショッピングモールへ買物に行けましたし、心友達とも出掛ける事が出来て、嬉しかったです。

ゴールデンウィークの広島といえば、ひろしまフラワーフェスティバル
広島人が毎年とても楽しみにしている年中行事のひとつで御座います。
5月3日〜5日の期間、広島市内の平和大通り周辺で開催される一大イベントで、この間の広島市内は大変な賑わいとなります。

数年ぶりに地元の心友3人とフラワーフェスティバルに行く事になった5日の午前。
私は広島駅から ちんちん電車に乗り、原爆ドーム前で下車致しました。
心友達との待ち合わせ時間は正午…それまでに、どうしても5月のヒロシマを改めて肌で感じておきたいなと思いまして。

広島フラワーフェスティバル02

原爆ドーム前で下車した瞬間 目に入ったのは、その麓からドームを見上げる沢山の方々で御座いました。
毎年8月6日にも目にしている それは、私にとっては とても気になる光景で…。
柵の前にいらっしゃる、ひとりひとりの言動に思う事、感じる事は幾らでも御座います。

原子爆弾が落ちて広島の街が大変な事になったから、この建物はずっと遺されてるんだよ。
 原子爆弾って、どんなものか知ってる?」

そんな風に、小さな子供達に言い聞かせている御母さん。

せっかく広島の世界遺産 来たんだから、記念撮影しとこ!
 ○○ちゃん、こっち見て〜笑って〜

楽しそうに記念撮影をしている御家族連れ。

……
……
無造作に積み重なっている瓦礫に視線を奪われたまま、言葉を失う1組のカップル。

どれも、素直な人間の行動なので御座いましょう。
然し、ここへ来て観光気分に浸ってしまう方々と、そうでない方々との違いは明らかで御座いますね。

世界遺産――原爆ドームが“負の遺産”として世界遺産に登録されたのは、1996年の事で御座います。
世界遺産が故に、関心を向けられる方というのは多いですよね。
良い意味で それが活かされている事を感じられて安堵した気持ちもあれば、全く間逆の思いで溜息をつきたくなる事も御座います。
それでも、いつか それが何かのきっかけになる可能性を秘めているのであれば…少しずつでも、未来が大きく変わっていくのでは無いかと…。

広島フラワーフェスティバル03

平和公園内には、至る所で大きな折鶴が羽を広げておりました。
これもフラワーフェスティバルの関連イベントの一環なのだろうなぁと思いつつ、原爆の子の像へ向かいます。

ゴールデンウィークにはいつも、傍の薔薇が色とりどりに美しい花を咲かせております。
今年も綺麗に咲いたのだなぁ〜と嬉しく思いました。
1列に並んだ小さな子供達が、取り付けられた鐘をついて両手を合わせている姿が印象的で御座いました。

広島フラワーフェスティバル04

原爆死没者慰霊碑前にも、参拝の列が出来ておりました。
特に整理が行われていた訳でも御座いませんが、皆さん きちんと後ろに並ばれて、順番を待って手を合わされておられました。

広島フラワーフェスティバル05

慰霊碑に祈りを捧げて、折鶴に彩られた公園内を真直ぐ、平和大通りに向かって歩いていきます。
心友達とは、資料館の下を通り抜けた正面にある噴水前で待ち合わせておりました。

広島フラワーフェスティバル06

そして、フラワーフェスティバルのメインストリート。
曇り空の下では御座いましたけれど、矢張り大勢の人で賑わっておりました。
懐かしいといいますか…こういう雰囲気は変わってないなぁ〜と思いながら、学生時代に参加していたボランティアの活動拠点となっていた母校のテントを探してみる事に致しました。

広島フラワーフェスティバル07

こちらは、広島女学院大学さんが行われていた、折りづるひろば。
いろんな方に折鶴折りを呼び掛けていらっしゃり、集まった鶴は後で原爆の子の像の傍に奉納されるのだという事で…早速、折り紙をいただいて鶴を折りました。
手前のピンクの大きな鶴には、各々が好きな言葉や気持ち、願い事等を書かれておりました。
白い模様が手形なのも素敵だなぁと思いました。

私の通っていた中学、高等学校では、毎年フラワーフェスティバルで空缶拾いのボランティアを行っており、いつも張り切って参加しておりました。
学生時代の委員会活動の事は もう余り記憶に残っていないのですが、奉仕活動委員会の事だけは今も覚えております。
任期が変わる度に何度も立候補して入っていたのですが、その内に いつも同じ委員会は駄目!という事にされてしまって、非常に不満に感じたような記憶も……(苦笑)

広島フラワーフェスティバル08

こちらでは、平和メッセージや核兵器に関するアンケートを集めていらっしゃいました。
メッセージは連鎖する仕組みになっており、私の いただいた向日葵の種には誰かが書かれたメッセージが付けられておりました。
私の書いたメッセージも、きっとどなたかの元に種と一緒に渡っているので御座いますね〜。
そんな目に見えない繋がりや見える繋がりを、可能性を秘めた種と一緒にいただけた事に、不思議な喜びを感じました。

広島フラワーフェスティバル09

NHK広島放送局では、素敵なイベントが開催されておりました〜。
何気にNHK教育マニアだった私には堪らないスポットで御座います♪
NHKのアンケートに答えたら、ど〜もくんと仲間達の千社札シールをいただいてしまいました★
とっても可愛くて、御気に入りです。

御姉さんの御歌や ど〜もくん達のステージには、広島オリジナルらしきキャラクターが登場…!!
鯉と杓子の間に生まれたようなファンシィ侍殿…御名前は、“しゃもべえ”というのだそうで御座います。
NHK広島放送局の開局80周年を記念して作られたキャラクターなのだそうで…!
なんか可愛いですよね〜…キャラクターグッズが出たら、欲しいかもです///

広島フラワーフェスティバル10

広島市医師会の「キラリ」広場でも、折鶴を折るコーナーが設けられておりました。
平和大通り脇の この場所には、広島市医師会原爆殉職碑が建てられております。
一見、芸術的なオブジェのようにも見えますが、こちらには原爆投下時、防空業務従事令書によって疎開を禁止され、市内での医療救護活動を義務付けられていた医療従事者の殉職碑で御座います。

   原爆殉職碑

身を挺し、市民救護活動の使命に殉した医師看護婦の霊を祀る
     昭和三十五年八月
 被爆十五周年にあたりて広島市医師会 これを建つ



この碑の正面は原爆ドームの方角を向き、両手を組んでいるような形は祈りと願いを表し、その指間に平和の象徴である2羽の鳩を宿らせているそうで御座います。

集まった千羽鶴は、今年の8月6日の広島市医師会原爆殉職会員並びに医療従事者追悼式にて献鶴されるという事…。
8月6日のヒロシマで行われる慰霊行事は、平和公園での式典だけでは御座いません。
広島市内では至る場所で慰霊祭が行われております。
こちらも、その1ヶ所…被爆当時、医療に携わっておられた方々の御霊が、ここに鎮められているので御座います。

広島市医師会では、毎年八月六日の夕刻に、この碑の前で追悼式をおこなっています。

原爆で亡くなったり、原爆にあってもその時、多くの被爆者のために治療を続け、自らも原爆症などで亡くなった多くのお医者さんや看護婦さんたちの悲しくて苦しい思いを風化させることのないよう、そして世界のどこかで、三度目の原爆が使われないよう、この原爆殉職碑とともに、私たちは伝え続けてまいります。

皆さんに折っていただいた祈りの千羽鶴は、今年の追悼式に献鶴させていただきます。



完成した折鶴を渡しましたら、ヤクルトや広報誌、シャンプー等の試供品を頂戴致しまして…皆、少し喉が渇いていたので嬉しいねと言いながらいただきました。
広島市医師会のサイトを拝見致しましたところ、この3日間で6400羽の折鶴が集まったという御報告がアップされておりました。
凄い事で御座いますね。

広島フラワーフェスティバル11

折鶴を折っている途中、同じ広場内に設けられていた看護専門学校コーナーで血圧も測定していただきました。
私は かなりの低血圧なので御座いますが、この日は きちんと朝食を食べて歩き回っておりましたので、思ったよりは低過ぎず…安心致しました。
担当してくださったナースさんにも、
「ちょっと低いけど大丈夫ですよ〜」
と優しい御言葉を掛けていただきました。

広島フラワーフェスティバル12

フラワーフェスティバルでは、他にも沢山の企業様のブースでイベントが開催されていたり、御祭らしく屋台が立ち並んでいたり、フリーマケットが行われていたり…と見所が満載で、全てをじっくり見て回ることは出来ませんでした〜;


私は私なりに静かに楽しんでいたつもりだったのですが(連休中はずっと体調不良で御座いましたので;;)、殆ど口を開く事が無かった為、傍目には 有り得ない位にテンション低く見えてしまったようで……心友達には大変申し訳無い事をしてしまったと瀬戸内海位の深さで反省をしております(え?)
地を出せる相手と一緒だと、どうしても気が緩んでしまいがちで…甘え過ぎてしまいました。すまない…。

今度の帰省は、8月。
その時こそは、思いっきり元気な私で帰りたいなと思います。

fc2 ブログランキング…こっちも気が向いたらクリックラ、クリックラ♪にほんブログ村 歴史ブログに参加させていただいておりますクラ!

824年目の壇ノ浦。
下関01

2009年5月2日、長門国壇ノ浦。


赤間神宮にて安徳天皇の御陵前祭、平家御一門の追悼祭 等、全国平家会の行事が開始されたのは午前10時。
全ての祭礼に参加する予定で計画を立て、前日夜8時に東京を発った私が下関駅に到着したのは午後6時20分………な…何故……凹。

実は、事情が御座いまして東京→広島 間は車移動、広島から下関までを新幹線で移動しようと考えておりまして。
然し、これは大変 愚かな計画で御座いました。
スケジュールは、まさにゴールデンウィーク開始時期と完全一致という恐ろしい時。
一昨年の経験を思い返した上、事前に混雑を予測しての出発では御座いましたが、今年は状況が一変しており……そうで御座いました、ETC利用者の高速道路が1000円に統一されたので御座いました……という訳で、まんまと帰省ラッシュの渦に巻き込まれる羽目となりました(遠い目)
ちなみに、私は未だETCカードを所持しておりませんので…1000円通行をしていた訳でも無く……とてもとても、長く切ない時間を過ごす結果となりました;;

ようやっと中国地方に入ったのは、慰霊祭もとっくに終了しているであろう午後3時過ぎ頃の事。
そんな中、それまでの精神的ダメージを倍増させるかのようなタイミングで突然の体調不良に…;
これは本気でマズいなと思った私は、広島県に入った時点で高速道路を離脱し、福山駅から新幹線に乗り換える事を決意致しました。
福山駅の切符売場まで辿り着いた時、正直 このまま広島の実家に帰った方が どれだけ楽だろうか…と一瞬、迷いました。
が、1度旅に出た以上は、例え何があろうとも途中で諦めるような真似をしたくは御座いません。
旅先に骨を埋める覚悟で発ったのでしょう!!私の御一門への想いとは その程度のものであったというの!?と自分を戒め、気持ちを切り替えて下関駅までの切符と鎮痛剤と もみじ饅頭を購入致しました←もみじ饅頭は、食欲不振時でも美味しくガッつける大好きな広島銘菓で御座います故に(笑)

福山から新下関まで一気に新幹線で行ければ良かったので御座いますが、ここでも接続のタイミングが悪く…広島と徳山で2回の乗り換えを行いました。
何とか2日の内に赤間関に入る事は出来ましたが、既に日輪は彼方に沈んでおり、この日の平家会の予定も全て終了している時間に赤間神宮へ到着致しました。
それでも、ギリギリ直会の場に入れていただく事が出来まして……申し訳無いやら有難いやらで いっぱいになってしまいました。
事情を知って下さった方々が、良く諦めずに来たねと御優しい御言葉を掛けて下さいましたけれど、矢張り ここへ来た真の目的を思えば、許される事では御座いません。
大変御迷惑を御掛けしてしまいまして、心から反省しております…。

下関02

その夜、赤間神宮で手配していただいていた海響館近くのホテルにチェックインした後、私は もう1度赤間神宮を目指す事に致しました。
自己満足と解ってはいても、どうしても この日の内に主上と御一門の御霊に きちんと向き合って手を合わせたかったので御座います。

余り人の居ない海沿いを 波の音を聞きながら歩いて行くと、その先 壇ノ浦の海に懸かる海峡大橋が綺麗に光の輪郭を描いているのが見えました。
海響館付近まで行くと、沢山の御家族連れやカップルが それぞれに下関で過ごす大型連休の夜を楽しんでおられるようで御座いました。
海響館から唐戸市場までの賑やかな明かりは、まるで波の上の都のようで……あぁ、眩しいなと感じました。

下関03

遠回りをしながら1時間近くかけて赤間神宮に辿り着くと、先ずは安徳天皇陵に向かいました。
本来ならば、赤間関に入ったら真っ先に訪れる筈で御座いましたのに、随分と遅い参拝となってしまいました。

ここで私は、余りの申し訳無さに ついつい内に秘めていた本音を漏らしてしまいまして。
遅参した上、無礼にも真夜中にやって来て弱音を吐く私に、主上はイラッとされてしまったのかもしれません……何の前触れも無く、突然に カメラがフリーズしてしまいました;
特にエラーが出る訳でも無く、電源も落ちてはいないのに、どうやってもシャッターが切れなくて。
デジタル一眼レフは内部でシャッター数がカウントされていて、ある限度を超えると物理的に動作しなくなるという御話を聞いた事は御座いますが、この機種は昨年の秋に発売されたばかりで 未だ そんな心配は無いと思っておりましたし、何のエラーも発せられないのに動かなくなってしまうという事は それまでに経験が御座いませんでしたので、軽く焦ってしまいまして、
えっ、嘘…壊れ…いや、そんな筈…
 まさか私、何か主上の気に障る事を申してしまいましたか!?
 ご、御免なさい!! 申し訳御座いません

何が何だか解らないまま、とりあえず謝っておりました。。
すると、突然“カシャッ”とシャッター音が!
……え?直った!?直りました!??えぇっと、カメラが?…御機嫌???(汗)

それから赤間神宮の拝殿前で参拝をして、七盛塚へ。
ここは灯りも無くて真っ暗で御座いますので、流石に全ての供養塔を目視する事は出来ませんでした。
夜の赤間神宮に来るのは初めての事では御座いませんが、七盛塚の直ぐ傍には耳無芳一様を御祀りされる祠が御座いますので…何と無く、小さな頃に何度も聞かされた物語の情景が広がるような気持ちにさせられてしまいます。

下関04

ホテルに戻る帰り道は、道路沿いを歩きました。
途中、余りに石段のライトアップが素敵で御座いましたので、惹かれるように亀山八幡宮にも参拝。
今年も この時期の風物詩である、菖蒲門が設けられておりました。

下関05

毎年5月2日から4日まで行われている“しものせき海峡まつり”のメインは、イベント盛り沢山の3日。
源平まつりに先帝祭、八丁浜総踊りに巌流島フェスティバル。
下関中が賑やかな雰囲気に沸いております。

個人的には、2日の午後3時から行われた安徳帝正装参拝を見逃した事が非常に残念で御座いました。。
見た事は無いのですが、3日の源平まつりで行われる源平武者行列や源平船合戦も迫力がありそう…というかテンションが異常に上がりそうで気になってしまいます…(笑)

下関06

夜が明けて、3日。
朝5時過ぎに起床した私は、6時にチェックアウトをして前夜に歩いた海際の遊歩道を辿りながら壇ノ浦を目指しました。

早朝なのに何だか人が多いなぁ〜と思ったら、どうやら皆様は唐戸市場を目指していたらしく、市場周辺では沢山の御家族が美味しそうに海の幸を頬張っておられました。
曇り空の下に広がる海は少し波が荒く、遊歩道沿いに立てられた源平の紅白の旗は激しい風に打たれ靡いておりました。

下関07

壇ノ浦の潮の流れに暫く想いを馳せて、赤間神宮へ。
安徳天皇陵の入口はテントが張られていて通行出来る隙間が御座いませんでしたので、下の駐車場前で遥拝させていただきました。
昨夜は、泣き言を申しましてすみませんでした…
と小声で懺悔しているのを、後ろから歩いて来られた方に聞かれてしまい…ちょっと焦ってしまいました///

先帝祭が始まってしまうと立ち入れなくなってしまうので、御本殿を参拝すると直ぐに七盛塚へ向かいました。
丁度、巫女さんが御掃除をなさっていらっしゃいましたので、御迷惑にならないように心掛けつつ、静かに柏手を打って拝礼させていただきました。

何故か、七盛塚を訪れる度に気になって仕方の無い、資盛様の墓石…。
その前に立った時、思わず口をついて出たのが

   をなじ世と なを思ふこそ かなしけれ
     あるがあるにも あらぬこの世に


……で御座いました。
建礼門院右京大夫様が、都落ちをされた恋人 資盛様に送られた御歌で御座います。
風雅集には
おなじころ、右近中将資盛西国に侍りけるに、たよりにつけて申しつかはし侍りける
という詞書で収録されておりますが、家集の詞書には
ことにおなじゆかりは、思ひとるかたのつよかりける。
 うきことはさなれども、この三位中将、清経の中将と、心とかくなりぬるなど、さまざま人のいひあつかふにも、のこりて、いかに心よはくやいとゞおぼゆらんなど、さまざま思へど、かねていひしことにてや、またなにとか思ふらん、たよりにつけて、言の葉ひとつもきかず。
 たゞ都出でゝの冬、わづかなるたよりにつけて、
 「申ししやうに、今は身をかへたると思ふを、たれもさ思ひて、後の世をとへ」
 とばかりありしかば、たしかなるたよりもしらず、わざとは又かなはで、これよりも、いふかたなく思ひやるゝ心のうちをも、えいひやらぬに、このゆかりの草は、かくのみみなきゝしころしも、あだならぬたよりにて、たしかにつたふべきことありしかば、返々、
 「かくまでもきこえじと思へど」
 などいひて、

とあり、この一連の遣り取りの次には、資盛様の死が記されております。
伝えられる限りでは、これが 資盛様が受け取った 最後の右京様からの御文……。

“同じ世に生きているのだと、そう思う事こそが悲しいのです。
 命が在っても、在らぬといわれる この世だというのに……”


この時点で、未だ資盛様は御存命でいらっしゃる…けれど、もう死んだ者として後世を弔えと言われて……。
責めたい訳でも憎い訳でも無く、ただ悲しい…寂しい、逢いたい――…逢いたかった。
そんな気持ちの切なさが、今も和歌の音には遺されていて…。
資盛様の墓前に立つと、それだけで無性に心乱される気持ちになるので御座います。

下関08

七盛塚から参集殿入口前まで降りて山口県最古の石塔や 足利尊氏様御縁の薄墨の松2世を ぼんやり眺めていると、近くに来られた男性に
あの、さっき七盛塚に御詣りされてましたよね?
と御声を掛けていただきました。
巫女さんがいらっしゃった事は承知しておりましたが、他にも近くに参拝された方がいらっしゃった事には全く気付いておりませんでした。
その方からは、
ひとつ御伺いしたいんですけれど、塚の前で柏手を打っておられたのは何故なんでしょうか?
という御質問をいただきまして…。
確かに、御墓の前で柏手というのは少し違和感を感じるもので御座いますよね。
私は こちらの場合 、正直どちらでも良いと思うので御座います。
現在は神社が管理、祭礼を行われていらっしゃいますので、それに倣って私も柏手を打って御詣り致しておりますが、一般的な御墓への供養よりも、塚に御祀りされている御祭神の御霊への礼拝という感覚の方が近いのでは無いかなという気が致します。
ただ、赤間神宮は元々 阿弥陀寺という御寺さんで御座いましたので、仏式の御詣り方法をとっても問題は無いと思うので御座います。
実際、こちらで数珠を手にされていらっしゃる方も目に致しますし、何より大切なのは参拝方法よりも その心の内で御座いますから……。
御一門を弔う気持ちさえしっかり持っていらっしゃるなら、どんな形で拝んでも間違いでは無いと思うので御座います。

下関09

先帝祭が始まると、赤間神宮では先ず御本殿で祭祀が執り行われます。
直前まで参集殿のロビーで話し込んでいた私は、すっかり出遅れてしまいまして…内側の通路から慌てて拝殿に上がらせていただきましたが、既に式が始まっておりましたので そのまま後ろから立見をさせていただく事に致しました。

奉納された巫女舞は、浦安舞を二人舞で舞われておられました。
今年は、四人舞の龍宮は舞われないので御座いますね…。
1度だけ拝見した事が御座いますが、龍宮宮を思わせるような舞台と装束で舞われる龍宮の舞は、赤間神宮ならではの世界観で大変美しかったです。
来年は舞われるといいなぁ〜と秘かに願いつつ、浦安も見事な舞で御座いました。
鈴舞の清らかさに心が洗われるような感覚で御座います。

下関10

あら、安倍元総理!
そういえば この日は、あちこちから
今年は安倍さんが来とるけぇ…
というような声が ちらほら聞こえておりました。
安倍さんとは、どちらの安倍さんの事を仰っているのだろうかと思っておりましたが……なんと!安倍晋三さんで御座いましたか!
安倍さんにとっては地元で御座いましたね〜。
以前(総理在任当時)、御近くで拝見した折には御顔色が優れず大変気疲れの御様子で御座いましたが、今回 御元気そうな御姿を見る事が出来て、とても安心致しました。
奥様と御一緒に崇敬会の御代表として参加されていらっしゃいまして、とにかく大人気で御座いました☆

下関11

午後からは、全国平家会の天橋渡り。
天橋を渡って御本殿に向かう途中、雅楽器等が描かれた鮮やかな散華を撒きました。
私は列の後方…薩摩琵琶奏者の桜井亜木子さんの少し手前を歩かせていただきました。

下関12

天橋渡りを済ませると、引き続き御社殿にて神事が行われます。
会長さんが玉串を奉られ、それに合わせて全員で拝礼をした後は、舞台の見える位置に移動して、桜井さんの奉納演奏を聴かせていただきました。
桜井さんの琵琶は、本当に素晴らしくて…力強い琵琶の音に載せられた言の葉のひとつひとつに情緒溢れる感動を覚えます。
実は先月、東京でも桜井さんの参加されているライヴを観に行かせていただいたのですが、とても素敵で…壮大な世界観に呑まれるようで御座いました〜!

下関13

先帝祭最大の盛り上がりといえば、美しい上臈参拝の場面で御座いましょうか。
上臈というと“女郎”“遊女”の事でしょう?と時々聞かれる事が御座いますが、元々 上臈とは身分の高い女官の事を指しております。

下関14

壇ノ浦から引き上げられ、生き延びられた平家の女性方に由来しているという上臈の起源について、先帝祭のパンフレットに解りやすく記載されておりましたので、以下に引用させていただきます。

   上臈参拝の由来〜語り継がれる悲哀の歴史〜

 寿永四年(一一八五)、平家は壇之浦(関門海峡)で義経を総大将とする源氏に敗れました。
主だった武将は入水、わずか八歳の安徳天皇も、二位の尼に抱かれ、三種の神器とともに入水され、平家は滅亡します。
 建礼門院をはじめ平家の女官たちは里人に救われたものの宮仕えの育ちの為、これといった生計の法をしらず、付近の稲荷山などの草花を手折っては沖がかりの船人に売り、ほそぼそと生活していました。
 それでも三月二十四日(旧暦)の安徳帝の御命日には毎年忘れず、昔ながらに威儀を正して帝の御影堂に参拝・香華(こうげ)を手向けるのでした。
 やがて女官も絶えた後、江戸時代になって稲荷町に遊郭ができ、郭の主人がその女官たちのやさしいまごころと美風を後世まで伝えようと、お抱えの遊女たちに参拝を続けさせたといわれています。
そして、時代の変革と共に移り変わりながら、昭和四十一年から下関舞踊協会の奉仕で現在まで引継がれ、悲しくも厳かな祭事として今に残っています。
豪華絢爛な衣装を身にまとった五人の太夫が市内を練り歩く上臈道中は、赤間神宮でクライマックスを迎えます。

   <<上臈参拝>>

 赤間神宮境内には入水された安徳天皇をお慰めするため、竜宮城をイメージして作られた「水天門」があり、先帝祭のこの日、水天門から本殿へと橋(天橋)がかけられます。
五人の太夫は、この天橋を渡り先帝の御霊をお慰めするための「上臈参拝」を行います。



下関15

↑先帝祭が終わった帰り道、赤間神宮から直ぐの場所に設置された源平まつりの会場では、何やらファンシィな歌と踊りで盛り上がっておられる御様子…!!?
ミュ…ミュージカ…ル…みたいな感じでクライマックスを演出されていたのでしょうか…!??
気になる気になる…実は、こういうノリが大好きな私と致しましては、非常に全貌が気になって仕方が御座いません…むしろ、出演したい!という勢いで御座います(笑)

fc2 ブログランキング…こっちも気が向いたらクリックラ、クリックラ♪にほんブログ村 歴史ブログに参加させていただいておりますクラ!

相国様が夢のあと。
福原京01

海…海路を行く、御船。
瀬戸内育ちの私にとって、海はとても穏やかな存在で御座いました。
時に激しく荒れる事も御座いますが、基本的には優しくて、いつでも緩やかな波を浮かべて全てを包み込むような…。

海といえば、平家という印象が御座います。
源平合戦に際して源頼朝様率いる源氏方も海に面した鎌倉の土地に腰を据えられましたが、矢張り海戦と関連づければ、西国の海との関わりを深めていた平家が優勢であったという事実の方が有名で御座いますね。

福原京02

現代でいえば、兵庫県神戸市に含まれる辺り。
平家御一門が栄華を極めておられた頃、その地に平清盛様が描いた夢の京――福原京が誕生致しました。

清盛様が摂津 八部荘を手に入れられたのは、応保2(1162)年の事。
清盛様は福原遷都に先駆けて大輪田泊の修築を行われておりますが、恐らくは 摂津との繋がりを持たれた この前後に大輪田泊も掌られたものと思われます。
平家は忠盛様の代より日宋貿易を行われております。
清盛様は、この泊が今後 貿易の重要な拠点になると御考えになられたので御座いましょう。
大規模な修築に際して、人工の御島まで築かれるという徹底振り…そして、泊に程近い福原の地に都を遷すという壮大な計画を練り上げられました。
如何に世を時めく平家の清盛様といえど、元は殿上も許される事の無かった武士の身。
然し、今や今上帝の外祖父という皇族に繋がる御立場でも御座います。
誰しもが、まさか…と息を呑みながら、その報せを受けられたのでは無いでしょうか。

治承四年六月三日、福原へ行幸あるべしとて、京中ひしめきあへり。
此日ごろ都うつりあるべしときこえしかども、忽に今明の程とは思はざりつるに、こはいかにとて上下さはぎあへり。
あまさへ三日と定められたりしが、いま一日引きあげて、二日になりにけり。
二日の卯剋に、すでに行幸の御輿をよせたりければ、主上は今年三歳、いまだいとけなうましましければ、なに心もなう召されけり。
主上おさなうわたらせ給時の御同輿には、母后こそ参らせ給ふに、是は其儀なし。
御乳母、平大納言時忠卿の北の方帥典侍殿ぞ、ひとつ御輿には参られける。
中宮、一院上皇御幸なる。
摂政殿をはじめ奉つて、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我もと供奉せらる。
三日福原へいらせ給ふ。
池中納言頼盛卿の宿所、皇居になる。
同四日、頼盛家の賞とて正二位し給ふ。
九条殿の御子、右大将良通卿、こえられ給ひけり。
摂禄の臣の御子息、凡人の次男に加階こえられ給ふ事、これはじめとぞきこえし。
さる程に、法皇を入道相国やうやう思ひなをて、鳥羽殿をいだしたてまつり、都へいれ参らせられたりしが、高倉宮御謀反によて、又大にいきどをり、福原へ御幸なし奉り、四面にはた板して、口ひとつあけたるうちに、三間の板屋をつくてをし込め参らせ、守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。
たやすう人の参りかよふ事もなければ、童部は籠の御所とぞ申ける。
きくもいまいましう恐ろしかりし事共也。
法皇
「今は世の政しろし召さばやとは、露も思し召しよらず。ただ山々寺々修行して、御心のままになぐさまばや」
とぞおほせける。
凡平家の悪行にをひては悉くきはまりぬ。
「去る安元よりこのかた、おほくの卿相雲客、或はながし、或は失ひ、関白ながし奉り、わが聟を関白になし、法皇を城南の離宮にうつし奉り、第二の皇子高倉の宮をうち奉り、いまのこるところの都うつりなれば、かやうにし給ふにや」
とぞ人申ける。
都うつりは是先蹤なきにあらず。


治承4年6月3日(1180年6月27日)、遷都。
予定よりも1日早まった出立に京の町は騒然としていたようで御座います。
御年僅か3歳の主上に、高倉上皇建礼門院徳子様をはじめ、多くの公卿、殿上人の方々が共に福原へと移られました。
未だ皇居の完成していなかった福原では、とりあえず池中納言 頼盛様の宿所を皇居としてあてがわれました。
ちなみに…頼盛様は、この恩賞で正二位に叙せられていらっしゃいます。

福原へは後白河法皇も御同行されておりましたが、安元3(1177)年の鹿ヶ谷の陰謀の件や、以仁王様 挙兵の一件で 法皇様に不信感や憤りを隠せなくなっていた清盛様は、端板と見張りの兵で四方を塞いだ小屋に法皇様を閉じ込めてしまわれたようで御座います。
それを人々は“籠御所”…つまりは、牢屋の御所と呼ばれたそうで、法皇様をも怖れぬ清盛様の大胆過激な行いを、ただただ恐ろしく思われるばかりで御座いました。
これも、奢る平家の悪行の1つに良く挙げられるネタとして有名な故事で御座いますね…;

桓武天皇と申は、平家の曩祖にておはします。
なかにもこの京をば平安城と名づけて、たいらかにやすきみやことかけり。
最も平家のあがむべきみやこなり。
先祖の御門のさしも執し思し召されたる都を、させるゆへなく、他国他所へうつさるるこそあさましけれ。
嵯峨の皇帝の御時、平城の先帝、内侍のかみの勧めによて、世をみだり給ひし時、すでにこの京を他国へうつさんとせさせ給ひしを、大臣公卿、諸国の人民そむき申しかば、うつされずしてやみにき。
一天の君、万乗のあるじだにも遷し得給はぬ都を、入道相国、人臣の身としてうつされけるぞ恐ろしき。
旧都はあはれめでたかりつる都ぞかし。
王城守護の鎮守は四方に光をやはらげ、霊験殊勝の寺々は、上下に甍をならべ給ひ、百姓万民わづらひなく、五畿七道もたよりあり。
されども、今は辻々をみな堀きて、車などのたやすうゆきかふ事もなし。
たまさかにゆく人も車にのり、路を経てこそ通りけれ。
軒をあらそひし人のすまひ、日を経つつあれゆく。
家々は賀茂河、桂河にこぼちいれ、筏にくみうかべ、資財雑具舟につみ、福原へとてはこび下す。
ただなりに花の都ゐ中になるこそかなしけれ。
何者のしわざにやありけん、ふるき都の内裏の柱に、二首の歌をぞ書いたりける。
“ももとせを 四かへりまでに 過来にし 乙城のさとの 荒れやはてなん”
“さきいづる 花の都を ふりすてて 風ふく原の 末ぞあやうき”


神武天皇以来、40回近くも行われてきた遷都で御座いますが、平安京は平家の御先祖様である桓武天皇によって称せられた都。
平家であれば何よりも尊ぶべき都であるにも関わらず、それを自ら捨てるような行為をするとは何ともあさましいと平家物語は語っております。


次第に廃れていく京の都に残された古い内裏の柱には、誰が書いたとも分からない御歌が2首記されていたといいます。

   ももとせを 四かへりまでに 過来にし
     乙城のさとの 荒れやはてなん


“百年の歳月を4回も過ごして来た この乙城のさとも、荒れ果ててしまうのでしょうね…”

   さきいづる 花の都を ふりすてて
     風ふく原の 末ぞあやうき


“咲き出る花のように美しい この平安京を振り捨てて、潮風が吹く福原へ行って…果たして その末は、一体どうなるというので御座いましょう…危ぶまれるばかりで御座います”


同六月九日、新都の事はじめあるべしとて、上卿には徳大寺左大将実定の卿、土御門の宰相中将通親の卿、奉行の弁には蔵人ノ左少弁行隆、官人共召し具して、和田の松原の西の野を点じて、九城の地を割られけるに、一条よりしも五条までは其所あて、五条よりしもはなかりけり。
行事官かへり参つてこのよしを奏聞す。
さらば播磨のいなみ野か、なを摂津国の児屋野かなどいふ公卿僉議ありしかども、事ゆくべしとも見えざりけり。


そして6月9日(1180年7月3日)、新都の造営が開始されました。
当初は福原に隣接した輪田の地に和田京を造営される計画だったようで御座いますが、新都は京と比べると土地が狭い地形な為、五条までしか作る事が出来ない事が分かりました。
続いて播磨国の印南野や摂津国の児屋野に新都を置く話も上がったようで御座いますが、これも発展はしなかったようで御座います。

福原京03

旧都をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事ゆかず。
ありとしある人は、身を浮雲の思ひをなす。
もとこのところにすむ物は、地をうしなてうれへ、いまうつる人々は土木のわづらひをなげきあへり。
すべてただ夢のやうなりし事どもなり。
土御門宰相中将通親卿申されけるは、異国には、三条の広路をひらいて十二の洞門をたつと
見えたり。
いはんや五条まであらん都に、などか内裏をたてざるべき。
かつがつ里内裏つくるべきよし議定あて、五条大納言邦綱卿、臨時に周防国を給て、造進せられるべきよし、入道相国はからひ申されけり。
この邦綱卿は大福長者にておはすれば、つくりいだされん事、左右に及ばねども、いかが
国の費へ、民のわづらひなかるべき。
誠にさしあたたる大事、大嘗会などのおこなはるべきをさし置いて、かかる世のみだれに遷都造内裏、少しも相応せず。
「いにしへのかしこき御代には、すなはち内裏に茨をふき、軒をだにもととのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりある御つぎ物をもゆるされき。これすなはち民を恵み、国を助け給ふによてなり。楚帝花の台をたてて、黎民あらけ、秦阿房の殿を起こして、天下みだるといへり。茅茨きらず、采椽けづらず、周車かざらず、衣服文なかりける世もありけん物を。されば唐の大宗は、離山宮をつくて、民の費をやはばからせ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松をひ、墻に蔦しげて止にけるには相違かな」
とぞ人申ける。
 (平家物語 高野本による)


新都への想い入れは、清盛様の独り善がりなものであったとは思えないのですけれどー…、それでも平家御一門の公達にも、旧都を恋しく思われていらっしゃる方々が結構いらっしゃったようで御座いますね;
誰しもが、生まれた時から既に都として機能していた京で生まれ育っておられますので、新しい土地に来て様々な物事に不自由させられるばかりの生活というのには耐えられなかったのかもしれません。
そんな気持ちの浮き沈みも影響してか、丁度この時期に送り出された維盛様、忠度様率いる追討軍が富士川の合戦にて敵と刃を交える事無く、無様に敗走されてしまったといわれております。

新都では新しい内裏が完成されたようで御座いますが、それでも この遷都に対する不満や訴えの声は募る一方だったようで…。
上皇様の御意見や、木曽の源氏勢の動きに対する為には致し方の無い結論であったのかもしれせん。
11月23日(1180年12月11日)、ついに京の都への還幸となりました。
福原の都は、僅か半年足らずの短い寿命を終えたので御座います。

福原京04

夢の潰えた後の時間は、どれだけ苦痛な重みであった事で御座いましょう。
清盛様が福原に懸けた様々な願いや思惑は、叶った矢先に散り消えてしまったので御座います…。
比べる次元は違いますが、私にも似たような経験が御座います。
終わってしまった夢の続きに存在しなくてはならぬ自身の惨めさに、酷く心が荒んで…それから数年の間は、ただ虚ろな日々を送ってばかりで御座いました。
夢の終わりが、自分の終わりであったら どんなに良かっただろうかと……そればかり考えて過ごした時間で御座いました。

福原の都の跡は、清盛様の存在と共に姿を消し…現代の神戸の街で その名残を感じる事は殆ど御座いません。
それでも、根付いた想いは遺るもの……全てが泡と化して消え失せてしまった訳では無いのだと、そう納得出来る場所も確かに在るのだと、私は感じております。

画像の壁画は、能福寺さんと清盛塚の間の道沿いで発見したもの。
ドドンと描かれた清盛様の御姿に、思わず胸を撫で下ろしたくなる衝動に駆られました。
地元の小学生の子供達によって描かれた この壁画には、他にも地域の有名人方の御姿を拝見する事が出来ました。
あ、一遍上人もいらっしゃいますね〜♪

福原京05

清盛様の福原にかける夢は、大河ドラマ『義経』でも牛若様の御目を通して描かれておりましたね。
一時は清盛様を実父かとも思われたという牛若様が、御船と日輪が落書きされた屏風絵を通して思い知られた、壮大な夢と浪漫…。
私もテレビ画面を隔てながら、その先に広がる夢の都の景色に心を奪われた事を記憶しております。
今も、時々 無性に見たくなってDVDを再生してしまう勢いで御座います(←勿論、DVDはボックス買い致しております故に/笑)

清盛様が中心となって築かれたこの新しい都は、法皇様や京の貴族の方々には受け入れ難いもので御座いました。
平家全盛の時勢の中、半ば強引に行われた福原遷都で御座いましたが、その土地が都として行きを長らえる事は御座いませんでした。
清盛様は この時代のどの御方よりも時代を先取りされた御考えと実力を持っておられた偉大なる御方。
それは、現代に生きている私だからこそ感じさせられる事なのかもしれません…。

* * * * * * * *

福原を巡るのは楽しいのです。

ようやっと、福原についても触れ始めようか…と重い腰を上げる思いでモニターに向かっております。

折しも、明日は壇ノ浦合戦から824年目の日……。
寿永4年3月24日(1185年4月25日)をグレゴリオ暦で数えますと、1185年5月2日となります。
2009年5月2日。
一昨年同様、今年も私は下関…壇ノ浦の地で過ごさせていただくつもりで御座います。
今夜、東京を発って朝イチで広島に帰りますが、実家には戻らず、そのまま山口を目指そうと思っております。
先帝祭の行われる下関に2日間滞在した後は、1ヶ月振りの実家で ゆっくり過ごしたいかな…と。

一ノ谷から壇ノ浦までの この時期は、正直余り平家縁の地を訪ねたいとは思えなくて…辛いのです。
等と言いつつも、毎週のように平家伝承地を駆け巡っているのは誰ですか?という感じの私なので御座いますが…(苦笑)
今回も、また地元で伝承地等を巡って来たいと思っておりますが、平家方では無く 源氏の御方御縁の地へ行って参りたいと考えております。

再び東京に戻って参りましたら、改めて福原の史跡について書き進めていきたいと思います。

fc2 ブログランキング…こっちも気が向いたらクリックラ、クリックラ♪にほんブログ村 歴史ブログに参加させていただいておりますクラ!
Copyright © ■花林 〜小枝の音色に誘はれて〜. all rights reserved.
FC2ブログ 専門学校